新書太閤記 第三十九回「光秀の苦悩編」
インタラクティブあらすじ
🏯 安土の饗宴
物語の舞台は、中国地方の戦乱とは対照的に、華やかな文化が花開く安土へ移ります。この頃、備中高松城では羽柴秀吉による水攻めの準備が着々と進められていましたが、安土城は織田信長が迎える一人の大賓のために、かつてないほどの賑わいを見せていました。この章では、その絢爛たる饗宴の様子と、その裏で進行する明智光秀の運命の転換点を描きます。
🚶 家康の安土入り
五月十五日、信長が安土城に迎えた大賓とは、徳川家康、当時四十一歳。表向きは「十三年ぶりの上方見物」とされていましたが、甲州攻め凱旋の際の信長への歓待に対する返礼、そして織田・徳川同盟のさらなる強化と将来の大策を協議する重要な訪問でした。信長は、中国出陣の準備中であった息子の信忠をも動員し、三日間にわたる盛大な饗宴を計画。接待奉行には惟任日向守光秀が任じられました。
この丁重な歓待の背景には、二十余年に及ぶ織田・徳川の同盟関係の重要性、そして信長の将来構想(関東以北を家康に委ね、自身は西国平定へ)があったと噂されました。信長にとって家康は、理想的な友邦であり、頼もしい知己。信長は家康を「わが糟糠の妻」とまで思い、心からの礼遇を尽くそうとしていました。
🎭 能楽の騒動
饗宴の一環として、安土山上の総見寺の舞楽殿で猿楽能が催されました。梅若太夫が「大織冠」「田歌」を舞い好評を得ましたが、追加で命じられた能で失態を演じます。これに対し信長は激怒し、「見せしめのため、梅若太夫の首を刎ねい」と厳命。楽屋は騒然となります。
幸い、家康のとりなしで梅若太夫は許されましたが、この一件は饗宴に水を差す出来事となりました。信長は後に梅若太夫にも祝儀を与えていますが、客への誠意の表れとはいえ、その過度な厳しさは周囲を緊張させました。
❓ 光秀の不在と家康の問い
家康は、饗応役であるはずの日向守光秀の姿が宴席に見えないことを不審に思い、信長に尋ねます。信長は「都合によって、十五日の夜、坂本へ帰城いたした」とあっさりと答え、特に変わった様子は見せませんでした。
しかし、その夜家康が宿所の大宝院に戻ってから家臣たち(酒井左衛門尉、石川伯耆ら)から聞いた話によると、光秀の急な帰国には複雑な事情が絡んでいることが明らかになります。
🐟 饗応準備の不手際
光秀帰国の真相は、十五日に信長が饗応奉行の台所屋敷を臨検した際に起こった出来事にありました。蒸し暑さの中、乾物や生魚の臭いが立ち込め、大量の食糧が散らかっている様を見た信長は激怒。「くさい。くさい」「何事だ、この埃は。この不始末は」と叱責し、腐敗の疑いがあるとして全ての食材を取り捨てるよう命じました。
連日準備に奔走していた光秀は弁明しようとしますが、信長は聞く耳を持たず、「一切、取り捨ててしまえ。こよいの御馳走は他の物をもってする」と言い放ち去ってしまいます。
😠 光秀の苦悩と叱責
信長が去った後、茫然自失の光秀のもとに使者が訪れ、「其方儀、中国表へ、先陣として出勢すべきの旨、仰せ出さる」という書状が渡されます。これは事実上の饗応役解任と、即刻の出陣命令でした。丹精込めて準備した馳走は、光秀の家臣たちの手によって濠へ投げ捨てられました。
坂本城に戻った光秀は、深い苦悩に沈みます。信長の不可解な仕打ち、理解し難い気性に翻弄され、自身の「きんか頭」と自嘲した頭脳も疲弊しきっていました。家臣たちもまた、主君の度重なる屈辱に憤懣やる方なく、不穏な空気が漂います。
信長からの再度の使者、青山与三は、光秀に対し、但馬・因幡経由で中国へ出陣し、羽柴秀吉を側面支援するよう具体的な指示を伝えます。この時、信長が直接光秀に会うことを避けたかのような対応は、光秀の心をさらに傷つけました。彼は床の間の花瓶を庭石に叩きつけ、独り虚しい笑い声をあげます。
💔 安土からの出立
その夜、光秀は家臣一同と共に旅装を整え、安土を後にします。家中は重苦しい空気に包まれ、武士たちの表情は暗く険しいものでした。雨が降りしきる中、光秀は駒を立てて安土城を振り返ります。湖面に映る城の灯は、寒々しく揺らめいていました。
側近の藤田伝五が雨具を着せかけると、光秀は静かにそれを受け入れます。彼の心中に渦巻くものは、この時点では誰にも計り知れませんでした。
👥 主な登場人物
- 織田信長(おだ のぶなが): 天下統一を目前にする戦国の覇者。気性が激しく、時に非情な判断を下す。
- 徳川家康(とくがわ いえやす): 信長の盟友。遠江・三河の領主。忍耐強く、思慮深い。
- 明智光秀(あけち みつひδε): 惟任日向守。信長の重臣。知勇兼備だが、信長の度重なる仕打ちに苦悩を深める。
- 織田信忠(おだ のぶただ): 信長の嫡男。中国攻めの準備中だった。
- 羽柴秀吉(はしば ひでよし): 中国攻めの総大将。この時、備中高松城を水攻め中(本文中では間接的な言及)。
- 森蘭丸(もり らんまる): 信長の近習。
- 酒井左衛門尉(さかい さえもんのじょう): 徳川家康の家老。名は忠次。
- 石川伯耆守(いしかわ ほうきのかみ): 徳川家康の家老。名は数正。
- 青山与三(あおやま よぞう): 信長の使者。
- 藤田伝五(ふじた でんご): 明智光秀の側近。
- 梅若太夫(うめわかだゆう): 能役者。饗宴で能を舞う。
- 幸若八郎九郎太夫(こうわか はちろうくろうだゆう): 舞の名手。饗宴で舞を披露。
🤔 Gemini質問箱
Q:史実の光秀も信長の我が儘に振り回されていたんですか?
A:はい、そのように解釈できる記録や逸話が複数存在します。例えば、甲州攻めの後、諏訪での宴席で信長に暴行を受けたとされる話(甲陽軍鑑など後世の記録によるが、信長の苛烈な性格を示す逸話として知られる)や、今回の饗応役解任と突然の中国出陣命令などは、光秀が信長の意向に翻弄された例として挙げられます。また、領地替えに関する不満や、長年の功績に対する評価への疑問なども、光秀の不満の一因とされています。ただし、これらの出来事の具体的な経緯や光秀の心情については、史料によって記述が異なったり、後世の創作が含まれる可能性もあるため、多角的な検討が必要です。
Q:秀吉は光秀について、語り残したことはありますか?
A:羽柴秀吉は、本能寺の変後、光秀を「三日天下」で破り、信長の後継者としての地位を確立しました。そのため、公的な記録や書状においては、光秀を「逆臣」「主君殺しの悪人」として断罪する立場を一貫して取っています。例えば、山崎の戦いの後に出したとされる文書では、光秀の行為を厳しく非難しています。個人的な心情を詳細に語った記録は少ないですが、秀吉の行動や政策は、光秀の謀反を反面教師とし、自身の権力基盤を固める上で大きな影響を受けたと考えられます。
Q:信長の部下に対する理不尽は有名でしたか?
A:はい、織田信長の部下に対する厳しさや、時に理不尽とも取れる処遇は、多くの記録や逸話として残っています。能力主義を徹底し、成果を上げられない者や意に沿わない者には容赦ない対応をとることがありました。例えば、佐久間信盛・信栄親子や林秀貞といった宿老クラスの重臣でさえ、過去の失策や現在の働きぶりに不満があるとして追放しています。こうした厳格さが織田家の急速な勢力拡大を支えた一面もありますが、同時に部下たちの間に恐怖や不満を蓄積させる要因にもなったと考えられています。
Q:信長への謀叛は、計画もふくめてたくさんあったはず。なぜ光秀だけが成功したのか?
A:信長に対する謀反や反乱は、松永久秀や荒木村重など複数ありましたが、光秀の「本能寺の変」が成功(信長を討ち取るという意味で)した要因としては、いくつかの点が挙げられます。第一に、周到な準備と情報統制です。光秀は自身の軍勢を巧みに動かし、謀反の意図を直前まで隠し通しました。第二に、信長が少数の供回りとともに本能寺に滞在していたという油断です。当時、信長は天下統一を目前にし、警戒が薄れていた可能性があります。第三に、光秀自身の能力と立場です。光秀は織田家中で高い地位にあり、動員できる兵力も大きかったため、迅速な行動が可能でした。他の謀反が鎮圧されたのは、信長の圧倒的な軍事力や情報網、あるいは謀反側の準備不足などが原因と考えられます。
Q:徳川家康、および徳川家からみた光秀評は残っているのか?
A:徳川家康や江戸幕府の公式な記録において、明智光秀は主君信長を討った「逆賊」として否定的に描かれています。これは、幕府の秩序維持や忠誠を重んじる価値観を強調するためです。家康自身、本能寺の変の際には堺に滞在しており、伊賀越えという危険な逃避行を強いられました。そのため、光秀の行動は家康にとっても大きな脅威でした。江戸時代に編纂された『徳川実紀』などの史書では、光秀の謀反は許されざる行為として記述されています。家康個人の光秀に対する私的な評価を詳細に記した一次史料は限られていますが、公の立場としては一貫して否定的な評価であったと言えます。