【朗読一人でドラマ】七之助捕物帳 『第十八巻、赤い羽の矢』納言恭平著

 

 

七之助捕物帳

納言恭平著

赤い羽の矢

 

作品紹介

「七之助捕物帳」は、作家・納言恭平による江戸を舞台にした人気時代小説シリーズの一篇です。

一見すると昼行灯(ひるあんどん)で頼りないが、一度事件となれば抜群の推理力と観察眼で真相を見抜く御用聞・花川戸の七之助。彼が、江戸の町で起こる様々な難事件に挑む姿を、粋な会話と人情味あふれる登場人物たちと共に描きます。

本作「赤い羽の矢」では、いわくつきの「鬼の面」を巡る連続殺人事件に七之助が挑みます。呪い、復讐、そして人間の欲望が複雑に絡み合う事件の先に、七之助が見出す真実とは何か。スリリングな展開と、鮮やかな謎解きが光る傑作です。

作者紹介:納言恭平(なごん きょうへい)

江戸の市井に生きる人々の機微や、粋な会話劇を交えた捕物帳を得意とする作家。その作品は、単なる謎解きに留まらず、事件の裏にある人間の哀しさや滑稽さを描き出すことで、多くの読者から支持を得ています。「七之助捕物帳」シリーズは、その代表作として知られ、型破りな御用聞の活躍を通して、江戸の光と影を鮮やかに描き出しています。

あらすじ

日本橋の大店、日野屋の隠居が「赤い羽の矢」で射殺される。現場に残されたのは、手にした者が次々と非業の死を遂げるという呪われた『鬼の面』。この面を巡っては、過去にも二人の男が殺されていた。

事件の捜査に乗り出した同心・浜中茂平次は、やり手の御用聞・花川戸の七之助に助けを求める。やがて捜査線上に浮かび上がったのは、弓の名手と噂される謎の美女「竹むらのお米」。果たして彼女が犯人なのか?

呪いか、それとも人間の仕業か。七之助の卓越した推理が、三つの事件を繋ぐ驚くべき真相を暴き出す。

主な登場人物

  • 花川戸の七之助 (はなかわどの しちのすけ)
    本作の主人公。普段は昼寝ばかりしている昼行灯だが、鋭い観察眼と推理力を持つ凄腕の御用聞。
  • 浜中茂平次 (はまなか もへいじ)
    八丁堀の同心。実直で熱心だが、少し早とちりな一面も。七之助に信頼を寄せている。
  • 竹むらのお米 (たけむらの およね)
    奥山の矢場の美女。弓の名手として知られるが、その過去には深い秘密がある。
  • 蟹の平六 (かにの へいろく) / 可児新左衛門 (かに しんざえもん)
    日野屋の用心棒として雇われた浪人。その正体は、義理人情に厚い元遊び人。
  • 日野屋政右衛門 (ひのや せいえもん)
    第三の犠牲者となった藍玉問屋の隠居。スリルを求める物好きな性格が、自らに災いを招く。

鬼の面

 今年の夏の暑さも、この二三日が峠であろうと思われる土用中の或る朝。日本橋紺屋町の藍玉問屋日野屋の隠居政右衛門が、何者かの手にかかって殺されていた。

 訴えによって、八丁堀からは、同心浜中茂平次が、四五人の手先を連れて、日暮里にある日野屋の隠居家に駈けつけた。

 その一行の到着を、先に駈けつけていた、二代目政右衛門を名乗っている日野屋の当主が、あわただしく玄関に迎える。

「暑いところを御苦労さまです。ま、汗でもお流しになって、冷たい麦湯でも……」

 と、付きまとうのを、

「いや。それよりも、御用を先に片づけよう。仏はその時のままにしてあるだろうな。へたにそこらへんをいじくられると、折角の証拠をなくしたりして、詮議がしにくくなるんだが」

 と、いつもながらの御用熱心は、この同心の取柄の一つだ。

「へい。もうそこらに、手抜かりはございません。では、どうぞお二階に」

 日野屋は、先に立って、茂平次の一行を二階に導く。

「この座敷でございます」

 廊下の突当りの唐紙の前で、ちょっと、茂平次に会釈を送ると、日野屋の指が引手にかかって、するすると唐紙が敷居に辷った。同時に生血のにおいが、むっと顔を煽る。しかし、そんなことにひるんでいる茂平次ではない。真直に、しゃりしゃりと青畳を鳴して、座敷の中に踏み込んで行ったが、南向の窓際の机の前に仰向に倒れている被害者を一目見るなり、

「おお、これは!」

 思わず、叫びに近い声を洩らして、その場に棒立ちになってしまった。

 矢だ。赤い羽の矢が、肩口深く突き刺ているのだ。

 茂平次の視線は、しばらくは、その赤い羽の矢に凝結していたが、やがて、静かに窓に動いた。窓にはすだれが懸っている。

「このすだれは……?」

「へい。それは後で下したんです」

「では、この老人が殺された時には、すだれはかかっていなかったんだな」

「へい。朝風をよく入れるためでしょう。すだれは巻き上げてあったそうです」

「もとのように巻き上げてみてくれ」

「へい」

 日野屋は、すだれを巻いた。

 眺望のよく利く窓だ。庭も恐ろしく広い。一万石や二万石の木ッ葉大名の下屋敷なんか足元にも寄りつけないくらいの宏壮な庭だ。さすがに、二十万両の大身代と噂されている日野屋の隠居家だけのことはある。しかし、新築の悲しさ、庭木だけは貧弱であった。そして、その、貧弱な庭木の間から、これだけは以前からそこに生えていたらしい棒の大木が一つ、亭々として聳えていた。

「やはり、あの、棒の葉隠れからでも覘ったものでしょうか?」

「うむ」

 自分の考えていることをそのまま言い当てられて、茂平次は不機嫌に顔をしかめた。

「あっ、あれは誰だ?」

 しかし、すぐ、彼のしかめた顔に、不審の表情が走った。その大欅の下に、挙動不審な男の姿を発見したのだ。浪人ていの男である。黒鞘の長いやつを腰からはずして手に持っている。欅の梢に眼をやったり、かと思うと、落し物でも探すように地面を嗅ぎまわったりしている。

「ああ可児さんですよ。なんだ、どこかへ姿が見えなくなったと思ったら、あんなところに行っているのか。おうい、可児さぁん!」

 日野屋は、口のそばに両掌をかこって、窓から身を乗り出した。

 欅の下の男は、くるりと振り返ると、

「おうい!」

 と、手を振って見せた。

「八丁堀の旦那が見えてるんです。戻って来ておくんなさい」

 男は大きく頷ずくと、欅のそばを離れた。

「どういう素姓の人間なんだ?」

「可児さんですか。素姓なんかよく知りませんがね。父がその面を手に入れてから、用心のために連れて来た人なんですよ。まあ、用心棒とでも申しましょうか」

「面? ああ、その面か?」

 机の上に、桐の箱から取出した一個の鬼の面がのっている。政右衛門は、この面を取出しているところを、窓の外から半弓で、射られて不慮の死を遂げたらしいのである。茂平次は、さっきからそれと気がついてはいたのだが、日野屋の言葉を聞くと同時に、この面と政右衛門の災難との間に、なにか深い因果関係の介在しているらしいことを直感して、今更のように、じろじろと見直すのであった。だが、彼は面に関する知識など持ち合せてはいない。ただ、かなりの時代を経た能面らしいということがわかるくらいだ。

「その面の持主は、不思議と人手にかかって命を縮めているんです。この前の持主も。それから、その前の持主も。ですから私共、父の物好きに分強く反対したんですけれど」

 日野屋の語尾は愚痴まじりだった。それを、しまいまで聞いたのか聞かないのか、茂平次は、

「善平」

 と、手先の名を呼んだ。

「お前、花川戸の七之助の家を知っていたな、たしか」

「へい」

「ひとっ走り、呼んで来てくれ」

 わしの手にはあまるようだ——という言葉は、喉から先には出て来なかった。

第一の犠牲者

「どういうきっかけから、あっしが、こちらの御隠居の、用心棒にやとわれたかという、お訊ねですかい」

 可児新左衛門は、三十がらみの苦味走ったいい男だった。――浪人ていとはいえ、侍姿をしていながら、彼の口調はくだけているのだ。七之助の質問に対して、彼は先ず、こう口を開いたのである。

「なあに、御隠居とあっしの間には、これまでにはなんの関係もありゃしねえ。全くの赤の他人だったんだが、あの鬼の面が、こちらの御隠居の手に移ったと聞いたんで、あっしの方から用心棒を買って出たんだ。てえのが、あの面を秘蔵していたために、真先に曲者の手にかかって殺された羽生権六という御浪人は、あっしのためには命の恩人でやしてね。ハハハこう見るところ、親分の眼は生きとるようだ。下手な誤魔化しなんか利かねえってことが、あっしにもよく分る。だから、あっしの素姓なんかも大抵見破られているようだが、お察しの通り、あっしのほんとの素姓は、蟹の平六てえけちなやくざ一匹なんでさ。思い返せば五年前。あっしゃ、旅の空で、宿場女郎にだまされやしてね。お定まりの、身の皮を剥がれたのよ。いかさまで賭場荒しのよ。それがばれて、荒菰に押しくるまれて危く川ん中に投り込まれるところへ、どっからか飛び出して来て、あっしの体を買い取ってくれたのが、その羽生権六という御浪人なんで」

「そんないきさつなんかどうでもいい。羽生権六はお前のためには命の恩人――と。で、その権六は、どういうわけで、あの面のために人手にかかったんだ?」

 浜中茂平次が、かたわらから、じれったそうに口出しをした。

「さあ、そいつア、旦那、かんたんには分らねえや。そいつが分っているくれえなら、あっしだって、今までこんな苦労をしてやしねえ。とうに曲者の首根っ子を捩じ切ってまさ。……廻りくどいか知らないけれど、もう少し、あっしの自由にしゃべらせておくんなせえ。……で、あっしは、羽生さんのお供をして、江戸へ舞い戻ったんだが、それからは、あっしのような人間でも、なにかお役に立つことでも起ったらお役に立ててもらいてえと、ずっと、羽生さんの浪宅に出入りを願っていたんでさ。……そうだ、あれからもう半年にもなりやしょうか、或朝、羽生さんの近所に住まっている、左官の棟梁のところの若い者が、あっしの寝込みを叩き起しやてね。てえへんだ、てえへんだ。羽生の旦那が殺されてやすぜ……」

「なんだ、そりゃあ、左官屋の職人の口真似か」

「旦那みてえに、いちいちそうけちをつけられたんじゃ話がしにくくってしようがねえ。……で、あっしは泡を食って駆けつけたんですが、その時はもう、羽生さんの叔父貴に当る羽生庫之助という御仁もお見えになっていやしてね。雇婆のおくにから、昨夜の騒動のてんまつを聞き取っていなさるところでした。おくに婆がいうには、昨夜の真夜中、台所口から家の中に押し入って、床の中の羽生さんの喉笛を、一突きに抉り殺した曲者は、黒い覆面に面体を隠した小柄な侍だったそうです。曲者は、羽生さんの息の根を止めると、今度は、別室の床の中に蒲団をかぶってふるえているおくに婆さんを引き起して、鬼の面がどこかに隠してある筈だ、面の所在を言え……。でも、婆さんは、そんな面のことなんか、話に聞いたこともないし、見たこともないし、返事のしようがありやせん。曲者も、やがてそれと覚ったか、いまいましそうな舌打をして、一人で家探しをはじめやした。だが、どこからも鬼の面は出て来ねえんでさ。そのうちに、やがてとうとう、白々と夜が明けかけたもんだから、なんか気味の悪い捨科白をのこして、ぽいと、どっかへ飛出して行ってしまったんだってんですがね」

第二の犠牲者

 可児新左衛門——蟹の平六の陳述は更に続いて——。

 羽生権六は、雇婆ひとりを相手の鰓暮(やもめぐら)しだったので、家財道具の一切は、叔父貴の庫之助が、自分の家に運んでしまった。

 すると、それから二月ばかり経って、庫之助も、一夜、何者かのために殺されてしまった。曲者は、塀を乗り越え、庫之助が居室兼寝室に使っている六畳の雨戸から闖入していた。庫之助は、机の前に、胸を刺されて虚空をつかんでいたが、まだ就寝前だったとみえて、平常着の帯も解いていなかった。室の中は、ずいぶん念入りに荒されていた。

 しかし、これ程の騒動を、家人たちは誰も気がつかなかった。羽生庫之助は、二百五十石取の小っ旗本で、奉公人も二三人使っている。その奉公人たちも気がつかなかった。朝になって、女中が、雨戸が一枚開けっ放しになっているのに気がついて、はじめて大騒ぎになったのである。

「やっぱり、賊は面を覘ったのか?」と、茂平次が訊いた。

「そうらしいんでさ。室じゅう引掻きまわしながら、なんにも盗まれちゃ、いなかったんですからね。あっしも、騒ぎを聞いて、駆けつけたんですがね」

「羽生庫之助、と。大久保だったな、たしか、屋敷は?」

「へえ。そうなんで」

「うむ、そんなような事件があったな。わしは非番で、関係をしなかったが……。そうか、あれは、そんな、能面などに引絡んだ、面白い事件だったのか。……で、今度は、賊奴、面を手に入れたのか」

「いや。今度も、遣り損ったんでしょう。てエのは……」

「大しくじりでしたとも。ですから、てまえ共の父までが、非業の最期を遂げることになりましたんで」

 日野屋の当主二代目政右衛門だ。彼は、いつの間にか、茂平次が新左衛門の平六を調べている室に、入って来ていたのである。

「ははア?」

 茂平次は、日野屋の顔に頭を振って、説明を促した。

「盗まれなかったんです。それを、てまえの父が、大金をはずんで、羽生さんの御遺族の方から、譲って頂いたんです。……父と羽生さんとは、生前交友がございましてね。さあ、いつ、どこで知り合ったのか存じませんが、互いに掘出物の古道具を自慢し合ったり、ヘボ碁でもはじまりますと、寝るのも忘れて捩り合っている、という間柄でした。そんな間柄でしたから、あの不吉な鬼の面も、父はかねがね羽生さんに見せられていたと見えます。羽生さんの災難のしらせを受けて大久保の屋敷に駈けつけますと、面はどうした、面は無事か?と、父は、真先にそれを訊ねたんだそうです」

「そうです、そうです。丁度、その時、あっしも、羽生さんの災難に駈けつけたばかりのところでやしてね。あっしはその時、ああ、ここにも一人、死神に取り憑かれている人間がいるぞ、と思いやしたんですがね」――と。蟹の平六。

「あれが、父の困った病気だったんです。世の中に退屈をしているもんだから、なにかこう、見物人に冷汗を掻かせるような、危ない橋を渡ってみたいんですね。その面のために、つづけざまに二人まで命を奪われたと知ると、父は、矢も楯もたまらず、それが欲しくなってしまったんです。てまえ共は、どんなに父をいさめたか知れませんよ。大金をお出しになったのか知りませんけれど、どうかそんなものは手離して下さい。若しものことでも起ったら取返しがつかないじゃアありませんか、とね。……しかし、そのうちに、この人が——可児さんが父の身を衛って下さることになりましたので、すこしは安心したんですがね」

「いや、面目ねえ」

 と、平六は、くびをすくめて、頭を掻いた。

「あっしも、ずいぶん眼を皿にしちゃアいたんだけどね。なに、曲者奴、姿さえ見せりゃア、ふん捕まえて、羽生さんのかたきを取ってやるところだったんだけれど、なんしろ、飛道具なんかで覘われちゃアね」

「やっぱり、あの、欅の木が怪しいかな」

 ずっと沈黙を守っていた七之助が、ポツリとこう言って、窓の外庭の彼方の大棒の方角に眼をやった。

「へえ、どうやら——」

「行ってみやしょうか?」

 茂平次と七之助。その後から、日野屋と蟹の平六もつづいて、陽ざかりの、むっと鼻を打つ草いきれの庭を渡って行った。

 広過ぎる庭なので、手入も十分には行届かないのか、大棒の下には夏草が茂っていた。その夏草が、塀の方角に向って踏み荒されている。

 しかし、七之助は、その様子には一瞥をくれたきりだ。足がかりを見つけて、するすると欅の大木を攀じはじめると、彼の姿は、すぐ梢の深い葉隠に消えてしまった。

女人登場

 山の宿の髪結床、床甚の夏の宵——。

 例によってヘボ将棋だ。一組は往来の縁台に鈴生になって、女の噂。幽霊の話。いや、賑やかなこと、賑やかなこと。

「音あにい」

 小間物屋の彦八が、店の外に出て来た。

「なんでい。あまり不景気な声を出すねえ。女にでも振られたのか」

「いや。将棋に負けた。軽くひねられちゃった」

「莫迦野郎、将棋に負けて嬶にでも死なれたみてえな顔をしてやがる」

「それやアそうと、紺屋町の日野屋で、道具の売立てをしたって、ほんとうかね?」

「やったよ」

「紺屋町の日野屋って、あの、豪勢な藍玉問屋か?」と、大工の政吉。

「そうだよ」

「へえ、あのお大尽が。いつの間に、左前にゃアなったんだい? 二代目も、なかなかしまり屋って評判じゃねえか」

「なアに、そんなわけじゃア無えんだ。日暮里の御隠居が物好きで蒐めていた、縁起の悪い品物だけを、そっと売り払ったんだよ」

「なんだ。つまらねえ。糠よろこびをさせやがら」

「人の身代の潰れるのがなんで面白ぇ」

「面白えよ。火事も面白えが、お金持の身代限りも面白ぇ」

「つまらねえことを面白がる奴だな。……しかし、彦、お前、どこでそんな噂を聞き込んで来たんだ? 日野屋でも、極内に道具屋を呼んで払ったんだが」

「おれみてえに、しょうべえ柄、世間を歩いていると、つまらねえ噂を、よく耳にしやすよ。道具屋は、浮世小路の蝴蝶堂だってね」

「へっ、道具屋まで知ってやがる。だが、あんまり言い触らすんじゃア無えぜ。日野屋の迷惑になることだからな」

「日野屋なんざ、どうだっていいじゃねえか」

 大工の政吉、旋毛が少々曲っているのだ。言い触らすなとでも言われたなら、かえって、輪をかけて吹聴して歩きたいのがこの男のよくないくせだ。

 しかし、音吉にとっては、かえってそこが狙いどころだったので——。

 鬼の面を狙っている曲者というのは、そも何者か。七之助は、謀略によってその曲者を誘き寄せようともくろんだ。

 蝴蝶堂は、日野屋に出入の道具屋で、七之助とも面識がある。七之助、日野屋、蝴蝶堂——その三人の間に、どんな打合せが行われたか、やがて、蝴蝶堂の店には、鬼面の偽作が売物に出ていた。そして、七之助に耳打をされた音吉が、小間物屋の彦八を相棒に頼んで、山の宿の浮世床を舞台に、うまうまと、一狂言書き下した次第。

*   *   *

 年頃はまだやっと二十三か四。抜けるほど色の白い、いい女だった。蝴蝶堂の店から、桐の箱を抱えて通へ出ると、辻駕籠を呼び止めて、器用に足先からすべり込んだ。

「なんだ、あの女か」

 その、駕籠の後を見送って、意外そうに呟いた音吉。

「あの女なら、なにもわざわざ、後をつけることもねえや」

 でも暢気な顔ではない。しきりに頭をひねったり、時々立ちどまって、頭をつまんでみたりしながら、花川戸を指して、足早にかえって行く。

 七之助は、例によって昼寝の最中だった。それを火のつくような声で叩き起しながら、

「親分、眼をさましておくんなさい。面の偽物が売れやしたぜ」

「ほう、そうか。お前のことだから、そこに抜かりはないだろうが、うまく行先はつき止めたろうな」

 と、眼をこすっている。

「尾けるもつけないもありゃアしねえ。相手は、あっし共がよく知っている女だもの」

「女? ほう、女か。誰だ?」

「竹むらのお米でさ」

「竹むらのお米? 奥山の矢場の女か?」

「へえ」

「ふうむ。待て、待て」

 眠気など、いっぺんにけしとんでしまったらしい。七之助は腕を組んだ。

「竹むら」のお米といえば、このところ、奥山の人気を一人占めにしている矢場女だ。女がよくて、男がきらいで——。だが、それよりも、今、七之助の頭にひっかかっているのは、この女の、百発百中と噂されている、射的の腕前だった。

  音吉が、道々、時々立止って頭をつまんだのも、大方それであろう。——日野屋の隠居は、欅の梢から、赤い羽の矢に射殺されているではないか。

お米の告白

「おいおい、あんまり手間を取らせねえで、往生際をよくしたらどうだ」

 浜中茂平次は、相手の強情さに、そろそろ業を煮やしかけているかたちだった。——癇癪筋が、眉間にぴりぴりと動いたのである。

 ここは、今戸河岸の蒲焼屋笑月の二階。がん首をならべているのは、茂平次のほかに、花川戸の御用聞七之助と、竹むらのお米。

「なんと言っても、あたしはなんにも知らないんですもの。今も申し上げました通り、あの鬼の面が、偽物かどうか知りませんけれど、あたしはただ、店先に並べてあったあの面が気に入って、買って帰ったんです」

 悪びれたようすもなくそう言って、きっと、血がにじむばかり、下唇を噛みしめるお米。

「ふむ。二両や三両なら知らぬこと、二十五両も投げ出して手に入れているくせに、そんな白々しい言抜けが役に立つと思っているのか」

「あら、どうしてでしょうねえ。二十五両が五十両でも、欲しいと思う物があったら、あたし、身代限りをしてでも手に入れますわ」

「ち。わしも永年、お上の御用を勤めて来たが、お前みたいな強情っ張りは知らないぜ。仕方がない。じゃア、もう一つ訊くが、この間じゅうまで、ここの家に、お前と一緒に、時々蒲焼を食いに来た老人はありゃア、誰だい?」

 最後の切札だったらしい。えっ! と、お米は、からだ中で驚いたのである。

 茂平次は、のしかかって最後の止めを刺すように、

「左の耳の下に、拇指の頭くらいな瘤をくっつけていた老人よ。え、おい、お前、日野屋の隠居を知らないというのか。日野屋の隠居は、お前の欲しがっていた鬼の面のために殺されたんだぜ」

「ああ……」

「浜中の旦那の詮議はそこまで届いてるんだ。お前、もう、あんまり強情を張らないで、きれいに年貢を収めたらどうだ」

 七之助が、潮時と見て、かたわらから掩護射撃を浴せた。

「す、済みません」

「やれ、やれ。やっと決心がついたか」

「ええ、でも、あたしが手に掛けたのは、北條軍記だけでござんす。羽生さんと、日野屋の御隠居さんは、誰が殺したのか、あたしにもさっぱりわけが分らないんです」

「な、なに、北條軍記たあ、いったい、どんな男だ?」

「羽生権六と名乗っていた御浪人です。あれは、羽生さんの甥でもなんでもないんです。江戸へ出てから知合になって、素姓を隠すために羽生さんの甥になりすましていたんです」

 どう思う? 七之助に向けた茂平次の眼顔が、そう訊ねていた。

「聞こう、わけを」

 と、七之助は促した。

「どうか、殿さまの名前だけは、訊かないで下さいまし。私の兄は、野飼助九郎と申しまして、西国のある小藩の、お国勤めの小身者でございました。でも、殿さまからは、お眼を掛けられていまして、お道具蔵の大事な鍵をあずかっていたのでございます。ところが、丁度、五年前の虫干の時に、御殿でも重代の宝物になって居ります鬼の能面が紛失ったのでございます」

 お米は、一寸言葉を途切らせて、唇を噛んだが、またすぐ、

「勝手に軽はずみなことをしてはならぬ。何分の沙汰をするまで謹しんでおれ。――という殿さまのお声がかりで、兄は、潔く自決をするわけにも参りませず、一室に閉じこもっていたのでございます。すると、翌日になりまして、兄の同僚の北條軍記の逐電が知れたのでございます。この人は、娘のお悦が私の兄のところに参りましてから、すっかり、兄と仲違いをしていたのでございます。なんでも、出奔のほんとの理由は、台所御用係の役目の上から出入商人の上前をはねて、それが発れかかったからだそうですが、その行きがけの駄賃に、虫干中の面をひっさらって、兄嫁を奪られた腹癒せをしたに違いないということは、誰の考えも同じでございました」

 お米は、こみ上げて来る口惜し涙を、ぐっと呑み込んで、

「なんでもその能面は、殿さまの御先祖さまが、権現さまから拝領の品だったのだそうでございます。ですから、草の根を分けても奪り戻さなければなりません。死ぬことは許さん、何年かかっても、取り返して来い、と、兄は厳しく命ぜられたのでございます。でも、でも、兄は、その目的を遂げないうちに、旅先で病死をしてしまいました」

 気丈だとは言っても女。お米は、こらえ切れなくなったように、わっと声を上げてその場に泣き伏してしまった。

「むむ。それで、お前が、兄の、志をついで旅に出たんだな?」

「はい」と、また、涙の中から、

「兄嫁と二人で、北條軍記をたずねて、江戸まで辿り着いたのですが、以前からあまり丈夫なからだでなかった兄嫁は、旅の疲れか、半病人のようになってしまったものですから、私、もう、仕事のえりごのみなどは、していられなかったのでございます。さいわい、国元にいました時分、半弓の稽古をいたしていたものですから、世話をしてくれる人がございまして、奥山の矢返しに住み込み、だんだん、一軒の店を持つようになったのでございます。それはもう、誰方に言われるまでもなく、卑しい稼業だということは存じて居りますけれど、こんな客商売をしておりますと、人を尋ねるのにはかえって都合がよかろうとも存じまして……」

茂平次断定

 浜中茂平次は、眉毛にそっと唾をつけた。

「お前、たしかさっき、北條軍記は覚えがあるが、日野屋の隠居と羽生庫之助は誰が殺したか知らないと言ったな」

「はい」

「そんな言い抜けが通ると思っているのかね。庫之助も、日野屋の隠居も、お前の尋ねる能面を持っていて殺されたんだぜ」

「でも……」

「日野屋の隠居は、お前の店の客だった。しかも、どちらから誘ったのか、誘われたのか知らないが、時々連れ立って、ここの店に蒲焼を食いに来ている。そんなら、日野屋の隠居が、鬼の面を秘蔵している話くらい聞いたこともあるだろう」

「はい。存じていました。……こうなれば、なにもかも申し上げますが、鬼の面を返してやるから、男の思いを遂げさせてくれと言われました」

 眼をつぶって、高い崖の上から一気に飛び下りるように言って退けたが、同時に、襟足までも羞恥に染めて、思わず、両袖の中に顔を包んだ。

「むむ。じゃア、日野屋の隠居は、お前が面を探していることも、北條軍記を手に掛けたことも、知っていたのか」

「いいえ、私が、御隠居さまの深切な言葉にほだされて、私の身上を打明けましたのは、まだ、北條軍記の居所を尋ねない前のことでございました。一つには、御隠居さまが、店にお見えになる度毎に、私の世話をしてやろうと仰言いますので、それを諦めて頂くためにも、私の身上を聞いて頂いたのでございます。でも、御隠居さまも、私にはなんにも言いませんけれど、北條軍記を手にかけたのが、誰のしわざか、察しておいでになったのではないかと思います」

「花川戸の」

 茂平次は、七之助に顔を向けて、

「どう思う? 日野屋の隠居が、面を手に入れた魂胆が分るじゃアないか」

「案外な喰わせものでしたね」

「そこで、と。日野屋の隠居殺しも、この女のしわざと分った」

「えっ!」

「そうでしょうか?」――と、七之助。

「そうだとも。なにしろ、日野屋の隠居殺しには弓を使っているという動かぬ証拠もある。無理もない事情とは思うが、羽生庫之助など殺されるわけもないのに殺されてるんだからな」

「でも、少々辻褄の合わんこともありやすぜ。欅の梢から二階の窓の人間を殺しても、かんじんの面は取り返せないじゃア、ありやせんか」

「そりゃアそうかも知れん。だがのう、花川戸の。女って、誰しもきれいな口を利きたがるもんだよ。しかし、どんなにきれいな口は利いても、面を渡してやるからと欺されて、つい、その、なんするってこともあろうじゃないか。ところが、一度思いを遂げると、言を左右にして、なかなか面を渡さない。これも男にはあり勝ちのことだ。そんな場合に女はどうする。口惜しまぎれに千取乱した女はなんでもするよ」

「まあっ!」

「さあ」

 七之助は、かすかに首を振って、眼を閉じた。深々と腕を組んだのである。

矢の秘密

 蟹の平六は、店を閉めた「竹むら」の前の往来に、途方に暮れたように突っ立っていた。いつの間にか、臨時就職の浪人姿を止めて、もとの遊人にかえっている。

「おや、平六じゃアねえか」

 声をかけられて、びっくり振り返ると、七之助だ。

「あ、こりゃア、親分でしたかい」

「おかしなところで逢ったもんだな。どっかの矢場に、好きな女でも見付けているのかい?」

 微笑っている顔だが、腹の底の秘密まで見透すような、眼の色であった。

「そ、そんなこたア無え」と、平六は狼狽して、

「竹むらのお米が、八丁堀の旦那に引かれて行ったってえ噂を、聞き込みやしたもんですから……」

「お前、竹むらのお米を知っているのか?」

「へえ? い、いや……で、でも、竹むらのお米は、鬼の面の一件で、引かれたんでしょう」

 七之助は、平六の動揺した顔色を、じいっと探るように凝視めていたが、

「そうだよ。あの面の持主を、次々と三人まで眠らしたなア、あの女の仕業なんだ」

「えっ! お米は、自分で白状したんですかい?」

「むむ」

「そ、そんな筈ア無え」

 平六が、思わず口走った。口走ってしまってから、あわてて口に蓋をしたが、もう間に合わなかった。

「じゃア、誰が、誰が殺したんだ?」

 ——すかさず斬り込む七之助。

「そ、その、日、日野屋の隠居で」

「なにい、日野屋の隠居は、殺された側の人間じゃねえか」

「で、でも、羽生さんと、叔父貴の庫之助を手に掛けたのは、たしかに、日野屋の隠居ですぜ」

 七之助は、もつれた頭を解きほぐすように、気をしずめて、大きく一つ、息を吐き出した。

「どっか、そこらへんまで付き合ってくれんか」

「へぇ」

 この重大な問題を、往来の立詮識などはどうかと気がついたので、七之助は、平六を促して歩き出した。やがて、近所の小料理屋の暖簾をくぐった二人。奥まった小室の、ちゃちな卓袱台を挟んで酒をいいつける。

「日野屋の隠居が、二人の下手人だと、どうしてお前には、解ってるんだ?」

「どうしてって。あっしゃア、羽生さんの叔父貴が殺された時に、殺されながら、つかんでいた、たばこ入の根締の珊瑚珠を、そっと手に入れたんでさ。叔父貴の下手人は、羽生さんの下手人と同じ人間に違いねえ。羽生さんの仇を探すのに、その珊瑚珠の根は、大事な手係になると思いやしたもんですから、あっしは、人眼の隙をうかがって、そっと、袂の中に落し込んだんでさ」

「じゃア、お前は日野屋の隠居所に用心棒に住み込んだ時には、日野屋の隠居が二人の下手人だと、見当をつけていたのか?」

「いいえ。そん時のつもりは、二人の下手人は、今度は、きっと日野屋の隠居家を狙うに違いねえ。そしたらひとつ、そやつの首根っ子を押えてやろうというつもりだったんでさ。……ところが、用心棒を勤めているうちに、隠居の巾着だの、印籠についている珊瑚珠の根が、あっしの持っていたるばこ入れの根締と対になっていることに気がついたんですよ」

「むむ、そうか。で、お前、日野屋の隠居が、なんであの面を手に入れたがったのか、その理由を知っているのか?」

「知りやせんね。……もっとも、あっしが、まだ根締のさんご珠に気がつかなかった時分のことでげすが、ご隠居はなんでこんな因縁つきの気味の悪い品物に大金を投げ出して手に入れなすったのか、とたずねますと、人間はこの世の中で、なんでも思うことでかなわないことがなくなると、なんかこう、剣の刃渡りみたいなことがしたくなるもんだよ、なんて、言っとりやしたがね。へっ、前の二人の下手人がそういうご自分なんだもの、剣の刃渡りが聞いてあきれるじゃありませんか。おまけに、あっしてえ用心棒まで雇っておくなんて、どこまで人を食った爺だか知れやしねえ」

「一筋縄で行く爺さんじゃねえさ。矢場の人気女を妾にしてやろうなんて気を起したりね。で……お前、やっぱり、羽生権六の下手人も、日野屋の隠居だと思っているのか」

「へえ」

「ちがうよ。お前の話で、羽生庫之助の下手人が日野屋の隠居だてえことははっきり分ったが、権六の方は、竹むらのお米の仕業なんだ」

「へえ?」

 平六の呆れ顔に、七之助は、お米の自白のてんまつを語って聞かせた。平六は、七之助の一語一語に、意外な面持を刻みながら耳を傾けていたが、やがて、

「じゃア羽生さん——じゃない、北條さんも、自業自得か。するてえと、あっしも、なんのために日野屋の隠居を手にかけたかわからねえな。あっしア今が今まで、北條さんのかたきを討ってやったとばかり思い込んでいたんだけれど。……でも、女を自由にするために、面を手に入れるなんて、そんなろくでもない人間なら、殺生はしても、あっしもあんまり、寝覚の悪い思いもしやアしねえがね」

「とうとう、自分から、白状をしてしまったな。もっとも、はっきり口にはしなくても、白状をしたも同じではあったんだけれど」

 七之助は笑って、

「おれにも、これだけははじめから分っていた。あの赤い羽の矢は、ありゃア、欅の梢から射たもんじゃア無え」

「なアんだ。見破られてたんですかい?」

 と、平六も苦笑を釣られて、

「あっしも、ずい分うまくやったつもりだったんだがなア。隠居の肩口に鏃を抉り込んだり、大欅のまわりに小細工をしたり…ハッハッハッ……」

七之助捕物帳・読者質問箱

Q. この鬼の面、ちょっと呪われすぎじゃないですか?

「呪い」とは、人の強い「欲」が生み出すものかもしれませんな。この面が持つ妖しい魅力が、人々の心の闇を映し出し、次々と悲劇を引き寄せてしまったのでしょう。一枚の面が、これほどまでに人の運命を狂わせるとは…実に恐ろしい話でございます。

Q. 七之助親分、いつも昼寝ばかりで本当に大丈夫なんですか?

ご心配なく! あれが親分なりの「充電」なのでございます。一見、昼行灯のように見えますが、その瞼の裏では、事件の糸を一つ一つ手繰り寄せているのです。いざという時のあの閃き、まさに「寝ている子は育つ」ならぬ「寝ている親分は事件を解く」でございますな。

Q. 浜中の旦那、少し早とちりな気がするのですが…。

こらこら! 茂平次の旦那は、曲がったことが大嫌いな熱血漢。その実直さゆえに、時に猪突猛進してしまうこともございますが、それも江戸の平和を願う心の表れ。七之助親分との名コンビが、お互いの足りない部分を補い合っているのです。

Q. 平六の変わり身の早さには驚きました。

人は義理と人情に生きるもの。平六もまた、羽生権六に受けた恩義を命懸けで返そうとしたのでしょう。普段はひょうひょうとしていても、一度筋を通すと決めた時の江戸っ子の意地、そこがまた彼の魅力ではございませんか。

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