ファイヤーボーイズ

ファイヤーボーイズ

 文吾は、重いホースを力任せに引きずった。火元の部屋にたどりつく。
 ノブに手をかけようとする文吾の腕を押さえて、高橋が言う。
「待て。火が消えたのは、中の酸素を食い尽くしたからかもしれん」
 文吾はうなずいた。扉を開けば、炎は酸素をもとめて吹き出してくる。炎が爆発したように空気を求めて広がっていく。バックドラフトという現象だ。バックドラフトはふせぎようがない。
「俺が開ける。扉から離れてろ」
 言われるまでもない。
 心臓がどうしようもなく、高鳴る。まるで、体中が心臓になったみたいだ。喉元から内蔵が出てきそうだ。
(怖くなんかねえ、おれはスーパーヒーローだ。)
「文吾」
 高橋が声をかける。文吾は、マスクの中で、自分の目玉が大きくなっているのがわかる。どうしようもなく怖かった。
 火事場だからじゃない。いやな予感がする。
 高橋が笑いかけた。
「落ち着けよ。スーパーヒーロー」
「お、おお」
 高橋は力強く扉を開けた。吹き出して来たのは、炎ではなく熱気だった。百戦錬磨の高橋が、身を引くほどだ。高橋は無線マイクに向かって怒鳴った。
「こちら高橋。現場に到着した。これから中に踏み込む。合図をまって水をくれ。――文吾、面体着装。放水の準備だ。踏み込むぞ」
 文吾は、酸素マスクの音を聞きながら、小さくうなずいた。のどがからからだ。

 屋内に踏み込んだとたんに、途方もない熱気が二人をつつんだ。部屋は、サウナ以上の熱が渦をまいている。防火服の中で、体が冷気を求めてうめきをあげる。マスクをしているから無事だが、まともに空気を吸ったら、のどがやける。
 高橋は中に踏み込むのをためらった。これほど異常な熱気を発しているのに、火が見えない。
「行こう、おやっさん」
「ああ、わかってる」
 二人はさらに、すすんだ。アパートは古い木造で狭い。入ってすぐが台所になっている。炊飯器のボタン光が、やけに明るい。狭い部屋に、レンジやガス台がギュウ詰めにされている。三段のカラーボックスには、新聞や雑誌が無造作につっこまれている。入り口は火種にみちている。燃え広がるのはあっという間だろう。
 しめきっていない蛇口から、水滴が垂れ、ジュッと音を立てて蒸発する。文吾は息をのんだ。熱を帯びて縮んだ肌が、身動きをするだけで、きしみをあげる。
(こんな熱じゃあ、要救助者が、生きてるはずがない……。)
 文吾はそんな考えを振り払うかのように首を振る。メットの中で汗がダラダラと吹き出しているのに、すぐさま蒸発する様子が、見えるかのように感じられる。
 高橋が文吾の肩に手を置き、足を止めた。
 暗い室内の中央で、誰かが立っている。
「おい、大丈夫か?」
 影が小さい。無線報告にあった、斉藤孝夫の一人息子だろう。
 文吾は、妙だな、と思った。年頃の少年にしては痩せすぎている。病的といってもいい。
 少年は、高橋の言葉にも聞こえなかったように立ちつくしている。うつむき、顔はかげで見えない。
「おやっさん」
 文吾が高橋の肩をつかんだ。指が、熱を帯びた肌に食い込み、高橋は顔をしかめた。
(これほどの熱なのに、あんな子供がなぜ無事なんだ?)
「あ、あれ……」
 高橋は文吾が指さす先をみた。
 幼児の足下に、真っ黒にこげた人形がころがっている。それが人だと気がついたとき、高橋は息をのんだ。なんども火事場で見てきたものに、似ていた。
(消し炭だ。あの子の親が炭にかわってやがる。ろくに火もねえのに、なんで……)
 だが、高橋の胸に去来したのは、少年に対する同情だった。あの子は、目の前で親が焼け死ぬのを見ているのだ。
 少年の眼前で火が上がった。
「文吾お。火だあ。消し止めろお」
 そのとき、少年が顔を上げ、こちらをむいた。文吾が、息をのむような速さだった。
 高橋は、きれいにパンチをもらったボクサーのように、突然両膝を落とした。
「う、うああ」
 高橋が畳に転がり、手足を大の字に広げ、苦しみだす。
「お、おやっさん」
 防火服の隙間から、煙と肉の焼けるにおいが立ち上る。
(燃えてる。おやっさんの体が? 火点もなにもないのにっ)
 文吾の脳裏から、火事場のことも要救助者のこともふきとんだ。防火服の中が燃えるという異常事態に、なんの疑念も浮かばない。
(大変だ! おやっさんが焼け死んじまう!)
 文吾は無線マイクをつかむと怒鳴った。
「水くれえ! 放水開始だ! バルブを開けろお」
 文吾の手は忙しく、筒先をひねる。水量を最小限にしぼることしか頭になかった。
 文吾が手をこまねいているうちに、防火服のすきまから火が噴き出してきた。文吾は筒先を片手に、大あわてで高橋の体をたたき始めた。自分が見ているものが信じられなかった。
 文吾は筒先に目を落とした。腹の奥底、ほんのわすが冷静な部分が、
(人に向けるのか?)
 とささやいた。
 ぐずぐずしているひまはない。文吾は防火服の下に水を入れるために、高橋の体をひっくりかえした。
「うお……」
 マスクの下に、高橋の顔はなかった。火があった。高橋の目玉が、ぱちんぱちんとはじける。体内の水分が、音をたてて、蒸気に変わる。
 ぺちゃんこのホースがぼこぼことふくらむ。文吾の心は、平常心とはほど遠かったが、それでも、体は放水にそなえて、かまえをとった。
 ホースの先から、水が噴き出し、文吾は、ありがてぇ、と快哉をあげた。命の水が、防火服の上をすべりおちる。文吾は、防火服の胸元を開くと、そこにホースの水をつっこんだ。
「おやっさん、返事をしてくれ! 死んじゃだめだ!」
 高橋はもう、呻き声すら上げない。ぴくりとも動かない。
 文吾は放水を続けながら、マイクに呼びかける。
「誰か来てくれ! 助けてくれ!」
「文吾! どうした! おやっさんを無線にだせ!」
「おやっさんが火事だ! 現場に来てくれよ! おやっさんが死んじまう!」
 文吾の放水で、高橋の火は、ジュージューと音をたてて消えていく。文吾は振り向いた。少年はその間も、異様ともいえる熱心さで高橋を見つめ続けている。
 文吾の背筋に、ぞくり、と寒気が走る。
 こいつ、なんて目で、おやっさんをみるんだ。
「何をしてるんだ! 歩けるんなら、外に出ろ!」
 少年が、その目を、文吾に向けた。
 文吾の視界に、少年の開いた瞳孔が、巨大にふくらみながらせまってきた。心臓にちりりっとした痛みを感じる、彼は夢中で転がる。
 ホースから手が離れ、筒先がまるで生き物のように部屋をのたうちまわる。文吾は腰を抜かしてへたりこんだ。
 さきほどまで自分がいた空間に、巨大な炎が浮かび上がっていた。
 文吾は、横目に火の玉を見、黒こげになったおやっさんを見た。居場所を変えたことで、部屋の奥が見えた。少年の足下に黒こげの死体が二つある。
 ここから見る部屋はひどい惨状だ。テレビは、原子爆弾を食らったかのように、溶けて固まっている。部屋の壁も崩れ落ちていた。文吾は、少年が、この異常な現場で、汗一つかいていないことに気がついた。
「お、おまえが……」
 火の玉は、少年が見つめている間、ぶるぶると震えながら宙にういていた。
 文吾の胸の奥で、するどい痛みが走る。
 玄関先から、防火靴が階段をたたく音が聞こえる。
「く、来るなあ! きちゃだめだ!」
 駒野、小池、宮田の三人が、熱気をものともせずにふみこんできた。
「文吾お! どこだあ!」
「来ちゃだめだって!」
 文吾は夢中で暴れる筒先を拾おうとした。もう何もかも信じられなかった。自分の胸に走る痛みも、高橋の死も。信じられるのは筒先だけだ。
(放水だ。火を消すんだ。)
 駒野、小池、宮田は、倒れている高橋と、その枕元で、筒先を拾う文吾を呆然とみた。
「文吾お!」
 温厚な宮田が、聞いたこともない怒声で、高橋の首を抱き上げた。
 高橋のマスクがとけている。顔がない。宮田の手の中で、高橋の体はグズグズと崩れた。
「ああ、うそだ! おやっさん、返事をしてくれ!」
 今度のけぞったのは、宮田だった。後方に倒れ込むと、胸元をかきむしる。
 駒野と小池は、暴れる宮田の手足をとり、落ち着けようとする。
 文吾は自分も胸を押さえた。
(まただ、あれが起こりやがった。)
「やめろ! このやろう!」
 少年の目が、三度、向いた。文吾の腰骨を恐怖がつらぬく。
(火がつく。俺に、火がつく)
 文吾は夢中で突進した。後方で、文吾を追うかのように、次々と、火の玉がおどる。
「うわあ!」
 文吾はフットボーラーのように、少年の体にくみついた。ぞっとするほど、冷たかった。
 文吾は少年といっしょに吹っ飛んだ。少年の頭が柱に激突する。少年の体から、ぐにゃりと力が抜け、床にくずおれた。
 文吾は、少年の胸ぐらをつかむと、憎しみをこめて拳を振り上げた。
「文吾! やめろお!」
(こいつが、こいつが殺したんだ……!)
 だが、目の前にいるのは、血を流して弱々しくうなだれる少年だった。気絶して、意識をなくしている。
(ほんとに、こいつがやったのか? ほんとにそんなことが、あるのか?)
 駒野、小池が息をのんで見守る中、文吾はやっとの思いで手を下ろした。
「要救助者、一名確保……」
 文吾のつぶやきが、狭い室内にむなしく響いた。

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