山本周五郎 作品集
与茂七の帰藩
山本周五郎 著
作品・作者紹介
著者:山本周五郎(やまもと しゅうごろう)
1903年(明治36年)- 1967年(昭和42年)。山梨県出身。本名は清水三十六(しみず さとむ)。大衆文学の巨匠として知られ、市井の人々や武士の生き様を、深い人間愛と独自の史観で描いた作品を数多く残しました。「読者のもの」という信念から直木賞をはじめとする全ての文学賞を辞退したことでも有名です。その作品は今なお多くの読者に愛され、映画やドラマの原作としても高い人気を誇ります。
山本周五郎の作風
貧しい人々や社会の片隅で生きる人々に温かい眼差しを向け、その中に宿る誠実さや力強さ、そして人間の哀しさを描き出すヒューマニズムあふれる作風が特徴です。勧善懲悪にとどまらない深い人間洞察と、読者の心に寄り添う物語は、時代を越えて共感を呼んでいます。
本作「与茂七の帰藩」について
本作は、己の強さを恃んで傲慢に振る舞う二人の若き武士の対決を通じて、人間のプライド、成長、そして真の強さとは何かを問う物語です。一触即発の緊張感の中に、自己を省みるという普遍的なテーマが織り込まれており、山本周五郎らしい人間ドラマの深みが味わえる一編です。
主な登場人物
- 金吾 三郎兵衛(きんご さぶろべえ): 「白い虎」の異名を持つ彦根藩の剣士。美貌の持ち主だが、自らの腕を恃み、傲慢で峻烈な性格。
- 斎東 与茂七(さいとう よもしち): かつて「野牛」と恐れられた元筆頭剣士。三年間の江戸詰めを終え、彦根に帰藩する。
- 松子(まつこ): 三郎兵衛の妻。与茂七がかつて想いを寄せていた。
- 榊 市之進(さかき いちのしん): 与茂七の旧友。
- 滝川 伝吉郎(たきがわ でんきちろう): 進武館の門人。
- 当麻 作左衛門(たいま さくざえもん): 与茂七の叔父であり、育ての親。
本作のあらすじ・動画掲載
あらすじ
彦根藩の道場「進武館」で「白い虎」と恐れられる剣士、金吾三郎兵衛。彼はその美貌とは裏腹に、粗暴で峻烈な気性の持ち主だった。高慢な態度で道場の筆頭に座る彼の前に、ある日、新たな挑戦者が現れる。かつて「野牛」と呼ばれ、藩中を圧倒していた斎東与茂七が、三年間の江戸詰めから帰藩したのだ。
藩士たちは、新旧二人の強者の対決に胸を躍らせる。三郎兵衛は与茂七の竹刀を道場に投げ捨て、公然と挑戦状を叩きつける。しかし、与茂七は意外にもその挑戦を受けず、試合を放棄してしまう。「野牛は角を折られたか」と嘲笑が広がる中、三郎兵衛の心には拭いがたい疑念が生まれる。与茂七は本当に自分を恐れて逃げたのか、それとも……。
二人の誇りを賭けた対決の行方は?そして、三郎兵衛の許嫁・松子をめぐる過去の因縁が、事態を思わぬ方向へと導いていく。二人の武士が剣を交える時、本当の強さと己の未熟さに気づかされる、魂の物語。
朗読動画
本文掲載
Q&Aコーナー
Q1: 山本周五郎はどのような作家ですか?
A1: 庶民や名もなき武士たちの哀歓を、温かい人間愛をもって描いたことで知られる大衆文学の巨匠です。その作風は多くの読者に支持され、数々の作品が映画化・ドラマ化されました。また、直木賞などの文学賞をすべて辞退したことでも有名です。
Q2: 山本周五郎の代表作には他にどのようなものがありますか?
A2: 黒澤明監督の映画でも有名な「赤ひげ診療譚」や「椿三十郎」の原作となった「日日平安」、そして「樅ノ木は残った」「さぶ」「季節のない街」など、数多くの傑作を残しています。
Q3: 「与茂七の帰藩」のテーマは何ですか?
A3: この物語は、若さゆえの傲慢さや未熟さ、そして武士としてのプライドがテーマになっています。自分と瓜二つのライバルとの対立を通じて、主人公が自身の姿を省み、本当の強さとは何かを見つめ直す過程が描かれています。
Q4: この作品はいつ頃書かれたものですか?
A4:「与茂七の帰藩」は、1940年(昭和15年)から1945年(昭和20年)にかけて執筆された短編の一つです。山本周五郎が作家として円熟期に入り、人間描写に深みを増した時期の作品と言えます。
金吾三郎兵衛は「白い虎」と呼ばれている。 三河の国岡崎藩の大番頭の三男に生れ、昨年の春この彦根藩の金吾家へ婿に来た。金吾五郎左衛門は四百石の御具足奉行で男子が無かったため、一人娘の松子に三郎兵衛を迎えたのである。……然し直ぐ婿の気質を見て取った五郎左衛門は、 当分のあいだ二人で暮すが宜かろう。 と云って、城へは少し遠かったが、松原の湖畔にある別屋敷を夫婦の住居に与えてやった。……其処には僅かな召使しかいなかったし、殆んど近所との往来も無かったので、一年余日は極めて暢気に新婚生活を送ることが出来たのであった。 三郎兵衛の風貌はどちらかというと女性的であった。色白で眉が細くて、躰つきもすんなりとしている、殊にこと睫の長い眼許や、いつも油を附けているような艶々とした髪などは、通りすがりの人眼を惹くほど美しかった。…… ところがその艶冶な風貌とは凡そ反対に、彼の性格はひどく粗暴で峻烈だった。 無論そう云っても、ただ訳もなく粗暴なのではない。彼は中村流の半槍をよくするし、また一刀流の剣を執っては、彦根へ来て半年も経たぬうちに藩の道場「進武館」の筆頭の席を占めたくらいであるが、その半槍も刀法も極めて荒く、どんな段違いの相手に向っても遠慮とか加減とかいうものがない。 ――武道に手加減があって堪るか。 理窟は正にその通りだが、彼の峻烈さはその道理を遥に越していた。 進武館の筆頭となってからは、臍輩を押えているという感じから来る一種の驕慢さが、どうしようもなく彼の態度に表われた。近頃の彼は道具を着けず、素面素籠手で道場へ出るようになった。……彼が袴の股立も取らず、竹刀に素振をくれながらまん中へ出て来て、 ――さあ誰か来い、稽古をつけてやる。 と喚く姿は実に颯爽たるもので、綽名の「白い虎」という意味がぴったり当っていた。 ――高慢な面だ。 ――新参者の分際でのさばり過る。 ――いちど音をあげさせてやれ。 そういう嫉視と反感が集って幾度か腕力沙汰があった。然しその度に辛き目をみるのは挑んだ方の連中で、三郎兵衛はその強さと、胆の太さで益々藩士たちを圧倒して行くばかりだった。 かくて湖畔に初夏が訪れて来たとき、藩士たちが手を拍って喜ぶ事件が起った。 その日。……三郎兵衛が進武館の道場へ出て、竹刀を取ろうとすると、筆頭であるべき自分の物が一段下に下げられ、昨日まで自分のがあった場所に見慣れぬ竹刀が架けてあるのをみつけた。 「誰だ、こんなことをしたのは」彼は振返って叫んだ、「金五郎、この竹刀はどうしたんだ。……なぜ黙ってる、誰がしたんだ」 「そ、……それで宜いんですよ」 門人たちの雑用をする少年が怖々と答えた。 「なに、これで宜いんだと、馬鹿め、貴様なにを寝呆けているんだ、十六歳にもなって竹刀の順序も知らんのか、それとも……」 「そうだよ」滝川伝吉郎が意味ありげに立って来た。そして態と三郎兵衛の耳に口を寄せながら、「それで宜いんだよ金吾、その上の竹刀はそっとして置くがいい」 「はっきり云え、どうしたというんだ」 「その竹刀には触らぬ方がいい」 「そうだ、そうだ」 向うに並んでいる連中も、それにつけて一斉に云った。 「その竹刀に手を附けてはいけないぞ」 「手を触れば手、足を触れば足が飛ぶ」 「それだけはそっとして置くがいい」 三郎兵衛はぐるっと見廻した。……みんな何か意味ありげな攤ぐったそうな眼つきをしている、今まで感じたことのない空気だった。 「訳を云え、この竹刀がどうかしたのか」 「帰って来たんだよ」伝吉郎がさも秘密なことを明すように、耳へ口を寄せて囁いた、「与茂七が帰って来たんだ」 「何者だと?」 「与茂七だ、斎東与茂七が江戸から帰って来たんだ。貴公がいま『虎』と云われているように、彼は三年前まで進武館の『野牛』と云われていた、乱暴者で喧嘩早くて、高慢で癇癪持ちで、いちど怒らしたら血を見るまでおさまらぬという男だ。……いいか金吾」伝吉郎は一層その声をひそめて、「その竹刀は彼のだ、それに触ってはいけない、また彼が出て来たら温和しくするんだ、与茂七には構うんじゃないぞ」 「……そうか」 三郎兵衛はにやりと頷いた。……そして与茂七のだという竹刀を取ると、道場のまん中へがらがらと抛り出して叫んだ。 「誰でもいいから、与茂七という男が来たら拙者に知らせて呉れ、……それから、その竹刀に手を附ける奴は許さんからそう思え」 二 「会うことは出来ぬと仰せられます」 「どうしたんだ、御機嫌ななめか」 与茂七がけろりとした顔で云うのを、家扶の仁右衛門老人は気の毒そうに見て、 「御立腹ですぞ、なにしろ江戸の事は一々こちらへ通知が来ておりましたからな、一時は叔父甥の縁を切るとまでお怒りでございました」 「誰がそんな余計な世話をやいたんだ。江戸ではずいぶん慎んでいた積りだがなあ」 「貴方の慎むは当になりません、軽部様の腕を折ったり、御老職の玄関で三日も居据わったり、町人共と喧嘩をして七人も怪我をさせたり、牢役人に金を掴ませて罪人の首を斬ったり、……この仁右衛門が伺っただけでも、まだまだ数え切れぬほどございますぞ。これでは困ります、これでは御立腹が当然でござります」 「ちょッ、誰がそんな、そんな詰らぬ事を一々告げ口しおったんだ。……備後か」 「誰でも差支えございません。彦根に置いては駄目だ、江戸へ出して広い世間を見せたら、行状も改るであろうという思召でなすった事が、江戸へ出ても同様どころか輪を掛けたお身持ではござりませぬか、こんな有様では」 「いいよいいよ、もう沢山だ」与茂七は手を振りながら刀を引寄せた、「仁右衛門の小言を聴いたって仕様がない、御立腹なら押してお眼にもかかれまいが、……ではおまえから宜しく申上げて置いて呉れ、またお怒りの解けた時分に参上仕ると」 「貴方さえ御素行をお慎みになれば、お怒りは直ぐに解けまする」 「己だけ慎んだって仕様がないさ」与茂七は又けろりとして云った、「己だって山猫でも狼でもないから、相手なしに暴れる訳じゃないんだ、幾ら己が謹慎していようと思っても、側から馬鹿共が来て突つきたてるんだから仕様がない、それでも叱られるのはいつも己と決ってる、いつも己だ、……小さい時分からそうだった、誰かが泣くとそら与茂七、誰かが転ぶとそら与茂七、赤ん坊が泣いても己が腕でも捻じ上げたと思ってる。……これではとても凌ぎがつかないぞ仁右衛門」 「……なるほど、貴方様はいつも、お部屋にじっとしておいでなされましたからな」 仁右衛門は苦笑しながら首を振った。 「全くいつもいつもお机の前で、膝に手を揃えて御書見ばかりあそばしていましたからな、そんな言を云う世間は怪しからぬ次第です」 「もう宜いよ、饒舌っただけ損をした」 与茂七は立上って、尚も繰返して意見をする仁右衛門と共に玄関へ出た。 門を出て、さてどうしようかと迷っていると、いま登城するところと見えて、旧友の榊市之進が、下郎を従えて此方へ来るのをみつけた。……白く乾いた道に、陽はもうぎらぎらと強くなっている、市之進は扇を額にかざしているので、側へ近づくまで知らずにいた。 「やあ帰ったか、いつ?」 「昨夜だ、遅かったので何処へも挨拶に出なかったんだ。いま此処へ来たんだが、……到頭お出入り差止めを食った」 「そうだろう」市之進は笑いもせずに頷いた、「作左衛門殿は一徹人だし、貴公はまた、……いや、こんな話を今更したところで仕方がない、今日は早く下城するから拙宅へ来て呉れ」 「よし、鶏を二三羽つぶして行こう、江戸のまずい鶏には弱ったよ、酒を頼むぞ」 「相変らずだな」別れようとして市之進がふと、「これは念のために云って置くのだが、金吾の松子さんに婿が来たのを知っているか」 「……松子に婿が」 与茂七の額がすっと白くなった。……市之進はその白くなった額から眼を外らして、 「岡崎の大番頭の三男で三郎兵衛という、来てから一年とちょっとになるが、今ではすっかり進武館の筆頭を押えている、少し烈し過ぎるのが難だが頭も良いし、……金吾殿も松子さんも満足のようだ」 「そうか、……それは。いい婿がみつかって、よかったな」 「貴公も祝ってやるべきだな」 三 そう云って市之進は別れた。 与茂七は射しつける日光が眩しいのであろう、眉の上へ手をかざしながら、暫く途方に暮れたような足取りで歩いていた。……日に焦けた健康そのもののような頬に、髭の剃り跡が青々としている、眉太く鼻大きく、ひき結んだ唇は強情我慢を絵に描いたようだ。 斎東の家は彦根藩でも出頭の家柄であった、彼は父茂右衛門の末の子であったが、上の兄姉が三人とも夭折したので、ひどく我儘に甘やかされて育った。そのためばかりでもあるまいが、もう四五歳の頃から腕力では群を抜き、「斎東の悪童」と云って、彦根中の親たちから眼の敵にされ始めた。 九歳のとき母を喪い、十三で父を亡くした彼は、二十一歳の秋まで叔父の当麻作左衛門に引取られて育った。 然しそうした境遇に在りながら、彼の持って生れた明けっ放しな性格と、その不屈な負けじ魂とはいささかも変らず、寧ろ益々増長するばかりだった。 彼は力が強く、また武芸には天才的な才能を持っていた。なにしろ十八の年から二十五歳で江戸へ去るまで、進武館の筆頭として代師範を勤め通したくらいであるが、その反面には「斎東の悪童」とよばれた本領を遺憾なく発揮して、良い意味にも悪い意味にも、彦根藩の圧倒的存在になった。……当麻作左衛門はずいぶん骨を折って甥の性格を撓め直そうとしたが、結局は違った世間を見せて、つまりもっと烈しい人生の風に当ててやるより仕方がな いと考え、彼を江戸詰にしたのである、けれど其処でも彼の奔放な性格を抑えつけるものはなかった。寧ろ狭い池から海へ放たれた鯱のように、羽を伸ばして存分に暴れ廻ったのである。 三年のあいだに「御叱り」を受けること四度、謹慎を命ぜられること五度という、活のいいところを見せて、再び帰って来たのであった。 「さて、……」与茂七は辻へ来てふと立止った、「それでは金吾へは行けずか、……叔父殿御立腹で当麻は門止めと来た、こいつは帰来風雪厳しというやつだぞ。……仕様がないから進武館でも見舞うか」 彼は辻を右へ曲った。 進武館では竹刀の音が元気に響いていた。……彼は別棟になっている師範の住居を訪れ、恩師鈴木中通に帰藩の挨拶を述べた後、道場へ出掛けて行った。……其処では三十人ほど稽古をしていたが、与茂七が来たのを見ると、みんな一斉に止めて、面を脱りながら脇へ居並んだ。 「やあみんな暫くだな」与茂七は無造作に手をあげて、「また帰って来たから宜しく頼むぞ。田越どうだ、幾らか上達したか、芹沢はどうだ、赤ん坊も三年経てば三つになる、少しは物になりそうか、どうだ楯岡。……ひとつ久し振りにぐるっと揉んでやろう。金五郎」 「はい」 「ほう……貴様大きくなったな、幾つだ」 「十七です」 とび出して来た金五郎は、照れたように顔を赤くした。与茂七はその頭をひょいと押しやりながら、「もう元服だ、確りしなくちゃ駄目だぞ、己の道具を持って来い、手入れはちゃんとしてあるだろうな」 「ええちゃんと綺麗にして置きました」 金五郎と一緒に去った与茂七は、稽古道具を着けて出て来ると、竹刀を取ろうとして近寄った。……然し当然そこにあるべき自分の竹刀が無い。 「おい、己の竹刀はどうした」 与茂七が振返って叫ぶと、……二三間離れた処で、さっきからじっと彼の動作を見守っていた三郎兵衛が、「貴公の竹刀なら、彼処にある」と云って脇の方へ顎をしゃくった。……与茂七が見ると、隅の方に見覚えのある自分の竹刀が抛りだしてあった。 「誰だ、己の竹刀を抛りだしたのは」 「……拙者だ」 三郎兵衛が答えた。 みんなすわとばかり息をのんだ。……与茂七は投出してある竹刀と、門人たちの異様な視線と、それから相手の顔を見た。 三郎兵衛の白皙の顔は、嘲りと侮蔑と、明らさまな挑戦の意を表白している。彼は足を踏開いて立ち、竹刀を右手にのしかかるような構えで与茂七を睨んでいる、正に「心驕れる虎」といった姿だ。 与茂七の太い眉がきりきりと吊上り、ひき結んだ唇がぐいと歪んだ。……二十八年の今日まで、彼は一度もこんな立場に廻った例はない、彼は常に覇者であり、征服者であった。敢て戦を挑んだ者があったとしても、それはすべて畏惧と恐怖を伴ったものであった。……然るに今、眼前に傲然と立っている男はどうだ、その端麗な顔にも、柔軟な線を持った女性的な躰にも、与茂七を恐れる色は微塵もない、寧ろそこには剃刀の刃のように冷たく、且つ峻烈な敵意と軽悔の念が溢れている。……彼は与茂七のものと知って竹刀を抛りだし、 ――己がしたのだ。 と真正面から挑んできた。 与茂七の大きな眼は相手の眼を見た、それから肩を見た、竹刀を提げている右手から、のしかかるような身構えを見た。……それが終ったとき、彼はにっと微笑しながら、「うん、なかなか骨がありそうだな」と静かに云った、「斎東与茂七の前でそれだけ云えるのは頼母しいぞ、……だが貴様の顔には見覚えがない、新参者か。まだ拙者を 知らないのだな」 四 「知っている、よく知っているよ」 「……本当に知っているか」 「野牛と呼ばれた乱暴者だそうな、彦根の小さな井戸からはみ出た蛙だそうな」 与茂七はずかずかと行って竹刀を拾った。そして大股に戻って来ると、ぴゅっとそれに素振りを呉れながら、 「よし、蛙の手並を見せてやる。名乗れ」 「待兼ねた。……拙者は金吾三郎兵衛」 名乗りながら、三郎兵衛はさっと二三間うしろへ跳退った。然しその名を聞いた刹那、与茂七はあっと眼を瞠った。 「金吾……金吾、三郎兵衛、……貴様が」 「来い、そこらの木偶とは少し違う、岡崎の人間には胆玉があるからそのつもりで来い」 与茂七は答えなかった。 答えないばかりでなく、満面に血を注いだままじっと三郎兵衛の顔を瞠めていたが、急に体外向くと、竹刀をそこへ抛りだし、大股に支度部屋の方へ立去って行った。 「斎東、どうした」三郎兵衛は片手をあげながら叫んだ、「試合は止めか、逃げるのか、この三郎兵衛が恐ろしくなったのか、……卑怯者」 然し与茂七は去ってしまった。 余りに意外な結果である。門人たちはまるで化かされたような気持で、然しそれにしてもこのまま無事に済む筈はないという期待で、暫くは黙って立尽していたが、やがて与茂七が進武館の門から逃げるように出て行くのを見ると、……急にざわざわと驚愕の囁きを交わし始めた。 「あれが野牛か」三郎兵衛は冷笑しながら叫んだ、「あれがみんなの怖れていた与茂七という男か、その竹刀に触るなと云ったのは滝川だったな、伝吉郎……おまえ人違いをしたんだろう」 「い、いや、いやたしかに」 「人違いじゃないと云うのか、ふん」三郎兵衛はぴゅっぴゅっと憤懣を遣るように竹刀を振って叫んだ、「何方でもいいが彼奴は逃げたぞ、みんないまの恰好をよく覚えて置くんだ。さあ来い、……詰らぬ事で暇を潰した、稽古を続けよう」 そういう結果に成ろうとは、むろん三郎兵衛も予想していなかった。最後に、 ――卑怯者。 と叫んだ時には、理由の如何に拘わらず相手は引返すものと思ったし、事に依ると勝負に命を賭さなければならぬと覚悟もした。……然し相手は引返して来なかった、武士なら聞流すことの出来ぬ言葉を、相手は耳にもかけず去ってしまった。…… ――評判ほどにもない奴だ。 彼は満足した感じでわらった。 それは慥かに一種の満足感であった、ふだん喜怒を色に出さない彼が、家へ帰るなり出迎えた妻の松子に、「やあ、今日はおめかしでばかに美しいな」と上機嫌に声をかけて狼狽させた。 「珍しく御機嫌が宜しゅうございますこと」 「そう見えるか」 「なにか御首尾のよい事でもございましたか」 「首尾はいつでも上々だ、なにしろ今日は」 と云いかけたが、さすがにそのあとは口に出せなかった。同時にふいと、 ――いい気になっている。 という感じが来た。 不愉快な感じだった。……するとその不愉快さの底からその時まで考えもしなかった疑惑が頭を捧げて来た。それは、与茂七が彼を怖れて逃げたのではなくて、寧ろ彼を無視したのではないかという疑いである。 ――そうだ、それを考えなかった。 彼の満足感は惨めに傷つけられた。そして、いちど頭を捧げたその疑惑は、彼の心に蛇の如く絡みつき、ざらざらした胴でいつまでも神経を撫であげて来た。 急に不機嫌になった良人の眼から、若い妻は逃げるように次の間へ去った。 ――慥かめてやる。 彼は妻の姿が襖の彼方へ去るのを見戍りながら呟いていた。 ――そいつを慥かめなければならん、彼奴の頭を眼前に垂れさせぬうちは。 三郎兵衛のような男がそう覚悟した以上、それを実行に移す場合は極めて執拗だし、また思い切ったものである。……彼はその翌日、御殿下にある斎東の家を訪れて面会を求めた。 家士はいちど奥へ取次いだ後、「折角ですが、主人は他出中でございます」と明かに居留守を使った。 「では御帰宅まで待たせて貰おう」 「それが、……帰藩の挨拶に諸方へ廻りますので、戻りはいつになるやら知れません。失礼ながらまたお訪ね下さるよう」 「そうか。……ではこう伝えて呉れ」三郎兵衛は冷笑しながら云った、「昨日の勝負をつけに金吾三郎兵衛が参ったと、よいか。然し留守を使われては致方がない。向後は出会ったところで遣るから、充分に覚悟をしていて貰いたい。……分ったか」 「左様申伝えます」 五 家士は噛みつきそうな眼をしていた。 与茂七は彼の前に姿を見せなかった。 明かに避けているらしい、三郎兵衛は出来るだけ会いそうな機会を狙いつつ、一方では嘲弄と侮蔑の言葉を撒きちらした。 そうでなくても、家中の者たちは与茂七と三郎兵衛とを対立させて考えていた。白い虎と野牛とがどう闘うか、何方が勝つか、これは与茂七に抑えられ三郎兵衛に手を焼いていた人々にとって、最も興味のある、そして見遁すことの出来ぬ好主題であった。何方が勝ち何方が負けてもいい、然し必ず二人は闘わなくてはならぬ、そして何方かが覇者の冠を叩き落されなければならないのだ。 ――きっとやるぞ! ――やらずにいるものか。 みんな眼を瞠って待っていた。 然し期待していた事は次第に怪しくなって来た。先ず進武館での出来事が伝わり、居留守の件が伝わり、三郎兵衛の放つ悪声が止度もなく家中に弘まるのに、当の与茂七は膿んだとも潰れたとも云わないのだ。……帰藩の挨拶廻りを終ると共に、与茂七はひっそりと音を殺してしまった。 ――どうしたんだ、斎東は生きてるのか死んだのか。 ――虎が嘯いているのに野牛は穴籠りか。 ――野牛は角を折ったらしいぞ。 華々しい勝負を予期していた人々は、そろそろ待ちくたびれたかたちで、しきりに与茂七の下馬評を始めた。評判は悪くなる一方である、……然し依然として何事も起らず、二十日ほど経って六月三日が来た。 毎月三日は礼日で、藩主は江戸在府中であったが、家中総登城の日である。 三郎兵衛はこの日を待っていた。与茂七は当時無役であったが礼日の総登城を欠くことは出来ない、城中衆人環視の中で、のっぴきならぬところを抑えてやろうと決めたのである。……彼は早く登城をして遠侍に待構えていた。 人々は直ぐにそれと見て取った。 「おい見ろ、虎が今日こそやるぞ」 「なるほど牙が鳴ってるな」 「与茂七も今日は逃げを打てまい」 「みんな遠巻にして離れるな」 そんな言葉が耳から耳へささやかれた。眼という眼がいつか遠侍の広間に集った。 与茂七が登城したのは九時近くであった。……そら来たという人々の無言のざわめきも感じない様子で、彼は静かに嘉礼を言上しに上り、間もなく下って来たが、そのまま長廊下を退出して行こうとした。 三郎兵衛はすばやく立ち、「斎東氏お待ちなさい」と呼びかけながら、小走りにやって来て行手へたちふさがった。 ――そら始まるぞ。 待ちかねていた人々は鳴りをひそめ、耳と眼とを一斉にこの二人へ集中した。……与茂七は立止って静かに相手を見た、三郎兵衛は昂然と右の肩を突上げながら、 「過日、進武館の勝負が預りになっている、再三会いたいと念じているが、居留守を使ったり逃げ廻ったり、遂に今日までその機を得ないで来た、……今日こそ片をつけるからそう思って貰いたい、これから同道しよう」 「その必要はない」 与茂七は眼を伏せたまま答えた。 「あの勝負は拙者の負だ、今更……」 「いやいかん、勝ち負けは立合ったうえでなくては分らぬ。まして世間には、貴公が立合わぬのはこの三郎兵衛を取るに足らぬ相手と見ているのだという風評もある、このままでは拙者の武道が立たん、今日は是非とも勝負をするのだ」 「どういう風評があるか知らぬが、このように満座の中で負だと申す以上、貴公の勝はもう確実だ。……通して貰いたい」 「通さぬ、通さんぞ!」三郎兵衛は両手をひろげた、「貴公に若し武士の面目があるなら立合え、口先で百万遍負けたといっても事実の証しにはならん、先ず事実だ、出よう」 「なんと云われても拙者には無用だ」 「無用だと、斎東、貴公この三郎兵衛をそれほど軽侮する気か」 「軽侮ではない、ただ無用だと云うのだ」 「無礼者!」三郎兵衛は叫びながら詰寄った、「無用とはなんだ、拙者は物乞いをしているのではないぞ、貴様は武士の作法を知らんのか、武道の立合いを挑まれて応ずることも出来ず、臆面もなく無用などとは、貴様……それでも両刀に恥じないのか」 「待て金吾」 榊市之進であった。……彼は見兼ねたのであろう、とび出して来ると、そう叫びながら三郎兵衛を羽交い絞めにして、 「場所柄を考えろ、城中だぞ」 「放して呉れ、彼奴……」 「鎮まれ、話がある、金吾、見苦しいぞ」 強引に絞めあげながら伴れ去った。……与茂七は静かに退出して行ったが、人々は彼の拳がわなわなと震えているのを見送った。 六 その日の灯点し頃に、三郎兵衛の妻松子が与茂七の家へ訪れて来た。……意外な人の訪問である、与茂七はいささか狼狽した様子で、会ったものかどうかと暫く考えていたが、やがて客間へ通して相対した。 「三年ぶりですな、ようこそ」 「御無沙汰申上げております、お変りもなく」 「手前こそ、取紛れてお祝いにも上らず失礼していました、後ればせながらお目出度う、お父上もさぞ御安堵のことでしょう」 「有難う存じます」 松子は重げな眼蓋を僅かに染めた。あの頃からとびぬけて美人というのではなかった。どこもかしこもふくらみかかった蕾のような、重たげな羞いに満ちた乙女であった、表へ現われる美しさは無かったが、いつまでたっても咲き切ることはないだろうと思える美しさが、その重たげな羞いの裡側にひそんでいた。……三年ぶりで会った彼女は、もう人の妻として一年余日を過している、としももう二十二になっている筈だ、けれどあの頃からそうだった腫れぼったい眼蓋を、僅かに赤らめながら俯向いた姿には、裡側にひそんでいて少しも損なわれない美しさが溢れていた。 「して、なにか御用でお訪ねですか」 「はい、……三郎兵衛から申付かりまして、これをお渡し申上げるようにと」 松子は一封の書面を差出した。 与茂七は目礼して封を切った。……書面は思い切って辛辣な句々で埋っていた、「榊市之進より仔細のこと聞き取り候」という書きだしである、要点を記すとこうだ。 あれから市之進の話を聞いた。 貴公はかねて妻松子に心を寄せていたのだそうな。だから、拙者が挑戦しても応じなかったのは卑怯未練からではなく、松子に不測の歎きを与えまいがためだったという。……話は分った、拙者は松子を離別する。松子にはこの手紙を届けてから金吾の父の許へ帰れと申付けた、当人は知らぬが離別の手紙を持たせてある。 これで二人の間の邪魔者は除かれた。貴公も今こそ存分に立合えるだろう。……松原の湖畔「亀形の丘」にて待つ。 与茂七は文面をとくと読み終ってから、静かに巻き納めて顔をあげた。 「貴女はこれから鞘町へお廻りですか」 「はい、なんですか二三日父の方へ行っておれと申付かりましたので……」 「手紙をお持ちですね」 「なにか書いてございまして?」 「鞘町へはおいでにならなくとも宜しい、その手紙を渡して下さい、いや大丈夫、金吾は承知なんです」 「でも、……父の名宛でございますが」 「それが……もう無用になったのです、その手紙を持って拙者がこれから金吾の処へ行くことになったのですよ。だから貴女は、そう……後から直ぐ家へ帰って下さい」 「それで宜しいのでしょうか」 「帰っていれば分ります」 そう云って、与茂七は松子から手紙を受取ると共に立った。 彼は手早く身支度をすると、家士に命じて松を四五本用意させ、その一本に火を点じて家を出た。……もう暮れていた、湖の方から濃い霧が流れて来て、街の灯を朦朧と暈かしていた。 与茂七は懸命に怒りを抑えていたが、一歩行く毎に我慢の緒が切れて来た。髭の剃り跡の青々とした顎は、歯を食いしばるために歪み、大きな眼は燃えるように光を放った。……彼は真直ぐに松原の湖畔へ出ると、指定された丘の上へ砂を踏みしめながら登った。 三郎兵衛は既に来ていた、彼は霧の中からくっきりと白い汗止めを見せつつ進み出て、「よく来た、待兼ねたぞ」と嘆いた。 すっかり身支度をして、そう喚くなり左手に提げていた大剣を抜き鞘を傍の松の根方へ置いた。……与茂七は答えなかった、そして無言のまま五本の松火に火を点じ、それをよきところに組合せて立てた。……濃霧がその焰を映して赤い光量を作った。 それが済むと、与茂七は静かに袴の股立ちを絞り、襷と汗止めをした後、履物を脱いで向き直った。……そして初めて相手へ眼をあげた。 三郎兵衛は苛だった調子で、「……いいか!」と叫んだ。 与茂七は、「よし」と答えて右手を柄に当てた。 七 三郎兵衛は青眼にとった。 与茂七は右手を柄にかけたままである、……松の焰がぽちぽちとはぜ、霧が条をなして渦巻き流れた。なんの物音もない、時々どこかで微かに砂がはねるのは、松葉からこぼれる霧の滴であろう。 時にして約十分。…… 呼吸と気合とが次第に充実し、両者の闘志が抑制の最後の膜をひき裂いたと思われる刹那、絶叫と剣光とが濃霧を截ち割った。……そしてそのまま元の静寂が四方を包んだ。 三郎兵衛は半身になったまま、大剣を下ろして反っている、与茂七の躰はのしかかるように相手を圧している。……よく見ると、与茂七の剣の切尖が、三郎兵衛の鼻梁の真上に、ぴったりと吸着しているのだ。どう動いてもその切尖を逃れる術はないだろう。 「……金吾、斬って来い」与茂七は静かに云った、「決して怪我はさせない、だから安心して掛って来い。……動けないのか」 「貴様の腕は斬りか」 与茂七の籠手が僅かに動いた。 再び絶叫が起り、剣光が弧を描いた、然しその次の刹那には与茂七が三郎兵衛を組敷き、拳をあげて殴りつけていた。無言のまま殴った、三郎兵衛が反抗を止めて動かなくなるまで、殴って殴って殴りぬいた。…… 「馬鹿野郎、貴様は大馬鹿野郎だぞ」 罵りながら与茂七は身を起した。……そして倒れたまま喘いでいる三郎兵衛の姿を、上から暫く見戍っていたが、やがて汗止めを外しながら丘を下りて行った。…… 水の滴る汗止めを持って与茂七が戻って来たとき、三郎兵衛はまだ地上に伸びていた。……与茂七は側へ寄って抱き起しながら、「さあ水だ、綺麗にして来たから啜れ」 「……無用だ」 「己の科白を取るな、喉を潤したら話があるんだ、痩せ我慢はぬきにしてお互いにさっぱりしよう、さあ」 三郎兵衛は音高く水を啜った。 与茂七は自分の襷を外すと、相手の物もすっかり脱ってやり、相対してどっかりと腰を据えた、そして両手の掌を湿らせて膝を抱え、「第一は松子さんだ」と呼吸を鎮めながら云った。 「市之進が話したのは嘘ではない、己はかつて松子さんを自分の妻に申受けようと思ったことがある、市之進にそんな意味を洩らしたことがあるかも知れないが、もうよく覚えていない。恐らく洩らしはしなかったろう、市之進がそう気付いていただけだろうと思う、……だからこんな誤解が生じたのだ、腹を割って云うが、当人の己が江戸詰め三年のあいだにすっかり忘れていたんだ、帰って来て、貴公の入婿を聞いたときはじめて、忘れていたことに気付いたくらいだ」 「…………」 「聞いているだろうな、金吾」そう云って与茂七は続けた、「だから、松子さんのために挑戦に応じなかったというのは嘘だ、市之進の解釈は誤っている、あの男は文字に明るいからむやみに小説じみたことを考えるんだ」 「ではどうして、どうして逃げたんだ」 「第二の問題はそれだな。……云ってしまうから気を悪くするなよ」与茂七はひと息ついて云った、「己は少年時代からこの彦根で餓鬼大将だった、自分の腕力を恃んでのし廻った、世間のやつらがみんな馬鹿のように見え、手を振って横車を押し通して来た。……二十八歳になる今日までそうだった、ところがあの日。……進武館で貴公に出会ったとき、肩を突上げて仁王立ちになっている貴公の恰好を見たとき、己は……自分の姿をまざまざと見たのだ」 「道場のまん中に立って、傲然と肩を怒らしている、その心驕ったさま、我こそはという増上慢、……それはそのまま与茂七の姿なんだ、二十八年のあいだ己は、そっくりそのままの恰好でのし廻っていたんだ。……なんという滑稽な、逆進化の姿だ、生嘘の湧く気障っぽさだ。……己は恥しくなった、そして逃げだした。自分では遂に分らず、貴公の上に自分の愚かな恰好を見出して初めて……己は眼が覚めたのだ」 与茂七は言葉を切って頭を垂れた。 松の焰がどよみあがり、既に半ばまで燃えた一本が崩れると、支えが破れて一時にみんな倒れかかった。ぱちぱちと樹皮がはぜ、美しく火粉が飛んだ、……そして渦巻き流れる濃霧をぱっと赤く焦がした。 「これは燃してしまえ」 暫くして与茂七が、封を切ったのと切らぬのと二通、ふところから取出して渡した。……三郎兵衛は黙って受取り、身を伸ばしてそれを焰の中へ投込んだ。 与茂七はにこっと笑いながら、三郎兵衛の肩を叩いた。……三郎兵衛は腕で顔を隠すと、急においおいと泣きだした。はじめはそうでもなかったが終いには子供が泣くように、おーんおーんと明けっ放しで泣きだした。 「……おい」与茂七は笑いながら、「泣くだけ泣いたら知らせろよ、己は少し横になる。……ああいい心持だ」 そう云ってごろっと仰向けに寝ころんだ。……ひんやりと濡れた砂が、単衣の脊に快く感じられた。彼は両手を頭の下に敷いた。 三郎兵衛の泣声はなかなか止らない、二人のあいだには、重要な言葉はまだなにも語られてはいないようだ、けれど三郎兵衛の泣く声は、どんな言葉よりも鮮かに、凡べてを諒解したことを証している。……松の火は既に落ちかかり、赤い光量は濃い霧の帷と共にじりじりと円を縮めつつあった。 「おい、金吾……」 「……」 「これで彦根から野牛と虎がいなくなるなあ。うん、城下は厄介払いをするだろう。うん、明日からさっきの秘手を教えてやる、あれは柳生の秘手だ。うん、己は二年かかって……」 独りで話し独りで答えながら、いつか与茂七の頬を涙が流れていた。……なんの涙ぞ。