新撰組八犬伝 ~ 第一輯 ~

    十八

 膠着した黒門口の戦いを決着させたのは、肥前の大砲隊が加賀藩邸に据えた、アームストロング砲二門の砲撃であった。
 後装式で、連射のきく代物だ。砲身内に螺旋状の溝を施し、炸裂砲弾に回転をくわえて飛ばしたから、その正確性も飛距離も、旧砲をはるかに凌いでいる。
 この当時、十数門が入ってきていたが、上野に向けられたのは、肥前藩が、からくり儀右衛門こと、田中久重にめいじて、独自に制作したものである。
 大村の許可をうけて、この最新鋭が火を噴いたのは、正午ごろのことであった。その一撃は吉祥閣を燃え上がらせ、山内の木々、石塔を粉砕し、彰義隊士を芋の子のように斃してまわった。
 昼の八ツ半(三時頃)を過ぎて、本郷台の砲は、どれも沈黙している。諸藩の主力は、上野本山に拠点をうつし、肥前兵もまた、この新式砲を守る者たち以外は、離れて居ない。
 その加賀藩邸に、本陣にいたはずの総督大村益次郎が姿を見せたのは、そんな折りであった。

    十九

 女は、最初比丘尼と名乗った。人を手玉にとるような、それでいて人好きがして、しばらく接すると離れがたくなるような、そんな不可思議な魅力をもった女だった。
 女――としては、よほど大柄である。当時の日本人はおしなべて小柄だが、男に体格のみ劣っているのは、変わりがない。が、この女、六尺は優にあるだろう。その黒々と生命力にみちた髪は、膝元まで届いている。
 手足が、妙に長い。
 このような女子、西洋の厓(はて)にも見たものはなく、寡少の風聞もきかない。と、西洋人嫌いの大村なら、思ったかもしれない。通常の折の、大村なら。
 大村は、その女の、本当の名を知らない。
 なるほど、防長二州を救ったかもしれない。だが、女のもたらしたのはさらなる混乱だし、ために、藩の有為無為の人材を、次々死なせてしまった。高杉晋作とてその一人だ。
(この女は人を狂わせすぎる)
 と大村は思っている。今では彼ですら、この女の術中にはまった一人だ。女はあまりに妖艶で魅惑に満ち、一度はまってしまえば、二度と抜け出せぬ深い泥沼に似ている。利用しようとして、その実、こちらのすべてを吸われ尽くしているような……。
 今大村は、奇兵隊の一隊を率いて、加賀藩邸を目指している。あそこには、肥前の兵が、僅かしか残っていない。他の藩兵は、すべて移動するよう、彼自身が令を出していたからだ。だが、それも、元々の自分の発案であったかどうか……
 女は江戸に入れないといって、ついてこなかったのだが、これまで同様、夜な夜な彼の枕元にたった。女は毎夜毎夜手練手管を尽くし、今ではその事が苦痛ですらあった。
 昼間なら解放されるかと思ったが、比丘尼は、他者には見えぬ霊魂となって、のべつまとわりついてくる。益二郎の周囲をとびまわり、悪魔のような考えを吹きこんだ。
 益二郎は言った。
「上野の大勢(たいせい)は決したではないか。なぜ無用な砲撃がいる」
「馬鹿をお言いでないよ。上野の連中はまだ屈しちゃいない。反撃の機会をうかがってるんだ。戦が長引いたら、そうなったらどうなる。地球中から軍艦が来ちまう! 馬関戦争を忘れたのか!」
「彼らは、彼らは文明国だ!」
「夷狄がなんで信じられる! あいつらはお前らのことを、牛か馬のようにしか思っていない!」
 それは貴様もだろう! と益二郎はわめきたかった。
「高杉が上海で何を見たと思う! お前にも見せてやろうか。海の向こうで、何があったのか」
 と比丘尼は袖で目元をおおい、さめざめと泣いた。
「江戸を取りたいんだろ?」
 と女は袖から目だけを覗かせ、小ずるく言った。
「江戸をとって、毛利の殿さんを将軍にしてやりなよ。村医の子どもだった貧しいお前だが、立身出世も思いのままさ。お前以上に頭のいいのが、この世にいるのか? みろ、まわりの兵どもを。お前に比べたら、虫けらじゃないか。お前こそが、人だ――」
 女は、唇が触れるほどに耳朶に近づき、熱くささやく。
「そうすりゃ、イネのやつだってお前になびくさ」
「なにを――」益二郎は真っ赤になった。イネはシーボルトの娘。女医である。「わしは、わしはそのようなこと」
「いいんだよお」女は益二郎にしなだれかかり、その優雅な指で胸をついた。「正直になりな」
 ぞくり、とした。益二郎は、反論もできずに立ち尽くした。
「あちこちで御家人どもが集まってる。あいつらは、いくさに参加するそのときを、眈々ねらっていやがる。官軍に弓引くのは、主家への反駁だとわかってるからね。下手すりゃ切腹だ」
 女は無遠慮に笑い声を上げた。若々しくて、下卑た笑いだった。
「叩くんなら、大将のいない今だろう。がんじがらめの八万騎に何ができる。だけど、それには条件があるんだよお」
 と女は両の拳をつくって、益二郎の胸をつく。
「あいつらにきっかけは与えちゃいけない。一分だって与えちゃいけない。江戸の外に出た脱走部隊だって、いつ戻ってくるかわからん。すぐそばまで来てる奴らもいる」
 と女が言ったので、益二郎はぎょっと女のさす方角を見た。この女は千里眼というか、不可思議な術を持っているからだ。
「そうなったらお前たちは袋だたきだ。夜までに上野を片付ける必要があるとは、お前が言ったんだろうが!」
 女はまるで鬼女である。
「やれ! やれ! 殺しちまえ! あの大砲が居るんだ! ぶんどっちまいな!」
「肥前は……」
「江戸三百年の守りを、お前たちが崩すんだ! 何をためらう! 烏合の衆はお前らのほうだ! 肥後も肥前も、信用できるのか? 肥前の妖怪やろうは、ギリギリまで兵隊を出し惜しみしたんだぞお! お前らの塗炭の苦しみを、あいつらはわかっちゃいないんだ」
 その苦しみを生み出したのはお前だろうが! 益二郎は今にも卒倒しそうだ。
「お前たちは、引っ返せないとこまで突っ走っちまった。わかってるだろう。天下の孤軍になりたくなかったら、勝ちを拾うんだ!」
「江戸百万の民草を焼き払うことになってもか」
 益二郎は、やっとそれだけを言った。
「そうさ。民草なんて、日ノ本にはまだまだいる」女は幼女の無邪気さをもって、恐ろしいことを言った。「お江戸一つの犠牲ですむなら、安いもんだ」
「お主は、お主は恐ろしい女だ」
 比丘尼は満足げにうなずいた。「本当にいい女ってのは、恐ろしいもんなのさ」

 大村は肩を揺さぶられ、ハッと顔を上げた。女は姿を消していた。大村は雨に打たれていた。目の前には、二十名ばかりの隊士がいて、彼の下知を待っている。
 兵らは、呆然と立ち尽くす大村を、不審げに見ている。
 いつも、こうだった。彼が、女と長々しゃべったところで、まわりでは少しも時間がたっていないのだ。まるで、桃源郷――あるいは黄泉の国にでも、つれこまれていたかのようだ。
 とまれ、この連中は、博徒が集まった部隊である。学がない。正規の藩兵よりは、よほど扱いやすいと思ってつれてきた。
 奇兵隊は、身分に関係なく兵を募ったように思われているが、その実、内側では、身分職業によって部隊わけがされ、階級が明確に存在していた(維新後の暴発につながっていくことになる)。それとて、あの女がすすめさせたことだと、今の大村は知っている。
「肥前は、肥前藩は信用ならん。奴らは薩長に砲を向けるつもりだ。あの砲の威力は知っていよう」
「あの砲を、味方に向けるってんで?」
 と少し年嵩の男が口を切った。みな肥前が裏切るときいて戸惑っている。
 肥前佐賀というのは、九州の片隅で力を蓄えつづけた特異な藩である。薩摩とおなじような鎖国体制をしき(事実、佐賀藩の抱える工業地帯は、国内よりも、異人たちの間で評判となっていた)、東洋諸国はおろか、西洋でもおいそれとない工業施設を築きあげ、幕末の藩兵の中に、無欠の洋式部隊として、突如として躍り出てきたからでる。
「あれが、敵にまわっては、戦況は一転しかねん」
 みなは、この恐るべき知謀を持つ参謀の顔を、穴の開くほど見つめ、ゴクリと生唾を飲んだ。
「おれたちゃ、どうなるんで」
「それは、これからわかる」
 大村たちは、無人のように静まりかえった加賀藩邸に踏みいった。砲は二カ所。一門は、支藩である富山屋敷に据えられている。
 大村は部隊を二つに分け、一隊は富山屋敷に走らせた。
 頭の中では、比丘尼の、いいぞやれやれ、という励ましの声が、呪いのように轟いていた。

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