新撰組八犬伝 ~ 第一輯 ~

    二十

「八房あ!」
 祟り神の邪心が、仁右衛門の体を打った。
 大石は、身の内に怨霊を住まわすことを、嫌うように罵声を上げている。祟り憑きとはいえ、生身である。目より涙の代わり、口よりは唾の代わりに血を垂らしている。
 義の珠をつかっても、耐えられないのだ。
「また我らの邪魔をするか、犬めが!」
 大石から、はじけるように出でた怨霊は、一つに集い、たちまち巨大な荒御霊となった。
 大石が腕をふった。仁右衛門は巨大な腕に身を捕まれたように感じた。じりじりと大石の方に引きずられていく。まるで、巨大な磁力に、引きつけられているかのようだ。
 八房もこの力を喰らっているのか、首輪をつけられた犬のように首をふり、うなる。
 仁右衛門は、不意に体が軽くなるのを感じた。足の裏から、温水のように暖かいのが、骨を伝って全身に広がっていく。ちゅ大法師が、地を突く錫杖の動きに合わせて、法力を送り込んでくるのである。仁右衛門は、全身の関節を固めるようだった呪怨が、身内から退くのを感じた。
「法師、俺のことはいい! 早く結界式を――!」
『見ろ――!』
 大石の足下から、真っ黒な穢土が周囲に波紋が広がるようにして、ざあっと波を立てながら、打ち広がっていく。
『だめだ、これでは上野の結界が崩れる!』
 仁右衛門と八房は、祟り神に斬りかかろうとするが、穢土を踏みつけたとたんに、総身が痺れ、仁右衛門は革靴の底を焼かれ、八房もまた、肉球を傷つけられて飛び退いた。
「くそ! 近づけない!」
 そのとき、背後にいたちゅ大法師が、三度錫杖を地面につきさし、両の指を組み合わせ、複雑な結界印を組んだ。古代語で何事や叫ぶと、ちゅ大の法力は言霊となって、大石に向かって押し寄せていく。地面は波打ち、広がりゆく穢土とぶつかり合った。
 仁右衛門は、ちゅ大法師の、力道の跡を追おうとした。が、中途で足をとめ振り向く。
『どうした仁右衛門!』
「北になにかある」
『あれは鬼門だ』
「ちがう! 誰かこっちを見ている!」
 八房は驚いた。仁右衛門は、犬士となったばかりだというのに、宝玉との結びつきを強め、その力を使いこなそうとしているのだ。
(この男、もしや里見の血を、色濃く残しているのか――)
 上野の結界が崩れれば、むろん鬼門は開くことになる。魑魅魍魎――北で手ぐすね引いて待っているのは、その手合いだろう。
 仁右衛門が村雨をきらめかして迫ると、祟り神は伸腕の術で腕を伸ばす。五本のかぎ爪が頭蓋を断ち割ろうとしたが、仁右衛門も右に身を沈めてこれをかわす。さらに数歩――仁右衛門は、ほとんど激突するほどの勢いだ。大石は伸ばした腕を引き戻し、かつ左の手を、下からすくい上げるようにして、彼の喉笛を手刀で狙った。
 八房がその右腕にくらいつき、仁右衛門を抱えこもうとするのを防いだ。仁右衛門は右の胴をすり抜けつつ、体を鋭く回し、大石の右胴をかっさばいた――かに見えた。
 村雨が切り裂いたのは、大石が胴に回した呪怨のみであった。大石は沈み込むようにして、右の脇下からさきほどの手刀をおくりこんできた。
 仁右衛門は躱しきれない。鋭く伸びた五本の爪が、半身になっていた彼の左肩口に食いこんだ。
『仁右衛門!』
 爪を食い込ませたまま、片手斬りに村雨丸をふり下ろす。
 大石の左腕は、前腕の中程から、真っ二つに断ち割れた。
 傷口から、噴血が、ばっと上がる。地面に飛び散ると、穢土すらも腐り溶かしていく。
 祟り神が罵声を上げたかと思うと、傷の小口から呪怨が吹き出し、真っ黒な腕に変わった。
 同時に、大石は延ばした右の腕をムチのように振るい、八房の巨体を投げ飛ばした。
 仁右衛門はそれどころではない。左肩に刺さった手がドロドロに溶けたかと思うと、赤黒い肉塊に変わって、肩に喰らいついてきたからだ。
(――いかん)
 と仁右衛門は鞠のようにはね飛び、大石鍬次郎から距離をとった。その瞬間、聞いたのである。ヒュルヒュルという、独特の飛翔音を。
 仁右衛門が振り向きざまに着地をすると、燃えおちんとする文殊楼に再び榴弾がおち、着発信管が威力を発揮し、真っ黒にすすけた柱を、幾本も突き崩すのが見えた。
 彰義隊の隊士と、上野を、散々に引き裂いた薩長の新式砲が、またぞろ火を吹き始めたのだ。
 大石が、刀を上段に上げて、走りこんでくる。仁右衛門は、腕がきかない。左腕をぶら下げたまま、拝み打ちをすんでのところで躱したが、刀身を呪怨が取り巻いており、彼の前半身を、嬲るように薙いでいった。
 呪怨の毒気にやられて、仁右衛門の体は大きくはね飛ぶ。
 その間も、榴弾が境内にいくつも落ちて、爆発音を響かせている。
 仁右衛門は地面に転げ、穢土まみれになっている。大石が、とどめを刺そうと迫る。八房が、その背に体当たりをくれて転がした。
 仁右衛門の目の前に、悪神と霊犬が転がってきた。
『こいつの動きをくいとめろ!』
 八房の声に、仁右衛門はとっさのことだ。村雨丸で、大石の右胸を、地面にむかって突き通した。大石は標本のように食い止められて、呪いの声を上げている。そこへ、ちゅ大法師の法力が、四方からばっと迫った。
 三人の周囲から穢土が退き、大石の体からは、呪怨が取り除かれていく。村雨丸の貫くその傷口から、怨霊がいくつも抜けでる。仁右衛門の左肩にとどまっていた穢肉もまた、塩に打たれたナメクジのように、力をなくして、ズルリ、肩より落ちていく。
 ドオン、ドオン、と、下っ腹にぶちかますような音が、池の方角から轟いてきた。瞬時もおかずに、またヒュルヒュルという榴弾の音。さほども遠くもない地面をどっと切り崩し、古木も下生えも、まとめてなぎ倒していく。
「砲弾だ! また撃ってきたぞ!」
『これは防げんぞ!』
「法師、急げえ!」
 と叫んだ仁右衛門の目前で、ちゅ大、背後の樫に榴弾が打ち当たり、法師が破片をくらって、どっと倒れこむのが見えた。
『伏姫!』
 八房が走り戻っていく。
 意識をなくしたのか、ちゅ大法師の法力が引き潮のように退いていく。
 仁右衛門は、村雨の束に反発力を感じた。傷口から抜け出ようとしていた怨霊が、形を変えて村雨丸にまとわりつき、刀身を押し返そうとし始めたのだ。
「こいつ、大人しくせい!」
 仁右衛門は自由になった左腕を束にまわし、全体重をかけ、村雨丸をおしもどそうとする。
「仁右衛門! 貴様の名、覚えたぞ!」
 祟り神は半ば変化がとけ、狼の顔と大石の顔が混じり合ったようになっている。悪神は、地面に縫い止められたまま、虫のようにもがき、仁右衛門もまた、逃すまいと刀をねじった。
 が、この闘争も、一発の榴弾が、二人の側近くに落ちることによって、食い止められた。
 仁右衛門の体が空を飛び、山の斜面に落ちていった。
 大石もまた榴弾の礫を喰らい、無言の内に倒れ伏している。
 仁右衛門は抜き身をもったまま、急斜面を這い上がる。
 顔を覗かせると、境内に喊声がわきおこって、北の方角からはせ参じる部隊が見えた。
「か、官軍だ」
 おそらく砲声に気づいて、駆けつけてきたのだろう。刀の構えを見るところ、薩摩の侍らしい。
『仁右衛門』
 と下から声が掛かった。八房が斜面をまわりこんでいた。口に伏姫をくわえ、背にちゅ大法師の巨体を負っている。
『ついてこい』
「大石はどうする?」
『奴は逃げた。輪王寺宮の元に、向かうつもりやもしれん』
「先を越されるぞ。どうする気だ?」
 八房は顔を上げて、斜面の先をみた。社がある。
『あそこに地主神がおるはず。気に食わん狐どもだが、力を借りよう』

 

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