新撰組八犬伝 ~ 第一輯 ~

    十七

 この大犬はどんな霊力に守られているのか、祟り神の毒素にも、なんら影響を受けていないようであった。ブルブルと体を振ると、その身にまとわりついていた呪怨はあっという間に飛び散って、あとはなんの痕跡も残さぬのであった。
『伏姫は無事か?』
 犬が口をきいたので、仁右衛門は動揺した。声を出したのではなく、頭のなかに響いたのだと気がついた。
「ちゅ大法師がつれている」
 とうなずいてみせた。
 八房が少しこちらをみ、
『お主、仁の珠の犬士か』
 新兵衛が倒れているであろう方角に首を向け、やがて、悲しげに頭をたれた。それを振り払うように顔を上げ、
『輪王寺宮があぶない。あやつと争っている暇はないぞ』
 宮様が、と仁右衛門も驚いた。寛永寺門跡――輪王寺宮は、東叡大王、ともよばれている。慶応三年五月に江戸に下ったばかりである。このとき、若干二十一才であった。
 上野の他、日光山輪王寺門跡を兼務し、ときに天台座主でもあった。仏教界における最高権力であった。
 輪王寺宮門跡は、世襲制ではない。だが、宮家のひとつとされ、身分は僧侶でありながら、皇族である。
 三山管領宮――
 寛永寺の貫主に、このような権威を持たせたのは、偶然ではない、とは聞き知っている。もし、京の天皇を擁して謀反の起こったときは、江戸幕府が擁立するための皇統を、関東におかねばならない。東叡山におられる親王殿下――噂めいたその話が、こと幕末においては現実味を帯びてきた。実際に、輪王寺宮を天皇におしたて、西軍に対抗しようと動く者たちはいたのである。
 だが、そうなれば、日本は真っ二つに割れる――
 号令をするはずの慶喜は、上野を離れている。輪王寺宮を、東の天皇に。それを実行する権限のあるものは、彰義隊にはいない。
「宮様を弑するというのか? それは官軍の動きなのか――」
 だとすれば、とんでもない話だ。
 仁右衛門は、祟り神と化した大石をみた。
「だが、大石は近藤さんの義の珠を持っている」
 あの珠を取り戻す必要がある、と仁右衛門が言うと、八房は器用に驚いた顔をして見せた。
『祟り憑きが、犬士になれるはずもあるまい』
 見間違いではないのか、と八房も疑う。
「だが、あの珠は生きているぞ」
 義の文字が確かにあった、と仁右衛門は言った。
『宮がまだ林光院にて結界を張られておる。あの祟り神は、ここで調伏せねばならん』
「逃げておられないのか?」
 輪王寺宮は影武者をあえて落とし、天野八郎らはこれを追ったというのである。
 とすれば、確かに時はない。
 仁右衛門は、義の珠を使えば、沖田の命は救えるのではないのか? と考えたのだ。信の珠は自分の命を救った。沖田は、義の珠の持ち主ではないかもしれない。だが、宝玉は、大石に対しても、祟り神を抑える役目を果たしている。
「あの珠がいる」
『輪王寺宮を守らねば、上野はおしまいだ』
「両方救う。文句はあるまい! 手を貸せ!」

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