音本倶楽部/コーラス部(唄のみ)
あらすじ
遠州浜松の城下外れに越してきた浪人・鎌田孫次郎は、妻を溺愛する「甘田甘次郎」と渾名されるほどの男。洗濯から買い物まで自分でこなし、妻の機嫌を気遣う姿は街道筋の笑い種となっていた。しかし問屋場の隠居・六兵衛だけは彼の人品を見抜き、寺小屋の師匠として世話をする。ある日、上意討の場に居合わせた孫次郎は見事な剣で助勢し、大番頭・沖田源左衛門の知遇を得る。源左衛門が孫次郎の家を訪れた時、衝撃の真実が明かされる――妻・椙江は三年前に既に亡くなっており、孫次郎は亡き妻を生きているかのように振る舞い続けていたのだ。仏壇の似絵を見た源左衛門は、その顔が自分の娘・小房に瓜二つであることに気づく。仕官の話が持ち上がるも、亡き妻への未練から浜松を去ろうとする孫次郎。その前に現れたのは、眉を落とし歯を染め「椙江」と名を改めた小房だった。源左衛門の深い情誼に心を打たれた孫次郎は、高野山で亡き妻の供養を終えたら戻ると約束し、二人は東海道を西へ旅立つ。
作者紹介
1903年(明治36年)- 1967年(昭和42年)。山梨県生まれの小説家。本名・清水三十六。質店「山本周五郎商店」で働いた経験から筆名とした。『樅ノ木は残った』『赤ひげ診療譚』『さぶ』など、市井の人々や下級武士の生き様を温かい眼差しで描いた時代小説の名手。直木賞を辞退したことでも知られる。本作は亡き妻への一途な愛情と、それを見守る人々の情誼を描いた人情物の佳品。
登場人物
- 鎌田孫次郎
本作の主人公。二十八九歳の美男の浪人。中国地方出身で梶派一刀流の達人。三年前に亡くなった妻・椙江を忘れられず、生きているかのように話しかけ続けている。そのため「甘田甘次郎」「女房に甘次郎」と渾名される。洗濯や買い物も自分でこなす姿が滑稽に見られるが、実は深い愛情の表れ。後に沖田源左衛門の知遇を得て仕官の道が開ける。 - 椙江(すぎえ)
孫次郎の亡き妻。三年前、浪々の貧苦の中で病死。家柄の良い育ちながら夫の浪人生活を支え、「わたくしは是が本望」と笑って耐えた。孫次郎の心の中では今も生き続けている。 - 沖田源左衛門
浜松藩・井上播磨守の家臣で大番頭。孫次郎の剣技と人品を見抜き、息子・千之助への剣術指南を依頼。仏壇の似絵が娘・小房に瓜二つなことに気づき、娘を「椙江」として孫次郎に添わせるという深い情誼を見せる。 - 小房(こふさ)→椙江
源左衛門の娘。十九か二十歳。亡き椙江に瓜二つの容貌を持つ。父の意を汲み、眉を落とし歯を染めて「椙江」と名を改め、孫次郎の許へ嫁ぐ覚悟を決める。 - 千之助
源左衛門の息子で小房の弟。孫次郎から梶派一刀流を学ぶ。 - 六兵衛
問屋場「猪之松」の隠居。孫次郎の人品を見抜き、「千人に一人」と評価。甘次郎と揶揄する者を叱りつけ、寺小屋開設の世話をする。 - 吉公
猪之松の店の者。口が軽く、孫次郎を「甘田甘次郎」と揶揄し続け、六兵衛に何度も張り倒される。 - 金八
魚売り。孫次郎が洗濯をしている姿を見て「飴ん棒」と評し、甘次郎の渾名を広めるきっかけを作る。 - 犬飼研作
上意討の対象となった武士。五人の討手を相手に善戦するほどの剣の使い手だったが、孫次郎の助勢により討たれる。