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「主題歌付き朗読」池田大助捕物帳 【お美濃の行方】 ナレーター七味春五郎 発行元丸竹書房

 

 

池田大助捕物帳

野村胡堂著

お美濃の行方

作品紹介

「池田大助捕物帳」は、『銭形平次捕物控』で知られる作家・野村胡堂が描く、もう一つの痛快な時代活劇シリーズです。

主人公は、旗本の身分でありながら町方のために活躍する若きヒーロー、池田大助。明晰な頭脳と行動力、そして彼を支える個性豊かな仲間たちと共に、江戸に渦巻く難事件に立ち向かいます。

本作「お美濃の行方」では、大助が想いを寄せる美しき娘・お美濃が、ある夜忽然と姿を消してしまいます。巧みに残されたわずかな手掛かりを頼りに、大助とお馴染みの飴屋の仙太郎が江戸の町を駆け巡る、手に汗握る救出劇。恋とスリルに満ちた、シリーズの中でも人気の高い一篇です。

作者紹介:野村胡堂(のむら こどう)

日本の大衆文学を代表する作家の一人。『銭形平次捕物控』の生みの親としてあまりにも有名。捕物帳というジャンルを確立させた功労者であり、その作品は江戸の風俗や人情を巧みに織り交ぜた、生き生きとした描写で高く評価されています。「池田大助捕物帳」は、銭形平次とはまた異なる、若々しく行動的なヒーロー像を描き出し、多くのファンを魅了しました。

あらすじ

池田大助が一途に想いを寄せる、才色兼備の娘・お美濃。自分の素性が分からないことを憂い、大助との祝言をためらう彼女が、ある晩、忽然と姿を消してしまう。甘い言葉で彼女を連れ去ったのは、かつて軽業小屋で一緒だった男・伊三太だった。

絶望の淵に立たされる大助。しかし、お美濃は連れ去られる道中、自身の持ち物を少しずつ落とし、命がけで手掛かりを残していた。赤い扱帯、割れた櫛、紅い巾着…。その意味不明な暗号「この上そつの下」とは? 大助は相棒の飴屋の仙太郎と共に、お美濃を救出するため江戸の闇を駆け抜ける!

主な登場人物

  • 池田大助 (いけだ だいすけ)
    本作の主人公。旗本の若様だが、正義感が強く、お美濃を救うため奔走する。謎解きもお手の物。
  • お美濃 (おみの)
    類まれな美しさと賢さを持つ娘。自分の出自を気に病んでいる。誘拐されながらも、機転を利かせて大助に手掛かりを残す。
  • 飴屋の仙太郎 (あめやの せんたろう)
    大助の相棒。お調子者だが、いざという時には体を張る、頼りになる江戸っ子。
  • 伊三太 (いさんた)
    元軽業師の男。お美濃に歪んだ恋心を抱き、強引な手段で彼女を連れ去る。
  • 平助 (へいすけ)
    大助に仕える人の良い爺や。お美濃の身を案じている。

 こんな事件があった為に、池田大助はいよいよお美濃と祝言をする決心を定めたのでした。

「お美濃さんを何時までも独りで置くからいけないんだよ、あんなに大将の事を思っているんだもの、手っ取早く祝言し、安心さしてやるが宜いじゃないか、女の子だってあんまり綺麗過ぎるのを放って置くと、ツイ魔がさすというものさ」

 飴屋の仙太郎が、池田大助をつかまえて、こんな大啖呵を切ったのも無理のないことでした。

 綺麗な女の子を放って置くと魔がさす――仙太郎は全くうまいことを言ったものです。その頃のお美濃は十九の厄歳で、来年はもう「二十歳白歯」又は「二十歳島田」とその頃の慣わしでは、娘遅れの例にされる年頃でした。

 両国の軽業小屋で、天女という名前で江戸中の人気者になつて居たのは、今から三年前のお美濃が十六の年、池田大助に九死の底から救い上げられて、三年という長い間、大助の召使のように、身の廻りの世話をし乍ら、学問から諸芸に至るまで、女一と通りの修業を励み、一方には、及ぶ限りの手を廻して、真の親の行方を尋ねて居るお美濃だつたのです。

 心栄えから、学問諸芸にいたるまで、お美濃は全く申分の無いほど身に着けました。その上慎しみ深い心掛けで、十九の娘盛りを、白粉一つつけないお美濃の、この頃の美しさはまた何んという奇蹟でしょう。

 少し浅黒い――が桃色真珠のような、底光りのする皮膚の艶やかさ、均整の取れた、伸び切った四肢、そして叡智に輝やく大きい眼、柔かいの線に、キリリと刻みを入れたような、可愛らしい唇、これはまことに、造化の神の傑作の一つで、ありふれた「美人」という言葉は、お美濃を形容するにしては、あまりにも低俗な響を持っているとさえ思われるほどでした。

 そのお美濃が、ある夜不意に姿を隠したのです。

 神楽坂裏に隠居して居る父親を訪ねて、晩酌の相手をしたり、昔語りに相槌打ったり、漸く暇を告げて帰った池田大助は、御数寄屋橋のお長屋に着いたのは、やがて真夜中近い時分でした。

 桜にはまだ早く、薄寒い淋しい道でしたが、その晩は飴屋の仙太郎が一緒で、その馬鹿々々しい話に興を惜しむし乍ら、遠道も忘れてお長屋の戸口へ、

「お美濃さん、今帰ったよ」

 お先触の仙太郎は飛込みます。

「——」

 中はひっそりとして返事もなく、どんなに遅く帰っても、キチンとした身なりで、明るく迎えてくれるお美濃の姿も見えません。

「チェツ、だらしが無いぜ、旦那様のお帰りだというに、居眠りだろう」

 相変らず口の悪い仙太郎です。

「ヘェ、へエ、お帰りなさいまし」

 そう言う仙太郎の前に、障子を開けて顔を出したのは、永年の間、召使われている、爺やの平助でした。

「あのお美濃はどうした」

 大助はツイお美濃の名を口に出してしまいました。端たないとは思い乍らも、いつも温かく迎えてくれるお美濃の顔を見ないと、何んかこう襲われるような、不吉な予感を覚えるのでした。

「旦那様と御一緒ではございませんか」

「いや、そんな事は無いが――」

「それは変でございますな」

「何処へ行ったのだ」

 大助は少しせき込みました。平助爺やの言葉の方がよっぽど変です。

「どことも仰しゃいません、――もう四つ(十時)近くなつてからでございました。お勝手口へ使の者が参りまして、お美濃さんと何んか話して居りましたが、間もなく身を直したお美濃さんは、一寸出かけて来るから、心配をしないようにと――そのまゝ使の者と一緒に出掛けてしまいました」

「?」

「今までもよくあったことでございますから、又旦那様がお美濃さんの手を借りたいことが出来て、わざと御呼出しになったことと思い込んで居りました」

平助の言うのは尤もでした。これまでいろゝのむつかしい事件を取扱って居るうちに、身体の軽い、智恵のよく行届くお美濃を呼出して、手伝ってもらった例は決して少くありません。

「いや、そんな筈は無い。私は仙太と一緒に、今まで神楽坂の父親のところに居たのだ、美濃を呼出した覚えは無い」

「へえ?」

「それに、私が美濃を呼寄せる時は、仙太郎を使によこすか、でなければ、必ず書いた物を持たせることにしている。――その使の者は、何んか手紙のようなものを持つて来なかったか」

「いえ、何んにも持つて来ませんようで」

「?」

 池田大助は深々と考え込みました。これは実に容易ならぬことです。

「こいつはよっぽど変だぜ、大将」

 飴屋の仙太郎少年の顔にも、疑惧の念は覆うべくもありません。

 奥へ通った池田大助は、羽織を脱いで、大刀を側へ置きましたが、それを片付けてくれる人も無く、火鉢の埋み火は、丁度良いあんばいに鉄瓶を沸ぎらせて居りますが、行燈の丁字が溜ったまゝで、部屋の中の薄暗いのも、何んとなく疑惑を深めさせます。

「大将、お美濃さんが黙って出て行くのは容易のことじゃないぜ」

 仙太郎は敷居際に突っ立ったまゝ、まだそんなことを言って居ります。

 これが世間並の小娘で、池田大助のところに居るのが嫌になって出たとか、昔の恋人が訪ねて来て、言葉巧みにおびき出したというなら、池田大助はその儘放つて置いたことでしょう。併しこの三年間のお美濃の、誠実な勤め振りから見ても、そんな事は想像も出来ず、もしやまた、嫌になって出るにしても、一言の挨拶位はあって然るべきです。

 昔の恋人? ――そんなものの無いことも、池田大助はよく知って居ります。此処へ来たのは十六と言っても、まだほんの小娘で、この上もなく清潔な感じのしたお美濃でした。それから三年の間、気振も見せなかったお美濃に、古い恋人のあろう道理もありません。

「それにしても手紙位は遺して行きそうなものだが――兎も角もう少し詳しく訊きたい、爺やを呼んでくれ」

「あいよ」

仙太郎は飛んで行くと、間もなく平助爺やをつれて来ました。もう六十近いでしょう、全くの独り仁体です。

大助に仕えて四五年になりますが、気働きの無いという欠点の外には、先ず信用されて宜いかげな爺さんでした。

「美濃をつれて行った。使の者というのは、どんな人間であつた」

大助は心もそぞろに、埋み火をかき起し乍ら訊ねました。

「お勝手の暗いところに立つて居るので、よくわかりませんでしたが、小意気な若い男のようで」

「言葉は?」

「江戸者で、お美濃さんとは顔馴染のようでございました。あら、お前なの――とお美濃さんが言って居たようで」

「それから?」

「それっきりでございます。――使の者に待たせて置いて、お美濃さんは、何時になくいそいそと出かけて行きました」

「いそいそと?」

「ハイ」

「ヘイ、よっぽど心のせく様子で」

「何方へ行ったか――見当はつくまいな」

 大助を見上げた平助爺やの眼も絶望的でした。

「美濃は近頃何んか気にしていたことは無いか」

 大助は改めて二人に訊ねました。こうして居るうちに、更くる夜と共に四壁から犇々と迫る淋しさ、それを振り払うように、大助は問い進んだのです。

 三年も同じ屋根の下に生活したお美濃、申分なく美しく優しいのに、自分の素性がわからぬばかりに、石子伴作や大岡越前守の意志にまで反いて大助と祝言もせずに居るお美濃に対して、大助はこんなにまで心引かれようとは、お美濃が居なくなった今晩までも、ツイ気が付かずに居たのでした。

 今、不意にお美濃を取去られると、充たしようの無い恐ろしい空白が、若い大助の心を抗いようもなくさいなみ続けます。

「そう言えば、この間からお美濃さんは変なことを言って居たよ」

 飴屋の仙太郎は膝つ小僧を叩きました。

「変なことというと?」

「お美濃さんはこういうんだ、――旦那様のお蔭で、何不自由なく暮しては居るが、近頃どうしたものか、私の真当の親のことが気になってならない――と」

「ふーむ」

 お美濃がそう言うのは、よくゝ思い詰めたからでしょう。自分の素姓がわからないばかりに、また万一にも大助の出世の妨げになってはと、祝言まで延ばしに延ばして居るお美濃にして見ればつくづく真当の親のことが気になるというのは、全く無理もない述懐だつたのです。

「――万一私の素姓が悪かったらどうしよう――なんて、お美濃さんは、そんな苦労までして居たぜ、素姓なんかべら棒奴此処の大将だって桶屋の子じゃ無いかつて、おいら言ってやったんだがー」

「これ、仙太、何をお前、失礼なことを」

 平助爺やはあわてて止めましたが、

「いや、それに相違ないよ、この池田大助も桶屋の子だ、お美濃の親が何んであろうと」

 大助はそう言って、苦笑いをするのです。若しこの大助の言葉をお美濃に聞かしてやったら、どんなに喜ぶことでしょう。

 一方、お美濃を誘い出したのは、今から、三年前、両国の軽業小屋――神変斎天雷のとこに居た、竹乗の伊三太という、二十七八の若い男でした。

 芸は大したものではありませんが、異常な体力の持主で、その腕の強さは非凡なばかりでなく、男前もさして醜くはなく、一座の中でも評判の太夫でしたが、神変斎天雷が兇賊夕立と知れて、池田大助のために召捕られた時、巧みにその網を免れて上方に突っ走り、ほとぼりさめたところで、ソリと帰って来た札付の悪者だったのです。

「お美濃さん。お前に良いことを教えに来たんだが――」

 大助のお長屋のお勝手に顔を出した伊三太が、一番最初に言った言葉はこうでした。

「まア、伊三太さんなの、――良い事って、一体何?」

 お美濃はツイ釣られたのも無理はありません、神変斎の小屋に居る時、まだ小娘だった自分を庇つて、何彼と面倒を見てくれたのが、この伊三太だつたのです。

「お前、本当に親にめぐり逢いたがつて居たが――今でも、そんな気で居るのかい」

「そりや、伊三さん」

「その本当の親が、どんな恥かしい身分でも、お前は逢ってやる気かえ」

「伊三さん、どんな身分だって、親となれば――ね、伊三さん、それは一体本当のことなの」

 お美濃はツイ水下駄を突つかけて、お勝手の外へ出て居りました。

「お前を神変斎天雷親方に売った真当の親を、私は子供心に知って居たのだよ、あまり大きい声では言えないが、そのお前の親というのが、近頃浅草の観音様の境内で、往来の人の袖に縋りついて、露命をつないで居るのを、私は見付けたんだ」

「えッ」

 それは実に驚く可きことでした。お美濃は自分の素姓を、まさか国主大名の姫君とは思わないまでも、せめては世間並な、町八百姓であれかしと祈り続けて居たのです。

「神変斎の小屋に来たときお前はまだ三つ位だった。親のことを知らないのも無理は無いが、顔に大きい黒子があったのと、恐ろしい跋足だったので、十二三のおれでも忘れようは無かった。そのお前を棄てた父親の仁吉という乞食が、近頃又江戸に舞い戻って、浅草で袖乞をして居たが、よくゝ年を取って足腰が立たなくなり、十日ばかり前、少しの縁故を辿っておれの小屋へ転げ込んで来たのだよ」

「まあ」

 お美濃はもう泣いて居りました。十何年かの間、こがれ抜いた親に巡り逢う時機が来たのに、その親が浅草界隈で知らぬ者も無い、跛足の仁吉という老乞食とは何んとしたことでしょう。

「その父親の仁吉が、おれの小屋で死にかけて居るのだ。親らしく無い親だが、たった一人の娘のお美濃に、一と眼でも逢って死にたい、お前が娘の行方を知って居るなら、何んとでもしてくれ――と、血の涙を流しての頼みだ」

「——」

「折角幸せに暮して居るお前のところへ、こんな事を言って来るのは殺生だが、人間の末期の願いを放って置けない、――どうだお美濃、たった一と眼父親に逢ってやるか、それとも何んにも知らないことにして、この儘死なせてやるか、どうせ夜明けまで保つ命じゃあるまい」

「私は行きますよ、伊三さん、案内して下さい」

「お前行くのは宜いけれど、これが人に知れると、お前の身の上は滅茶々々だよ」

「そんな事は、伊三さん」

 お美濃はもう自分の安穏な生活などを考えては居ませんでした、手早く仕度を整えると、伊三太を促すように、夜の往来へ――罪悪と暗黒の江戸の港へ飛込んだのです。

「おや?」

 お美濃は立止りました。道が違って居るようです。

「何んだ、お美濃さん」

「両国じゃなかったの? 伊三さん」

 伊三太の足は、真っ直ぐに永代に向って居ります。

「両国に居たのは昔の話さ。今では深川の八幡様に小屋を掛けているよ」

「——」

 お美濃は黙っていて行く外はありません。

「寒くはないかえ」

「いえ」

「ふるえて居るようだが――」

 それは桜には早いと言っても、朧に更けた夜で、寒いというほどの時候ではありません。

「——」

 永代橋へ来た頃は、伊三太の手は、確とお美濃の袂を掴んで、少し引摺り加減に足を急がせて居たのは何んとしたことでしょう。

「此処だよ、お美濃さん」

 八幡様を通り過ぎて、とある路地を入ると、真新しい格子戸を、伊三太はガラリと足で開けました。

「あ、親方、帰ったかい」

 迎えたのは海坊主のようなグロテスクな三十男、久松と言つて名前だけは優しいが、智恵の廻らぬ、軽業小屋の雑用にコキ使われて居る人間でした。

「此処は? 伊三さん」

「あつしの家さまア其処へ坐るが宜い」

 二階へ引摺り上げるように、お美濃を坐布団の上に据えると、伊三太自身は梯子段の口に陣取りました。

 お美濃は滅多に物に脅えるような娘では無いのですが、この時ばかりは、五体の脈管に伝わる、処女の怖れをどうすることも出来なかったのです。

「私に逢わせると言った――」

 父親は?

 と言い兼ねました、此処まで来ると、それはもう真っ赤な嘘とわかりきって居ります。

「浅草に居るよ」

「えツ」

「仁王前の前で、――右や、左の――をやって居るよ、跛者の仁吉と言つてね、粂の平内様ほど高名な乞食だ」

「じゃ、お前」

 お美濃はがっかりして崩折れてしまいます。伊三太に騙されて、此処までおびき出された口惜しさというよりは、自分の本当の親が、あのかつたい坊の跛者の、醜い乞食で無かったという安堵です。

「そうでも言わなきや、黙っておれに眠いて来るお美濃さんじゃ無いよ、――池田大助という、良い男がついて居るんだ」

「——」

「なア――お美濃さん、神変斎の小屋で十何年間も同じ鍋の物を喰って育った仲だ、そんなむつかしい顔をせずに、少しは笑い顔も見せてくんな、ね、おい」

「——」

「この伊三太が、お美濃さんの天女にどんなに親切だったか、忘れはしめえ」

「それは知ってるわ、だけれど」

「色恋は別——とでも言う積りだろう、三年前に上方へ飛んで、久し振りで江戸へ帰った俺は、先ず何をやったと思う――」

「——」

「噂に聴いたお数寄屋橋の長屋を覗いて、お美濃さんの成人した姿を見て、おれは命もいらなくなったよ、なア、お美濃さん」

 伊三太の強い手、――青竹を割ると言われた鉄の腕が、ズイと伸びて、お美濃の二の腕を掴むのです。

 キラキラと情火に燃える眼、野性そのものの凄まじい顔――それが一寸見られる男振りだけに、精力的で、圧倒的で、お美濃の戦闘力を完全に封ずるのです。

 お美濃は無類の軽捷な身体と、珍らしい頭の働きを持つた娘でしたが、それは素人衆に比較して言うことで、軽業小屋の選手で、力業と身軽さを売物にして居た、伊三太のような人間の前に立つては、唯の無抵抗な娘ッ子に過ぎません。

 数寄屋から此処まで来る間に、伊三太の烈々たる情熱は感じ過ぎるほど感じたわけですから、逃げれば逃げる隙があった筈ですが、この男に袂を確と掴まれて居ると、逃げ出すどころか、声を立てることさえ出来なかったのです。

 変な素振りを見せたら、一瞬のうちに、その鉄の腕が、お美濃の細首に巻きつくでしょう、現に今こう相対して居ても、あの男の凄まじい情熱と腕力の前に、お美濃は全く無力にさせられて、僅かにその品位と清潔さで、処女の誇りを護って居るに過ぎなかったのです。

「お美濃さん、何んとか言ってくれ、――俺はお前の声が聞きたいよ――力ずくでどうしようと言うんじゃない、おれの女房になってくれる気を起すまで、俺はこうお前と睨めっこをする積りで頑張って居よう、おれ達は敵同士でもないんだ、なア、お美濃さん、笑ってくれよ、ニッコリと、おれは三年の間、お前の笑顔を夢に見続けて居たのさ、――可哀想な心中男じゃ無いか」

 そう言い乍らも、伊三太の鉄の手は、お美濃の腕から肩へ、胸へ――と処女の触感に溺れて、気違い染みた愛撫を続けるのです。

「伊三さん、そんな事をすると、私は大きな声を出すかも知れない、少し離れて居ておくれ、私は死ぬ事なんかを怖がっては居ないけれど――」

 ――死ぬことなんかを怖がって居ないけれど、この処女の胸に高鳴る血潮の響きを、あの人に聴いて貰えず、野性のような男の手籠に逢うのが、死んでも死に切れないお美濃の歎きだったのです。

「お美濃、お美濃、これほど思い詰めたおれの心も知らずに」

「勘忍しておくれ伊三さん」

 追う者も追わるる者も泣いて居りました。薄暗い行燈の下で、愛憎の渦が夜と共に深まるばかりです。

 一睡もせずに、お数寄屋橋の夜が明けました。

「何処へ行くんだ、大将」

「美濃を誘い出せるのは、元の両国の小屋に居た仲間の外には無い」

 池田大助の叡智は次第に働き始めました。

「じゃ両国へ行くか」

「多分、美濃が日頃慕い抜いて居た親に逢わせるとでも言って来たのだろう、美濃が何んにも書き遺さないのはその為だ」

「行こう、両国なら、おいらの縄張内だぜ」

 飴屋の仙太郎は、夜明かしの渋い眼をさすり乍らそれに従いました。

 外はもう明るくなりかけて居りますが、幸いにまだ往来の人もなく、池田大助と仙太郎が、出したところで、大した人眼にも立ちません。

「おや、変なものがあるぜ」

 数寄屋橋を渡って、銀座を左へ曲ろうとすると、眼の良い仙太郎は足を留めました。

「何んだ」

「赤い扱きだよ」

「美濃の扱帯らしいな――風にも吹かれず、人にも拾われなかったのは有難い、それに方角を教えるように、築地の方へ長々と向いてるでは無いか」

「両国じゃ無くて、築地の方へ行ったのだね」

「多分そんな事だろう」

 二人は暫らく行くと、今度は真ん中に鼈甲の櫛が半分に砕けて落ちて居りました。

「お美濃さんの櫛だぜ」

「誰やらの形見だと言って、大事にして居ただ、二つに折ったのはどういうわけだ」

 大助はその櫛の半分を拾って懐紙に包みました。――これが形見になりはしないだろうか――と言った、手のつけようの無い恐怖が、水のように背筋を走ります。

「おや、おや、その櫛の半分は此処にあるぜ――」

 白魚橋を渡って半分、本八丁堀へ入って今度は簪が一本、茅場町で紅い巾着が一つ、霊岸橋で足袋が片つぼ――と言った具合に、お美濃の持物が一つ葉になって、大助を仙太郎を、永代橋まで導いたのです。

「永代を渡って深川へ入ったのか」

「何んか容易ならぬ者につれて行かれたらしい」

 お美濃の賢さと体力で、こうまで苦しい葉を残して行くのは容易ではありません。

 道は相川町富吉町から、永代寺門前町に入ると、葉にする物が尽きてしまったらしく、そつと内懐で引千切ったらしい、福神の袖の赤い巾が、それでも所々に散って居ります。

「サア、解らなくなったぞ」

 入船町へ行くとそれも絶えて、池田大助と仙太郎は、顔見合せて往来の真ん中に立つ外は無かつたのです。

「仙太」

「何んだえ」

「お前、この辺に知ってる家があるか」

「大ありだ、――江戸中何処へ行ったって、一人や二人は知ってる人間が居るよ、それに八幡様の近所には、おいらの子分の飴屋が二三人は居るぜ」

「それは良い塩梅だ、この辺へ近頃軽業の小屋が建たなかったか、その親分は誰で、宿は何処だか訊いてくれ」

「そんな事ならわけは無いよ」

 仙太郎は心得て飛んで行きました。それからほんの煙草の二三服も吸った頃、

「わかったよ」

 仙太郎は帰って来ました。

「何処に軽業小屋がある?」

「正月早々興行して、もう畳んでしまったそうだ、でも親方の名は聞いて来たぜ、――伊三太と言ってツイ鼻の先に住んで居るよ、入船町の路地の奥さ」

 飴屋の仙太郎は先に立って案内するのです。池田大助も身内の引緊まる心持でした。運さえよければ此処で、お美濃の無事な顔が見られるかも知れません。

が、その予想は見事に外れました。路地の突き当りの小綺麗な二階家、

「お早よう、今日はツ」

 仙太郎が心得て格子戸を叩きましたが、暫らくは応える者もありません。

「誰も居ないのか、――返事が無きや踏込むぜ、やい」

 精一杯怒鳴ると、

「何んだ、騒々しいじゃ無いか、――昨夜ろくに寝ないから、今漸く床へ入ったところだ」

 格子戸の中へ、ノソリと立ったのは、釘の一本足りない久松でした、

「伊三太の家は此処だろう」

「あ、そうだよ、――伊三太親分は強いから、呼捨なんかにすると怖いよ」

「何を言やがる、お前には怖かろうが、此方は屁とも思わないよ」

「何んだと?」

「お南の池田大助様だ、まごゝしやがると――」

「これ仙太、余計な事を言うな」

 池田大助は飴屋の仙太を押えて前へ出ました。馬鹿の久松、お南の役人と聞いて、すっかり顫え上って居ります。

「昨夜此処へ、若い娘が来なかったか」

 池田大助は自分の心持を落付けて、出来るだけ静かに訊きました。相手の様子を見極めて、こんな足りない男には、下手に穏かに出る外はないと思ったのです。

「来たよ」

 馬鹿の久松の答えは、無造作で効果的でした。

「それがどうした」

大助は思わず落付きを失いかけます。

「一と晩此処へ泊めて、――伊三太兄哥は夜明け前に出かけたよ」

「娘は?」

「知らねえ」

 馬鹿の久松はケロリとして居ります。

「家の中を見せて貰うぞ」

 池田大助はもう踏込んで居りました。

「木戸を払いねえ、唯見せるわけには行かねえよ」

「馬鹿だなア、此奴」

 仙太郎は痛烈にきめ付けます。馬鹿の久松の考えは単純でした。見るものは何んでも、木戸銭を払うものときめて居たのです。

 階下の二た間は見通しで、押入を開けてお勝手を覗けば、それで御仕舞です。

「二階へ上るぞ」

 大助と仙太郎は二階へ入りました。行燈が一つ、座布団が二枚、たったそれだけの部屋ですが、何やら匂うもの、――それはお美濃の残した移り香でなくて何んでしょう。

「居ない」

 池田大助はがっかりしました。折角ここまで追い詰めてきて、最後の一瞬と言うとき、大事のお美濃を逸してはなんにもなりません。

「これ」

「ヘェ」

 後ろからついて来た馬鹿の久松は、口を開いたまゝ、ぼんやり立つて居ります。

「今朝本当に娘は出て行かないのだな」

「出て行くわけがねえよ、おらが見張って居ただ、出かけたのは、伊三太兄哥たった一人だ、誰にでも訊いて見るが宜い」

 相手は足りない人間だけに、この言葉に嘘があろうとは思われません。

「娘は何んか言わなかったか――書いたものでも置いて行かないか」

「うんにや、何んにも置いて行かないよ、――あ、そうゝ忘れて居たよ、伊三太兄哥がおれに娘を見張らせてる間に、娘はこう言ったよ、――お数寄屋橋から私を尋ねて来た人があったら、こう言ってくれーつて」

「それは本当か、何んと言った」

 池田大助も少しせき込みました。

「この上そつの下――とね」

「違いないか、この上は解って居るがそつの下というのは変ではないか」

「違はないよ、この上、そつの下というんだ」

 馬鹿の久松は頑として頭を振ります。

 この上は何を責め問うたところで、お美濃の行方がわかりそうもありません。

 池田大助は近所の番屋に仙太郎を走らせて町役人を呼び、南町奉行所の名で伊三太の家を警戒させ、一応お数寄屋橋に引揚げる外は無かったのです。お数寄屋橋に帰ると、早速駆け付けたのは御用聞の源太でした。

「お美濃さんが見えなくなったそうじゃございませんか」

「源太、美濃をさらったのは、元両国に居た、竹乗の伊三太という男だ、すぐ手当をしてくれ」

「何処に潜って居りましょう」

「入船町に家はあるが、それは見張らせて置いた。ところが、お美濃は久松と云う馬鹿にお数寄屋橋から来たら、こう伝えてくれと言つて――この上、そつの下――と教えたそうだ」

「この上、そつの下とは何んのことでしよう」

「いろは四十八字を繰って見るが宜い、やまけふこえてで、この字の上はふの字だ」

「——」

「よたれそつねなでそつの下はねだ、この謎はふねとなるのだ、――美濃は伊三太の言葉から、舟の中につれ込まれると知って、一寸の間に見張りの久松にこの謎の文句を教えたのだろう」

 池田大助はもう此処まで考えて居たのです。

「何処の船でしょう」

「入船町の家から、美濃は出た様子が無いのだが、――その家の中に美濃は居ないことも確かだ」

「ヘエ」

「伊三太が馬鹿の久松の居睡りでもして居る間に、美濃をつれ出したと見る外は無い、多分葛籠か何んかに入れてまだ明け切らぬうちに背負って出たことと思う、深川一円と、大川筋を隈なく捜さしてくれ」

「そんな事なら、一刻のうちに手配が出来ましよう、暫らくお待ち下さいまし」

「頼むぞ、源太」

「仰しやるまでもございません。お美濃さんのような良い娘に間違いがあつちや、十手捕縄の手前も済みません」

 源太は大きく胸を打つて飛出しました。大助を落胆させまいという心持でしょうが、こう言われると、池田大助もホッとしました。

 御用聞源太の必死の努力は始まりました。大川筋は言う迄もなく、下は佃島から上は千住の大橋まで、枝川の末までも調べさせましたが、竹乗の伊三太は勿論、お美濃の影も見られなかったので、す。それから二日、池田大助の焦燥は見る眼も痛々しいほどでした。

「解りましたよ、池田様」

 源太が勢込んで飛んで来たのは三日目の夕刻。池田大助は仙太郎をつれて、これからせめて、入船町へでも行って見ようかと、用意をして居るところでした。

「何処だ源太」

「燈台下暗しですよ、――伊三太の野郎、大葛籠を伝馬に積んで、永代橋の下に舫つて居りました」

「では直ぐ捉まるだろう」

「それがいけません」

 源太は首を振りました。この強かな御用聞が、赤ん坊がイヤイヤをするように首を振ると、物事は妙に絶望的になります。

「どうしたというのだ」

「伊三太の野郎、入船町に居ると直ぐ足がつくと思ったか、お美濃さんを葛籠に入れて伝馬に持込み、夜も昼もその側にひつ着いて口説いて居りますよ――飛んだ清玄で――」

「——」

 大助はゴクリと固唾を呑みました。

「――うんと言えばよし、どうしても承知しなきや、葛籠には穴が開いて、大川へ飛込むという恐ろしい執心ですよ。葛籠には穴が開いて、呼吸をするには不自由は無いでしょうが、お美濃さんがあんな男の儘になる筈はありませんから、手のつけようがありません」

「助け船は出せないのか」

「それがいけません。人が側へ寄ると、伊三太はすぐ葛籠を船縁に乗せて、川の中へ転がし落しそうにするんです。その上自分も死ぬ気でしょう、側へも寄れやしません」

「橋架を伝わって行く工夫は無いか」

「相手は竹乗の伊三太です、側へ寄る前に、逆に登って川へ投り込まれてしまいますよ」

 源太の説明を聴くと、成程これは手のつけようはありません。

「どうしたものだろう」

「大葛籠に入れて、縄で十文字に縛ってあるんだから、川の中へ投り込まれた日には、すぐ手が廻つても、お美濃さんを救う工夫はありません、その上伊三太は死ぬ覚悟でいるんだから手の付けようはありません」

 源太の説明を聴いて居ると、事態は益々絶望的になるばかりです。

「そいつはおいらに任せて貰おうよ」

 横合いから口を容れたのは仙太郎でした、

「何んだ、仙太郎か、――池田様でも思案に余って居るじゃないか」

「其処をおいらが首尾よく助けようというんだから驚くだろう」

「よし、それじゃ兎も角行って見よう」

 源太を先登に、池田大助と仙太郎は闇の永代へと急ぎました。

 飴屋の仙太郎の工夫というのは、四方の真っ暗になるのを待つて、橋の欄干から、一条の綱をくり下げることでした。綱の先には、身体の小さい――そして本人に言わせると胆の太い仙太がブラ下り、手には鈎の付いたもう一本の綱の端を持つて居りました。

 三日間の疲れで、船の中でツイうとうとして居る伊三太の頭上に、一本の糸で蜘蛛のようにブラ下った仙太は葛籠に手が届くと、持つて居た手綱の先を、十文字の結び目に引っかけたのです。

 合図と共に、欄干から手繰る手と手――それに従つて大葛籠は何の苦もなくスルスルと空中へ浮び上りました。

「あッ」

 伊三太が居睡りから覚めた時は、万事終りでした。頭上遥かに引上げられる葛籠と、

「馬鹿野郎やーい、此処まで飛んで来い」

 蜘蛛のように空中にブラ下り乍ら、乱舞する仙太郎、その姿を闇の中に見定めた伊三太は、

「畜生ツ、畜生ッ」

 地団駄を踏み乍ら、観念したものか、水音高く川の中へ飛込んでしまったのです。

 橋の上でお美濃を抱き上げた池田大助の喜びはどれほどだったでしょう。

「大将、だから言わないこつちや無いぜ、早くお美濃さんと祝言しなよ」

 続いて橋の上に降り立った飴屋の仙太郎は、四方構わずこんな事を言うのです。

池田大助捕物帳・読者質問箱

Q. お美濃さんの残した手掛かり、ちょっと分かりにくすぎませんか?

とんでもない! あれこそ、お美濃さんの賢さの証でございます。犯人に悟られず、味方にだけ分かるように知らせるには、あれくらいの工夫が必要だったのです。「この上そつの下」なんて謎、大助の大将だからこそ解けたもの。我々凡人には、ただの落し物にしか見えやしませんな。

Q. 飴屋の仙太郎、今回も大活躍でしたね。主役は彼では?

おっと、そう言われると仙太郎の奴が調子に乗りまさあ。確かに、最後の葛籠の奪還は見事なもんでした。ですが、そこに至るまでの道筋をつけたのは、やはり大助の大将の推理力。仙太郎の勇み足と大将の知恵、この二つが揃ってこその「池田大助捕物帳」でございます。

Q. 伊三太の執念もすごいですが、お美濃さんを葛籠に入れて舟で暮らすって、無理がありませんか?

恋は盲目と申しますからな。伊三太にしてみれば、周りが見えなくなっていたのでしょう。しかし、三日も舟の上で問答とは、お互いさぞかし疲れたことでしょう。もう少し気の利いた口説き文句があれば、お美濃さんの心も動いた……いや、やはり無理でございましょうな。

Q. 結局、大助さんはさっさと祝言を挙げれば良かったのでは?

それが色恋の難しいところでございます。お美濃さんは自分の出自を気にして、大助さんはお美濃さんの気持ちを尊重して…と、お互いを思うがゆえのすれ違い。しかし、この一件で二人の絆が深まったことは間違いありません。仙太郎の言う通り、これにて一件落着、めでたく祝言と相成りますことを願うばかりですな!

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