七之助捕物帳『小指物語』

七之助捕物帳

小指物語

作品と作者

作者:納言 恭平 (なごん きょうへい)

江戸の町を舞台に、粋でいなせな町人たちの活躍を描くことを得意とする作家。特に「捕物帳」のジャンルにおいて、軽快な筆致と巧みな筋立てで人気を博す。本作でも、花のお江戸の風俗を鮮やかに描き出しながら、読者を巧みに謎解きの世界へと誘う。

作品:『七之助捕物帳』について

花川戸の御用聞・七之助が、子分の音吉と共に江戸の難事件に挑む人情捕物帳シリーズ。本作『小指物語』は、浅草奥山の華やかな矢場を舞台に、一人の侍の謎の死から始まる物語。恋の鞘当て、過去の因縁、そして意外な犯人。江戸の光と影が交錯する中で、七之助の推理が冴えわたる。小指に秘められた謎が、事件を思わぬ方向へと導いていく。

あらすじ

浅草奥山の人気の矢場「青柳」。看板娘のお高に想いを寄せる侍・夏目幸之助が、いつものように腕前を披露していた。しかし、的を狙ったその瞬間、幸之助は血を吐いて突如絶命する。

知らせを受けた花川戸の御用聞・七之助は、子分の音吉と捜査を開始。幸之助には、お高の他に「松葉家」のお糸という恋人がおり、二人の女の間で揺れ動いていたことが判明する。痴情のもつれによる毒殺か? 容疑の目はまず、幸之助に捨てられようとしていたお糸に向けられる。

しかし、捜査を進めるうち、幸之助の意外な過去が浮かび上がる。彼の小指は、第二関節から先がなかったのだ。それは、かつて越後の柏崎で犯した悪事の痕跡だった。

恋、嫉妬、そして復讐。様々な人間の思惑が渦巻く中、七之助は事件の裏に隠されたもう一つの物語を突き止める。犯人は、誰もが予想しなかった意外な人物だった。

本 文

『小指物語』を読む
納言恭平著 七之助捕物帳 小指物語 怪死  夕方になると涼風が立って、昼間の暑気を吹き飛ばしてしまった。浅草、奥山は、矢場の人出が凄まじいのだ。  青柳は、ここの矢場では、噂に高い店のひとつである。――その青柳の店先に、今しも、ずいと立寄った一人の侍がある。衣服、大小もよく整った、見るからに裕福そうな、三十がらみのいい男ぶり。 「あら、旦那、いらっしゃいまし」  顔馴染の客と見えるのだ。店にいた看板娘のお高が愛想よく迎える。——白地の浴衣にさらりと涼しげな洗い髪。その無雑作なつくりが、かえって彼女の美しさを引立てて、なるほど、これなら、一枚絵になったりして、江戸の街中に、その艶名を謳われているのも道理と額ずかれる。 「ハハハハ。あんまり喜ばれる客でもなさそうだけれど、一日に一度、奥山小町の笑靨を見なければ眠られんのでな」 「御笑談ばっかり。松葉家のお糸さんに言いつけて上げますよ」 「お糸か。なあに、あんなのに言いつけたって、痛くも痒くもありゃしない」 「あんな不人情なことを」  ぞっとするような美しい眼で睨んで、 「ねえ、夏目さん。青柳をひいきにして下さるのは有難いのですけれど、世間の噂がうるそうございますから、すこし控え目にして頂けませんか」 「噂がそんなに気になるのか。夏目幸之助、よっぽど嫌われたものじゃのう」 「そんなことじゃありません。夏目さんが、松葉家のお糸さんの旦那になっていらっしゃることは、奥山で知らない者はないんですもの。それを知っていながら、青柳のお高は夏目さんを横奪りにかかっているなんて言い触らされては、女の立瀬がございませんもの」 「なんだかんだと、尤もらしい理屈を並べて追っ払おうとしたって、侍が命にかけてもと思い詰めたこの恋、なんで諦めてよいものか。だが、この調子じゃ、どうせ今夜も色よい返事は聞けそうもないな。どれ、一汗掻いて、今夜のところは一先ずあっさりと、引上げるとしよう」  夏目幸之助と名乗る時は、鷹揚に笑いとばして、的に対った。  楊弓を取り上げると、矢を番え、的を覘って、ひょう、と射る。水際だって鮮やかな手並だ。無雑作に弦をはなれる矢は、眼に見えぬ糸に引かれるように、次々に的に吸われて行くのである。 「うまい!」  店の表から見物をしていた弥次馬の中から、思わず感嘆の声を放った奴がいる。  夏目幸之助は、侍らしくもない気軽な調子で、 「なに、的に矢が中るのはすこしも不思議なことではござらぬ。的は死んでいるのでござるぞ。中らないのがよっぽど不思議なくらいだ。むずかしいのは、生きて動いているものでござる」  言いながら番えた次の矢は、今し四ツん這いになって、的場の矢を拾い集めている矢返しのお菊のむっちりした尻を覘った。矢は鶺鴒の尻尾のように空間を掠めて走る。が、途端に気配を察したのか、ひょい、と器用にひねられた尻を掠めて、矢は空しく外されてしまった。 「ホホホホ。駄目、駄目。夏目の旦那、そんなお手並では、死んだ的くらいがいいところかも知れませんよ」  顔も上げないのである。お菊の落ちつき払った嬌笑が、こだまになって返って来た。見物の弥次馬の中からも、どっとばかりに爆笑が湧く。 「なに——今度こそ」  むきになった夏目幸之助。矢箱の中から次の一本を抜き取って番えたが、 「う、うっ!」  突然、右手が、弦を放れて宙に泳いだのである。その手が胸を掻きむしった。顔は見る見る苦痛の表情にひきつり、鉛色にかわった額には、ねっとりと脂汗が浮いた。 「あらっ! どうなすったの、夏目さん?」  お髙が顔色を変えて立上ったのと、夏目幸之助が、げえっ、と血へどを吐いたのが、同じ瞬間だった。  楊弓をはなした手が、怪しく虚空をつかんで、幸之助は、ばったりと前にのめった。 松葉家のお糸  花川戸の御用聞七之助は、自分の家と目と鼻の場所での出来事なので、知らせる者があって、早くも矢場の怪事件を知ることができた。  支度もそこそこに、子分の音吉を連れて現場に駈けつける。青柳の店の前には、黒山のように弥次馬が集って、わいわいと罵り騒いでいたが、早くも店の戸は閉て切られている。七之助は、その弥次馬共に気取られぬよう、横手の暗い露地を通って、裏口の戸をコツコツと十手の先でこづいた。矢返しのお菊が、七之助の顔をたしかめると、かけがねを外して、そっと二人を奥へ通した。  夏目幸之助の変死体は、倒れた場所に、その時のままの姿勢で布団をかぶせてあった。枕元には線香の煙が立ち昇って、早くも最寄の自身番から駈けつけた町役人の亀平が、お高の母親のお品と一緒に坐っていた。 「町方の届けは済みやしたか?」 「へい、番太郎を八丁堀に走らせやしたから、追っつけ、町方のお役人衆もお見えになりやしょう」  と、亀平は言った。  七之助は、お高を眼顔で招いて、奥の茶の間に引き取った。そこで、夏目幸之助の変死の一部始終をつぶさに聞き取ると、一ときの時間も惜しむように、音吉を促して裏口から外へ出た。 「音の字」 「へい」  露地の暗がりで、七之助は、音吉に呼び掛けた。 「この界隈は、たしか、お前の縄張りだったな」 「なあに、それ程でもありやせんがね。でも、ちっ たあ、顔も売れてますのさ」 「ありゃあ、どういう男だ? 夏目幸之助という侍は」 「さあ。素姓はよく知りませんがね。直参でねえことだけは確かですよ。でも、よっぽど裕福と見えて、この土地に撒いている金子だけでも、かなりなもんでしょうね」 「お高の話では、松葉家のお糸の旦那だとか、言ってたようだが」  二人は、いつか、露地の暗がりから、矢場の通りに出ていた。諦めたのか、戸を閉てた青柳の店の前の弥次馬は、もう、あらかた散っていた。 「そうだ、親分!」 「なんだ、いい思案でも浮んだのか」 「あっしゃア、今夜、どうかしている。今頃になって、こんな分り切ったことに気がつくなんて。そうだッ、松葉家のお糸がくさい!」 「おい、おい、あんまり高い声を出すな。……松葉家のお糸がくさいというのは、なんか心当りでもあるのか」 「無くって、親分。 夏目幸之助は、この頃松葉家のお糸に秋風立てて、青柳のお高に乗りかえようとしてるって、奥山中の大評判なんですからね。こりゃア、松葉家のお糸が口惜しがるのも当り前でしょう」 「そうかねえ。 で、お高のほうはどうなんだい? あの女にも、ひとの旦那を横奪りする気があった のかしら?」 「どうして、親分。あの女、虫も殺さぬ顔をしていながら、なかなか食えねえ女なんですぜ。 ついこの間も、幸之助と山谷堀の舟宿で会っていたのを見た者があるということですし、夜中にそっと忍んで行って、松葉家の表戸口に角力膏を貼ったのも、お高の仕業だってことでげすよ」  矢場の女が、同業者の店の表戸口に角力を貼るのは、その店の大切な客を吸い出すという咒であった。 この咒が効いて、松葉家のお糸は、大切な旦那の夏目幸之助を、青柳のお高に奪られかけているという噂が、ぱっと拡っている。 「この噂が発れて、青柳のお高が、旦那の上州屋と一揉め揉めたという噂も、松葉家のお糸が、幸之助の顔さえ見れば怨みつらみを並べているという噂も、今じゃア、ここの町中で、知らねえ者は一人だってありやせんぜ」  と、音吉は力味かえった。 「よし、じゃ、松葉家だ」  とっさに、七之助の心は決って、爪先は自然と松葉家の方向に向った。  松葉家でも、店の戸を閉てて、ひっそりと静まり返っている。 そっと裏口から訪ずれると、奥の茶の間に、矢返しのお君と小女の秀代が、怯えた眼をしてうずくまっていた。 「姐さんはどうした?」  顔馴染らしく、音吉が訊ねると、 「え? お糸姐さんは……」  と、口ごもっている。 「どうして、店の戸を閉めたんだ、まだ宵の口じゃないか」  と、七之助。 「は、はい。 ……青柳さんで、夏目の旦那がとんだことになったと、菓子売りのお婆さんが知らせてくれますと、お糸姐さんは、店のお客さんを断って、さっさと戸を閉ててしまえとおいいつけなさいました。そして御自分は、一寸わけがあってしばらく家をあけるから留守を頼むよ、と仰言って、ポイと、どっかへ出て行ってしまわれました」 「ち。風をくらってずらかりやアがったな」  音吉が歯ぎしりをした。 「ふむ、そうか。じゃ、なんだな、夏目さんは、青柳ではすでに一杯機嫌だったというが、ここでパイ一やって行ったんだな」 「はい。でも、今日はいつものようにはおあがりになりません。二本だったか知らね、秀代ちゃん。下地はどこかでおできになってたんでしょう。家にお見えになった時には、赤い顔をして、らっしゃいました」 「姐さんは機嫌よく迎えておやんなすったんだろうね?」 「は、はい——」  と、お君の顔に、狼狽の色が現われた。  七之助は笑って、 「今日も一揉めあったらしいね」  お君は、眼を伏せたまま答えなかったが、やがて、思い切ったように顔を上げると、 「夏目の旦那も旦那ですけれど、青柳さんの姐さんも、ひどい女でございます」 「お前も、夏目さんに毒を盛ったのは、お糸姐さんだと思っているらしいな」 「い、いいえ。そんなつもりで申上げたのではございません。お糸姐さんは、そんな恐ろしいことをなさるような女ではございません」  と、お君は必死の眼の色だった。 上州屋 「どこへ雲がくれをしやがったか」 「おっそろしく素早い女でげすな」  どこにどう捜索の手係りをつけたらいいか見当がつかない。七之助と音吉、戸を閉てられた松葉家の店先に立ち迷っていると、折よく、菓子売りのお鹿婆さんが通りかかった。  奥山の矢場には、菓子売りが三人入っている。お鹿婆さんの他に、凧のお金という四十女と、仙太郎という小粋な若い男だ。菓子売りは株になっているので、三人以外のもぐりの出入りを許さない。表向き酒類禁止の区域なので、矢場の客たちは、薬罐で燗をつけた奴を茶碗酒なぞにしてひっかけている。菓子売りも、表看板の菓子よりも、酒の肴のするめなんぞの方に儲けがあるのである。  しかし、菓子売りのもっと大きな余徳は、矢場の女や、常連の客たちからの付け届けだった。恋の使奴に立ったり、商売敵の秘密を探ったり、為にするための噂を振り撒いたり、こんな世界に無くてはならぬ調法な存在だった。従って、ここの世界のことなら、何屋の三毛が生んだ仔猫の父親は、何屋の斑毛だというようなことまで知り抜いている。  松葉家のお糸にうまくずらかられて、途方に暮れている七之助の眼の前に、その、矢場の生字引が現れたのだ。 「あ、これこれ、婆さん!」  音吉が、甦ったような声で呼び掛けたのも、無理ではなかった。 「へ。なんでございましょうか。……あ、こりゃア、親分さま方……」  はじめて気がついたように、お鹿は、へこへこと、卑屈な腰を屈めた。  七之助は、言葉巧みに持ち掛けて、松葉家のお糸が立廻りそうな心当りを訊ねた。 しかし、お鹿は、狡く狸をきめ込んでいるのか、ほんとに心当りが思い出せないのか、ぬらりくらりと曖昧に口ごもっている。  詮議が行き詰った時には焦ってはいけない。無理にそこを突破しようとしても、どうにもならないものだ。そんな時には、ひらりと体を案して、べつのところを押してみる。 すると、意外に効を奏することがあるものだ。 「そうだッ!」  ふと、七之助は思いついた。 「これも、一応当ってみる必要がありそうだ」  心の中でそう呟いたのは、夏目幸之助が松葉家を訪れた時には、すでに赤い顔していた、という、お君の言葉だった。 「お前、ここの矢場のことなら、なにからなにまで知らないことはないという噂だが、今日、夏目幸之助が、松葉家の前にいた場所を知っているだろう。そこから赤い顔をして出て来た筈だが」 「なんですね。そんなことなら、あたしでなくっても、知っている人は沢山いますよ。 夏目の旦那も、上州屋の旦那も、ここの土地では、誰にでも顔を知られているお客さんですもの」  果然、手応えは、そんなところにあった。 「なに、上州屋だって? 上州屋というのは、青柳のお高の旦那じゃないのか?」 「へえ。横山町の紙問屋の御主人ですよ」 「それなら、夏目幸之助との仲を疑って、お高と痴話喧嘩をしたってことも聞いている。その上州屋と幸之助が、いったい、どんな時刻に、どこで会ったのか」 「あたしゃ、万世庵の前で、店から出てくるお二人さんの姿を見掛けましたよ。日の暮れがたでしたから一緒に早夕飯でもおあがりになったのかも知れませんね」  往来の詮議は人眼にも立つので、七之助はそこそこにお鹿婆さんを放って、やがて足早に万世庵 の暖簾をくぐった。  ここの調べは呆気なかった。上州屋と夏目幸之助は、たしかに今日の夕方の一刻(二時間)あまりを、万世庵の二階の一間に、人目を避けていた。  しかし、係りの番に当った女中のお源は、 「私が、お通し物やお銚子を運んでお座敷に参っています間は、お二人共そしらぬ顔をして黙っていらっしゃいましたけれど、たしかに、なにか、面倒な掛合事らしゅうございました。時々には声高な尖り声が、廊下の外まで洩れてくることもございました」  と、申し立てた。 菓子売りお鹿  町方の検視の模様が知りたかったので、七之助は再び、青柳の裏口を訪れた。  八丁堀から出張した検視の役人は、七之助が、日頃から懇意にしている、同心の浜中茂平次だった。茂平次は、一通りの検視を終って、六畳の座敷で茶を飲んでいた。下座に小さくなっている小粋な若い衆は、菓子売りの仙太郎だった。 「やあ、七之助か、お前が駆けずり廻っていると聞いたから、今夜中には大概眼鼻をつけてくれるだろうと思って、あてにして尻を落ちつけていたんだ」  と、茂平次は、陽気に七之助を迎えた。 「旦那は人が悪いからな。あんなことを言っておいて、ご自分こそ、早えとこ、謎を解いておしまいなすったんでしょう」  と、七之助も、如才なく、下座の仙太郎に、笑いながら眼顔を流した。 「いや、いや。 そんなに、都合よくは参らん。そちらの、菓子屋の若い衆は、折よく通りかかったので、呼び込んで見たのだが、大したことはなかった。それよりも、お前の見込を聞かせてもらいたいな」 「よろしゅうございますとも」  七之助は、惜しげもなく、今夜の収穫を、洗いざらい御披露に及んだ。 「うむ、そうか、そうか。だいたいのことは、俺も仙太郎から聞いて知っていた。 しかし、松葉家のお糸が、素早いとこずらかったって話は初耳だな。 これはぐずぐずしては居られんな。一刻も早く、手を廻さねばならんな」 「そりゃア、それに越したことはありませんがね。しかし、あっしゃア、 あの女、放っといても遠っ走りをする心配は無えような気がするんですけれど。それよりも、その前に、あっしゃ、夏目幸之助の素性を知っておきたいんですよ。金放れもきれいだし、押出しも立派な姿だけれど、時々、不用意にやくざ言葉を口走ってたとかいうじゃありませんか。それに、さっきちらっと眼に止めたんだけれど、奴さん、小指を二の節から詰めていやすぜ」 「なんだ、お前もあれに気がついていたのか。じつあ、俺もへんだと思って、そこの若い衆に訊いて見たんだ」 「ははあ?」 「矢張り偽侍らしい。しかし、あの小指は、やくざの仁義で詰められたんじゃあないんだそうだ。越後の柏崎で、人の娘を手籠にしかけて相手の娘に食い切られたんだそうだ。……のう、若い衆」 「へ、 へい。あっしも、お鹿婆さんに聞いたんですから、たしかなことは請合えませんがね」 「お鹿婆さん、ばかに信用が無えな」  と、七之助は笑った。 「へへへ……」  と、仙太郎も笑って、 「だって、あの婆さん、口から出放題の出鱈目ばかりしゃべってるんですからね。 ま、半分は、いい加減なつくりごとだと思って聞いていても、間違いはありませんよ」  お高が、麦湯の盆を持って、座敷に入って来た。 馬鹿の為公  翌る朝——。  七之助は、ひとりで、ぶらっと、奥山へ出掛けて行った。 朝の遅い矢場の通りは、まだ戸を閉めている家が多かった。 「はてな?」  何かいつもとかわっている空気を、七之助は、本能的に感じた。昨夜の異変の後に漂う不気味なたたずまい――それは勿論にある。が、それとはべつな、不思議な雰囲気なのだ。 「はて、なんであろう?」  大切な忘れ物を、どうしても思い出せない、あのもどかしさであった。 「あら、へんよ」  若い娘の声だった。一軒の楊弓店で、店の戸を繰っていた小女が、繰る手を休めて、奥に向って言ったのだ。 「なにさ?」  と、姿は見えず、べつな女の声だった。 「為公、どうしたんでしょ。 今朝、表を掃いてないの」  あっ、なあんだ。——と、七之助は自分の頭を叱るように、コツコツと拳で叩いた。そうだ、矢場の通りが散らかっているのだ。こんなことに気がつかないなんて、どうかしている。 「そうだ、馬鹿の為公は、いったい、どこで何をしているのだろうか。そういえば、いつも矢場のどこかにいる為公の姿を、昨夜はとうとう一ぺんも見かけなかったが」  七之助の頭が、かっ、と熱を帯びてはたらきはじめた。  馬鹿の為公というのは、ここの矢場を縄張にして生計を立てている乞食で、奥山名物の一人に数えられている男。 馬鹿だけれど、恩は知っていると見えて、矢場の表通りの掃除だけは一日も欠かしたことがない。 朝、矢場の女たちが起き出る頃には、もう、町の隅から隅まで、箒の目もあざやかに掃き清められ、打水が埃をしずめているのだ。それだのに、今朝に限って、通りは乱雑に取り散らかっているし、昨夜の騒ぎの間中も、どこかに雲隠れをしたまま、姿を見せなかった。 「ほんに、どうしたんでしょうね。為公がずるけるなんて、可怪しなこともあればあるもんだね」  寝巻の女が、 小女と並んで表通りに眼をやりながら、そう言った。 「病気じゃないんでしょうか」 「心配になるかえ」 「あら。いやな姐さん——」 「ホホホ、だって、ほら、すぐそんなに耳朶を真赤にしたじゃないか」 「姐さん!」  と、七之助が声をかけた。 「あらッ! 親分さん、どうしましょう、こんな姿で」 「なに、構わないさ。ところで、一寸訊きたいんだが、馬鹿の為公のせぶりはどこだったかしら?」 「弁天山下の木賃じゃない?」  女は、返事のかわりに、小女に訊ねた。 「そうよ、姐さん」  と、小女も、女に答えた。 「や、有難う」  と、七之助は踵を返した。  弁天山下の木賃宿では、仁王門のわきの、銀杏の木蔭で顔見知りの女乞食が、入口のところで着物の虱を取っていた。 「為公はいるかい?」  と、訊くと、女乞食は、黙って奥の方を指した。  為公は、雑居部屋の隅っこに素麺箱を据えて、それを拝んでいた。その箱の上には線香の煙が立昇っているのだ。 「どうしたんだい、為公?」  声をかけると、為公はその箱を指しながら、 「三公、三公」  と、泣きべそを掻いた。  三公というのは、為の愛犬の名前だった。——どこで拾ったのか、彼は、足の短い無恰好な犬を連れて来て、三公、三公と、可愛がっていたのである。 「え。三公がどうしたというんだ?」 「死んだよ、血へどを吐いて」  為公は垢だらけの両頬に、ポロポロと涙をこぼした。 「えっ、血へどだって?」  と、驚いたが、すぐ、さりげなく、 「なにか、悪い物でも食わしたのか?」 「お菓子だよ。夏目の旦那が、そらよ、三公、といって、食いかけの菓子を投げてくれたんだ」 「そうか、解った!」 「え、なにがよ」 「なに、こっちのことだよ」 小 指  その日のハッ下り。お鹿婆が、いつものように、菓子箱を抱えて奥山に現われたところを、七之助は有無を言わさず取り押えて、最寄の自身番に連れて行った。 「お前、口から出任せの出鱈目ばかりしゃべりまくって困るじゃアないか。お前のために迷惑をしている人間が多勢あるぞ」  と、七之助は叱りつけた。 「そんなことはありませんよ。 あたしゃ、出鱈目なんて、これんばかりも言ったことはありませんよ」  お鹿は、とんと突衣紋をして、あべこべに食ってかかる見幕だった。 「青柳のお高が、松葉家の表戸口に角力膏を貼ったと言い触らしたのはお前だそうじゃないか」 「あれはみんなが知っていることですからね。あたしが火元ってわけじゃありません」 「じゃア、夏目幸之助が、青柳のお高と、山谷堀の舟宿で会っていたとか、いなかったとかいう噂はどうだ?」 「いやだね。 親分さんは、悪いことはみんなあたしが言い出したように思ってらっしゃるんだから。でも、ほんとはほんとでしょう。 その舟宿から出て来るところを見掛けた人があるんだそうですからね」 「ふむ。じゃ、もう一つ訊くが、夏目幸之助の小指だが、あれは人の娘を手ごめにしかけて噛み切られたんだと、お前、仙太郎に言ったそうだが、あれも、出鱈目をしゃべったんじゃねえ、とお前、言うんだな」 「そ、それは、親分……」  お鹿は、飛び出るような眼つきをしながら体中で喘いだ。 「それだけは出鱈目だと横車を押すつもりか」 「い、いいえ。……ち、仙太郎の奴、そんなことまで、親分さんに喋りやがったんですかい?」 「ヘッ。呆気なく白状しやがったな。……で、お前、 どういうわけで、 幸之助の素性を知ってるんだ?」 「知ってますともさ。可愛い娘の仇ですもの」  もうこれまでと観念したのか、お鹿婆は、破れかぶれの糞度胸をすえた。 「あ、そうか。 夏目幸之助の小指を食い切ったのは、お前の娘だったのか」  お鹿婆は、帯の間から、小さな袋のような物を取出して、七之助の前に置いた。 「とっくりと見ておくんなさい。それが、殺されながら、娘の口の中に残っていたあの男の小指ですから」  薄気味が悪いなどとは思っていられなかった。袋の紐を解いて倒さにすると、畳の上にポットリと落ちた、芋虫大の無気味な肉片。 「あの奴、蝮の幸吉なんかといわれて、柏崎ではゲジゲジのように人に嫌がられていた悪党だったんです。そんな男に見込まれたのが、娘の災難でしたよ。でも、あの奴にとっても、あたしみたいな執念深い婆の娘に懸想しやがったのが、一生の大失敗だったかも知れませんがね。いひひひ……」 「じゃ、幸吉の方では、お前を、小指を食い切られた娘の親だとは、気がついていなかったんだな」 「そうでしょうともさ。あんな男には、薄穢い婆の顔なぞ、用がないもの」  と、お鹿婆は言った。 嵐の後  奥山の矢場で毒殺された男には右手の小指が無いという噂を聞いて、奉行所に出頭した檜物町の質屋、寿屋の番頭の証言によって、夏目幸之助こそ、一年程前に、寿屋に押し入って千両箱を奪い去った二人組強盗の片割れにちがいないことが分った。 「刀の柄を叩いておどし文句を並べやがった時に、私はその男の小指が二つ目の節から無くなっているのを、はっきりと眼に止めたんです。 その他、骨組から、肩の恰好、私の眼の底に焼きついている、あの晩の強盗の片割れにちがいないようです」  と、寿屋の番頭は申し立てた。  吟味中伝馬町送りになっていた上州屋は、嫌疑が晴れて釈放されたが、すっかり、意気消沈のかたちだった。 「矢場の女の世話をしていたなんて、薄みっともないことが世間に知れてしまったんだ。面でもかぶらなきゃ、昼日中、通りも歩けなくなっちまいましたよ」  と、浜中茂平次に向って、 未練がましい泣言を並べたりした。  松葉屋のお糸は、事件が片づくと、どこからか、けろっとした顔をして奥山に帰って来ていた。 「どこに雲隠れしてたんだ?」  七之助に訊かれても、お糸は、簪の足で髪の根を掻きながら、ニヤニヤ笑って答えなかった。 「危いことをする。 まかり間違えば、お前の首が獄門台に乗るところだったぜ」 「あら、どうしてでしょうね?」  お糸は、切長な、妖艶な眼を大きく見張った。 「どうしてって、ほんとの犯人がわからなかったら、雲隠れしたお前に、一番、嫌疑が掛るにきまっているじゃないか」 「あら、そんなら大丈夫ですよ」 「なにが大丈夫なんだ?」 「だって、花川戸の親分さんが乗り出しなすったんですもの。ほんとの下手人が解らないなんて、そんな筈がないじゃありませんか。 だから、あたし、その時まで隠れていようと思って、安心して  突走ったんですもの。だって、ここの家にまごまごしててご覧なさい。吟味中伝馬町送りとかなんていうんで、わからず屋の町方の旦那衆に、どんな目に会わされるか知れないじゃありませんか」 「こいつめ、こいつめ!」  七之助は拳をつくって、お糸の鼻の先に突出して見せた。  お鹿婆は、娘の仇討とわかったので、かえって町奉行からお褒めの言葉などを頂いた。七之助の家にも菓子折を下げて挨拶に来て、 「親分さんえ、このお菓子には、毒は仕込んでありませんから、安心してお上んなさって下さいまし」  なぞと、笑談を言った。  松葉家の表戸口の角力膏の一件も、山谷堀の舟宿の一件も、お鹿婆さんが撒き散らした流言蜚語であった。それによって、夏目幸之助殺しの嫌疑を、松葉家のお糸や上州屋に向けようという、用意周到な事前工作だったのである。 「こうやって、なんでもなく放免されるくらいでしたら、なにも、あんな工風に苦労するんじゃありませんでしたよ」  と、お鹿婆は、しみじみと後悔をしている顔色だった。

江戸の事件簿 Q&A

+ 「捕物帳(とりものちょう)」とは何ですか?

江戸時代を舞台にした探偵小説の一ジャンルです。町奉行所の役人(同心など)や、その手先となって働く「岡っ引(おかっぴき)」が主人公となり、様々な事件を解決していく物語を指します。岡っ引は公式な役人ではありませんでしたが、独自のネットワークと情報網を駆使して犯人を追い詰める、江戸の私立探偵のような存在でした。本作の七之助もその一人です。

+ 舞台となった「浅草奥山」はどんな場所でしたか?

浅草寺(せんそうじ)の本堂裏手に広がっていた、江戸随一の歓楽街です。見世物小屋、軽業、居合抜き、楊弓場(ようきゅうば、本作の矢場のこと)、飲食店などがひしめき合い、身分を問わず多くの人々で賑わいました。江戸の庶民文化が花開いた、エネルギーあふれる場所でした。

+ 「矢場(やば)」とはどんな店ですか?

楊弓(ようきゅう)と呼ばれる小さな弓で的を射る遊技場のことです。現代の射的のようなもので、景品がもらえることもありました。本作のように、お高やお糸のような美しい「矢場女(やばおんな)」を看板娘として置き、客を惹きつける店が多く、男たちの社交場、そして恋の駆け引きの舞台ともなっていました。「やばい」という言葉の語源の一つとする説もあります。

+ 小指を詰めることには、どんな意味があるのですか?

作中でも触れられているように、やくざの世界で失敗の責任を取ったり、忠誠心を示したりするために行われる「指詰め(ゆびつめ)」という風習が有名です。小指を詰めると刀を握る力が弱まることから、武士ややくざにとっては大きな意味を持ちました。しかし、本作ではそれが別の事件の重要な手がかりとなっており、物語の鍵を握っています。

+ 菓子売りは情報屋でもあったのですか?

はい、そのように描かれることが多いです。菓子売りは、様々な場所を歩き回り、多くの人々と接するため、自然と情報が集まりやすい立場にありました。本作のお鹿婆さんのように、彼女たちは単なる物売りではなく、噂を広めたり、情報を売買したりする「情報屋」としての一面も持っていました。捕物帳において、彼らから得られる情報は事件解決の重要な糸口となることがよくあります。

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