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幕末 雑学

藩というまぼろし

小説では、つい薩摩藩長州藩と書いてしまいますが、藩という呼び方は江戸時代にはあまり使われていませんでした
藩という呼び方が一般化したのは、明治元年に政府が、各大名が支配していた地域を、藩と呼称したからです
明治四年に、藩は消滅する運命ですので、藩と呼ばれたのもわずかな期間でした。

江戸三百藩と言いますが、改易、とり潰しがありました。逆に、跡継ぎ以外に、知行を分ける分知もあって、延べでは、五百ほど存在したそうです。一万石以上が大名になりますが、幕府から直臣と認められなければ大名ではありませんでした。

家臣に、一万石以上の領地を与える大名も存在しましたが、それらの支藩すべてが大名であったわけではないと言うことですね

七人の黄門様

新選組とは、関係ないのですが、有名な水戸の黄門さまは、二代目。
水戸黄門 という呼び名は代々受け継がれていました。
七代目水戸黄門が、徳川慶篤。

黄門さまは、七人いたんですね

江戸と御府内

新選組八犬伝 では、冒頭にスナイドル銃が登場します。この時期は、南北戦争が終結。大規模な戦争をしていたのは、日本だけでした。先込め旧式銃から新式の元込め銃まで、でそろい、兵器の見本市のような状況でした。東北諸藩は、一部を除いて、旧式が多かったようですが。

伝習隊で訓練を受けた仁右衛門が、スナイドル銃を使いこなした可能性は、結構高いわけです。
幕府脱走兵は最新装備だったわけですね

作中で御府内という言葉が出てきますが、時代によって変遷したため、混乱していた時期があったようです
当初は二里四方。城を中心に、約八キロを範囲としていました
明暦の大火後、江戸は拡大していき、延宝年間に四里四方となりました。御家人旗本は、府内の外に出るには、役所への届出が必要でした。

罪人の所払いとなると、千住、板橋、品川、内藤新宿、本所、深川を江戸とし、これより内を立ち入り禁止となっています。
このため、御府内は、どこまでなんだ?
と疑問を持った人は、江戸人にも多くいたようで、この問合せに窮した「牧助右衛門」という人物が、幕府に申し入れを出したそうです。

解釈が多様で、自分にもよくわからない。決めてくれ、というんですね。

幕府も評定所で正式な範囲を定めます。そこで生まれたのが、朱引でした。1818年のことでした。
この、大江戸の範囲を、朱引内、御府内と、呼びました。
その外が、朱引き外、そのままですね。

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