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【朗読 新書太閤記】その四十二「本能寺前夜譚①」  吉川英治のAudioBook ナレーター七味春五郎 発行元丸竹書房

 

 

 

新書太閤記

連載第四十二回 「白河越え」

作者と作品について

作者:吉川 英治(よしかわ えいじ)

1892年(明治25年)- 1962年(昭和37年)。日本の大衆文学を代表する小説家。神奈川県出身。本名は英次(ひでつぐ)。『宮本武蔵』『三国志』『私本太平記』など、歴史を題材にした数多くの国民的ベストセラーを執筆し、「国民文学作家」と称された。その作品は、平易でありながら格調高い文章で、幅広い読者層から支持を得ている。1960年、文化勲章受章。

作品:『新書太閤記』(しんしょたいこうき)

吉川英治が1938年(昭和13年)から新聞連載を開始した歴史小説。豊臣秀吉の生涯を、織田信長に仕える以前の若き日から天下統一を成し遂げるまで、生き生きと描いている。本作は、従来の講談や立身出世物語としての秀吉像に、人間的な深みと魅力を与え、新たな「太閤記」として絶大な人気を博した。戦国時代の動乱を背景に、秀吉をはじめとする武将たちの葛藤や野望、人間模様が巧みに描出されている。

あらすじ

坂本城にて、安土から戻った進士作左衛門は、光秀の失脚を嘲笑う安土の空気と、明智家の領地替えの噂を報告し、家臣団の憤りを増幅させる。決定打となったのは、中国出陣の軍令状であった。そこには、明智光秀の名が同格以下の諸将の下に記され、かつ羽柴秀吉の指揮下に入るよう命じられており、家中はこれを最大の侮辱と受け止める。

作左衛門はさらに、信長が僅か四、五十名の手勢で二十九日に上洛し、本能寺に宿泊するという決定的な情報を光秀にもたらす。この報告を受け、光秀の謀反の決意は固まる。彼は夜半に密かに四方田又兵衛を再び安土へ送り、情報の最終確認を命じた。翌日、光秀は坂本城を出立し、白河を越えて居城・亀山城へ帰還。道中、そして城に着いてからも、表面上は平静を装い、家族との団欒を楽しむが、その内面では天下簒奪の野望が渦巻いていた。そして彼は、表向きは戦勝祈願と連歌会のためとして、運命の地となる愛宕山への参籠の準備を進めるのだった。

主な登場人物

  • 明智 光秀(あけち みつひで):度重なる侮辱と、信長の手薄な状況を知り、ついに謀反の決意を固める。
  • 明智 光春(あけち みつはる):通称、左馬介。主君の苦衷を察しつつも、正道を踏み外さぬよう心を砕く。光秀を見送る。
  • 進士 作左衛門(しんし さくざえもん):安土から戻り、明智家に対する悪評と屈辱的な軍令状の件を報告し、家中の憤激を煽る。
  • 四方田 又兵衛(よもだ またべえ):光秀の特命を受け、信長上洛の最終確認のため、密かに安土へ走る若武者。
  • 明智 光忠(あけち みつただ):光秀の従兄弟で八上城主。亀山城にて光秀を迎える。
  • 斎藤 利三(さいとう としみつ):通称、内蔵助。亀山城の留守居役の筆頭。
  • 煕子(ひろこ):光秀の夫人。夫の苦悩を知らず、家庭を守る賢婦人。
  • 里村 紹巴(さとむら じょうは):光秀が愛宕山での連歌会に招いた連歌師。

白河越え

 この日、明智の家中進士作左衛門は、一小隊の従者をつれて、遅れ走せに、安土から坂本城へ引き揚げて来た。
 主人光秀の退去が、事遽かであったため、あとに残って、残務の整理や邸の始末をすまして来たものである。
 待ちもうけていたように、彼が旅装を解くやいな、一室に彼を囲んで、妻木主計、藤田伝五、並河掃部、四方田政孝、三宅藤兵衛、村上和泉守などの人々が、
「あとの情勢はどうか」
「御退去のあと、安土では、どんな噂が交わされておるか」
 などと膝つめよせて訊ねた。
 作左衛門は切歯して云った。
「過ぐる十七日の御退去以来、きょう二十五日まで、わずか八日の間だったが、明智家の禄を喰む身にとっては、針の莚に三年もすわっているような辛抱だった。――あのあと俄かにがらんとした饗応屋敷の門外を通ってゆく安土の小身どもや町の者までが声高に――これが日向殿の空屋敷か、道理で腐った魚のにおいがする、こう不首尾とけちが続いては、もうきんか頭の光もここらで萎むであろうなどと憚らぬ雑言が、耳をふさいでも、朝夕に聞えて来るしのう……」
「それほど御不評か」
「安土の膝下に生きておる輩じゃ、たれひとり信長公の処置を、無理とも悪いともいう者はない。一に殿への誹謗ばかりだ」
「上層の面々には多少ものの分った人もあろう。そういう方面のうわさはどうか」
「いや、以後の数日は、ただもう大賓の徳川殿をもてなすことで、安土城内は持ちきっている。その徳川殿にも、急に饗応の奉行がかわったので、不審に思われたか、信長公にむかい――明智どのの姿が見えぬがどう召されたか――と訊ねられたそうじゃ。すると信長公は、事もなげに、あれは国許へ帰したと、眼のうちにも入れてないような御返辞であったという」
「…………」
 聞く者はみな唇を噛んだ。進士作左衛門はなお語をつづけて、安土の重臣間には、主人光秀の失意をむしろ快となす空気が多分にあること。また信長自身の胸にも、ふたたび昔日の寵遇はわが主人にないばかりか、明智家の領地までを、他の僻地へ移封させるお心がないとも断じきれないものがある。
 これも噂には止まるが、火のない所に煙は立たない。安土の奏者森蘭丸が、往年この坂本で戦死した森三左衛門の次男であるところから、ひそかに現在の美濃の領からこの坂本へ領地がえになりたい希望を抱いているし、すでに信長公からその黙約をうけているという沙汰すらある。
 で、このたびの山陰道への出軍令は、主人光秀に、その地方を攻め取らせて、現地の山陰にそのまま明智家を封じ、後あらためて坂本附近の――地理的にも安土のすぐ側にある――この要地は蘭丸へ下されるものではないかと観察している者も決して尠なくない。
「その証拠には」
 と作左衛門は、この十九日に信長から明智家に伝達された軍令状を例にひいて、さらに眦を裂いた。
 進士作左衛門が云い出すまでもなく、この十九日附け発令で、安土から明智家に手交された軍令状というものは、光秀のみならず全家中をして、憤怒せしめたものだった。
 いまその全文を見るならば、
この度、備中の国へ、後詰のため、近日、彼国に出馬あるべきに依り、先手の各々、我に先だって戦場にいたり、羽柴筑前守の指図を相待つ可き者也。
池田惣三郎殿 同紀伊守殿 同三右衛門殿 堀久太郎殿 惟任日向守殿 細川刑部大輔殿 中川瀬兵衛殿 高山右近殿 安部仁右衛門殿 塩川伯耆守殿
 天正十年五月十九日
信長判
 とある。
 かりそめにも軍令状に過ちのあるはずはない。また祐筆などの私情によって左右されるわけも絶対にない。信長公のさしずであり、故意なること明白であると、明智家の将士は、この廻状に接したとき、悲憤、怒涙をしぼって、
(御当家は当然、池田や堀などの上位であって、羽柴、柴田と同格に扱わるるのが、従来の慣いであった。――だのに、それらの諸将の下に、主君のお名を記し、あまつさえ秀吉の指揮をうけよというに至っては、武門に加えられる侮辱の最大なるものだ。饗応役褫奪の恥を、軍令状の中にまで及ぼし、明智家の不面目を戦陣にまで曝さるる苛酷なお仕打というしかない)
 と、恨み合ったものである。
 進士作左衛門は、このことが、やはり安土一般の人士にも、相当注意されているらしいと、自己の観察をつけ加えて、
「必定、領土がえが行われて、この坂本四郡は、やがて蘭丸へ下される思し召しであろうなどという風説の出所も、軍令状の表に示された格下げの御意志を、みなが敏感に読みとって、沙汰し廻るものと考えられる。……何しても、心外千万なことだ。無念というも云い足りぬ」
 語り終っても彼はなお幾たびも、膝にかためている拳を眼へやっては、暗然と、鳥肌のようになった面をそむけていた。
 折ふし黄昏れていたので、各々の居ずまいと壁を繞って夕闇がふかくたちこめ、その後は、たれひとり口をきく者もなく、ただ頬をつたう涙ばかりが白く見えたが、このとき大廊にあたって侍たちの跫音が聞えたので、さては、殿のお帰りと、人々はあらそって出迎えに出てしまった。
 ひとり進士作左衛門だけは、召しのあるまで、旅装も解かずにひかえていた。終日、山を歩いて戻った光秀は、風呂に入り、夜食をとってから、作左衛門を招いた。
 席には、左馬介しかいなかった。作左衛門はこのとき初めて、まだ家中には誰にも洩らしていない報告を一つつけ加えた。
 それは、信長が、いよいよ月の末二十九日に、安土を発向、京都に一泊して、直ちに西下するという日取の決定や準備の聞き込みであった。
 きょうはすでに二十五日。
 この二十九日には、信長が安土を立つと聞いては、光秀もさすがに、ここ七日間の逗留を顧みて、心をせかれずにはいられなかった。
「して、安土御本城のお留守居衆などの顔ぶれも決まったようか」
 作左衛門はそれに答えて、
「お留守には津田源十郎どの、加藤兵庫どの、蒲生右兵衛大輔どの、野々村又右衛門どの、丸毛兵庫守どのなど、御本丸守り、二の丸詰の方々まで、数十将におさしずあらせられたように承りました」
 聞き入る光秀の耳はその眸とともに、彼の聡明と観察の叡智を象徴していた。作左の一語一語にうなずきを与えながら、
「また、御発向のお供には」
 と、たずねた。
「誰々と、いちいち審かには聞き及びませんが、左右の御近臣数名と、お小姓衆三、四十人ほどお召し連れとのみ伺いましたが」
「なに、ただ四、五十名の軽装で御上洛とか」
 信長の発向としては余りに軽々しい。むしろ疑うべきだと、思い惑ったものか、光秀のひとみはそのせつなに、燭を横に見ながら、けいけいとして妖しくかがやいた。
 光春は一語も吐かずにひかえていたが、光秀がそれきり沈黙をつづけているので、進士作左衛門に向って――
「退がって、旅装を解き、夜食なとすましたがよかろう」
 と、ねぎらった。
 あとは光春と光秀のふたりとなった。自己の分身も同様なこの骨肉にたいして、光秀は何やら心を割って語りたいような素振でもあったが、とかく光春のことばは光秀にそれを吐かしめないのみか、切に、一刻もはやく中国へ出陣して、これ以上信長公の忌諱に触れることのないようにと、一にも信長、二にも信長と、ただ服従と奉公一念をすすめる以外にないのであった。
 この正道一義な従兄弟の性格は光秀としても四十年来、たのみがいある男よと、力にもし、愛して来た性情である。いまとてもそうした光春なればこそ、
(わが一族中の随一の者)
 と信頼しているのだった。
 だから、彼のそうした態度に対しては、いかに内心自分のいまの気もちにそぐわぬものであっても、光秀はそれに怒ることも圧伏を加えることもできなかった。沈々と黙し合うことややしばしの後、光秀は唐突に、
「そうだ、こよいのうちにも、先発を出して、亀山の家中の者どもに、はや陣用意を触れさせておこう。左馬介、計ろうておくりゃれ」
 と、云い出した。
 光春はよろこんで立った。
 その夜たちまち並河掃部、村上和泉守、妻木主計、藤田伝五などの将は、一部隊をひきいて、亀山城へいそいで行った。

 四更の頃、むくと、光秀は刎ね起きて、臥床のうえに坐っていた。
 夢でも見たのか。
 或いは、なにかまた、否と思い直してしまったものか。しばらくすると、ふたたび衾を被いで、枕に顔を埋め、努めて眠ろうとしているもののようであった。
 霧か、雨か。
 湖の波騒か、四明颪しか。
 夜もすがら大殿の廂を繞る嵐気が絶えない。枕頭の燭は、風もないのに、ものの気に揺れ、光秀の閉じている瞼のうえにゆらゆら明滅を投げかける。
 光秀は寝返りを打った。みじか夜のこの頃とはいえ、彼にはなかなか明けるに遅い夜々であった。――がようやく、そのまま寝息に入ったかに思われたが、ふとまた夜具を掻い退けて、がばと半身を起し、
「於香。於香はいるか」
 と小姓部屋へ呼びたてた。
 遠くのふすまが辷る。宿直の山田香之進が音もなく入って来て平伏した。光秀は一言、
「又兵衛にすぐ来いと申せ」
 いいつけるとそのまま、独り沈吟していた。
 さむらい部屋の者は、みな眠ってはいたが、同僚の一隊は宵のうちにもう亀山へ立ったし、主人光秀もつづいていつ出発を触れ出すやも知れないしする気持から、家臣はみな常ならぬ緊張を抱いて、各々、旅装を枕許へおいて横になっていた。
「お召しでございますか」
 四方田又兵衛はすぐ見えた。これは屈強な若者であり、四方田政孝の甥でもあるので、光秀が眼をかけていた侍である。――もっと近くへ寄れと、眼ざしでよびよせてから、光秀は声をひそめて何事かいいつけていた。
 はからずも光秀から直接に機密な命をうけた若者は、異様な感激を満面に示して、
「行って参ります」
 と、主君の信頼に、身をもってこたえた。
 その若さを、頼もしくも、気遣いにも思うように、
「夜の明けぬまに早く行け。明智の士というと、人目が多いぞ。不つつかをすな、ぬかるな」
 ――又兵衛の退がった後も、なお夜の白らむには間があった。光秀がほんとに眠りついたのは、それからであったらしい。
 いつになく彼は日の三竿にいたるまで寝所から出て来なかった。亀山への出発はおそらく今日と察して、それも早朝に触れ出されるであろうと待機していた家臣たちには、主君のこの常ならぬ朝寝坊がひどく意外なようであった。
「きのうは終日、山をあるき、昨夜は近来になく熟睡した。そのせいか、きょうは寔に気分がよい。風邪も本格的に癒ったとみえる」
 午ごろ、光秀のうるわしい声が広間に聞えていた。家臣たちの間にはそれを自分たちの健康のように歓びあう容子が漂っていた。そして間もなく側臣からこういう令が伝えられて来た。
 ――こよい酉の下刻、当所を御出立、白河越え、洛北を経、亀山へ御帰国被遊。御用意とどこおりなきように。
 亀山へ供して行く将士の同勢は三千に余った。夕べ迫ると、光秀も旅装をととのえて、本丸の広間に臨み、この日にかぎって、光春の家族たちと一緒に晩の食事をした。
「お門立ちの祝ぎにと、奥方や老人どもが、いささか、丹精こらした膳部です。何もございませぬが、彼らの心根を召し上がっていただければ、どんなに歓ぶかわかりませぬ」
 と、左馬介光春からいわれたので、光秀も、その心を酌んで、
「中国へ出陣すれば、またいつの日帰るとも知れぬ。では久しぶりに御内方と共にいただこうか」
 と望んだところから、出立を間際にして、急にこういう団欒になったのであった。
 光春の夫人は、妻木主計のむすめである。光秀の家庭は子沢山で有名なものだが、光春と夫人の妻木氏のあいだには、八歳になる乙寿丸しかない。
 老人としては、叔父の長閑斎光廉がいる。洒落な老人で、ことし六十七になるが、病も知らず、冗談ばかりいって、いまも乙寿丸をそばに置いてからかっていた。
 この気さくな老人のみは、始終、にこにこしていて、明智一族の今ぶつかっている暗礁も知らず、春の海をゆく船に老いの余生を託しきって、しかも安心しぬいているような姿なのである。
「賑やかで、もうわが家へ帰ったようなここちがする。老人、この杯を、光忠にやってくれ」
 光秀は、二、三献すごしたそれを、手近な光廉入道にわたすと、光廉はそれを、傍らにいる甥の明智次右衛門光忠にわたした。
 光忠は八上の城主で、きょうここへ会したばかりである。三人従兄弟のうちではいちばん年下であった。
「ありがたく戴きました」
 光秀の前へ進んで、光忠は杯を返した。光春の夫人が銚子を持って注いだ。そのとき、光秀の手がびくりと震えた。太鼓の音に愕くような光秀でもないのに、表の方で鳴った太鼓とともに何か顔いろまですこしうごいたように見えた。
「はや酉の刻でおざれば、御人数の衆へ寄場へ集まれと、供頭が触れておる太鼓でござりましょうで」
 ふと眼をこちらへ向けていた光廉入道がそういうと、光秀はそれまでの機嫌を一ぺんに沈めて、
「知っておる」
 と苦そうに終りの杯をのみほした。
 半刻の後には、彼はすでに馬上だった。星青き夜空の下、三千の人馬と、炬火の数が、うねうねと湖畔の城を出で、松原を縫い、日吉坂を登って、四明ヶ嶽の山裾へかくれてゆく。
 左馬介光春は、城頭から見送っていた。彼は坂本の家中だけで一戦隊を編成し、後から亀山へ赴いて本軍と合する予定になっている。
 この夜は二十六日、明ければ二十七日という間を、光秀以下の人馬は、眠らずに歩いていた。そして四明ヶ嶽の南から寝しずまった京都の町を西方の盆地に見出したのが、ちょうどその両日の境にわたる真夜中の頃だった。
 白河越えは、これから瓜生山の尾根へ降って、一乗寺の南へ出る道。――ここまでは登りづめであったのが、あとは一路降って行くばかりとなる。
「やすめ」
 次右衛門光忠は、光秀の旨をつたえて人馬に令した。
 光秀も馬を降り、床几を取りよせて、しばらくこの嶺のいただきに休息した。昼ならばここから一眸になし得る京洛の町々も、特徴のある堂塔や大きな河をのぞいては、ただ全市の輪郭が闇の底おぼろに望まれるだけだった。
「四方田又兵衛はまだ追いついて来ておらぬか」
 側にいる四方田政孝にたずねたのである。が、その甥の行く先は、政孝こそ、光秀へ問いたいことであった。
「昨夜から見えませぬが、殿より何かお使いを命ぜられたのではございませんか」
「そうだ」
「どこへ参りましたので」
「やがて分ろう。――もし戻って見えたら、歩行中でもかまわぬから、すぐわしの馬側へよこしてくれ」
「畏りました」
 政孝はふかく訊ねなかった。何事にも御腹蔵のない主君が口に出したくないことなら触れないのが道であると考えたからである。
 口をつぐむと、光秀のひとみはまた、墨のような京洛の屋根を、飽かずに眺めていた。夜霧の流れが濃くなり淡くなるせいか、それとも夜眼の馴れてくるためだろうか、次第にそこの建物なども判別されて来る。わけて二条城の白壁はほかの何物よりも明らかだった。
 当然、光秀の凝視は、その白い一点にとらわれた。そこには、信長の子、三位中将信忠がいる。また数日前に安土を辞して上洛した徳川家康も泊って、大勢の案内衆や接待役に囲繞されながら歓待の幾夜かを過ごしたであろうなどということも――思うまいとしてもすぐ想像にのぼって来る。
「徳川どのにも、はや京を立たれたろうな」
 呟くような主人の問いに、政孝が答えて、
「いまは大坂に御滞在かと存ぜられます。そのような御予定と承っておりましたが」
「……む。む」
 それきりであった。このことばには、後もなく、前もない。
「さ、行こう。馬を――」
 光秀は不意に起つ。諸将はあわてた。
 この不意打から受ける部下の狼狽は、光秀一箇の心が、箇のまま発作的に行動するため起る波紋であった。そのまえに政孝へ云っていた首尾のないことばと同じもので、この数日間の光秀には、時々、一家中という大勢から遊離して、一藩の主脳でも一列の主体者でもない、孤のごとき一箇の人間として挙止するような姿がまま見られた。
 しかし彼に続く将士は、
「降りは早いぞ」
「馬を躓かすな」
 と、夜道の難にも怯まず、主君をかこみ、友を戒め合い、洛外へ向ってひたすら道を捗っていた。
 人馬三千の列が、下加茂の河原まで来て立ち淀んだとき、人々は期せずして、うしろを振り向いた。光秀も振り顧った。
 眼のまえの加茂川に映え耀いた紅波を見て、後ろなる三十六峰の背から朝陽が昇ったのを知ったからである。
「朝のおしたくは河原で遊ばしますか、西陣へ行っておしたためなされますか」
 兵糧方の部将が、光忠の側へ来て、朝食のことをたずねていた。光忠は光秀の内意を訊くため少し駒を寄せかけたが、そのとき四方田政孝と光秀が駒をならべて、いま通って来た白河の方を凝視している容子だったため、しばらく此方にさしひかえていた。
「政孝。あれは又兵衛ではないか」
「そのようでございますな」
 光秀と政孝のひとみは、彼方から急いで来る一騎を待っているものらしく、朝霧を衝いて、その影が近づいて来ると、
「おお、やはり又兵衛であった」
 と、光秀は心待ちにしていた彼をそのままそこに待ちながら、左右の将に向って、
「さきへ渡れ。わしは一足あとから河をこえる」
 と、云った。
 前隊の列はもう一部分加茂の浅瀬をひろって、対岸へ渡っていた。諸将は光秀のそばを去ると、つづいて清冽の中へ白い水泡のすじを作って、続々、徒渉して行った。
 それを機に、光忠がたずねた。
「お弁当はどこでおつかい遊ばしますか。西陣なれば便宜もございますが」
 光秀は一言に、
「みな空腹であろうが、町中は好ましくない。北野まで参ろう」
 もうそのとき、これへ近づいた四方田又兵衛が、十間ほど彼方に駒を降りて、河原の杭に手綱を巻いていた。
「光忠も、政孝も、わしにかまいなく、先に越えて、河向うで待っていよ。すぐ参る」
 最後の二人までを、そういって遠ざけた後、光秀は初めて、又兵衛の方に向い、顔をもってさしまねいた。
「寄れ。もっと近う寄れ」
「……はいっ」
「どうであった。安土のもようは」
「さきに承りました進士作左衛門どのの御報告に間違いはないようでございます」
「再度、そちを遣わしたのは、二十九日御上洛の儀、またお供の勢など確かなところを見極めにやったのだ。――ないようでござります、などという曖昧なことでは何の効もない。確実か、否か、はっきり復命せい」
「二十九日、安土御発向のこと、これは確かです。お供方には、主なる大将方の御名も聞えず、ただ御近衆お小姓たち四、五十名としか触れ出されておりません」
「して、御在京中の御宿所は」
「本能寺の由にござりまする」
「なに。本能寺」
「はい」
「二条城ではないのか」
「たしかに、本能寺とのこと、いずれでも沙汰されておりました」
 また叱られないようにと気をつけて、又兵衛は、特にはっきりと答えた。

愛宕参籠

 巨大な山門を中心として、附近に多くの末院がそれぞれ土塀をかまえ門を持っている。眼のとどく限り掃いたような土肌をしているここの松原全体がひとつの禅苑をなして、梢からこぼれる陽も幽かな鳥の声も、その静寂を助けている。
 馬をここにつないで、光秀以下明智家の将士は、朝と午とを兼ねた弁当をつかった。加茂河原あたりで朝食をとるべきなのに、北野まで我慢して来たので、時刻がそういう半端になってしまったのである。
 将士はみな一日分の腰兵糧を携帯していた。生味噌と梅干と玄米の飯という簡単なものであったが、夜来の空腹は、これに舌鼓を打って睦み合うに充分なほど、人々の慾を謙虚にしていた。
「――これは惟任日向守様の御人数ではいらせられませぬか」
 妙心寺の塔頭大嶺院の僧が三、四人してこれへ茶を運んで来た。そして、
「おさしつかえなくば、何の用意もございませぬが、寺中の一院を、御休息所にお宛て下さいますように」
 と、つけ加え、
「いずれ住持が、間もなく、御挨拶をかねて、御案内に罷り出でまする」
 と、携えて来た湯茶を侍臣にあずけて帰りかけた。
 光秀は、小荷駄の者が、簡単に張りめぐらした幕の陰に床几をすえて、いま食事もすまし、祐筆の者に、何か一通の手紙を口述して書かせていたが、
「妙心寺の僧よな。ちょうどよい使い。呼びもどせ」
 と、小姓にいいつけ、僧たちが遥かにひざまずくと、祐筆の手になったその書面を託して、
「連歌師の里村紹巴の宅まで、この一通を大急ぎで届けおいてくれぬか」
 と、いった。
 そしてすぐ床几をたたませて、馬の側へ立ち寄り、
「いとまなき途中であれば、寺中の和上たちにもお目にかからず罷りこえる。よろしく申し伝えてくれい」
 と、すぐ出発を令して立ち去ってしまった。
 昼中は暑かった。仁和寺から嵯峨へとかかる平坦な道は、殊に乾いて、真夏のような草いきれが埃と共に馬の足もとから燃えてくる。光秀は黙々として、終始、渇も訴えなければ左右とも語らなかった。
 が、彼は彼自身と、間断なく問いつ問われつしていたのである。天地間の何者も窺い得ないほどな大事を、彼は彼と対立して、胸の中に論争の激流を渦まかせていた。そしてそのことの可能性やら、世人の輿論やら、または一朝不成功に帰した場合までの結果を、彼らしい用心ぶかさをもって綿密に考えつめていたものだった。
 払えども払えどもたかって来る馬蠅のように、それはもう心の内から追いきれない彼の白日夢となっていた。かかる悪夢が、いつの間に彼の毛穴から忍び入って満身の邪気となったものか、彼の聡明ももう反省する力をすでに欠いていた。
 光秀は、五十五年の生涯のうちで今ほど、自己の聡明を、ふかく恃み、またかたく信じたときはなかった。
 客観的には、彼の知性というものが、いまほど危ない亀裂を呈した例はあるまいと思われるのに、彼自身には、その正反対が信じられていた。
(――自分の思慮には水の漏るほどな錯誤もない。誰がいま光秀のこの腹中を知ろう)
 ひとり綿密に練っていたその腹中の企図も、坂本にいたあいだはまだ、実行にうつすべきか、実行すべきでないか、迷いは半々であったが、今暁、下加茂の河原で、四方田又兵衛から二度目の確報を聞くとともに、光秀はぞくと身の毛をよだてて、
(――今だ)
 と、心のうちに決して、
(天、光秀にこの時を与え給うものである)
 という、自我の妄信を強く抱いた。
 信長が扈従わずか四、五十名の軽装で、本能寺に泊るという――またとないその絶好な機会こそ、彼の心を囚えた魔のささやきといってさしつかえない。いかなる大胆な人間も謀み得ないほどなことを、今は小心そのものの光秀が、咄嗟に実行しよう――と思い極めるに至ったのは、彼の積極性ではなく、むしろ彼以外のものだった。
 人は各自の意志によって生きもし動きもしていると思っているが、その人以上の何ものかの力が人をうごかしているという儼然たる宇宙の理は、人間はどうしても否みきれない。いまの光秀とてもそれくらいなことは考える。そして彼はこの機会と自分の腹中のものに、天の味方を信じながら、半面絶えず、天を怖れ、下加茂から嵯峨まで来る半日の道にも、それのみ心にかかりだしていた。自分の一挙一動に天の眼がそそがれているような恐怖に近い心理だった。
「六右衛門。六右衛門」
 清涼寺を過ぎ、北嵯峨の松尾神社の前まで来たとき、彼は近衆のうちの東六右衛門をよび出して、
「そちはこれから愛宕の山上へ参って、威徳院の行祐どのに伝えよ。明日、光秀参拝のうえ、同夜は光秀と日ごろ親しき輩四、五名集うて、歌夜籠り仕りとう存ずると。――俄かに房を騒がせぬためじゃ。そちは明夜まで山上に留まっておるがよかろう」
 さきには、京都の紹巴に招き状を送り、いまは愛宕の参籠を先触れさせていた。彼は、天の味方を信じながら、天の眼をあざむくことに、自己の聡明を駆使していた。
 列は、桂川を渡り、松尾の間道をこえ、その夕方、陽もとっぷり暮れたころ、亀山の本城へ着いた。
 城主の帰国を知った亀山の町民は、夜空も染まるほど篝火に祝いの心を見せていた。事実ここの領民は旧国主の波多野氏時代よりも、いまの善政に悦服し、光秀の徳になついていた。
おまえ見たかや
おしろの庭は
いつも桔梗の
花が咲く
 こんな民土の謡が興ったのも、正に明智領になってからである。こよいも濠をこえ、狭間をこえて、城下の謡が本丸まで聞えていた。
「長々の留守居、ご苦労であった。光秀もまずかくの通り健在、歓んでおくりゃれ」
 彼は城中に入るとすぐ、大広間を用いて、斎藤内蔵助以下、多くの留守居衆に謁を与え、各々から挨拶をうけて後、初めて奥曲輪に入った。
 何十万石という住居はあっても、賑やかな家族はいても、戦国の武将はひとり光秀のみでなく、誰もひとしく、家庭に帰って楽しむような日は、一年のうちに指折るほどしかなかった。少し長陣の合戦には、二年も三年も帰らなかった。
 故にひとたび、父なる人が稀のすがたを、そこに見せた夜の奥曲輪というものは、たいへんな賑わいであった。夫人も和子も老いたる叔父叔母の輩まで嬉々として、侍女たちの顔から燈火の色まで華やぎ立ち、その陽気なことは到底、節句や正月の比ではない。
 わけて光秀は子福者で、女子は七女まで、男子は十二男まで持っている。もちろんそれらの子たちの三分の二はもう他家へ嫁いだり養子となっているが、まだまだ小さいのも幾人かいたし、叔母の子やら、誰れやらの孫というのも養っているので、夫人の煕子は、いつも笑って、
(いったい私は、幾歳になったら子どもたちのお世話から離れることができるのでしょう)
 と、述懐している程だった。
 戦死した一族の子も引き取っているし、また光秀の子ではあっても、自分の腹をいためていない子もその中にはいたのである。けれどこのひとは細川藤孝が常に褒めてやまない賢夫人であって、齢五十になってもそうした乳のみ児や腕白に取り巻かれている境遇を心から甘受して、むしろ生涯の満足としているような姿だった。
 かつて、まだ光秀が、江湖を浪々して、病中の薬代にも、旅籠料にも窮していたとき、彼女がみどりの黒髪を切って金に換え、その急場を切りぬけて、良人の素志を励ましたことなどは――彼女自身はおくびにも語ったことはないが、三ばんめの娘伽羅沙の良人細川忠興の父――細川藤孝は酔うとよくこのはなしを持ち出して、光秀の苦笑を求めたものだった。
 坂本以来、いや安土以来、彼は初めてなぐさめられた。彼のその夜の眠りは円かであった。あくる日となっても、なお嬉々たる子たちや、貞節な妻の笑顔は、どれほど彼の棘々しい心をなだめていたかしれない。
「やはりわが家はよいな」
 沁々と、いまの幸福を顧みてもみる光秀であった。
 けれど、一夜を過して、そのために、彼の心の奥のものが、何かの変化を来たしていたろうかといえば、それは少しも変っていなかった。むしろ、より以上胸中の秘事に、べつな野望を加えて、その実行を勇気づけていたかとも思われる。
 浪人時代から連れそうて来た糟糠の妻が、いまの境遇に満足しきって、子ども相手に他念ない姿を見ては、
(まだまだこんな程度でおまえの良人は終るものではない。いまに将軍家の御台所とも仰がれる身にしてやるぞ)
 と思い、また一族の老幼をながめても、
(やがてみなそれぞれ、天下人のお身内と、諸人から敬われる身になる者たちぞ。こんな田舎びた館からあの安土にも優る所へ住まわせたら、これ以上、どんなに狂喜することだろう)
 と空想したりして、自己の画策にふと恍惚となる寸間もあった。
 この日、彼は午過ぎからわずかな従者を具して、城外へ出た。身装も軽装だし、常に左右におく重臣すら連れていない。けれど特に触れなくても、城門の将士にいたるまで、
「こよいは愛宕へ御参籠あるそうな」
 と、その目的を弁えていた。
 ――中国出陣の前に、一夜を愛宕山に詣で、武運長久を祈り、かたがた、日頃の友を招いて、参籠の一夕を、連歌なといたして、大いに心養して参ろうと思う。
 とは、きのう亀山へ来る途々からすでに、光秀の口からたびたび洩らされていたことばであった。
 従って、このことは、
二十七日、亀山御着
二十八日、愛宕御参詣
二十九日、御帰城
 というふうに、主人の予定行動として、家中一般へは、あらためて触れるまでもない儀と知れ渡っていたのである。
 戦勝祈願の参詣といい、都から風雅の友を招いての連歌の催しといい、光秀の風懐と余裕を疑うものは誰とてない。日頃の光秀の人がらに照らしてみても、この際、
(お心ばえとして、さもありそうなこと)
 としていた。
 従者二十人ほどに、側臣五、六騎。鷹野に行くよりも身軽だった。保津川を渡り、丹波口から水尾へ上ってゆく。道は嵯峨村の本道から登るよりもはるかに嶮しい。
 前日、東六右衛門をもって威徳院まで知らせてあるので、水尾村には、山上の僧や神官たちが出迎えに出て待っていた。光秀は、その人々へ、乗りすてた駒をあずけると、すぐ僧の行祐にたずねた。
「紹巴は来ておるか。……なに、もう疾くに登って待っておるとか。いや、それは満足。そして都の歌詠みたちも、幾名か連れて来ておろうな」
                

この回についての Q&A

Q1. 進士作左衛門はなぜ安土の噂を光秀に伝えたの?

A:安土の噂は明智家の将来を左右する重大情報。光秀には現実を直視してもらい、決断のヒントとなるように報告しています。

Q2. 軍令状で光秀の名が低く扱われていたのはなぜ?

A:信長から見た序列の変化。従来の明智家の仮称が低下し、他家の下に置かれることで、信長からの不信と軽視が明確になります。

Q3. 白河越えと愛宕参籠の意味は?

A:白河越えは静寂の中での精神的な収束、愛宕参籠は神仏に対する祈願。その間で光秀の内的な「転機」が明示されます。

Q4. 軽装の信長・本能寺の手配は何を意味している?

A:信長が「油断した」証。光秀はそれを好機ととらえ、ここぞという瞬間を待ち構えています。

Q5. 光秀の野望はどこから始まった?

A:幼少からの聡明さ、戦国の混迷の中で磨かれた知略、その融合がこの章で明確になり、「天下を取る覚悟」の芽吹きが描かれています。

Q6. なぜ明智家の家臣たちは、信長からの軍令状にそれほど憤ったのですか?

A. それは、軍令状に書かれた序列が、明智家の格式と功績を著しく貶めるものだったからです。本文中にも「御当家は当然、池田や堀などの上位であって、羽柴、柴田と同格に扱わるるのが、従来の慣いであった」とあるように、光秀は織田家中で最高幹部の一人でした。しかし、この命令書では、光秀の名が格下の諸将の下に記され、さらにこれまで同格以下であった羽柴秀吉の指揮下に入るよう命じられました。これは、公の場で家中の面目を潰す「最大の侮辱」であり、信長の意図的な格下げ、つまり「苛酷なお仕打ち」だと受け取られたためです。

Q7. 光秀が夜中にわざわざ四方田又兵衛を呼び、密かに使いに出した目的は何だったのでしょうか?

A. 進士作左衛門からの「信長が僅かな手勢で上洛し本能寺に泊まる」という報告の裏付けを取り、その情報の確実性を最終確認するためでした。光秀は「ないようでござります、などという曖昧なことでは何の効もない。確実か、否か、はっきり復命せい」と又兵衛に命じています。この一世一代の謀反計画において、敵の総大将である信長の兵力と正確な宿所は、作戦の成否を分ける最も重要な情報です。その情報を再確認させることで、計画の最後のピースを埋め、決行への確信を得ようとしたのです。

Q8. 亀山城での家族団欒は、光秀の決意にどのような影響を与えたと考えられますか?

A. 一見、家族との温かい時間や妻子の笑顔は、光秀の殺伐とした心を癒し、決意を鈍らせるかに見えます。しかし本文では「それは少しも変っていなかった。むしろ、より以上胸中の秘事に、べつな野望を加えて、その実行を勇気づけていたかとも思われる」と描かれています。彼は、この幸福な家族の姿を見て、「まだまだこんな程度でおまえの良人は終るものではない」「やがてみなそれぞれ、天下人のお身内と、諸人から敬われる身になる」という野心をかき立てられます。つまり、家族の幸福を守るどころか、彼らをより高みへ押し上げるという大義名分が、彼の謀反の決意をさらに強固なものにしたのです。

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