毎週金曜朗読連載中! 「野村胡堂著 不義士右門」

野村胡堂 著 / 丸竹書房
- 1 作品紹介・あらすじ
- 2 冒頭 試し読み
- 2.1 第一編
- 2.2 藤井右門は実在の人物というのは本当?
- 2.3 藤井又左衛門はなぜそんなに評判が悪いんですか??
- 2.4 大石内蔵助とはどちらの身分が高いんですか?
- 2.5 そもそも浅野の家臣団は何人ぐらい居たんですか?
- 2.6 物語の主要人物のもう一人の親父、田中貞四郎。史実のこの人はなにをし、何をしなかったんですか?
- 2.7 藤井又左衛門と田中貞四郎のその後の人生をお聞かせください。
- 2.8 旧赤穂藩士でも、全員が悲惨な目にあったわけではないと思いますが、著名な足跡を残した、そのほかの藩士たちについて教えてください。
- 2.9 史実の藤井右門について詳しく教えてください。
- 2.10 小説と同じように、藤井右門と竹内式部は若い頃に出会っていたのですか?
- 2.11 史実で山県大弐が合流したのはいつ?
- 3 山本周五郎作品における山県大弐(短編・中編)
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物語の世界を、ぜひ音声でもお楽しみください。
作品紹介・あらすじ
「赤穂浪士の討ち入りから三十三年。英雄の影に、泣いた者たちがいた。」
時は享保二十年、赤穂義士の三十三回忌。世間が四十七士を英雄として讃える中、討ち入りに参加しなかった「不義士(脱盟者)」の子として、蔑まれながら生きる一人の若者がいた。名は藤井右門(ふじい うもん)。
父・藤井又左衛門の汚名を雪ぐため、剣の道に生きる右門だったが、ある日、吉良上野介の孫・三之丞の一味と関わりを持つことになる。さらに、赤穂義士の遺族たちが集う法要の席で、右門は激しい罵倒を浴びせられる。
吉良家再興を目論む妖艶な美女・お兼。義士の遺児でありながら右門と数奇な運命で結ばれる美少女・雪江。 「不義士の子」という烙印を背負った青年剣士が、義士の遺族と吉良の残党、二つの怨念の渦に巻き込まれていく。
真の「義」とは何か。父は本当に卑怯者だったのか。
後の尊王論者・藤井右門の若き日の苦悩と闘いを描く、異色の忠臣蔵外伝。
冒頭 試し読み
第一編
一、往来に投出された半裸体の美女
「あ、助けてー」
「尋常な声を出す柄じゃない、太い女だ。」
追ひ縋った男の手が掛ると、赤地に金糸で松竹梅を縫ひ出した、素晴らしい帯がクルクルと解けて、二月の海の風が吹いて来る、芝、車町の片側町へ、燃え立つやうな長襦袢一つで、美しい娘が搾り出されてしまったのです。
「どうぞ、お願ひ、そればかりは――」
「何を言やがる、人足と共謀になって、駕籠代を立て替へさした上、三人で鱈腹食ひ荒したのを踏み倒す気だろ、そんな甘手に乗るやうな俺ちゃない、帯と着物が欲しかったら、一貫二百六十四文、耳を揃へて持つて来あがれ。店は女房に出して居るが、車町の五郎といふ、ちつとは、人に知られた荒神様が付いて居るんだ。」
三十五六の遊び人風の男、女の帯と着物――まだ体温の匂ふやうなのを小脇に、往来に倒れた長襦袢の娘を見やり乍ら、無法者らしい啖呵を浴せるのでした。
享保二十年の高輪泉岳寺前、赤穂義士の三十三回忌法要を明日に控へて、何んとなく物々しい町の風物の中に、飛んでもない紅一点を配したので、午下がりの往来は、忽ち物見高い人垣が築かれます。
「その帯は母親の形見の品、せめてそれだけでも返して下さい、源助町まで帰つた上は、直ぐ駄賃の御立替と中食の代は届けさせます、お願ひで御座います、この姿では何処へ行くこともなりません。」
娘は武家風の二十歳そこそこ、滴るばかりの美しさを、惜気もなく往来の土の上に崩れて、赤い袂で砂埃を掃くふやうに、茶店の亭主を伏し拝むのでした。
「何んて因業なことをしあがるんだろ、あんな事をしたら、反って商売の人気にも障るだろ。」
「そんな事に驚く五郎ぢゃない、あの面魂を見ろ。」
「チェッ、癪にさわる面だが、芝切っての無法者だから、うっかり口も出せない。」
人垣を作った野次馬の中には、進んで何かしやうと言ふのは一人もありません。
丁度その時、
「待て、待て、亭主。」
「ヘエ、ヘエ。」
同じ店に休んで、泉岳寺の方ばかり気にして居た一人の武士、元服姿の若々しさ、精々十六七とも見えるのが、たまり兼ねた様子で亭主の側に立ちました。
「何んと言ふ事をするのだ。相手は若い女中、見れば武家風の方ではないか、一貫や二貫のことで、裸にするといふ法は無い、親元に知れて、厳重に談じて来た時何んとする。」
色の浅黒い、若竹のやうに秀麗な青年武士、黒木綿の紋附、小倉の袴を裾短かに、両刀を門に帯びた身のこなし、面摺れ竹刀蛸を見ずとも、抜群の武辺者と言ふ感じのする人柄です。
(……続きはYouTubeでお楽しみください)
藤井右門は実在の人物というのは本当?
はい、藤井右門(ふじい うもん)は実在の人物です。
ただし、今回読んでいただいた野村胡堂の小説『不義士右門』における設定と、史実の藤井右門には大きな違いがあります。
小説は、実在の人物をモデルにしつつ、作者が大胆な創作(フィクション)を加えたものです。史実との違いを整理します。
1. 史実の「藤井右門」とは?
歴史の教科書にも登場するような、江戸時代中期の重要な思想家・尊王論者です。
- 本名: 藤井直明(ふじい なおあき)。右門は通称です。
- 出身: 越中(富山県)。
- 何をした人か:
- 尊王論(天皇を尊ぶ思想)を説き、幕府の政治を批判しました。
- 小説にも登場した竹内式部(たけのうち しきぶ)や、山県大弐(やまがた だいに)とともに活動しました。
- 最期: 1767年の**「明和事件(めいわじけん)」**で、幕府転覆を企てたとして捕らえられ、処刑(獄門)されました。明治維新の先駆けとなった人物として、死後に名誉回復されています。
2. 小説と史実の違い(ここがポイント)
野村胡堂は、実在の藤井右門のプロフィール(越中出身であること、竹内式部との関わりなど)をうまく利用しながら、「赤穂浪士(忠臣蔵)」の物語に接続させるという大胆な創作を行っています。
|
項目 |
小説の設定(フィクション) |
史実(リアル) |
|
父親 |
藤井又左衛門(赤穂藩の家老で討ち入りに参加しなかった「不義士」) |
赤穂藩とは無関係。越中富山藩の藩士の家に生まれる。 |
|
生い立ち |
父の汚名を雪ぐため、不義士の子として苦悩する剣豪少年。 |
若くして家を出て京都で皇学や兵学を学び、尊王思想に傾倒した学者・活動家。 |
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剣の腕 |
江戸中の道場を震え上がらせる達人(武道の右門)。 |
兵学者でもあったため武術の心得はあったが、小説のような「少年剣豪」という記録はない。 |
|
竹内式部 |
隣の家に住んでいて、若き右門を導く先生役。 |
実際に交流があった同志。史実でも深く関わっている。 |
解説:なぜ「不義士」の子という設定になったのか?
実は、赤穂藩の家老で討ち入り前に逃亡した**「藤井又左衛門(宗茂)」という人物も実在**します。
作者の野村胡堂は、以下の3つの要素を巧みに組み合わせたと思われます。
- 実在の志士「藤井右門」(越中出身、幕府に処刑された反骨の士)
- 実在の脱盟者「藤井又左衛門」(赤穂藩の家老、評判が悪かった)
- 「藤井」という同じ苗字
これらを結びつけ、「実は尊王論者の藤井右門は、あの赤穂の裏切り者・藤井又左衛門の息子だったのではないか? だから幕府(徳川)を嫌い、天皇中心の世の中を目指したのではないか?」という**「もしも」の物語**を作り上げたのです。
結論
藤井右門は実在しますが、「赤穂浪士の裏切り者の息子」というのは小説上の創作です。 しかし、彼が後に竹内式部らと共に幕府を揺るがす大事件(明和事件)に関わる重要人物になることは、歴史的事実です。この小説は、その若き日の(架空の)苦悩を描いた時代エンターテインメントと言えます。
藤井又左衛門はなぜそんなに評判が悪いんですか??
藤井又左衛門(ふじい またざえもん)の評判が悪い理由は、「忠臣蔵(物語)」での情けない描かれ方と、**史実での行動(責任者なのに何もしなかった)」**という2つの側面があります。
この2つが混ざり合って、「無能でケチな裏切り者」というイメージが定着してしまいました。
1. 物語(忠臣蔵)での描かれ方
歌舞伎やドラマの『忠臣蔵』では、彼は**「主君(浅野内匠頭)が吉良上野介にイジメられる原因を作ったダメ家老」**として描かれることがほとんどです。
- ドケチな贈り物(鰹節一本): 物語では、吉良上野介への挨拶(付け届け)をする際、又左衛門がケチって「鰹節一本」しか贈らなかったため、吉良が激怒し、それが主君・浅野内匠頭へのイジメにつながった……というエピソードが有名です(これは後世の創作と言われています)。
- 無能な側近: 江戸にいて主君を補佐すべき立場(家老)だったのに、吉良との関係をうまく調整できず、ただオロオロするだけの役立たずとして描かれます。
- 自分だけ逃げる: お家の一大事に際しても、保身に走ってさっさと逃げ出す「卑怯者」として描かれ、英雄である大石内蔵助(同じ家老)との対比で悪役扱いされます。
2. 史実での行動(なぜ悪く言われるか)
物語ほど極端ではないにせよ、史実でも評判が悪くなるだけの理由はあります。
- 江戸家老としての責任放棄: 彼は当時、江戸詰の家老(800石という高い身分)として、主君・浅野内匠頭のそばにいました。主君が松の廊下で刃傷沙汰を起こしてしまったのは、側近である彼の補佐不足・監督不行き届きであることは否めません。
- 不義士(脱盟者)であること: 「忠臣蔵」は仇討ちをした47人を「義士(正義の士)」として称える物語です。そのため、途中で抜けたり協力しなかった人は、どうしても「不義士(正義のない人)」として批判的に見られてしまいます。
- 当時の江戸での評判: 浅野内匠頭が切腹した後、江戸の赤穂藩邸が町人や浪人に襲撃されるという騒ぎが起きています。これは、当時の江戸家老である又左衛門たちの統率力がなく、日頃からあまり人望がなかった(ナメられていた)可能性を示唆しています。
まとめ
藤井又左衛門は、**「主君の刃傷事件を防げなかった責任者」であり、かつ「仇討ちに参加しなかった」ため、忠臣蔵という物語の中で「すべての元凶である無能な悪役」**という強烈なキャラクター付けをされてしまった、というのが評判の悪さの正体です。
大石内蔵助とはどちらの身分が高いんですか?
大石内蔵助の方が身分(席次)は上です。
赤穂藩(5万3000石)における二人の序列は明確に決まっていました。
|
名前 |
役職 |
石高(給料) |
序列 |
|
大石内蔵助 |
筆頭家老(城代家老) |
1500石 |
家臣No.1 |
|
藤井又左衛門 |
家老 |
800石 |
家臣No.2 |
具体的な違い
- 石高の差: 大石内蔵助は1500石で、藤井又左衛門(800石)の倍近い給料をもらっていました。これは大石家が代々赤穂藩の筆頭家老を務める特別な家柄だったためです。
- 役割の違い:
- 大石内蔵助は「城代家老(国家老)」として、殿様が江戸にいる間、赤穂城と領国全体を預かる最高責任者でした。
- 藤井又左衛門も家老職ですが、事件当時は「江戸詰め」といって、殿様と一緒に江戸屋敷で勤務していました。
小説での関係性
小説『不義士右門』でも、父・藤井又左衛門は「大石に次ぐ重臣」という扱いになります。 しかし、「No.2という高い地位にいながら、江戸での刃傷事件を防げず、その責任も取らずに逃げた」という点が、物語の中で「不義士(裏切り者)」として特に厳しく糾弾される理由となっています。
そもそも浅野の家臣団は何人ぐらい居たんですか?
赤穂藩(浅野家)の家臣団の数は、武士(侍)だけで約300人強、足軽や雑用係を含めると約1000人規模だったと言われています。
内訳をざっくり整理すると以下のようになります。
赤穂藩(5万3000石)の家臣団の内訳
- 士分(しぶん):約320名
- いわゆる「お侍さん」です。名字帯刀が許された正規の武士。
- 大石内蔵助(1500石)や、小説の父親モデルである藤井又左衛門(800石)はこのトップ層に含まれます。
- 討ち入りに参加した47人のほとんどはこの階級です。
- 足軽(あしがる):約200名以上
- 下級武士、兵卒です。戦闘要員ですが、身分は低いです。
- 四十七士の中で唯一の生き残りとして知られる寺坂吉右衛門はこの身分です。
- 中間・小者(ちゅうげん・こもの):約300〜400名
- 武士に仕える雑用係や、行列の道具持ちなどです。
ここから分かる「47人」の少なさ
こうして数字を見ると、討ち入りの凄まじさと、今回読んでいただいた小説『不義士右門』のテーマである「残された人々」の多さがよく分かります。
- 全侍(約320人)のうち、討ち入りしたのはたったの47人(約15%)。
- 残りの約270人(約85%)は、討ち入りに参加しなかった人たちです。
大多数は「不義士(参加しなかった人)」だった
物語では「47人が正義」とされますが、現実には参加しなかった人の方が圧倒的に多いのです。
- 脱盟した人: 最初は仇討ちに賛成していたけれど、生活の不安や家族の都合、考え方の違いで抜けた人(約60〜70人ほどいたと言われます)。
- 最初から反対・不参加の人: 藤井又左衛門のように即座に逃げた人や、再就職活動を優先した人。
小説の主人公・藤井右門は、この「圧倒的多数派なのに、世間からは肩身の狭い思いをさせられた85%の人々の息子」という立場になります。そう考えると、彼の「父は不義士と呼ばれたが、本当にそうなのか?」という葛藤がより重く感じられるかと思います。
物語の主要人物のもう一人の親父、田中貞四郎。史実のこの人はなにをし、何をしなかったんですか?
田中貞四郎(たなか さだしろう)は、小説の主人公・藤井右門の父(藤井又左衛門)と並んで、**「赤穂藩の二大裏切り者」「不忠臣のツートップ」**として歴史に名を残してしまった人物です。
史実において彼が「何をし、何をしなかったのか」を整理すると、彼がなぜこれほど悪く言われるのかがよく分かります。
1. 田中貞四郎の立場
- 役職: 側用人(そばようにん)
- 石高: 150石(藤井の800石よりは低いが、殿様の側近中の側近)
- 関係性: 藤井又左衛門が「政治の責任者(家老)」なら、田中貞四郎は**「殿様の秘書・お気に入り(側近)」**でした。浅野内匠頭に常に付き従い、寵愛を受けていた人物です。
2. 彼が「したこと」(=悪行とされること)
史実および当時の噂として、彼は事件直後に以下の行動をとったとされています。これが「人間のクズ」と呼ばれる原因です。
- 金品を持ち逃げした(と言われている): 殿様が刃傷沙汰を起こし、即日切腹が決まったその混乱の最中、あろうことか屋敷の金庫(金銀)や、殿様の愛用していた茶道具などを勝手に持ち出して、さっさと逃亡(逐電)しました。 (※これは当時の噂や講談で強調される話ですが、史実でも「ドサクサに紛れて私腹を肥やして逃げた」という説が濃厚です)
- 「あわてんぼう」の汚名を残した: 逃げ足があまりに早かったため、当時の人々から「戸田中(とたなか)」や「逃げ田中」というあだ名をつけられ、江戸中の嘲笑の的になりました。 ※「戸田中」とは、「戸を閉める音(トタン!)と共にいなくなった田中」という意味の地口(ダジャレ)です。
- 悪いアドバイスをした(と言われている): 藤井又左衛門と一緒に、吉良上野介への贈り物をケチるよう進言し、いじめの原因を作った張本人(腰巾着)とされています。
3. 彼が「しなかったこと」(=責任放棄)
彼が最も責められるのは、泥棒行為よりも**「側近としての責任を放棄したこと」**です。
- 事後処理を一切しなかった: 本来、側用人であれば、主君が亡くなった後の屋敷の片付け、残された家臣への指示、幕府への対応などを先頭に立って行う義務がありました。彼はそれをすべて放り出しました。
- 主君の遺体を迎えに行かなかった: 主君の遺体を引き取り、埋葬の手配をしたのは、片岡源五右衛門(後に討ち入りに参加する義士)ら他の家臣たちでした。一番のお気に入りだったはずの田中は、主君の亡骸に見向きもしませんでした。
まとめ:なぜ彼が「もう一人の親父」として重要なのか
藤井又左衛門と田中貞四郎は、以下の対比で語られます。
- 藤井又左衛門: 無能で保身に走った**「冷たい裏切り者」**
- 田中貞四郎: 火事場泥棒をして逃げた**「卑しい裏切り者」**
小説『不義士右門』の世界観において、主人公の右門が「父・又左衛門の汚名」に苦しんでいるのと同様に、もし田中の息子が登場するならば、「親父が泥棒をして逃げた」という、武士としてさらに恥ずかしい汚名を背負っていることになります。
史実の田中貞四郎は、**「殿様に一番可愛がられていたのに、一番最初に裏切って金を盗んで逃げた男」**として、忠臣蔵史上、最も軽蔑される人物の一人です。
藤井又左衛門と田中貞四郎のその後の人生をお聞かせください。
藤井又左衛門と田中貞四郎のその後の人生は、まさに**「生き地獄」**と呼ぶにふさわしい、惨めで哀れなものでした。
討ち入りを果たした47人が英雄として称賛される光の存在だとすれば、この二人はその対極にある影として、「武士の風上にも置けぬ者」がいかに社会から抹殺されていくかを示す実例となってしまいました。
それぞれ詳しく解説します。
1. 藤井又左衛門のその後
〜大石内蔵助にトドメを刺された再就職〜
彼は800石の家老という高い能力を持っていたため、赤穂藩から逃げ出した後、なんとか別の藩へ再就職(仕官)しようと活動しました。しかし、その道はかつての同僚・大石内蔵助によって閉ざされます。
- 再就職の失敗: 彼は一時、下総国古河藩(土井家)に採用されかけました。しかし、この噂を聞きつけた大石内蔵助が、土井家の家老宛てに手紙を送ったと言われています。 その内容は**「藤井という男は、主君の大事な時に逃げ出し、江戸屋敷の金品を持ち逃げしたような卑怯者です。雇わない方がいいですよ」**という辛辣なものでした。 この「悪評」が決定打となり、藤井は採用を取り消され、あるいは即刻解雇され、武士社会から追放されました。
- 晩年: その後、彼は名前を変えて身を隠し、京都や大阪を転々としましたが、誰からも相手にされず、極貧の中でひっそりと病死したと伝えられています。 小説『不義士右門』では「越中の山奥で隠れ住んだ」とされていますが、史実でも「世間から隠れるようにして死んだ」という点では共通しています。
2. 田中貞四郎のその後
〜酒に溺れ、路頭に迷った「逃げ田中」〜
殿様の一番の寵愛を受けていながら、真っ先に逃げ、金品を盗んだとされる田中の末路は、さらに悲惨でドラマチックな転落人生として語り継がれています。
- 家族からの絶縁: 彼は最初、実家や親戚を頼りましたが、「主君を見捨てた不忠者」「泥棒」という悪評がすでに広まっており、親族からも縁を切られ、家に入れてもらえなかったと言われています。
- のんべえの野垂れ死に: 武士としての身分を失った彼は、その日の食べ物にも困るようになり、最後は**アルコール中毒(酒浸り)になったと伝わります。 史料(『赤穂精義』など)や講談によると、彼は焼酎を飲みすぎて中毒死(野垂れ死に)**したとされています。当時、焼酎は下級層が飲む安い酒とされており、かつて殿様の側近として美酒を飲んでいた男の、あまりに落ちぶれた最期でした。
- 元同僚との残酷な再会(逸話): 有名な逸話があります。討ち入りを控えて潜伏中だった赤穂浪士(元同僚)の一人が、江戸の町中で、ボロボロの姿で物乞いをしている男を見かけます。それが田中貞四郎でした。 田中は元同僚に「金を恵んでくれ」と頼みましたが、元同僚は**「武士の魂を売った犬にやる金はない」**と唾を吐きかけ(あるいは憐れんで小銭を投げ与え)、去っていったと言われています。
まとめ:彼らが背負った「業」
二人のその後を見ると、**「討ち入りに参加して切腹した47人の方が、よほど幸福だったのではないか」**と思わせるほどの社会的制裁を受けています。
- 藤井又左衛門: 能力があったがゆえに、大石内蔵助という「正義」によって社会的に抹殺された。
- 田中貞四郎: 欲望と保身に走った結果、人間としての尊厳を失い、路傍の石のように死んだ。
小説『不義士右門』の主人公・右門は、こうした**「日本中で最も軽蔑された父親たち」**の血を引いているわけです。 「父の汚名を雪ぐ」という右門の悲願が、当時の常識からしていかに無謀で、かつ切実な叫びであったかが、父親たちのこの悲惨な末路からも想像できるかと思います。
旧赤穂藩士でも、全員が悲惨な目にあったわけではないと思いますが、著名な足跡を残した、そのほかの藩士たちについて教えてください。
おっしゃる通りです。約300人の家臣のうち、討ち入りに参加したのは47人(プラスアルファ)ですから、残りの250人以上はそれぞれの人生を歩みました。
彼らの中には、「裏切り者」と指弾されることなく、再就職に成功したり、文化人として名を残したり、あるいは「別の正義」を貫いた人々もいます。
悲惨な末路をたどった藤井や田中とは違う、**「生き残った赤穂藩士たちのサクセスストーリーや実直な人生」**をご紹介します。
1. 大石内蔵助のライバルであり、現実的な政治家
奥野 将監(おくの しょうげん)
- 地位: 組頭(1000石)。藤井又左衛門(800石)よりも身分が高いエリートです。
- スタンス: 「お家再興」派の筆頭。
- 彼の選択: 彼は大石内蔵助とともに最後まで残務整理を行った責任者の一人です。しかし、最終的に「討ち入り」には反対し、脱盟しました。 彼が目指したのは、暴力による解決(討ち入り)ではなく、政治的な交渉によって浅野大学(内匠頭の弟)を当主とし、浅野家を復活させることでした。
- その後: 彼は脱盟後、その実務能力を買われて下野国宇都宮藩(戸田家)に再就職しました。「討ち入りには参加しなかったが、最後まで義を尽くした人物」として、周囲からも一定の評価を得て、67歳まで天寿を全うしました。 小説の右門のように「不義士」と罵られることはなく、「別の正義(お家再興)」のために生きた人と言えます。
2. 公家(貴族)に仕えて長生きしたチャッカリ派
進藤 源四郎(しんどう げんしろう)
- 地位: 足軽頭(400石)。
- 関係: 大石内蔵助の**親戚(いとこ)**です。
- 彼の選択: 当初は強硬な討ち入り論者として活動していましたが、討ち入り直前に「やっぱり無理」といって脱盟しました。親戚である大石内蔵助を大いに呆れさせたと言われています。
- その後: 彼はその後、武士をやめて京都の公家(近衛家)に仕えました。和歌や書道の教養があったため、文化人として重宝されました。 世間からは「親戚なのに逃げた」と悪口を言われましたが、本人はあまり気にせず、70代後半まで長生きし、優雅な余生を送りました。 「武士の面目」よりも「個人の幸福」を選んで成功した例です。
3. 史上最大の「誤解」を解かれた経済官僚
大野 九郎兵衛(おおの くろべえ)
- 地位: 家老(650石)。
- 物語での扱い: 忠臣蔵では、藤井又左衛門と並ぶ**「悪徳家老」「裏切り者」「スパイ」**として描かれます。大石内蔵助と対立して、藩の金を分配して逃げたことにされています。
- 史実の姿: 近年の研究では、彼は**「極めて優秀な経済官僚(テクノクラート)」だったと再評価されています。 赤穂藩の塩田開発や藩札(独自通貨)の発行を成功させたのは彼の手腕でした。事件後、彼は「討ち入りなんて感情論でやっても無駄だ。残ったお金を家臣たちに公平に分配して、彼らの再就職を支援すべきだ」という超現実的な提案**をして、大石と対立したのです。
- その後: 彼は逃亡後、京都や越中(富山)で静かに暮らしました。決して悲惨な死に方ではなく、自分の信念(経済的合理性)に従って生き抜きました。ある意味、現代的な感覚を持っていた人物と言えます。
4. 討ち入りを「支援」して尊敬された医師
寺井 玄渓(てらい げんけい)
- 地位: 藩医(お医者さん)。300石。
- 彼の選択: 彼は武士ではない(医師)ため、討ち入りには参加しませんでしたが、大石内蔵助たちの健康管理や、密書の運搬などを手伝いました。
- その後: 事件後は京都で医者として開業し、大成功しました。討ち入りした浪士の遺児たちの面倒を見るなど、生涯にわたって「義士」たちを支え続けました。 彼は刀を持たずとも、「命を救う」という形で忠義を尽くしたため、脱盟者として批判されることはなく、尊敬を集めて70代まで生きました。
まとめ:3つの生き方
赤穂藩士たちの運命は、大きく3つに分かれました。
- 死を選んだ47人: 英雄になったが、命を失った。
- 無能・保身で逃げた人(藤井・田中): 命は助かったが、社会的に抹殺された。
- 能力や信念があって選ばなかった人(奥野・大野・寺井): 批判もされたが、自分のスキル(政治・経済・医療)で第二の人生を切り開いた。
小説の主人公・藤井右門が目指したかったのは、本来であれば「3」の生き方だったのかもしれません。しかし、父・又左衛門があまりにも「2」のイメージ強すぎたため、その呪縛に苦しめられることになった、というのがこの物語の切ない構造ですね。
史実の藤井右門について詳しく教えてください。
小説『不義士右門』のモデルとなった**史実の藤井右門(ふじい うもん)は、一言で言えば、「明治維新を100年早くやろうとした、江戸時代屈指の危険思想家・革命家」**です。
小説のような「赤穂浪士の裏切り者の息子」という湿っぽい身の上ではなく、もっと野心に溢れ、幕府転覆を本気で画策した(とされる)激しい人物でした。
彼の実像を、いくつかのポイントに分けて詳しく解説します。
1. 基本プロフィール
- 本名: 藤井 直明(ふじい なおあき)。右門は通称。
- 出身: 越中富山藩(現在の富山県)。
- ※小説で「父が越中に隠れ住んだ」というのは、実在の右門が富山出身であることに由来しています。
- 職業: 兵学者(軍事評論家)、尊王論者、神道家。
- 性格: 弁が立ち、人を惹きつけるカリスマ性があった。大言壮語(大きなことを言う)な一面もあり、自らを「諸葛孔明の再来」のように演出していたとも言われます。
2. 革命家への道:富山から京都、そして江戸へ
彼は若い頃に富山藩を出奔(家出)して浪人となり、京都へ上りました。ここで彼の人生が決まります。
- 京都での活動(朝廷への接近): 彼は公家の徳大寺家に仕え、皇室(天皇)中心の政治に戻すべきだという「尊王論」や神道を深く学びました。当時の京都では、小説にも登場した竹内式部が公家たちに説法をしており、右門もその思想的影響を強く受けました。
- 江戸での活動(革命の準備): その後、彼は江戸へ出て兵学(軍学)の塾を開きます。 しかし、彼が教えていたのは単なる戦術ではありませんでした。「本来、日本の支配者は天皇であり、徳川幕府はその代行をしているに過ぎない。幕府が堕落しているなら、倒しても良いのではないか?」という、当時としては極めて過激な革命思想を若者たちに説いたのです。
3. 運命の事件:「明和事件(めいわじけん)」
1767年(明和4年)、彼の活動は幕府に目をつけられ、日本の歴史に残る弾圧事件**「明和事件」**が起きます。
- 同志・山県大弐(やまがた だいに): 右門は、甲斐(山梨)出身の学者・山県大弐と意気投合しました。山県が著書『柳子新論(りゅうししんろん)』で幕府の腐敗を理論的に批判し、右門がその実行部隊(戦略担当)として動く、という役割分担でした。
- 恐るべき計画(幕府の言い分): 幕府の取り調べによると、彼らの計画は以下のような過激なものでした。 「江戸市中に火を放って大火事を起こし、その混乱に乗じて江戸城を乗っ取り、幕府を倒して天皇中心の世の中にする」 (※実際にここまで具体的な計画があったのか、幕府が彼らを処刑するために罪を重くでっち上げたのかは、今でも議論されています)
4. 壮絶な最期
幕府は彼らを「国家転覆を企てた大罪人」と認定しました。
- 処刑(獄門): 右門(当時48歳)と山県大弐は死刑判決を受けました。しかも、単なる切腹や打ち首ではなく、**「獄門(ごくもん)」**という最も重い刑でした。これは斬首された後、その首が晒し台に置かれて一般大衆に見せしめにされるものです。 幕府がいかに彼らの思想(尊王論)を恐れていたかが分かります。
- 辞世の句: 彼が処刑される直前に詠んだ句が伝わっています。
「かかる身と 成り果てぬれど 君が代を 思ふ心は 変わらざりけり」 (こんな罪人の身に落ちぶれて処刑されることになったけれど、天皇(君が代)を思う私の心は、いささかも変わっていない) 最後まで信念を曲げない、強烈な最期でした。
5. 死後の名誉回復
処刑から約100年後、明治維新が起こりました。 かつて「大罪人」として処刑された藤井右門や竹内式部、山県大弐は、**「幕末の志士たちに先駆けて天皇中心の国づくりを唱えたパイオニア(勤王の志士)」**として再評価されました。 明治政府によって名誉が回復され、位階(正四位)を追贈されています。
小説との比較まとめ
- 小説の右門: 赤穂浪士の裏切り者の息子。父の汚名を雪ぎたいと悩む、純粋で剣の強い17歳の少年。
- 史実の右門: 幕府をぶっ壊そうとした40代の革命家。弁舌巧みで野心家。最後は晒し首になった。
なぜ野村胡堂はこの人物を主人公にしたのか? 史実の右門が「幕府(徳川)に対する強烈な反逆者」だったからです。 「徳川の世の中で、徳川に逆らった男」という史実の骨格を利用し、「なぜ彼は徳川を憎んだのか? それは父親が赤穂事件(徳川の裁き)で辛い目にあったからではないか?」という大胆なフィクションを接ぎ木したのが、この『不義士右門』という作品の面白いところです。
小説と同じように、藤井右門と竹内式部は若い頃に出会っていたのですか?
結論から申し上げますと、小説にあるような**「若い頃(10代〜20代)に江戸の長屋で隣同士として出会っていた」というのは、作家・野村胡堂による創作(フィクション)**である可能性が極めて高いです。
史実の二人が出会ったのは、もっと後年、場所も江戸ではなく京都であった可能性が高いと考えられます。
史実と小説の違いを整理します。
1. 年齢差と時期のズレ
小説の設定である「享保20年(1735年)」時点での二人を検証します。
- 竹内式部(1712年生まれ): 当時 23歳。
- 史実の居場所: 彼は越後(新潟)出身で、この頃は京都に上り、徳大寺家などに仕えて神道や儒学を学んでいる時期です。まだ江戸には定住していません。
- 藤井右門(1720年生まれ): 当時 15歳。
- 史実の居場所: 彼は越中(富山)出身です。15歳といえば、まだ富山にいたか、あるいは家出して京都へ向かう頃です。
結論: この時期、二人が「江戸の長屋」で隣同士に住んでいることは、史実の経歴と矛盾します。
2. 実際に出会ったのはいつ、どこで?
二人が同志として結びついたのは、もっと大人になってから、京都での活動を通じてだと考えられます。
- 共通点「公家・徳大寺家」:
- 竹内式部は、京都で公家の徳大寺家に仕え、そこで尊王論を説いていました。
- 藤井右門もまた、上京して徳大寺家の家臣となっています。
- 出会いの場所: したがって、二人は30代〜40代の頃に、京都の徳大寺家(またはその周辺のサロン)で出会い、意気投合したと考えるのが自然です。
その後、竹内式部は「宝暦事件(1758年)」で京都を追放され、江戸へ下ります。藤井右門も江戸へ出て兵学を教えます。 二人が江戸で合流し、最終的に幕府転覆計画(明和事件)の中心人物となるのは、晩年の40代後半のことです。
3. なぜ小説では「若い頃の隣人」にしたのか?
これは野村胡堂の巧みな作劇術です。
- 師弟関係の構築: まだ思想が固まっていない17歳の右門に対し、少し年上の知識人である式部を配置することで、「復讐」から「尊王(革命)」へと右門の思想が変わっていくきっかけを自然に作りました。
- 運命的な絆の演出: 史実では「同じ年に処刑された同志」である二人を、若い頃から出会わせておくことで、**「一生を共にする運命の二人」**というドラマチックな関係性を強調しました。
まとめ
- 小説: 17歳の右門と24歳の式部が、江戸で隣人として出会う。
- 史実: おそらく30代以降に、京都(徳大寺家周辺)で出会った。
史実の二人は「ご近所さんの兄貴分と弟分」というよりは、**「同じ革命思想を共有し、共に処刑台へ向かった政治的同志(ソウルメイト)」**という関係です。小説は、その絆の深さを表現するために、時間を巻き戻して若い頃に出会わせたのだと言えます。
史実で山県大弐が合流したのはいつ?
史実において、山県大弐(やまがた だいに)が藤井右門や竹内式部と合流したのは、1760年代の前半(明和年間のはじめ)、場所は江戸です。
小説の舞台である享保20年(1735年)には、山県大弐はまだ10歳の子供であり、甲斐国(山梨県)の実家にいました。
3人が結びつくまでの史実の流れを整理します。
1. 合流のタイミング:1760年代前半(死の数年前)
彼らが「尊王・反幕府」の同志として密接に関わるようになったのは、処刑される「明和事件(1767年)」のわずか数年前、最晩年のことです。
- 1758年(宝暦事件): 京都で尊王論を説いていた竹内式部が、幕府に危険視されて京都を追放されます(藤井右門もこの頃まで京都にいました)。
- 1759年〜1760年頃: 京都を追われた竹内式部と藤井右門が、それぞれ江戸へ下ってきます。
- 1760年代前半(合流): 江戸の八丁堀で私塾を開いていた山県大弐のもとに、この二人が出入りするようになり、「危険な三巨頭」が揃いました。
2. なぜ合流したのか?(江戸での出会い)
山県大弐はもともと、江戸で「与力(警察幹部のような役職)」をしていましたが、腐敗した幕府政治に嫌気が差して辞職し、医者・学者として私塾を開いていました。
そこへ、京都を追放されて「幕府への恨み骨髄」である竹内式部や、野心家の藤井右門がやってきます。
- 山県大弐: 理論家(著書『柳子新論』で幕府を批判)
- 藤井右門: 戦略家(兵学を教え、実践的な革命を志向)
- 竹内式部: 思想家(神道と尊王論を説く)
彼らは山県大弐の塾で、**「今の幕府はダメだ、倒すべきだ」**という過激な議論を交わし、多くの若き門下生(浪人や血気盛んな若者)が集まる革命の拠点となりました。
3. 小説との年齢差(1735年時点)
今回読んでいただいた小説『不義士右門』の舞台である**1735年(享保20年)**時点での彼らの年齢を確認すると、合流が不可能であることがわかります。
- 竹内式部: 23歳(京都で修業中)
- 藤井右門: 15歳(富山か京都にいる)
- 山県大弐: 10歳(山梨の実家で勉強中)
まとめ
史実の山県大弐は、小説のように「若い頃からの友人」ではなく、**「人生の最後に江戸で出会い、共に革命を夢見て、共に散った同志」**でした。
小説では、この「明和事件の三傑(さんけつ)」と呼ばれる3人の運命的な絆を強調するために、あえて時代を30年ほど巻き戻し、若い頃に出会わせるというロマンチックな演出がなされているのです。
山本周五郎作品における山県大弐(短編・中編)
1. 『夜明けの辻』(よあけのつじ)
- 形式: 中編小説(『新国民』1940年~1941年連載)
- あらすじ: 上州・小幡(おばた)藩が舞台です。この藩に、尊王論者である山県大弐が賓客として招かれるところから物語が動きます。 主人公の藩士・**功刀伊兵衛(くぬぎ いへえ)**は、当初は大弐を「危険な扇動者」として警戒し、反発します。しかし、大弐の教えや人柄に直接触れる中で、徐々にその思想に感化され、藩の思惑と自身の信念との間で揺れ動くことになります。
- 山県大弐の役割: 【物語の核となるゲスト】 主人公の人生を変える「先生」として登場します。彼の来訪が藩内の佐幕派と尊王派の争いを激化させます。
2. 『明和絵暦』(めいわえごよみ)
- 形式: 長編小説(ですが、連作的な要素もあり、初期の代表作の一つ)
- あらすじ: 明和事件を背景にした活劇要素の強い作品です。山県大弐の尊王思想に共鳴する小幡藩の若者たちが、幕府の弾圧や藩内の陰謀に立ち向かう姿を描きます。
- 山県大弐の役割: 【精神的支柱】 物語の中心に彼の思想があり、彼を守ろうとする若者たちや、彼を陥れようとする勢力の攻防が描かれます。
小説の時間軸で、史実の寺坂吉右衛門は何処で何をしていたのでしょう。何歳ですか?
小説『不義士右門』の舞台である享保20年(1735年)2月、史実の寺坂吉右衛門がどこで何をしていたか。
結論から言いますと、彼は小説の中で語られた「諸国巡礼の旅に出ている」という話とは異なり、江戸で穏やかに暮らしており、小説の冒頭に出てきた「泉岳寺の法要」にも(史実として)参加していた可能性が極めて高いです。
詳しく解説します。
1. 年齢
- 71歳(数え年)
- 生年:寛文5年(1665年)
- 享保20年(1735年)時点:満年齢で69〜70歳、数え年で71歳です。
- 小説の中で「最早七十一歳の老年」と語られていますが、これは史実とぴったり一致します。
2. 居場所
- 江戸(現在の東京都港区麻布あたり)
- この時期、彼は諸国を放浪していたわけではなく、江戸に定住していました。
- 泉岳寺(高輪)からそう遠くない、麻布狸穴(あざぶまみあな) 付近にあった武家屋敷に住んでいたとされています。
3. 職業・身分
- 山川家の食客(家臣扱い)
- 彼は討ち入りの後、いくつかの家を転々としましたが、晩年(享保14年/1729年以降)は、山川知雅(やまかわ ともまさ) という武士に引き取られて世話になっていました。
- 山川家は、下総古河藩・土井家の家臣でしたが、江戸に屋敷を持っていました。寺坂はここで「曹洞宗の僧侶」のような姿をして、離れで隠居生活を送っていたようです。
4. 何をしていたか(1735年の寺坂吉右衛門)
まさにこの年、彼は**「生きる伝説」**として大忙しでした。
- 三十三回忌への参列: 小説の冒頭で「泉岳寺で三十三回忌が行われた」とありますが、史実でもこの法要は盛大に行われました。 当時、討ち入りメンバーで生き残っていたのは寺坂吉右衛門ただ一人です。 彼は山川家の人々に付き添われて泉岳寺の法要に参列し、集まった人々から「あれぞ生き残りの寺坂様だ」「生き仏様だ」と、大変な尊敬と注目を集めていたという記録があります。
- 回顧録の執筆・整理: 彼は非常に筆まめな人で、討ち入りの詳細を記録した『寺坂信行筆記』などを残しています。晩年は、訪ねてくる人々に当時の話を語ったり、菩提を弔う日々を送っていました。
小説との対比
- 小説(嘘): 「寺坂は諸国巡礼の旅に出ていて行方不明(だから呼び戻すのが大変)」と、吉良方の使者(逃げ足の五郎吉)が右門に嘘をつきました。
- 史実(真実): すぐ近くの麻布に住んでおり、なんなら昨日の法要に来ていました。
原十次郎ら遺族たちにとって、寺坂は「行方知れず」どころか、**「いつも連絡が取れる、親戚のお爺ちゃん」**のような存在でした。 したがって、小説の中で五郎吉が言った「寺坂を探してこい」という要求は、当時の事情を知っている人間からすれば「すぐそこにいるじゃん!」とツッコミを入れたくなるような、完全な時間稼ぎのハッタリだったことが分かります。
寺坂吉右衛門は討ち入りに参加しなかったなどの、マイナスの評価は当時はなかったんですか?
小説のドラマチックな展開と、冷徹な史実との間には、やはり少し温度差があります。
ご質問の2点について、「享保20年(1735年/33回忌)」という時点に絞って解説します。
1. 寺坂吉右衛門へのマイナス評価はあったのか?
結論から言うと、**「当初は『逃亡者』扱いされたこともあったが、33年後の時点では『生き証人』として英雄視されていた」**というのが実情です。
【事件直後(33年前)の評価】
討ち入り直後、彼が姿を消したことについては、実は赤穂浪士たちの間でも、世間でも評価が割れていました。
- マイナス評価(逃亡説): 預かり担当だった大名家の記録などには「軽輩(身分が低い者)なので逃げたのだろう」「恐怖に駆られたか」といった、冷ややかな記述も残っています。実際、切腹した46人の中には彼が含まれていないため、「死ぬのが怖くて逃げた」と陰口を叩く人もいました。
- プラス評価(密使説): 一方で、「大石内蔵助から『生き残って真実を後世に伝えよ』と命じられたのだ」という噂もすぐに広まりました。
【33年後(小説の舞台)の評価】
享保20年の時点では、すでに世の中は空前の「忠臣蔵ブーム(義士ブーム)」でした。 大衆心理として、「英雄たちの中に、臆病者がいてほしくない」という願望が働きます。そのため、「彼は逃げたのではなく、重要な任務(広島の浅野本家への報告など)を帯びていたのだ」という「密使説」が定説化していました。
さらに、当時の日本人は「長生きすること」や「歴史の証人」を非常に尊びました。 かつての逃亡疑惑よりも、**「あの伝説の夜を知る唯一の生き残り」「生きている義士」**としての神聖さが勝り、泉岳寺の法要では拝まれるほどの存在になっていました。
2. 浅野大学は33年後も仕官運動をしていたのか?
これについては、史実は小説の設定と大きく異なります。 33年後の時点では、浅野大学の「お家再興」はすでに完了しており、運動をする必要はありませんでした。
【浅野大学のその後】
- 事件直後: 兄・内匠頭の切腹により、浅野大学も閉門(謹慎)となり、赤穂浅野家は断絶しました。大石内蔵助たちが当初目指したのは、この大学を当主として「赤穂藩を復活させること(お家再興)」でした。しかし、討ち入り決行前に大学の「永預かり(無期限の軟禁)」が決まり、この希望は絶たれました。
- 討ち入りから8年後(1710年): 将軍が代わり(綱吉→家宣)、恩赦が行われました。ここで浅野大学は許され、**500石の旗本(はたもと)**として幕臣に取り立てられました。
- 大名(5万石)への復帰は無理でしたが、「浅野家の名前を残す(お家再興)」という最低限の目標はこの時点で達成されています。
- 33年後(1735年): 浅野大学はすでに隠居し、息子の**浅野長純(ながずみ)**が家督を継いでいました。大学自身はこの時60代半ばで、悠々自適の隠居生活を送っていました。
【小説とのギャップ】
小説の中では、遺族たちが「浅野大学様のお立身のために!」と熱くなっていますが、史実の彼らはすでに**「旗本・浅野家」**として安定した地位を得ていました。 したがって、もしこの時期に運動をしているとすれば、「500石の旗本では不満だ! もっと石高を増やして大名に戻してくれ!」という、かなり無理筋な高望みの運動ということになってしまいます。
結論: 史実の浅野大学は、この時点ではすでに名誉回復を果たしており、義士の遺族たちが必死に運動をするような悲壮な状況ではありませんでした。
浅野大学系の血筋は、幕末までつづいた?
はい、浅野大学(長広)の家系は、幕末・明治維新までしっかりと続きました。
小説『不義士右門』の中で、遺族たちが悲壮な決意で「お家再興」を叫んでいましたが、史実では**「500石の旗本(はたもと)」**として復活し、そのまま江戸時代を平穏に生き抜いています。
その後の浅野大学家の足取りを詳しく解説します。
1. 「旗本・浅野家」としての復活
討ち入りから8年後の1710年、浅野大学は許されて、将軍の直臣である「旗本」に取り立てられました。
- 石高: 500石(かつての5万石には遠く及びませんが、生活するには十分な身分です)
- 屋敷: 江戸の本所(現在の墨田区あたり)などに屋敷を構えました。
2. 代々の当主と幕末まで
浅野大学(長広)の死後も、家系は断絶することなく続きました。
- 2代・長純(ながずみ): 大学の息子。彼が跡を継いだ時点で、物語の中の「お家再興運動」は完全に成功して定着したと言えます。
- その後の代々: おおよそ長男が跡を継ぎ、平穏な旗本として幕府に仕え続けました。
3. 幕末・明治維新のとき
幕末の動乱期、この旗本浅野家の当主は**浅野長楽(ながよし)や浅野長職(ながもと)**といった人物でした。
- 明治維新後: 江戸幕府が倒れると、彼らは「朝臣(新政府側)」の立場になります(もともと本家の広島浅野藩が官軍側だったことも影響しています)。 身分は**「士族(しぞく)」**となり、明治の世の中も家系は存続しました。
【まとめ】実は「ハッピーエンド」だった
小説やドラマでは、悲劇性を強調するために「お家断絶の無念」が描かれますが、史実の浅野内匠頭の弟(大学)の家系は、以下のように非常に安定した結末を迎えています。
- お家再興: 成功した(大名ではないが、名誉ある旗本として)。
- 血筋: 絶えることなく明治まで続いた。
- 生活: 本家の広島浅野藩(42万石の大大名)からのバックアップもあり、経済的にもそれほど困窮はしなかったと言われています。
つまり、右門や遺族たちが命がけで心配する必要がないほど、史実の浅野大学家はしぶとく、かつ堅実に生き残っていたのです。
大学が赦されたのは、世論にもよるんですか? 幕閣も心情的には、討ち入りに好意的だったんですか?
はい、その通りです。
浅野大学(長広)が赦された背景には、「幕府の方針転換(政権交代)」と「凄まじい世論の支持」、そして**「幕閣たちの同情」**が大きく関係しています。
実は、幕府のトップたちも人間ですから、内心では**「赤穂浪士、あっぱれ(よくやった)」**と思っていた人が多かったのです。
当時の裏事情を、「世論」と「幕閣の心情」の2点から解説します。
1. 浅野大学が赦された理由:「世論」と「政変」
浅野大学が赦され、旗本として復活できたのは、討ち入りの8年後(1710年)です。なぜこのタイミングだったのでしょうか。
① 将軍が代わった(一番大きい理由)
討ち入り当時の将軍は、5代・徳川綱吉(「生類憐れみの令」の人)でした。彼は**「法と秩序」**を絶対視するタイプで、刃傷沙汰を起こした浅野家に対して非常に厳しい処分を下しました。 しかし、彼が亡くなり、6代・**徳川家宣(いえのぶ)の時代になると、政治の方針がガラリと変わります。 家宣の側近である新井白石(あらい はくせき)**らが、「厳しすぎる法律よりも、徳(思いやり)で治めよう」という政治(正徳の治)を始めたため、その象徴として「浅野大学を赦そう」という判断が下されました。
② 爆発的な「赤穂贔屓(びいき)」の世論
討ち入り直後から、江戸の庶民は赤穂浪士に熱狂しました。 「主君のために命を捨てるとは、これぞ武士の鑑(かがみ)だ!」と称賛し、すぐに彼らをモデルにしたお芝居(『仮名手本忠臣蔵』の原型のようなもの)が上演されるほどでした。 幕府としても、この**「国民的英雄たちが仕えていたお家(浅野家)」をいつまでも罪人扱いしておくのは、政治的に人気が悪い**という判断が働きました。
2. 幕閣も「討ち入り」に好意的だったのか?
**「法的にはアウトだが、心情的には大好き」**というのが、当時の幕閣(政府高官)たちの本音でした。
① 処分を決める大激論
討ち入り直後、浪士たちをどう処分するかで、幕府内では大激論が起きました。
- 厳罰派(法治主義): 「理由はなんであれ、徒党を組んで押し込みをしたのは犯罪だ。**打ち首(斬首)**にして、犯罪者として扱うべきだ」
- 擁護派(武士道主義): 「亡き主君のために仇を討つのは、武士として最も尊い行為だ。罪人扱いするのは間違っている。**助命(無罪)**にすべきだ」
② 「切腹」というウルトラC(折衷案)
結局、学者の**荻生徂徠(おぎゅう そらい)**が出した以下の案が採用されました。
「彼らの『忠義』は認めよう。だから、犯罪者としての『打ち首』ではなく、**武士としての名誉ある死に方である『切腹』**をさせよう。ただし、公儀(幕府)の法を犯した罪は消えないから、命はもらう」
これは、**「幕府が彼らを『義士(立派な武士)』として公式に認めた」**ことを意味します。もし幕閣が彼らを嫌っていたら、ただの犯罪者として処刑されていたはずです。
③ 大名たちのおもてなし
浪士たちが切腹までの間、4つの大名屋敷にお預けになりましたが、そこでの待遇は**「罪人」ではなく「賓客(VIP)」扱いでした。 特に細川家(細川越中守)などは、浪士たちに豪華な食事を出したり、風呂に入れたりと、至れり尽くせりの対応をしました。これは「同じ武士として、彼らを尊敬していた」**という何よりの証拠です。
結論:実は「吉良家」の方が嫌われていた?
幕閣の心情を表す最後のエピソードがあります。
討ち入りから数年後、被害者であるはずの吉良家(当時は孫の義周が当主)は、**「討ち入りの際、戦わずに逃げ回るなど武士にあるまじき振る舞いだった」**という理由で、領地を取り上げられ、信州へ流罪(配流)にされました。
- 赤穂浪士: 名誉ある切腹(実質的な勝利)
- 吉良家: お家断絶・流罪(実質的な敗北)
最終的に幕府は、「喧嘩両成敗」の形を取りつつも、心情的には赤穂側に軍配を上げたと言えます。 こうした「お上(幕府)のお墨付き」があったからこそ、浅野大学の家系はその後も旗本として堂々と存続できたのです。
吉良家は高家だったのに、最終的にはきつい処分でしたね
本当におっしゃる通りです。「高家(こうけ)」という、幕府の中でも特別に格式の高い家柄だっただけに、その転落ぶりと処分の厳しさは、当時の人々にとっても衝撃的な事件でした。
被害者遺族であるはずの吉良家が、なぜそこまで徹底的に叩かれたのか。その背景には、**「武士のメンツ」と「幕府の政治的な事情」**が絡み合っていました。
吉良家の「天国から地獄」への転落のプロセスを解説します。
1. そもそも「高家」とはどれだけ凄いのか
吉良家はただの旗本ではありません。足利尊氏の血を引く名門中の名門です。
- 仕事: 天皇や公家への対応、幕府の儀式の取り仕切り。
- 特権: 「官位」を持っており、普通の強大な大名(10万石クラス)でさえ、吉良家には頭が上がらないほどの権威がありました。
つまり、本来であれば**「誰からも罰せられないアンタッチャブルな存在」**だったのです。
2. なぜ被害者なのに処分されたのか?
討ち入りで吉良上野介(義央)が殺された時、当主になっていたのは孫(養子)の吉良左兵衛義周(さひょうえ よしちか)、当時18歳の若者でした。
彼は被害者遺族です。しかし、幕府は彼に対して**「改易(領地没収・お家断絶)」と「信州諏訪への流罪」**という極刑を言い渡しました。
幕府が挙げた理由は、**「武士として情けない(仕方不埒)」**という一点張りでした。
- 戦わなかった: 「祖父が討たれているのに、おめおめと生き残った」
- 防衛が弱かった: 「多勢の家来がいながら、少数の浪士に侵入を許し、主君を守れなかったのは未熟」
- 卑怯な振る舞い: (実際には戦って負傷していたようですが)「戦わずに逃げ隠れした」ということにされました。
3. 裏にあった「幕府の苦しい事情」
実は、この厳しい処分は**「後付けの政治決着」**の色が濃いと言われています。
- 世論の爆発: 赤穂浪士の人気が凄まじく、「あっぱれ!」という声が日本中を覆いました。もし吉良家をお咎めなしにすると、幕府への批判が高まる恐れがありました。
- 「喧嘩両成敗」の辻褄合わせ: 事件の発端(松の廊下)では、浅野内匠頭だけが切腹し、吉良はお咎めなしでした(片手落ち)。 しかし、最終的に吉良家も断絶させることで、**「結果的に両方の家を潰しましたよ。これで喧嘩両成敗ですよね」**という形にして、事態を収束させようとしたのです。
4. 悲惨すぎる流罪生活
長野県の諏訪高島藩にお預けとなった吉良義周(よしちか)の生活は、赤穂浪士たちの優雅なお預け生活とは正反対でした。
- 扱い: 罪人として厳重に監禁されました。
- 最期: 流罪からわずか3年後、21歳の若さで病死しました。
- 死後も罪人扱いだったため、葬儀も簡素で、墓石を建てることさえ許されなかったと言われています(後に供養塔が建てられました)。
まとめ:高家だったからこそ…
吉良家にとって残酷だったのは、「高家(名門)」だったからこそ、「武士の模範となるような立派な振る舞い」を過剰に求められたという点です。
「名門の当主なら、刺し違えてでも死ぬべきだった」 という武士社会の美学が、まだ10代の若者(義周)を押し潰し、名門吉良家を歴史の表舞台から消し去ってしまったのです。
まさに、小説『不義士右門』で描かれる「理不尽な世の中」を象徴するような結末ですね。
吉良家のような名門・高家は多かったんですか?
結論から言いますと、吉良家のような「高家(こうけ)」は、非常に数が少なく、特殊なエリート集団でした。
江戸時代を通じて、高家の家柄として認められていたのはわずか26家しかありませんでした。 何万といる武士の中でたったの26家ですから、まさに「選ばれし超名門」です。
彼らがどんな一族で、なぜ特別だったのかを解説します。
1. どんな家が「高家」になれたのか?
高家のメンバーリストを見ると、歴史ファンなら驚くような**「かつての戦国大名・名族の末裔(まつえい)」**ばかりです。
徳川家康は、かつて敵として戦って滅ぼした名門一族の生き残りを、「高家」として保護し、幕府に取り込みました。いわば**「戦国オールスター(敗者復活組)」**です。
【有名な高家の例】
- 吉良家(きら): 足利将軍家の親戚。高家の筆頭格。
- 武田家(たけだ): あの武田信玄の子孫。
- 今川家(いまがわ): 桶狭間で敗れた今川義元の子孫。
- 織田家(おだ): 織田信長の子孫(※大名として残った家系とは別)。
- 大友家(おおとも): 九州のキリシタン大名・大友宗麟の子孫。
- 六角家、京極家、畠山家など……
彼らは領地(お金)は失いましたが、「家柄」と「伝統」だけは持っていました。
2. 高家の特殊な立ち位置
彼らは、**「給料は安いが、身分はとてつもなく高い」**というねじれた地位にありました。
- 給料(石高): ほとんどが数千石程度(旗本クラス)。1万石以上の「大名」には遠く及びません。吉良上野介でさえ4200石でした。
- 身分(官位): 10万石クラスの大名と同じ、あるいはそれ以上の扱いを受けました。
- 江戸城での控え室も、大名と同じ場所。
- 「従四位下・侍従」といった高い官位を朝廷からもらっていました。
3. なぜ幕府は彼らを優遇したのか?
徳川家(もともとは三河の地方武士)には、**「京都(朝廷)に対するコンプレックス」**がありました。 武力で天下は取れても、上品な儀式や、天皇との優雅なやり取り(有職故実)のやり方が分からなかったのです。
そこで、昔から京都と付き合いがあった名門(吉良や今川など)を雇い、**「儀式のアドバイザー」「天皇への外交官」として重用しました。 彼らは幕府にとって「生きた礼儀作法の教科書」**だったのです。
4. 吉良家はその中でも「別格」だった
高家26家の中でも、実際に幕府の儀式を取り仕切る役職(高家肝煎:こうけきもいり)に就けるのは、さらに選ばれた数人だけでした。
吉良上野介は、その高家肝煎のトップに君臨していました。 つまり、**「名門中の名門の、さらにリーダー」**だったわけです。
- 吉良のプライド: 「俺たちは足利将軍家の血筋だ。徳川なんて成り上がり者だ」という意識がどこかにあったと言われます。
- 浅野の屈辱: 田舎大名である浅野内匠頭に対し、吉良が「マナーも知らない田舎侍め」と見下した(とされる)背景には、この圧倒的な家柄の差がありました。
まとめ
高家とは、**「権力(武力・金)はないが、権威(家柄・マナー)だけは最強」**という、江戸時代特有の不思議な貴族たちでした。
その頂点にいた吉良家が、赤穂事件によって取り潰されたというのは、単なる一族の滅亡以上に、**「中世から続く名門の権威が、赤穂浪士という『武士の意地』によって引きずり下ろされた」**という象徴的な出来事でもあったのです。
吉良家の後は、高家の格も下がったんですか?
はい、間違いなく下がりました(失墜しました)。
制度としての「高家」は幕末まで残りましたが、吉良上野介が生きていた頃のような**「大名を震え上がらせるほどの絶大な権威」**は、この事件を境に二度と戻りませんでした。
吉良家の滅亡が、高家というエリート集団に与えた3つの大打撃を解説します。
1. 「権威」が「暴力」に負けた衝撃
これが最も大きな理由です。 それまで高家は、**「我々に逆らうと、儀式で恥をかかせて、お前の家を潰すぞ」**という無言の圧力(権威)で大名を支配していました。
しかし、赤穂事件によって**「あまりに理不尽なことをすると、殺される(物理的な報復を受ける)」**という前例ができてしまいました。
- 事件前: 大名たちは「高家様には絶対服従」だった。
- 事件後: 高家たちは「あまり威張りすぎて、第二の浅野内匠頭が出たら、今度は自分が殺されるかもしれない」と怯えるようになった。
この心理的な変化により、高家側が大名に対して過剰に偉そうな態度を取れなくなりました。
2. 「賄賂(付け届け)」ビジネスの崩壊
吉良上野介の時代、高家は**「儀式の指導料(という名目の賄賂)」**で莫大な富を得ていました。浅野家がトラブったのも、この金額が少なかったからだと言われています。
しかし事件後、世間も幕府も**「高家の金銭への汚さ」**を厳しく見るようになりました。
- 幕府の引き締め: 「儀式の指導は役目なのだから、過剰な謝礼を要求してはいけない」という空気が強まりました。
- 実入りが減る: それ以降の高家は、露骨な金銭要求ができなくなり、経済的にも以前のような「殿様商売」はできなくなりました。
3. カリスマの不在
吉良上野介は、性格はともかくとして、「有職故実(マナーの知識)」に関しては天才的な博識家であり、誰も彼に口答えできない実力者でした。
しかし、吉良家が滅んだ後、彼に匹敵するような強力なリーダーは現れませんでした。 その後の高家(大沢家や畠山家など)は、単なる**「儀式を淡々とこなす専門職(サラリーマン化)」**していき、政治的な裏力を持つフィクサーのような存在はいなくなりました。
その後の高家のエピソード:明治維新での皮肉
高家の権威が完全に地に落ちたことを示す、幕末の有名なエピソードがあります。
明治維新の際、新政府軍(官軍)が江戸へ攻めてきました。 この時、高家の一つである大沢家(吉良の次に偉かった家)の当主は、自分の先祖がかつて天皇の敵(足利家や今川家など)であったことを問われるのを恐れ、なんと**「自分は本当は公家の血筋で、昔の系図は間違いでした!」**と、先祖代々の家系図を偽造して新政府に提出したのです(「高家大沢家の偽系図事件」)。
かつては「俺たちは源氏の名門だ、徳川より偉いんだ」と誇っていた高家が、最後は生き残るために自らの家柄(アイデンティティ)さえも捨ててしまったのです。
まとめ
吉良家の滅亡は、**「家柄だけで威張れる時代の終わり」を告げる事件でもありました。 それ以降の高家は、「格式高い名門」という看板は保ちつつも、以前のような恐ろしさは消え、「幕府の儀式係」**として静かに江戸時代を過ごすことになりました。
上野介系の吉良家の血筋は絶えてしまったんですか?
結論から申し上げますと、「吉良上野介の直系の家(お家)」は一度完全に絶滅しましたが、「吉良の血筋(DNA)」と「吉良の家名(ブランド)」は、しぶとく生き残りました。
少し複雑な経緯をたどっていますので、「お家(メインの家)」、「血筋」、**「名前の復活」**の3つに分けて解説します。
1. メインの家(上野介→義周)は「絶滅」した
討ち入りの後、信州諏訪へ流罪となった孫の吉良義周(よしちか)は、21歳の若さで、独身のまま病死しました。 彼には子供がいなかったため、この時点で「赤穂浪士に討ち入られた、あの吉良家」は完全に断絶しました。
2. 血筋(DNA)は「大名家」に残った
ここが歴史の皮肉なところですが、吉良上野介の血は、日本有数の名門大名家の中にしっかりと受け継がれました。
- 長男:上杉綱憲(うえすぎ つなのり) 吉良上野介の実の長男です。彼は母の実家である**米沢藩上杉家(15万石)**に養子に行き、当主となっていました。 (※討ち入りの夜、実父を助けるために兵を出そうとして家臣に止められた、あのお殿様です) 彼の子孫はその後も続き、上杉家の中には吉良上野介の血が流れ続けました。
- 娘たち: 上野介の娘たちは、**津軽家(弘前藩)**などの大名家に嫁いでおり、そこでも血筋を残しています。
つまり、「吉良家という箱」は壊されましたが、「吉良の遺伝子」は勝ち組(大名)として生き残ったのです。
3. 吉良の「名前」は復活した(蒔田吉良家)
そしてここからが、浅野家(浅野大学)と同様の「敗者復活戦」です。
吉良義周が死んで吉良家が滅亡してから26年後(1732年)、小説の舞台とほぼ同時期に、吉良家の再興が許されました。
- 誰が継いだのか? 吉良上野介の弟の孫にあたる、蒔田(まいた)義俊という人物です。彼はもともと「蒔田」という名字を名乗って旗本をしていましたが、彼に**「吉良」への名字変更と、「高家」への復帰**が許されました。
- なぜ許されたのか? やはり幕府内にも「名門吉良家を完全に消滅させるのは惜しい(儀式のノウハウが必要だ)」という声があったためです。
- その後の吉良家: 復活した新生・吉良家は、かつてのような4200石という高禄ではなく、もっと低い石高でしたが、**「高家肝煎(こうけきもいり)」**という儀式を取り仕切る役職に復帰することもできました。 こうして、吉良の家名は幕末・明治維新までしっかりと続きました。
まとめ:実はみんな生き残っていた
今回の会話を通して見てきた「悲劇の人々」の結末を総括すると、以下のようになります。
- 浅野家(被害者弟): 旗本として復活し、明治まで続いた。
- 吉良家(加害者孫): 一度潰れたが、分家が名前を継いで復活し、明治まで続いた。
- 赤穂浪士(実行犯): 切腹したが、英雄として神になった。
- 藤井・田中(裏切り者): 命は助かったが、子孫に至るまで社会的信用を失った。
こうして見ると、「生き残って復活した両家」と「死んで名を残した浪士」に対し、「中途半端に逃げた裏切り者」だけが一番割を食ったという、歴史の残酷なバランスが見えてきます。 小説『不義士右門』は、その「一番割を食った場所」から世界を見上げた物語だったわけです。