新撰組八犬伝 ~ 第一輯 ~

    八

 見知った顔、であろう。
 男は、江戸も江戸の者。日野の佐藤道場に出入りしていた男で、その後、近藤の隊士募集に従って、新撰組に入隊した男である。
 頬はこけ、髭が伸び、人相がずいぶん変わっている。だが、太い眉の下にすっと伸びた切れ長の目をみて、仁右衛門には何者かわかった。
 天然理心流を学んでいるが、元は小野派一刀流。
 腕は、立つ。
「お、お前は……」と仁右衛門は、もう一度言った。「大石鍬次郎ではないか」 
 甲州で死んだのではないのか、と仁右衛門は問うた。
 流山で参集したとき、この男はいなかった。みな、勝沼で命を落としたと思ったのである。
 前身は、大工であった男である。
 多摩の出稽古時代に、多少顔を合わせていたから、互いに認知してからは、ひどく長い。
 仁右衛門は手を合わせたこともなければ、ろくに話したこともない。土方の口ぶりからはあまり気に入っていないらしく、自然仁右衛門から近づくことはなかった。
 が、ある種の人物ではある。京に上ったのちは、あれよあれよという間に、人斬りとよばれる存在にのしあがった。
 功名心が、よほど強いのだろう。
 大石は、足下の老人に刺さっていた刀を、ぐっと抜いた。老爺は、ピクリともしない。絶命した、と見えた。
 仁右衛門は、銃床にそえた左の手を、そっとなでるようにまわした。雨で滑る。合間の水気を、とろうとしてのことだった。そのまま銃口は大石に向け、ピクリともしない。
 大石、無言――刀は重みに任せるように、水のたつ泥濘に落としている。
 あいた左の手が、そろそろと赤子に伸び――
「動くなら、お主の頭蓋を飛ばしてやる」仁右衛門は強(こわ)い声で言った。「その子から離れろ……」
「奥村――仁右衛門、だな」
 大石はゆっくりと言った。手の動きは止まったが、赤子の上にかざしたまま上げようとしない。頬は痩せこけ、全身の肉が落ちている。ここまでの苦闘を物語っているかのようだった。
 仁右衛門はゆっくりと引き金の指をあげ、また沿わす。指のこわばりをとるためだったが、血の気が失せて、自由がきかなくなったこともあった。
 弾は二発……が、不発でないとは限らない。まして、相手は人斬りの異名をとった鍬次郎である。
 外せば……何が起こるかわからない。
 かすかに吐息をつき、
「ここで何をしている」
 と、問うた。
 大石が、少し唾を飲むような仕草を見せ、
「異な事をいう……わしは……」
「彰義隊士ではあるまい」 と決めつける。「その赤子、よもや貴様の子ではあるまい」
 眼光が射るように大石の眉間に集まっていく。引き金の指が落ちかけたとき、「新兵衛どの!」
 と声がした。
 仁右衛門は、思わずそちらに銃口を向ける。しまったと思った。大石は刀を地面に突き立てると、赤子を両の手で掻き抱くようにして懐に入れたからである。
 仁右衛門は、新たに現れた男に驚いた。頭のはげ上がった入道だ。手には錫杖をもち、僧兵ととれなくもないが、武器と見えるものは他に何も持っていない。
 戦場の死体を、拝みにきたと思われてもおかしくない格好だが、梢をつかんばかりの巨体である。
 仁右衛門が、男に気をとられたのは一瞬であった。
 大石に銃口を振り向け、飛下がる。両者から距離をおいてジワジワと下がるようにしながら、どちらも射程におさめられるようにした。
 二人は、仁右衛門の殺気に気圧されたように、動きを止める。連射のきくスナイドルであったのは、幸い。だが、僧を撃てば、はしこい大石である。
 たちまち逃げ去ってしまうに違いない。
「貴様。何者だ! 薩長腹の手の者か!」
 仁右衛門は大石を見たまま言った。
「銃口を奴に向けろ!」と入道が言う。「伏姫を奪われるわけにはいかん」
 ふせひめ? と仁右衛門は心中に問うた。あの赤子のことか?
「大石が、なぜその姫を狙うというんだ」
 と切りつけるように言う。大石から、答えは引き出せまいと知ってのことだ。が、その大石は、
「こやつは、表の家人だ」嘲るように笑う。「何も知るはずがない」
 仁右衛門の目は、大石に釘付けとなる。大石は顔をさくように唇をつり上げ、壮絶に笑っている。
(表の家人だと?)
「ふふふ」大石、目だけは笑っていない。「お前がここにいるということは、沖田のやつはくたばったか。馬鹿な奴だ」
「どういうことだ?」仁右衛門は息をのんで言った。もはや銃口は、大石にしか向いていない。「俺が沖田と一緒にいたことをなぜお前が知っている――歳さんに会ったのか?」
 大石は身をのけぞらせながら高笑いをした。「だから、貴様らはバカだと言うんだ。かたや、近藤、かたや幕府に踊らされ、それで何が残ったあ!」
 仁右衛門は、胸裡にあがった疑問に、心を乱される。銃口が、わずかに下がった。
「二人を同時には撃てまい」大石はわざと、袂をあけ、赤子の顔が見えるようにする。「その傷で当てられるか、試してみるか!」
 仁右衛門は大石の言葉を聞いてはいなかった。大石の開けた袂、そこにちょうど赤子の拳程度の玉が、首から紐でぶら下がっていたからである。
 ギヤマン、でもない。その玉は、自ずから、まばゆいほどの輝きを放っていたからだ。
 僧は目を剥いて言う。「貴様、貴様が、なぜ義の珠をもっている!」
 赤子の泣き声はもうしていない。目が見えるとも思えぬ大きさだが、ジッと宝玉を凝視して、身じろぎもしないのである。
 大石は、その赤子の上で、カッと、犬歯を見せた。「今はわしのものだ、ちゅ大法師」
「二人とも動くな!」
 仁右衛門は体を回して牽制する。
 ちゅ大法師とよばれた男が、かまわず前に進み出た。
「祟り憑きに落ちたか、鍬次郎!」
 仁右衛門は動けない。二人の動きを封じるには、彼はあまりに傷つきすぎていた。それにちゅ大法師という名、彼はその名に聞き覚えがあった。
「わしは、力を手に入れた――みろ、犬江新兵衛もあのざまだ」
 犬江新兵衛だと?
 ふいに、仁右衛門は合点がいった。この二人はさきほどから、馬琴の戯作の名を口にしていたのだ。
馬琴はこれより、二十年と昔に死んでいるはずである。だが、彼の残した戯作――南総里見八犬伝は、今も残り続けている。
 江戸期最大の作家にして、その最高傑作は、絵手本、紙芝居、歌舞伎、浄瑠璃など、様々に形を変えて江戸に浸透していたから、仁右衛門もおおよその物語は知っている。
伏姫とは、あの伏姫か――?
 仁右衛門は血のにじむ唇をかみしめた。腹部の弾丸は、内臓に達したと見えた。
 気力の尽きる前に、あの赤子を救わねば――
 大石は、
「動くな!」
 とわめいて、ちゅ大法師を牽制し、懐の赤子に、切っ先を向ける。
「伏姫を死なせたくはあるまい……それともまた生まれ変わるのを待つか?」
「卑怯者め」
 仁右衛門は大石よりも上に向けて、引き金を引いた。雨中に硝煙が、ばっと散った。仁右衛門は、銃の反動に耐えきれず、どっと尻餅をついた。
 仁右衛門の放った弾丸が、大石の少し頭上の幹を砕いた。
 大石は、破片を避けるように身を下げる。
 ちゅ大法師が、空を飛ぶようにして、濡れた大地を走った。錫杖にて打ちかかると、大石は左手で伏姫を抱えたまま、右手の刀で受けた。
 六つの遊環が揺れ、激しく鳴る。ちゅ大法師はその膂力を利用して、錫杖を押し下げようとしたが、びくともしない。
 ちゅ大法師は瞠目した。
 自分をにらみあげる大石の全身に、炎に似た痣が、真っ黒な入れ墨のように、浮かび上がってきたからである。

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