孝明天皇の暗殺

1866年

慶応二年十二月二十五日のことであった――

孝明天皇、崩御さる――享年は三六才。時代は幕末の動乱期のただ中である。

文献によると、その死因は病死。

定説では、当時児童丸という稚児が痘瘡にかかった。稚児は退出したがその後快癒したため参内。余毒が、感染したといわれている――

ところが、崩御した直後から、病死を疑う声は上がっていたのである。

その裏付けの一つは、病状の変化が不自然であったこと――御典医の記録からも、陛下の病状とその進展は、痘瘡と思われた。その症状は悪化したものの、一旦は快方に向かっており、突然の急変により死にいたることはら通常痘瘡の症例からは考えられない。

また、宮内庁列編纂の『孝明天皇紀』には、御典医の記録が載っているが、肝心の二十五日の症状の変化に関する記録がない。公の記録に天皇の最後の様子が記載されていないのである。

公式記録ではないが、側近であった中山忠能の日記には、

『九穴より、脱血し』

とある。

ここでいう九穴とは、口調、両目、鼻、肛門、尿道のことで、およそ痘瘡では考えられない症状である。

中山は同日記の中に老女、浜浦の手紙をわざわざ書き写している

『このたびの、御痘全く実痘には、あらせられず、悪瘡発生の毒を献じ候』

また崩御の発表は、二十九日であり、四日間ふせられていたことも、不可解――

天皇毒殺の噂はすぐたった。死因は毒殺。犯人の名前まで上がっている。岩倉具視である。天皇には筆をなめる癖があり、岩倉はそれに乗じて、穂先に毒をふくませた筆を献上したというのである。

孝明天皇は、強烈な攘夷主義者ではあったが、基本的には幕府との、公武合体を望んでおられ、死の四ヶ月前には、倒幕派の公卿を処罰法していた。彼らは政権を奪い、朝廷による新政権の樹立を願い出たのだが、このことを裏です操っていたのは、岩倉だといわれている。

孝明天皇の死後、窮地にあった岩倉は政界に復帰している。そもそも岩倉が天皇の毒殺のを目論んでいるという噂は以前から流れていたもので、自邸に脅迫状を投げ込まれる事態にも発展していたのである。

新政権の重鎮となった彼は、その疑惑を追及されることは、ついになかった。だが、天皇暗殺を疑う研究者は、今も存在し、その首謀の筆頭には、岩倉具視が、上がっている――

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