作品と作者について
作品解説
「雪之丞変化」(ゆきのじょうへんげ)は、三上於菟吉による時代小説の傑作です。1934年(昭和9年)から翌年にかけて『朝日新聞』に連載され、大衆文学の金字塔として今なお多くの読者を魅了し続けています。
物語の舞台は江戸時代の劇場。美貌の女形・中村雪之丞が、父を死に追いやり、家を破滅させた者たちへ、その芸と知略、そして剣の腕を武器に復讐を遂げていく姿を描きます。歌舞伎の世界を背景にした華やかさと、背後に渦巻く人間の愛憎、そしてスリリングな剣戟シーンが巧みに織り交ぜられ、読者を飽きさせません。
幾度となく映画化、舞台化されており、特に長谷川一夫が主演した映画三部作は不朽の名作として名高い作品です。本作は、単なる仇討ち物語にとどまらず、芸に生きる人間の業、愛と憎しみの相克、そして運命の皮肉を深く描いた、人間ドラマの傑作と言えるでしょう。
作者:三上於菟吉(みかみ おときち)
1891年(明治24年) – 1944年(昭和19年)。現在の埼玉県さいたま市出身の小説家。早稲田大学英文科中退後、新聞記者などを経て作家活動に入る。当初は純文学的な作品を発表していましたが、やがて大衆小説へと転向。「雪之丞変化」をはじめ、「白鬼」「妖日」など、怪奇趣味やエロティシズムを巧みに取り入れた独特の作風で人気を博しました。妻は同じく小説家の長谷川時雨。その波乱に満ちた生涯と共に、彼の作品は昭和初期の大衆文学を語る上で欠かすことのできない存在です。
主な登場人物
中村雪之丞(なかむら ゆきのじょう)
本作の主人公。江戸で人気を博す美貌の女形。その正体は、かつて長崎で非業の死を遂げた豪商・松浦屋清左衛門の遺児、雪太郎。父の仇を討つため、復讐の刃を胸に秘めている。
土部三斎(どべ さんさい)
元長崎奉行。雪之丞の父を陥れた仇敵の中心人物。現在は隠居の身だが、娘の浪路を将軍の側室にあげ、絶大な権勢を誇る。
浪路(なみじ)
三斎の末娘で、将軍の寵愛を受ける美女。観劇で見た雪之丞に激しい恋心を抱き、その運命を大きく狂わせていく。
お初(おはつ)
江戸で名を馳せる美貌の女賊。元軽業師。雪之丞に一目惚れするが、その恋は歪み、やがて激しい憎しみへと変わる。物語の鍵を握る危険な存在。
闇太郎(やみたろう)
江戸の義賊。権門や富豪から金を盗み、貧しい人々に分け与える。雪之丞の窮地を度々救い、彼の良き理解者となっていく謎多き男。
門倉平馬(かどくら へいま)
雪之丞の兄弟子であった剣客。雪之丞への嫉妬に狂い、彼を亡き者にしようと執拗につけ狙う。
広海屋(ひろみや)・長崎屋三郎兵衛(ながさきや さぶろべえ)
雪之丞の父を陥れた悪徳商人たち。欲深く、互いに牽制し合いながらも、さらなる富を求めて暗躍する。
連載朗読 目次
第八回 狂飈の恋 上
雪之丞は、ついに仇敵の一人である土部三斎とその一味が観劇に訪れることを知る。復讐の念を新たにする雪之丞。舞台で三斎と視線を交わし、その夜、宴席に招かれる。そこで彼は、三斎の娘・浪路から熱い視線を注がれることになる。復讐の機会を窺う雪之丞と、彼に惹かれていく浪路、そして彼を敵視する門倉平馬。それぞれの思惑が交錯し、物語は緊迫の度を増していく。
(前回の本文テキストをここに挿入します)
【最新】第九回 狂飈の恋 下
雪之丞への狂おしい恋に破れた女賊・お初。その想いは激しい憎しみへと変貌する。一方、権勢の頂点に立つ土部三斎は、娘・浪路を政略の駒としか見ず、己の欲望のままに過ごす。お初は三斎の屋敷に盗みに入るが、そこで雪之丞の姿を目撃し、嫉妬に燃える。雪之丞を陥れるため、彼女は同じく彼を憎む剣客・門倉平馬と手を組むのだった。
第九回 狂飈の恋 下
三斎隠居は、蚕豆ほどの大きさから、小さいので小豆粒位の透きとおり輝く紅玉の珠玉を、一つ一つ、灯にかざしては、うこんの布で拭きみがき、それを青天鵞絨張りの、台座に篏めながら、つぶやきつづけるのだ。
——お城の馬鹿とのさまは、わしの目には、利口でなくとも、あれで、なかなかお狡いお方なのだ。どんな女や男を、愛しんでやったらよいか、ちゃあんと、御承知なのだ。つまりはな、浪路ほどの女が、この世に二人と、なかなかないことを知って、あれを手放さない——その親兄に当るわしや、伜駿河守なればこそ、出来るだけ、愛してやろうとお思いになっている——が、若し、あれが、御機嫌に背くようなことになると、あの方は、手の裏を返したように、白い目をお剥きになるに相違ない。そんなことがあったら一大事——あれが、お側にいるというので、大名、旗本、公卿、町人——総がかりで隠居隠居と、わしを持てはやし、さまざまな音物が、一日として新しく、わしの庫を充たさぬということもないのだ。むすめや、むすめや、わしの方でもどんな我ままでも許すほどに、どうぞわしのために、末ながく、あの鼻の下長さまの、お思召しにだけは、そむかぬようにしてたもれよ。ほ、ほ、ほ! この珠玉のいろのすばらしさ——わしが死んだら、みんな娘に譲ってやろうのう——死なないうちでも、ほしいというのなら、いのちより大事な、この珠玉だって、そなたにはつかわそうもの——
隠居は隠居でそんな風に、自分勝手なことを、口に出して、ブツブツと繰り返しながら、更に、新しい、宝石箱の蓋を刎ねて、今度は、灯の光りをうけると、七彩にきらめく、白い珠玉を、ソッと、さも大事そうに、つまみ上げて見るのだった。
この三斎屋敷の、奥深いところで、奇怪な親子が、めいめいの慾と執着とに、魂を、燃やしている頃、この屋敷から程近い、とある普請場の板がこいの物影に、何やら身を寄せ合うようにして、ひそひそと物語っている男女の影——
さては、人目を忍ぶ逢い引きか? いいえ、二人の話に、耳を傾けるものがあったら、どうしてなかなか、そんなありふれた者どもではないのを、すぐに発見したであろう。
「だが、姐御——」
と、背の低い、ずんぐりした黒い影が、
「いいんですかえ? 松枝町の隠居ッて言えば、公方さまでも、おはばかりなさるってお人だ。その人の庫なんぞを荒したら、並大ていのことじゃあ済みませんぜ。遠島者か、首斬り台にすわらなけりゃあならねえ。そんなところを目がけずとも、本町通りへ行きゃあ、ずうっと、大きな金庫がならんでいるのに——」
「黙っておいでよ、むく犬」
と、ひびきの強い、張り切った女の声が、高飛車にいった。
「公方さまが、はばかったって、おれたちゃあ、ちっとも遠慮することはありゃあしねえよ——どうせ天下のお式目、御法度ばかり破って、今日びをくらしている渡世じゃあないか——おめえは知らず、このおれと来ては、どうせ首が、百あっても足りねえからだ——一度、見込んだら、屹度やる。万一、ほかの仲間に、この屋敷を先き駆けられちゃあ、つい鼻の先に棲んでいる、黒門町の、お初姐御のつらがつぶれてしまうじゃあないか?」
一〇
普請場の板囲いの、暗の影、低いながら、ピチピチとした鉄火な口調で、伴れの男を叱るように、こういい放った女——では、これが、当時、江戸で、男なら闇太郎、女ならお初と、並びうたわれている女賊なのだ。
「そういえば、そうですがねえ——」
と、ずんぐりした男は、詮方ないといった調子で、
「なるほど姐御が、一たんいい出して、引ッ込めるような人間じゃねえことは、だれよりもこのあッしが知っています。じゃあ、一ばん、今夜、これから、三斎屋敷に乗り込みますか?」
「いうまでもなく、この足で忍び込むつもりだが、お前は、このまま引ッ返して、隠家で、首尾を待っていなよ。つまらねえ思いつきで、小さい仕事に手を出して、ドジを踏まず、寝酒の支度でもしてお置きよ」
お初が、そう言うと、
「へえ? じゃあ、あッしは要らねえんで——」
と、男の手下は、不足顔。
「まあ、わたし一人がいいようだよ。相手はおめえのいう通り、ちっとばかし大物だ。大物狩りには、足手まといは困るからね」
「へ、あッしを、足手まといと、いいなさるんで——」
「いいえ、おめえも、相当なものさ。これが、どこぞ、商人の、土蔵でも掘るときならね。だが、武家屋敷を攻めるにゃあ、そのガニ股じゃあ、駆け引きがおぼつかないよ」
「どうも、手きびしいなあ。あッしはまた、いつかのやり損ないを今夜あ取りけえして、お讃めにあずかりてえと、思っていましたに——」
「なあに、また折があらあな。さっさと行きねえ——」
お初は、相手が、ためらうのを、追っ払うように、
「さっさと、行きねえと言ったら——そら、向うから、人影が差しているじゃあねえか——」
と、強く言う。
「じゃあ、姐御、上首尾に——」
「おお、土産はたんと忘れねえよ」
ずんぐり男は、板囲い沿いに、黒いむく犬のように、どこへか、消える。
自ら、お初と名乗る、女賊——それを見送ると、大胆に、物影をはなれて、町角の常夜灯の光りが、おぼろに差している巷路に、平然と姿を現した。
見よ! そのすんなりとした、世にも小意気な歩みぶり——水いろ縮緬のお高祖頭巾、滝縞の小袖の裾も長目に、黒繻子と紫鹿の子の昼夜帯を引ッかけにして、町家の伊達女房の、夜歩きとしか、どこから見ても見えないのだ。
顔容は夜目、ことには、頭巾眼深——ちょいとハッキリしないのだが、この艶姿から割り出すと、さもあでやかだろうとしか考えられない。
現に、今、通りすがった、二人づれの、職人らしいのが、振り返って、うしろ影をつくづく見て、
「へッ、たまらねえな——どこのかみさんだろう?」
「畜生! 亭主野郎、どんな月日の下に生れやがったんだ!」
お初は、そんな冗談口は耳にも止めず、かまわず間近な、三斎屋敷の方へしとしとと歩いている。
彼女も亦、闇太郎同様、この権門の財宝を狙っているものにきまっていた。
一一
黒門町のお初は、しなりしなりと三斎屋敷の門前に近づいたが、扉こそとざされておれ、耳門はまだ閉っていないらしく、寝しずまるには、間があるようだ。
——宵っぱりな家だの——お客か? が、そんなこたあ、こっちには、何のかかわりもありはしない。
いつぞや、闇太郎がしたように、この女も、塀に沿うて、まわり出した。越すに易い足場のいいところを見定めようとしているのだろう。
このお初というのは、以前は、両国の小屋で、軽業の太夫として、かなり売った女だった。
足芸、綱渡り、剣打ち、何でも相当にこなして、しかも、見世物切っての縹緻よし、身分を忘れて、侍、町人、随分うつつを抜かすものも多かった由だったが、いつの間にか、その引く手あまたの一少女の、青春の魂を囚えてしまったのが、界隈によく姿を見せる、いつも藍みじんを着て、銀鎖の守りかけを、胸にのぞかせているような、癇性らしい若者——
いずれ、やくざに相違ないと知って、出来合ってしまったところが、これが賭博うちと思っていたのに、東金無宿の長二郎という名代の泥棒——
男は美し、肌も白し、虫も殺さぬ顔をしているから、人殺しの兇状こそなけれ、自来也の再来とまでいわれた人間だった。
お初も、馴染むうちに、いつか、相手の本体を知った。が、知ってしまうと、尚一そう、その性格や渡世にまで愛着を感じないわけにはいかなかった。
——長さんは、盗んだって、悪党じゃあない。困った人達はにぎわすし、パッパッと綺麗に使ってケチ臭く世の中を逃げまわってなんざあいやあしない。いつだったかも、主人の金を掏られたお手代が、橋から飛ぼうとしているのを見て、大枚百両をつかましてやったようなお人だ。
——長さんの足がひょいひょい遠のくのは、吉原の火焔玉屋のお職がこのごろ血道を上げているからだそうな。ようし、それがどんな気ッ風の女か知らないが、両国のお初が、どういう女か、長さんに、ひとつ、とっくり見て貰いましょう。あたしだって、身も軽いが、手足も動くんだ。長さんの、百分の一位なことなら、出来るだろう。
彼女は、そう思いつめて、軽業はわき芸、いつか、掏摸を本業にしてしまった。
勿論、主人持ちの小僧や、年寄りの巾着なぞは狙わない。彼女が狙ったのは、浅黄裏の、権柄なくせにきょろきょろまなこの勤番侍や、乙に気取った町人のふところだった。
どうかすると、長二郎の——今自来也と呼ばれた大泥棒のかせぎより、お初の方が、ぐっと良いこともあった。
「お初」
と、ある晩、逢ったとき、出逢茶屋の二階の灯の下で、長二郎は、いいかけた。
「お初、おめえ、大それたことをやらかしているんじゃああるめえな?」
ジロリと、鋭い、まなこだ。
「大それたことって?」
十九むすめのお初は、赤い布をかけた髷を揺するようにして、ほほえんだ。
「あたし、大それたことなんざあ、なんにもしやあしないさ」
「が、ふところが、いつも不思議だぜ」
と、長二郎が、首を振るようにして、
「無間の鐘や、梅が枝の手水鉢じゃああるめえし、そんなにおめえの力で——」
一二
今自来也の長二郎から、
——無間の鐘をついたわけでもあるまいし、いつも、あんまりふところが豊かすぎる——何か、大それたことをしているのではないか——
と、そう問い詰められた、軽業のお初は、苦にもせずに笑ってしまった。
「あたしが、どうしてこのごろ、お金持だっていうんですか? そりゃあ、働くからですよ。無心ばっかりして、おまえに愛想をつかされてはかなしいと思うものだから——」
「女のおめえが、働くといって?」
と、相手が、小首をかしげて見せるのを、さえぎるように、
「あたしゃあね、こんなお多福だから、吉原のおいらん衆のように、お客からしぼることも出来ねえし——」
と、ややするどく、皮肉にいって、
「と、いって、まさか茣蓙をかかえて、柳原をうろつきもしねえのさ、ただね、手先きが器用なものだから、おのずと、この節お金が吸いついてならないというわけですよ、ほらね——」
と、ふところから、緋いふくさ包を取り出して、小判や、小粒をザラザラと膝にこぼして見せて、
「今夜だって、こんなに持っているわ」
「じゃあ、てめえ、掏摸を——」
と、声をとっぱらかした長二郎が、やっと、低めて、
「掏摸をはたらいているんだな?」
「びっくりなさることはねえよ——」
と、お初は、紅い唇で、むしろ、あどけ無く笑って見せて、
「おめえの縄張りを荒しているわけでもなしさ。鬼の女房に何とかいうから、あたしもいくらか働かなけりゃあ、釣合いが取れ無いと悪いからね——」
さすが、長二郎ほどの男も、このときほどびっくりした目がおをしたことはなかった。
「あたしもこれで、思い込むと、何をやらかすかわからない娘さ」
お初は、おどすようにつづけた。
「もし、おめえが、うわ気ッぽく捨てでもすると、覚えておいでなさいよ——どんなことになるか——」
「わかったよ」
長二郎は、小娘の激情に威嚇されるはずもなかったが、それもこれも、自分の心をはなすまいとする気持からだと思うと、いじらしくあわれに思った。
彼は火焔玉屋から、遠のいてしまった。
長二郎、お初の恋は、そして、ますます熱度を加えたものの、そうした生活に、破綻の来ないはずがない。
間もなく、長二郎もお初も御用になって、男の方は、首の座が飛ぶところを、侠気の点を酌量されて佐渡送り——お初は、一年あまり、牢屋ぐらしをして、出て来たのだったが、それ以来、彼女は一生かえれぬところへ送られた情人の渡世に転向して、やがて、押しも押されもせぬ女賊となり、変幻の妙をきわめて、男の手下を養い、おれ、の、てめえ、の、というような、荒っぽい調子で、鬼をあざむく奴等をこきつかっているわけだった。
そのお初、素性が素性ゆえ、身が軽かった、手先きも鋭かった。
であれば、三斎屋敷への出入りなぞは、塀が高かろうと、低かろうと、物のかずではなかった。
彼女は、だんだん、灯光に遠い、横手の方へ、塀についてまわって行った。
一三
軽業のお初は、三斎屋敷裏塀まで来ると、ちょいと前後を、闇を透かして見まわしたが、まるで操りの糸に引かれた人形のようにふうわりと塀上に飛び上ったが、その上で、小手をかざして、ちょいと忠信のような恰好をした。
——へん、どんなもんだね? こんなけちな屋敷!
さっき、あのずんぐりが、土部一家の権柄に圧されたようなことをいったのが、今も癪にさわっているのであろう。
さて、それから、彼女は、ひらりと、地下へ下りた。
別に、小褄をからげるでもなく、そのまま奥庭のくらがりの、植込みの蔭につとより添って、母家の方をじっとみつめる。
お初は別に、闇太郎のように、この館の研究がつんでいるわけはない。ただ、何かしら、人も知ったるこの屋敷から、目の玉をでんぐりがえさせるような一品を盗み出し、仲間のものに、ひけらかしてやれば、それでいいのだ——
——まあだ起きてやあがる——うち中が起きてやあがる。いつまでぺちゃくちゃやっているんだね。人の眠る頃にゃあ、やっぱし横になる方が、お身のためなんだよ。
例の黒犬は、今夜は、この犬の方が、家人たちのかわりに、まどろんでしまっていると見えて、クンクンと、鼻を鳴らして寄っては来なかった。
——三斎屋敷というから、どんなに用心がきびしいかと思ったら、これはまた、どこもかしこもあけっぱなしだ。くそ、おもしろくもねえ。世の中に、泥棒がいねえわけじゃあないんだよ。人を馬鹿にしてやがら!
お初は木蔭をはなれると、離れのようになっている別棟に近づいて行った。その一棟の横手に、ずっと立ち並んで、文庫ぐらがある。一戸前、二戸前、三戸前——、
彼女は、蔵は望まない——土蔵までを切ろうとは思わない——その三斎とやらの寝間にしのび込んで、机元から盗み出してやりたいのだ。
——その図久入の寝部屋というのは、一たい、どの見当なんだろう?
離れと、母家をつなぐ渡り廊下の近所まで来ると、そのとき、ふッと、何か物音がした。
ハッとして、立ち止まって、身を硬くする。じっと、暗闇に棒立ちになれば、大ていは物にまぎれて判らなくなるのが恒だ。
お初は、じっと突ッ立ったが、もう遅かったのかも知れない——
「どなた? そこなお方、どなた!」
離れの、手水場の、小窓から、白い顔がのぞいて、そうしたやさしい声が掛ったのだ。
お初は、その声が、あまりに優しくほのかだったので、覚えず、
「あたくし——」
と、かすかに返事をした。
答えぬところで、向うはもう、ハッキリ、こっちの存在を、見て取ってしまっているに相違なかった。
「どなたさま?」
追い打ちに来た。
どことなく、凛とした、許さぬ調子が、ふくまれていた。
お初は、はじめて、ぎょっとした。その声と一緒に、戸が開いて、白い顔の持主が、闇に下り立とうとしているのだ。
——まあ、あいつ、あんな声で、男だ。
お初は、帯のあいだに手を入れて、匕首の柄にさわった。
一四
——あいつ、あの白い顔の奴、男だ!
と、突嗟に悟って、匕首に手を掛けてお初、
——なあに、男だって、化け物だって、怖いものか!
近づいて、切ッ払って、亡ける覚悟し——いたずらに騒いでは、却って、此の場合、逃げ場を失うのは、知れ切っている。
庭下駄を突っかけた、不思議なしとやかさを持った人物はしずかに近づいて来て、
「そこなお人、御当家のお方か」
寄って来るのを寄らせて置いて、
「ちくしょう! 出鼻を挫きやあがったな」
低く、刺すように叫んでお初、キラリと抜き放った匕首をかざして、ぐっと、突いて行ったが、相手は、ほんの少し身をかわしただけだ。
「おや、では、泥棒だね——しかも、女子——」
引ッぱずされて、よろめく足をふみこたえて、ビュッ、ビュッと、切ってかかるのを、すっと隙につけ入って、利き腕を逆に取った、白い顔、匂いの美い女装の男性。
「騒ぐと人が来ますぞ。わしは、当家に恩のあるものでもない——見のがすほどに去ぬるがいい——」
裏庭の暗がりを、肉体のしなやかさにくらべて、驚くべき膂力を持った不思議な人間は、ぐいぐいと、お初を塀の方へ曳いてゆく。
「なら、人の仕事の、邪魔をせずともいいだろうに——こんちくしょう!」
お初はもがいている。
「もっともじゃ、じゃが、わしとても、この家から、泥棒を追いはらったとなると、鼻が高いゆえ——ほ、ほ、ほ」
女装の男は、妙な笑いを笑った。
「一てえ、おめえは何だ? 女見てえななりをしやがって——」
塀際に近く、お初が呻く。
「わしが何だと不思議がるより、こちらが倍もおどろいたわ。江戸には、大した女泥棒がいるものじゃな——さすが、お膝下だ——」
そして、ふッと、相手が、びっくりしたように——
「おやッ、おまえは、江戸下りの——中村座の!」
と、叫ぶように、何で気がついたかそう言うのを、おッかぶせて、
「そのようなこと、どうでもよい。早う逃げなされ! わしが、今、騒ぎ出しますぞ!」
塀の方に、突っぱなすようにした白面女装——裂くような声で、
「泥棒でござります! 盗賊でござります!」
バタバタと、庭下駄の音をひびかせて、高く叫び出した。
そのときには、もう、軽わざお初、ひらりと塀を越えて、影のように、どことなく消えている。
「泥棒でござります! 早う、お出合い下さい!」
ガタガタと、家中の戸が開く音がして、六尺棒や、木刀を押ッ取った若党、中間がかけ出して来る。
「おお、雪之丞どのか! して、泥棒は!」
「太夫、盗賊めは?」
口々に、提灯で、雪之丞の艶姿を振り照らしながら呼びかけた。
一五
雪之丞は、いかにも申しわけ無げに、若党たちに挨拶するのだった。
「お手洗場のお窓から、ふと眺めますと、黒い影が見えましたので、みなさまに、先きにお知らせせずに、飛び出しましたものゆえ、むこうも狽てて、逃げ去りました。差し出たわざをいたして、折角捕えることが出来たものを、取りにがし申しわけござりませぬ」
「いやいや、見つけ下さらねば、害をうけたかも知れなんだ——捕えると捕えぬとは二の次」
と、いつか、これも押ッ取り刀で、飛び出して来ていた用人が、いって、
「して、賊の風体は?」
「黒いいでたちをしておりましたが、とっさに逃亡いたしましたゆえ、ハッキリとは見分けられませず——何でも、お庫を狙っていたように見うけました」
雪之丞は、かの女賊に、不思議な好奇心と、興味とを感じていたので、彼女に出来るだけ有利なようにいって置こうとするのだった——つづまるところ、三斎一味に敵意を抱く人々は、みんな自分の味方である——と、いうような観念を捨てることが出来なかったのであろう。
「それに致しても、そのやさしい姿で、心の猛けだけしさは、われわれも三舎を避けるのう」
と、用人は、讃めて、
「お負傷がなかったのは、何より——」
塀外をあらために出た、若侍たちも、空しく帰って来た。
「怪しい影も見当りませぬ。たった一人、町女房らしいものが、歩いておりましただけ——その女性が、つい今し方、風のように、追い抜いて駆け去ったものがあると申しましたれば、大方、そやつが——」
「土部屋敷と知って押し入る奴、大胆不敵だのう——が、事が未然に防げたのは、太夫のお骨折りだ。明夜から、警戒を、十二分にせねばならぬ」
用人は、首を振り振り、そんなことをいっていた。
雪之丞が、元の離れに帰ると、顔いろを失くして、懸念にわななきながら浪路がむかえた。
「まあ、そなたは、向う見ずな! 泥棒などに近づいて、もし負傷などなされたら、わたしがどのように心を痛めるか——」
「いえいえ、ただ、言葉をかけてやりますと、バラバラと逃げ去ってしまいました。泥棒などと申すものは、みな、気持に後れがござりますゆえ、案じたものではありませぬ」
「でも、これからは、決して、そのような危い場所に、お近づきなされてはなりませぬぞ。そなたのからだは、そなた一人のものではない程に——」
浪路は、もう強く強く決心しているのだった——柳営大奥へは、二度と足ぶみをしないとまで思いつめてしまったのだった。
——わたしは、もう、出来るだけ、父上、兄上の便利になった。この上は、わたし自身のために生きねばならぬ。自分の恋の真実に生きねばならぬ。だれが何というても、わたしはわたしの道を行く——恋しい人を、はげしくはげしく抱きしめて——
だが、憎や、そこへ、老女があらわれた。
「太夫、おかえり前に、御隠居さまが、お礼を申したいゆえ、お居間にとのことでござります」
一六
折角、羽翼美しい小禽を、わが手先きまで引き寄せながら、きゅっと捉まえる事が出来ずに、また飛び立たしてしまうような、どこまでも残り惜しく恨めしいのが、わが居間から、このまま雪之丞を去らせてしまわねばならぬ浪路の胸中であったろう——
老女が、三つ指を突いているので、存分に別れることばさえ掛けられず、
「では、また折もあったら、見舞ってたも」
と、いうのが、関の山。
雪之丞は、恋する女の、激しい、強い視線に、沁み入るような瞳を返して、
「必ずともに、明日にもまた、お目通りいたしまする」
二人の今夜の逢瀬は、それで絶えて、それからの雪之丞は、心の中で、この世の鬼畜の頭目と呪う三斎から、聴きたくもないほめ言葉を受けにゆく外はないのであった。
こちらは、軽業お初、松枝町角屋敷の塀を刎ね越して出ると、そのまま、程遠からぬわが侘住居——表は、磨き格子の入口もなまめかしく、さもおかこい者じみてひっそりと、住みよげな家なのだが、そこに戻って来ると、
「婆や、何か見つくろって、一本おつけよ」
と、いくらか、突ッけんどんにいい捨てて、
「おや、姐さん、もうお帰り」
と、けげんそうに、這い出して来た、例の、ずんぐり者の、むく犬の吉に、
「余計なこと! 勝手なところをぞめいておいで——」
と、紙にひねったのを投げてやって、茶の間にはいって、ぴたりと、襖を閉ざしてしまった。
むく犬の吉、ペロリと舌を出して、
——だから、いわねえこっちゃあねえ——松枝町の角屋敷、なかなか七面倒な場所なんだ。出来ごころで、のぞいたって、そう易々、向うさまが出迎えちゃくれねえのだ。姐御も女は女、とかく、癇癪で、気短かで、やべえものさ。でも、引っかえして来てくれてよかった。
いろ気が薄くっていいというので、たった一人、側に置かれているむく犬、駄犬ほどには主人おもいだ。
——どれ、じゃあ、ひとつ、あいつらのつらでも見てくるかな。
裏口から、草履を突っかけて出ようとすると、婆やが、
「吉ッつぁん、あしたは、お湯にはいって、浄めてから帰っておくれよ。ほ、ほ、ほ」
気の利いた大年増だが、毒口は、生れつきだ。
その婆やが、小鍋立ての支度をしている頃、女あるじは、朱羅宇の長ぎせるを、白い指にはさんで、煙を行灯の灯に吹きつけるようにしながら、しきりに考え込んでいる。
——不思議なばけ物だねえ? あの女がた——ひとの利きうでを——匕首をつかんだ利きうでを、怖がりもせず掴みやあがったが、その力の強さ。おいらあ、思わず声が出そうだった。ほんとうに、何てにくらしい奴だったろう?
と、呟いて、また考え込んで、
——それにしても、妙だねえ、おいらをとっつかまえるのでもなく、わざわざ逃がしてくれたのはどういうものだ? あの力だ。おいらなんぞは、赤んぼのように、どうにも出来たろうに——