NO IMAGE

七之助捕物帳 納言恭平 【第一九話 物言わぬ舟】 ナレーター七味春五郎 発行元丸竹書房

 

 

七之助捕物帳

納言恭平著

第十九話【物言わぬ舟】

作品紹介

「七之助捕物帳」は、作家・納言恭平による江戸を舞台にした人気時代小説シリーズの一篇です。

一見すると昼行灯(ひるあんどん)で頼りないが、一度事件となれば抜群の推理力と観察眼で真相を見抜く御用聞・花川戸の七之助。彼が、江戸の町で起こる様々な難事件に挑む姿を、粋な会話と人情味あふれる登場人物たちと共に描きます。

本作「物言わぬ舟」は、大川に浮かぶ一艘の舟から始まるミステリー。舟に残された衣類と大小は、持ち主の投身自殺を思わせるが、七之助は些細な矛盾から事件の裏に隠された真実を探り当てます。人間の弱さと、予期せぬ結末が読者の心を打つ人情捕物帳です。

作者紹介:納言恭平(なごん きょうへい)

江戸の市井に生きる人々の機微や、粋な会話劇を交えた捕物帳を得意とする作家。その作品は、単なる謎解きに留まらず、事件の裏にある人間の哀しさや滑稽さを描き出すことで、多くの読者から支持を得ています。「七之助捕物帳」シリーズは、その代表作として知られ、型破りな御用聞の活躍を通して、江戸の光と影を鮮やかに描き出しています。

あらすじ

ある朝、七之助のもとに船頭の庄九郎が「舟を盗まれた」と駆け込んでくる。時を同じくして、八丁堀の役宅からは「品川沖に持ち主不明の舟が漂着した」との知らせが。舟には武士の衣類と大小が残されており、一見、投身自殺に見せかけた偽装工作かと疑われた。

舟の持ち主は、直参旗本の青山熊十郎と判明。父の身を案じる美しい娘・お蕗の依頼を受け、七之助は捜査を開始する。熊十郎の借金、謎の差料、そして娘の許嫁との関係…。聞き込みを進める七之助は、事件の裏に隠された、博打に狂った男の哀しい末路を突き止める。

解説

本作は、派手な立ち回りよりも地道な聞き込みと推理が中心となる、七之助の探偵としての側面が色濃く描かれた一作です。盗まれた舟と身投げに見せかけた偽装工作という二つの事象が、いかにして結びつくのか。バラバラに見えた点が線として繋がっていく過程は、見事というほかありません。また、借金に苦しむ武士の悲哀や、金貸しの非情さ、そして何も知らずに父を信じる娘の健気さが、江戸という時代の厳しさと人の心の機微を浮き彫りにしています。

主な登場人物

  • 花川戸の七之助 (はなかわどの しちのすけ)
    本作の主人公。鋭い観察眼で、舟に残された草履の矛盾点から事件の真相に迫る。
  • 音吉 (おときち)
    七之助の子分。足で情報を稼ぐ、威勢のいい若者。
  • 青山熊十郎 (あおやま くまじゅうろう)
    行方不明になった旗本。博打が原因で多額の借金を抱えている。
  • お蕗 (おふき)
    熊十郎の美しく気丈な娘。父の失踪に心を痛め、七之助に捜査を依頼する。
  • 釘屋萬次郎 (くぎや まんじろう)
    玄冶店の金物問屋。熊十郎に金を貸しているが、その素振りには謎が多い。
  • 庄九郎 (しょうくろう)
    料亭「浜善」の船頭。彼の盗まれた舟が、事件の発端となる。

発端

 今日も暑くなりそうな雲の色だ。しかし、大川を渡る朝風はさすがに涼しい。

 お馴染みの、花川戸の御用聞七之助の子分音吉は、石垣の端にしゃがんで、両掌に頭を乗せながら、寝不足の頭を朝風になぶらせていた。

「おうい、音の字!」

 水の上から心安そうな声が呼んだ。小型の屋根舟を漕ぎ上っている裸一貫の男。浜町河岸の料亭「浜善」で、客船をあずかっている庄九郎だった。庄九郎、つい二月程前までは今戸河岸の船宿の船頭をしていたので、山の宿の浮世床では、よく憎まれ口を利き合った仲だが、浜町河岸に住み替えてからは、滅多に顔を合せる機会もない。

「朝っぱらから客引きかい?」

「そんなことなら結構だが、じつあ、お前んところの親分の智恵を借りに来たのよ」

 庄九郎らしくもない悄気た声を出して、彼は、捩り鉢巻にしている豆絞りの手拭を取って、顔をこすった。

「なんだ、どうしたてえんだ?」

「舟を盗まれたんだ」

 庄九郎は、石垣の下に漕ぎ寄せて来た。

「なにい、舟を盗まれたんだって? べらぼうめ、巾着かなんかじゃあるめえし、女にでも見惚れてたんだろう」

「なによう言やがる。昨夜夜中に盗まれたんだもの、どうすることが出来るもんか」

「するてえと、今朝起きてから気がついたってわけだな」

「そうよ。畜生め、船着場の石段に、草履の泥跡をはっきりと残してやがるんだ。昨夜のあの土砂降りの雨の上ったのが四ツ半頃だったんだから、盗まれたのはその後に違えねえんだ」

「その前ならば、泥の足跡なんかきれいに洗い流される理窟だってわけか。ふん、お前、御用聞になれるぜ」

「そうからかいなさんな。俺あ、悄気てるんだぜ。舟をあずかっている手前、取り返せなかったら、褌で首でも、くくらなきゃあ、申訳が立たねえ」

「胆っ玉の小せえ奴だな。しかし、親分、そんなこそ泥の詮議なんかに、一肌脱いで下さるかな。危ねえもんだぜ」

「そこをよ。そこを、兄貴にうまく、取り做しを頼みてえんだ。これだ、音の字」

 庄九郎は、蝿みたいに、頭の上で手をこすった。

「ま、頼んで見てやろう。とにかく、舟をつないで上んねえ」

 庄九郎は、近くの船着場に屋根船をつなぐと、舟底に丸めておいた着物に手を通しながら石段を上って来た。

 音吉が、庄九郎を連れて七之助の家にかえって行くと、その時七之助は、なにやら忙しそうに外出の支度をしていた。

「おや、親分、どっかへお出掛けなんですかい?」

「うむ。八丁堀の旦那から、今しがた迎えの使いが見えたんだ」

 悪い時に急用が重なったものだと、音吉はうろたえて、大端折りに端折りながら、庄九郎の頼みを訴えた。

「じゃ、お前、行ってやれ」

「親分は……?」

「俺か。俺は後で行けたら行く。……だが、待て待て。丁度いいあんばいだから、俺も庄九郎の舟で八丁堀まで送ってもらおう。庄九郎の話も、舟の中でなおよく聴くことにしよう」

山谷船の謎

 竹島町の船着場まで庄九郎の船に送られた七之助。そのまま浜町河岸に引返す二人に別れて、傍目もふらず、八丁堀与力成瀬陣左衛門の役宅へ急いだ。

「もう来たか、御苦労、御苦労」

 陣左衛門は七之助をねぎらって、早速に御用の筋を切り出した。

 今朝早く―。

 大森村の漁師五平父子は、沖釣りに出掛けて、品川沖の波間に漂っている一艘の小舟をみつけた。

 五平父子は、不審に思って、こちらの舟を漕ぎ寄せて行った。それは猪牙船であった。猪牙船、ほんとうの呼名は山谷船という。形は小さいが速力が速い。粋を喜ぶ遊客がもっぱらこれを愛用するので、だんぜん大川の寵児であった。

 その山谷船(さんやぶね)が、品川沖の波間に漂っているというのは可怪しい。縄が断れて流れ出しでもしたのだろうか。しかし、それにしては——。

 舟底の薄べりの上に、脱ぎ捨てられた一揃いの衣類。臘鞘の大小。一足の草履。侍の投身自殺としか見えない状況なのだ。

 五平父子はびっくりして、芝浦海岸の最寄の自身番に訴え出た。

 自身番に詰めていた定番の文次郎は、四十男の分別者だったので、

「そうか。じゃ、な、御苦労だが、その舟は佃島の蘆の中にかくして、それとなく見張っていてくれ。ほかの者に気づかれないようにな」

 といいつけておいて、自分は早速、内々で成瀬陣左衛門の役宅に注進に及んだのである。

「そんなわけだ。品川沖に猪牙船を乗り出して海中に身を投じたと見ゆる男は、武家の端くれにはちがいないらしい。それが若し、心得違いの直参ででもあれば、表向きの詮議も気の毒だから、お前に来てもらった次第だが」

 と、陣左衛門は一通りの説明を終った。

 どんな事情があるにせよ、個人的な理由から自殺を遂げるとか、喧嘩をして斬られるとか。武士にとっては耻辱この上もないものとされている。そんなことが表向きになれば、家禄の没収は免れない。だから、そんな場合には、組頭とかその他の関係者が協力して事件を隠蔽し、病気死亡の届などを出して表向きを取り繕うのは、当時公然の秘密のようになっていた。

「分りやした。つまり、そのお武家さんの身許を調べ上げるんですね。早速、佃島に行ってみましょう」

「そうしてくれ。待て、わしも、一応様子だけでも見ておこう」

 間もなく、成瀬陣左衛門と七之助は、竹島町の河岸から小舟を出した。櫓は七之助が握った。七之助、花川戸に育って、小舟くらいは操れる。

 五平父子は、佃島の人目に立たない蘆の中に山谷船を隠して、正直に文次郎のいいつけを守っていた。

 その山谷船の底の薄べりの上に、衣類、大小、草履などが残っている。だが、七之助はいぶかしそうに小首をひねった。

 草履だ。

 彼は、さっき陣左衛門の話を聴いた時から、それと「浜善」の船着場から盗み去られた猪牙船とを結びつけて考えていた。ところが、浜善の船着場の石段には草履の泥跡が残っていたというのに、今この舟底に残っている草履には、水浸しになった跡形もない。

「五平」

 その時、陣左衛門が、漁師の名を呼んだ。

「へ、へい」

「お前たち、今日のことは、決して人にしゃべるんじゃないぞ。お上の詮議の妨げになるからな」

「へ、へい。そりゃあもう、口が縦に裂けても、滅多にしゃべるこっちゃございません。……しかし、なんでしょうか、旦那さま。そのお侍さんは、品川沖まで舟を出して身投げをなすったんでしょうか」

「そうだろう」

「旦那!」

 横合から七之助の声だった。

「あっしにしばらくの間、この舟ぐるみ、証拠の品を貸してやっておくんなさい」

 陣左衛門は七之助の顔を見た。その顔に自信の表情が溢れているのだ。

「ふむ。早いとこ、手掛りを発見けたらしいな。よかろう。万事お前に任せるから存分にはたらいてみてくれ」

疑問の差料

 高砂橋をくぐると、左手の河岸に浜善の大きな構えが聳えて見える。その、浜善の船着場に猪牙船を漕ぎ寄せた七之助。視線は真先に石段に走る。だが、「なあんだ」がっかりしたように呟いた。

 石段はきれいに洗い流されている。

「おうい!」

 と、七之助は呼んだ。

 その声に応じて、音吉と庄九郎が店の中から飛び出して来た。

「これだろう、庄の字。盗まれた舟は」

 自分で猪牙船をつなぎながら、七之助は笑った。

「わあっ! それだ、それだ、親分。いつもながら、なんて素迅い芸当でしょう。おどろいたなあ、全く」

 七之助は、薄べりに巻き込んだ舟底の遺留品を、脇の下に抱えながら石段を上った。

「泥棒野郎もふんづかまえておくんなすったんですかい?」

「そりゃあ、まだ分らん」

「じつは、親分、こんなことがあったんですがね」

 音吉が声をひそめた。

「なんだ?」

「さっきあっし共がここに来た時、そこの向う河岸を、魂の脱殻みたいにふらふらと歩いているいい娘があるんでさ。おや、青山さんのお嬢さんじゃありませんか、どうなすったんですと、庄の字が声を掛けやすてえと、いい娘はびっくりしたように顔を上げて、どこかで父の姿を見掛けませんでしたか。――という。いやその愁いを帯びた瞳の美しいこと……」

「余計なことを言うな。で、その、青山とかいう侍は、このあたりに住んでいるのか」

「へえ、青山熊十郎さまという二百石取の御直参でしてね。すぐそこの、向う河岸に住んでられまさ。お嬢さんはお蕗さんと申しやしてね、この界隈で評判の別嬪なんで」

「ふうむ。……よし、会ってみよう。庄の字、案内してくれ」

「いや、それなら、お蕗さんは浜善の帳場にいやす。間もなく親分が見えるかも知れねえから、わけを話して親分の智恵を借りたらよかろうと、店へ連れて来て引き止めておきやした」

「おお、そりゃあ、丁度よかった」

 七之助は、浜善の二階の、奥まった小室を借りてお蕗を待った。間もなく、女将に導かれて、敷居際に踞くまったお蕗。島田の髷も初々しい娘ざかりで、なるほど、音吉の礼賛の言葉も、大袈裟な誇張とばかりは言い切れない、よい娘ぶりだ。

「さ、ずっとこっちへおはいんなせえ。あっしが花川戸の七之助だ。みっちりお嬢さんの御相談に乗ろうじゃござんせんか」

 敷居際にすくんでいるお蕗の手を取らんばかりに、七之助は、彼女を設けの座に就かせた。そして、やっと訊き出した昨夜からの事情のいきさつは——。

 昨夜、お蕗や奉公人たちが寝に就いたのは、五ツをすこし過ぎた時刻だった。その時、父の熊十郎は、今夜はすこし調べものがあるからと、まだ机に向っていた。いつも寝付の早い性質なので、昨夜も、お蕗は、枕に頭をつけるとすぐに夢路を辿った。しかし、やがて降り出した土砂降りの俄雨のために、彼女は眼をさました。その時、熊十郎の部屋には灯が消えていたので、お蕗は、父もいつしか寝に就いたのであろうと思った。

 ところが、今朝、熊十郎の部屋は空であった。寝床に入った跡形もない。さすれば彼は、昨夜、俄雨の降り出す前に、どこかへ出掛けて行ったものと思われる。

「お父上には、これまでにも、夜分にこっそりお出掛けになることがあったんでしょうか?」

 と、七之助。

「は、はい。でも、どんなに遅くなりましても、必ず帰って参りました」

 七之助は重苦しく沈黙した。顔の表情が歪み、額に脂汗さえにじませているのは、内心の苦痛と闘っているのであろう。だが、躊躇をしても仕方がないことだ。七之助は、薄べりを引き寄せると、それを拡げた。

 瞬間!

「あっ!」

 と、叫んで、お蕗の上体が、ふらふらと畳に崩折れた。それからざっと半刻の後——。一時の衝撃から甦ったお蕗が、顔にも似げない気丈な声で、

「はい。みんなこれは、父の物でございます。——では父は、死んだのでございましょうか?」

「さあ、それは、なんとも言えねえ。これからの詮議に待たなければねえ。で、なにかこう、此頃、お父上の様子に変ったことはなかったか、お気付きのことでもありやしたら、ざっくばらんに聴かしておくんなさい」

「そう言えば――」と、お蕗の瞳が臘鞘の大小を凝視めながら、「その差料でございます。父が以前差して居りましたのは、大隅掾(おおすみじょう)正弘とか申しまして、これは青山家重代の身分不相応なものだと自慢にして居りました。それが、先頃からこの臘鞘の差料に代ったのでございます。或日、庸之助さまが、小父上御自慢の差料はどうなさいました、とお訊ねになりますと、父は一寸あわてた素振を見せまして、あ、あれか、あれは普段差には勿体ないからしまってあるのじゃ、と申したのでございますが、その時、私にはなんだか、父が苦しい言訳をしているように思われてなりませんでした」

「ふむ、なるほどね」と、七之助は考え深そうに、

「で、その、庸之助さんと仰言る方は……」

「は、はい……」

 あらっ、というように、顔中にもみじを散らして、お蕗は顔を伏せてしまった。

身を投げた女

 土用を過ぎたばかりのうだるような暑さ。——七之助と音吉、要領のいい手分けの下に、聞込の網をひろげた。

 そして、その夕方までに掻き集めた聞込の収穫を、七之助は矢立の筆を取上げて覚え書風に書き並べてみる。

一、青山熊十郎は二百石取りの直参。養女のお蕗と、下僕一人、下女一人の四人暮し。屋敷は浜町。三年程前までなにかの端役について勤勉につとめていたが、今は小普請(無役のこと)入りをして、謡曲をうなったり盆栽をいじったりしている。養女のお蕗をよく可愛がるし、人柄がおとなしいので近所の評判は悪くない。

一、しかし、裏へまわると、此頃、夜分しきりに家を空ける。だが、それに気がついているのはお蕗だけで、雇人たちはちっとも知らない様子。先頃から差料がかわった。現在の差料は見掛け倒しのなまくら刀で、家重代の大隅掾(おおすみじょう)正弘は鉄砲町の質屋に入っている。蔵宿(禄米を受け取る札差の店)は蔵前の桐屋だが、その蔵宿から、向う二ヶ年分の切米を抵当に高利の金を借りている。

一、鴇田(ときた)庸之助は、熊十郎の親友鴇田主馬(かずま)の二男坊で今年二十二。このお蕗と養子縁組をする段取りになっていたが、熊十郎から鴇田家に対して一年の延期を申し入れている。庸之助は容姿端麗、しばしばお蕗と睦まじそうに肩を並べて歩く姿を見掛けるので、浜町界隈の羨まれ者になっている。

「ざっとこんなところかな」

 七之助から書きつけを渡された音吉、頤をつまみながら、食い入るように墨の痕を辿ったが、

「ううむ。女でげしょうかね?」

「おれもそうだと睨んでいるが、どうもあの草履が怪しい。身投げと見せて、詮議の眼をそちらへ外らせておいて、手に手を取って恋の道行——なんてところかも知れないよ」

「そうでげしょうか。じゃあ、明日はひとつ、女出入りを嗅ぎまわって見やしょう」

 だが、翌日いっぱい、汗みずくになって走りまわった甲斐もなく、耳寄りな手掛りは何一つ得られなかった。

 夕方、七之助ががっかりして花川戸の家に立ち戻ると、やがて、音声も元気のない顔を持ってかえった。

「どうやら目算が外れたらしい」

「そうらしいですね」

 淋しく笑い合った親分子分。

 恋女房のお雪が心尽しの素麺も、今夜だけは喉の通りが悪かった。夕飯の後、縁側で蚊遣りを焚きながら、うちわの音ばかりが耳に立つ。すると、そこへ、庄九郎が訪ねて来た。

「なんだ、庄の字、なにかあったのか?」

 と、音吉が訊ねた。

「うむ。親分に一寸、御足労願いてえと思って——」

「なんだ」

「じつあ、青山のお蕗さんですがね。どうも様子が変なので、浜善の女将さんが心配なすって、ひとつ親分から御意見をしていただき度いと——いうので、あっしがお迎えに参りやした」という庄九郎の口上だった。

 間もなく、庄九郎の操る屋根船は、七之助と音吉を乗せて、大川の暗い川面を漕ぎ下った。やがて新大橋の下をくぐると、船は、河岸と中洲に挟まれた狭い水路に入る。と――この時、松平周防守の上屋敷の角から駆け出した一個の人影が、いきなり身を躍らして、庄九郎の舟の舳から五六間程下流の川中に、はげしい水しぶきを立てた。

「あっ、身投げ!」

 庄九郎と音吉、異口同音に叫んだ。

 が、船頭の庄九郎、すこしもあわてず、舳を身投げの場所に向け直す。櫓を捨てて腕を伸すと、川面に浮き沈みしている身投人の襟をつかんでぐっと引き寄せた。

「女だ!」

 と言ったが、次の瞬間。元結が切れて藻のようにまつわっている黒髪のかげの白い顔を、船提灯のひかりに確かめると、

「わあっ! 親分、親分、青山さんのお嬢さんですぜ。お、お蕗さんですぜ」

死の彷徨

 花川戸の河岸から、まだ正気に復らないお蕗の体を七之助の家へ運び込むと、それからの介抱はお雪の役だ。

 二人きりの別室で、お雪は甲斐甲斐しかった。お蕗の濡れた衣類を、洗濯物の自分の浴衣に着換えさせる。乾いた手拭を幾枚も取換えて黒髪の水気を吸わせると、それを櫛巻に束ねてやった。

 それでもまだ意識を呼び戻さないお蕗。重く瞼を閉じ、紫色の唇のまま眠りつづけている。

「庸之助さま、庸之助さま」

 ふと、その唇が綻びたと思うと、思う人の名を呟いたお蕗だった。

「ま、お可愛そうに」

 蚊を追うてやっていた団扇の手を思わず止めて、そっと指先で押えたお雪の瞼の間からも、一ころころと頬を伝ったのである。

*   *   *

 お蕗がやっと正気を取戻したのは、それからざっと一刻の後。

 七之助がお雪に呼ばれて、その室に入って行った。無理に起き上ろうとするお蕗、漸くになだめすかして、七之助は、次のような一部始終を聴き取った。

 ――どこから洩れたのか、青山熊十郎が浜善の舟を品川沖に漕ぎ出して投身自殺をしたという噂は、一日のうちに世間に拡がってしまったらしい。

 青山の屋敷では、今朝早く、下僕も下女も泡を食ったように暇を取って去ってしまった。お蕗は人情の薄さをしみじみと哀しんだが、しかし、鴇田庸之助だけは、どんなことがあっても、彼女を最後まで守ってくれるであろうとかたく信じた。

 ところが、待てども待てども、庸之助は姿を見せないのである。昨日は、下僕のしらせに飛んで来て、終日彼女のそばを離れなかった。絶えず彼女を慰さめ、また、気を引立ててくれた。どんな悲しむべき結果に立ち到ろうとも、私は決してあなたを見すてるようなことはしない、それだけは信じていてくれと繰り返した。

 夕方、鶴田の屋敷から使いが来た。庸之助は、使いの者と、二言三言なにやらささやき交していたが、

「なにか屋敷に急用が起ったんだそうです。すぐ帰って来いという口上ですから、今日はこれで帰ります。明日はまた、きっと早朝から伺いますから、気を丈夫に持って待っていて下さい」

 お蕗にそう言い残すと、使いの者と一緒に倉皇に帰って行った。

 その庸之助が来ないのだ。刻一刻と、絶望の気持は強くなって行く。しかし、じっと歯を食いしばって、それをこらえているお蕗だった。すると、七つの鐘を合図のように、浜善の女将が訪ねて来た。

「こんな時に、人気のない家の中にたった一人でいらっしゃると、とかくに悲しいことばかり思い出されるものです。お父さまが帰って見えるまで、私の店にいらっしゃいませ」

 親切者の浜善の女将は、口を酸っぱくしてすすめたが、お蕗はわれながら呆れるばかりのがんこな気持で、首を横に振りつづけた。

 凡そ半刻あまりも坐り込んでいたろうか。浜善の女将が匙を投げてかえって行くと、今度は男の声が玄関に訪うた。庸之助の声ではないが誰であろうと、渋々立って行くと、客は意外にも、玄冶店(げんやだな)の金物問屋釘屋萬次郎だった。

 なんの友達だか知らないが、熊十郎と釘萬とは可なり親密な間柄で、釘萬はこれまでにも二三度、熊十郎を訪ねて来ている。拠ろなく座敷に通すと、彼もすでに、熊十郎の投身自殺を知っていた。

「お父さまがとんだことでしたってね。私は噂に聴いてすっかりびっくりしてしまいましたよ。それに、なんてんじゃありませんか。一季半季の奉公人共が逃げ出すのは止むを得ないとしても、許嫁の庸之助さんまでが、今日はとうとう、寄りつきなさらねえてんじゃありませんか」

「なにか急用でもお出来になったんだと思いますわ」

 と、お蕗は必死の弁解のつもりだったが、そのじつ、弁解の根拠には、悲しいばかり自信がなかった。

 釘萬は隣れむようにお蕗の顔を見詰めながら、なにやら言い淀む様子であったが、やがて決然とした口調で、

「私はたしかなところから聞き込んでるんです。庸之助さんのお父上は、どうせお取り潰しにきまっている家に、息子を養子に遣わすわけには行かない。娘のお蕗は可哀そうだと思うけれど、お前も無い縁だと思ってあの娘のことは諦めてくれ。そう、庸之助さんに言い渡して足止めを食わしているそうです」

 打ちまけてしまうと、釘萬は、やれやれと重荷を下したような顔になった。

「お話はそれだけでございましょうか」

 しかし、お蕗は、破れかぶれの気持から、泣き出しそうな声で、唇を尖らせた。

「いや。そういうわけですから、お嬢さんがいくらお待ちになったって、庸之助さんがお見えになる筈はないんです。そんならどうでしょう。お一人でここにいらっしゃっても、ただ気が滅入るばかりで仕方がございませんから、一時私の家にいらっしゃいませんか。いや、お気に召したらいつまでいらっしゃっても構いません。他ならぬ青山さんのお嬢さんですもの、決して粗末には致しませんぜ。そのうちにはきっと、庸之-助さんを見返すような、立派なお婿さんをお探しして差し上げます」

 庸之助の不実は恨みに思うても、今更、他の男から妻と呼ばれる気にはならなかった。破れかぶれだ。大声を上げて泣きたい気持だ。お蕗は厠へ立つふりをして、台所口から外に逃れた。いつの間に暮れたのか、暗い夜であった。

 その暗い星空の下を、お蕗は、闇よりも黒い死の淵を望んでいるような気持ちで、ふらふらと行方も知らず彷徨い歩いた。

 ふと気がつくと、すぐ眼の前に、大川の水が黒々と流れていた。と、その流れの中から、優しい父の声が、彼女の名を呼んでいるような気がした。

生きている捕縄

「満更手ぶらで帰ることもなかろう。手掛りと言えば、今のところ釘萬を描いては他に無いんだから、とにかく小当りに当って見ようじゃねえか」

 翌日。七之助は音吉を連れて、玄冶店の金物問屋を訪れた。主人の萬次郎は一寸そこまで用足しに出て留守だというので、一番番頭の助造が応対した。のっけにふところの十手の先をちらりと拝ませてあるので助造の態度は慇懃をきわめた。

 萬次郎の居間はどこだと訊くと、助造は庭下駄を突っかけて、二人を裏庭へ案内した。意外に広い裏庭だった。庭の建物の裏手から長い渡り廊下がその庭をよぎって、茶室めいた離家をつないでいる。

「ここが主人の住居か。店の方は番頭任せだな」

「へい。おかみさんがお亡くなりになってから、すっかり風流にお凝りになりまして」

 別に白ばっくれている様子も見えない。七之助はきょろきょろとあたりに気を配りながら、植込の間の細径を庭の奥深く進んで行く。庭の行き止りの塀を背に白壁の倉庫が三棟並んでいる。

「豪勢なもんだな。どれにも商売物が詰っているのか?」

「へ、へい」

「あれには?」

 くるっと向き直るように七之助はそこから可なり隔たっている塀の曲り角を指した。そこにも一棟の倉庫が立っているが、塀は崩れ落ち、屋根にはペンペン草が生えて、見る影もない廃墟とかわっているのだ。

「あれですか。あれはもう使っていません」

 しかし、助造のその返事は聞いたのか聞かないのか、七之助は、もうその方角に向ってずんずん歩き出していた。

「おや?」

 扉の前に立つと、七之助の眼が急に輝き出したのである。

「番頭さん。この倉庫は、今は使っていないと言いなすったね」

「へ、へい」

「じゃあ、近頃、この倉庫の扉を開いた者はないわけだな」

「へへい。店の者共も、この倉庫の中にはゆうれいが出るなどと申しましてね。小僧や女中たちは、恐がって寄りつきも致しません」

「ふうん」

 七之助は、鼻から皮肉を洩らした。

「誰だ?」

 その時、七之助のうしろで音吉の声が咎めた。振り返ると、人品卑しからぬ五十年配の男が、なにやら怯えたような眼付をしながら、いつの間にか、そこに来て立っている。

「助造。この人たちは、何しによその庭へお入んなすったんだい?」

 男は、番頭に向って訊ねた。

 助造の返事よりも早く、七之助は、挨拶がわりにふところの十手を拝ませた。

「おう、お見外れ申しやした。親分さんでしたかい。で、御用は――」

「なあに、ちょっと、この倉の中を覗かして貰いてえんですがね。恐れ入りやすが、この錠前の鍵を貸しておくんなさい」

「鍵? 鍵なんぞ、どこにしまい込んであるか分かりゃしませんよ。もう十年このかた閉めっきりですからね」

 釘萬は顔をしかめた。

 なるほど、その、昔型の大きな錠前は、赤く錆びついている。しかし、七之助は、口元でせせら笑って、

「釘屋さん、あっしに向って誤魔化しは利かねえぜ。この錠前の鍵穴のところを御覧なせえ。赤錆びがすり剥けて地金が光ってまさ。つい此頃に、誰か倉の扉を開けた奴があるにきまっている」

「へぇ!」

 と、審しげに首を捻りながら、釘萬も倉の扉に歩み寄って、錠前に触った。

「なるほど、ようがす、店へ行って聴いて見ましょう。お待ちになっておくんなさい」

 釘萬は、すたすたと、植込の中の小径を引返しはじめた。その素振の怪しさに気がついた七之助は、すこしやり過してから、木の間隠れにその後をつけた。

 果して、釘萬は、小径の途中から、ついと離家の裏手へ駆け込んだ。曲りくねった大松の幹をするすると攀じ登ると、枝を伝って、塀の峯にぴょいと飛び移った。

 が、その瞬間!

「釘萬、御用!」

 大地を蹴って追いすがった七之助だ。

 さっと繰り出す手練の捕縄が、ぴゅっと空間を切って、あっ、と振り返った釘萬の片足に二巻三巻……。そいつをぐいと手繰られて、釘萬は空しく一枚の瓦を抱きながら、七之助の足元にもんどり打った。

賭博の果

 青山熊十郎の死体は、その倉の奥の古長持の中にあった。

 釘萬はその場から、最寄りの自身番に引き立てられた。体を検めると、紙入の中から一枚の借用証文が現われた。金高は三百両、借手は青山熊十郎。しかも、呆れたことにはこの金額期日までに返済成り難き場合は娘お蕗の身柄を差し遣わし申す可く、云々という文句が書き加えられてあるのだった。

「ふうむ、ばくちか」と、七之助が急に新発見をしたかのような声で唸った。

「へ、へい」

「そうだろう。ばくちに負けて血迷うたら、人間、どんなことを仕出来すか分らねえもんだ。そこへ行くと、色恋沙汰なら、まだよっぽど始末がいい。……で、察するところ。これがあの晩の諍いの元だな」

「へ、へい」

 と、釘萬は、額を畳にすりつけた。

 あの夜——。

 青山熊十郎が、庭木戸を押してそっと釘萬の離家を訪れたのは、俄雨の降り出す少し前のことであった。

 どこかで茶碗酒でもあおって来たのか、熊十郎は少し酔っていた。なんだか様子もへんであった。

 やがて、土砂降りの雨が降り出すと、彼は、しばらくその雨の音に耳を傾けていたが、

「外でもないが、証文を書き替えたい」

 と、いう。

「どうしようてんです?」

「いや、もう少し待って貰いてえ。これだがね」

 熊十郎は、すでに用意していた証文のかわりを、懐中から取り出して、釘萬の前にひろげた。見ると、期限が一年程延び、抵当の項目が抹殺されている。釘萬はぐっと癪に障って、その証文書を、その場でピリピリと八つ裂にしてしまった——。

「おいっ!」

 熊十郎の眼に炎が燃えた。片手で、腰の脇差を捩ったのである。

「な、なにをしやがる」

 叫ぶと同時、釘萬は、手許の鉄瓶をつかんで投げつけていた。

 中りどころが悪かったのであろう。熊十郎は、ううむ、とのけ反って、やがてそのまま動かなくなってしまった。釘萬は途方に暮れたが、そのまま放っておくわけには行かない。俄雨の止むのを待って、熊十郎の死体の始末を済ますと、彼が身につけていた物を纏めて、浜町河岸に忍んで行った。浜善の船着場から一艘の猪牙船を盗むと、その荷物を船底に置いて、大川に向って押し流した。無論、熊十郎の投身自殺と見せかける為だった。

「その上、娘までもお前の餌食にするつもりだったのか?」

 七之助が、そこで言葉を挿んだ。

「い、いや。親分、これだけは信じておくんなさい。そんなつもりなら、私は昨日、お蕗さんにこの証文を突きつけて、有無を言わさず引っ立ててやったんだ。しかし、過失からとはいえ、現在、たった一人の父親を手に掛けていると思いますと、私みたいな人間でも、済まない、お気の毒だ、の気持が先に立ちましてね。せめてその罪亡しに、お蕗さんの身柄を引取って、大切にいたわって、お嫁入りの世話までして上げたいと――仏心の一つも起きようじゃありませんか」

 という釘萬の言葉には、真心のひびきがこもっていた。

 青山の家は無論取潰された。しかし、お蕗は、成瀬陣左衛門の世話で、さる大身の旗本屋敷に奉公に上った。

七之助捕物帳・読者質問箱

Q. 今回の事件、発端は「舟泥棒」でしたが、ずいぶん大きな話になりましたね。

いかにも。たかが舟一艘、されど舟一艘。庄九郎の泣きつきがなければ、この事件は闇に葬られていたかもしれませんな。どんな些細な出来事も、大きな事件の糸口になる。これぞ捕物帳の醍醐味でございます。

Q. 七之助親分、最初から真相を見抜いていたような口ぶりでしたが、本当ですか?

親分のことですから、おそらくは。浜善の船着き場で「泥のついた草履の跡」の話を聞き、品川沖の舟で「泥のついていない草履」を見た瞬間、親分の頭の中ではもう事件の筋書きが見えていたのでしょう。偽装工作というものは、どこかに必ず綻びが出るもの。それを見逃さないのが、花川戸の七之助という男でございます。

Q. 悪役の釘屋萬次郎ですが、最後は少しだけ良い人に見えました。これはどういうことでしょう?

人間というものは、白黒はっきりつけられるほど単純なものではございません。萬次郎とて、金貸しとしては非情な男ですが、父親を殺めてしまった後悔と、残されたお蕗さんへの憐憫の情が、心のどこかに芽生えたのでしょう。「仏心の一つも起きようじゃありませんか」という言葉は、彼の本心だったのかもしれませんな。

Q. お蕗さんと庸之助さんの恋、なんだか切ない結末でした。

まことに。家が取り潰しとなれば、武家の縁談は破談になるのが世の習い。庸之助さんの不実を責めるのは酷というものでしょう。ですが、お蕗さんが最後に大身の旗本屋敷に奉公に上がれたのは、せめてもの救い。彼女の気丈さと美しさが、新たな道を開いたのだと思いたいものです。

NO IMAGE
最新情報をチェックしよう!