【朗読 新書太閤記】その四十一「明智光秀決意編」  吉川英治のAudioBook ナレーター七味春五郎 発行元丸竹書房

 

 

 

新書太閤記

連載第四十一回 「光秀決断編」

作者と作品について

作者:吉川 英治(よしかわ えいじ)

1892年(明治25年)- 1962年(昭和37年)。日本の大衆文学を代表する小説家。神奈川県出身。本名は英次(ひでつぐ)。『宮本武蔵』『三国志』『私本太平記』など、歴史を題材にした数多くの国民的ベストセラーを執筆し、「国民文学作家」と称された。その作品は、平易でありながら格調高い文章で、幅広い読者層から支持を得ている。1960年、文化勲章受章。

作品:『新書太閤記』(しんしょたいこうき)

吉川英治が1938年(昭和13年)から新聞連載を開始した歴史小説。豊臣秀吉の生涯を、織田信長に仕える以前の若き日から天下統一を成し遂げるまで、生き生きと描いている。本作は、従来の講談や立身出世物語としての秀吉像に、人間的な深みと魅力を与え、新たな「太閤記」として絶大な人気を博した。戦国時代の動乱を背景に、秀吉をはじめとする武将たちの葛藤や野望、人間模様が巧みに描出されている。

あらすじ

安土城で信長に叱責され、苦悶を抱えたまま坂本城に滞在する明智光秀。家臣の明智光春は、主君の心中を察し、その身を案じている。そんな折、かつて信長の命により光秀自身が焼き討ちにした比叡山の僧侶から、面会と山門復興への助力を願う書状が届く。光春は信長への聞こえを懸念し、嘆願を独断で退けるが、光秀はこれを知ると、過去の所業への呵責の念から、密かに叡山へ登り、僧に会うことを決意する。

光春は主君の翻意ならぬを知ると、諫止を諦め、その身を守るべく同行する。しかし、登った叡山は荒れ果て、人影もまばらであった。そこで光秀は、当代随一の名医・曲直瀬道三と思いがけず遭遇する。道三は、光秀の顔色や様子から、その心身が尋常ならざる状態にあり、深い憂いと怒り、恐れに苛まれていることを見抜く。鋭い指摘に対し、光秀は平静を装いその場を立ち去るが、その心は修羅の巷を彷徨い続けていた。

新書太閤記主題歌ミニライブ
https://youtube.com/live/nsUqkTqn_5w?feature=share

主な登場人物

  • 明智 光秀(あけち みつひで):本作の主人公の一人。織田家家臣。信長への複雑な感情と葛藤を抱えている。
  • 明智 光春(あけち みつはる):通称、左馬介(さまのすけ)。光秀の重臣で、深く主君を憂う誠実な武将。
  • 天野 源右衛門(あまの げんえもん):光秀の家臣。光秀の叡山行きに供をする。
  • 曲直瀬 道三(まなせ どうさん):当代随一の名医。叡山で光秀と遭遇し、その心身の変調を鋭く指摘する。
  • 亮信 阿闍梨(りょうしん あじゃり):叡山横川の和尚。光秀に山門復興の助力を求める。

叡山復興

 敵性人は絶対にいないはずの廓内でも、防諜上には、日夜細心な警戒を怠っていない。これだけは例外なく、どこの城も同じといえる。

 茶室といえ露地やそこらの附近には、庭見の侍がかならず佇んでいた。――今、にじり口の外まで来て、沓ぬぎの前に額ずいた庭番はそれであろう。一通の書面を内なる主人へ手渡して後も、やや久しいあいだ蟇のように身うごきもせずそこにひかえていた。

 やがて光春の声が、ようやく内から聞えた。

「返書をとあるゆえ、認めてつかわすが、すぐとは参らぬ。使いの僧は、待たせておけ」

 閉めてあるままのにじり口へ向って庭番は、

「かしこまりました」

 と、ていねいに礼をして、草履の音も偸むように、露地の木の間を戻って行った。

 その後は――

 光春も、三名も、またしばらく、溶け合わない気もちのまま、じっと、黙りあっていた。

 時折、どこやらで、ぽと、ぽと――と大地を撞木で叩くような音がした。その軽い響きだけがわずかにここの沈黙を救っていた。

 梅の実がしきりに落ちるのであった。また梅雨雲がすこし断れたか、障子の腰へつよい陽ざしが不意に映した。

「どれ。おいとまして、退がろうではないか。……何やら御用の生じた御様子でもあれば」

 友を促して、この機にと、四方田政孝が、退がりかけると、光春は、いま三人の目の前でつつみ隠す風もなく繰りひろげて読んでいた手紙を巻き返しながら、

「まだ、よかろうに」

 ほほ笑みながらいったが、

「いや、おいとま仕ります」

「まことに、お邪げいたしました」

 源右衛門も伝五も、袖をつらねて、次へ辷った。そしてあとの襖を閉めきると、やがて橋廊下の方に、薄氷でも踏みやぶってゆくような冷たい跫音を消して行った。

 光春も、程経てから、やがてそこを出て来た。そして廊下を歩みながら侍部屋へ声をかけた。

 小姓までが慌てて彼のあとに従ってその居室へ入った。光春はすぐ料紙と硯を求め、もう書くべき文言は頭のうちに出来ていたものの如く、苦もなく筆を走らせた。

「返書じゃ。これを横川の和尚の使いに持たせて帰せ」

 と、侍臣のひとりに渡すと、もうその用件には何の顧念ないように、ほかの家臣を顧みて、

「光秀様には、あれからずっと、御熟睡しておらるるようか?」

 と、たずねた。そして、

「御寝所はいとお静かのように窺われまする」

 と聞くと、初めて、

「そうか」

 と、眉をひらいて、自分もともに心の安まったような顔をした。

 十九、二十日、二十一日と、それからの数日を、光秀はなすこともなく、坂本城に過していた。

 すでに中国出陣の命をうけている身である。なお多少の余日はあるにしても、一刻もはやく居城の丹波亀山へ帰って、家中に動員を令し、万端の準備をいそぐべきではあるまいか。

「その途中にこうして、幾日も無為においで遊ばしては、いよいよ安土への聞えもよろしくあるまいに」

 光春は直言したかった。

 しかし光秀の心気を思うと、それも云い出し得ないのである。藤田伝五や四方田政孝などが痛言した――この気持のままでは戦場へ赴けない――という悶々たるものは、光秀の胸にも勿論あるにちがいない。

 ――とすれば、静かに、ここに滞留している幾日かの小閑こそ、光秀にとっては、何よりも先にしている出陣の用意かもしれないと思いやられもする。そうだ、そうあるはずと、光春はあくまでも、光秀のつよい理性と日頃の聡明を信じていた。

 ――今日も。

 いかにお過しかと、彼がそっと光秀の居室をうかがってみると、光秀は毛氈のうえに筆洗や墨池をならべ、一巻の絵手本をひろげて、他念なく画の稽古をしていた。

「ほ。これは」

 光春は側へ坐った。そして光秀にこの余裕があることを、心からよろこんで、共にこの境地を楽しもうとした。

「や、左馬介か。見てはいけない。まだ人前で描ける画ではない」

 光秀は筆を置いてしまった。

 そして五十以上の人とは見えないような羞恥みを示して、困ったように、あたりの描き反古までかくしてしまった。

「ははは。これはお邪げになりましたか。手本にお用いの画巻は、誰の筆ですな。狩野山楽にでもお命じになったもので?」

「いや、海北友松」

「友松ですか。あの仁はちか頃どうしておりましょう。とんとこの辺でも消息を聞きませぬが」

「先頃、甲州陣の折、ふと宿所へ訪ねてみえたが、あくる朝、夜もあけぬ間に、また飄然と立ち去ってしもうた。これはそのとき彼が画いたものだ」

「変り者ですな」

「いや、ひと口に、変り者というては当るまい。志節一貫、竹のごとく心の直な男だ。武士は捨てても武士らしい人物と思う」

「斎藤龍興の旧臣と聞いておりますが、その旧主にたいして、今なお節を曲げない点を、お賞めあそばすのでございますか」

「安土の御普請にあたって、右大臣家からお招きがあっても、彼のみはおことわりして、名利にも権勢にも屈しなかった。何ぞ、亡主の仇の障壁を画かんや――という気概を抱いておるものとみゆる」

 そのとき光春の家臣が、何か用ありげに、うしろへ来て坐ったので、二人とも口をつぐんだ。

 光春は振り向いて、何か――と取次の者にたずねた。手に一通の書簡と、奉書の嘆願書らしいものを重ねて、当惑顔に、そこへ控えた侍は、

「また御城門まで、横川の和尚の弟子が参りまして、強って、もう一応、この書面を御城主へ取り次いで欲しいと申し、何と刎ねつけても、命をかけて来たお使いですからといって、立ち帰りません。いかが致したらよろしいものでございましょうか」

 と、光春の顔いろを惧れながらいった。

「なに。また来たのか」

 かろく舌打ちをして、

「先頃も横川の和尚へは、光春みずから返書を与えて、嘆願の趣は、到底、相かなわぬ儀なれば、無用にいたせと、篤と答えてつかわしたのに、その後も、二度三度と、執こく書面を持たせて城門まで参るそうな。聞きわけのない法師ではある。――構えて、取り上げるな。何といおうが、突っ返して、追っ払うがよい」

 と、いった。

 取次の侍は、

「はい。はい」

 とのみで、自分が叱られたように、倉皇と、書面も願書も、そのまま手に持って退がって行った。

 すると、光秀はすぐその後で、こう訊いた。

「横川の和尚とは、叡山の亮信阿闍梨のことではないか」

「さようでございます」

「すぐる歳、元亀二年の秋、叡山焼打の折には、この光秀も一手の先鋒を命ぜられ、山上の根本中堂、山王二十一社、そのほかの霊社仏塔、悉くを焔となし、刃向う僧兵のみか、稚子上人、凡下高僧、老幼男女のさべつなく、これを斬って、火に投じ、ふたたびこの深山には、人はおろか、草木の芽も出まじと思わるるほど、掃滅殺戮のかぎりを為し尽したが……もういつしかそこには、また生き残りの法師たちが帰って来て、生きる道を求めておるとみゆるの」

「さればです。人伝てに聞きますと、山上は依然、荒涼として廃墟のままだそうですが、その後、横川の和尚亮信や、宝幢院の詮舜や、止観院の全宗や、また正覚院の豪盛とか、日吉の禰宜行丸などの硯学たちが、諸方に散亡していた山徒をよびあつめ、あらゆる手段を尽して、山門復興の運動をしておるようでございます」

「信長公のおられるうちは、まずその実現はむずかしかろうな」

「――と、彼らも知って、多くの力を、堂上の諸卿に向け、主上より綸旨をもって信長に諭し給わらんものと、だいぶ烈しい運動を試みたらしゅうございますが、それも勅許になる見込みなく、近頃ではもっぱらただ民力にありとなして、諸国を勧進し、諸家の門をたたき、山王七社の仮殿の建立をなしつつあるとか聞き及んでおりまする」

「では。……先日から再三、お許に使いをよこしておる横川の和尚の用向きも、何かそれについての嘆願じゃの」

「いえ」

 光春は急に眸をあらためて、光秀の面をしずかに見つめた。

「実は、お耳に入れるまでもない儀と、この左馬介が独断で刎ねつけておりましたが――そうお訊ねをうけましては、つつみ立てしておるも如何。あらためて申しあげてしまいます。まこと横川の和尚から再三の申入れは、あなた様が当城に御逗留中と知って、ぜひ光秀様に、いちどお目通りさせて欲しいと、この光春を介して、切なる願いを申し入れて来たわけでござりました」

「亮信阿闍梨が、折り入って、この日向守に会いたいといっておるのか」

「それと、もう一通の嘆願書には、山門復興の勧進に、惟任日向守様の尊名をも、御拝借ねがいたいということでございました。……が、その二つとも、もちろんお肯き入れはかなわぬにきまっておる儀であると申して、私から固く断っておいた次第でございます」

「それ程、相成らぬ儀と、断っても断っても、なお再三再四、城門へ来て、命をかけてもと使いの僧までが申しおるとは……。不愍な心根ではある」

「…………」

「左馬介」

「はい」

「勧進の連名に、光秀が名をかしては、安土の君にたいして、畏れあるが、阿闍梨に会うてつかわすぐらいは、べつに憚ることもあるまいが」

「いや、御無用になされませ。山門焼打に一手の大将をお勤めになったあなた様が、何の必要あって今日、生き残りの法師とお会い遊ばす要がありましょう」

「その節は、敵であったが、いまの叡山は、まったく無力化して、安土に対しても降伏恭順を誓うておる良民ではないか」

「かたちの上では確かにそうです。しかし伝教以来の宝塔仏舎を灰燼とされ、万を数える師弟骨肉を殺戮された衆徒や有縁の者どもが、何で、まだ生々しい当年のうらみを、心から忘れておりましょうか」

「さればこそだ……」

 光秀は、ほっと大きな息を天井へ吐いて、

「当年、わしもまた、信長公の御命やむなく、その狂炎の一ツとなって、山徒の悪僧のみか、無辜の老幼僧俗まで無数に刺し殺した。……今日、それを思うと、この胸は、さながら当年の燃ゆる山の如く呵責される」

「つねに仰っしゃる大乗的なお考えに似げないおことば。叡山ばかりのことではありますまい。興る者、亡ぶ者、春去れば秋の来るように繰りかえしている地上の相です。一殺多生、一山を焼いても、五山百峰の法を明らかに照らしめれば、わたくしたち武人の殺は、決して敢えなく無辜の命や文化を亡ぼすものでは、決してないはずと存じまする」

「いかにも、その通りだ。それしきの道理を弁えぬ身でもないが、一個の情として、今日の叡山にたいして、わしは一滴の涙を禁じ得ないここちがするのだ。……左馬介。公の惟任日向守としては憚りあろうが、ひとりの凡人が、御山の址を弔う意味でなら何のさしつかえもあるまい。わしは明日、微行でそっと山へ行きたい。そして横川の和尚に一片の布施をして戻りたいと思うが……どうであろう?」

昼ほととぎす

 その夜、光春は、眠りについてからも、独り思い煩った。

(何であのように、叡山の者に御執心を持たるるか)

 と、光秀の心事を疑い、また明日は微行で山へ登りたいという光秀のいぶかしい思い立ちに対して、

(飽くまでお止めすべきか。それとも、御意にまかせておいたがよいか)

 と、夜もすがら、とつこうつ、思案していたものであった。

(山門再興のことなどには、今のお身として、一切触れないに限るし、横川の和尚とお会いあるなどは、なおさらよろしくないことだ)

 とは、彼の胸だけには、はっきり考えを決めていたが、なぜか光秀は、光春が独断で、亮信阿闍梨の使いを拒んでいたことにも、山徒の嘆願書を突っ返したことについても、余りよろこばない顔いろであったのみか、根本的に光春の処置とは喰いあわない考え方を抱いているらしく思われた。

(今の叡山を対象に、いったい何事を胸に夢みておらるるのか?)

 そこに光春は多分な不安と疑惑を抱いた。明らかにこれは反信長行為と誹られる好材料になろう。しかも中国陣への発向を前にして何の必要もない道くさでもある。

(止めよう。なんと仰せられても、お止めしよう)

 そうきめて、彼は瞼をとじた。面を冒して諫止するからには、多少、光秀から気まずい激語をうけようとも、いかに立腹されようとも、断乎として、その袂を抑えきろう。――そう決心して眠りに入ったのであった。

 ところが。

 翌る朝は常より早目に起きたにもかかわらず、彼がうがい手洗をつかっていると、もうどかどかと早暁の大廊下から玄関へと、人の跫音がながれてゆく気配であった。光春は侍をよびたてて、早口にたずねた。

「いま、誰が出て行ったのか」

「日向守様でいらっしゃいます」

「なに、光秀様が」

「はい。山支度の軽いお身装で、天野源右衛門どのただひとりをお供に召され、日吉の下までは馬で飛ばさんと、お語らい遊ばしながら、いまお玄関で草鞋を召していらせられます」

「さては、夜の明けぬ間に、はやお支度であったか」

 彼は、どんな朝でも、欠いたことのない神前の朝拝と、仏間の称名とを、この朝に限って、怠ってしまった。

 倉皇、室にもどるやいな、衣服大小を身に正して、大玄関まで駈けて行った。

 ――が、すでに光秀主従は、そこを立ち出てしまったあとで、見送りに出た数名の側臣たちが、朝の顔をそろえて、

「梅雨もここらで霽がりであろう」

 と、大廂からすぐ仰げる四明ヶ嶽の白雲を仰ぎ合っているところであった。

 城外の松原はまだ明けきれぬ朝霧に湖の底でも行くようであった。

 人をのせた二頭の馬が、その中を軽い脚さばきで駈けぬけてゆく。鵜か、烏か、二騎をかすめて大きく翼を搏った。

「源右。日和はたしかだの」

「このぶんならば、山もかならず晴れておりましょう」

「久しぶり気も清々しい」

「御気分をお麗しゅうするだけでも、きょうの山詣では、無意味ではございません」

「なによりは、横川の和尚に会うてつかわしたい。それだけだ、光秀の用向きは」

「こちらからわざわざ山上へお越しあっては、さぞかし恐懼いたしましょう」

「坂本城へ招いては、やはり人目がうるさい。山上人なき所で、極く密かに、会うのが望みじゃ。源右衛門、そちがよいように計らえよ」

「人目は山よりも麓にありましょう。惟任日向守様がお登りになったなどと、里人のうわさにかかっては面白くありません。日吉あたりまでは、ひたすらそのお頭巾を眉深にしておいで遊ばしませ」

「かようにか」

 と、光秀は、顔から頭に巻いている布を一そう深くつつみなおして、ほんの眉と唇元だけを見せて振り向いた。

「身装はお粗末、鞍もただの武者用に過ぎない物。これなれば誰が仰いでも、惟任光秀様とは思いも寄りますまい」

「源右、そちも怠るな。余り慇懃に侍きおると、それだけでも怪しまれようぞ」

「ははは。いかにも、そこまでは気がつきませんでした。これからは無造作にいたしまする。無礼をお咎め下さいますな」

 つい両三年ほど前からやっと仮屋普請の軒並みが建ち始めて、やや旧観の坂本宿を復活して来たばかりの街道を駈けぬけて、延暦寺道の登りに向いかけた頃、ようやくうしろの湖水に、朝の陽が耀やきはじめた。

「途中、乗りすてたお馬は、いかが致しておきましょう」

「日吉神社のあたりには、仮御社も建ちかけておるという。その辺りには、農家もあろう。さなくば、日吉における工匠にでも預けて参ればよろしかろう」

「や……。たれか後ろの方で呼ぶ声がいたしはしませぬか」

「追うて来た者があるとすれば、それはかならず左馬介光春であろう。光春はきのうわしの微行を止めたい顔しておった」

「温順誠実、稀に見るお人でござります。武人には優し過ぎる程な」

「……お、見よ源右。やはり左馬介じゃ。麓のほうからただ一人して駒を追いあげて参る」

「あの御容子では、なお強ってでも、殿をお止め申すつもりかも知れませんが、はや、これまでお出ましあった上は……」

「もとより彼が何と申そうと、引っ返す心はない……。いや、恐らく彼はもう止めまい。止めるくらいなら城門でわしの轡をつかもう。あれ見い、左馬介も山支度をして参った。光秀とともに、きょう半日を山巡りなとせんものと、思い直して追いかけて来たにちがいない」

 光春の心を覚るもの光秀ほどな者はなく、また光秀の心を知るもの光春ほどな者は世にない。

 ――果たして、その左馬介光春は、もうここへ来る前に、強いて光秀に逆らうよりは、共に一日を山で送って、彼に大過なきように側にいて努めるに如かず――と、思い直して来たものだった。

 で、駒を近づけて来たときから、極めて明るい面を見せて、

「お早い、お早い。何というお早いことです。今朝ばかりは、左馬介も不意をうけて、尠なからずあわてました。……こう早暁にお登りとは思いませんでしたので」

「いやいや、左馬介。お許を供に連れ参ろうとは、光秀も思うていなかったのじゃ。そのように追って来るほどならば、前夜に約しておいたものを」

「それがしが不覚でした。たとえお微行にせよ、従者の十騎くらいは具され、茶や弁当の用意なども持たせて、悠々お出ましのものとのみ独り合点しておりましたために」

「は、は、は。つねの遊山なれば、そうありたいが、きょうの山詣では、飽くまで往年の業火のあとを弔い、無数の白骨に一片の回向をもせばやと思う菩提の心にほかならない。――酒壺珍味をさげて登ってはすむまいが」

 主人の光秀がそういう横顔を、天野源右衛門はつよい眸で見つめていた。左馬介はそのことばを少しも疑わない様子で、

「きのうは何かとお気にさわるような儀を申し上げたかもしれませんが、それがしは生来の小心者とて、この際、ただただ安土への聞えの悪しからぬようにと希う余りに申し上げたまでに過ぎません。かく御軽装にて、ふと菩提のお心が、山へお運びを促したものとあれば、たとえ信長公のお耳へ入ろうと、よも深いお咎めはございますまい。実はこの光春も、つい坂本の近くに在城いたしながら、まだいちどもその後の山上を見ておりませぬ。きょうはお供をいたしながら、諸所一見できるのも、時あっての倖せとぞんじまして、後をお慕いして来ました。源右どの、さあお先へお立ちなさい」

 と、駒をうながした。

 そして光春は、光秀と馬首をならべて、彼の心を飽かしめないように、道々に見える草の花を説いたり、新樹のみどりの鮮やかさを語ったり、数々の鳥の音を聞きわけて鳥の習性を話してみたり、あたかも楽しまない病人の機嫌をとる婦人のように、細やかな心づかいを傾けていた。

「そうか。……むむ。……いかにもな」

 光秀もその真情にたいしては、膠ない顔はできなかったが、左馬介の語ることのほとんどが自然の風物であり人事以外のことだった。光秀の心にはどうしても染まって来ないものばかりだった。光秀とても決して自然の美や雅懐を解さないものではなかったが、いかにせん彼の心はなお寝ても起きても絵筆を持ってみても、人と人との葛藤の中にあった。修羅相剋の人間社会にあった。瞋恚怨念の炎の裡にあった。昼時鳥の啼きぬくこの山道にかかっても、彼のこめかみは、安土退去以来の血が太くつきあげたまま、いまなお決して鎮まってはいないのであった。

薬狩り

 ひとたび、本能寺の濠に、狂兵の矢石が飛び、叛逆の猛炎が、一夜の空を焦がしてから後には――世人はあげて今さらのように、事前の光秀のこころを――その変心の時と動機を、いろいろに揣摩臆測しあった。

 或る者は、

(彼の逆心はもう長年のものだ)

 と云い、また或る者は、

(いや、安土を退去して、亀山城に帰国してからだ)

 と、例証をひいて説き、またもっと穿った者は、

(亀山に帰国してからの一夜、愛宕の社に参籠して、神鬮を引いたそのときに、むらむらとわいた出来心だ。その証拠にはその夜から彼の態度というものが変っている。当夜、連歌師の紹巴などを交えて百韻を催した席でも、

時はいま天が下知る五月かな

 と大胆に胸中のものを吐いているし、またその晩は同室に寝た紹巴にたびたび起されているほど夜どおし魘されていたということを見ても、彼の大それた逆心がこの日から胸に醸されたものだということができる)

 とも縷々詳説している。

 どれもこれも、その解釈するところを聞けば、なるほどと頷ける説ばかりである。では、それらのうちのどれか一説が真に光秀の本心とその変化を云いあてたものかといえば、これまた一概にそうだと決定し得ない理由も他にないことはない。

 およそ深秘なものは人のこころのうごきである。あの聡明と年配の分別をもちながら、敢えて晩節の生涯を逆賊の名に堕し去るの盲挙をなさしめたその原因が何であったか? ――という謎と同様に、彼の変心が、いつの日いかなる時にということは、おそらく彼の胸にとり憑いた魔もの以外にそれを知ることは困難だといってよかろう。

 けれど、今日までの史家が、史証だけを頼って推定した以上幾つかの時機において、彼が逆心を抱いたとなすのは、なお軽率をまぬがれない。

 なぜならば光秀の心境にとっては最も重視されなければならない安土退去の五月十七日の夜から、坂本滞留中の五月二十六日までの十日間というものは、従来、全く史家にも閑却されているからである。

 光秀の叛逆がまったくの暴挙で、長年にわたる計画の下に行われたものでないことは、前夜の事情と、作戦の踏襲によってこれだけは明確に断言してよい。

 ――とすれば、彼の胸に、魔が憑いたのは、まさに安土退去の後だ。そのときの衝動こそ、彼の一代の修養も理性も微塵となって去喪していたものにちがいない。――帰国途上の坂本の城に逗留十日という空間は――かくして光秀の心理にとっては、朝に夕に、一刻一刻に魔となっては人に回り、菩提となりまた羅刹となり、正邪ふた道の岐路に、右せんか左せんかと夜も日も懊悩しつづけていたものに間違いはないであろう。

 いま、彼はその一日を、叡山へ登って行った。もちろんこの間といえ、彼の心は、寸時も一道に安まってはいなかった。行けども行けども、迷いの岐路を見くらべていた。

 かつてこの山の盛時を思うと、何という寂寥さであろう。権現川にそい、東塔坂をのぼって行くあいだも、ほとんど、人らしいものには行き会わなかった。

 変らないのは、鳥の音ばかりである。ここは古くから百鳥の仙境といわれているほどなので、慈悲心鳥の声もする、仏法僧も稀れに聴かれる。耳をすませば瑠璃鳥、深山頬白、くろつぐみ、駒どり、ひよどり、また昼時鳥までが、谺するばかり啼き交わしているのだった。

「ひとりの僧も見えぬ」

 文殊堂の址に立ったとき、光秀は憮然としてつぶやいた。今さらのように、信長の威と、その武力による駆逐の徹底に、愕いたかのような顔いろであった。

「左馬介」

「おつかれでございましょうに」

「なんの。……どうしたものだ。この山上にも、さらに人影はないではないか。中堂のほうへ参ってみよう」

 なぜか少なからず失望した様子である。彼としては、いかに信長の表面的な制圧があっても、山徒の潜勢力は、もっと目にも見える復興を山上に現わしているものと思っていたらしいのである。

 だが、やがて中堂の焼け跡、また大講堂や山王院や浄土院のあたりを経巡ってみても、そこにはかつての堆い焦土がそのままあるだけであった。ただ学寮附近に、山小屋にひとしい幾棟かが建っていて、香煙のにおいもするので、天野源右衛門をして内を窺わせてみたが、四、五の山僧が炉の粥鍋をかこんでいるだけで、

「たずねてみましても、横川の亮信阿闍梨は、これにおらぬ由でございます」

 と、いうことであった。

「横川の和尚が不在なれば、たれか以前の碩学とか長老とかはおらんのか」

 ふたたび、光秀はそういって、問わせてみたが、源右衛門の伝えて来た返辞には、

「さるお方は、ひとりも山にはおらないそうでございます。山上へまかるにも、いちいち京都詰のお奉行か、安土のおゆるしを得ねば許されず、また山上の常住は、限られた平僧と堂衆のほかは、今なおお認めなき掟とやらで」

 それを光秀は聞きながして、

「いや、掟は掟であるが、宗門の熱意というものは、水をかけたら消える火のようなものでは決してない。思うに、われらをやはり安土の武士と見、かたく秘しておるのであろう。横川の和尚はじめ生き残りの長老たちは、いまなお山上のどこかに住んで、平常は人目を避けておるものにちがいない。……決して左様な心配のあるものではないとよく諭して、もういちど訊ねて来い」

「はい」

 源右衛門が行きかけると、左馬介はそれを止めて、

「わしが参ろう。源右のいかつい問いかたでは、山僧どもが、よう物を申すまい。――光春が参ってねんごろに問うてみまする」

 ことばの半分は、光秀へ向って告げ、光秀のうなずきを見ると、彼は小屋のほうへ歩き出した。

 ところが、その光春のもどりを待っているあいだに、光秀は、会おうともせぬ人物に、はからずもここで会ってしまった。

 鶯茶の投げ頭巾に、同じ色の道服を着、白脚絆のわらじを穿いている。

 年は七十をこえているが、唇は少年の如く紅く、眉は白雪、さながら鶴に道服を着せたような老人であった。

 ふたりの下僕と、ひとりの童子をつれ、四人づれで今、四明ヶ嶽の谷道から上って来たのであるが、ふと光秀のすがたを見かけると、

「おう、日向どのではないか」

 と、一目してその人とすぐ知ったらしく、供の者をうしろへおいて、無造作に側へ来て話しかけた。

「お久しいことでおざった。やれやれ、これはまた、思いがけぬ所で、思わぬお方にお会いするものではある。安土においでて、寸暇もなくお勤めと伺っていましたが、きょうはまた、どうしたお序で、かかる無人の山中へわたらせられたか」

 老齢に似もやらず、非常によく透る音声の持主である。そして白い眉もその唇もとも、屈托なくたえず微笑をたたえている。

 それにひきかえて光秀は少なからず狼狽の容子であった。この明るい老人の眉には、眩しいような眼をさまよわせて、その答えも平常の彼とも思えないほど紊れていた。

「や。どなたかと存じたら……曲直瀬殿か。なんの光秀とて、徒然の日もおざる。数日来、坂本の城に滞在中とて、山でも少し渉りあるいたら、梅雨じめりの鬱気も少し散じようかと思うて」

「稀に、大岳を踏んで、自然に接し、気を洗うのは、何よりの心養、またおからだの薬です。……お見うけするところ、ひと頃よりは、心身ともおつかれの体に見うけられる。病のため、お暇を乞うて、御帰国の途中でもあらせらるるか」

 針のように眼を細めていう。なぜかこの眼の前には欺けないものを感じさせられる。曲直瀬道三、名は正盛、字は一渓。当代かくれのない名医であった。

 足利義輝がまだ室町将軍として健在であった頃から、すでに医として、道三の名は洛内に高く、その寵遇もうすくなかった。管領の細川も松永弾正も三好修理も、みな彼の手にかかっていたものだし、わけて禁中の御信任もあつく、余暇を施薬院の業に尽し、また後輩のために学舎を設け、高齢七十余歳というになお少しも倦むところがない。

 ここ久しく会わなかったが、光秀はこの大医と、安土の城内でいくたびか同席したことがある。そのうち二度ほどは茶席であった。信長は、茶の相手にもよく彼を招いたが、病気といえばすぐ、

(道三を呼べ)

 と、いうのが寝つくよりも先で、常に左右にいる典医よりも、彼への信頼のほうがはるかに篤いようであった。

 けれど道三は由来、権者に召し抱えられるのは好まない質だし、住居は京都にあるので、そのたびごとに安土まで通うのは、いくら丈夫といってもなかなか有難迷惑のようであった。

 光春は小屋まで行かずに戻って来た。急に天野源右衛門が呼び返しに来たからである。

 源右衛門は小声で、

「どうも、まずいお人に出会うてしまいました」

 と、歩みながら囁いたが、光春はやがて曲直瀬道三のすがたを見て近づくと、むしろ僥倖のように、

「これはおめずらしい。一渓老ではありませんか。いつも壮者をしのぐばかりなお元気。きょうは京都からお登りでしたか。何か、御遊山のお連れとでも?」

 などと日頃の親しみを示して、光秀との話の仲へ立ち交じった。

 はなし好きな道三は、この山上に思わぬ知己を拾って、いとど愉快そうに、

「春から夏の四、五月。秋の末の九、十月頃には、毎年こうして、山登りを欠かしたことがない。この峰谷谷には、本草のなかでも貴重な薬種が勿体ないほどたくさんあるのでな」

 と、遠くにひかえている供の一人をさし招いて、携えている籠の内から、

「これは、山うずら。これは、あけぼの草。これは、錦ごろも。これは、菊ごけ。これは、なるこ百合……」

 と、採取した百合科や龍胆科や蘭科植物などの薬草を種々そこへ取り出して、その医効を説明したり、また本草の由来を聞かせたりして、

「信長公は何事にも、新しいもの好きでいらっしゃるし、わけて海外文明には、鋭感なお方なので、安土の南蛮学校にいる紅毛人の医師に命ぜられて、伊吹山のふもとに、薬園をもうけられ、西洋薬草を七、八十種も植えおかれておらるるが、何もそうまでせんでも、この叡山だけでもまだわれらの眼に見出されぬ深秘の薬種がどれほどあるかわからない。かつてこの山の聖が、眼にふれた千種の薬を百首の歌に詠み入れた『天台採薬歌』という冊子が中堂に所蔵されていたと聞いたことがあるので、ぜひ一覧したいものと思うていたが、そのうちにあの元亀二年の兵燹で、かくの如くみな焦土となってしもうた。……かえすがえすもその『天台採薬歌』を見ずにしまったことだけは、今もって残り惜しい気がしてならぬ」

 と、語り来って語り飽きない道三であったが、ただ終始沈黙がちであるばかりか、はなしの間にも、どこかに空虚の窺える光秀の容子にだけは、彼も時折気にかかってならないらしく、その横顔へ、しばしば医家らしい眼をそそいでいる。

 で、話題はまた、いつか光秀の健康に及んで来て、

「光春殿から伺えば、日向殿には、近日、中国へ御出陣とのこと。よほどお体を大事にお保ちあるように。人間五十をこえると、いかにお丈夫でも、自然の生理は否み難く、いろいろな変革が体に起る大機でもありますからな……」

 と、ことば以上、憂いをふくめて、くれぐれも注意した。

「そうでしょうか」

 光秀は、強いて一笑に附しながら、道三の注意へ他人事のように答えた。

「先頃、かろい風邪気味ではありましたが、生来強健のほうでべつにこれという病も覚えませんが」

「いや、そうもいえない」

 道三は、自家の医学と体験の権威をもって、それを否定した。

「病を病と自覚している病人はつねに意を用いているからまだよいが、あなたのように無病を過信していると、まま大きな過ちに陥る。充分お気をつけなさい」

「では、どこが光秀の宿痾であろうか」

「お顔の色を見、お声を聞いただけでも、尋常な御容態でないことはすぐわかる。どこといえる宿痾ならまだしも、おそらく五臓すべてにお労れが来ているのではあるまいか」

「労れがあろうと仰せなれば、それは自身でも頷けます。年来の転戦、君側の勤め。いやもう、無理に無理を押して来た体ですからな」

「日向殿の如き知識の人へ、こういうのは釈迦に説法であろうが、よくよく御養生あるがよろしい。肝、心、脾、肺、腎の五臓は、五志、五気、五声にあらわれて、色にも出で、ことばにも隠せぬものでおざる。たとえば、肝を病めば、涙多く、心をやぶれば、恟々としてものに恐れ、脾をわずらえば、事ごとに怒りを生じやすく、肺の虚するときは憂悶を抱いて、これを解す力を失う。また腎弱まれば、よく歓び、即座にまた悲しむ。……」

 じっと、道三は、光秀の顔色を見つめた。病人でないことを自信して光秀は、その言を聞こうとは思わなかった。強いて微笑に紛らわせていようとすると、不快になり不安になり、理由なき焦躁に駆られてくる。で、努めて答えずに、この老人とはやく別れる機会を見つけたいような面持であった。

 しかし曲直瀬道三は、自身がいおうとすることを、決して途中で云い濁すようなことはなかった。そうした光秀のひとみや気色を覚りながらも、なお話をつづけて、切言した。

「あなたにお会いしたときから気にかかったのは、あなたの皮膚の相色であった。何を憂い、何を恐れておらるるか。――しかもお眼は怒脈をひそめ、匹夫のごとき怒りと、婦人のような涙とを、一眼のうちにたたえておられる。――夜、手足の爪まで凍えるような冷えをお覚えなさらぬか。しかも耳は鳴り、唾液は渇き、口中に棘を咬むようなお心地はあらせられぬか」

「まま眠りかねる夜もありましたが、昨夜はよく寝みました。何くれとなくお心づけ、辱うござった。出陣の後も、何か薬餌を摂りましょう」

 と、光秀はこれを機に、左馬介や源右衛門を顧みて、参ろうかと道を促しながら、また、

「そのうちに改めて使いをつかわしますゆえ、何ぞ、持薬をお授けください。いや、途上まことに失礼いたした」

 と、のがれるように先へ別れて行った。

この回についての Q&A

Q1. なぜ光秀は、信長の命令で自ら焼き討ちにした叡山へ、あえて行こうと思ったのでしょうか?

A. 本文中では、光秀自身が「当年、わしもまた、信長公の御命やむなく、その狂炎の一ツとなって、山徒の悪僧のみか、無辜の老幼僧俗まで無数に刺し殺した。……今日、それを思うと、この胸は、さながら当年の燃ゆる山の如く呵責される」と語っています。表向きは、過去の行いに対する罪悪感や、生き残った人々への同情心(菩提の心)から、山を弔い、僧に布施をしたいという気持ちが動機となっています。しかし、信長への不満が頂点に達している時期でもあり、反信長勢力となりうる叡山の現状を確認したいという、無意識の政治的な思惑があった可能性も物語の深みとして読み取れます。

Q2. 名医・曲直瀬道三は、光秀の何を見て「尋常な御容態でない」と判断したのですか?

A. 道三は、光秀の顔色、声、そして目の様子から総合的に判断しました。彼は「お顔の色を見、お声を聞いただけでも、尋常な御容態でないことはすぐわかる」と断言しています。具体的には、光秀の目に「匹夫のごとき怒りと、婦人のような涙とを、一眼のうちにたたえておられる」と、相反する感情が同居する異様な様子を見出しました。これは、光秀が極度の精神的ストレス下にあり、憂い、恐れ、怒りといった感情に苛まれ、五臓すべてが疲弊していることの現れだと見抜いたのです。

Q3. この章のタイトル「光秀決断編」の「決断」とは、具体的に何を指していると考えられますか?

A. 直接的には、家臣の反対を押し切って「叡山へ微行する」という決断を指しています。これは信長への配慮を欠く行動であり、光秀が信長の意向よりも自身の内なる声に従い始めたことを示す象徴的な一歩です。しかし、より大きな文脈では、この小さな決断が、やがて本能寺の変という歴史的な「決断」へと繋がっていく精神的な転換点であることを暗示しています。道三との出会いは、光秀がもはや引き返せないほど精神的に追い詰められていることを客観的に示しており、その後の大それた決断への重要な伏線となっています。

© 丸竹書房

最新情報をチェックしよう!