新撰組八犬伝 ~ 第一輯 ~

    十三

「仁右衛門!」
 と大石がわめく。
「宝玉をよこせ。それはわしのものだ!」
「逃げろ、仁右衛門!」
 と言いつつ、ちゅ大法師は、大石の強力に屈して、膝を突いている。
 仁右衛門は、無手である。
 争う二人にかまわず、樫の根元に走った。そこに、犬江新兵衛の亡骸があった。小柄な老人である。旅装を解きもしていない。入府してすぐに、大石と遭遇したのだろう。
 犬江新兵衛は、右の肩口から腹にかけてを、一刀のもとに断ち割られている。薩腹の示現流でも、こうはいくまい。
「ごめん」
 と断り、新兵衛が右手に握る愛刀を、指をへし曲げるようにして無理矢理にとった――とたんである。
 その刀は、たった今命を得たように静かな光を放ち、あまつさえ、かすかな冷気と水気を漂わせ始めた。
 これは――と仁右衛門はうめいた。
 よもや、霊剣村雨か――?
 村雨丸といえば、八犬士の持ち物である。
 ドサッと音がして、泥がはねとんだ。足下に、ちゅ大法師の巨体が落ちてきた。
 ちゅ大法師は倒れこんだまま、錫杖を大石に突きつける。
風がコオッと吹いて、雨と三人の衣服を払った。
 仁右衛門は瞠目した。大石はもう、人相まで変わっている。いや、人相という言葉では足りないだろう。人外――である。目は赤く輝き、首を振るたびに、その赤い残像が残った。口はさけ、巨大な牙がのぞき、そのすきまから白煙を吹き散らしている。体毛がみっしりと生え、その脂が雨水をはじいていた。刀を握るその指は、ぐわりと爪が伸び、まるで五本の小刀である。
 人、というよりも、狼に近い。
「あれは、なんだ?」
 と仁右衛門はちゅ大法師にささやいた。
「お主」法師が、チラリと仁右衛門の懐をみる。「それは、仁の珠か?」
 信じられぬ、と言いたげに首を戻す。
「お主は、里見一族の血筋の者か。まさか……」
 仁右衛門は否定しようとしたが、奥村家は、身分こそ御家人だが、古い家柄である。どこで、どの血が混じっていようかなど、わかるはずもない。
 大石が、犬のように喉を鳴らし、ヒタヒタと迫ってくる。骨格すらも変わったのか、膝を深く折り曲げ、人を遠く離れた動きである。自身も一流の剣客である仁右衛門は、大石の身ごなしを見て、逃げることも容易ならぬ、と判断した。しかし――
 仁の珠は、傷を治しただけではないらしい。今、過去味わったことがないぐらい、体の奥深くから、力が湧き出してくるのを感じる。剣術の修行を通して、これこそが極意、という感覚を得たことはあったが、体中に、別の動力を得たような心持ちである。
 が、油断はできない。体力は、著しく減少している。早めに決着をつけなければ――
「なぜ目玉が光っている」
「邪神眼だ。まともに見るな」とちゅ大法師もささやきかえす。「お主、名は?」
「徳川家(とくせんけ)浪人。奥村仁右衛門」
「奴の姿が見えるのか?」
「どういうことだ?」
「常人にはあやつの姿はふつうの人として映るはずだ。お主には見えているのだな」と法師は言った。「傷は治ったか?」
 仁右衛門は立ち上がり、スッと、村雨を垂らす。村雨は雨気を受け、さらなる冷気を立ち上らせている。
 彼がうなずくと、法師はやや満足げに肯首(こうしゅ)した。
「お主ではまだ、宝玉の力を使いこなせまい。伏姫を連れて逃げろ、と言いたいところだが」ちゅ大が唾を飲む。「奴も新兵衛殿との戦いで、傷を得ておる。今、仕留めるべきだ」
「お主は、本物の金椀大輔なのか?」
 と仁右衛門はささやいた。ちゅ大法師が、チラリと彼をにらむ。
「馬琴のことは、今は忘れろ。奴をどうにかせねば……」
 そのとき、首をグルリグルリと回しながら、こちらに迫っていた大石が、止まった。喉を鳴らすのをやめ、その場で二度三度と腰を沈ませる。
 さらに深く沈んだかと思うと、鞠がはねるように跳躍をして迫った。
「伏姫を守れ!」
 ちゅ大法師が滑走したが、大石は鋭く左にはね飛んで、かと思うと、急激に角度を変えて、仁右衛門に迫った。
 仁右衛門は、下段にあった刀をさっと振り上げ、大石の一刀を受け止めた。大石は宙に浮いたまま、全体重を乗せて推してくる。
 重い――
「貴様、本物の壬生狼になりさがったか!」
 仁右衛門が刀を振り抜く。村雨丸は、周囲の雨粒を凍らせながら、鍬次郎の体をはねのけた。
「おのれ、犬士になりおったか――」
 と大石が吐き捨てる。村雨丸は、真の犬士にしか扱えないのである。大石の刀は大きく欠けて、表面に多量の霜をつけている。
 仁右衛門とちゅ大法師は、別の角度からジワジワと大石に迫った。
 大石が、法師に向かって、息を吐くと、その息は真っ黒な毒霧にかわった。
ちゅ大法師は、たまらず膝を折る。常人なら、即死したはずだが、百の子玉をもつ法師は耐えた。
 仁右衛門は刀を下段に預けたまま、飛ぶように距離をつめた。まるで、何者かが回しているのかと思うほど、足腰が軽い。
 鍬次郎が、直前で顎を閉じ、向き直った。
 仁右衛門もまた一息で迫ると、上段に跳ね上げた村雨丸を、真一文字に振り落とす。
鍬次郎が真っ向からうけた、狼と見紛う鼻より、毒霧をブフウと吹きながら食い止める。
 仁右衛門は、身の中心に重みを集めると、粘りをかけるようにして、村雨丸に身を預けていく。
 祟り神を宿す大石も、その重みに屈服して、腰を下げた。
 村雨丸は、大石の刀に切れこんで、その刀身を断ち割り始める。
「おのれえ」
 大石がのろいの声を上げると同時に、刀は真っ二つに折れ飛び、村雨丸がその胸を深々と切り裂いた。
 大石は、数歩よろめき下がる。胸元の傷をおさえ、
「村雨丸さえなければ」
 とうめいた。
 だが、仁右衛門もまた追わない。伏姫が、胸元で叫喚していたからだ。
(毒をすったか)
 仁右衛門にも影響はあった。が、仁の珠のおかげか、毒はたちまち中和していくようだった。
 大石が、刀を拾った。先刻、スナイドル銃とともに、仁右衛門が落としたものである。
 倒れていたちゅ大法師が、かすむ目を瞬かせながら、
「義の珠を奪え! あれは近藤殿の物だ!」
「なんだと?」
 仁右衛門は伏姫をなだめつ、じわりと大石との距離を詰める。
「貴様、近藤さんを裏切ったのか」
「裏切っただと!」
 大石が激怒した。その語調には強い恨みがある。口元から、ガブリと血をあふれさせながらも、波打つような怒気を放った。
「俺をだましたのは、あ奴らではないか。国のためと、祟り神と戦い、穢れのみは俺たちに負わせた! 結果をみろ、幕臣になって何が残った! 今では、国にすら追われておるではないか!」
 仁右衛門とちゅ大法師は動けなかった。大石の声に何者かの胴張り声が重なった。それは、裂けた大地の奥深くから轟くような、力強くも不吉な声であった。
「いかん、祟り神に飲まれおった」
 ちゅ大法師は錫杖をズブリと地にさし、指をからませ次々と印を結びながら、呪文を唱えていく。
 大石は苦しみもだえながら、天に向かって吠えた。辺りの桜が緑葉を揺らし、その身につけた水滴をバッと散らしていく。
仁右衛門はその邪気におされて、蹈鞴を踏みつつ、数歩押し下がる。
 大石が恨めば恨むほど、祟り神はその心を喰らっていく。大石の精神は祟り神と深く結びつき、もはや逃れるすべはなかった。心のはるか奥深く、深海よりも深い地の底から、地鳴りが轟いてくる。それは言葉というよりも、祟り神のもたらすより激しい感情であった。
 都で大石をむしばみ続けた穢れの数々が、肉体に残ったわずかな魂、その僅微な欠片を、いま、飲み込まんとしていた。
 大石の四魂は、乱れあらぶる。祟り神の巨大な御霊の前で、その四魂は、波にさらわれるあぶくのごとく、無力であった。呪詛に引きちぎられんとする魂を、すんでの所で鎮めているのは、近藤より奪った義の珠でしかない。だが、その堤は、あまりに非力で、蹴破られる寸前である。
 悪気(あっき)が腕の霊絡を駆け巡ると、六倍にも醜く膨れ、耐えきれぬ肉が裂け、噴血が暑気払いの打ち水のように辺りを打った。

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