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菊池寛の音本 「長編 貞操問答」

 

 

 

作者・菊池寛と「貞操問答」について

菊池寛(きくち かん)

菊池寛(本名:菊池寛 きくち ひろし、1888年12月26日 – 1948年3月6日)は、日本の小説家、劇作家、ジャーナリストであり、実業家としても文藝春秋社を創設しました。香川県高松市出身。京都帝国大学英文科卒業。在学中から創作活動を始め、芥川龍之介や久米正雄らと共に第三次・第四次『新思潮』の同人として活躍しました。

初期には理知的な作風で知られましたが、次第に大衆的な作品も手掛けるようになり、新聞小説などで人気を博しました。代表作には『父帰る』『恩讐の彼方に』『真珠夫人』などがあります。また、文学の振興にも尽力し、芥川龍之介賞、直木三十五賞を創設したことは特筆されます。日本文学振興会、日本作家協会(後の日本文藝家協会)の設立など、文壇の組織化にも大きな役割を果たしました。

小説「貞操問答」について

「貞操問答」は、菊池寛が手掛けた通俗小説(大衆小説)の代表作の一つです。昭和初期の日本を舞台に、激動する社会の中で愛と結婚、そして女性の「貞操」とは何かを問いかける作品です。当時の新聞や雑誌に連載され、広い読者層から支持を得ました。

時代背景とテーマ:

  • 物語の舞台は昭和初期。大正デモクラシーの自由な雰囲気と、その後の経済不況や社会不安が交錯する時代です。女性の社会進出が進み始める一方で、伝統的な価値観との間で揺れ動く女性たちの姿が描かれます。
  • 中心的なテーマは、題名にもある通り「貞操」です。経済的な困窮や社会的な制約の中で、主人公たちが愛や結婚、そして自身の生き方について悩み、葛藤する様が描かれます。当時の貞操観念に対する問題提起とも言える内容を含んでいます。
  • 愛と道徳、個人の幸福と社会的な体面、階級差など、普遍的なテーマも扱っており、現代の読者にも通じる問いを投げかけています。

作品の特徴と評価:

  • 巧みなストーリーテリングと個性的な登場人物たちが織りなす人間ドラマが特徴です。特に女性心理の描写に長けており、登場人物たちの内面の葛藤がリアルに描かれています。
  • 通俗小説として大衆的な人気を得ましたが、同時に菊池寛の社会に対する鋭い観察眼や、人間の本質を突く洞察力がうかがえる作品としても評価されています。
  • 連載形式で発表されたため、各回ごとに読者の興味を引きつける展開やクリフハンガーが用いられていることも特徴の一つです。

「貞操問答」は、単なる恋愛物語に留まらず、時代を映す鏡として、また人間の愛と倫理を問う作品として、今日まで読み継がれています。

「貞操問答」全体のあらすじ

第一部:運命の交差
物語は、主人公・新子(しんこ)が、社会の厳しさと女性の生き方について苦悩する場面から始まる。彼女は東京で働く若い女性であり、家族のために懸命に生きている。しかし、彼女は貧しさや社会的な制約の中で、自らの貞操や人生の選択について思い悩む。

そんな新子の前に現れたのが、前川(まえかわ)という中年の男性だった。彼は成功した実業家であり、社会的地位もあるが、家庭生活に満足していない。特に、彼の妻・綾子(あやこ)は強い意志を持ち、夫を支配しようとする女性であった。前川は、新子の純粋さと優しさに惹かれ、やがて彼女と深い関係を持つようになる。

新子は最初、前川との関係に迷いながらも、彼の真摯な想いに応えようとする。しかし、それは彼女にとって道ならぬ恋であり、社会的な制約と自身の良心の間で葛藤することとなる。

第二部:疑惑と対決
前川と新子の関係は、周囲の人々の目にも明らかになっていく。特に、前川の妻・綾子は、夫の態度の変化に気づき、新子の存在を疑い始める。綾子は夫の行動を調査し、ついに新子の居場所を突き止める。

一方、新子の妹である美和子(みわこ)は、新子とは対照的に、積極的で快活な性格を持つ女性であった。彼女は姉の悩みを知りながらも、「貧しさゆえに蔑まれることは許せない」と考え、前川夫人に対しても鋭く言い返す場面が描かれる。

ついに前川夫人は、新子の働く店に乗り込み、激しく新子を糾弾する。美和子は姉をかばうが、新子は「家庭破壊者」という言葉を夫人から突きつけられ、大きな衝撃を受ける。彼女は、自分の存在が前川の家庭を崩壊させることへの罪悪感に苛まれ、前川との関係を断つ決意を固める。

第三部:運命の決断
しかし、前川は新子を諦めることができなかった。彼は自らの心情を見つめ直し、夫婦関係の修復よりも新子との愛を貫くことを選ぶ。前川は「もう常識や体面を守るだけの人生には戻れない」と覚悟を決め、新子に対して「どんなことがあっても君を守る」と誓う。

新子は、それでも前川の家族や世間の目を気にし、別れるべきだと考える。しかし、前川の揺ぎない愛情と決意を目の当たりにし、彼の想いを受け入れることを決断する。

物語の終盤、前川は「いかなる批判を受けようとも、新子と共に生きる」と決め、彼女の手を取る。二人は、人目を避けるようにして静かな場所へ向かい、新たな人生の一歩を踏み出すのだった。

各編あらすじ(目次)

第一回:金を売る

南條家の経済的困窮が描かれ、新子は家計を支えるため家庭教師の職を探し始める。姉・圭子は新劇に夢中で浪費し、妹・美和子は奔放。新子は前川家の家庭教師の話を得るが、前川夫人・綾子の存在に不安を感じる。新子の恋人・美沢と美和子が出会い、今後の波乱を予感させる。

(第一回 動画リンク挿入箇所)

第二回:レディ第一

新子は軽井沢の前川家別荘で家庭教師を始める。子供たちとはすぐに打ち解けるが、綾子夫人の高慢な態度や不当な扱いに苦しむ。夫・準之助は新子に同情的で、特別な好意を見せ始める。綾子夫人は若い木賀子爵と乗馬を楽しむ一方、新子が自身の馬に驚いて負傷しても冷淡な態度を示す。

(第二回 動画リンク挿入箇所)

第三回:姉の愛人

圭子は新劇公演の資金難から、新子からの仕送りを横領し、さらに新子に無心する。新子は当初拒否するが、新聞で姉の演技が絶賛されているのを知り、準之助に資金援助を頼む。準之助は快くこれを承諾し、劇団への援助を申し出る。新子は準之助の優しさに深く感謝する。

(第三回 動画リンク挿入箇所)

第四回:雷雨の中

美和子が美沢の家を訪れ、奔放な態度で彼を翻弄する。二人は映画に行き、夜の公園で美和子は美沢に接吻を迫るが、寸前で拒絶し彼を困惑させる。一方、軽井沢の新子は綾子夫人と些細なことで衝突し、辞職を決意。しかし準之助に引き止められ、散歩中、雷雨に見舞われ無人の別荘に避難する。そこで二人は親密さを増す。

(第四回 動画リンク挿入箇所)

第五回:バー・スワン

新子は姉・圭子の金銭問題に激怒。美沢との関係も妹・美和子の存在でこじれ、孤独を深める。準之助に再会し、彼の援助で銀座にバー「スワン」を開くことを決意。開店準備は順調に進み、美和子も手伝いを申し出る。新子は準之助への感情と店の経営に新たな道を歩み始める。

(第五回 動画リンク挿入箇所)

第六回:掻き乱す者

バー「スワン」は開店し繁盛するが、新子は妹・美和子の奔放な接客ぶりに複雑な思いを抱く。美和子は前川にも積極的に接近し、新子の嫉妬心を煽る。新子は美和子を美沢と結婚させようと画策し美沢に再会するが、美沢は新子への未練を語る。新子の心は前川と美沢の間で揺れ動く。

(第六回 動画リンク挿入箇所)

第七回:夫人策動

新子は前川への依存を自覚しつつ、美沢への未練も断ち切れない。姉・圭子は相変わらず新子を頼る。木賀子爵がバーを訪れ、前川夫人が新子の存在を嗅ぎつけていることを示唆。不安を募らせる新子のもとに、前川夫人が乗り込んでくる。美和子は姉を庇い夫人と対決するが、夫人は新子に店を辞めるよう迫る。

(第七回 動画リンク挿入箇所)

最終回:殉愛の道

前川夫人に追い詰められた新子。前川は事態を知り、新子への愛を貫く決意を固める。「妻とも戦う」と宣言し、新子と共に生きる道を選ぶ。世間の批判や家庭の崩壊を覚悟の上で、二人は新たな「殉愛の道」へと踏み出す。

(最終回 動画リンク挿入箇所)

主な登場人物

南條 新子(なんじょう しんこ)

本作の主人公。聡明で責任感が強く、没落した家の家計を支えようと奮闘する。控えめで思慮深いが、内面には情熱とプライドを秘めている。前川との関係や妹たちの奔放さに心を悩ませる。

南條 圭子(なんじょう けいこ)

新子の姉。文学や新劇に夢中なロマンチストだが、現実的な生活能力に乏しく、浪費家。自分の夢のためには家族に迷惑をかけることも厭わない一面がある。

南條 美和子(なんじょう みわこ)

新子の妹。天真爛漫で自由奔放、物怖じしない現代的な女性。姉の恋人やパトロンにも積極的に関わり、時に周囲を掻き乱すトラブルメーカー的存在。悪気はないが、その行動が物語に波乱を呼ぶ。

前川 準之助(まえかわ じゅんのすけ)

裕福な実業家。新子の純粋さや知性に惹かれ、彼女のパトロン的存在となる。穏やかで紳士的だが、家庭には問題を抱えている。新子に対して深い愛情を抱き、彼女の人生を支えようとする。

前川 綾子(まえかわ あやこ)

準之助の妻。裕福な子爵家の出身でプライドが高く、支配的。夫の行動に常に目を光らせ、新子の存在を知ると激しい嫉妬心から彼女を追い詰めようとする。本作における主要な敵対者。

美沢 直巳(みさわ なおみ)

新子の元恋人で、ヴァイオリニストを目指す青年。芸術家肌で繊細だが、経済的には不安定。新子への想いを持ちつつも、美和子の積極的なアプローチに揺れ動く。

前川 路子(まえかわ みちこ)

準之助の妹で、新子の友人。明るく気さくな性格で、新子に家庭教師の仕事を紹介する。兄夫婦の関係や新子の立場を理解し、彼女に同情的な面を見せる。

木賀子爵(きが ししゃく)

綾子夫人の遊び相手の一人。軽井沢で新子と出会い、彼女に好意を寄せる。綾子夫人の策略に利用されることもあるが、基本的には善良な青年。

南條家の母

夫亡き後、経済観念の乏しさから家計を困窮させる。娘たちの将来を心配するが、現実的な解決策を持たず、新子に頼ることが多い。

第六編「掻き乱す者」を読む

二夜、夜更しが続いたので、朝は深い眠りで、明るくなったのにも気がつかず、新子は、十一時半頃、やっと眼を覚した。傍の美和子は、まだ綺麗な寝顔で、しんしんと眠っていた。枕元に、美和子宛の速達が来ていた。表書の筆蹟が、努めて違えてあるようだが、どこか、美沢のそれらしかったが、裏を返しては見なかった。新子は、美和子を起してやろうと思ったが、止してしまった。

昨夜、お店で前川がご不浄に立ったとき、(明日二時、ちょっと来ます)と、行きずりに囁いたので、早く店へ行かねばならず、大急ぎで化粧をした。

姉の幸福は、自分もちょっと噛ってみねば、気のすまないような美和子に対して、新子はある煩わしさを覚えていた。美和子が、毎晩のように、お店に現われると、結局美和子が、バー・白鳥に駕する王女になってしまうような気がした。だから、今日も美和子が、(一しょに行く)などと云い出さない内に、サッサと家を出かけてしまいたかった。どこからか聞えている昼間の演芸放送が、ニュースに代りかけても、美和子は起きて来なかった。

銀座へ来たのは、一時半を過ぎていた。店には、もう前川が、会社のひまを盗んで来たらしく、帽子も被らず、やって来ていた。

「お待たせしました。」

「いや、僕も今来たばかり……」と、右手に持った金属性の鳥籠を、どこへ置こうかと、部屋を見廻していた。

「まあ。カナリヤですの……可愛いこと。」

「いま来がけに、そこでフラフラと買っちゃって、水盤の上へでも吊ろうかと思っているんですが……」

「可哀想ですわ。お店じゃ。夜更しをして、煙草にむせて、お酒に酔って……」

「じゃ、貴女のお部屋にしますか。」

「ええ。」と、新子が手を延ばして、籠のてっぺんを持とうとすると、

「僕が、持って行って、上げますよ。ウッカリ持つと、水をこぼしちまう……」と、前川は籠をぶら下げて、新子の部屋へ上って行った。新子も後に従って行った。カナリヤが、籠の中で怖れるように、忙しなく短く、鳴いている。カラリカラリと前川は、カーテンを開いて、出窓の上に鳥籠を安定させると、新子を振り向いて、何と云うことなしに微笑した。

新子も同じように、微笑しながら、この世に幸福を盛る器があるとすれば、自分はその中にいるような、晴々したのどかな気持になっていた。もっとも、その器の中にいるだけで、ほんとうに幸福であるかどうかは、別問題であったが……。

しかし、そうした幸福感が、間もなく妙に新子を切なくした。なぜといえば、前川は、小さい椅子にかけて、葉巻をくゆらせながら、開店景気とはいえ、この二日間の売上げの好かったことを話し、でもこれが当分続くとしても、やがて常連だけになり、そこで初めて店の収入が決まるというような、その場合の新子の気持とは、およそそぐわない話をし始めたからである。新子は味気なく、物足りない気がして悲しかった。

「会社の方、まだお仕事があるんじゃございませんの?」

「いや、別に。帽子やステッキを持ってくれば、会社へ帰らなくってもよかったんです。でも、今日は六時までに、家に帰らなければ……」

「祥子さんや小太郎さん、お元気なんでしょう。」

「ええ、しょっちゅう、貴女のことを云って、会いたがっていますよ。それに、路子も、たいへん貴女に、すまながっています。今度、何か機会を作りますから、子供をご覧になりませんか。」

「ぜひ、どうぞ。」

話していても、新子は何となく不満である。もっと外の話がしたい。もっと心に触れる話が……こんな話で飽きたらないのは、結局前川を愛しているためだろうか。と新子は、自分の心を探ってみている。前川とても、同じ気持であろうか、他愛ない話を、あれやこれやとしながらも、容易に腰を上げかねていた。時間ばかりが、切なく過ぎる。突然、

「お姉さまァ。上にいらっしゃるの!」ハッとするほど陽気な声がして、バタバタと、階段を上って来る足音がした。

「僕、居てもかまいませんか。」と云う、前川の言葉の終らぬ内に、部屋の中へ、美和子が飛び込んで来た。

「あら!」前川を見ると、さすがに顔を赧くして、「お姉さま、ちゃんとご紹介してよ。」と、恥かしそうに、前川から顔をそむけて、姉の肩に甘えかかった。新子もつい、おかしくなって、笑いながら、

「前川さん。妹の美和子でございます。」と、紹介した。

「そうですか。昨夜は、あんなに僕達をおかつぎになって! これは驚いた。」と、前川はびっくりして、美和子を見直した。

「だって、私はどこの方だか、分らなかったんですもの。お姉さまのお世話になっている前川さんだとは夢にも知らなかったんですもの。すみません、どうも。」と、早くも別なウソをつく円転自在な美和子に、姉は心の中で、何かしら油断のならぬ気がした。

いきなりはいって来た美和子をたしなめる気持も手伝って、

「貴女、こんなに早く何しに来たの?」と、新子が詰ると、

「カットが、こんなに伸びちゃったんだもの。美容室に行くの。」と、前川に愛らしい笑顔を向けて、ちょっといいよどみながら、新子の耳に口を寄せ、

「それで、お姉さまに、お小遣を頂きに来たの。お小遣じゃないわ。二日間のお給料としてでもいいわ。」と、前川にも聞えるように囁いた。新子は、苦笑しながら、

「もうそんな……」といいながら、五円札を出してやると、わるびれもせず、ハンドバッグをパチンと聞けて、中に入れて、今度は前川の方へ向いた。

「晩に、またいらっしゃるでしょう。」

「いや、晩には来られません。」

「いけないわ。嘘をおつきになっちゃ、昨夜私とちゃんとお約束なすったのに……」長い睫毛を、しばたたきながら、詰った。

「ご免なさい。今日は、都合がわるいから、改めて約束の仕直しをしましょう。明日きっと来て、あなたのサービスぶりを拝見いたします。」と、やさしくいうと、すぐそれに甘えて、

「じゃ、もうお帰りになるの。」と、訊いた。

「ええ、僕ノウ・ハットだから、会社へ、帽子を取りに行かなければ……」

「あら、帽子なんかいいじゃありませんか。今晩、いらっしゃらない罰に、これから銀座で何かご馳走して下さらない。私、あわててお家で、何も喰べて来なかったの。お腹、ペコペコなの。ねえ、お姉さまも、一しょにお出かけになるでしょう。」

「何を云っているの。前川さんにご迷惑なことを云っちゃ。」

美和子が、前川に対して、あまりに無遠慮なので、新子が真面目な表情をしてたしなめると、美和子はケロリとして、

「お姉さまは、前川さんと歩くのおいや? 何とか云われやしないかと、心配なんでしょう。私は、平気だわ。私は、前川さんと一しょに歩いたって、伯父さんかパパのようにしか見えないんだもの。ね、そうじゃありません?」新子は、不愉快になってだまったが、前川は冗談に、

「パパは、ひどいでしょう。」と、抗議すると、

「だって、美和子の覚えているパパは、前川さんくらいだわ。ねえ、お姉さま。」と、姉の気持などおかまいなしに同意を求めた。

新子は、ますます不機嫌になって、

「そんなご迷惑なことを云わないで、早くカットにいらっしゃい。熊の子みたいな頭をして……」と、美和子を追い立てにかかったが、美和子は立ち上ろうとはせず、

「独りで、何か喰べるくらい、つまんないことないわ。お姉さま、一しょに行ってよ。」と、ねだるのを、前川は、取りなして、

「じゃ、僕も、会社へ帰る途だし、昨日サービスしてもらったお礼に、ちょっとつき合いましょう。」と、前川は立ち上った。そうした前川の親切気を妨げる手もないので、新子はだまっていた。

「ああ! 嬉しい。」美和子は、もう馴々と、前川の側へ立ち寄っていた。新子は、妙に胸騒ぎを感ぜずにはいられなかった。

美和子の心は、まるで水銀のようである。美沢の美貌と芸術家であることに魅せられて、フワフワと恋愛したように、今度は前川のありあまる物質を背景とした中年の紳士姿に、どう影響されるかもしれたものではなかった。

「美和子ちゃん。貴女、速達が来ていたの、急用じゃないの?」と、美沢のことを思い起させようとしたが、

「あれは、何でもないの。」と、あっさり答えて、

「じゃ、お姉さまは、いらっしゃらないのね。じゃ、出かけましょうか。」と、前川を促した。

「じゃ、また……」と、挨拶して、美和子とともに出かけようとする前川に、

「お転婆で、わがままで、ほんとうに困るんですよ。どうぞ、甘やかして下さらないように。」

と、云うと、前川は新子の言葉を、姉としての謙遜としか解さないらしく、

「いや、なかなか明朗なお嬢さんですよ。」と、微笑しながら、美和子の後を追うて降りて行った。

前川さんが、まさかまだお乳の香のとれない美和子などにと思っても、子供ながらに一くせも二くせもある妹だけにいやだった。といって自分も一しょについて行くことは、はしたない気がして……。もっとも、美沢の場合にだって、何も云う権利のない自分であるから、前川氏の行動に対して文句を云えるはずもなく――いな、心をうごかすはずでもないのであるが、何となくやるせなく不安になるのをどうすることも出来なかった。前川が置いて行ったカナリヤの籠に面してぼんやり立っているうちに、なぜかしら寂しくなって、新子はぼんやりと涙ぐんでいた。

二人ぎりで、鋪道を歩いて行くと、さすがに美和子は話がないらしく、カツカツとハイヒールの靴音を立てて、おとなしく一歩後からついて来た。

快活で、こだわりのない、こんな妹が新子にあることは、いろいろ好都合だと思った。第一、この妹にねだられるのを口実に、毎日スワンへ通うことだっておかしくないし……。

この間中から、新子がお召の着物に、ハイカラな縞の博多帯ばかりをしめているのが気になっていた。よく似合うし、趣味も悪くはないが、あまり同じものをつづけているので……。何か新しい着物を贈りたい、と思いながら機会がなかったが、今日妹と歩くのは好都合だ。妹に何か買ってやるのを、キッカケに、新子に新しい着物を買おう、そうすれば自然でいいと、万事綺麗事好みの前川らしい考えが、胸の中に浮んで来た。

「お腹とても空いているのですか。」と、後へ微笑みかけながら訊くと、

「ええ、ペコペコよ。」

「百貨店の食堂なんか嫌いですか。」と云うと、けげんな顔で、

「百貨店に、用事がおありんなるの?」

「ちょっと、松屋で買いたいものがあるんですが、貴女のご意見も伺った方が、いいかもしれないので、一しょに行って頂こうかと……」と云うと、早くも悟って、

「ああ、解ったわ。お姉さまに、何か買ってお上げになるんでしょう。いいわ。私が見立てるわ。その代り、私にも何か買って下さるんでしょう?」

「もちろん、そうなるでしょうな。」前川も、幾分ふざけて云った。

松屋まで歩くのは、ちょっと辛かったので、そこの駐車場から、円タクに乗った。

「買物を先にしても、大丈夫ですか。お腹が空いて倒れることなんかないですか。」と云うと、

「もう、お腹の空いていることなんか、忘れちゃったわ。何を買って頂こうかと、考えているのよ。もう、ご飯なんか、どうだっていいわ。私、ひとりで後で頂いてもいいことよ。」と、たちまち発揮する勝手坊主に、前川は苦笑しながら、

「貴女は、どんなものがいいんでしょうか。」と訊くと、美和子は小さい頭をかしげ、

「美和子、欲しいもの、いろいろあるのよ。でも、デパートなんかには、ないかもしれないわ。ローヤルで、サンダル・シューズをあつらえたいし、ヴァニティ・ケースもほしいのよ。」と、買ってもらうにも、自分の趣味は、主張しようとする。

「じゃ、お好みのものを。とにかく、松屋で、お姉さんに上げたいものを、見立てて頂いてから。」

「おお、うれしい。とても素晴らしい。でも、お姉さまの方が、私よりズーッと幸福だわ。」と、云った。

三階の呉服売場へ、真直ぐに行こうと、自動車を降りると、人混をわけて、真直ぐにエレヴェーターの方に歩き出す前川の後から、チョコチョコと美和子が、追いかけて来て、一しょにエレヴェーターに乗ると、前川がためらいもせず、

「三階!」と、命じる背中に、美和子は混んでいるので、蝉のように、くっついたまま、

「前川さん、女みたいに、よく知ってらっしゃるのねえ。」と、低くささやいた。前を向いたまま、前川は苦笑を浮べていた。

もう九月の二十日過ぎで、百貨店には、ボツボツ秋の新製品の陳列で、単衣物の良いものなど見当らないばかりか、いつか綾子夫人と一しょに来たとき、新子のために目星を付けておいたお召の単衣など、ショウ・ケースから姿をかくしている。前川は、うず高く積んである反物を、一反ずつ見る気にもなれず、ウロウロしていて、顔見知りの番頭などに、つかまるのも厭だった。場内を一巡して、またエレヴェーターの前に戻って来て、美々しく飾られている帯地の陳列を眺めていると、美和子が、

「あれ、ハイカラな帯ね。お姉様には少し華美かもしれないけれど……」と、海老色の繻子に、草花の刺繍のしてある片側帯を指した。そこへ目をやりながら、前川は、その帯の隣にある古風な更紗を、巧みに近代風な図案にした袋帯を見つけて、これは新子に似合うと思った。

「その隣のは、どうです?」と、美和子に訊ねると、彼女は生意気そうに、しばし見ていたが、

「悪くはないわ、少し高そうね。」と、陳列の帯がすだれのように垂れている中に、首を突っ込んで、値段を調べた。

「七十七円だわ。袋帯にしては高いのね。」と、もどって来た。

「これがいい、これに定めましょう。」傍に立っているショップガールを、眼でさし招くのを、美和子が、

「あら、お買いになるの。お姉さまいいわねえ。」と、云った。

前川は、今日は夫人が、長唄のお稽古に行っているので、デパートへなど来るはずはないが、しかし万々一ということもあるので、大いそぎで金を払うと、包んでくれるのを待ちかねながら、

「食堂は上へ行きましょうか。下へ行きましょうか。」と、美和子に訊いた。美和子は、何となく気落ちのした顔で、店員の手から、帯の包みを受け取りながら、

「下がいいわ。お姉さま、羨しいわ。」と、云った。

美和子が、姉を羨んで、しょんぼりしてしまったのを、慰めるため、エレヴェーターで降りながら、

「美和子さんの結婚のお祝いには、何か素晴らしいものを、プレゼントしますよ。」と、お世辞をいった。

「あら、お姉さま、お喋りだわ。そんなことまで、ご存じなの……。でも、まだ分んないの、どうなるか……。いま、ビフテキを喰べながら、お話しするわ。私、ちょっと煩悶してるところなの……」と、男の子のように、明るくいった。実のところ、前川の如き中年の男にとっては、美和子のような年頃の女の子の、いうこと為すこと、一々が思案のほかであった。

洒々と、自分の結婚のことについて、馴染の浅い大人をつかまえて、底を割った話をするかと思うと、下の食堂へ行ったときは、その話はケロリと忘れたように、自分一人の食事を、怯びれもせず、註文して、紅茶一杯でつきあっている前川になぞ、一切気を使わず、プディングを頼んだり、果物を取ったりしているのであった。

何本目かの煙草に、火を点けながら、前川は実感をそのままに、

「美和子さんなんかに、煩悶なんかありそうもないですがね。」というと、美和子は、子供のように、かんむりを振って、

「大在りなの。そのね、結婚しようっていう人が、愛してくれるってところまで、まだ行っていないの。私に対して、ただ遊び相手みたいな気持しか持ってくれないんだもの。それが、癪なの。」

「だって、もう結婚することに、定っているんでしょう。」と、美和子の素直な告白に、微笑ましくなって、やさしく云うと、

「それが、とてもおかしいの。あんまり、その人と遊び過ぎてしまって、私お家へ帰らなかったの。それで、その人のママさんに、お家へことわりに行ってもらったの。するとそのママさんが、気を廻してしまって、お母さんや新子姉さんと、縁談なんか始めてしまったの。少し困っているのよ。」

「いいじゃありませんか。遊び過ぎるくらいなら、貴女だってその方だって、お互に好きなんでしょう。」

「私は好き。でも、その方は私が好きかどうか疑問なのよ。その方ったら、新子姉さんを、とても好きだったの。今だって、きっと好きだと思うわ。」と、アケスケな話に、準之助は、思わず引かれるように、美和子と視線を合わせて、相手を見つめた。

「じゃアつまり、お姉さまと、愛人関係だったんですか。」と、緊張して訊いた。

新子に愛人があったかどうかは、前川にとって、かなり気にかかることだった。

「ええ、そうだったのよ。」と、美和子はアッサリ肯定してつづけた。

「でも、美沢さんって方、気が小さくて神経質でしょう、お姉様はデンと落着いている方でしょう。だから、いつまで交際っていても、あまり発展しないのよ。ところが、この夏、お姉さまが軽井沢へ行ってしまったでしょう。その留守に淋しがりやの美沢さんは、少し自棄で、私と遊んでしまった形があるのよ。……ところが、この頃、たちまちつまんなくなってしまったの。だって、結婚っていうことになると、美沢さん、とてもいらいらしてしまっているの。一しょにいても、ちっとも楽しくないの。だから、私お姉さまのところへ、毎日手伝いに行くのよ。」

「だって、貴女は好きなんでしょう、その人が。」前川は、新子にも関係のあることなので、もう一度改めて訊き直した。

「ええ、そりゃ……でも、私フラフラだから、自分でもとても困るわ。お姉さんのお店へ行っていると、何だかあんな仕事が、ほんとに自分の性に適っているような気がして、この頃、結婚なんかどうでもよくなってきちゃったのよ。」

あんまり、物いいが率直で、かえって嘘か真実か、区別がつかないような美和子に、前川は思わず苦笑を浮べながら、胸の中は、前にいる美和子のことよりも、新子のことで一杯だった。

新子に、つい最近まで愛人があったとして、それが今美和子と結婚しかかっているとしたら、前川はその結婚が滞りなく、早く纏まってほしかった。新子の周囲には、愛人らしいものの、翳影も落ちていない方が、のぞましかった。こうして、新子の面倒を見ていて、いつかどうしようという野心は、神に誓ってないと前川は自分で思っている。また軽井沢で、自然の力と境遇の偶然性に駆られて、ちょっと唇を触れただけでも、その怖しい報いが、踵を接してやって来た。だから、懲り懲りしている。清浄に、潔く、心持の上でも、その野心の芽を摘み取っているのであるが、しかし自分があきらめているだけに、新子の周囲も、掃き浄められたものであって、ほしかった。自分が足を踏み入れない聖域には、他人にも足を踏み入れてもらいたくなかった。だからその美沢という男は、早く美和子と結婚してほしかった。

「でも、その美沢さんという方は、いい方じゃないんですか。」と、前川がおだてるように云うと、

「そりゃとても。……新子姉さんだって、随分好きだったのよ。」いたずらっ子の美和子は、知ってか知らずにか、前川を更に心配させるような返事をした。

新子が、美沢という男を好きであったと聞かされて、前川には急に、自責の気持が起った。二人の相愛関係が破れて、美沢が、美和子の方へ走っている原因には、自分というものがあるのではないかと思ったからである。自分が、新子に必要以上に、親切にしたばかりでなく、あの思いがけない雷雨の中の出来事のために、二人の関係が崩れたのではないだろうか。自分は、新子の良人にも愛人にも、成り切れないくせに、徒らに新子の運命を狂わせているのではないかしら。そんなことを思うと、自分は今一層、新子を慰め、いたわる責任があるような気がした。

(あの演劇マニヤの圭子さんと、この恐るべき妹と、新子さんも大変だな)と、前川は考えながら、無邪気そうに、バナナを喰べている美和子を眺めていた。

「ねえ。サエグサへ、一しょに寄って下さる。」

前川は、腕時計を見ながら、「もう、五時ですな。いかがです。貴女が一人で、ゆっくりお買物なすった方が、楽しくありませんか。僕、ご費用だけは差しあげておきますから。」

「ええ、それもそうですけれど……じゃ、こうして下さらない。――サエグサだけ、つき合って下さらない。サエグサから、私をローヤルまで、円タクで送って下さって、それから会社へいらしってもいいわ。」

前川は、苦笑しながら、「サエグサは、すぐ前でしょう。」

「ええ、だって厭だわ。私、お姉さまのために、ここへ来て、もう頭なぞ、やってもらう暇がなくなったんですもの。それだのに、私の買物となると、おっぽり出されるなんていやだわ。それに銀座なんか、少しの間だって、独りで歩くの、間がぬけているわ。」前川は、仕方なく肯いて立ち上った。

松屋を出て、電車通りを横ぎり、そこの洋品店の前で、前川はショウウィンドーを見ながら待っていた。美和子は、十分もかかって、自分の好みのハンドバッグを撰み出すと、表で待っている前川のところへ来て、

「ねえ、ハンドバッグと靴とで、お姉さんと一しょに、七十円くらいまではいいでしょう?」

前川は、美和子らしい得手勝手な金額に微苦笑しなら、「どうぞ。」と云った。

© 菊池寛「貞操問答」解説ページ

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