作品・作者紹介

**野村胡堂(のむら こどう)**は、日本の小説家、音楽評論家です。彼の名を不朽のものとしたのが、この「銭形平次捕物控」シリーズです。

物語の主人公は、神田明神下に住む岡っ引の**銭形平次**。子分の**八五郎(ガラッ八)**と共に、江戸の町で起こる難事件に挑みます。平次の卓越した推理力と、悪人に向かって投げる「寛永通宝」の投げ銭は、時代小説のヒーロー像を確立しました。

本作は、人情の機微を深く描きながら、鮮やかな謎解きを展開する捕物帳の金字塔として、今なお多くの人々に愛され続けています。

あらすじ

「人の腹の中が見えたら面白い」――子分の八五郎がそんな冗談を飛ばす中、平次のもとに御数寄屋橋の呉服屋「三島屋」の主人・祐玄が殺されたとの報せが飛び込みます。

現場は外部からの侵入が困難な離れの二階座敷。容疑は店の者たちに向けられます。特に、主人に財産を預けられながら下男扱いされ、許婚のお松まで奪われそうだと不満を漏らす甥の**権三**は、強い動機を持っていました。

しかし、初七日に開かれた遺言状には、権三の辛抱を試していた叔父の真意と、莫大な財産、そしてお松との結婚を認める内容が記されていました。真実を知った権三は、位牌の前で号泣します。

その後、番頭が横領で捕まりますが、平次は権三の不可解な行動から真相に迫ります。権三は平次に犯行の手口を暗示した後、お松と共に姿を消し、五日後に心中死体となって発見されます。

叔父の深い愛情を知らずに殺めてしまった男の、取り返しのつかない後悔と悲恋を描いた物語です。

本文

「考えてみると不思議なものじゃありませんか。ね、親分」

 八五郎はいきなり妙なことを言い出すのでした。明神下の銭形平次の家の昼下がり、煎餅のお盆を空っぽにして、豆板を三四枚平らげて、出殻しの茶を二た土瓶あけて、さてと言った調子で話を始めるのです。

「全く不思議だよ。昼飯が済んだばかりの腹へ、よくもそう雑物が入ったものだと思うと、俺は不思議でたまらねえ」

 平次は八五郎の話をはぐらかして、感に堪えた顔をするのでした。

「そんな話じゃありませんよ。あっしの不思議がっているのは、江戸中の人間が腹の中で、いろんな事を考えているのが、もしこの眼で見えるものなら、さぞ面白かろうといったようなことで―」

「あの娘が何を考えているか、それが知りたいという話だろう」

「まア、そんなことで」

 八五郎は顎を撫でたり額を叩いたりするのです。

「安心しなよ、お前のことなんか考えちゃいないから」

「有難い仕合せで、ヘッ」

「誰が何を考えているか、一向わからないところが面白いのさ。こいつが皆んな眼に見えたひにゃ、大変なことになるぜ、第一こちとらの稼業は上がったりさ」

「大の男の腹の中が、哀れな恋心で一パイで、可愛らしい娘が喰い気で張りきって、立派な御武家の腹の中が金欲でピカピカしているなんざ、面白いでしょうね」

「言うことが馬鹿馬鹿しいな。そういうお前の腹の中には、いったい何があるんだ」

「戸棚の中の大福餅ですよ、先刻チラリと見たんだが、まだ四つ五つは残っているに違げえねえ。あれをいったい、いつ誰が喰うだろうと――」

「呆れた野郎だ、――お静、大福餅を出してやってしまいな。そいつは見込まれたものだ、他の者が喰うと、八五郎の念いで中毒する」

「ヘエ、ヘッ、さすがに銭形の親分は天眼通で」

 八五郎は底が抜けたように笑っております。

 これはしかし、平次の生活のほんのささやかな遊びに過ぎなかったのですが、その日のうちに銭形平次、怪奇な事件の真っ唯中に飛び込んで、人の心の動きの不思議さに手を焼くことになっておりました。

「親分、大変ッ」

 そこへ飛び込んで来たのは、平次の子分の八五郎のまた子分の、下っ引の又六という、陽当りの良くない三十男でした。ノッポの八五郎と鶴亀燭台になりそうな小男、器用で忠実で貧乏で、平次と八五郎に対しては、眼の寄るところに寄った玉の一人だったのです。

「なんだ、又六じゃないか、何が大変なんだ」

 八五郎はそれでも一かど親分顔をして、縁側へ長んがい顎を持ち出します。

「御数寄屋橋から息も吐かず飛んで来ましたよ」

「恐しく長い息だな」

「無駄を言わずに、話を聴け、八」

 平次に叱られて八五郎は間伸びな鋒鋩を納めました。

「御数寄屋橋の御呉服屋主人三島屋祐玄様が殺されましたよ。公卿御用の家柄だ、下手人がわからないじゃ済むまいから、すぐ平次を呼んでくるようにと、八丁堀の笹野様から、格別のお声掛りで」

「そうか、御苦労御苦労、笹野様のお言葉じゃ行かなきゃなるまい」

 平次に取っては年来の知己でもあり、恩人でもある、吟味与力の笹野新三郎が、事件がむずかしいとみて、又六を神田まで走らせたのでしょう。

 平次と八五郎と又六はすぐさま数寄屋橋まで轡を並べるように駈けました。三人の吐く息が、白々と見えるような、薄寒い冬の日です。

 三島屋祐玄というのは、一石橋を架けたという御藤縫殿助を筆頭に、七軒の公卿御用を勤むる御呉服所のうちの一軒で、いうまでもなく士分の扱いを受け、公卿御手当のほかに、莫大な利分をあげて、豪勢な暮しをしている家柄だったのです。

「おや、銭形の親分、親分が来て下されば安心で」

 その豪勢な店口に迎えてくれたのは、番頭の幸七でした。五十年輩の気むずかしそうな男ですが、その代り三島屋に三十七八年も奉公し、この店から自分の葬いを出してもらうつもりでいる、支配人です。

 幸七の後ろには、好い男の手代良助、悪戯盛りらしい小僧の庄吉などが、不安と焦燥に固唾を呑んで控えました。

 番頭に案内されて、まず主人祐玄の殺された部屋に通ってみると、これは母屋つづきには違いありませんが、土蔵と土蔵の間、大きな青桐の下へ、高々と張り出した二階で、ここから丸の内の景色が一と眼に見られるのを自慢に、主人の居間にも、寝室にもなっているのでした。

 亡くなった主人の祐玄は、女房に死に別れた淋しさを忘れるために、一日の半分はここへ引込んで、お茶を立てたり、物の本を読んだり、まことに閑寂な、行いすました暮し方をしているのでした。

 梯子段は母屋の方からつづく廊下を経てたった一つ、その階下には物置とも納戸ともつかぬ、商売物を入れて置く部屋が二つあり、梯子段の側には三畳の薄暗い部屋があって、番頭の幸七が寝泊りをしているのだと、幸七自身が説明してくれました。

「ここに私が頑張っておりますので、夜中に二階の主人の部屋へ変な者が行けるはずはないのですが――」

 幸七がもっての外の顔をするのも無理のないことです。二階の取っ付きは長四畳で、その次が主人の部屋の六畳になります。中はいちおう取片づけてありますが、検屍が済んだばかりで、新しい蒲団の上へ、主人の死体はそのまま横たえられ、形ばかりの香花を供えて、若い倅の祐之助と、娘のお菊が湿っぽくお守をしております。

 部屋の木口や調度は、御数寄屋好みで華奢には出来ておりますが、さすがに三島屋祐玄で、かなりに贅を尽し、泥棒除けには不都合でも、日常生活はさぞ快適だったことと思わせるのでした。

 倅祐之助と娘お菊は、黙礼して後ろへ引き下がると、入れ換って平次は死体の側に進みました。

 六十年配の洗練された老人の顔は、苦悩に歪んで少し眠っぽく、首には深々と真田紐で絞めた跡が残っておりました。

「紐はあったはずだが――」

「これでございます。今朝見付けた時は、主人の身体はもう冷たくなっておりましたが、ともかく一応の介抱をいたしました。そのとき首からその紐を解こうといたしましたが、盲結びになっていて、容易に解けません。仕方がないので鋏で切ってしまいました」

 番頭の幸七はそう言って、結び目のところで切った真田紐を見せました。

「これは誰の紐か、わかるだろうか」

「ヘエ、手代の良助が、前掛けの紐にするつもりで、取って置いたのだそうで――」

 幸七はいかにも言い悪そうです。紐はくすんだ萌黄色で幅五分くらい、いかにも丈夫そうなものですが、鋏で結び目を切ったために、どんな結びようであったか、番頭の言葉を信用するほかはありません。

 先刻店でチラリと見たとき、手代の良助の顔に、異常な恐怖の色のあったのは、主人の死体の首に、自分の真田紐が巻きついていたためでしょう。

「ほかに変ったことは?」

「これも申し上げ難いことですが――」

 幸七は言い淀みます。

「言わずに済むことではあるまい。主人の下手人を逃がしたらどうする」

 平次は容赦のならぬ調子になります。

「掛人の多賀小三郎様の煙草入れが、梯子段の下に落ちておりました」

「その多賀という方の部屋は?」

「店の裏の四畳半で、ここからは大分離れております」

「主人と昨夜逢ってでもいるのか」

「とんでもない。用心棒代りの掛人には違いありませんが、お身持がよろしくないので、近頃は主人とも面白くないことになり、いずれはお引き取り頂くような話になっておりました」

 番頭の幸七は言い難いと言いながら、進んでこんな事まで打ちあけるのは、日頃用心棒多賀某の横暴な態度に、反感を持っているらしいと平次は見て取りました。

「ほかには主人を怨むものは?」

 平次の問いは定石的です。

「そんなものは有るはずもございません。公卿御用は勤めておりますが、まことに物のわかった主人で、町内でも評判でございました」

「それほどの人でも、掛人の多賀とかいう人と仲たがいをしたではないか」

「それはもう、怨む者の勝手で、例えば下男の権三などは、遠縁の血のつながりを言い立てて、どうかすると主人に突っかかっております」

「それはどういう男だ」

「主人の従弟の子だそうで、放埓で勘当になり、親が亡くなったとき、残った身上と一緒に、大叔父に当る主人に預けられ、しばらく辛抱の具合をみるということで、下男同様に使われておりますが、根がきかん気の男で、ときどき主人に楯突いて、持て余しております」

「その男はここにいるだろうな」

「庭の隅の物置と申しても先々代の主人が隠居所に使ったところで、そこを一と間だけ片づけて住んでおります。今はちょうどお寺へ使いに参っておりますが――」

 幸七は歯に衣着せない男でした。奉公摺れのした中老人の強さのせいでしょう。

「ところで、昨夜のことを詳しく聴きたいが」

 平次は話題を変えました。幸七の無遠慮な言葉に少し当てられた様子です。

「主人はいつものように宵のうち早目に二階へ引き取り、お松さんの世話で寝酒を一合――それは毎晩のことでございます。主人はお酒は好きですが弱い方で、一合くらいやるとぐっすり眠られると申しておりました」

「お松さんというのは?」

「主人の姪でございます。多勢の女の雇人を使っておりますので、それを見ておりますが」

「そのお松さんが二階から降りたのは」

「亥刻〔十時〕前だったと思います。お床のお世話をして、晩酌の膳を引いて、二階から降りた後で、主人は梯子段の上から、私へ明日の用事を申し付けましたから、お松さんにはなんの疑いもあるはずはございません」

 この姪が人気者らしく、番頭の幸七までが妙に力瘤を入れます。

 平次は立ち上がって部屋の内外を調べました。床も天井も異状がなく、押入には少しばかりの道具と蒲団があるだけ、戸締りは案外呑気ですが、ここから曲者の入った様子はありません。というのは、洒落た板庇が朽ち果てて、蒼然と苔むしているので、人間が踏めば一とたまりもなく崩れ落ちるに違いなく、第一その上を踏めば足跡が着かないわけはないのです。

 四枚の雨戸は今朝、死体を発見した姪のお松が開けたとき、なんの異常もなかったというと、残るは北側の腰高窓だけですが、ここへ登るには、梯子かなんかで朽ち果てた庇に登り、そこを足場に、戸をこじ開けるほかは、部屋の中に入る工夫はありません。

「窓の外には大きな青桐がありますね。あの枝にブラ下がって、北窓へ取付く工夫はないものでしょうか」

 八五郎はうさんな鼻を窓から出してみました。

「庇が朽って、苔だらけだ。人間が踏めばすぐわかるよ、――だが、念のために、窓の下と、桐の根本を見てくれ。人間の足跡か、梯子を掛けた跡があればしめたものだ」

 八五郎は外へ飛び出しましたが、間もなくつままれたような顔をして戻って来ました。

「どうだ八、でっかい足跡でもあるか」

「北側は湿り土で、猫の子が歩いても足跡のつくところですが、なんにもありませんよ。窓の外も桐の下も、嘗めたように綺麗だ」

「ちいと」

「こりゃとんだむずかしいことになりそうだよ。ともかく皆んなに会ってみよう」

 平次も備えを立て直す気になりました。事件は容易ならぬ形相を持っております。

「……」

 梯子段の下の、薄暗い物蔭から、そっと平次に声を掛けた者がありました。八五郎と又六は庭へ飛び出し、番頭の幸七は二階へ残って、平次たった一人になった折を狙った相手でしょう。

 黙って振り返ると、白い顔が滑るように平次の側へ。

「お願いですから、番頭さんの言うことを本当になさらないで下さい。権三さんは叔父さんを怨んでなんかいませんし、一本調子なところはあっても根が気の良い人です。番頭さんは、自分がときどき突っ掛かられるので、あんな事を言いますがお願いですから、どうぞ――」

 少しおどおどしておりますが、二十五六のそれは良い年増でした。霞む眉の曲線や、健康そうな白歯を見るまでも なく、物腰に初々しさがあって、それは間違いもなく娘の肌ざわりです。

「お前は、お松さんとかいったネ」

「え、お願いですから」

 お松はそう言って、次の問いも待たずに、ヒラリと逃げてしまいました。地味な袷、襟足の美しさ、香料とは縁の遠い、ほのかな若い体臭――そんなものを平次は感じたようです。

 梯子段の下は番頭の部屋で、たった三畳の入口が梯子段の方に向いて、まるで関所のように見えるのが注意を惹きました。

 縁側へ出て外を見ると、庭で植木の冬囲をしていた三十前後の男が、平次の顔を見ると、あわてて引込みそうにするのを、

「ちょいと待った。若い衆、お前は、権三とかいうんだね」

「ヘエ、よく御存じで」

 尻切伴纏に浅黄の股引、見得も色気もない男で、案外こんなのが飛んだ色男かもわかりません。

「ちょいと聴きたいが、お前は身代と身柄を、ここの主人亡くなった大叔父さんに預けられているそうだね」

「ヘエ、あの番頭が、そんな事を申したのでしょう。身代といえば大袈裟ですが、私が道楽で費い残した身上で、いくらもありゃしません」

「でも、いくらか見当はつくだろう」

「地所と家作が少々、それに金が世帯を仕舞った時の残りが、五六百両あると聞いておりますが、本当の額を教えると、また私の昔の道楽が始まると思ったか、叔父も番頭も教えちゃくれませんでした。どっちにしたところで、三島屋の身上に比べると、岩壁の苔みたいなもので」

「いつからそれを預けてあるんだ」

「五年前、親父が死んだ時の遺言でございました。今じゃもう私はあんなものを当てにはしておりません」

「主人――といってもお前には大叔父だが、その主人はお前によくしてくれたのか」

「善いも悪いもありゃしません。五年という長いあいだ、この侭で下男同様に働かされました」

「お松さんとかいったが、ありゃお前となにか掛り合いでもあるのか」

「ヘッ、許婚とかなんとかいわれたこともありますが、五年もお預けを食っていちゃ、大概の恋も褪めますよ。今じゃ私などを振り向いても見ません、傍には手代の良助という、若くて好い男がいるんですもの。その良助は近いうち暖簾を分けてもらうことになっているそうですから」

 こんな呪いの言葉が、この男の口から出るのを平次は異様な心持で聴いておりました。その呪われているお松が、真剣な態度で、権三のために弁じたのは、つい今しがただったのです。

「昨夜はどこにいたんだ」

 平次の最後の問いは露骨でした。

「あの物置の中の自分の寝床にもぐっておりました。たった一人で、誰もそれを見ていたわけじゃありませんが」

 権三は苦笑いするのです。

 倅の祐之助は十八、まだ親の慈悲の蔭に、平凡な良い息子として育っているだけ、その妹のお菊は十五の小娘で、父親の命を奪る原因を作るほどの柄でもありません。

 手代の良助は二十八。これは典型的なお店者で、小々軽薄らしくはあるが、色白で顔の道具が華奢で、なかなかの好い男でした。

「主人はことのほか眼を掛けて下さいました。来年はお礼奉公も済みますので、いよいよ暖簾をわけて、預けてある給金にいくらかの金をつけてやり、小さくとも店を持たせてやろうと、御機嫌の良いときは、時々おっしゃって下さいました」

「店を持つなら、配偶の当てでもあるのか」

 平次は唐突な問いを挟みます。

「ヘエ、それが、その」

「お松さんに、うるさく付き纏っているというではないか」

「とんでもない、親分さん、あれはとんだ固い女で」

 さてはこの色男奴、覚えがあるのだなといった顔をする八五郎を押えるように、平次。

「お前は掛人の多賀さんを呼んで来てくれ」

 八五郎は不服らしく立ち去ります。

「ところで、主人の首には、お前の真田紐が巻きつけてあったが、それは知っているだろうな」

「ヘエ、その事でございます。私も一時はびっくりいたしましたが、縄にも紐にも不自由があるわけはございません。本当に人でも殺そうというものが、自分の持物と知れ渡っている、真田紐などを持ち出すでしょうか」

 良助は躍起となってはね返すのです。ここまで頭を働かせるのは、よくよく追い詰められて必死の智恵を絞ったのでしょう。

「俺も一度はそう思ったが、一方ではそう思わせるように、わざと自分の持物で、大それた事をする術もあるぜ」

「親分、じょ、冗談で。私は気が小さいのですから、どうぞ脅かさないで下さい」

 良助はまさに追い詰められた鼠です。

「その男が気が小さいか小さくないか、お松に訊いてみるがいい。あのか弱いものを納戸につれ込んで、手籠にしようとしているのを、拙者が二度までも助けているぜ」

 ヌッと顔を出したのは、浪人多賀小三郎。

「多賀さんでしょうね」

 そのころの大町人が掛人という名義で養い、強請、物もらい、騙りや押売りなどに備えた用心棒の一人でした。

「そのとおりだ。多賀小三郎、昔の身分を言っても仕様があるまい。今は三島屋の奉公人同様、変な野郎が来ると長いのをくり廻しながら、店へ顔を出すだけの仕事だ」

 三十五六の青髯、存分に虚無的で、人を嘗めきった二本差です。

「主人との仲が悪かったように聴きましたが、近頃はどうでした」

「いや、少しばかり勝負事に手を出したのが、頑固な主人の気に入らなかったのだ。しかし、そんな事は今始まったわけではない。顔と顔が合えば、お互いに笑って済むことさ」

「昨夜はどうなさいました」

「お濠端の居酒屋で一杯きめて帰ったのが亥刻少し過ぎかな。小僧の庄吉に戸を開けてもらって、自分の部屋へ入ったきり、あとは今朝までなんにも知らない」

「煙草入れが梯子の下に落ちていましたが、ありゃ多賀さんのだそうで――」

「嫌な事を言うなよ。なア、平次親分。人でも殺そうという曲者は、どんな細工だってするだろうじゃないか。誰が人を殺して現場の近くへ、自分の煙草入れを捨てて来る奴がある者か」

 妙な論理ですが、考えてみるとそれは、手代の良助の論理を一歩進めただけのことです。

「多賀さんの考えで、主人を殺しそうなのは誰でしょう。家中の者には違いないのですが第一、外から入った様子は少しもないのは御承知のとおりで」

 平次はこの虚無的な浪人者の口から遠慮のないことが聴きたかったのです。

「ありゃ理だよ。白雲頭の時分から三十七年とか奉公しているそうだが、途中でいちど世帯を持って、女房に死に別れてまた三島屋へ舞い戻っている。考えてみると、少しばかりの資本で、裏店の小商売を始めたところで、三島屋の店に頑張って、月々帳尻を誤魔化すほどの収入はない。あの狸奴、うんと取り込んでいるぞ」

 多賀小三郎も歯に衣を着せません。番頭の幸七との仲の悪さが思いやられます。

 小僧の庄吉は白雲頭のなんにもわからず、平次は最後に家中の人と人の関係、近所の噂、わけても番頭幸七の溜めっ振り、手代良助の身持、浪人多賀小三郎の懐ろ具合などを、八五郎と又六に調べさせて、自分は一と先ず帰る外はなかったのです。

 それから三島屋祐玄の初七日まで、なんの変化もなく過ぎました。三島屋の主人を殺した下手人がわからないばかりでなく、紛失物もなく、怨みを受ける覚えもないとなると、なんの目的で殺したのかさえ掴めません。

 八日目の朝でした。

「親分、変なことになりましたぜ」

「何が変なんだ」

 飛び込んで来たのはガラッハの八五郎です。

「昨日は三島屋の初七日でしょう。親類中が集まって、位牌の前で、死んだ主人の遺言状を開いたと思って下さい」

「思うよ、――それがどうした」

「先ず三島屋の身上は、倅の祐之助が間違いなく相続すること」

「当り前だ、先を急いでくれ」

「娘のお菊は良縁があって嫁入りするとき、持参金が千両――大したものですね、あのきりょうで一と箱の持参だ」

「少し若過ぎるよ。たった十五じゃお前の年の半分だ」

「あっしがもらおうなんて言やしません、それから、番頭の幸七は思う仔細あって、そのまま暇をやる、――主人は素知らぬ顔をしていても、番頭がうんと取り込んでいることを知っていたんですね。手代の良助には給金の預り百五十両の外に、百五十両の手当を出す」

「それからが大変で――甥の権三は、身持放埓で、身上と身柄を私が預ったが、五年間よく辛抱した心掛けに愛でて、地所家作の外に五百両の預りに五年間の利息を付けて返し、ほかに三千両の現金を分けてやるように、お松とは許婚の間柄であったが、権三の心掛けが直るまでお松に申し含めて精々つれなくさせていた。私の亡き後はもはやなんの遠慮もなく、お松と一緒になって世帯を持つがよかろう。今まで私の言う事を聴いて、苦労をしたお松には、別に嫁入り仕度として五百両分けてやるように――と、行届き過ぎるほどの遺言でしたよ」

「それを聴いて驚いたのは番頭の幸七でしたが、もっと驚いたのはあの下男の権三でした。尻切絆纏に浅黄の股引で、あれでも甥には違いないのですから、縁側の隅っこに小さくなっていましたが、その遺言を読み聴かせると、ただもう声を揚げて男泣きに泣き出したのです。済まねえ、済まねえ、そんな心持とは知らなかった、叔父さん―――と位牌の前へニジリ寄って、畳で額を叩いて口説いておりました」

「そんな事もあるだろうな」

「それきりじゃまだお話になりません」

「まだ話があるのか」

「それからが大変で」

「早くぶちまけな、何があったんだ」

「小舟町の佐吉親分が、前から狙っていた様子で、ゆうべ宵のうちに、番頭の幸七を挙げて行きましたよ。手代の良助でなく、浪人の多賀小三郎でなきゃ、梯子の下に寝ていて、そんな細工の出来るのは幸七に違いないというんで」

「フーム」

「幸七は溜め込んでいることは確かで、伊勢町に妾を蓄って置いて、そこを家捜しすると、押入から千両近い金が出て来たんだから、いい遁れようはありません」

 八五郎の報告は重大でしたが、

「待て待て、それじゃ幸七は下手人じゃないぜ」

 平次は妙なことを言うのです。

「下手人が梯子の下に寝ていて、夜中に誰も二階へ行った者はないなどと言い張るのも変だし、すぐ知れるはずの妾の家へ、千両近い金を隠しておくのも呑気過ぎやしないか」

「そう言えばそうですね」

「よしよし、もういちど俺が行ってみよう」

 平次はもういちど、徹底的に調べてみる気になったのです。

 三丁目の三島屋は主人の死んだ時にも優してなんとなくザワザワしておりました。主人の遺書があまりにも予想にはずれて、その興奮がまだ納まらないせいでしょう。

「銭形の親分さん、番頭さんは縛られて行きましたが、今度は私が狙われそうで、気味が悪くてなりません。どうぞお調べ下すって本当の下手人を挙げて下さい」

 奥へ通る平次の後ろから、クドクド愚痴を言いながら聞いて来るのは、手代の良助でした。主人の部屋へ行く前、問題の梯子段の下に立って、フト庭を見ると、相変らず甥の権三が、いつかのとおり下男姿で、植木の世話を焼いておりますが、平次の顔を見ると丁寧に腰を屈めて、

「銭形の親分さん、番頭は可哀想ですよ。ありゃ、欲が深いだけで、人なんか殺せる人間じゃありませんよ」

 こんな事を言うのです。

「お前はなにか思い当る事がある様子だな」

「とんでもない、私に何がわかるものですか。それよりこの間のお調べに見落しがなかったか、もういちど二階の窓のあたりを調べ直して下さい。小舟町の佐吉親分じゃ、危なくて仕様がない」

 権三はお仕舞を独言にして、クルリと背を向けるとスタスタと庭から出て行ってしまいました。

 平次は何やら考えておりましたが、思い直した様子で二階へ登って行きます。

「親分、イヤな野郎ですね。変な謎なんか掛けやがって」

 八五郎はその後に続きました。

「掛けられた謎は解かなきゃなるまいよ」

 二階の二つの部屋は、よく掃き清めてありますが、もはや七日前の惨劇の跡もなく、開けた南窓から、暖かい小春の陽射しが這い寄って、不思議な落着きと安らかさを取戻しております。

 北窓三尺四方ほどの小窓は閉したままですが、これは上の桟が馬鹿になっている上、下の桟もアヤフヤで繋いで一梃あれば、素人でも楽に雨戸をはずされます。板庇に人の踏んだ跡があるか、この下の大地に梯子の跡がありさえすれば曲者はここから忍び込んで、寝酒で熟睡している主人祐玄を絞めに行ったに違いありません。

 平次は念のために、ガタピシさせながら小さい二枚の雨戸をはずしてみました。

 さすがの平次が、立竦んだのも無理はありません。

 朽ちかけた板庇の上、人が踏めば一とたまりもなく落ちるか、落ちないまでも苔を痛めそうな、この上もなくデリケートな板庇の上に、幅五寸、長さ三尺ほどの板を載せて、曲者はこれを踏んで、なんの痕跡も越さずに、部屋の中に忍び込みましたと教えているのです。

 平次が驚いたのは、そればかりではありません。板庇の上、窓とスレスレのあたりに、頭の上へ伸びた青桐の大枝から、一本の丈夫そうな綱が、これを伝わって降りましたと言わぬばかりに、フラフラと垂れているではありませんか。

「曲者はここから入って主人を殺したのですね」

「そのとおりだよ、俺はそれに気が付かなかったのだ。青桐の根のあたりに足跡がなかったので騙されたが、あんな板が一枚ありゃ、大概の湿り土の上でも、足跡を残さずに歩けるよ」

 曲者はこの板一枚を利用して、土蔵の軒下の乾いたところから、青桐の根まで近づき、青桐の上にその板と綱を持って攀じ登って、二階の窓外に軽く降り立ち、なんの苦もなく部屋の中へ滑り込んだのでしょう。

「流しの泥棒かなんかでしょうか」

 八五郎ももっともらしく頭を捻りました。

「いや、この家の中のことをよく心得たものだ。それになんにも盗られたものがない、主人の部屋には、かなりの金が置いてあったはずだ」

「待て待て、そう先を急いじゃいけない。その庇の上に落ちている手拭を取ってみろ」

 八五郎は手を伸して庇の上に落ちていた、薄汚い手拭を拾いました。

「その手拭が誰のか、聴いて来るんだ」

 八五郎は手拭を持って飛んで行きましたが、間もなく勝ち誇った声をあげて戻って来ました。

「あの下男の権三の手拭ですよ。家中で知らない者はありません」

「この前見た時は、板も綱も、手拭もなかったでしょう。本当の下手人が、権三を罪に落す気で、こんな細工をして見せたんじゃありませんか」

 八五郎はまた先を潜ります。

「すると」

「いや、曲者は権三を罪に落す気なら、外にいくらでも手段がある、それにあの板を持って青桐に這い上がり綱を伝わってここへ降りるのは、容易の力業ではない。そんな腕の力を持っているのは――」

「主人の遺言を読んで、権三はひどく泣いていたと言ったな」

「ヘエ、大の男のあんなに泣くのを、あっしは見たこともありません」

「その権三がさっき、この仕掛けを知っているような口振りだったな」

「いやな謎を掛ける奴だと思いましたよ」

「その権三がどこにいる、見付けて来い」

 八五郎と又六は飛びましたが、その時はもう権三の姿はどこにも見えなかったのです。店中の者に訊くと、

「権三はつい今しがた、どこかへ行きましたよ。怖い顔をしておりました。すると間もなくお松さんが、気違い染みた様子で後を追っ駈けましたが――」

 こんな話で口が揃います。

「しまった。八、手配を頼むぞ、―なにか持って行ったか? 何、空っ手で行った――金は? 一文も持ち出さない、二人は死ぬ気かも知れない。四宿に網を張る前に大川に気をつけろ」

 平次は夢中になって号令しております。

 果して権三とお松の死体は五日目に永代の土手に上がりました。五日のあいだ二人はこの世の歓楽を極め、五年越し秘めた恋を爆発的に味わい尽して、その絶頂から死へと一足飛びにしたのでしょう。

 一件落着の後、八五郎の問うがままに平次は説明してやりました。

「権三は叔父の祐玄を怨んでいたのだ。五年越し辛抱に辛抱しているのに、預けた家も地所も金も返さず、その上許婚のお松まで取り上げて、良助に娶合せると思い込んだのだろう。お松が慎み深くて、権三の気持を察することが出来ず、叔父の言い付けばかり後生大事に守ったのが間違いの基さ。若い女は少しは色気があった方がいいな。―権三はとうとう我慢がなり兼ねて叔父を殺した。初七日でも過ぎたら、お松をつれて飛び出そうと思っていたことだろう」

「ところが、初七日の遺言の披露で叔父の並々でない心持、自分のためを思ってしてくれた大恩がわかって、根が正直者な男だけに、いても立ってもいられなくなった。その上番頭の幸七が縛られたのを見て、自首して出る気になったが、まだ命に未練があるのと、一つは俺をからかいたくなって、あんな細工をしてみせたのだろう。あれでも自分が下手人と判らなければ、そのまま口を減んでいるつもりだったかも知れない。誰だって命が惜しいから、いよいよ覚悟をきめても、なにか十に一つの助かる道が欲しかったのだろう」

 平次はこう絵解きをしてくれるのでした。

「親分、人の心が不思議だと言ったのは嘘じゃありませんね」

「お前が大福餅を狙っているのはわかっても、権三が下手人とは読み兼ねたよ。一度叔父を殺しながら、自首する気にもなれず、あんな細工をして見せて、運を天に任せた心持も考えると可哀想でもあるな」

「でも好きな同士で、三日でも五日でも、存分に暮したんだから、悪くありませんね」

「馬鹿だな。お前なんざ、無事で長生きする方が柄だよ」

「甘く見ちゃいけません」

 ちょいと髷を直して、長んがい顎を撫でる八五郎です。あまり大した手柄もなかったこの事件の底に潜む、割りきれないものを平次は考えている様子です。

登場人物一覧

銭形平次

神田明神下の岡っ引。本作の主人公。鋭い推理力で事件の真相を見抜く。

八五郎(ガラッ八)

平次の子分。お調子者だが、憎めない相棒。

三島屋祐玄

被害者。御数寄屋橋の呉服屋主人。権三の叔父。

権三

祐玄の甥。下男として働く。叔父を殺害した犯人。お松の許婚。

お松

祐玄の姪。権三の許婚。叔父の言いつけを守り、権三に冷たく接していた。

幸七

三島屋の番頭。店の金を横領していた。

良助

三島屋の手代。祐玄の首を絞めた紐の持ち主。

多賀小三郎

三島屋の掛人(用心棒)。現場に煙草入れを落としていた。

Q&Aのコーナー

Q.なぜ権三は叔父の祐玄を殺したのですか?

A.自分の財産を5年間も返してもらえず、その上、許婚のお松まで手代の良助に取られてしまうと誤解したためです。叔父に裏切られたという怨みが動機となりました。

Q.主人・祐玄の本当の意図は何でしたか?

A.権三の放埓な(道楽者の)性格を直し、辛抱強い人間に更生させることでした。遺言状には、権三の5年間の辛抱を認め、預かった財産に利息と追加で三千両を与え、お松との結婚を正式に認める内容が記されていました。

Q.権三はなぜお松と心中したのですか?

A.遺言状で叔父の深い愛情と真意を知り、取り返しのつかない罪を犯したことを悟ったからです。番頭が身代わりに捕まったことへの罪悪感もあり、平次に犯行の手口を暗示した(自白した)後、愛するお松と最後の5日間を過ごし、共に死を選びました。