講釈西遊記

講釈西遊記

 一九九五年頃の作品

 それは、世界がはじまって間もないころであった。
 大海の直中には、須弥山という山があり、そのまわりには東勝神州・西牛賀州・南膽部州・北倶蘆州と呼ばれる、四つの大陸が存在した。 東方四大陸と呼ばれる、仏法世界である。  物語は南膽部州、大唐国よりはじまる。  花は美しく、河はゆるりと流れている。土地は肥え人心もなごやかな、天下第一等の地であった。
 世は太宗皇帝の御世。年号を浄観といい、即位して十二年になる。 皇帝は仏法の信仰厚く、国中の寺院が栄えた時期でもあった。
 妖怪どもがはびこり、隣国とも油断できない関係ではあるが…… 天下は、おおむね、太平であった。

 

第一章 高僧と悟空


弱る三蔵、東大寺へ行く

 花果山はさほど高くない山だったが、その山頂には東大寺があった。
 大唐国の都、長安の北方にあり、五行山という五つの山を背後にひかえた、天地水冷の地として知られている。
 東大寺は仏教をとうとぶ修行僧の寺であるが、同時に武術の総本山としてもおそれられ、老若の男子が修業にあけくれている。
 その山門を叩いた、一人の高僧がいた。

 高僧、名を、玄奘三蔵といった。
 都にある洪福寺にいたが、このたびこうしてはるばる東大寺にあらわれたのにはわけがある。
 山門を叩いた三蔵は、あらわれた僧たちに手厚いもてなしを受けた。
 東大寺ではすべての僧が、武術を修業すると聞いたが、どうしてなかなか丁重である。それもそのはず、この三蔵は、長安にも数人しかいないとされる、五百羅漢の一人であった。ここの住職とも懇意の仲だ。
 大雁和尚は三蔵の来訪を心からよろこび、さっそく方丈(住職のいるところ)に招いた。
「おお、三蔵殿、おひさしゅう」
 大雁はさっそく両手をあわせると、目を閉じ頭をたれた。年若の三蔵にも礼儀をそこなわないところは、さすが練れた人物である。
 長くひげをのばした老和尚のまわりでは、寺の高僧たちが、同じように深々頭を下げている。
「住持殿もおかわりなく」三蔵がぺこりと返礼をすると、
「ところで今日はどんなご用件です?」
 大雁和尚はニコニコとして尋ねた。
 三蔵が顔をあげると、和尚はようやくこの人のみなりに気がついた。
「はて、三蔵殿は女御のはず。その格好はどうなされた?」
 大雁がわずかに眉をしかめれば、まわりの僧たちもざわつく。
 この三蔵、実は見目美しき女性であった。なのに今は男の身形をしている。
 今日の三蔵は、頭に頭巾、身には絢爛な袈裟を左肩にはおっている。しかし、これは男は左肩でよろしいが、女は右肩にはおるものである。
 頭部に九つの輪のついた、九環の錫杖を持っているが、これも女は八つでなくてはならない。
 人々はこれにより、性別を見分けるのだが、まぁそんなものを見なくとも、顔を見ればたいてい区別はつく。
 問題は、なぜ玄奘三蔵が、そんな格好をしているか、である。
 東大寺は女人の立ち入りをかたく禁じているが、僧ならば別である。三蔵は、あらゆる学問に精通した名僧だ。わざわざ男のなりをする理由がない。
「実は……」
 三蔵は哀しげに視線をかたむけると、話をはじめた。

 長安には托羽という太子がいたが、ある日狩りに出ていたこの太子に、三蔵は運わるく見初められてしまった。
 三蔵が五百羅漢の一人と知った上である。並みの美貌ではなかったのだろう。
 細面でやわらかげな印象を受ける容貌と、隠しきれない才色が優雅な挙動となってあらわれている。太子の妻としても申し分ない。
 以来、托羽太子は足しげく洪福寺に通ってくる。
 大唐国の世継にほれられたのだから、ふつうなら、卒倒しかねるほどの栄誉である。
 しかし、残念ながら三蔵は出家をした身。しかも、五百羅漢(徳のきわめて高い僧におくられる称号)の一人に数えられるほどの徳の高い僧である。
 三蔵は太子の申し出を丁重におことわりしたが、それでは托羽の体面は丸潰れだ。
 もともとこの太子は素直に引きさがるような男ではない。あの手この手と、四十八手の裏表をつくし、三蔵をてごめにしようとしたが、この女僧はちっともなびかない。業を煮やした托羽太子は、怒って三蔵にいやがらせをするようになった。
 太宗皇帝は申し分ない名君であったが、この托羽太子は世継でありながら評判がよろしくない。
 太宗皇帝の唯一の欠点は、息子をかわいがりすぎたことである。
 ある日、太子は西方にあるという天竺国の話を聞き、あろうことか、三蔵に西天までおもむき、不老長生の薬をとってこいと命じた……。

「なんと天竺までっ」
 話を聴き終えた大雁は、仰天して叫んでしまった。
 天竺など存在すらもあやうい西方浄土である。釈迦如来の住まうその土地に行けば、一切の諸悪が許されるという極楽浄土だ。
「托羽殿は父である皇帝のためであると……」
 と当の三蔵も弱り果てている。
 三蔵は、月が変わらぬうちに、都をたたねばならぬのだという。
「托羽殿め、ご無理を言いなさる。きっと三蔵殿があきらめて、自分のところに来るのを待っていらっしゃるのでしょう」
 と、大雁はわけ知り顔でうなずいた。
 月の終りまではまだかなり日がある。時間をおいて、三蔵の心変わりを待っているにちがいない。
 住持の説明を聴くと、義侠心にあつい東大寺の僧たちはいきり立った。
「なんと、それではむちゃくちゃではないかっ」
「そんな命令を聞く必要はない。ずっとここにおりなさい」
 なにしろいずれも必殺の武術を身につけた男たちである。
 居並ぶ坊主たちが口々にいうので、今度は三蔵の方が慌ててしまった。
「いえ、それでは寺にご迷惑がかかります。それに天竺へ行った例がないわけではありませぬ……」
 と三蔵は自信なさげに答えた。
 一昨年、天竺に旅立っていた孝達という徳の高い僧が、経典をもって大唐国にもどってきたのである。
 経典、しめて五十一巻は全て本物だったが、孝達は身元の大千寺に引きこもってしまい、人々の間には、天竺にたいする不信感がつのっている。
「あんなものは本当かウソかもわからぬ」
 五海はまだ怒っている。しかし、
「太子のわがままを聞くいわれはありませぬが、はなから出来ぬことと決めつけたくはありませぬ」
 三蔵は右手の錫杖を握りしめた。
「な、なにを申される。西域には人跡もおよばぬ未到の地が多くあるのですぞ。妖怪どもの数も比ではない。女の足でたどりつけるとは到底おもえぬっ」
 五海の熱弁に、僧たちは大きくうなずいたが、
「これも御仏の与えられた試練かと」
 三蔵はいやにしっかりとした声で答えたことだった。
 男もおよばぬ思い切りのよさに、五海たちの口から、嘆息がもれる。
 大雁は三蔵のきらきらと輝く双眸をのぞきこんだ。真っすぐな、めったにないいい眼である。
 大雁はひとりごちてうなずき、すべてを飲み込んだような顔になった。
「わが寺になにをもとめなさる」
 と聞いた。
 三蔵は、
「天竺までの供をお借しいただけないでしょうか?」
 と答えた。
 三蔵は東西無二の名僧だったが、妖怪退治の術を身につけているわけではない。その点東大寺ならば、拳法仙術なんでもござれだ。
 都でも指折りの名僧玄奘三蔵が、長く大唐国にきらわれてきた東大寺を頼ってきたのである。義をおもんずる僧たちが、意気に感じぬはずがない。
「なるほど、わが寺の僧なら護衛は適任といえる」
「しかし、天竺までの供となると……」
 五海たちは返答に窮した。
 この大唐国でさえ、長安の都をはなれれば妖怪にでくわする。
 西方三十六国といえば、未開の地もいいとこである。魑魅魍魎がはびこり、妖怪どもは野放しだ。
 いくら東大寺の僧といえど、天竺までの苦難の道を考えると、供は並大抵の者ではつとまるまい。
「悟空しかおるまい……」
 やがて大雁がぽつりと言った。
 すると、それを聞いた僧たちの顔が、一瞬ぱっと輝いた。
「おお、悟空の腕ならば」
「し、しかし、あの者は……」
 五海が言いつのると、まわりの顔が思い出したように曇りはじめた。
「どうなされました?」
 三蔵も不審げに表情をゆがめる。
 彼らはチラリと三蔵を見たが、後はためらってなにも言わない。
「悟空は金剛力士とまで呼ばれた功夫の持ち主で、腕はまちがいなく寺一番なのですが、これが手のつけられないいたずら者でしてな」
 と五海が話をはじめた。
 寺では悟空の功夫(修業のていど)が人並み外れていたため、時期武術師範にしようとまで考えていた。
 ところが、ケンカはする、小坊主をさそっていたずらはする。どうしようもない暴れ者で、寺へきて二十二年になるくせに、信仰心がまるでない。
 仏像はこわすし、他人の修行のジャマをしては喜んでいる。戒尺でこっぴどく打たれても、悟空はけろりとして懲りない。
 これでは大雁たちも、武術師範に任命するわけにはいかなくなった。もう立派な大人のくせに、行動がまるで子供なのである。悟空は、人間ができていないというよりは、子供のまま大きくなったのであろう。
 悟空の強さが化物じみているだけに、大雁たちの落胆も大きかった。
「苦心して手に入れた力をいたずらなどにつかいおってっ」
「いくら強くとも、悟空に天竺までの供などつとまらんでしょう」
 五海たちが、大雁のまわりで口々にこぼしている。僧たちの怒りぶりに、これは相当のことだと三蔵は思った。
 五海はさらに弁を立てる。
「この間など水簾洞の滝をせきとめおった」
「水簾洞?」
 三蔵が聞きとがめた。
 水簾洞というのは、五行山の一つにある洞のことである。入り口に簾のような滝がかかっているのでこの名がついた。かなりの広さを持つ洞で、悟空のような修行僧が、ここで寝起きをしている。
 二ヵ月ほども前に、悟空がよせばいいのに、むらむらといたずら心をおこして、この滝の水をせきとめてしまった。
 せきとめられた水は当然上でたまる。悟空が見守るうち、水嵩はどんどんと増していき、最初はおもしろがっていた悟空も、ついには色をなくしてしまった。
 悟空はしくじったと慌てたが、もう後の祭りである。
 急いで堰をはずしたが、せきとめられていた水が消えるわけではない。滝口めざして怒涛のごとく流れてしまった。
 押し寄せた水は水簾洞にまで入りこみ、中にいた修行僧たちが、あやうくおぼれ死ぬところであった。
 怒った住持が悟空を破門にしようとしたが、悟空の師、四海のとりなしによって、ようやく許しを得ることができた……。
 話を聴いた三蔵は、あまりのいたずらぶりにしばらくは声も出なかったが、こらえきれずにやがてツバをふくと、腹を抱えて笑いはじめた。
「三蔵殿、笑いごとではありませぬっ」
 五海の叱責に、三蔵はようやく笑いをおさめた。
 五海はこんこんと、これまでの悟空の悪事の数々を語り出した。
 話を聞いていると悟空というのは、相当のいたずら好きのようである。小さないたずらから大きないたずらまで、実によく働く。
 三蔵がおもしろかったのは、悟空がいたずらは天才的なくせに、隠れるのはおどろくほど下手なところだ。寺をまきこんでの騒動を起こしては、もっとうまくやればいいのに、必ず見つかるのである。他の小坊主たちと一緒にいたずらをやっても、怒られるのは彼が一手にひきうける。
 この僧見習いのおかしなところは、こっぴどく叱られてはしょんぼりしているところだ。叱られるたびに、しっかり懲りているのである。そのくせ一晩たてばけろりと忘れて、またいたずらを繰り返す。
「悟空がきて以来、ろくに枕を高くして寝むれん」
 五海は不満げに口をとがらせたが、三蔵はムラムラとその悟空という青年僧に会ってみたくなった。
 大唐国の皇帝すらおそれをなした東大寺の首脳陣が、そろってこの子供のような見習い僧に、頭をいためさせてているというのが、なんともおかしいではないか。
「その悟空という僧に、一度会わせてはいただけないでしょうか?」
「さ、三蔵殿、なにを言われるっ」
「まさか、悟空を連れて行く気では……」
「ええ」
「おやめなさいっ、あんないたずら者が一緒では、余計な厄介ごとがふえるだけですぞ」
「ですが、腕は立つのでしょう?」
 これには彼らもなんとも答えられない。
「天竺までの道のりは、妖怪変化との戦いの旅でもあります。そういう時、悟空のような性格の者が必要だと私は思うのです」
「なるほど……」
 五海は納得してしまって、なにやらアゴをなでている。
「五海殿っ」
 脇で僧が彼の服の袖を引っぱった。
「これも仏の縁。その者に釈迦無二の教えを説くことも、修業の一環でしょう」
 三蔵は手をあわせると、むにゃむにゃと祈った。
 五海たちは窮した。三蔵の言い分を聞くと、悟空もあながち適任なのではないかと思えてくる。
 天竺までの長く苦しい道のりも、悟空ならば笑い飛ばしてしまいそうな明るさがある。それにあやつは妖怪相手に逃げだす玉ではない。
「住持殿……」
 五海たちは、なんとも弱って大雁をみた。
「うむ」
 大雁はまつげの裏に隠れたまなこをチロリと開け
た。
 三蔵の目は子供のように輝いている。どうやら本気らしい。
「五行山を知っておられるかな?」
 大雁はちらりと聞いた。
「五行山?」
 三蔵は東大寺にきたのは初めである。知るはずがない。
 東大寺は同じ仏門ではあるが、なにぶん都からはなれているのでその内部に関しては、長安でもくわしく知る者がなかった。それに、この寺は仏僧でありながら、武術をまなぶという特異性をもっている。
 東大千僧、長武にまさると言われ、これは東大寺の僧がその気になれば、都の軍隊もかなわないという意味だ。
 歴代の皇帝は東大寺をおそれ、一時期弾圧までくわえたというから、尋常の話ではない。
 三蔵がまっすぐ東大寺を訪れたのも、この話を何度も聞かされていたせいであった。
 爾来、東大寺と大唐国は絶縁状態にあったが、太宗皇帝の世になって、ようやく都への出所を許された。
 太宗皇帝は、仏教にたいする信仰あつく、当代は全国の仏縁の寺がもっとも栄えた時期でもある。この東大寺とて例外ではない。
 長らくつづいた苦しい時代が終り、花果山にもようやく光がさしたわけである。
 五海が後ろの障子窓を開けた。三蔵からは正面にあたる。
 障子が引かれたとたん、三蔵の目に、えも知れぬ風景がとびこんできた。
 五つの山が、圧倒的な質感をもって迫ってくる。三蔵は天地の見せる奇跡に、しばし息をのんだ。
 夏の向暑で、蝉の音がさわがしかったが、それがなんともこの絶景にあう。山紫水明の名に恥じぬ景観である。
 天をつくドシリとした山に、谷川の水が流れ、幾本もの滝が、断崖を落ちてくる。
「悟空がおるのは」
 大雁の声に、三蔵はようやく我にかえり、視線を転じた。
「あの山です」
 と左端の山を差した。
 大雁はそれぞれの山を指差しながら説明をはじめた。
「左から、武、仙、智、礼、心。武の山では身を守るための武術を学び、仙の山では仙術を学びます。智の山では仏にかんする知識を得、礼では万人に対する礼儀をまなぶ。心とは仏の心をさとる場です。悟空は武の山の水簾洞におります」
 大雁は端の山を指で示した。
 五行山、武の山である。
 三蔵の口から感嘆の吐息がもれた。ここまで規模が大きいとは思ってもみなかった。昔から東大寺には、千人をこす男僧がいると言われてきたが、あれは本当だったのだ。
「悟空は得度もすませておりませぬ」
 別の僧が溜息をまじえて言った。
「得度をすませていない?」
 三蔵が問うと、大雁がうなずいた。
「わが寺では、まず武と仙をまなび、智の山にのぼる前に、正式な仏弟子となるわけです。それぞれの山には何年いてもよいことになっておるのですが、普通はながくいても二、三年といったところでしょう。各山には後で戻ることもできるのに、悟空はいっかな武の山をおりようとせんのです」
 大雁が言い終わるのを待って、五海が続けた。
「二十年以上も寺におって、覚えたのが武術だけですよ。御仏の教えをなんと心得ておるのか」
「はぁ」
 こちらにふられても、三蔵にはなんとも言えない。
 三蔵は悟空に仏の知恵をさとすことこそ、自分の使命のような気がしてきた。托羽にみそめられたのも縁なら、こうして悟空の話を聞いたのもなにかの縁ではないのか?
「その水簾洞まで案内していだけないでしょうか?」
「やはり悟空にお会いなさるか」
「はい」
 三蔵の答えに、大雁がうなずいてみせた。「そういうことなら、四海殿を呼びましょう」
 五海が方丈を出ていった。四海は悟空の師だ。武の山の総責任者で、現武術師範を担っている。
 五海と名が酷似しているが、これは二人が同時期に入門したためだ。
 東大寺では、広・大・智・慧・真・如・性・海・頴・悟・円・覚……この他三十七文字をもって法名となす。この文字は年毎にかわり、四十九ヵ年で一周する。名前の組合せを見れば、同期の者がわかる。
「悟空に会わせるにしても、女ということは黙っておきましょう」
 大雁のとなりで、老僧がささやいた。
「それがよかろう。よいですな、三蔵殿」
「それは、かまいませんが……」
 三蔵が小首をかしげていると、五海が戻ってきた。
 戸口に年配の僧が立っている。武の山武術師範、四海であった。
 四海は折り目正しい所作で一礼すると、武術の達人らしく、微塵の無駄もない動作で入ってきた。
「およびですかな、住持殿」
 四海は、ちらりと三蔵に視線を走らせながら、大雁に聞いた。
「うむ、用は他でもない、この三蔵殿のことじゃ」
 大雁はこれまでの経緯を語って聞かせた。
「本当に悟空を連れていくつもりですかっ」
 四海が信じがたいといった表情で問いかけるので、三蔵は少々とまどった。
 はい、と答えると、四海はあきらかに動揺した様子で大雁をみた。
「天竺までの旅程を考えると、この苦難を乗り越えられるのは、悟空をおいて他にない」
 大雁はきびしい口調で言い切った。
「たしかに悟空ならば勤まるやもしれませぬが……それに悟空は水簾洞を出たがりませんよ」
 四海は気がすすまないようだ。
「三蔵殿の御意見は?」
 四海に向き直られ、三蔵は背筋をしゃきりとのばした。
 口調から察するに、四海は悟空を手放したくないらしい。しかし、三蔵はもう、天竺までの供は悟空をおいて他にないと決めこんでいる。
 一つは、悟空の腕が、武術にひいでた東大寺の高僧を凌ぐほどに立つこと。もう一つ、これがもっとも気を引くのだが、三蔵には仏のみちびきのように思えてならないのである。
「大雁殿とおなじです。悟空を供に天竺まで連れていきたい」
「なぜに?」
「よくよく話を聴いた上での答えです。仏の思いのなすままに……四海殿、悟空をわたしにお貸しくだされ」
 三蔵は手を組み、こうべを垂れた。
 はじめはしぶってみせたが、そこは一芸を脱しただけはある。武の山をまかされた四海のこと、こうまでされては断るわけにはいかぬ。
 あきらめた。
「わかりもうした。今回の件は、托羽殿のあまりの義理なきこと。この上は天竺までの道を踏破することこそ、精一杯の面当てでしょう。そのためには悟空の力がいると申される……」
 四海は、また、わかりもうしたと繰り返した。


水簾洞の悟空

 花果山の裏門を出ると、きちりと整えられた大道が、真っすぐに五行山まで延びている。
 武の山への案内は、当然四海が買って出た。これに大雁と五海が加わり、三蔵の同行者は三人になった。
 東大寺の最上位をしめる三人が従うのだから、三蔵がどれほど丁重に扱われているかがわかる。初夏の山並木の中を、土を踏みしめ踏みしめしながらのぼっていった。
 そそり立つ五行山は、ちょうど夏ということもあって、正に天を衝かんばかりの雄大さであった。
 四海は水簾洞までの道中、東大寺についていろいろと話をしてくれた。
「東大寺は捨て子寺とも呼ばれましてな。食い詰めた両親が赤子を置き去りにしていくのです。そのせいか、あちこちの捨て子が届けられ、このように大人数になってしまうわけですよ」
 ふわりと微笑した。どこかさびしげでもある。
 三蔵は、残念なことです、と答えた。四海はうなずくしかない。
「中には悪業がたたって親に入れられる童もおりますがな、そんなものは稀ですよ」
 足元を見つめたまま、大雁は地面を確かめるようにして登っている。顔は微笑っているが、声に湿り気がある。
「多くの子供が母親を知らずに育つのです。修業がいやで逃げ出しても、どこにも行くところなどありません」
 続いて言った五海の言葉に、三蔵は胸がいたんだ。ここはまさしく捨て子寺なのだ。
 大雁や四海たちとて、元は捨て子だったにちがいない。
 東大寺は故郷で家だった。どこにも行くところがない、それは幼き日の彼らが痛感した思いだったのだろう。
「悟空もですか」
 この問いに、四海はにこりとうなずいた。少し空を仰いで、思い出すように口を開いた。
「あれがこの寺に来たのは真冬でしてな。なんともよく泣く赤子でした。吹雪のなかにとり残されておったあの子を、わたしが見付けたのです。あかぎれを起こした小さな手が、なんとも不憫でしてなぁ」
 三蔵は黙って、前を行く四海の背中をみつめた。その背はわずかにまがっている。月日がそうさせたのだろう。
 寺に来て六十余年。その技は円熟の域を越えた。肉体は衰え、これ以上の上達はない。
 だが、四海は悟空を手に入れた。今まで築きあげた羅漢流の全てをたくし、死んでいける。武術家としての四海は、幸せな男だった。
 骨身を削って磨き上げた術が、誰にも伝えられぬまま、己れの代で絶える。耐えがたい悲しさがあった。
 少なくとも、四海は悟空と出会ったことによって、そんな寂寥感から逃れることができたのである。
 天賦の才をもった弟子にめぐりあえ、到達することのできなかった境地への夢を託すことができた。
 この頃の四海は、同輩の五海が見ても、はっとするほど穏やかである。いつ死んだところで悔いの残らぬだけの気構えができたのだろう。これも悟空のおかげだった。
 四海は悟空にとって、師であること以上の存在だ。言わば父も同然なのである。そして、四海にとっても悟空は息子も同然であった。
 悟空は四海の言うことなら逆らわない。かわいがってくれているのがわかるのだろう。
 いくつになっても山を降りない悟空が、四海もかわいいらしかった。
「悟空は武術が好きでしてな。苦練苦行を惜し気もなくつんで、あれほどの強さを手に入れたのです。今ではわたしより腕は上でしょう」
 振り返り、うれしげに笑う。
「四海殿がそうだから、悟空がつけあがるのですっ」
 五海がとがめるが、四海は意にも介さない。彼だけは、いつまでたっても悟空の味方なのである。
 五海はうなるような声を上げた。
「そのかわり小坊主たちにはやさしいですよ」
 四海は自慢げだ。五海はあきれて物も言えなくなった。
「あれはさびしがり屋でしてな。悟空がいたずらをするのはそのせいです。かまってもらえないと、不安になるのでしょう」
 ときおりさびしそうにポツンと座っている姿を見ると、妙にいとおしくなるのである。
 四海のあたたかい目が、三蔵を射抜いた。三蔵は胸を打たれる思いがした。
「悟空には悟空のよいところがあります。これからは、そのよい部分も見てやってもらえますか」
 大雁の言葉は懇願だった。悟空を見捨てないでくれと、受け入れてやってくれと言っている。
 三蔵はそれを聞いて安心した。寺に集まる捨て子たちも、ここならば俗世にいるより幸せではないかと思える。
 大雁たちは、どんな者も愛せる包容力をもっている。三蔵は悟空を連れだすのは、まちがいではないかと思えてきた。
 寺にいるかぎり、悟空は幸せなのだ。少なくとも妖怪などと戦う、殺伐とした日々を送らずにすむ。
「もうすぐです」
 四海の声が、三蔵の思念を断ち切らせた。
 かすかな瀑音が届いてくる。鼻孔を心地よい湿り気が漂った。水簾洞に近づいたにちがいない。
 清浄な空気が辺りを包んでいる。滝の音はしだいに大きくなっていった。
 感覚が明瞭としてくる。ここは霊山だ。五感が澄んで、力がみなぎる思いがする。眼を閉じても景色が見えそうだった。
 山道を折れ曲がると、木々の陰から巨大な滝があらわれた。
 大量の水が中天より落ちてくる。それは圧倒的な力をもった光景だった。水しぶきが霧にかわり、光の加減によって虹が生まれる。
 地を穿つ水が飛沫となって周囲にとびちる。子供たちの嬌声が聞こえてきた。
 滝壷で、まだ小さな少年僧が自由気ままに泳いでいる。三蔵はついうれしくなってきた。
 彼らは立ち止まっている大雁たちに気づいて、手をふってよこした。
「ここが水簾洞です」
 四海が石碑を叩いていった。
 花果山福地 水簾洞洞天、と彫られている。「これが……」
 なにかを言おうとして、三蔵は言葉を失った。とても形容できるものではない。あえて言う必要もなかった。
 上はかすむほど高く、下には澄んだ滝壷が今も水を受けている。三蔵はこれほど透明度の高い水ははじめてみた。
 轟々という音が耳をついて痛いが、こんな所で暮らせたら、素敵だろうと思う。
「すばらしいところですね」
 三蔵の素直な感想に、四海たちはニコリと笑った。
「水簾洞は滝の裏にあります」
 言いながら、四海は淵を歩きだした。
 その隣を、上半身裸の子供たちが駆け抜けていく。三蔵の表情にふっと笑みがもれた。
「修行僧がずいぶんいますね」
「武の山だけで、三百人です」
 大雁がにこにこと答えた。
 滝の真横にまわると、流れる水と崖の間にかなりの空間があった。岩を削った道が、反対側までしかれている。中央あたりに洞があった。
 水しぶきがかかって、なかは湿気ている。光が白滝を通して射し込んでいる。
「滑らないよう気をつけてください」
 四海が先に立った。
 内側からみると、滝はまるで壁だった。
 岩肌に手を触れると、しっとりと濡れている。錫杖にしぶきがかかってシャランとなった。
 四海が水簾洞に消えた。三蔵がつづいて入ると、耳を聾せんばかりの轟音がぴたりと途絶えた。
 中は涼しく、意外なほど乾燥している。驚くほど澄んだ霊気がただよっていた。
「おどろかれたでしょう」
 ぽかんと口を開けた三蔵に、四海がいたずらっぽく笑いかけた。
「夏は涼しく冬は暖かいんですよ。不思議でしょう」
 大雁が続けて言った。滝の裏にある洞にしては、確かに不思議な話だった。
「広銘や。悟空はどこにおる?」
 四海が入り口にいた見習い僧の一人に尋ねた。
「師兄(兄弟子)なら、奥で寝てますよ」
 広銘と呼ばれた小坊主が、珍しげに三蔵を見ながら答えた。つるつるとした頭がなんともかわいい。
「お前たち、少し外へ出ていなさい」
 大雁が言うと、洞の奥から小坊主たちがワッと駆け出てきた。
 その数の多さに、三蔵はヒャッとなった。「見なさい、四海殿。子供たちはすっかり悟空の悪影響を受けておる」
 五海が憤然として迫った。
「悟空はよく面倒を見ていますよ」
「いたずらの先導をやっておるだけだ。あれではガキ大将ではないかっ」
 大真面目に怒る五海に、三蔵はつい笑ってしまっ
た。
 少し進むと、視界がぐっと開けた。見渡してみると、そこは半円の天蓋を持つ空洞である。
 天井は高く、ぐるりと広い。岩棚に毛布がしかれているのを見ると、ここで寝泊りもしているようだ。
「年少の小坊主が、五十人は寝起き出来ます」
 と大雁は奥に歩いていった。
「師兄、起きてくださいよっ」
 すると、さきほどの広銘とやらが、誰かの肩をゆすっている。騒ぎに乗じて、奥へとって返したようだった。
「広銘っ」
 四海があきれたような声を出すと、広銘はぎくりと飛び上がった。三蔵たちには目もくれず、ドタドタと出ていった。
「やれやれ」
 五海は肩も落とさんばかりに溜息を洩らしている。
 三蔵が広銘のいたあたりに眼をやると、ひときわ大きな寝台があった。こちらに背を向けて長々と横になっている男がいる。
 三蔵は、これが悟空かとひとりごちた。こちらに背を向けた格好が、本山で聞いたいたずら者と、妙に合っているのである。
「悟空。起きなさい」
 五海が揺すっても悟空は起きない。
「これ、悟空」
 四海が声をかけると、悟空はノソリと身体を起こ
した。
 三蔵はその頭に髪が揺れていることに気づいておどろいた。
 悟空は得度していないと言っていたから、髪を切っていなくても別に不思議はない。そういえば、さきほど見た子供たちも、髪の有る無しはまちまちであった。
「なんです、師匠」
 悟空は眠たげにまぶたをこすっている。ようやく目を開けて、物憂げに頭をもち上げた。
「あっ、大雁和尚」
 大雁の姿をみとめ、悟空はぎょっと叫んだが、すぐに後ろに立つ三蔵に気づいた。
「誰です?」
 悟空は妙な顔をしている。三蔵が彼にとってはあまりに不審だったからだ。
 背は大雁と変わらないし、顔が整いすぎている。どう見ても男とは思えなかった。
 しかし、悟空は女を見たことがない。妙な物でも見るような顔で、寝台から降りてきた。実際、悟空は三蔵のことを、妙な男としか思っていない。
 三蔵は悟空を見上げねばならなかった。起き上がって立つと、ぐっと背が高いのである。
 とてもこの男が、東大寺を荒らす乱暴者とは思えなかった。筋骨はなるほどたくましいが、相貌は鼻筋がとおり、一国の太子と呼んでも差し支えがなさそうだ。
 三蔵は寺に着いた時から不思議に思っていたのだが、武術をやるはずの東大寺の僧が、ハンで押したようにそろって痩せていることだった。
 逞しいことは逞しいのである。だが、都にいる兵士や無頼漢などは筋肉も隆々として、いかにも武人然としている。
 東大寺随一と言われる悟空さえ、常人とさして変わらないように見える。
 彼らの体は伸縮自在である。全身が柔軟な鋼で覆われているようなものだ。普通にしているとわからないが、少し力を入れただけで服の下の筋肉がグイグイともり上がる。無駄な肉など一片もない。細く強靭な筋肉だった。
 三蔵はようやくそれだけのことに気づいた。同時に自分の眼力の無さを恥じた。おそらく東大寺の武芸は、都の物とは異質であるにちがいない。
 そう思うと、四人の僧がとてつもない強さを秘めた達人であると、実感できるような思いがした。
 悟空はまだ若かった。四海は二十二だといっている。してみると、三蔵より二つは若い。
 顔が整っているせいか、少し托羽に似ている気がする。しかし、体付きのせいか、受ける印象はまるで違う。
 都にいた托羽はなんとも脆弱で頼りなげだったが、こちらは堂々たる体躯をした美丈夫だ。
 悟空は自分の姿にはすこしも興味がないようで、一向に生傷の絶えない顔で三蔵をのぞきみた。
 三蔵は昔から顔を見られるのには馴れている。まじまじと悟空の顔を見返した。
 悟空はますますおもしろそうに眼をくるくると回している。多くの子供がそうであるように、好奇心が旺盛らしい。さもおかしそうに笑っている。
 ところが、大雁たちは悟空の無遠慮な態度に肝をつぶさんばかりに驚いた。
 三蔵は若いといっても、五百羅漢の一人である。
それに悟空は勘がいいから、あんまり見られて女とバレてもこまる。
「これ悟空っ、失礼であろうっ。三蔵殿は五百羅漢の一人であらせられるぞ」
 五海が服の裾をひっぱったが、背丈が違うせいでぶら下がっているようにしか見えなかった。
 悟空は、これもいつものことで、大雁たちの心配をヨソに、ますます愉快そうに三蔵に見入ってしまった。
「じろじろと見るでないわっ。初対面の方に無礼であろう」
 大雁がわめいたので、悟空はようやくそちらに視線をはわせた。
(袈裟を着てるな)
 なるほどと思った。袈裟を着れるのは徳の高い僧だけである。
 悟空はおもしろそうに瞳を輝かせながら、三蔵の顔を指でさした。
「この坊さん、ほんとにえらいんですかね。手足なんか、ヒョロリとしてまるで女みたいだ」
 悟空はフンフン匂いまで嗅ぎはじめた。三蔵は内心ヒヤリとした。この野生児の五感は常軌を逸している。気づかれたかと思った。
「馬鹿者、普通はわが寺のように武術などやらないのだっ」
 五海は青筋をたてて怒ったが、悟空の感覚では強い方がえらいのである。五海の言い分にも小馬鹿にした笑みで、ふふんと鼻をならしただけだった。
 悟空が自分のことを弱い男としか思っていないようなので、三蔵は少々安心した。
「すみませんな。この通り礼儀を知らん奴でして」
 大雁は三蔵に向き直ると、悟空が驚くほど丁寧にわびた。
 悟空はわびを入れるばかりで、あやまられたことなど一度もない。ムラムラと怒りを覚えたが、大雁たちはあやまることなど何もしていないのだから、これは怒る方が無茶である。
「いったいなにしに来たんだっ。俺はなにもやってないぞ」
 面とむかって、礼儀がないと言われたのにも腹が立つ。悟空は俄然立腹した様子で、用件を問うてきた。
「これからは三蔵殿を師匠と呼ぶのだ」
 四海が表情もなく言った。
 悟空は愕然となった。
「な、なんでっ?」
「三蔵殿はこれから天竺までいかねばならんのだ。お前はその供をせい」
 悟空は凄まじいまでの眼で大雁を睨みすえた。
「冗談じゃねぇ! なんで俺がこんな奴の世話をしなきゃならねぇんだ! しかも師匠と呼べだって? いくら四海師匠の頼みでもそればっかは聞けないや!」
 憤然として喚きはじめた。
 この二十二年間、悟空はろくに武の山を降りたことがない。花果山に出向くのも、決まっていたずらをやらかした後だった。
 悪いことをしたから本堂に行くのである。なにもしてないのに連れていかれるのは、これは悟空にとっては大変な没義道だった。
 しかも、四海は言外に寺を去れと言っている。これはとても聞けた命令ではない。
 悟空は両の手足をふりまわして暴れはじめた。
「そこを頼む。悟空」
 とこの時、三蔵がはじめて声を発した。
 水簾洞一杯に響きわたる大声で、怒鳴りちらしていた悟空だが、三蔵に見つめられてすっかり当惑してしまった。なんせ人に物を頼まれるのは初めてである。
 悟空はすっかりいい気になって、胸をのけぞらせた。
「俺は天竺なんていかないぞ。いきたきゃ一人で行けばいいだろう」
「お前、天竺がどこにあるのか知っとるのかっ」
 五海が呆れて聞いた。
「いや」
 悟空の返事はあっさりしたものだ。
「天竺ははるか西にあるのじゃ。たどりつくには多くの難所を越えねばならない。妖のたぐいも大唐国の比ではないのだっ。護衛がいるのは当然じゃろうがっ」
「そんなこと俺が知るもんかっ」
「こんなこと世間でも常識ではないか!」
「ああれれ、あれあれおかしいぞ。東大寺は俗世じゃないっていうくせに!」
 言い争う悟空と五海に、大雁和尚はやれやれと溜息をついた。
「悟空よ。天竺までの旅はお前でなくてはつとまらんのだ。三蔵殿はお前の話を聞いた上で、尚お前をお選びになられたのだ。ここでその義を果たすのが東大寺の僧たるつとめではないのか」
 睨み据えられ、悟空はハタと押し黙った。かと思うと、今度は歯をならして唸りはじめる。
 悟空とて武術家である。義の言葉を持ち出されては、無下にことわるわけにもいかなかった。
 確かに三蔵は弱そうである。というより強いはずがない。鍛えた後が、微塵も感じられないのだ。
 だが、この点に関して悟空はあやまっている。三蔵は都でも屈指の法力僧なのである。
「寺に残りたいおぬしの気持ちはわかる。だが、私の話も聞いてはくれまいか」
 悟空は困り果てた。どうもこの三蔵という坊さまはやりにくい。
 話していると、言うことを聞いてやらなければならないのではないのか、という気になってくる。
 それは三蔵の人徳がなせる技なのだが、そんなことに気がまわる悟空ではない。
「三蔵殿の助けになるというなら、妙意棒を貸してやろう」
 この言葉に、悟空の肩がぴくりと動いた。
 妙意棒というのは寺に伝わる神器の一つで、伸縮自在の棍棒のことだ。
「妙意棒……」
 もはや呻くように呟いた。
 悟空はこの妙意棒が欲しくて仕方がなかった。何度か持ち出そうとしては、そのたんびに見つかって、こっぴどいめに合っている。
 それを寺を出さえすればただでくれると言っている。
 悟空はモゾモゾと身体を揺すりはじめた。心が動いた証拠である。
 妙意棒。あれが手に入る。これは一大事であった。(なんとか旅なんぞに出ずに、妙意棒だけいただけないものか?)
 悟空は眉間に深いシワを刻みこんで、ウンウン唸りはじめた。
 あれが自分の物になったらどんなにかいいだろう。だが、その報酬に坊さまの御供なんぞまっぴらごめんである。
 四海を見ると、こちらに眼を据え、ゆっくりとうなずいた。今、この場には自分の味方となってくれる者は、誰もいないのだと悟空は悟った。
 悟空は利口な男である。とりあえず話を聞くことにした。
 天竺というものにも、三蔵にも興味がある。ここは一つ、この坊主の話を聞いてやることにした。
 悟空は枕元の棍棒を素早くさらった。
「わかった。でも話を聞くだけだぞ、天竺なんていかないからな」
 そう言って悟空が手近の椅子に座ろうとすると、大雁がすばやく取り払った。
 武の山にある家具類は修業のため、これすべて石造りである。茶わんや箸など鉄で出来ている。大雁は百貫はありそうな石作りの椅子を軽々と持ち上げた。
 今や座らんとしていた悟空が、尻餅をついて尻をさすっている。
「いつつ、なにしやがるっ」
「今日は寺でねるのだ」
 唐突に大雁が言った。
「な、なんでだっ? 俺は山を降りないぞ、話ならここですればいいだろう?」
 不意をつかれた悟空は、転んだまま狼狽した。
「三蔵殿は明日には寺を立たねばならんのだ。お前が寺まで来なさい」
「いやだっ」
 悟空の答えはいつも直接的である。
「悟空よ。そうわがままを言わず、山を降りてくれんか」
 つらそうな四海の懇願に、さしもの悟空も口をつぐむしかなかった。
 四海は自分がいなくなることを惜しんでいてくれている。それが身に沁みてわかった。そんな四海を、困らせたくはない。
「お前はさっき話を聞くと言ったばかりだろう。その約束をたがえるのか?」
 黙っていると、今度は五海がたたみかけてきた。
 約束をやぶるなんて御免だが、五海に馬鹿にされるのはもっと御免だ。
 いたずら大好き、ケンカ大好き。しかし、ウソをつくのは大嫌い。
 悟空はどういうわけか、一度約束したことは、命を落としても守ろうとする。だから、口にしたことはかならず実行する。今回はそれで墓を掘ったというわけだ。
「行こう」
 四海が肩を叩いた。悟空はしぶしぶながらついていくことにした。
 棍棒をしょっかつぎ、水簾洞を去る悟空。
 石碑のあたりで、悟空は不安そうに滝壷を見返した。悟空の兄弟分たる小坊主たちが、じっとこちらを見つめている。
 悟空はなんだか自分が乗せられているのではないかという気がしてきた。このまま水簾洞には戻れないのではないだろうか?
 悟空は鋭い。異変の前にはかならず胸がざわざわと騒ぐ。
 その悟空の直感が、もう水簾洞には戻れないことを告げていた。
 大雁がその背をおしたので、悟空は正面を向いた。もう振りかえることはなかった。
 小坊主たちが、うな垂れている悟空を怪訝な顔で見送っている。
 悟空師兄、今度は一体何をやったんだろう……?
 こうして、悟空はなれ親しんだ武の山を、下りることになったのである。

 

第二章 平天大聖牛魔王


水臓洞の牛魔王

 大唐国の国境に、混世魔王という妖怪がいる。
 深い山間の崖に、水臓洞とかかれた洞門があった。それが混世魔王の住みかである。
「あれが花果山か……」
 水臓洞の最奥で、一匹の妖怪が水晶に映る像に見入っていた。
 この妖怪、本来は遥か西域の芭蕉洞に暮らす化物で、顔は牛、人間には及びもつかない巨大な体躯をして、一声吠えれば天地も揺らぐと言われる大妖怪であった。
 このあたりの山々を統べる混世魔王も牛魔王にはかなわないらしく、本拠でデカい面をされても何も出来ないあたり、なんとも情けない妖怪である。
 牛魔王の隣では、女房の鉄扇公主が、彼の手にした杯になみなみと血の酒をついでいる。
 牛魔王の目前に置かれた水晶にうつるのは、花果山東大寺である。
「東大寺には仏に仕える僧兵がおります」
 混世魔王がしたり顔で言った。
「たしかに、僧がいるわね」
 鉄扇公主は牛魔王にしなだれかかりながら、水晶を指先で転がしてみた。
 水晶にうつるのは、三蔵と大雁和尚である。「くだらん。たかが坊主ではないか」
 かの地では、幾人もの仏僧を食い殺した牛魔王である。いまさら東大寺の僧侶ごときにひびるわけがない。
「奴ら妖怪退治までやりますんで」
 西域の奥に暮らす牛魔王とちがって、混世魔王は詳しい。
 東大寺の僧たちが、残らず武術を修業すること。そ強さのあまり、大唐国の帝でさえ手を出せないことなど、いろいろと語って聞かせた。
 これを聞いた牛魔王、ふむ、とひとまず考え込んだ。
 法力僧と言うのは聞いたことがあるが、武術までやる僧侶というのはとんと聞かない。
 混世魔王のおびえぶりは只毎ではない。この妖怪とて、この辺りを統べる魔王である。牛魔王はこの件に関し、万全を期したかった。
「芭蕉洞から手下を呼べ。今宵、東大寺へと乗り込むぞ」
 小魔どもに指示を与え、牛魔王は混鉄棒をつかんで立ち上がった。
 すると、
「用意はできたか、牛魔王」
 入り口から名を呼ばれ、牛魔王はハッとそちらに向き直った。
 やや明るい洞口に、高貴な服装をした男が立っている。
 腰にさした黄金の長剣といい冠といい、名のある人物にちがいない。が、人間の来ていい場所ではなかった。
「うぬっ、どこからきおった」
 混世魔王がさっそく斬りかかろうとすると、牛魔王の混鉄棒に突き飛ばされた。
「な、なにするんだよ、兄貴っ」
「ばかやろう! この方は俺の女房の恩人だぞ! それを斬ろうとは何事だ!」
 弱々しく訴える混世魔王を、牛魔王は大喝一声で打ち伏せた。
 熱病で苦しむ牛魔王の女房を、通りかかったこの郭羽が助けたのである。彼はニーツァイ国を訪問した帰りだった。
 ほとんどあきらめかかっていた牛魔王はたいそう喜び、郭羽を手厚くもてなした後、義兄弟の契りを結んだ。
「久しいな、兄弟」
 と郭羽太子は表情もかえずに牛魔王を見上げた。この妖怪に立たれると、郭羽は腰ほどまでしかない。
 郭羽は大唐国の第二子で、托羽の弟にあたる。二つ離れた兄とはちがい、あらゆる殺人術を修めた武の人である。
 この時二十五才。心身ともに覇気に満ち、威風あたりを払うといった観がある。
 家臣の評判もよく、第二子であることを惜しまれているような人物だった。たった一人、供も連れずに現われていい場所ではない。魔王はさっと片膝をついて臣下の礼をあらわにした。
「用意万端ととのいまして、後は赴くばかりでござりまする」
 郭羽は牛魔王には見えないよう、皮肉っぽく笑っただけだった。
「東大寺の僧は、独特の武術を身につけておる。特に、奴らの使う羅漢棍術はあなどれんぞ」
「はっ。芭蕉洞に使いを差し向けたれば、我が配下の妖魔ども、ことごとく打ち揃ってございます」
 あの牛魔王が、身長の半分にも満たない人間に平伏している。事情を知らない混世魔王は我が目を疑っていた。
 牛魔王は誇り高い男だ。まちがっても人間にはいつくばったりしない。
 しかも、あの鉄扇公主まで夫の横で平伏しているのだ。あの高慢ちきな女がだ。混世魔王には信じられない光景だった。
 しかし、混世魔王は、牛魔王が女房の恩人だと言っていたことを思い出した。
 牛魔王は妖怪ながら、義に厚い男である。受けた恩を忘れるわけがない。これなら混世魔王も納得がいった。
「いいだろう。なんとしても、宝玉を手に入れろ」
 混世魔王は郭羽の傲岸な態度が気に入らなかった。人間のくせに、棟梁を足蹴にするのが、なんとも鼻についてしょうがない。
(事がすんだら、殺してやる……)
 混世魔王は暗い一事を胸に秘めた。
「その暁には……」
 と牛魔王が言った。
「わかっている。私は約束は守る」
 郭羽がかたい声色をつかうと、牛魔王は首を垂れたままニタリと笑った。

 山間に暮色が迫っている。険しい隘路に立つ郭羽の顔が、紅色に染まっていた。
 混成魔王の水臓洞は、すでに遠い。
「その暁にはか……わかっておるさ、牛魔王」
 そう言った、第二太子郭羽の瞳が、黄金色の光を放っていた。

釈迦如来の宝玉

 本山につれていかれた悟空はさっそく方丈に閉じこめられた。
 悟空は反骨精神旺盛らしく、大雁や寺の主たる者たちが、いくら諭したところで一向に承知しない。
 なぜ自分が寺を出てまで三蔵とかいう坊さまを助けなければならないのか、悟空はまったく合点がいかなかった。
 合点がいかなければ、悟空は梃子でも動かない。この強情っぷりには、大雁たちの方が、先に根をあげてしまった。

「もうしわけありませんな。あれは利かん気な奴でして……」
 東大寺の境内を案内しながら、大雁が詫びた。三蔵は苦笑しただけだった。
 悟空がああだとは、散々聴かされていたし、直に会って知っている。それに、ああいう気骨のある男でなければ、供はつとまるまい。
 それより悟空の鼻っ柱の強さにはほとほと感服してしまった。あれほどの頑固者は、都にもいないのではないか?
 そう考えると、悟空はますます頼もしい従者という事になる。
 三蔵はついうれしくなって、浮き浮きとしてきた。少々つむじ曲がりなところをのぞけば、あんな気強い相手はいない。
 三蔵はどうにか悟空をやりこめようとする高僧らの必死の姿を思い出して、また笑ってしまった。
 彼らも悟空は好きなのだ。約束を決してやぶらないし、悪いことは悪いと認める。悟空は筋が通っているのである。
 いたずら者のへそ曲がりで、いつも理に合わないことをしているが、性根はやさしく生真面目なのだろう。
 悟空のやり口はいつも爽快で、大胆不敵だ。それがなんとも小気味よい。それに天性の明るさがある。
 三蔵はこの時には、天竺への供は悟空以外にないと思うまでになっていた。
「どこへゆかれるのです、住持殿?」
 と大雁に問う声も明るい。
 振り向いた大雁は、ひどく真面目な表情で、見ていた三蔵のほうがおやっとなった。
「あなたが真実天竺へ行くというのなら、見ていただきたい物があります」
「なにをです?」
 三蔵は眉をしかめたが、大雁は黙りこくってなにも言わない。はさむようにして立っている円来と恵角を見たが、こちらも難しい顔をしたままだ。
 三蔵とて五百羅漢に選ばれた人物である。これはよほどのことに違いないと、これ以上の質問をひかえた。おそらく、寺の存亡に関わる重要なことを、自分に明かすつもりなのにちがいない。
 大雁が案内したのは、果たして寺の宝物庫だった。
 三蔵が足を入れると、ヒヤリとした空気が総身をつつんだ。
 窓がなく、中は昼間だというのに暗闇のようだった。風通りがないせいか、湿気ていてカビ臭い。それでも毎回手入れはしているようで、埃をかぶった物はなかった。
 経典が山と積まれ、木組みの陳列棚がズラリと並んでいる。さすがに金品の類はなさそうだ。壷やつづらがそこかしこに置かれ、しんとしている。
 大雁は音もたてずに歩いていった。
 奥に祭壇がある。壁をくりぬいたような形で作られていた。紫色の布の上で、なにかが光りを放っている。三蔵はそれが宝玉なのだと気がついた。
 大雁は布ごと手の平にのせ、三蔵に見せた。「わが寺が釈迦如来よりいただいたものです」
「釈迦如来さまからっ」
 三蔵はおもわず息を呑んだ。
 釈迦如来は世界をつくったとされる仏様である。
天竺国に住み、仏法世界では最高位にあらせられる。
 世界をつくったということは、人間を作ったのも、お釈迦様である。果ては仏をつくったのまで釈迦如来ということになる。今ある仏法も、釈迦如来の教えを説いたものなのだ。 釈迦如来の名は、三蔵すら恐れ多くて口にするのも憚れるほどのものなのである。その釈迦如来より賜わったとされる宝玉。これはただの宝物どころではない。
 大雁がうそをいっているとはとても思えなかった。だが、本当だとしてもこれはどえらいことだ。
 三蔵はそんなものが東大寺にあろうとは夢にも思っていなかった。おそらく大雁たちが隠しとおしてきた秘事なのにちがいない。
 長安の都の、どんな仏寺にも、こんな書伝は伝えられていない。捨て子寺。それは寺の秘密を守る上では、このうえなく便利なものだったのだろう。
 僧侶たちの大半は、外の世界を知らぬまま、東大寺の中で死んでいく。赤子の時から東大寺にいた彼らには、俗世を知ることもない。
 東大寺は完全に外の世界から隔離された砦なのだ。ひょっとすると、歴代の皇帝から嫌われたのは、彼らがそうなるよう仕向けたからなのではないか?
「今までこれを狙って数多の盗賊、果ては妖怪たちまで乗り込んできたそうです。私の代になってからでも、宝物庫にまで侵入されたことがありました」
「妖怪までですか?」
「寺に伝わる口伝には、これを持つものは四大陸、つまり東方世界を統べることができるのだと言われている」
「ま、まさか」
 三蔵は笑おうとしたが笑えなかった。大雁の表情は固く、否定することを許さなかった。
 ゴクリ、と咽がなる。
 大雁が続けた。
「東大寺の武芸はこの宝玉を守るためにあるようなものです」
「そんな物が、なぜここに?」
「それをあなたに調べていただきたいのです」
 意想外な答えに、三蔵は一瞬とまどった。
 おそらく大雁は、三蔵が東大寺の僧を連れていくと言い出した時から、この考えを抱いていたにちがいない。宝玉の秘事をあばくことは、東大寺にとっても昔年の彼岸であったにちがいないのだ。
 まさに、この宝玉は秘中の秘である。
 三蔵は堅い面持ちで問うた。
「悟空はこのことを知っているのですか?」
「もちろん知るわけがありません。ですがあやつが旅に出るのなら、話すつもりです」
 三蔵は宝玉に視線を落とした。
「東方世界を支配するとはどのようなことなのでしょう?」
 大雁は首をかしげた。
「はて、口伝にも、寺にあるどんな書物にも詳しいことはなに一つ載ってはおりませんので、今の状況では如何とも」
「それでは、これが本物かどうかも……」
「むろん、わかる者などいませぬ」
 三蔵は絶句した。
 口伝でのみその証を伝えられてきた宝玉の正体を、探ってくれと大雁は言っている。なんの手がかりもない、荒唐無稽な話だ。
 三蔵は正直まいった。
「こんな宝玉一つで世界を統治できるなどと……」
 三蔵が怪訝な顔を見せると、大雁もうなづいた。
「我々もまったく信じているわけではありません。しかし、話半分としても、大きすぎるのではありませんかな?」
 薄闇の中で、大雁和尚の目がきらりと光った。
 確かにこのまま放っておいていいものではない。
 三蔵はごくりと生唾を飲み、また宝玉に眼を落とした。

四海と悟空

 薄暮の中、西の残り火が消えていく。
 日の暮れなずむ中、三蔵のあてがわれた居室も次第に視界がきかなくなってきた。
 行灯に灯を入れる。明かりが窓から漏れた。暗い地面に、丸い光を落としている。
 昼間はあれほど騒がしかった蝉の声も、この時間になると急にさびしく聞こえるのはなぜだろう。
「一夏かぎりの命か……」
 ポツリと声が洩れた。彼らはやがて来る冬を越せないのだ。
 自分は後どのくらいの冬を越せるのか? これからの旅を思うと、三蔵は不安を隠せない。
 せめて悟空がついて来てくれると言ってくれたなら。あの明るい男が一緒なら、どんなにか心強いだろう。三蔵にとっては実に惜しい人材なのだ。
 都の名のある武芸者には、托羽の息がかかっているにちがいない。三蔵の供には皇室の権力さえものともしない男でなくてはならなかった。その点で、同じ仏教徒である東大寺の僧は最適といえた。
 一人一人を見ても、手強い男たちといえる。その中でも最強といわれる悟空なら、誰もかなわないと思うのだ。その悟空がついてきてくれれば……。
 結局首を縦には振らず、五海たちもさじを投げてしまった。
「金剛力士か……」
 知らず、溜息がでた。
 悟空なら、あの男なら、どんな妖怪とてたやすく退けてくれる。まして、自分の法力が加わるなら、天竺もそう遠くないのではないかと思える。
「出発をのばして見るか」
 これは悟空が心を変えるまで待つという意味だった。
 三蔵は障子を開け放った。夕暮のなか、蝉の声も次第に小さくなっていった。

 花果山に夜が降りはじめた。悟空は結局寺に泊まることになった。明日になれば、また五海たちが口うるさく言うにちがいない。悟空はまったく面倒なことになったと思った。
 三蔵に義理があるわけでもないのに、このままはねつけてしまうには、どうも胸の辺りがむしゃくしゃする。ここで一方的に断っても、数日は後味が悪いに違いない。悟空はそんなものはまっぴらだった。
 要は三蔵の願いを聞いてやりたいのである。初対面だというのに、悟空はあの坊さまが嫌いではない。性格が清廉潔白なためだろう。
 その人物が困っている。助けてやりたいが、こちらの意にはそぐわない。
 悟空はますますムシャクシャした。真率な眼差しで、自分に訴える三蔵の姿が浮かんでくる。
 もっとも悟空にも利がないわけではない。大雁和尚は長年欲しがっていた妙意棒をタダでくれるという。
 問題は、天竺までの供だった。
 悟空はそれがどんなものか知らないし、天竺がどこにあるのかもわからない。第一、悟空は物心ついてから一度も東大寺を出ていないのである。
 水簾洞にいさえすれば、今までどおり幸せな暮らしを送ることが出来る。いまさらその生活をこわそうとは思わなかった。
 多くの師兄弟に囲まれて、悟空は幸せだった。山を降りた時自分がどうなってしまうのか、悟空には検討もつかない。そんなことは考えたことすらなかった。今の暮らしに不満はない。充分満ち足りているではないか。
 一番の難点は悟空が外での暮らしなど、想像したことすらないということだった。
 東大寺はまわりを海に囲まれた孤島も同じである。一般人は寄りつかないし、たとえ来たとしても花果山までだ。
 現に三蔵は五行山の存在すら知らなかった。少年僧の中には、ここ以外の暮らしがあることすら知らない者もいる。
 悟空とて、知ったのは最近のことだ。
 別に妖怪が怖いわけではない。
 東大寺は妖怪退治をうけおっている。村人の要請があれば、専門の僧侶が出向くのが決まりである。大唐国が東大寺に手を出さないのも、この点に理由がある。
 悟空は強さは申し分ないのだが、性格がああだから、妖怪退治は今まで一度もやっていない。この年になって、まだ修業を終えていないし、外に出せるわけがなかった。
 妖怪は、話だけでは悟空の想像の域を越えてしまっている。それがどんなものかわからかったし、だから怖いとも思わなかった。それに、どんなに強かろうが自分が負けるはずがないと思っている。悟空の自信はそれほどだった。
 本当に面倒なことになってしまったと、悟空はまた寝返りを打った。
 後ろでコトンと音がした。冷気が忍び込み、背中をなでる。
 四海師範が入ってきた。
 悟空はさっと身を起こした。
 四海は真正面に腰をおろす。悟空も背筋を正して向き合った。さっそく不満をぶちまけはじめた。
「師匠。師匠からもなんとか言ってくださいよっ」
「お前と離れるのはわしも辛いよ」
 四海は心底辛そうに言った。
「じゃあ、行くなって言って下さいっ。あんな坊さまと二人っきりで旅をするなんて、俺はごめんですからね」
 悟空の本音が出た。
 四海は苦笑しただけだった。それから真顔になって、「広い世界を見るのだ悟空。お前は寺を出たことがないだろう。世間は広く深いものだ。お前より強い者は大勢いる」
 悟空は鼻で笑っただけだった。
 四海は仕方なく、俗世で暮らす人々について話してきかせた。
 長安が大陸でも最大の都であること。はるか西には流沙河と呼ばれる広大無比な河のあること。
 人々は田畑を耕し、作物をつくる。運河を引き、荒地に田畑を切り開く。
 北方に暮らす騎馬民族や、彼らがおこなう年に一度の祭り。目も眩むような、宮殿でのはなやかな暮らしぶり……
 それは、悟空が今まで聞いたこともないような話ばかりだった。
 話を聴くうち、悟空の目がキラキラと好奇心に満ちて輝きはじめた。四海の話はつきることがなく、またいくら聴いていても厭きるものではなかった。
「寺を出ればわしの教えたことが存分に役に立つだろう」
「そ、そうか。寺を出れば……」
 悟空はうれしさのあまり言葉につまった。「そうだ。もう隠すことはない」
 四海はニヤリとうなずいた。
 喜色満面の悟空だったが、自分は寺を出る気がないということに気がついて、また難色を示しはじめた。
「天竺に行くのはそんなにいやか?」
 四海がこまったように聞くと、悟空は無言でうなずいた。
 天竺ははるか西天、想像もつかぬほど遠くにあるのだという。帰れるかどうかもわからない旅に、出たがるわけがなかった。
「しかしな、わしにはお前がこのまま東大寺を出ることなく、一生を過ごすことに疑問をもつのだよ。お前には金剛力士と呼ばれるほどの才能がある。わしはこの寺に来て、お前ほどの才能には巡り合ったことがなかった。これは仏の与えたものなのだと思えてならんのだ。三蔵殿は、理由はどうあれ天竺に行かねばならんという。お前の話を聞き、供として連れて行きたいといいなされた。わしには、お前はこのために寺に来たのではないのかと思えたよ」
「そんな……」
 悟空は小さく笑っただけだ。そんなバカなことがあるはずはない。
「悟空。わしはお前を忘れないよ」
 この言葉はさすがにこたえた。どんな時も味方だった四海が、寺を出ろと言っている。
 悟空は、正直どうしていいかわからなくなっていた。四海が話した都や人々の暮らしは素晴らしかった。そんな人間もいるのだと思った。悟空の心は動いたと言っていい。
 まったく二十年以上も生きてきて、こんな話はとんと聞いたことがなかった。みんなどうして黙っていたのかと思うと、またぞろ腹が立ってくる。
 悟空の胸が期待に騒いでいた。東大寺を出るのも、そんなに悪いことではないかもしれない……。
 世の中を見てまわりたい。その思いが強くなった。
 四海がポツリポツリと話しはじめ、悟空はようやく夢からさめた。
「大きくなったなぁ悟空。わしが吹雪の中でお前を見つけた時は、この腕におさまるほど小さかった」
「そりゃあ。もう二十年も前の話ですよ」
 四海はうんうんとうなずいた。まぶたの端に、うっすらと光るものが浮いていた。

牛魔王推参

 月が中天にさしかかった。
 今夜は満月に当たるらしく、皓々と照る月が東大寺を照らしている。
 その一室で眠りに就いていた玄奘三蔵は、妙な胸騒ぎをおぼえてふと目がさめた。
(どうしたというのだ?)
 眠りが浅かったとはいえ、この胸騒ぎは異常だった。三蔵は毛布をどけると、石をしきつめた床におりた。
 ゆっくりと息を吐いて心を落ち着ける。胸に手を当てると、脈打つ心臓の鼓動が確かに伝わってくる。息がわずかに乱れていることに気がついた。
(おかしい……)
 五百羅漢に選ばれた三蔵が、夢などで乱れるとは考えられなかった。なにごとかあるはずである。
 胸騒ぎはまだおさまらない。三蔵は引き戸を開いた。
 頭の中でなにかがぶんぶん音をたてている。
 表で僧たちが、空を指さして騒いでいる。
 三蔵がその方向を見ると、満月を背負って、夥しい数の黒点が、こちらに近づきつつあった。
「なんだ、あれはっ」
 おもわず声に出た。
 鳥などではない。とにかく黒いなにかが飛翔してくる。
「妖怪……?」
 三蔵は愕然とその名を口にした。背筋にぞくりと悪寒がはしる。
 やはり自分の直感は正しかったのだ。
 三蔵は帯をとくと、慌てて服を着替えはじめた。

「くくくっ」
 辟水金晴獣(金の目をした獣)に打ち跨がった牛魔王は、喉の奥で低く笑った。
 月に照らしだされた花果山東大寺が、眼下に広がっている。チョコマカと動いているのは豆粒のような人間たちだ。
 月を背負い辟水金晴獣に跨がった牛魔王は、血の池のような口を裂いている。
 眼光炯々と輝く様は、さすが妖怪どもの棟梁である。
 鉄扇公主がフワリと衣をはためかせながら、魔王の肩に舞い降りてきた。
「これが東大寺かい。ちっぽけなもんじゃないか」
「いえ、裏の五行山にも山ほどおります」
 答えたのは、そばに控える混世魔王であった。
 はじめはしぶっていた混世魔王も、これだけの数が集まると逃げ出すわけにはいかなくなったものらしい。
「その点も考えておるわ」
 牛魔王が野太い声で莞爾と笑った。
 妖怪どもが東大寺目指して急降下をはじめた。
「これで俺も平天大聖だ!」
 混鉄棒を振りかざし、魔王はわめいた。

「なんの騒ぎだ?」
 部屋で向かい合っていた悟空と四海は、外の騒ぎに腰を浮かした。
「なにかあったらしいな」
 四海はかすかに眉をしかめただけだった。
 さすがの四海も、よもやこの東大寺に妖怪どもが襲ってこようとは夢にも思わない。
 両開きの戸がバタンと開き、年若の僧侶が腰も抜かさんばかりの勢いでかけこんできた。
「どうした?」
 四海がその肩を支える。
 男はうわついた口調でまくしたてた。
「よ、妖怪どもですっ。う、上から、見たこともないほどっ」
「なんだとっ?」
 妖怪ときいて、悟空はにわかに緊張した。今日は朝から、妖怪だなんだと聞かされたせいもある。妙に間近に聞こえた。
 四海が目を向けてきた。明らかに困惑している。
 悟空はさっと棍棒に手を伸ばした。
(妖怪……?)
 夢でも見ているような気分だった。

 表の境内では、大雁たちが本堂の僧たちを集め、陣を組んでいる。
「おのれ、わが寺に乗り込んでくるとはいい度胸だ!」
 集まった僧侶らは殺気立っていた。
 東大寺は武門の誉れである。それに真っ向から乗り込まれて怒らないはずがない。なめられたと思ったはずだ。
 それに、東大寺の武術が恐れられているからこそ、誰もここには手を出せないのだ。正面から来られてただで帰したでは、後々の紛糾の種となりかねない。一匹残らず仕留める必要があった。
「眠っている者を叩き起こせっ。五行山に報せるのだ!」
 大雁和尚が檄を飛ばしている。
 悟空と四海は表に出てから、あっと息を呑んだ。
 百はいる。それが空を埋めてしまっている。
 月光を背負って降りてくる姿態は、その本性に反して美しくさえあった。
 悟空はごくりと生唾を飲んだ。
「あれが、妖怪か……?」
 唖然として空を見上げる。妖怪たちの姿は悟空の予想の外にあった。
 世を荒らし、凶悪極まる妖怪。悟空が聞いた話はこればかりだった。それがこの美しさはどうだろう。
 妖怪たちは地も震えるような喚声を上げ、急降下してくる。
 四海の反応は悟空とは正反対であった。
 さすがの四海が魂も凍るようだった。一瞬東大寺がつぶれるかと錯覚さえした。あの数は、これまでの比ではない。
 四海は夜空に映える妖怪どもを睨み上げ、全身を怒りで震わせた。
 冷静に考えればできるはずがない。東大寺には千人を越す修行僧がいる。いずれも必殺の武芸を身につけた者たちばかりだ。
 だが、もしも、奴らの狙いが別のところにあったとしたら……。
 もしそうだとしたら、妖怪たちにまともに戦う必要はない。目的を果たして逃げればいいのだ。五行山の僧兵が駆けつける暇もなかった。
「住持殿っ」
 四海が走り寄ると、大雁はようやく表情を和らげた。
「悟空も一緒か」
 これで手勢は百人力である。
 大雁はチラリと横目で悟空を見た。
 悟空が視線に気づく。少々表情が堅いように見える。
 この男は妖怪と戦ったことがない。おろか実戦すら皆無だった。試合喧嘩は当代無敵。だが、実戦となると勝手がちがう。それも相手は妖怪である。
 東大寺の武術は妖怪相手に発展してきた。しかし、使う者が下手ではだめだ。
 試合でいくら腕がたっても実戦では使いものにならなかった人間を、大雁は多く見てきた。東大寺はじまって以来の麒麟児、悟空ならばどうか?
 大雁はこの一件を利用して、悟空の資質を見極めようと思い定めた。天竺までの旅を乗り切れるかどうかは、今この時に決するはずだ。
 五海たちが、大雁のまわりに集ってきた。
 妖怪どもとの距離はほとんどない。
「住持殿。奴らの狙いは宝玉ではないのか」
 四海の言葉に、一同はぎょっとなった。
「なんだよ、宝玉って?」
 通じてないのは悟空一人だ。
「来たぞ!」
 もう遅かった。
 牛魔王率いる妖怪たちは、とうとう大雁たち僧兵の頭上に襲いかかった。

 

悟空の初陣

「八卦陣をくめ!」
 大雁の声に応じて、五海たちが八角に陣を組む。
 それをさらに囲むようにして妖怪どもが挑んできた。
 闘争の声を聞きつけた僧たちが、あちこちから駆けつけてくる。
 四海は悟空を連れて、敵の真っ只中に躍りこんだ。
 武術師範なだけはある。四海は戦いに馴れていた。猛然と振るわれる武器の類を寸前ではずして、強烈な掌底を腹部にたたきこむ。
 天狗に似た妖怪が、身体を折って吹き飛んだ。
 悟空は四海の背中を守りながら、棍棒をさっと構えている。
(妖怪っ)
 悟空は見誤っていた。妖怪どもが美しく見えたのは、距離があったからだ。
 間近に見る妖怪たちは、話に聞くままの容貌をしていた。それも悟空の想像を越えたおぞましい姿だった。
 嫌悪感をもよおす唾液、悪鬼のごとき形相。なにより人間とはかけ離れたその姿っ。
 天地創造以来、人々の生活を脅かしてきた妖怪たちが目前にいる。
 だが、それも普通の人間にたいしてのことだった。当代きってのいたずら者が、この程度で引き下るわけがない。
 妖怪たちは、見慣れてくると実におかしかった。一人一人が見事なまでにちがっている。
 人々を怯えさせるその姿も、悟空にとっては滑稽でしかない。
 翼のある者、くちばしの突き出た者。様々な妖怪たちが、悟空めがけて襲ってくる。
「おおおっ!」
 悟空が吠えた。得意の羅漢棍術をつかって、なみいる妖怪どもを蹴散らしていく。
 悟空のまわりにいた妖怪どもは、瞬きの間も与えられずに残らず消し飛んでしまった。
「おおっ」
 それとなく見守っていた大雁の口から、感嘆の呻きがもれた。
 大雁の心配は杞憂だったようだ。
 悟空の心は、戦の到来に踊っていた。
「牛魔王!」
 四海が突然わめいた。
 視線の先に、七色に輝く獣に乗った妖怪がいる。
「なにっ」
 声を聞いた僧侶たちは、打ちそろって空を見た。
 西域妖怪を支配する牛魔王の名は、大唐国でも知れ渡っている。
「あいつか……」
 悟空はぺろりと唇をなめ、棍棒を手元に引き寄せた。あのバカデカイ妖怪が、こいつらのボスにちがいない。
 あいつを喰ってやろうと心算していた悟空の目の前で、牛魔王はさっと身を翻した。
「あっ」
 目を見開く悟空が追いすがる暇もなく、牛魔王は東へと姿を消し去った。
「しまったっ」
 群がる妖怪を残らず打ちのめしながら、四海は自分の考えが的を射たことを痛感した。
 牛魔王の狙いは、やはり宝玉にあったのだ。
「逃がすかっ」
 悟空が牛魔王を追って飛び出した。
「悟空、待て!」
 四海が狼狽して叫んだ。さすがの悟空も、牛魔王が相手では勝ちはおぼつかない。
 たちふさがる者は棍棒が蹴散らし、悟空の前に道がひらける。悟空は戦いに酔っていた。正確には自分の強さにだ。
 四海はその悟空に気がついた。人はそういう状態で戦うことが一番危険だ。おごりは直接しくじりにつながってしまう。この状況下でのしくじりは、死と引き替えにせねばならない。
 四海は意を決し、悟空の後を追った。

 悟空と四海が消えた境内では八卦陣を組んだ五海たちが、しだいにその輪をちぢめていた。
 数で押す妖怪たちに、東大寺の僧が追い込まれている。
「五行山の援護はまだか!」
 棍棒をふるいながら、五海が悲鳴を上げた。牛魔王が消え去った方向にあるのは宝物庫である。あせりが僧侶たちの動きをにぶらせていた。
 大雁は敵から奪った青竜刀をもって、妖怪どもの一群を相手にしていた。
 東大寺で住持となるには、あらゆる武術で秀でていなければならない。中でも大雁の得意とするのが剣術だった。
 老いてなお、その剣腕はおとろえていなかったが、迫りくる焦燥感が、その技の冴えを奪っていた。
 その時、五行山に向かったはずの僧たちが、絶望的なことを伝えた。
「住持殿っ。五行山に通ずる道が、岩で封じられております!」
(やられたっ)
 その場にいた全員が痛感した。
 このままでは宝玉を奪われるっ。
 それだけはなんとしてでも避けねばならなかった。東大寺の存在のみならず、仏法世界のためにも、宝玉を渡すわけにはいかない。
 大雁は青竜刀で威嚇しながら周囲を見渡した。僧たちはよく戦っていたが、妖怪どもの数は一向に減らない。積極的に仕掛けてこないのは、どう見ても時間稼ぎだった。
 大雁をかこむ妖怪の数はあまりに多く、容易には切り抜けられそうになかった。
 後は、牛魔王を追った、悟空と四海に期待をかけるしかない。
(頼むぞ、悟空っ)
 大雁は天衣無縫な青年僧の姿を思い浮べた。
 ただ、相手が牛魔王というのが問題である。あの魔王は、信じられないことだが、友情に厚く義侠心を大切にする妖怪だった。卑怯な真似は絶対にしないのである。でなければ、天下の東大寺に真っ向から乗り込むような愚挙はおかすまい。
 牛魔王がどこで宝玉の話を聞きつけたのかは知らないが、すぐさま五行山へ通ずる道をふさいだ辺り、かなり用意は周到だったと見える。よほど東大寺に詳しくなくては出来ないことだ。
 ところが、牛魔王といえば西域妖怪である。どうも大唐国の妖怪が、味方をしているらしかった。
 牛魔王の来訪は、同時に宝玉の価値を示すものだったろう。なおのこと宝玉を渡すわけにはいかなかった。
 大雁は練り上げた技を持って、四体、五体と続け様に斬った。
 この時、九環の錫杖を手に、三蔵がさっと姿を現わした。大雁はあっと声を上げた。
 いくら危急の時とはいえ、三蔵を巻き込むわけにはいかない。
「三蔵殿、来るでないっ」
「私とて法力はつかえます」
 大雁は一瞬のうちに思い起した。三蔵は高名な法力僧でもある。
 錫杖で地面を突き、
「オンマニバメ、ウンっ」
 と、呪文を唱えれば、たちまち神通力を発揮して、三蔵の背が後光を放つ。穏やかな光と共に妖魔たちが融けていった。
 僧たちも三蔵のはなった光に、ようやく平静を取り戻した。なにも真っ向から立ち向かうことはない。仙の山でまなんだ仙術を、使用すればよいのである。
 妖怪どもも妖力をもちいて立ち向かったが、所詮は下っぱ、長年研鑽を積んだ大雁たちには適うはずもない。
「悟空はどうしました」
 三蔵が大声できく。
「宝物庫に向かいました!」
 この言葉に三蔵は全てを理解した。この妖怪たちは宝玉を奪いにきたのだ。
 大雁たちは自ら血路を切り開いた。
「この場はお任せを!」
 五海がわめいた。
 大雁は武人である。一瞬の遅疑もなく、宝物庫を目指した。

混世魔王

 牛魔王の後を追った悟空と四海は、予想外の敵に阻まれていた。
 混世魔王である。
 黒ずくめの気どったいでたち。
 混世魔王の背丈は悟空より頭二つは高い。そこから、しゃがれ声を降ってよこした。
「ここから先は遠さんぞ、クソ坊主っ」
「うるせぇ、クソ妖怪っ」
 悟空はやはり妖怪妖怪といってもこんな物かとあなどっていた。混世魔王の凶悪な面構えを見ても物ともしない。
 どころか、今の悟空の頭はいかにして牛魔王を仕留めるかということで一杯だった。
「どけ!」
 混世魔王の脳天めがけて、不用意な一撃を送った。
 威力も早さも充分だ。が、混世魔王は悟空の期待に反して、楽々とこれを受けとめた。
 悟空の表情が引きつった。
「死ねっ」
 ギラギラ光る刀をびゅうんと振るって、悟空の首を一挙に狙う。
 四海は四海で、悟空の思い上りには少し腹を立て、足蹴で突き転ばした。
 混世魔王の刀は、危ういところで空を斬っている。
「お前はアホウかっ。妖怪をなめるでないわっ」
 魔王と向き合いながら、釘をさす。
 今はこんなところで戸惑っている場合ではないのである。悟空が愛弟子であればあるほど、四海の怒りは度合いを増した。
「いてて……」
 悟空は結構な蹴をどてっぱらにくらって息をつまらせたが、すぐに気を取り直すと立ち上がった。
 混世魔王は大きな目玉をぎょろりぎょろりと動かして、二人の間合いを計っている。
 悟空と目があって、その口許がニタリと歪んだ。明らかな嘲笑だった。
「今までの相手とは格がちがうと思え」
 四海がささやいてきた。
 いくら悟空でも、いまの一撃で目が覚めた。四海が突き飛ばさねば、悟空は今頃首をはねられていたはずである。考えだけで肝が冷えた。そうなるとすぐに反省するのが悟空のよいところ。
 悟空は棍を携えながら、今度はジリジリと混世魔王に寄っていった。
 それは、悟空がはじめて会った、骨のある妖怪であった。
「わかったよ、師匠」
 珍しく素直な悟空に、四海はニヤリと笑みをみせた。
「ゆくぞっ」
「参れっ」
 四海が声を合図に間境を越えた。
 身体の大きな混世魔王は間合いが遠い。しかし、四海の攻撃は混世魔王の意外からきた。
 腕がしゅるしゅると伸びてきたのである。
 混世魔王は慌てた。頭を狙った刀を切りかえ、伸びてきた腕をめがけて振り降ろした。
 しかし、次に起こったことは、さらに混世魔王の予想を裏切るものだった。
 魔王の刀が、斬り飛ばされるはずの腕に、かたい音をたてて弾き返されたのである。
 四海は仙術で腕を鉄に変えたのだ。
 あっとおもった瞬間には、鳩尾に拳をくらっていた。
 四海の右腕はさらに伸び、混世魔王を背後の幹に叩きつけた。
「やった」
 悟空の顔がパッと輝いたが、そこはいまは牛魔王の軍門に下ったとはいえ、元は一党を束ねた魔王である。
 痛みをこらえて立ち上がってくる。
「むう……」
 四海はうめいた。混世魔王は想像した以上の妖怪だったようだ。
 今度は四海が自分をたしなめる番である。「おのれっ」
 混世魔王は怒りに燃えた目でこちらを睨みつけてきた。眼光で射殺そうとでもいうかのようである。
 事実、その目から銀光を発した。
「うわっ!」
 二人を光が一条ずつ襲った。横っ飛びに逃げて躱したが、そこへ混世魔王が挑みかかってきた。魔王が走ったのは悟空の方だ。
 四海をてごわしと見ての行動だったが、今度は悟空も落ち着いている。
 魔王の刀をチョイと受け流すと、その鼻面を正確に突いた。
 正に恐ろしいまでの威力である。混世魔王の顔面が、その一撃でボコンとへこんだ。
 魔王は慌てて飛び離れると、後頭部をポンと叩いた。へこんだ顔が元に戻る。
 混世魔王は、今までに、こんな剽悍な棍術は見たことも聞いたこともなかった。羅漢棍術ここにあり、である。
 これもかなわじと逃げにかかったが、その先に四海が待ち構えていた。
「あっ!」
 四海の手刀が魔王を襲った。混世魔王は妖力をつかう間もなく、首を斬り飛ばされていた。
「さすがは師匠だっ」
 自分で仕留められなかったのは、残念至極だが、悟空は無邪気に喜んでいる。
「こやつ……」
 四海は苦笑するしかなかった。初陣のくせをして、このはしゃぎようはどうだ。
 やはり天竺へ行くのは悟空しかないと、その場にそぐわぬ確認をとりながら、四海は宝物庫を目指すのだった。

宝物庫の番人

 時間は少しさかのぼる。
 辟水金晴獣を駆って、宝物庫をさがしまわっていた牛魔王は、ようやくそれらしき建物を発見した。
 しかし、そこにも二人の僧が待ちかまえていた。妖怪来たるの報を聞くや、すぐさま宝物庫に走った、円来と恵角である。
 三蔵の案内の時もいたが、それもそのはず、この二人は寺の中でも特に宝物庫の番人であることを命じられている。だから、逸早くここにたどり着くことができたのだ。
「うぬら、命はいらぬか?」
 牛魔王は傲然と問うた。
「もとより」
 答えは不要と、二人は構える。この妖怪がまさか牛魔王だとは思わない。
 たった一匹なら、二人で充分と判断した。それが失敗だった。
「義をもって、宝玉を頂戴いたすっ」
「盗人が、なにが義だ!」
 牛魔王は混鉄棒をびゅうんと一振りして、辟水金晴獣に蹴をくれた。
 一丈もある超巨体が、おそろしい早さで迫ったのだから、さすがの二人も仰天した。
 牛魔王は混鉄棒をびゅんびゅん振り回して、恵角に凄まじい一撃をくわえた。
「うわ!」
 混鉄棒が円来の鼻先をかすめ、恵角の腹を一打ちした。
 そばにいた円来がぴくりともできなかったのだから、恵角が反応できるわけがない。
 恵角はたまらず吹き飛び、宝物庫の壁に叩きつけられた。
 円来は声もなかった。牛魔王の一撃は、まさしく二人の自信を粉微塵に吹き飛ばしたのである。
「ば、ばかな……」
 円来は、ようやくそれだけ言えた。
 恵角が腹を押さえて、どうにか半身を起こしている。
 牛魔王の顔に感心の色が浮かんだ。さすがは東大寺の僧だった。
「き、貴様、ただの妖怪ではないな……何者だ?」
 恵角が、苦渋にゆがむ声をしぼりだす。
 牛魔王はニタリと口を開いた。
「牛魔王よ」
「牛魔王だとっ」
 その途端、沈着な円来の顔に驚愕の色が浮かんだ。それはそのまま恐怖の色だった。死ぬことではない。宝玉を奪われることへの恐怖だった。
 牛魔王とは、人間にとって、それほどの存在なのだ。
「西域妖怪の牛魔王が、なぜここにいる?」
 この疑問に牛魔王は答えなかった。ほとんど身体を振らずに、混鉄棒を回転させた。
 十万斤の混鉄棒が、大上段から落ちてきた。
 円来は左に逃れると、牛魔王の内懐に飛び込んだ。獲物が混鉄棒なら、接近戦は有利と読んでの行動だっ
た。
 しかし、牛魔王はまたも鉄棒を回転さすと、円来の顎をかちあげた。
 骨が砕け、円来の体が大きく舞う。
「円来!」
 恵角は素手の不利を悟って、棒手裏剣を投げた。牛魔王は当然一振りでこれをことごとく打ち飛ばした。
 その間に、恵角と円来は、『絵柄残しの法』を用いて、牛魔王の背後にまわった。
 これは、蝉の脱け殻のごとく、身代わりを置いて、敵の目を眩ます術である。
 牛魔王はさすがである。瞬時に目に映る人間どもが偽物だと気がついた。
 軽く飛んで、真後ろに両足を蹴りだす。二人は一足ずつ上手にもらって、またしても派手にふっ飛んだ。
「ば、ばかな……」
 まさに噂に違わぬ強さである。勝てるなどとんでもない。まともに戦うことすら出来ないのだ。
「悟空……」
 ふとその名が口に出た。
 そうだ悟空だ。あの男なら、この化物とも互角に戦える。
 なんの確信があるわけでもない。しかし、二人はそう信じた。ならば、今は悟空を頼みに、この場を保たせればよい。
 立ち上がった二人を見て、牛魔王はまた意外そうな顔をした。もう死んだと思っていた。
「東大寺の僧はよく動くな」
 魔王はほめたつもりだったが、二人にとっては屈辱でしかなかった。

 一時遅れて宝物庫に走ることになった大雁たちは、途中で意外なものをみつけた。
「混世魔王です」
 妖怪に詳しい者が言った。
 これならば納得できる。混世魔王は大唐国でも国境近くの妖怪である。牛魔王に懐柔されていたとしても、なんら不思議はない。
 大雁とともに来た三蔵が、錫杖を支えに跪いた。
「牛魔王はやはり宝玉を?」
 三蔵がささやくと、大雁はそのようですとうなずいた。
 牛魔王がいる所に、三蔵を連れていくのはためらわれたが、この女御殿は存外に頑固である。
 大雁は配下の僧たちと目線をかわし、再び宝物庫をめざすのだった。

悟空と牛魔王

 混世魔王を倒した悟空と四海は、ようやく宝物庫までたどりつき、そこで信じられぬものを見た。
 円来と恵角が倒れている。そばに辟水金晴獣が鎮座していた。
 四海が二人の息を調べ、ゆっくりと首を左右に振った。
 宝物庫の壁が破壊され、扉がなくなっていた。

 牛魔王はようやく二人を倒し、宝物庫に入ったところだった。
 宝玉の在処はすぐにわかった。御丁寧にも祭壇に飾られている。
 牛魔王は布のうえに置かれた宝玉を、ムンズと鷲掴みにした。
 手元に引き寄せ、詳細に眺める。どうやら本物のようだった。
「おい!」
 背後で雷鳴のような声が上がった。
 牛魔王は宝玉をふところに仕舞うと、ゆっくりと振り返った。樫の木で出来た棍棒を持った僧がいる。庭で見かけた男だった。
「牛魔王!」
 悟空が喚いて棍棒で地面を突いた。
 恵角と円来を無残に殺した牛魔王が許せなかった。
 まさに怒髪天をつく勢いである。
「てめぇ、ただですむと思うな!」
 空気も震えるような悟空の大喝にも、牛魔王は鼻で応じただけだった。
 嘲笑われ、悟空の怒りはさらに度合いを増した。
「いさめろ、悟空」
 四海が現われ、悟空の肩を叩く。戦いの場で冷静さを欠くのは禁物だ。悟空に弱点があるとしたら、まさにこの一点である。
 悟空と聞いて、牛魔王はさらに笑んだ。
「貴様が悟空か」牛魔王は顎をしゃくった。「表の
二人は貴様の名を叫びながら死んでいったぞ!」
 もういけなかった。
 牛魔王の挑発に、悟空はこらえることができない。
「よせ、悟空!」
 四海の悲鳴に似た声も、今の悟空にはとどかなかった。
 一足で間合いに踏み込むと、夢中で棍棒を繰り出していた。
 円来と恵角は、宝物庫の番を任ぜられたほどの腕である。その二人がことごとにやられた。
 四海は悟空の死を予感したが、悟空の動きはその四海すら思いも寄らないものだった。
 流星のごとき棍棒が、雨霰と打ち出され、そのことごとくが牛魔王をとらえる。
 牛魔王ほどの妖怪が、不覚をとったほどの早さだった。この時、悟空は確実に四海を越えた。
 牛魔王は消し飛び、奥の壁をつきやぶった。
 悟空がピタリと動きを止める。
 瓦礫に埋もれた牛魔王が、ガタリと白壁を押し退けた。
「おのれぇ……」
 かっと口を開くと、二人にむけて妖術を放つ。
 肺腑を抉るような衝撃を受けて、悟空と四海はまとめて吹き飛んだ。
「う、うお……」
 悟空はどうにか起き上がろうとして、血の混ざった唾を飲んだ。
 宝物庫の壁がまとめて吹き飛んでいる。残った瓦礫がガラガラと崩れ落ちた。
 戸口に魔王が立っている。その鎧は、悟空の連撃でボコボコになっていた。
 牛は怒気もあらわに、足を踏みだした。
 今の妖術で悟空の怒りもようやく冷めた。というより、驚きにとって変わった。悟空は自分に驚いていたし、牛魔王にも驚嘆していた。
 あいつは強い。そう思うとうれしくなった。あれだけの強さを手に入れるには、自分以上の努力をしてきたはずである。どえらい奴もいたもんだと思うとおかしくなった。
「まだまだよな」
 隣で四海が笑っている。たしかに、この師匠と一緒なら、まだまだ頑張ることができそうだ。
 牛魔王、辟水金晴獣にヒラリと跨がり、寄せる二人を迎え撃った。

 大雁たちは林を抜けたところで、牛魔王と対峙する悟空と四海を見た。
 さすがの悟空も、牛魔王の前ではまるで小人である。
「行くぞ、牛公!」
 こんな時の悟空は本当に頼りになる。あの牛魔王に恐れげもなく立ち向かっているではないか。
(合格以上か)
 大雁は一人ほくそ笑んだ。と同時に、崩壊した宝物庫を見て色をなくした。
 牛魔王がまだ中に入っていないとしたら、宝物庫が崩れているのはおかしい。宝玉を奪われたのだ。
 奥に円来と恵角が倒れている。大雁はすまなさで一杯になった。これは自分の不始末だ。
「行きましょう」
 三蔵が大雁をせかした。
 すると、二人に加勢をしようとした一行の前に、一人の女が舞い降りてきた。
 鉄扇公主──またの名を、羅刹女という。
 わらわらと妖怪どもまで現われた。
「ひさしぶりだねぇ、大雁」
 羅刹女が艶々と笑った。
「こやつ……」
 大雁は羅刹女の顔に見覚えがあった。大雁が住持になる以前、五十年は前の話だ。宝物庫に忍び込むことに成功した、一人の女妖怪がいた。
「て、鉄扇公主ではないか!」
 年配の男が金切り声を上げた。
 厚く化粧をほどこした羅刹女は、えも言われぬほど美しかった。もともと羅刹の女は美女が多い。鉄扇公主はその多い方だった。
 羅刹はいくつになっても年をとらないと言われる。その通り、鉄扇公主羅刹女は、あの頃とおなじ美々しさをたもっていた。
 冷たい、切れるような美しさを。三蔵とはまったく逆の性質をもった美だった。
 妖怪羅刹女は、口許に妖美を漂わせて笑った。
「死んだはずではなかったのか」
 言いながら住持は刀をかまえた。混世魔王の刀だった。
 羅刹女はなにも言わない。彼女は東大寺で捕まり、危うく処刑されそうになったところを牛魔王に救われた。以後はこの魔王の妻となり、一党の主にすぎなかった亭主を、西域妖怪の頂点に立たせた。そして、今回の宝玉騒ぎである。
(すべては、羅刹女が仕組んだことか……)
 僧たちが印を組み、真言を唱えはじめた。妖怪どもが、させじと飛びかかる。
「不遜なり、鉄扇公主!」
 大雁は包囲を抜け、羅刹女に迫った。
 鉄扇公主は二刀流の名手である。青鋒宝剣という二振りの剣を振りかざした。
 大雁は地を這うような姿勢から逆袈裟に切り上げた。
 羅刹女は天女のごとく宙に踊る。大雁の大刀は、衣を斬っただけだった。
 青鋒宝剣が、左右から自在に迫った。
 大雁は仙術で剣を二つに増やすと、さらに『絵柄残しの法』を用いて、羅刹女に幻像を斬らせた。
「なにっ」
 目を剥く羅刹女の頭上から、大雁が飛鳥のごとく降ってくる。羅刹女はすばやく翻転して二刀を叩きつけた。
 大雁は危ういところで、またも絵柄残しを使った。
「こっちじゃ」
 声に振り向いた時には、大雁の顔が羅刹女の視界を埋めていた。
 宝剣が音をたてて大雁の大刀を受けとめたが、強烈な打撃に、羅刹の腕がしびれあがる。
「おのれっ」
 この美女は怒りにたぎると、さらに美しくなる。
 大雁は斬られた脇を押さえながら、青鋒宝剣と渡り合った。

 神通力で固めた拳で、四海が牛魔王の腹を突く。
 怒りに目を血走らせた牛魔王は、まさしく猛牛のごとく角を振りたてた。
 そこへ悟空が打ちかかれば、魔王は『身を泥に変える法』を用いて、棍棒の威力を完全に逃してしまう。悟空の棍は、牛魔王の体をたやすく突き抜けてしまった。
 魔王は素早く体を元に戻すと、悟空を捕まえ投げ飛ばした。牛魔王の怪力には、悟空のクソ力もおよばない。
 悟空あやうしと見て四海がかけよれば、牛の字は得たりと鉄棒で狙い定める。
 四海はなんと、素手で魔王の混鉄棒とやりあったが、かの妖怪は実に棒術に精通している。
 四海はようやく懐をとると、神通力を魔王の体に叩き込んだ。
 これには牛魔王もたまらない。
 慌てて辟水金晴獣を反転させたが、その先に悟空が待ち構えていた。
 悟空四海が、それぞれ真っ向から打ちかかれば、牛魔王も混鉄棒を駆使して相手取る。
「ぬうん」
 混鉄棒が轟々と輪のように回転をはじめた。悟空も負けじと、棍棒をぎゅんぎゅん回し合う。
 三者、うちかかる隙なく、睨み合いがはじまった。
(なんてすごい奴だ。二人がかりでまだ足りないのか)
 悟空はこの時、本物の妖怪の強さというものを、いやというほど思い知らされていた。
 ついに、しびれをきらした悟空が、棍棒の回転をといて、牛魔王の顔面に突き技をくりだした。
 回転で得た力が、うまく棍に乗っている。牛魔王は顔を泥に変える間もなく、長い鼻柱をガンと叩かれた。
 背をのけぞらす牛魔王、不利をよんだか金晴獣の応援をこう。
 辟水金晴獣は忠実な家来である。ガッと牙を剥くと、悟空にむけておどりかかった。
「てめぇ牛公! 俺と勝負しろい!」
 金晴獣を追い払いながら、悟空がわめく。
 この隙に、牛魔王は四海に挑みかかった。
 四海が神通力を用いれば、魔王は妖術で対抗してくる。
 そのうち悟空が金晴獣を強引に退け、棍棒をふるってきた。
 羅漢棍術の妙技を存分に用いて、牛魔王を追い詰める悟空。
 魔王は四海と悟空の猛攻にたじたじとなって、ついに『千人力の法』を唱えた。
 すると、四海は『万人力の法』で対抗し、牛魔王は『金剛力の法』を使って、二人を蹴散らした。
「うぬ、化物め!」
 四海は猫のように体をひねって地面に着地した。 その様子を見て、東大寺の面々は残らず驚倒してしまった。
 悟空四海の最強コンビがそろって、牛魔王はまだ倒れない。ついには、二人を蹴散らしてしまった。
 牛魔王はまたも辟水金晴獣に打ち跨がると、二人のまわりをグルグルと物凄い早さでまわりはじめた。
 たちまち牛の姿は見えなくなり、赤と黒のわっかが誕生する。
「しまったっ」
 円の中央で、悟空と四海は舌打ちをもらした。牛魔王はもはや捉えきれる迅さではなく、逃れることも打ちかかることもできない。
 そのうち牛魔王が、回りながら混鉄棒を打ちおろし始めた。
「師匠、こいつはっ」
 四方八方から飛んでくる鉄棒を避けながら、悟空が叫んだ。
 混鉄棒の数は無数となり、無限となった。その間も辟水金晴獣は止まらない。
 悟空の目がくらみ、たじろいだ瞬間、目の前に牛魔王が出現した。
「あっ」
 悟空は獣なみの本能で棍棒を押し上げた。
 牛魔王の混鉄棒は、遠心力のすべてを悟空に向けて叩き込んだ。
「悟空!」
 四海がぎょっとなった。
 棍棒は微塵に砕けた。脳天をしたたかにぶったたかれて、悟空はたまらず昏倒した。

 三蔵は僧たちにまじって妖怪どもと一戦を交えていたが、倒れている悟空を見て動きを止めた。
 そこに猫に似た妖怪がかかってきた。
 三蔵は錫杖を一打ちした。法力を脳天にくらった妖怪は、たまらずひっくり返る。
 大雁は羅刹女をしだいしだいに追い込んでいったが、こちらも地に伏した悟空を見てぎくりとなった。
 牛魔王は疲れも見せず、弟子をかばう四海をふっとばすと、混鉄棒を振り上げた。
「あっ、悟空」
 三蔵は叫ぶやいなや、『韋駄天の法』を使って、二人の間に割って入った。
 九環の錫杖が、混鉄棒をガジンと受けとめる。その音で悟空はようやく目をさました。
「ぐうっ」
 三蔵の口から呻きが洩れる。
 あまりの威力に法力をこめた錫杖が、あわや砕けるところであった。
「ほう、これはこれは」
 牛魔王がおかしそうに笑った。今自分の混鉄棒を受けとめたのは、小股も切れ上がるような楚々たる女僧である。
 端麗な顔が眉をキリッとしめたその姿は、神々しいまでの美しさだ。ないことにあの悟空がどきりとしてしまった。羅刹女だってここまで綺麗じゃない。
「さ、三蔵……」
 悟空はようやっと起き上がった。視界がまだちらちらする。
 横目をつかうと、四海もあちらで立っている。
 三蔵は牛魔王の剛力の前に、錫杖を落としてしまった。実に二の腕までしびれきっている。
「打擲!」
 と、牛魔王が混鉄棒を振り上げたとき、朦朧の悟空が意想外の動きを見せた。
 三蔵を押し退けると、全身を武器とかして牛魔王の体に叩きつけたのだ。
 秘伝とされる体当たりの術である。渾身をぶつけるこの技は、受手に広範囲にわたって打撲傷を引き起こし、やがて死に到らしめる。
「ぐほっ!」
 さしもの牛魔王もこの打撃はたまらなかった。
 がっと血を吐くと、よろめいた。
 この時、花果山をふるわす雄叫びが怒涛のごとく沸き起こった。
 四海の背後から、五行山の修行僧が、大挙として駆けてくる。
 牛魔王もこれには仰天となった。
「あんたっ」
 あの羅刹女が泡を喰って逃げてくる。
「これまでよ」
 魔王はついに本性をあらわした。
 辟水金晴獣が光をはなったかと思うと、みるみる牛魔王の体に溶け込んでいく。
「ぐっ!」
 光が爆発的に広がり、夜闇が砕かれる。間近にいた悟空と三蔵が吹き飛ばされ、駆けつけた僧たちは、あっと息を呑んだ。
 牛魔王は、なんと巨大な白牛に変化していたのである。
「逃すな!」
 四海を先頭に、五行山の援軍が白牛めがけて襲いかかる。
 牛魔王は口からもうもうと黒煙を吐きだし、その首を振りたてた。
 黒煙が旋風とともに吹き荒れ、東大寺の僧侶たちを飲み込んでいく。
 大雁はケムリに飲まれながら、羅刹女が夜空に舞い上がるのを見た。手には宝玉を持っていた。
 東にのぼる黒煙を狼煙代わりに、残っていた妖怪たちもほうほうの体で逃れ去った。
 黒煙が晴れ、満ちた月がのぞいている。大雁たちは呆然と空を見上げていた。
「くそっ!」
 悟空は真っ暗な空を見上げ、ぐるりぐるりと舞いながら、諸手をふって悔しがった。

花果山よ、さらば

 牛魔王を打ち洩らし宝玉まで奪われた大雁たちは、夜通しこの騒動の始末に追われた。
 妖怪どもを片付け、境内の掃除が終わった時、すでに夜は明けきっていた。

 牛魔王との一戦の疲れも癒え、いくぶん落ち着きを取り戻した悟空は方丈に呼ばれた。
「俺は三蔵と一緒に天竺に行くぞ」
 悟空の言葉を予期していたように、大雁はうなず
いた。
 一同は、悟空を本堂に連れていった。
 そこで、一振りの棍棒を手渡された。
 両端に金の箍がはめられており、他は黒い鉄のよ
うなもので出来ている。
 妙意金箍棒。一万三千五百斤(約八千百晴)とほられている。
「お、和尚」
 悟空は驚いて大雁を見た。
 牛魔王と戦うには並みの武器では通用すまい。それに、かなり目方のある妙意棒は、悟空ぐらいにしか操れない。
 大雁は、宝玉と寺の歴史について話して聞かせた。
 それは、悟空が、二十二年目にしてはじめて知る秘事であった。
 大雁はぐっと悟空を見据えたまま、言葉をつづける。
「なんとしても宝玉を取り戻さねばならん。そのためには牛魔王とも今一度戦わねばなるまい。妙意棒はそのためのものだ」
 悟空は手のなかの妙意棒をまじまじと見つめた。
「三蔵殿との旅の中で、己れをみがくのだ、悟空」
 頭に包帯を巻いた五海が、我が子に袖を引かれたようにして言うと、大雁も、
「牛魔王は強い。妙意棒を用いても勝てるとは限らん。それでも行くか?」
「行くっ。負けたまんま引き下れるかっ」
 悟空は決意もあらたに言いきった。四海は満足げな笑みをたたえながら、何度となくうなずいていた。

 二日がたち、悟空と三蔵が寺を立つ時がやって来た。
 三蔵の後ろには山門がある。そこをくぐれば、後はふもとの村まで何もない。
 僧侶たちが境内に山と集い、三蔵の門出を祝ってくれている。
 高僧の傍らには悟空がいた。
 三日前、この山門を叩いた時とは、考えられないぐらい三蔵の身辺は変わっていた。
 東大寺の秘密を知り、さらに宝玉を取り戻さねばならなくなった。だが、今は悟空という旅の道連れがいる。
 東大寺一のいたずら者との別離に、皆なごりおしそうだった。
 三蔵が白馬に跨がった。
「かならず戻ってくるのだぞ」
 四海が悟空の前で、泣き笑いの笑顔をみせている。
「師兄……」
 広銘が悟空の手を握ってはなさない。
「いったん、長安に戻りろうと思います」
 と三蔵が大雁に別れを告げながら言った。「みんな元気でな」
 悟空はあくまで明るく笑っている。
「悟空を頼みます」
 大雁が深々と頭を下げたので、三蔵は少々慌ててしまった。
「頼むのはこっちだろうがっ」
 悟空はまた怒っている。
「師兄!」
「元気でなー!」
 山門に集まった僧たちが口々にわめいた。
 二人は肩越しに手を振りながら、東大寺を去っていった。
「雄々しく生きるのだ、悟空」
 山道を遠ざかる悟空の背中に、四海はつぶやくようにささやいていた。

「いい天気だなぁ、悟空」
 左手に太君山を眺めながら、三蔵が語りかけた。
「ふん、俺はお前を師匠だなんて呼ばないからな」
 妙意棒を大事そうになでながら、悟空がぶつくさ言っている。
「ハッハッハッ、よいよい」
「なにがよいよいだっ」
 三蔵と悟空は、天竺に続く長い道のりを、ようやく歩きはじめたのであった。

 

◆  第三章 八戒と悟浄


八戒登場

 二人は夕方には最初の目的地である、碧南の村についた。
 日没とともに涼気がました。三蔵は一夜の宿を、村の寺に頼むつもりだった。五亮という男が、住持をしているはずである。
「天竺ってのはどこにあるんだ?」
 白馬のたずなを引きながら、悟空はさも興味ありげに聞いてきた。
「わからない。孝達さまの話では見える者には見えるのだという」
 孝達というのは先年天竺より経典を持ち帰ったとされる大唐国一の名僧である。
「なんだ、そりゃっ。どこにあるのかもわからねぇのか」
 悟空は癇癪を起こして手をふり上げた。
「はるか西域。三十六国のさらに西」
 まるで謎かけだった。
 悟空はふざけるなと言わんばかりに手綱を引っぱりはじめる。
「妙だな」
 馬の背で揺られながら、三蔵はふと小首を傾げていた。
「なにがだ?」
「静かだとおもわんのか」
 心外そうに悟空を見た。
「別に。俺にわかるわけないだろう」
 そういえば、悟空は村に着いたのも、こうして目に見るのも初めてである。
 三蔵は得心がいくと、また頭をかたむけはじめた。
 この時間帯なら、人影がないのはうなずける。しかし、声一つたたないのはおかしい。
 炊事の煙も、一本たりとものぼっていない。そのくせ人の気配だけはあるのだ。
(隠れているようだな……)
 明敏な五感がそれを告げていた。三蔵はまた視線を投げた。そういう点では獣なみの悟空が、気づかないはずはない。
 悟空も確かに変だと思っていたが、夕暮どきはこうなんだろうなと考えたぐらいだった。
 夜は妖怪どもが活発化する時間帯だ。村人が隠れていても不思議はないと思っていた。

 五亮のいる寺は、村の中心にあった。
 悟空が馬を木につないでいる間に、三蔵はしなびた寺院に入っていった。
「ご住職」
 戸を押して、中に声を投げかける。一人の僧が立っていた。五亮ではなかった。
「これは三蔵殿」
 男はこちらを知っているようだが、三蔵にはこれといって見覚えはない。
 悟空が傍まで走ってきて、
「あっ、悟明師兄」
 と、驚いたように声を発した。
「悟空ではないか。こんなところでなにをしている?」
 悟明が意外そうに近づいてきた。
 三蔵が振り返る。
「知っているのか?」
「俺の兄弟子だ」
 と悟空が答えた。確かに、服装はお互い東大寺のものである。
 悟空は疑わしそうに眉をしかめている。
「こんなところでなにをしてるんです、師兄?」
「妖怪退治だ。村人に頼まれた」
 悟明の言葉に、三蔵ははっと気がついた。「まさか、五亮殿はっ?」
 女僧の問いに、悟明はためらうように告げた。
「残念ながら、お亡くなりなられた」

 碧南村はさほど大きくない村だ。人口も二百人たらず、多くは農耕と牧畜で生計を立てている。その小さな村に、先月から二匹の妖怪が出没しはじめた。
 村の住職である五亮は武術の心得があったがため、この二匹を退治しようとしたのだが、力およばず敗れてしまった。
「妙な奴らでな。どうも憎めんところがあるのだ」
 悟明は困ったように頭をかいた。
 悟空はそうはいかない。つい昨日、牛魔王にコテンパンにやられた所でもある。
「なに言ってんだ、そいつら五亮ってのを殺したんだろう!」
「いや、そうではない。五亮殿は妖怪にではなく、長年わずらっていた心臓病に倒れられたのだ」
 妖怪を退治しようとした五亮は、しばらくそいつらとやりあっていたらしい。東大寺への連絡が遅れたのはそのためだ。
 悟明が来たのは二週間ほど前のことだった。
 以来なんどか現われたのだが、まともには戦わず二匹で翻弄しては逃げてしまう。キツネに化かされているようなものだった。
 おかしなことだが、妖怪どもに五亮を殺すつもりはなかったらしい。奇妙な妖怪で、一晩中暴れまわっては、夜明けとともに帰っていく。畑を荒らし、家畜を盗むが、人間には手を出さない。
 たしかにおかしな妖怪だった。
「やはり退治しますか?」
 三蔵はどうやら気が進まないらしい。
「狂暴な奴らではないのですが、放っておくわけにもいかんでしょう。村人をどうこうするわけではないが、ずいぶんないたずら者らしい」
 と悟明は悟空を見た。言外に、お前と同じだと言っている。
 悟空は不服だったが、ここは黙殺でやり過ごした。
「それで、お前はなにをしている」
 悟明は疑わしげに悟空を見つめた。
 二人は仕方なく、東大寺で起ったことをすべて話した。
 三蔵が、東大寺に天竺までの供を求めて来たこと。牛魔王が妖怪をひきいて乗り込んできたこと。
 結果宝玉をうばわれ、悟空がとり戻すために寺を出てきたこと。
「な、なんだと、宝玉が盗まれたのかっ?」
 悟明はすっかり狼狽してしまった。そんな話は寝耳に水である。
「こんなことをしておる場合ではない! 寺に戻らねば!」
「もうおわっちまったよ」
 素っ気なく言う悟空を、悟明はすごい目で睨みつけた。
「なんでお前はそうなんだ! 住持殿に頼まれたのだろう! もっと真面目にやれ!」
 と、八つ当りまではじめる始末である。
 悟明はクソ真面目がすぎる坊さまで、その上声もバカデカイ。悟空はちょっと苦手だった。
「はいはい、真面目にやってますよ」と悟空はさっぱり口が減らない。三蔵を横目で見ながらささやいた。「悟明師兄。この坊さま、本当にえらいんですかね?」
「だ、だまれ、悟空! お前はなんと失礼な奴だっ。三蔵どのは五百羅漢のお一人なのだぞっ」
「まぁまぁ、悟明殿」
 三蔵が片手をふって師兄弟の仲立ちをする。
 悟明はフーと溜息をつくと、腕を組んで頼み込んだ。
「悟空よ。なんとか手伝ってくれぬか。相手が一人ならわし一人で充分だが、二人ではどうにもとり押さえられん」
 ほとほと手を焼いているようだ。
 悟明は真面目すぎて、ああいう策略を用いる相手にはてんで弱い。疑うことを知らないので、コロリと騙されるのである。妖怪どもにとっては、なんともやりやすい相手といえた。
「わかったよ」
 すると、悟空は無造作に了承した。牛魔王に勝つためには、妖怪をよく知る必要がある、と思ったのだ。
 悟明はほっとして吐息をついた。
 悟空は三蔵に向き直った。
「いいよな、三蔵」
「なに、手間はかからん。奴らは今日あらわれるはずだ」
 悟明があんまり確信ありげに言うので、悟空は不思議がって、なんでですと聞いた。
「おかしなことに、奴らは三日おきに現われるのだ。妙に規則正しい奴らでな」
 悟明はしきりに首をひねっている。
 道理で、村人が隠れているはずである。今日がその三日目なのだ。
「師兄には適いませんよ」
 悟空はへらず口をたたきながら、妙意棒で手をトントン叩いた。
 寺を出て以来、まだ一度もつかっていない。悟空は妙意棒の威力をためしてみたかったから、実にいい機会だと思った。
「それで相手はどんなのです?」
「豚と河童の妖怪だ」
「豚?」
 悟空は奇妙な声を出し、ついでゲラゲラ笑いはじめた。
「ぶ、豚だって。あははははっ」
「おかしくないわ、馬鹿者ぉ!」
 悟明がケツをけっとばし、悟空は表に転がりでた。
 悟明は苦々しそうに歯をかみながら、振り返り、「それで、三蔵殿はなぜ男の格好などをしているのです?」
「ご、悟明殿っ」
 三蔵は慌てて悟明の口をふさいだ。
「悟空には私が女であることを隠しているのです」
 三蔵は天竺へ向かうことになったこれまでのいきさつを語った。
「なるほど、それは災難でしたな」
 悟明はいやに感心しながらひとりごちた。「しかし、悟空が本当のことを知ったら怒りますよ。あれは利かぬ気な奴ですから」
 大雁にも言われた気がする。
「そのうち折を見て話しますよ」
 三蔵が苦笑した瞬間、外からなにかが壊れる音が聞こえてきた。
 悟明ははったと棍棒をたぐりよせた。表で悟空がわめいている。
「なんだ、てめぇは!」
 悟明が寺院を出ると、ちょうど悟空が一匹の妖怪と向かい合っている所だった。
「お前こそなんだっ。いつもの奴と違うぞ」
 三蔵が見たところ、その妖怪は確かにブタだった。色が黒く、口は長くつきだし、耳も大きい。悟空より頭一つ高かった。
 がさついた肌と、首にはえた鬣が特徴だった。
「八戒の方です」
 悟明がささやいた。
「八戒?」
 三蔵がくりかえすと、
「変なブタでして、八つの忌み物を食わんのです」
 悟明が付け足して答えた。
 忌み物とは、にんにく、ねぎ、玉ねぎ、にら、天上のがん、地上の犬、水中のやつめうなぎの八つである。
 あの妖怪は、八つの戒めを守ることから、八戒と名付けられたらしい。
 三蔵は、なるほどなぁと感心してしまった。こんな名前までつけられていることを取ると、どうもそんなに憎まれてはいないように思える。
 いたずら好きなところといい、なんとも悟空に似た妖怪だった。
 それによくよく見ると、愛敬のある顔をしているではないか。
 滑稽すぎる顔は、時に愛くるしさを催すものだ。八戒が愛くるしいとは言い過ぎだが、三蔵はどうにもこの妖怪が憎めなかった。
 八戒と悟空は互いに胸をはって威張りあっている。
 三蔵はおもわず吹き出しそうになった。にた者同士のくせに、双方相手が気に入らないらしい。
「そうか、援軍をよびやがったなっ」
「てめぇなんぞを相手に援軍なんか呼ぶかよっ。通りがかっただけだいっ」
 悟空は妙意棒を地面に突っ立て威勢よくまくしたてる。
 対する八戒は、九本の歯を持つまぐわである。
「身の程知らずのブタ公めっ。逆さずりにしてあぶってやるぞ」
「あっ、お前、俺を食う気だなっ。坊主は肉を食ったら駄目なんだぞっ」
「お前のドブくせぇ肉なんぞ誰が食えるかっ」
 悟空は顔を真っ赤にして、妙意棒を差し上げた。
「これ、はしたないぞ、悟空っ」
 あまりの見苦しさに、見兼ねた悟明が声をかけた。
 すると、八戒は、
「あっ、お前はこの間俺を叩いてくれた野郎っ」
 まだいやがったのかと言いたげだ。
 三蔵は村人たちが、家々の陰からこっそりこちらを覗いていることに気がついた。
 この大きくて、力の強い妖怪には近寄れないが、悟空と八戒のやりとりがおかしくて仕様がないらしい。なんとも始末に終えない話だった。
「師兄、こんな野郎にてこずってたんですかっ」
 悟空が呆れたように言った。
「ああっ、お前、今俺をバカにしたなっ」
 八戒はどうも頭の方は弱いらしい。
「バカにしたがどうした、この阿呆!」
「阿呆はてめぇだろうが、腐れ坊主!」
「なにをブタ公!」
「ほざくな人間!」
 悟空と八戒は互いに罵りあうと、それぞれ妙意棒とまぐわをふりかざして襲いかかった。
 戸口から覗いていた者が、さっと奥に引き込む。
 妙意棒がガチンとまぐわを受けとめた。かと思うと、悟空はクイと手首を返して、八戒

 

□  お話とぎれる

ああ、なんと残念なことに。これ以降は原稿が途絶えております。この後、悟空と八戒の一勝負は、悟空側に軍配があがり、八戒は沙悟浄の待つ、沼までとって返します。悟空と八戒たちは、村を谷を駆け回って妖術勝負をくり広げます。なかなかコミカルで大好きだったこのシーンも今のところ取り戻すすべがないようです。私も残念。 さて、八戒と沙悟浄は、悟空との勝負に敗れ、三蔵の弟子になります。四人は碧南の村を出発し、都への旅を続けるのですが……。 話は、第四章の冒頭から始まります。

◆ 第四章 悟空逐電


渇れ谷の白龍

「俺にも姓をくれよ!」
 と、悟空がわめいた。
 明日は長安の都につく。この渇れ谷を越えれば、最後の宿泊地、といったところである。
 陽はまだ高く、急げばおそらく今日のうちには長安につくだろう。しかし、なにぶん、ここまでの旅で、服も旅塵にまみれている。
 今日は、長安の手前にある石窟寺院に泊めていただき、身形を整えることになった。
 悟空の声は谷に響きわたり、反響してかえってきた。
 あたりは草木一本生えない切り立った絶壁であり、悟空がいるのはその谷間である。都の人々は、この近道をとおることが多い。
 以前は隊商を狙った山賊や妖怪が徘徊したそうだが、前皇帝の差し向けた軍隊によって、それもあらかた駆逐されてしまった。
 声に応えて、ガラガラと岩が砂煙を上げながら落ちてきた。
 弟分の八戒と悟浄には、猪と沙の姓があって、自分には悟空の法名だけ。悟空はこれがいやらしかった。
「お前は私の弟子ではないのではなかったのか?」
 三蔵は、笑ってあしらっている。
 四海を大事にする悟空をおもんばかってのことだったが、しかし、その三蔵のやさしい気持ちは悟空には伝わらない。
(師匠と呼ばないもんだからイジけてやがるなっ)
 と悟空は思ったが、いじけているのは当の本人である。
 三蔵は仕方なく、しばらく熟考した後こう答えた。
「孫と名乗るがよい」
「そん?」
 と悟空がくりかえした。
「孫悟空。よい名だ、よい名だ」
 八戒と悟浄もほめそやす。
 悟空もすっかり気に入って、これからは頭に孫の字をいただくことにした。
 さて、四人の師弟が谷を歩いていくと、目の前に一匹の龍が躍り出てきた。
 真っ白なフカフカした毛におおわれた美しい龍が、両隣の崖ほどもある背でこちらを見下ろしている。
 悟空たちは突然のことにあっとなった。白龍がまっしぐらに体を伸ばし三蔵を狙った時には、悟浄と八戒は肝までつぶれてしまった。
 しかし、悟空はさすが兄弟子である。荷物をうっちゃると、馬上から三蔵をひょいとさらった。
 白龍は今一歩のところで、白馬のみをガブリとくわえこみ、鞍やあぶみもろとも腹に飲み込んだ。
 白龍は一行の頭上を通過して、また元の位置に戻っている。
「さぁすが、兄貴ぃ」
 三蔵が無事と知って、落ち着きを取り戻した二人が、喜び勇んで走りよってくる。
 悟空も妙意棒を耳から取り出し、ちょうどの長さに伸ばすと、白龍めがけてよばわった。
「やいやい、このうなぎの出来損ないめっ。この孫さまに何のようだ!」
 悟空はさっそく孫の姓を名乗りながら、妙意棒を地面につきたて白龍をにらむ。
 悟空の天を衝くような意気に毒され、八戒と沙悟浄もてんでデタラメに喚き出した。
 うなぎと言われて白龍はムッとしたようだ。鼻からブフォーと息を吐きながら、「孫の字なんて知るもんか。俺が用があるのはその坊さまだ」
「なんだとっ?」
「唐の坊主をくらえば、命が万と伸びるのだ。さぁ、その坊主をこちらによこせっ」
 と、短い腕を突き出してくる。
「言いやがったな、やつれどじょう。この妙意棒をくらってみろ!」
 悟空がかの棒をびゅうんと振るいだすと、白龍はその勢いに恐れをなしたか、身を翻して逃走をはかった。
 悟空は、「あっ、逃げるなっ」と気勢をそがれながらも振り返り、
「八戒、悟浄。三蔵をまかせたぞっ」
 二人がいさましく返事をしたのに安心し、悟空は白龍の後を追った。

 悟空が『韋駄天の法』を用いて追えば、白龍は全速力で引き離そうとする。
 悟空は今度は『きん雲の法』を用いて、白龍をあっさり追い抜くと、前にまわって通せんぼをした。
「ややっ、なんと素早い奴っ」
 まさか、自分を追い抜いて先回りをしようとは思わないから、白龍は目玉も飛び出さんばかりに驚いた。
「この『きん斗雲の法』はな、一飛で十万八千里といわれるほどの早さなのよ」
 悟空はすっかりいい気になって、きん斗雲をとばしまわる。
「おのれ、この猿もどきっ」
 白龍、ゴウゴウと炎をはけば、悟空は妙意棒をふりまわしてこれをふせぎ、龍めの鼻面めがけて突きをくりだす。白龍は鉤爪をならして引き裂こうとするが、悟空はさせじと棒をふるって応戦する。
 チャンチャンバラバラ、五十合は打ち合ったろうか。そのうち白龍の方が力つき、にっくき悟空からパッと離れた。
「また逃げるのかっ?」
「なにをいうか、まだまだ」
 と、白龍は意気込んでみせたが、すっかり息が上がっている。
 白龍は悟空のまわりをぐるんぐるんとまわって、その長い体を巻きつけた。
「い、いてて!」
 悟空が悲鳴を上げれば、白龍はますますきつく締め上げる。悟空は怒って口中ひそかに『金剛力の法』をとなえると、白龍の体をえいとばかりに跳ね退けた。
 そのうえ妙意棒を太くでっかくして、白龍の頭をドカンドカンとやりはじめたからたまらない。
「ひぇー、かんべんしてくれよぉ」
 白龍は、とうとうまいって降参した。

 悟空は白龍が完全にへたばったのを見て満足した。
 それより、壁画の外にいる龍を見たのは初めてなので、すっかり感心してしまった。
 自分の足元をうろうろ歩きまわっている悟空に、白龍はすっかりしょげてこう言った。
「まいった、あんたみたいに強い人間は生まれてはじめてだ。俺の郷里の龍たちは人の乗り物に使われていたが、俺はそんな生活に我慢がならず、主人を食って逃げてしまったんだ。しかし、あんたは人間でもずいぶんマシなようだ。そこでどうだろう。俺の背中に乗れるのはあんたしかいない。これからは俺の主人となってくれないか?」
 これは願ってもないような申し出であった。なんせ悟空の大好きな龍が、子分になってくれるというのである。
 主人とかいう耳慣れぬ言葉に、悟空はすっかりドギマギしてしまった。兄貴といい、この主人といい、俗世の言葉はどうしてこうも聞こえがいいのだろう。
 さて、悟空は白龍のバカデカイ体を見上げ、しょうしょう鼻白んだ。
「しかしなぁ、お前みたいなバカデカイのに乗ったんじゃ、俺が目立ってしょうがないよ」
 悟空が眉間にしわを寄せて難儀をいうと、白龍はニコリと笑って小さくなった。するとどうだろう。彼は一匹の白馬に姿を変えているではないか。
 悟空があっと叫んで走り寄ると、鞍もくつわもついている。悟空はたいしたもんだと感じいったが、よく見ると、なんのことはない。すべて元の白馬から奪ったものだった。
「どうだい。これならなんともないだろう」
 と、馬のまましゃべるので、悟空はすっかり度胆をぬかれた。
「空だって飛べるぞ。文句ないな?」
 白龍が得意気に聞くと、悟空は、
「けどな、三蔵を食うのはやめにしろ。唐の坊主を食えば命が万年のびるなんて、聞いたことがない」
 すると、白龍は、ある日自分のところにやってきた変な奴が、そう教えてくれたのだと答えた。
「変な奴……もしや牛魔王じゃあるめぇな」
 悟空はまた腹が立ってきたが、とりあえずこの場は白馬を連れて、三蔵のところに戻ることにした。

 三蔵たちは、悟空にいわれたところで、今かいつだと、その帰りを待ちわびていた。
 八戒たちは悟空のいいつけを守って、一生懸命あたりを警戒している。誰でも仕事のやりはじめというのは張り切るものである。これは妖怪でも同じらしかった。
 そのうち悟空が竜にくわれたはずの白馬を連れもどしてきたからびっくりし、ついでこの馬があの白龍だと聞かされまたまたびっくりした。
「これからはこの悟空さまが、白龍の主人なんだぞ」
 と悟空は鼻も高々に威張り散らした。
「主人はいいけど、こいつは俺たちのお師匠さまを食おうとしたんだぞっ」
 八戒はなんだか気にいらないらしい。
「なぁ、悟浄」
 と、相づちまで求めた。
 すると、悟浄はしきりに顎をなでながら、「まぁ、その点に関しては、我々もえらそうなことはいえませんな」
 と、哲学者らしいことを言う。どうも三蔵の弟子になってから、ますます哲学ぐせが深まったらしかった。
「しかし、お師匠をくわれるのはたまりませんな」
 おまけに妖怪のくせに、根から枝葉まで真正直ときているから、融通がきかない。
「そうだそうだ、食われたらかなわんっ」
 八戒が大声で続ける。
「だから、そいつは変な奴にそそのかされただけなんだって。なっ、いいよな、三蔵?」
 悟空が慌てて同意をせがむと、
「悟空の弟子というなら、私の又弟子になる。弟子にくわれるならそれも仕方なしのこと。付いてくるがよかろう」
 三蔵は穏やかに答えをよこした。これには白龍も舌を巻く思いだった。
(女のくせに、なんとしっかりした奴だ)
 大した奴、とうなずいた。感服したと言っていい。
 悟空以外は乗せないでおこうと決めた白龍だったが、この時から三蔵だけは特別になった。
(今日は人間相手に感心させられる日だなぁ)
 白龍はほとほと首をかしげている。
 同時に、一族のはみだし者だった自分も、これで一人前になれたという安堵があった。
(これで胸を張って生きていけるな。後ろ暗いところはなにもないぞ。俺にもやっとこ主人ができたんだ)
 じつはこの白龍。もとの主人を食い殺してしまったことを、ずっと悔やんでいたのである。
 あの一件で自由の身にはなれたものの、以来、一族からは異端児あつかい。野山で食物を探し、時に人里に下りるような暮らし。
 だが、そんな生活とも今日のこれからはおさらばさらば。白龍はすっかり有頂天になってしまった。
 おまけに今度の主人は、
「おい、よかったなぁ」
 と、なんともさっぱりした人物ではないか。
「主人の主人は、俺の主人だ。さ、乗ってくださいよ、お師匠さん」
 と、この白龍も相当に調子のいい奴である。
 三蔵が乗馬すると、なんとも乗り心地がよい。さすが元は龍の化身である。これなら、どんなに座っていても疲れそうになかった。これから長い旅がはじまるのだから、三蔵の喜びもひとしおである。
 三蔵一行は、白龍をくわえ、谷を抜けた。

悟空逐電

 谷をぬけて少し行くと、山肌に壮麗な寺院が建ち並んでいた。
 崖にはいくつも穴があいている。石窟であった。中には天井や壁一面に壁画を描き、本尊をそなえてある。下の寺院は後からできたものだ。
 悟空が門を叩くと、二人の童が出てきた。
「何用……」
 童は言いかけたまま、口をポカンと開いた。「おい、どうした?」
 悟空が言うと、二人はうわぁと悲鳴を上げながら、奥に引っ込んでいった。
「なんなんだ、ありゃあ」
 悟空は憮然としながら門をくぐった。
 一行が本堂の前でかたまっていると、寺の坊主たちがわらわらと出てきた。
「貴様ら、何用だっ」
 三蔵たちを囲み、老僧が怒鳴った。悟空たちはなんのことだかわからない。
 そのうち僧たちの方が、三蔵に気づいた。
「あなたは洪福寺のっ?」
「玄奘三蔵です。今夜の宿をお借りしたいのですが……」
 三蔵はあくまでやんわりと答えたが、僧侶たちは恐慌を来した。
「じょ、冗談ではないっ。なんで妖怪を連れておるのです!」
 と怒鳴った。
 寺院に妖怪を連込まれたのだから、この反応は正常といえる。むしろ、悟空や三蔵の方が信じられなかった。
「この二人は私の弟子です」
 平然と答える三蔵に、僧たちは凝然となった。
「な、何をバカなことをっ。玄奘三蔵ともあろうものが、そんなみすぼらしい妖怪を弟子にとっておるのですか?」
 若くして五百羅漢の一人となった三蔵に対するやっかみもある。
「残念ですが、お泊めするわけにはいきませんな。妖怪なんぞを寺に泊めては、何がおきるかわかったもんではない」
 妖怪妖怪と、まさに言いたい放題である。
 自分たちのせいでお師匠までバカにされ、八戒と悟浄はすっかり意気消沈してしまった。
 これに怒ったのが悟空である。
 嫌がったとはいえ、今や二人は弟分。切り代わりの早いのが悟空の頭だ。
 牛魔王のせいで妖怪には悪感情をもってしまったが、もともとわけへだてのない性格である。面倒見のいい悟空が、義兄弟をバカにされて、我慢できるはずがなかった。
「俺のかわいい子分を妖怪とはなんだ!」
 猛然と怒り狂って、妙意棒をふりまわし、まわりの柱をボカンドカンとへし折りはじめたからたまらない。
「ご、悟空っ」
「あ、兄貴ぃ」
 三蔵は驚き怒り、八戒悟浄は喜んだ。
 僧たちは悟空の怪力に、残らず腰を抜かしてしまった。
 僧のくせに、話し合いも警告もぬきにいきなり行動にうつるのである。こんな無茶苦茶な男ははじめてだった。
「さすがは主人。男だねぇ」
「馬がしゃべったぁ!」
 ほれぼれしている白龍に、僧たちは完全に凍りついてしまった。
「も、申し訳ありませぬ」
 暴れる悟空をやっと本堂から引きずり下ろした三蔵は、急いで地べたに土下座した。
 五百羅漢の玄奘三蔵にそんなことをされては困るし、後ろの悟空はもっと怖い。
 僧たちは、慌てて寝所を貸し与えることを約束し、無礼を詫びた。
「わかればいいんだ」
 悟空はえらそうに胸をはっている。
 この一件で、悟空は三蔵の一番弟子としての株を猛烈に上げてしまった。以来、八戒と悟浄は、悟空の忠実な子分になった。
 三蔵は実のところうれしかった。さすがに悟空は仏弟子である。三蔵は、悟空が小坊主たちにやさしかったという話を思い出した。悟空は四海に受けた恩を、わすれていなかったのだ。
 石窟寺院の僧の方がいい迷惑である。あちこち破壊された上に、妖怪まで泊めねばならない。
 僧たちは、泣く泣く一行に離れの禅堂を明け渡した。

 寺の住持に、天然の温泉を岩で囲った露天風呂があるから入ってみてはどうかと勧められ、悟空は山の中腹まで出かけていった。
 夜ともなると、この辺りは急速に冷える。悟空はしきりに両腕をさすりながら、山道を駆けのぼっていった。
 さて、悟空が露天風呂の近くまでくると、チャプン、チャプンと水音がする。
(さては先客がいるな)
 ついいたずら心をおこし、足音をしのばせると岩屋まで上がっていった。
 物陰からのぞきみると、湯気の向こうに人影があった。
 風がふき、湯気がはれると、そこにいるのはなんと三蔵である。
 なんだ三蔵かと、悟空は無念がったが、入るのをしぶるうち、そこに異様な物を見た。
 三蔵の胸に、なにやら二つのふくらみがある。
(なんだ、あれは)
 悟空は、女の胸には、チチという、つきたての餅のようなものがついていると聞いたことがある。ひょっとして、あれがそうではないのか?
 はっきりしたことはてんでわからないが、そういえば、碧南にいた女の胸もふくらんでいたような気がする。悟空は妖怪騒ぎでよくよく見るのを忘れていた。
 身を乗り出して目を皿にするが、湯気がジャマでよく見えない。
 ひそかに神通力をもちいて風をおこすと、わずかだが湯気を払えた。
 透き通るような白いうなじにドキリとしながら、さらに目を凝らすと、やっぱり胸はふくらんでいる。悟空は自分の胸をさわってみたが、いやにかたかった。三蔵のものとは見栄えも出来も違いそうだ。第一、あんなに一部分だけが突き出るわけがなかった。
 妖怪かな、と悟空は本気で疑った。病気かとも思
って心配もする。ひょっとしたら仏さまが怒ってあんなにしたのかもしれなかった。
 そうだとしたら、三蔵が普段あんなにも仏法を尊ぶのもわかる気がする。
 悟空があれこれ思案していると、三蔵が立ち上がって、全裸がその目に飛び込んできた。
(ないっ)
 悟空は魂も消し飛ぶほど仰天した。兄弟子たちの言っていたことは本当だったのだ。
(あいつ、女だったのか……)
 悟空はだまされていたのだと知って、目の前が真っ暗になった。
 三蔵は女で、そのことを隠していた。心を許しそうになった自分がバカに見えた。
「ちくしょお!」
 悟空は大音声でわめきちらすと、妙意棒をぶんぶん振り回して、岩山を駆け降りていった。
「今の声は……」
 とっさに布で体をおおい隠しながら、三蔵は、はてなんだろうと思っていた。

 さて、三蔵がフロから上がると、悟空がなにやら荷物をまとめている。
「なにをしておるのだ、悟空?」
 風呂上がりで顔を上気させた三蔵が聞くと、悟空はギロリとこちらを睨んできた。
「ふんっ。お前なんぞ信用するんじゃなかった」と、なにやらぶつくさ言っている。
 三蔵は八戒と悟浄を見たが、二人もよくわかって
いないようだった。
「なにをしておるのだ、悟空」
 今度は肩をゆさぶりながら、三蔵は同じ問いを口にした。
「見りゃわかんだろっ。東大寺に帰るんだよっ」
「な、なんだとっ。急になにを言いだすのだっ」
「急にだとっ? てめぇは急に女になったりするのか!」
 三蔵はあっとなった。やはりさきほどの声は悟空だったのだ。
「お前……風呂場で」
 三蔵は耳たぶまで真っ赤になって、言葉をなくした。
 悟空は黙々と荷物を分けている。
「なんのことだ?」
 八戒はまだわかっていないようだ。悟浄はこれこれこうだと説明してやった。しかし、八戒にはやはりわからなかった。
「やめろ、悟空っ」
 三蔵がこらえかねて手をつかみとると、悟空はその体をフッ飛ばした。
「な、なにすんだよ、兄貴っ」
 三蔵を受けとめた八戒が、とがめるような眼で悟空を見る。
「お前らは知ってたのか!」
 悟空の剣幕に、八戒は逆にモゴモゴとなって答えた。
「そりゃまぁ……」
「匂いでわかるよ」
 二人が知っていたと聞くや、悟空の怒りはますますはげしく、西洋大海より深まった。
「よくも俺をだましやがったな、お前との縁もこれまでだ!」
 悟空は耳から妙意棒を取りいだすと、勢いもすさまじく表に飛び出していった。
「白龍!」
 そう叫んだ瞬間には、手綱を解いて、白龍の背に飛び乗っていた。
「とべ、俺は東大寺に帰る」
「いいのかい、主人」
 白龍はとまどった。禅堂から三蔵が駆け出てきたからだ。
「いいから行けっ」
「悟空!」
 叫ぶ三蔵の目の前で、悟空と白龍は夜空に飛び去り、やがて見えなくなってしまった。
「悟空……」
 後に残された三蔵は、裸足のまま境内に立ち、がっくりと肩を落としていた。
 自業自得とはいえ、辛かった。もっと悟明殿のいうことをよく聞いておればよかったと、三蔵は今更ながら後悔した。
 八戒と悟浄が心配して近づいてきた。
「お師匠、長安までは後少しです。あっしらがちょいと東大寺までとって返して、連れ戻してきやしょう」
 八戒と沙悟浄が頼もしげに言った。
「『白雲里の法』ですと、東大寺まで二日とかかりますまい。お師匠はそれまで長安で待っていてください。先に天竺にいっては駄目ですよ」
 と、二人は足元に雲を呼び寄せ、北に向けて飛び立ってしまった。
 二匹にとっても、悟空は今や大事な兄弟子である。あの人間がいなくては、これからの旅もつとまるまい。なにより悲しむ三蔵を見るのが、つらかった。
 八戒と悟浄の姿が、次第次第に遠ざかる。
 三蔵は一人になったさみしさに、胸を押しつぶされそうだった。
 こうして、三蔵は三人の弟子を一度に失い、一人さみしく入城となった。

三蔵の弟子

 悟空がいなくなると、東大寺は火が消えたようにさびしくなった。
 僧たちは悟空がやったいたずらの数々を思い起しては、そのたびに笑い合った。
 寺にいれば手を焼いた悟空も、いなくなってみるとひどくさみしい。小坊主たちもここのところ元気がない。
 味気のない、単調な日々が流れていく。こんなに安穏とした生活は、いつ以来だろう。
 一同、その身を案じていたところに、悟空がひょっこり戻ってきた。

 三蔵と共に旅立ったはずの悟空が武の山に戻ったときいて、大雁はさすがに慌てた。
「もしや、三蔵殿の身になにかっ?」
 心配性の五海がわめいたが、どうもそうではないらしい。そのうち、三蔵が女だと知った悟空が、だまされたと騒いでいるという話が舞い込んできた。
 大雁はなるほどと思った。それなら得心のいく答えである。

 悟空は山頂に座りこんだまま、終日弱って過ごしていた。
 東大寺では、なにより義を重んじる。物もわからぬうちからそのことを諭し聞かせる。
 悟空もそんな育てられ方をされたから、三蔵を心配しないはずがない。
 悟空は三蔵にテレているのである。というか、女という言葉に弱っていた。
 今まで男ばかりの東大寺にいたから、女などには触れたこともなければ口を利いたこともない。どう扱ったらいいのかわからなかった。
 しかも、三蔵の入浴姿が今も胸裏に浮かぶのである。悟空はひどく慌ててしまった。
 心を沈めようと座禅を試みるが、座禅はもともと苦手の一つだ。
 じっと座っていると、湯煙が浮かんできて、その向こうに人影まで見える始末。悟空はうわぁとわめいて立ち上がった。
 三蔵の、凛として、可憐な細いあごが、目の前をちらついている。
「いかんっ」悟空はわめいた。「どうやら俺は狂ったらしい……」
 悟空はしょんぼりしながら、山を降りはじめた。
 八戒と悟浄が東大寺にたどりついたのは、その日の夜のことである。

 悟空は水簾洞の寝台に寝そべっていた。
 兄弟子の帰りを喜んだ小坊主たちが、腐るほど食物を持ち込み、それが山積みにされている。
 寝台の下では元の姿に戻った白龍が、身を小さくして丸まっていた。
「いいのかい、主人。お師匠さんは悲しんでるんじゃないのかね?」
 眠った猫みたいな格好をして、白龍がチロリと眼を上げ悟空を見た。この龍は、最近ではすっかり小坊主たちのいいオモチャになっている。
「ふんっ。俺が知るかよ」
 悟空は素っ気なく答えて寝返った。
 白龍はふーと鼻から炎を吐いて、上にいる悟空に蹴とばされた。
 水簾洞はあいかわらず子供たちでにぎやかだ。悟空はここが好きだった。しかし、昔とは違うものが、自分の中にできてしまった。
「八戒と悟浄の奴はしっかりやってるかな?」
「気になるなら戻ればいいのに……」白龍が呆れている。
 そんな折、洞門の方角から、広銘が息急き切って駆けてきた。
「師兄、大変です! 妖怪が乗り込んできました!」
 水簾洞にいた小坊主たちが、みな騒ぐのをやめ、広銘のところへ集まってきた。
「それで、どうなった?」
 悟空が広銘の肩をつかむと、
「幸い住持さまたちに捕まりましたけど、今度は悟空師兄に会わせろと騒いでるんです」
「「なんだって?」」
 悟空と白龍は同時に顔を見合わせた。

 花果山本堂では、八戒と沙悟浄が縄でしばられ、庭先に転がされていた。
 まわりには大雁たちがいる。
「こいつら、どうやら碧南村であばれていた妖怪のようですぞ」
 二人を捕まえた僧が、大雁にわけ知り顔でささやいた。
「なにぃ、悟明はなにをしていたのだっ」
 どうやら、悟明はきちんと説明しなかったようである。
「ここが東大寺としっての狼藉かっ」
 と、僧侶たちは気色ばんだ。
 なんせ牛魔王があらわれてからさほど日が経っていない。
 またしても、本山に、しかもこんな妖怪どもに乗り込まれて、僧たちは気が気ではなかった。さっそく悪い噂が広がったのかと思ったのだ。
「こやつらの首をはねろ」
 五海の指示で、斬妖刀まで持ち出された。「だから、悟空の兄貴に会わせてくれよ。兄貴とは兄弟分なんだから……」
 八戒が情けなさそうにこびをうりながら懇願する。
「なにをバカなことを……」
 五海がいまいましそうに呻いたところへ、五行山から悟空が走ってきた。
 自分のことを知っている妖怪と聞いて、悟空ははっと閃いた。そんな奴らは八戒と悟浄ぐらいなものだ。
 広銘から人相を聞くと、どうも間違いないらしい。
 悟空が花果山にたどりつくと、ちょうど八戒たちが、首をはねられるまっ最中だった。
「待ってくれよ大雁和尚。そいつらは俺の兄弟分なんだよぉ」
 悟空がわめきながら駆けてくるので、一同はぎょっと顔を見合わせた。
「あ、兄貴ぃ」
 八戒と悟浄は感無量の思いである。悟空はまだ自分たちのことを覚えていて、弟分と認めてくれているのだ。
 自分たちは三蔵の弟子であり、同じ仏門であるということを、強烈に感じさせてくれるのがこの悟空だった。
 悟空は二人の前に立つと、はぁはぁと荒い息を吐いた。
「見ろ、だから言ったろう」
 と八戒がふくれている。
「世の中の誤解のなんたる多きことか」
 嘆いているのは沙悟浄だった。
「だまらっしゃいっ」
 五海がぴしゃりと決めつけた。
「悟空、お前はまた妙な奴らと勝手に契りを結んだのかっ」
 また、というのは白龍のことである。
 そこへ大雁に呼ばれた四海までやってきて、騒ぎはまたゾロ大きくなった。
 僧たちの前で弁明する悟空の姿は、二人の心を強く打った。
 もう心境は、
(兄貴、がんばれっ)
 なのである。
「ちがう、こいつらは三蔵の弟子なんだ。だから、俺とも兄弟分だっ」
「三蔵殿がっ」
 大雁たちは顔を見合わせた。
「悟明師兄を呼べばわかるよ」
 悟空は必死に訴えてくる。
「そ、そうそう、そうなんです」
「うむ。あの方を呼べば万事丸くおさるでしょう」
 二人が調子っぱずれに口裏を合わせた。
 確かに、三蔵の性格からして、考えられないことではない。あの人物なら相手が妖怪でもなんらへだてることがないはずである。
 大雁はまだ疑わしげにしながらも、悟明を呼ぶことにした。

 悟明はすでに東大寺に戻っていた。秋口には碧南村に行き、住持となる予定である。
「たしかに、こやつらは三蔵殿のお弟子です」
 悟明の返答に、五海たちはどよと驚いた。
 大雁はバツが悪そうに、そうであったかとうなずき、
「それでお前たちはここになにをしに来た?」
 すると八戒は、へっ? という顔をする。どうも当初の目的を忘れたらしい。
「兄貴、お師匠のところに戻ってくれよ」
 覚えていたのは沙悟浄である。
「おお、そうだったっ」と、八戒もようやく思い出した。「お師匠は長安で兄貴の帰りを待ってるんだ」
「そんなこと、俺が知るかよっ。あいつは俺をだましたんだぞっ」
 本音では帰りたいくせに、悟空は聞き分けがない。
 すると、四海がそばに近寄ってきた。
「悟空よ、三蔵殿を女といつわり、お前をだましたのは私も同じ。三蔵殿をうらむならば、私をも恨みなさい」
 こうまで言われては、さすがの悟空もぐっと黙るしかなかった。
 そこへ悟明が、「お前は牛魔王を倒すのではなかったのか?」
 と言ったので、悟空ははっと気がついた。
 そうであった。自分の目的は牛公をぶちのめすことなのだ。三蔵の一件で、そのことをコロリと忘れていた。
「お師匠は兄貴がいなくなったんで、ビービー泣いてましたよ」
 八戒が追い打ちをかける。
 むろんウソである。
「なにっ?」
 悟空もこれにはちょっと驚いた。それはかなりおもしろい話である。
「そうか、やっぱり俺がいないとなんにも出来ないんだな」
 悟空はすっかりいい気になって、八戒の口車に乗ってしまった。
「しょうがないから戻ってやるか」
 さもめんどくさそうに言いながら、妙意棒を肩にひっかついだ。
 白龍がドロンとまたもとの馬に化ける。悟空がその背に飛び乗った。
「じゃあな、みんなっ。あばよ」
 白馬の体が宙に舞う。
「悟空!!!」
 東大寺のみんながあっという間に小さくなって、やがて芥子粒みたいに見えなくなった。
「兄貴、さっきの話」
 と、八戒がささやいてきた。
「なんだ?」
「やだな。牛魔王のことだよ」
「ああ、あれか」
 悟空はこれこれしかじかと説明した。
 牛魔王と戦ったと聞いて、二人はますます仰天した。
「牛魔王といやあ、西域をたばねる古代妖怪ですぜっ」
 と、八戒が一息にしゃべった。
「古代妖怪?」
 悟空にはわからない。
「俺たちみたいなろくに生きてない妖怪を新妖怪というんだ。牛魔王はどえらく長く生きて、神通無辺といわれる大妖怪なんだよ」
 悟浄ですら少し興奮したようにまくしたてるのだ。牛魔王と戦って生きているとはさすが兄弟子である。
 ちなみに混世魔王で、古代妖怪のはじっこにようやく入る程度であった。
 牛魔王は古代妖怪の中でも最上段にいる強い化物だ。新妖怪の八戒と悟浄が恐がるのも無理はない。
「その宝玉ってのはなんなんでしょうね?」
「なんでもそれ一つで仏法世界が治められるらしいんだ」
「へぇ、そんなちんけな玉っこ一つで?」
 八戒にはどうにも信じられない。
「兄貴、牛魔王とあっても戦わないのが得策ですぜ。あいつは化けもんなんだから」
「もともと化けもんだろうがっ。俺が負けると思ってんのかっ」
「だって東大寺にいた時はやられちまったんだろ?」
「あん時は妙意棒がなかったし、仙術も使えなかったんだ。今はちがうぞ」
 悟空がさも自信ありげに言うので、八戒と悟浄はすっかり信じてしまった。
「はやいとこ、お師匠さんのとこに戻ろう。長安で今ごろで待ちわびてるぞ」
 八戒がうれしそうに言った。
 悟空は鼻で笑うと馬腹を蹴った。

 

◆ 第五章 宝玉の行方


午王と利扇

 皇居の一画、郭羽の居室に、この頃よく出入りする者がいる。
 その男は身の丈七尺(約二百十センチ)肉厚など郭羽の三倍はある。よく肥えた肉体は、それだけで相手を威圧する。いかにも硬骨の士、といった観があった。
 もう一人は、女だった。目がわずかに釣り上がり、それがかえってこの女を武人らしく見せている。スラリとした体が、ときに妖艶ですらあり、都に来て一月、はやくも宮中の視線の的となっていた。
 郭羽は手にきらきらと輝く宝玉を持ち、恍惚とした表情でそれに見入っている。
「午王よ。これはすばらしいな」
 内に高ぶるものを、堪えきれぬ声で言った。「御意……」
 午王と呼ばれた男が、深々と腰を折る。
 堂々たる体躯のせいか、そうした仕草がいかにも栄える。
「宮中でのことはまかせておけ」
 郭羽が言った。その顔にある皮肉な笑みに、午王は気づかなかった。
 午王と利扇は、共に郭羽が西域の旅より連れかえった。午王の三十名の配下は、そのまま郭羽の部下となった。
 郭羽は昔から武人として名が高かったし、能力さえあれば卑賎の者でも召し抱えた人間である。西域への旅路で、午王のような者を拾って帰ったとしても不思議はなかった。
「これで役目は果たせましたな」
 午王はほっと、安心したように笑った。
「よくやってくれた。お主の義侠心には感服いたす」
 郭羽は莞爾と褒めちぎる。
「なに、当然のことをしたまでです」
 午王は満足そうな笑顔をつくると、利扇を連れて出ていった。
「郭羽さま」
 と、それを待っていたかのように、部屋の闇から声がした。
 郭羽が振り向くと、そこに一人の武将が出現する。
 今までは確かにいなかったはずである。いれば午王は気づいたはずだ。
 忽然と現われたとしか、思えなかった。
「李天か」
 郭羽は別段驚きもせずに歩み寄っている。「話を聞きましたか?」
 李天が聞いた。郭羽は眉根を寄せて、苦そうにうなった。
「三蔵とかいう女僧のことか。托羽め、余計なことを……」
 声にうらむような響きがある。李天は遅疑もなく問うた。
「いかがいたします?」
 李天の問いに郭羽はわずかに迷った。
「行かせるわけにはいかん。孝達だけでも手を焼いたというのに……托羽めっ」
 次に出た言葉は、驚倒に値するものだった。
 孝達とは天竺から帰りついたとされる、唐国きっての名僧である。手を焼いたとはどういうことか?
「そのことですが……」と、李天は言った。「孝達めは死にました」
 郭羽はさすがに目を見張り問い返した。
「なぜだ?」
「自ら」
 李天の答えは短い。それ以上は口にしなかった。しかし、郭羽は短い言葉の中から、全てを飲み込んだようである。
 李天の目に、咎めるような色がある。
「うむ……」
 郭羽が、もぞりと一声、うなりをあげた。「方法を変えるべきでしたな」にべもなかった。郭羽がにらむが、李天は気にも止めていない。
「あの者たち、いつまで身辺においておくつもりです?」と、李天は急に話題を変えた。
 郭羽は溜息を吐いて答えた。
「あれの神通力はまだまだ役に立つ」
「されど妖怪です」
 李天の目が怪しく光った。
 午王と利扇は、牛魔王と羅刹女の変じた姿であった。
「東大寺の僧が、いつかぎつけるかわからん。あやつらは釈迦如来より宝玉の守護を命じられた者たちだ」
 大雁がこの場に居たら、腰を抜かしていただろう。
 これまで隠しぬいた秘め事を、都の太子が知っている……。
 郭羽の東大寺に関する知識は、それほどに正確だった。すべてを知った上で、牛魔王に宝玉を奪わせたのだ。
「ですが時は経ち、すでに本来の目的を見失っています」
 李天の語調がきびしい。
「だが、わからん。もう三百年も宝玉を守ってきた奴らだ」
 郭羽が鋭く切り返した。こちらも理がある。だが、李天を納得させるには足りなかった。
「人は長くは生きられません。宝玉の価値を知っている者が、果たして幾人いますかな?」
 さぐるような目で郭羽を見上げる。
「それでもだっ。この宝玉を須弥山の奴らに渡すわけにはいかんのだっ」
 郭羽の声がとがった。
 ややあって、李天が言った。
「……玄奘三蔵はどうなされます?」
「そやつめも天竺にはいかせられん。托羽をつかうか……」
 郭羽の声が落ちた。
「いざとなれば……」
 李天の声も低い。
「やむをえんな……手配をしておけ」
 郭羽が溜息をついた。仕方がない、とでもいいたげな口調だった。

 

不肖の弟子、長安にたどりつく

 三蔵はもといた洪福寺に帰りついた。
 寺でその帰りを待ちわびていた弟子たちはひとしく喜んだ。
 東大寺より戻って、四日が経っている。その間、三蔵は一歩も洪福寺を出ていない。
 托羽は三蔵が東大寺へ赴いたことを知っているはずである。それに対し、あの世間知らずの太子がどう出るかわかったものではなかった。その点、洪福寺なら師や弟子が多くいるし、都の中心でもある。安全といえた。
 しかし、不都合が生じなかったわけではない。東大寺から連れてきた旅の供が帰ってしまったことだ。
 托羽は当初、自分の用意した家来を連れていけと申し出たが、こんなものは論外である。三蔵はそのことを告げにきた使者に笑って断っている。
 僧たちは、ならば長安でと供を探すことを提案したのだが、今度も三蔵は承知しない。都でみつけた供では、托羽の意を含んでいる危険があったからだ。そのために、わざわざ東大寺まで、危険を冒して供を探しに出かけたのである。
 三蔵はすっかり参っていた。都の直前まで来て、全ての弟子に去られようとは、三蔵も思いも寄らない出来事であったのである。
 天竺までの遠く長い道のり。長安を出るまではなんと悩んだことだろう。それが今度の旅で、頼もしくも愉快な供を見つけることができた。三蔵は大いに喜んでいたのである。これなら天竺までの旅も、楽しくやりとげられるのではないか、そう思えていた……。
(悟空、八戒、悟浄、白龍。どうか無事に戻ってきてくれ)
 三蔵はまんじりともせず、四人の帰りを待った。
 僧侶たちの多くは三蔵の西天行きを望んではいない。洪福寺は三蔵のおかげで栄えた寺だったし、なによりその人物がよかった。
 だいたい妻にならんなら、不老長寿の薬を探しに行けとは、無法も極まったものである。皇子の口から出たとはいえ、そんな理の通らない命令は、はねつけてやればいいのだ。
 問題は、太宗皇帝が今回のことになんら反対をしていないということにある。
 太宗は仏心のおぼえ厚く、唐国における仏縁の寺を栄えさせた男である。逆らえるわけがなかった。
 表は三蔵の帰りを知った托羽の家来がうろついているにちがいない。なんとか三蔵に天竺行きをあきらめさせ、自分の物としたいはずである。
 三蔵は、最近では弟子にさえ外出を控えさせている。見回りの兵士に嫌がらせをされるからだった。
 仏の弟子たる太宗が、こんな事態を見逃すとは思えなかったが、現実として起こっているのだから仕方がない。
 三蔵には、悟空らの帰りを待つしか法がなかった。

 悟空と八戒たちは、長安に程近い草原のくぼみの中にいた。
「でけぇなー、あれが長安かぁ」
 間延びする声で感嘆しているのは悟空だ。
 今は東大寺の僧独特の服から、立派な道着にきがえている。八戒が持ち込んだものだが、おおかたかっぱらいでもしたのだろう。
 一方、その八戒は、今は人間に化けていた。
 腹がせりだし丸々と肥えて、恰幅のいい大商人といった貫禄がある。
 悟浄は背のヒョロ高い青年に化けていて、八戒の息子といえば通らないこともなかった。
 白龍だけが、そのまま馬だった。
 この馬は術で化けて人をだますという行為がおかしくてしょうがないらしく、さかんにヒンヒン嘶いている。
「南の尚遠から来た商人ということにしよう」
 白龍がいっているのは、規模では長安につぐ大唐国の都のことである。
 彼らは三蔵に会うため、こうして都までやってきたが、このままの姿で入れるわけがない。
 悟空は人間だが、東大寺の僧である。あの寺の人間が都に来ることは滅多にないから、あらぬ詮議をかけられないとも限らない。八戒と悟浄にいたっては真の妖怪である。
 結局、問題がないのは、馬の白龍のみであった。
 悟空たちは持っていた荷物をつづらの中に放りこむと、白龍に背負わせた。
 術をつかって飛んでいったりしたら、関所の番兵にすぐさま取り押さえられるにちがいない。ここから関所までは、のんびり歩いて行くことになった。
 悟空はこの頃ようやく里の人間は、自分たちのように武術や仙術をやったりしないのだということを理解しはじめた。そんなことのできる自分の方が妙であり、できなくても不思議はないのだ。
「うまく行くかなぁ。俺は都に行ったことがないから不安だよ」
 くぼ地から出ながら、八戒は不安げに顔をしかめた。
「大丈夫だよ。俺がしゃべってやるから、八戒は口をぱくぱくさせてな」
 と白龍は頼もしい。
 商人へと身をやつした一行は、やがて関所にたどりついた。
 都の門はおそろしくデカく、悟空はもう度胆を抜かれていた。こんなところで暮らしているのはどんな奴らだろうと思うと、それだけでワクワクしてきた。
 一行が関所に入ると、兵士が数人駆けよってきた。ここでは、相手の身分に関係なく調べるのが決まりである。
 それにしたって慣れぬことだ。悟空たちはやにわに緊張して、身を堅くした。
(しまったっ)八戒ははっと気づいて舌打ちをした。(俺が女に化けてたらしこみゃよかったんだ)
 ぞっとしない考えではある。
「都へは何のようです?」
 門番は八戒の意に反し、笑顔で四人を迎えた。長安の関所ともなると、対応も懇切丁寧である。
 白龍が後ろから八戒の背をドンと押した。「都にいる私の伯父と、商売の取引に参りました」
 白龍が答えるのに合わせて、八戒が口を動かす。水中から引きずりだされた、死にかけの鯉みたいにパクパクさせている。
 悟空と沙悟浄は脇で観戦していたが、傍目に見ても無理があった。
「いま、その馬がしゃべらなかったか……?」
 果たして、門番は愕然とした表情で聞いた。八戒は青くなったり赤くなったりした。
 もう駄目だ。俺の妖怪人生はこれまでだ。捕まって変化を解かれて、焼き豚にされちまうんだ。果ては人間の口におさまって、畑の肥やしになっちまうんだ……。
「そんなはずはありません」
 八戒が暗然と思念を繰り広げている間に、悟空はしゃらりとして答えていた。
 兵士は納得のいかない顔で白龍を指でさす。「しかし、今……」
「ご覧の通り、この者がしゃべったのです」
 当然でしょうと言いたげに、悟浄が肩をたたいた。八戒は慌ててうなずいた。
「そ、そのとおりっ」
「いや、しかし……」
 なおも食い下がる男に、仲間の方が呆れた。「おいおい、馬がしゃべるわけないだろう」
「この忙しさのあまりだ。ボケたのではないのか」
 なんせ、長安には毎日うんかのような旅人が、続々と押し寄せてくるのである。時には延々五里はつづく隊商が到着することだってある。
 悟空たちはろくに待つ必要がなかっただけ幸運だといえた。
 仲間に笑われ、男もようやくあきらめたようである。不承不承といった顔で、四人を通した。
 悟空が修行僧の姿を解いたのは、計算以上の実を上げた。
 托羽は三蔵が東大寺に供を求めに行ったことを知っている。修行僧のまま関所をくぐったりしたら、たちどころに托羽の耳に伝わっていただろう。
 商人に化けた悟空たちは、なんの疑いももたれず、長安にもぐり込むことができた。

 悟空にとって、長安は驚きの連続だった。
 信じられない数の人間たちが、見たこともない服を着てしゃべりあっている。こんなにぎやかな場所は、東大寺にはどこにもなかった。
 女がいる。子供の女も大人の女も、ちゃんと生きて歩いている。さすがは都だと思った。
 悟空はこんなにせわしなく動く人間ははじめて見た。
 都とはなんと華やかで美しいんだろう。帰ったら、広銘や四海師範に教えてやらなくちゃ……。
 道には露天があふれ、客を相手に商売をしている。こんな威勢のいい啖呵の物売りは見たことがなかった。
 ここには何もかもがある、そんな気がした。二十年以上も生きて、こんなものがあるとはついぞ知らなかった。
 悟空は三蔵のことなどコロリと忘れて、様々な店をのぞき、あらゆる女たちをしげしげと見てまわった。
 弱ったのは八戒たちである。
 なにせ悟空は見るもの全てに、「おお」とか、「ああ」とか、一々うなり声をあげてはうなずくのである。
 こんな男が目立たないはずがない。
 すぐさま兵士に追跡され、洪福寺に入るところまで目撃された。
 かくして、一件は托羽の知るところとなったのである。

玄奘三蔵、捕えられる

 悟空たちは変装していたし、関所にも商人として届けてあった。が、正面から洪福寺に入ったのだけはいけなかった。
 三蔵の天竺行きが決まって以来、洪福寺への人入りはパタと絶えている。この一行は妙だった。天竺への供にちがいなかった。
 托羽は三蔵が今に泣き付いてくるものと信じて疑わない。三蔵が一人で戻ってきたため、東大寺の庇護を受けられなかったと信じたのである。
 托羽の予想はまったく当てが外れていた。三蔵は東大寺の住持と面識があったし、彼らに都の太子を捨て味方をさせるほどの人徳もあった。
 その面の才が見事に欠落している托羽には、なんの見返りもなしに三蔵の味方をする東大寺の考えが理解できなかったのだ。そこへ、この三人がやってきたのである。
 当然托羽の怒りは、いきおいすさまじいものがあった。ちょうど弟から、あれこれ吹き込まれた所でもある。
 さっそく兵を率いて、洪福寺へと出向いていった。

 その洪福寺に悟空が現われた。
 弟子の報せを聞いた三蔵は、すぐさま境内に走った。
 三人は、そこで洪福寺の僧に取り囲まれていた。
 白龍だけが木につながれて蚊帳の外である。傍目にも不満そうなのがありありとわかった。
 悟空と話しているのは三蔵の師、親岳であった。
 これが全て三蔵の弟子であると聞いて、八戒たちは仰天した。弟子は自分たちだけと思っていたのだ。こんなにえらい坊さまだとは、夢にも思わなかった。三蔵に対する畏敬の念は、ますます深まったといっていい。
 三蔵が一群に近づいていくと、八戒が気づいて手を振った。
 人垣を割って入っていくと、二人の方からやってきた。
「よくやってくれた八戒、悟浄」
 うれしそうに言うと、この二人は照れ臭そうに頭をかいた。
「いやぁ、なに、簡単なことです」
「このぐらいで礼をいわれてはたまりませんな」
 悟浄が、テヘとえらそうに言った。
「悟空っ」
 三蔵が手を振ると、悟空はふふんと鼻先で笑った。
(泣いてたくせに)
 と、思っている。
 八戒のウソとも知らないで、なんともいい気なものである。
 悟空はうんと文句をいってやろうと思ったが、今はまわりを囲む僧たちに身動きがとれなかった。
 うわさに聞く東大寺の僧を見るのははじめてだ。無遠慮な視線にさらされ、悟空はさも迷惑そうである。
 そのくせ、さっきまで道行く人々に同じような視線を向けていたことには、とんと気づかないのだ。
 八戒と悟浄は、かわりに悟空の世間知らずを申し立て、この師を笑わせた。
「そう言うでない。悟空は東大寺から」一歩も外に出たことがないのだ。世間を珍しがって当然なのだよ」
 三蔵の言い分を聞いて、悟浄たちはなるほどと納得した。
 強いことには間違いないが、そんな悟空を、かわいそうになぁ、とながめた。
 三蔵の師、親岳は好奇心の旺盛な男である。六十歳を越えて、なお矍鑠とした老人だった。
 腰を曲げて歩いてはいるが、伸ばそうと思えばいつでもできる。したたかだった。
 子供のような目で、悟空の顔をしげしげとのぞきこんでいる。
「東大寺の僧は、みな剽悍無比な武術家だと聞くが、本当ですかな?」
 親岳は興味津々である。
 悟空はどうもこの老人が苦手だった。あけっぴろげすぎてスキがない。
 悟空はこの手の人物がどうにも苦手だ。どこまで踏み込んでいいのやら、とんと見当がつかめない。
 だいたい、問いの意味事態がよくわからなかった。悟空の感覚では武術はやっていて当たり前なのである。
 剽悍無比で当たり前。坊主のくせに武術もやらない、親岳たちの方がよっぽどおかしかった。
 そこで、「そう」とつい投げやりになった。悟空は困るといつもこれで通す。
 この投げやりな一言のみで、さらなる騒動を引き起こすのだから、まさに名人芸である。
「お師匠。もうよろしいでしょう」
 悟空がこまっているのを察した三蔵が、横合いから口を入れた。
 親岳はまだ話し足りなさそうにしていたが、三蔵を見てあきらめた。
 三人を招いて、本堂に入った。

「本当にこの三蔵めを守っていただけるのですな?」
 親岳はいささかくどい。悟空は口を開くのも面倒になって、首だけを振っておいた。
 洪福寺の本堂である。
 親岳と三蔵以外はいない。後は悟空の両脇に座る、八戒悟浄だけだった。
 親岳は上座に坐ると、すぐに本題に入った。事態はそれほど切迫している。
 三蔵を守るのにはかなりの覚悟がいるといっていい。また、なければしくじるだけだ。
 托羽は思慮の足りない若者である。前後の見境もなく、事を起こす。殺されるやもしれなかった。
 親岳にとって、三蔵は娘も同然の存在である。くどくなっても仕様がない。
 三蔵はその人柄と容姿のおかげで、庶民に人気があったのだが、今回だけはその容貌が仇となった。
 三蔵は洪福寺の宝だ。五百羅漢の一人となれば仏法界の宝ともいえた。これほど徳の高い僧は、都にさえ何人もいない。
 親岳は洪福寺を継がせるつもりでいたし、今や悲願となっていた。それがこんなくだらない一事で立ち消えになったのである。怒らない方がどうかしていた。
 庶民の感情も三蔵に同情的である。誰が目に見ても、托羽の非道はあきらかだからだ。
 太子にいびられる高僧。しかもそれが美しい女となれば、当然の成り行きだった。
 親岳は、愛弟子をこんな窮地に追い込んだ托羽が憎かった。声を枯らして、托羽の非道を訴えた。
「托羽?」と、悟空が問い返した。
 よく考えたら、悟空は三蔵が天竺にくことになった理由を知らない。
 牛魔王を倒す一念で寺を出たせいか、そんなことは念頭になかった。思考できなかったといっていい。
 なんとも呑気な話だったが、それが悟空である。これも仕方のない話だった。
 親岳はこれまで起こったことを、正確に悟空に話して伝えた。
 三蔵が托羽に見初められたこと。それを断ったがために、天竺に行くことになったこと。
 悟空は義を以てなる東大寺の僧である。こんな話を聞いておもしろいはずがない。
 三蔵への怒りが、たちまち托羽に向けられた。
 悟空にいわせると、まずは三蔵が悪い、なのである。
 自分をわきまえずに外をうろつきまわるから、こんなことになる、というのである。
 悟空は東大寺がよこした護衛であるから、親岳はすっかり信頼しきっている。こんな無茶苦茶な論理はないのに、その通りだと相づちまで打ちはじめた。
 三蔵は合点がいかない。
 悟空の論理はともかく、八戒と沙悟浄はもう完全に三蔵の愛護者になってしまった。
 やはり、古今東西を通じて、権力者に狙われた美女というのは、庶人を味方につけるものらしい。
 八戒は顔を真っ赤にして、おかげで危うく変化がとけそうになった。
「お師匠をそんな目にあわすとはなんて奴だ!」
 と吠えた。
「うむ、なんたる没義道っ。許せませんな」
 沙悟浄も哲学っぽい言葉に酔いながら、憤っている。しかし、しょせん河童は河童である。
 もともとこの妖怪たちは三蔵の信望者だから、その怒りときたら天を衝くものがあった。
「あんな男に帝位をゆずっては大唐国はおしまいだ」
と、親岳はうなった。「郭羽さまに継がせればよいのだ。あのお方ならすべては丸くおさまる」
 後は無念のあまり言葉にならなかった。
「郭羽、というと?」
 悟空がうながした。
「大唐国の第二子だ」
 親岳は郭羽が、文武両道に秀でた人物で、家臣にも慕われているのだと言い募った。大唐国を継ぐには彼以外にないとまで言った。同時に、托羽がどれほどおろかで、人の上に立てる男でないかを言い立てた。
 無思慮で責任感がなく、自分のおこした行動がどんな結果を引き起こすかもわかっていない。
 今回の事とてそうである。この無茶な要求のせいで、どれだけ多くの人間の意趣を買ったか、あの男は少しもわかっていないのだ。
「その郭羽ってのに、継がせりゃいいじゃないか」
 悟空が事もなげに言えば、
「第一子に相続権がある。郭羽殿ではどんなに才があっても、国は継げんのだ」
 親岳はムッツリとした表情で答えた。
 悟空は変な話しだな、と頭の後ろで手を組んだ。
 東大寺なら血縁なんて関係ない。実力至上の世界だった。親岳のは悟空のような男には永遠に理解できない悩みなのである。
 沙悟浄は、ううんとうなって三蔵の袖を引いた。
「郭羽というのはそんなにすごい方なんですか?」
「お会いしたことはないが、清廉潔白な人物だときいている」
 三蔵は答えながらも、親岳の怒りっぷりには少々よわっている。
「庶人の声を聴くためにあらゆるところに出かけ、国家のために西域までおもむいたお方じゃ。托羽殿とは比べものにならん」
 親岳の意見を抜きにしても、都での托羽の評判は悪すぎた。
 世継であることをいいことに、やりたい放題なのである。これでは憎まれて当然だった。
「そんな奴の命令なら行かなければいいんじゃないですか?」
 八戒は大事な師匠が托羽のいいなりになっているのが気に入らないらしい。
「そういうわけにもいかんのだ。托羽殿はまぎれもない世継ぎ。それに逆らっては洪福寺にも迷惑がかかる」
 ここで天竺行きを辞退しても、托羽は次々と難題を突き付けてくるだろうと、三蔵は言うのだ。
 家臣のなかでも特に官僚がいけない。托羽のいい
なりなのである。
 宮中でも武官は郭羽をたて、文官は托羽を支持する。表面には出てきていないが、両派閥の暗闘は激しさをますばかりである。
 太宗皇帝の存在だけで、均衡を保っているようなものだ。太宗はいわば重しである。その太宗が死ねば終わりだった。
 国を治める者が派に別れて争っているようでは、大唐国の未来は真っ暗である。
 托羽の件は太宗も悪い。態度が甘すぎるのである。
いくら息子がかわいいとはいえ、限度があった。なんらかの処置をとるべきなのだ。
 太宗が何もしないから、托羽の頭の高い態度はますますひどくなる。庶民がどんなに托羽を嫌っても、太宗皇帝はなにもしてくれない。裏切られた気持ちだったろう。
 太宗が我人ともに認める名君であっただけに、その思いは強烈だった。だが、太宗を憎むわけにはいかない。結果、庶民の怒りは托羽へと向けられていくのである。
 三蔵の一件がとどめだった。彼女はあまりに有名だったし、美人というだけで僧のなかでは一等の人気がある。それをこんな目にあわせて、ただですむわけがない。
 こんな思い上がった若者のために、玄奘三蔵を天竺などに行かせられない。
 だが、天竺行きは太宗の命として発せられている。これに逆らうわけにはいかなかった。
 悟空は呆気にとられた。こんな無法な話しは聞いたことがない。
 悟空は今まで好き放題に生きてきた男である。世の中には逆らえないものがあるのだということに、納得ができなかった。
 八戒が悟空の耳に口を近づけてきた。
「なんともなりませんかねぇ、兄貴」
「バレないようにこっそりやろう」
 これは隠れてぶちのめそうということだ。
 世継をぶちのめしておいて、隠れようとはあさましい。この男も無法だった。
 後ろの障子がガラっと開いた。弟子の一人が入ってきた。
 男は急いで親岳に歩み寄ると、その耳に何事かをささやいた。
「なにっ」
 親岳の表情がひっぱたかれたように変わった。その変貌ぶりに、さすがの三蔵も不安になった。
「なんです?」
「托羽殿が来られたらしい……」
「えっ?」
 三蔵が驚いて男を見ると、彼は消え入りそうな声で答えた。
「三蔵師匠を出せと騒いでいます」
「一人か?」
 親岳がさぐるように弟子を見た。
「とんでもないっ。文官だけじゃなく、護衛まで連れています」
「なわけないわな」
 苦そうに奥歯を噛んで、親岳は悟空たちを見た。瞬間ぴんと来るものがあった。
「まさか……」
 托羽は都中に配下を潜伏させている。この三人が洪福寺に入るところを、内の誰かが見ていたに違いない。
 もっと早くに気づくべきであったと、親岳は自分の不始末を悔やんだ。
「どういたしましょう?」
 不安そうに顔をゆがめる三蔵に、彼はすっと立ち上がった。もう腰は曲がっていなかった。
「ウソを言って逃れられる相手ではあるまい。外に出て応対しよう」
「この者たちはどうしましょう?」
 三蔵は手つきで三人をさして聞いた。
 親岳はわずかに詰まったが、
「一緒に来ていただこう。もうここに来たことは知られておる」
 この言葉に三蔵もようやく思い当った。
 もっと気をつけてく来ればいいのにと、恨むような気持ちにもなったが、今更どうしようもない。
「聞いた通りだ。お前たちも付いてきてくれ」
 なんとなく用件は想像できるが、対応のしようがなかった。理不尽な相手に、まともな返事が通じるわけがない。
 おそらく托羽は悟空たちのことを部下から聞いてやって来たのだろう。なにか嫌味でも言いにきたに相違なかった。
 その時、悟空がどう行動するかが心配だった。この男は返事もせずに、なんの前触れのなく、突然行動にうつる。ある意味、托羽よりタチが悪かった。
 三蔵は悟空の顔を盗み見たが、悟空はなにもわかっていない顔で、つまらなそうに生欠伸をしていた。

 外に出ると、僧侶たちが寺を囲むようにして集まっている。
 その前に立っているのが托羽だった。
 脇にひょろひょろとした男たちがいる。取り巻きの文官だろう。
 護衛は六人もいた。もっとも正式の部下ではない。全員托羽が都で雇った流れ者だった。
 その流れ者が、太子の庇護をいいことに好き勝手をやるから、托羽の評判はますます悪くなる。
 中央に立つ托羽は、妖しいまでに白い肌をした美麗な若者だった。
 三蔵が出てくるとニヤニヤと笑う。思い上がったいやな顔だった。見ているうち、悟空はますます腹が立ってきた。
「あっ、兄貴に似た人間がいる」
 八戒が余計なことを言っている。確かに托羽と悟空はにている。
 言いにくいことを平気で言うのが、八戒の長所であり短所でもある。
「ばかいうなっ。俺があんなウラナリかよっ」
 案の定、悟空にぶん殴られた。
「これはこれは托羽殿……」
 親岳はさっきまでの批判がうそのようにペコペコしはじめした。
 悟空はこの変わりようが信じられず、親岳まで厭になりだした。
「三蔵が東大寺より戻ったそうだな」
 托羽がチラリと三蔵を見た。
 三蔵が錫杖をシャラリシャラリと鳴らしながら進み出る。
「只今戻りました」
 ペコリと頭を下げると、托羽は蔑むような笑みを浮かべた。
「只今? お前が戻ったのは三日も前だろう」
「もうしわけありませぬ」
 三蔵はさらりと受け流す。
 おのれ師匠をと、八戒が飛びかかろうとしたが、察した悟浄と弟子たちに押さえられた。
「こらえて下さい。我々も耐えているのです」
 弟子の一人がいったから、八戒もさすがにううむと唸るしかない。
「それで、天竺への供は見つかったのか」
 親岳と三蔵はどきりとなった。やはりである。
 托羽は奥にいる三人に目をくれた。
「あの三人か」
 バカにしたように笑った。
「残念ながら、私の護衛の方が強そうだな」
 三蔵はムッとした。八戒と沙悟浄は今はあんな格好をしているが、元は妖怪だし、悟空にいたっては東大寺の僧である。
(托羽殿の護衛など、何人かかろうと適う相手ではないっ)
 三蔵は何度となく叫んでやりそうになったが、喉元でグッと堪えた。
 不安になったのは、三蔵の弟子たちである。彼らは三人の戦う姿を見ていない。
 特に悟空の容姿がいけなかった。体格が取り巻きの文官と変わりがない。
 だが、それは見せかけである。力は山をも担ぐ怪力だし、動けば雷電の如しだ。
 見かけもついていけばいいのに。やはり東大寺だと三蔵は思った。
 親岳がちょっと自信なさげに弁明した。
「いえ、彼らは実のある者たちでして……」
「まぁ、信用だけはできるかな?」
 托羽は、この人のよさそうな二人が、よもや凶悪な人相の妖怪だとは思わない。
 単純な八戒は、湯気をたてんばかりに怒っている。
 托羽はそんな八戒を見て、顔のゆがみをますます濃くした。
「なんなら俺の護衛と勝負させてみるか」
 そのうえ嘲る。
「兄貴っ」
 八戒はもう真っ赤になって、しがみついている弟子を振り回した。できるならあの小癪な人間めを食い殺してやりたい。
 しかし、当の悟空が平然と突っ立っているのである。
(妙だな……?)
 三蔵はますます心配になった。この短気な男が、これだけバカにされて怒らないはずがない。
 三蔵の胸中は心細さでぐるぐると渦をまいていた。不安の帆に強風を受けているようなものである。
 悟空は表面は平気な面をしているが、その腸は煮え繰りかえっていた。
 悟空は怒りすぎると、表情がなくなる男である。なにをしでかすかわかったものではない。
「ご挨拶ですな」
 悟浄だけはすました顔であご髭をしごいている。
 托羽はチラリと横目で見た。
「あの男たちは東大寺の僧ではないのか?」
「ち、ちがいます。東大寺では、断られたので、帰りの旅で雇ったのです」
 三蔵が慌てて言った。これ以上東大寺に迷惑をかけたくなかったのだ。
「玄奘三蔵もこの程度の供しか手に入らなかったのか」
 托羽の声にさげすみの色があった。
 三蔵はくやしげに唇をかんでいる。
 ちがうのだ、托羽はこの者たちを知らないだけだ。自分のために働いてくれる、勇猛な弟子たちなのだ。
 三蔵はうつむいたまま何も言えなかった。言ったところで托羽が信じるはずがない。
 これを、托羽は三蔵が真実弱ってのことと取った。予想通り、ろくな供も得られず、弱り切っている。
 当然態度が高飛車になった。
「天竺行きはあきらめて、許しを乞うなら側室にくわえんでもない」
 ついに本音が出てしまった。
 托羽にとっては譲歩のつもりだった。しかし、三蔵にとってはとんでもない話である。
「そのようなことは夢々考えたこともございませぬ」
 震える声で言うのみだった。
 度々にわたって拒絶を受け、托羽は内心怒りに狂った。なぜこの女は自分を受け入れようとしないのだっ。なぜこの女だけは思い通りにならないのだっ。
 托羽は三蔵以外の女に拒否されたことがない。振られたなどと、誇りにかけても信じたくなかった。
 この女はくだらない女で、自分が愛を分け与えるにも値しないのだと、そう信じたかった。
 ギロリと悟空を睨み、指でさした。
「あの男だなっ、あいつに誑かされたんだろう。だから、俺のところに来ようとしないのだっ。そうだ、お前のようなアバズレ、誰が妻になどするものか!」
 と喚き立てた。
 親岳は不覚にも呆然となった。何を言い出すのだこいつは。
 フラれた腹いせにしても、言い過ぎである。当の三蔵も、あまりに突拍子のない言葉に、怒りを通り越してきょとんとしている。
 一方、悟空はとうに限界を越して、わなわなと唇を震わせていた。
(そうだ、こいつはその程度の女なんだ。こんな女にいつまでも執着しなければよかった。他にいい女はいくらでもいる。こんな面倒な女はもう御免だっ)
 托羽は自分の言葉に納得して、さらに勢い込んだ。「出家のくせに、もう男をたらしこんだのか!」
 その瞬間、悟空が棍を振るった。
 托羽のまわりに立つ護衛が、鼻面に棍をくらって次々とふっ飛んでいく。
 それは托羽が、いまだかつて見たことも聞いたこともないような迅さだった。
 よりをかけて雇った屈強の護衛が、あっという間にぶちのめされていく。
 托羽は瘧のように震えた。僧侶たちは寂として声もでない。さすが東大寺だった。
 悟空が振り向き、ニヤリと笑ったのを見て、托羽はようやく我にかえった。
「なにをしている、その男を取り押さえろ!」
 声に動いたのは沙悟浄と八戒だった。それぞれ武器をおっ取ると、残った護衛を叩き伏せた。
 托羽が気づいた時には、悟空はもう眼前にいた。ぎくりとした時には、岩のような拳に頬げたをぶん殴られていた。
「やったっ」
 親岳が快哉を上げたが、事の重大さにまだ気づいていなかった。
 太子を殴るなど言語道断である。打ち首にされても文句はいえない。
 托羽のとりまきが悲鳴を上げた。
「やめろ、悟空!」
 三人は、すでに文官たちに向かっていた。
 托羽は呆然とそれを見ていた。こんな滅茶で、こんなに素早い奴らははじめてだった。
 目の前で起こっていることが、容易には信じられない。あの男たちは選りすぐりの護衛をあっさりと叩きのめしたのである。
 まるで出鱈目だった。世にはこんな途轍もない男たちがいるのだ。
「やめるんだ、悟空!!!」
 三蔵の悲鳴は絶叫に変わった。
 三人ははっとして動きを止めた。怒りにまかせて動いてしまったが、そのことで三蔵がどれほど迷惑をこうむるか考えていなかった。
 これでは弟子失格である。破門の恐怖に慄然とした。
 三蔵は荒く息を吐きながら肩を震わせている。八戒と悟浄がバッと平伏した。
 と同時に托羽も目覚めた。
「は、はやく、そいつらをひっ捕らえろっ」
 声がどうしようもなく上擦っている。親岳はもう
さげすみの色を隠そうともしない。
 文官たちは急いで門を開き、外に控えていた衛兵を招き入れた。
 三蔵たちは率然と自分たちが罠にはめられたのだということが理解できた。
 托羽は最初から三蔵が断れば弟子もろともひっ捕らえるつもりでいたのだ。
 そうでなければこんなにうまく衛兵が来られるはずがない。
 八戒と悟浄はえらい事になったと、どぎまぎした。
 頼りの悟空兄貴は、棍を持ったまま突っ立っている。
 衛兵が、棍を両手で下げ持つ悟空を取り囲む。
 這いつくばったままの八戒たちは、棍を背中に押しつけられ、よってたかってねじふせられた。もう寸とも身動きがとれなくなった。
 衛兵は三蔵にも縄をまわして縛り上げた。「師匠になにする!」
 八戒と悟浄は色めき立ったが、
「よいのだ、八戒悟浄。手助け無用」三蔵は向き直り、「お主もだ、悟空」と言った。
 悟空はしぶしぶながら承諾した。護衛たちのあまりの弱さに、気抜けしたと言ってよい。
 縄を巻かれた時にはかっとなったが、三蔵にみつめられ、やむなくこれに従った。
「托羽さまっ」
 あちらでは托羽太子が助け起こされている。
「お師匠!」
 縄で巻かれた哀れな姿に、弟子たちは涙にくれている。
 三蔵……と、親岳がうめいた。まさかこんなことになるとは……。
 それを見て、托羽は青い顔で笑った。
「お、お前はバカだ三蔵。こんな護衛をやとわずに、俺を受け入れていればよかったのだ。そうすればこんなことにはならずにすんだ」
「この者たちは護衛ではありませぬ。私の弟子です」
 毅然という師匠に、八戒たちは胸が熱くなった。三蔵はまだ自分たちを弟子と認めてくれている。
 この三蔵の堂々たる態度には、一同ほとほと感服した。さすがは五百羅漢であった。
「連れ出せっ。いますぐ打ち首にしてやる!」
 それに対する托羽のなんたる男気のなさよ。
 衛兵たちは残らず托羽を軽蔑したが、とりまきの文官と護衛はちがう。彼らは托羽が皇帝になることで出世が約束されているのだ。
 托羽は、三人と同じように縛られて仏頂面をしている悟空にわめいた。
「貴様、名を言え」
「孫悟空」
 悟空はぶっきらぼうに答えた。
「貴様もだ。貴様は一番重い罪にしてやる。俺を殴ってくれたんだ。苦しみながら死ねばいいんだっ」
 およそ太子が言っていい言葉ではない。
 托羽は悟空の冷ややかな目に射抜かれて、あやうく腰を抜かしかけた。
「お前が威張れるのは帝の息子だからだ。そうじゃなかったらとっくの昔に殺されているぞ」
 あからさまな侮辱に、托羽は赤くなり、ついで青くなった。悟空の言葉は正確に急所を突いていた。
「連れていけ!」
 托羽はなんとか八つ当りだけはこらえているが、内心は、恥と怒りにのたうちまわらんばかりだった。
(許さんぞ孫悟空っ、かならず貴様をこの手で引き裂いてやるっ)
 三蔵一行は、馬上から縄で引っ張られ、都中を歩かされた。
 玄奘三蔵の無残な姿に、人々は眉をひそめている。勝ち誇ったような托羽の顔が、いやでも目についた。
 弱ったのは、報せを聞いた太宗皇帝であった。なんせ相手は五百羅漢の一人、玄奘三蔵である。四人はすぐさま宮中の牢獄に放りこまれたという。とんでもない話しだった。
 事のあらましは家臣の報告で飲み込めているが、それだけに心苦しかった。三蔵にはなんら落ち度がないのである。
 罪人のように縛りつけ、市中を引き回したのだけはまずかった。だいたい托羽を殴ったのは弟子の一人で、三蔵自身は何もしていないのだ。
 箝口令をしいてはいるが、人の口に戸が立てられるものではない。親岳は老練な僧である。なんらかの処置をとってくるに違いなかった。何より長安の庶民が本当のことを知りたがっている。
 縄でしばられ、連行される三蔵の姿を、大勢の人間が目撃している。どんな罪状を与えたところで、一緒にいるのが托羽では、納得するはずがなかった。
 三蔵の人柄は、なにより太宗自身が知悉している。五百羅漢に推薦したのは、他ならぬ太宗なのだ。それだけに今度の天竺騒ぎは、老いた皇帝を苦しめた。
 托羽が悪いのは百も承知している。皇帝に向かないのもわかっている。それでも息子がかわいかった。名君と呼ばれただけに、その苦しさは尋常のものではなかったろう。
 なにより托羽をかばっているのが、妻の千悌である。
「三蔵の地位を取り上げるべきですっ。太子を殴るような者を弟子にとった三蔵にも責任はあります。五百羅漢の任を即刻ときましょう」
 千悌は托羽が殴られたと聞いて、さっそく太宗の前に現われた。
 太宗は皇帝の血筋ではない。前皇帝の長女であった千悌と結婚した、いわば婿養子である。それだけに妻には逆らえなかった。
 プライドばかりが高くて、家臣はみな嫌いぬいている。この女さえいなければ、といっそ殺してやりたくなるが、できるものではなかった。
 太宗がさほどの身分でなかっただけに、やっかむ者はまだまだ多いし、前皇帝の娘というだけで味方は山とつく。
 太宗も頭が上がらないはずだ。千悌が付け上がるのは当然である。
 太宗の一番の失策は、千悌に対し何もしなかったことだった。
 それが息子の托羽にまで影響を及ぼしている。太宗は自分の身分の低さを何度呪ったろう。
 出来の悪い子ほど、不憫がかって可愛いものだ。托羽が愚かであればあるほど、千悌の愛情は深まるのである。托羽が、他の全てを曇らせるほど愛しかった。
 三蔵とかいう坊主に息子が熱を上げているのも気に入らない。
「その孫悟空とかいう弟子も、打ち首にするべきです! 孫と姓がつくからには、僧ではありませんっ」 これは悟空が僧では支障があるからである。
 大唐国は仏教の国だ。古来僧を殺して無事ですんだ例はない。
「しかし、三蔵どのの弟子だ。殺してはただではすまん」
「関係ありません。太子に手を出しても処罰を受けないという前例を作れば、よからぬことを考える者が出てくるやも知れませぬ」
 千悌の言うことももっともである。相手が三蔵でなければ、太宗もそうしたに違いない。
「仕置きをするべきです。そうではありませんかっ」
 千悌は五十歳になってまだ美貌を保っている。それが怒気をあらわにして迫るのだから、たまったものではなかった。
「三蔵殿を処罰すれば、庶民も騒ぐことになるぞ」
「それにしても、五百羅漢のまますておくわけにはいかぬでしょうっ」
 太宗はついに窮した。
「わかった。だが、任をとく変わりに、裁きを行なう。それでいいな?」
 やっとそれだけ言った。
 千悌は満足そうにうなずいた。

三蔵と郭羽

 木造の格子の向こうで、三蔵は座禅を組んでいた。付き合っているのは沙悟浄である。
 八戒と悟空は思い思いの格好で寝転んでいる。
 三蔵は五百羅漢の地位を奪われ、今は一介の坊主であった。
 さすがに縄はとかれているが、まぐわと宝杖をとられてしまった。悟空の妙意棒だけは耳に隠していたから無事である。
 番兵がさっと敬礼をする衣擦れの音をきいて、悟空たちは目を開いた。
「郭羽殿!」
 なんと、格子の前に立っていたのは、第二太子の郭羽である。三蔵は五百羅漢の就任式で、一度だけだが見たことがあった。
 郭羽は三蔵に目礼すると、四人の顔を眺めつらした。
「兄上を殴られたそうですな」
「はっ。申し訳ありませぬ」
 平伏する三蔵に、郭羽は手を振って許した。「よして下さい、こちらも悪いのです。それより、これで天竺行きはなくなりましたな。さぞ、御無念でしょう」
 残念そうにいう郭羽に、三蔵はこれまでの経緯を説明した。
「では、あなたには天竺行きの思いは元々ないのですな?」
 念を押すような言い方だった。三蔵は不審におもったが、別にウソではない。はいと答えた。
 すると、郭羽はニコリと笑い、
「わかりました。今回の件よきにはからうよう、父上に話しておきましょう」
 そう言い残すと立ち去った。
「郭羽殿……」
 三蔵は感涙にむせんだ。托羽殿は御自身の兄であらせられるというのに、噂にたがわぬ高潔な方だ。
 これには悟空もほとほと感心してしまって、しきりに郭羽を誉めている。
「そうかな」八戒と悟浄だけは鼻をぴくぴくさせている。「あいつ、なんか嫌いだ」
「なにが嫌いなんだよ」
 真っ向から反論されて、悟空はいささか不満そうだ。
「よくわかんないけどさ。雰囲気が……」
 八戒の答えはいやに曖昧である。
「なんだ、そりゃ? はっきりいえっ」
 殴られた。
「これ悟空っ」
 三蔵の叱責が牢にひびく。
「あまり信用せん方がよろしいですよ」
 弟子のなかではもっともまともな悟浄の意見に、三蔵はうむと唸った。

 入れ代わりに現われたのは、太宗と千悌である。 こちらは郭羽と違って、護衛を率いている。この点でも悟空は郭羽に好意をもった。
「太宗皇帝っ」
 三蔵がまたひれ伏した。
 八戒と悟浄も、これが大唐国の皇帝かとはいつくばっている。
 一人ケツを向けているのは悟空である。この辺も東大寺であった。
 千悌の頬が、ヒクヒクと引きつる。
「その者が托羽の頬をぶったのですか」
 表情は平静をよそおっているが、声音には怒りのほどがありありと現われていた。
「も、申し訳ありませぬ」
 三蔵はこれ以上下げられぬほど頭を下げて、地に額をすりつけた。
「おろか者! 謝ってすむ問題ではないわ! 托羽はいずれは大唐国を継ぐ大事な身ぞ! それを殴るとは何事じゃ!」
 千悌のあまりの憤激に、三人はいよいよ恐れ入った。
 冷めた眼光をピタリと三蔵に据え、わきの男に合
図した。
「玄奘三蔵の五百羅漢の任をとく」
 太宗お付きの文官が、一種冷めたような声で文面を読んだ。
 三蔵は鼓動が止まりそうだった。あまりのことに息がつまった。
 いまここに、正式に羅漢の地位を破棄されたのである。不覚にも無念の涙がつきあげてきた。
 ぐっとうつむき、撫で肩をふるわす玄奘に、悟空がバッと立ち上がった。
「なんで三蔵が罰を受けるんだっ。托羽を殴ったのは俺だっ」
「ばかめ、おぬしはまた別の罰を受けるわ。三蔵のような軽いものではないぞ。死罪はまぬがれないと思え!」
 悟空はさっぱり理解できなかった。
 自分はまちがっていない。嫌な奴を殴ったところでなにが悪い。悪いのは托羽ではないか。
 悟空が悶々と思案にくれる合間に、さきほどの文官がまた書状を読み上げた。
「明日、御前にて裁決をとりおこなう」
 三蔵がはっしと顔を上げた。事態はそこまできていたのだ。
 太宗と目があった。その眼がすまぬなと謝っている。
 三蔵は太宗の慈悲を察し、ますます平伏するのであった。
「もう天竺にはいかずともよい」
 太宗の声が空しく岩屋に響いた。
 そういえば、諸悪の根源はそれである。もとはといえば、托羽が天竺に行けなどと言い出したところから、事は大きくなりはじめたのだ。
 三蔵は胸にポカリと穴が穿たれたような気分になった。
 こうして岩屋に入れられ、五百羅漢の任を解かれている。明日になれば、御前で裁決を受けねばならない。
 自分がこれまでなんの苦楽もなく進んだ栄誉の道が、いま陶器のように砕け散った。多くの弟子に囲まれ暮らした幸せな日々は、ひょっとして嘘だったのではあるまいか? すべてが夢のようであった。
 この上、事の発端の天竺にまで行かずともよいでは、本当に全てが夢と帰してしまう。
 三蔵は三人の弟子の顔をそれぞれ眺めつらした。
(この者たちとも離れることになるのか……)
 いやなことだった。
 この時、三蔵の胸中には、急速に一個の思念が固まりつつあった。
 三蔵は思い詰めた表情で下唇をかんだ。
「お言葉ですが、私は天竺にまいります」
 顔を上げた三蔵が口にした言葉は、意外極まるものだった。
 太宗たちはドヨと騒めき、千悌は色を変えてまくしたてた。
「なにが、天竺にまいりますですか! そんなもの罪状逃れに決まっていますっ。天竺に行ったところで、お前の罪が消えると思って……っ」
「千悌!」太宗はさすがにわめいた。両手をつく三蔵に視線をうつし、「その言葉、偽りはないな?」
「はっ。たしかに」
 太宗はうなずいた。
「いいだろう。その点に関しては、後日協議としよう」
 そういって背を向けた太宗に、三蔵は深々と頭を下げた。

 怒ったのは郭羽だった。
 三蔵からは天竺には行かぬ旨、その口から聞いたばかりである。それを舌の根も乾かぬちに翻すとはなんだっ。
「あの坊主め! 何が天竺になど行きたくないだ!」
 三蔵はそこまで言った覚えはないが、郭羽は勝手に解釈したようだ。
 人の記憶なんてなんとも都合よくできている。
 わきに控えていた李天がポツリと言った。「もしや、我らの正体を見抜いたのでは?」
 郭羽はぎょっとなった。思いも寄らなかったことである。
「ありうる、あの女は五百羅漢の一人だ」
 ぴしゃりと決めつけると、危ぶみはじめた。「妙な真似をされんうちに、消した方がよろしいのではないですか?」
 そう言ったのは腹心の那托である。怪しい光が、その目の奥で揺らめいている。
「それはまずい」
 郭羽は即答を返したが、那托は能面のごとき表情を変えない。
「一緒にいるのは東大寺の僧です。残りの二人も人間ではないかと」
 那托の言葉に、郭羽はおもいつめた表情でたたずんでいた。
「殺しはまずい。この国を手に入れ、意のままに操るまでは……」
 ポツリとつぶやいたその声が、暗い自室に響いていった。

「悟空……」
 三蔵が肩を揺すった。
 悟空はムスリとした顔で起き上がった。
「まだすねておるのか?」と、聞く。
 そういえば、都に来てから、三蔵とは一言も口を利いていない。
 悟空はなにか用かと目で訴えかけた。
 すると、
「お前をだましてすまない」
 と素直に頭を下げられた。
 悟空は眼を白黒させて驚いた。こんなえらい人物に、しかもぶん殴りもせずに頭を下げられたのは初めてである。
(ちぇっ)悟空は思った。(これじゃあ、許さぬわけにはいかないじゃないかよ)
 三蔵さえ助ければ、後は放免を決め込んでいた悟空も、これにはかなわない。
 それに、このまま頭を下げさせたのでは、孫悟空の男がすたる。
「もうやめろっ」
 と三蔵の顔を上げさせた。
「私はだますつもりはなかったのだ」
 三蔵はしょげたように悪意のなさを伝える。
 悟空は、「もういいよ」と怒ったように言い捨てた。
 とりあえず、三蔵が真剣に悔いているのはわかったが、悟空はどうあっても照れが消せない。これは本気で弱ってしまった。
 三蔵は傍で眠っている悟浄と八戒を見やった。
「おかしなことになってしまったな。お前たちと天竺の行くはずが、いま、こうして牢獄にとらわれている。私は五百羅漢の地位を剥脱され、お前は死罪にかけられている」
 ぽつりと溜息とともに吐き出した。
 俺が死ぬもんかっ。牛魔王とだって互角に戦った
んだ。それに今は妙意棒がある。三蔵は都のえらい坊さまなんだろ?
 悟空はそういったことをまくしたて、きっと大丈夫だと言ったが、三蔵の危惧の色は晴れない。
「どうかな。太宗皇帝はともかく千悌さまは本気だ。あの方はなにより托羽殿を愛していらっしゃるのだ。それが托羽殿を腐らせてしまっている……」
「好きなのに、相手をくさらせるのか?」
 悟空にはわけがわからない。
「時としてそういうこともある」
 三蔵は謎めいたことをいって口を閉ざし、悟空もなんとなくだまってしまった。
 狭い牢獄の岩壁には、八戒のいびきが響いている。
 大の字になって寝る二人に目をくれてから、悟空は視線を三蔵に戻した。
「本当に天竺に行くのか?」
「ああ」
「なんでだ。もともと托羽に無理矢理やらされたんだろう」
「それでも行く」
 三蔵はきっと口元を引き結んだ。
「なんでだよっ。もう行く理由なんてないだろうっ」
「理由はある」
 言い切る三蔵に、悟空ははっきりと訝しんだ。理由などあろうはずがない。
「なんだよ?」
「私の信仰心だ」
 三蔵の返答に、悟空はぎゃふんとなった。「そ、それが理由か!」
 叫ぶ悟空に、玄奘三蔵はふわりと笑った。「天竺が見てみたいのだ。托羽殿に言われたときは絶望したが、今はお前たちがいる。天竺への旅は苦しかろう。だが、決して無益なことではないはずだ」
 一生懸命に話す横顔を、悟空はじっと見つめている。
「仏教がこの地に根付いて長い。なのに、今も多くの人が苦しんでいる。教典も教えもきちんとあるのに、なぜなんだろうな?」
「俺にわかるわけがないだろう」
「私にもわからん。だが、釈迦の住まう地にたどりついたなら、何かわかる気がする」
 三蔵は遠い目をして言い終えた。
 燭台の光がゆらゆらと揺れ、三蔵の顔に微妙な陰影を落としている。風が吹いて、火が消えた。辺りは月の光だけになった。
「命を拾ったら、ついていってやる」
 珍しくしおらしい悟空に、三蔵は正直おどろいた。「俺は俗世をもっと見てみたい」
 それが悟空の願いだった。
「そうか」
 薄闇の中で三蔵が笑った。都にいた大勢の女より、美しいと悟空は思った。

御前

 玄奘三蔵とその弟子たちの裁決は、御前にて執り行われた。
 壇上に座っているのは太宗皇帝。傍らに立つのは千悌である。
 三蔵たちは正面に平伏しており、玉座の右下方にいるのが、一件の被害者、托羽太子であった。
 右手には郭羽が兵を率い、その中には午王と利扇の姿もあった。太子を守るようにして立っている。
 左手にいるのは托羽雇いの傭兵である。
 記録修めの文官の数は、十数人をかぞえた。「面を上げよ」
 太宗がおごそかに告げた。ここに、御前対議ははじまった。
 三蔵は顔を上げると同時に、息がつまりそうになった。
 太宗のまわりに、都の高僧たちがいる。玄奘三蔵を心配して集まったのだろう。
(申し訳ありませぬ)
 三蔵はきつく両眼を閉じた。
 八戒と悟浄はあまりの場違いに、脂汗をかいている。おそらく、妖怪にしてはじめて御前に座っただろう。処刑の二文字が、重く二人にのしかかっていた。
 お互い妖怪なんだから、普通の処刑法では容易には死なないのだが、化物用の処刑もあると聞く。
 八戒と悟浄が泣きそうになっても無理はなかった。
 そんな中、悟空だけがけろりしている。というより物珍しげにキョロキョロしていた。いかにも楽しそうである。
「おほんっ」
 千悌がわざとらしく咳払いをするが、悟空は気づかない。
「おほん、おほんっ」
 しつこく続けると、三蔵の方が悟空の所作に気がついた。
「これ、悟空っ」
 ぴしゃりと叱りつけると、悟空はようやく太宗に視線を向けた。まるで珍しいものを見るような無礼な目付きである。
 悟空がこちらを見たので、皇帝も安心して口を開いた。
「その方、我が息子托羽を殴打したそうだが、それは何故か?」
 じろりと見下ろすが、悟空はおもしろそうにへらへらしたままなにも言わない。
 理由もなく都の太子を殴られてはたまらなかった。
「わけを申せといっておるっ」
 千悌が痺れを切らしてどやしつけた。
 背後に控える高僧たちは、青くなったり赤くなったりしている。悟空の態度はあからさまに無礼だったし、それ以上にこの質問には無茶があった。
 悟空には万人の認める理由がある。師匠をてごめにされようとすれば、庇おうとして当然ではないか。
 だがそれをいえば、太子、ひいては皇帝陛下を侮辱することになる。この御前でいえるものではなかった。
 ようするに、千悌は悟空をなんとしても殺したいのだ。そして、師の三蔵にまで害を及ぼしたいと目論んでいる。
 太宗の問いは悟空にとっては全くおかしな物だった。殴るのは気に入らないからである。今さら聞くほどのことでもない。
(なにを言っているんだか……)
 父親にしてこれだから、息子はああもバカなんだなと、得心のいく思いがあった。
 ちらりと托羽を見た。不安そうにこちらを見ている。悟空は予想どおりの反応をしないのだから当然だろう。こんな炸裂弾みたいな男を敵にまわした、托羽の方こそ不幸である。
 三蔵は、一座の者より悟空を知りぬいている。腹の髄までズンと冷えた。下手をすればこの場で暴れだしかねない。そういえば、悟空は妙意棒を持ったままだ。
(妙な男だな)
 と、郭羽など首を捻っている。
 死刑確定の瀬戸際で、にやにやしている男というのは見たことがなかった。
「理由などないと申すかっ?」
 かみつかんばかりの勢いで千悌が聞いた。
「理由はあるよ」
 孫悟空が笑いをおさめた。一同はそれだけでぎょっとなった。このまま千悌を怒らせては、自分たちにまで類が及ぶ。
(頼むから妙なことは言わないでくれっ)
 一様にそう願った。
「申せ」
 千悌がうながした。
「そいつは」
 悟空は托羽をチロリと見た。兵士たちはオロリとなった。
 太子に向かってそいつとはなんだ。
「無理を通したんだ。そんなことをすれば、通された者は恨みを持つよ。無理というのは押し通せば、どこかでまた破綻するそうなんだな。俺の師匠はいつも無理を通すなと言っていた。通すならば筋を通せといったもんだ」
「なっ、なっ」
 あまりの怒りに、托羽は言葉が出てこない。
(ほう……)
 郭羽は眉をひそめて感服した。皇帝を目の前にして、これだけ言い切れる男はそうはいまい。
 気に入らないのは午王と利扇である。
 悟空めは東大寺から自分たちを追ってきたに決まっている。悟空にはこのまま死んでもらった方がいいのだ。
 午王以上に気に入らないのが千悌であった。
 かわいい息子を打ち据えて、なお侮辱するとは、なんと不適な奴だろう。こんな男はさっさと殺してしまうに限る。
「お、お前は次期皇帝に恨みを持つというのかっ」
 これは決定的な問いだった。
 悟空が恨みを持つと言えば、立派な反逆罪が成り立つ。
「当たり前だ。恨みを持つのに家臣も主人もない。耐えがたいことなら恨みを抱いて当然。そのために殴ることがあっても、仕方のないことだ」
 悟空の声が、その場にいる家臣たちの胸にストンと落ちた。
 おおかたの家臣が抱く共通の思いを、悟空は代弁してくれたのである。こんな痛快な言葉はなかった。
 悟空はこの一言で、ここにいる家臣たちを味方につけてしまった。だが、言っていいことではない。
「そうか、お前は恨みをもって托羽を殴ったのだな」
 果たして千悌はニタリと笑んだ。
「死刑だ! そいつは死刑だ!」
 托羽は喉を枯らしてわめいた。悟空が怖くなったのである。
 正確には、自分が今までしてきた全ての所業におそれを抱いた。悟空の言葉はそれほど衝撃だったのだ。
 自分は主人で、家来は家来。そう思っていた。だが、男と男という立場に立った時、自分がいかに無力か。
 世には悟空のような野人がいるのである。そして、恨みなら腐るほど買っているはずだった。
 今この男を殺さねば、いつか自分が殺される。そのことを腹に徹して理解できたのである。
「待て」
 意外なところで、口を挟んだのは太宗だった。
 最初の問い以降、声を出したのはこれが初めてである。
 太宗は玉座から一座を見渡した。
「施政者として、これは当然持つべき配慮だ。その者はまちがってはいない」
 太宗の言葉に、托羽は呆然となり、千悌は怒り狂った。
 托羽は御前に進み出ると、悟空に指をつきつけた。
「そ、そいつは東大寺の僧だっ。残りの二人もそうにちがいない」
 わめく托羽に悟空はぎょっとなった。今更なにをいいだすのだこいつは。
 急に不安になってきた。
 三蔵を見ると、やはり顔が青い。状況がまずくなったのは明白だった。
「東大寺は仏寺のくせに、武術をやり、大唐国を転覆させるような力を持っています。その者たちは三蔵と共に、唐国を滅ぼしにまいったのです」
 千悌は控える家臣に向けて、訴えるような口調で言い放った。
 家臣たちは残らず生き肝を抜かれたようにぶったまげた。唐国を滅ぼすとは尋常のことではないし、またそういうからにはなんらかの根拠があるはずである。
 東大寺、という言葉が、事の理非を見失わせた。唐国の施政に関わる者にとって、あの寺は常に目の上のタンコブであり、恐れの対象であったのだ。
 並み居る兵士たちの胸に、眠りかけていた東大寺に対する恐怖心が、まざまざと甦ってきた。
「ご、悟空は東大寺の僧などではありませぬ」
 三蔵はすっかり動転して千悌の言葉を否定した。
 なんのことだかわからなかった。東大寺は確かに武術をやってはいるが、反逆の思想など毛ほども持ってはいない。
 それに自分が大唐国を滅ぼすとはどういうことだ?
「な、なにを根拠にそのような……」
 太宗が、ようやく落ち着きをとり戻して聞いた。まだ顔から困惑が消えていない。それほど意外極まる言葉だった。
「愚かなことを……」
「三蔵殿が、そのような真似をするはずがない」
 国王のまわりで、僧たちが囁きあっている。
 このバカな女のいうことを、いちいちまともに受けとめてはやっていけない。その思いがありありとうかがえる口調だった。同じ仏門である、東大寺をかばおうとする気持ちもある。
 千悌の口調はきっぱりしていて、八戒と悟浄などほんとにそうかと思ったほどだ。
 しかし、よくよく考えると、大唐国を滅ぼそうとしているのは自分たちだということなる。こんなバカなことはなかった。デタラメで殺されたのでは割りに合わない。
「そ、そんなはずはありませんっ」
 八戒は汗をダラダラ流しながら弁明した。悟浄はアワアワいっている。
 悟空にいたっては、魂まで消し飛んでいた。(親子そろってなんてバカだ)
 今すぐ妙意棒を取り出して、暴れ回ってやろうかと思った。
「例の物を持ってきなさい」
 千悌が側近に命じた。
 三蔵たちは、もはやこの女の一挙一動から目が離せなくなっている。放っておいたら、何を言いだすかわかったものではなかった。
(例の物とはなんだ?)
 三蔵はいぶかしんだが、きっと千悌の論理を裏付けるものにちがいない。
 午王と利扇は、一同に隠れてにやりとなった。これで悟空と三蔵の罪は確定的だ。
 側近が奥から何かの包みを持ってきた。
「それは、私の荷物っ」
 と、包みを見た三蔵が声を張り上げた。
 千悌が側近から受け取ったのは、天竺行きのために、三蔵が用意した道具一式の詰まった胴乱である。
 これには太宗も戸惑った。
「どういうことだ?」
「中身をごらん下さいな」
 千悌は、そういって側近に胴乱の中身をとり出させた。
 独鈷に符、水晶、袈裟など、種々様々なものが入っている。
 千悌は、その中の独鈷といった戦闘用具が問題だというのだ。
 托羽の命を狙うために用意したに決まっている、と言うのである。
 太宗は呆れ果てて口も聞けない。起こってもいないことで三蔵を処罰できるはずがなかった。これは無法極まる論法である。
 この女はこれでなんとかなると思い込んでいるのだ。それがなんとも哀れで悲しかった。今は亡き前皇帝が、この場にいたらなんといって嘆いたろう。
「それは天竺に行くため取り揃えたものですっ。托羽殿の命を狙うなど、夢々考えたこともござりませぬ」
「だが、お前の弟子は托羽に恨みを抱いていると言ったではないかっ」
 三蔵はあっとなった。千悌はこのためにあんな質問を繰り返したのだ。
「それに」
 千悌は冷め切った表情で、胴乱の中から一着の服を取り出した。悟空が着ていた修行着だった。長安を出たら着替えさせてやろうと思って、三蔵が仕込んでおいたのだ。
「これは東大寺の僧が着るものではないのではないか? なぜこれがお前の胴乱の中にあるのだ?」千悌が冷え冷えとする眼で悟空を見た。「その者、東大寺の僧ではないと申したな」
 三蔵ははっしと平伏した。
「も、申し訳ありませぬ」
「愚か者め! 御前でそのようなウソをついて許されると思うのか!」
 千悌の言葉が、落雷のように三蔵を打った。
 この時、午王に耳打ちされた郭羽が、千悌に告げた。
「東大寺の僧はおかしな仙術をつかうと聞きます」
 これには並み居る兵士が凍り付いてしまった。
「郭羽殿なら術を封じられましょう」
 と午王が言い添える。
「術を封じるだとっ?」
 あぐらをかいていた悟空が、さっと片膝を立てた。
「やれ! 妙な真似をする前に封じてしまえっ」
 千悌が悟空を指でさす。
 もとより、郭羽は宝玉を取り戻しにきた悟空が一番厄介だ。
「悪く思うな」と言ってから、モゴモゴと呪文を唱えはじめた。
「あ、兄貴っ」
 八戒と悟浄も、悟空あやうしと立ち上がる。
 悟空は耳に手を伸ばして妙意棒を出そうとしたが、郭羽の呪文が一瞬早かった。
「ふんっ」
 という気合と共に、たちまち神通力を発揮したかと思うと、雷を起こして悟空を打った。
 悟空は、うわっと叫んでその場に倒れ伏した。
「兄貴!」
「悟空!」
 三蔵たちがにじり寄ったが、悟空はうめくばかりでピクリともしない。
 八戒は怒りが脳天まで届いて、危うく変化がとけそうになった。
「八戒、鼻が戻ってる」
 悟浄が慌てて肩を叩いた。八戒は鼻を両手で押さえて、モゾモゾやっている。どうにか間に合ったようだ。
 ところが、落ち着いてみると、妙な臭いがただよってくるのに気がついた。
 八戒は人間に化けると五感が鈍る。変化がとけそうになった瞬間、衰えていた五感が復活した。
「へんだな、妖怪の臭いがするぞ」
 八戒の鼻は、今やはっきりと奇妙な臭いをかぎつけている。しきりにくんくん臭いをかぎはじめた。
 悟浄も気づいたようだ。目玉だけだが、ぎょろりぎょろりと動かしている。
(あいつらだ)
 八戒は郭羽の傍にいる二人に気づいた。
 午王と利扇である。あの二人から、強烈に臭う。
「どうした?」
 悟空を揺すっていた三蔵が、二人の異常を気取った。
 八戒が三蔵に告げた。
「お師匠。あの二人どうにも妖怪のようですよ」
「なんだとっ?」
 そのとたん、悟空が意地になって起き上がった。こんな状態のところを妖怪なんぞに襲われてはたまらない。
「妖怪とはなんだ?」
 と三蔵が神妙な顔で二人にささやいた。
「臭いがするんです。まちがいありません」
 悟浄が確信ありげに申し立てた。
「や、やろうっ」
 悟空はもう片膝をたてている。
 それを手で制しながら、「八戒、悟浄。耳をふさげ」
 三蔵が鋭く声を発した。
 二人は間の抜けた顔で振り向く。
「へっ?」
「はやくせいっ」
 三蔵の切羽詰まった声に、八戒たちはあわてて耳をふさいだ。
 それを確認すると、三蔵は経文を唱えはじめた……。
 油断していた午王こと牛魔王はたまらなかった。三蔵の読経が、耳をついて脳髄に響いてくる。
「うああああっ」
 午王と利扇は頭を抑えて苦しみはじめた。「な、なにごとだっ」
 太宗が突然呻きはじめた郭羽の部下に、驚き目を剥いた。
 そうこうするうち、午王の頭に角が生えはじめたではないか。
「あ、あれを見ろっ」
「角だ、人間ではない!」
 兵士らがにわかに驚倒をきたしはじめた。
 利扇の目は釣り上がり、顔には化粧が染みだしてきた。
 午王の体はむくむくとふくらみ、その背丈はたちまち一丈(三メートル)にも及んだ。
 見覚えのあるなりかたち。首から上の牛の顔。
 三蔵はすっと経文を唱えるのをやめた。
「牛魔王!」
 と悟空がわめく。
 顔を苦悶に歪めるその姿は、にっくき牛魔王である。
「よ、妖怪ではないか」
 高僧たちがこぞって三蔵を見た。
 この女僧は、額に汗をかきながら、くそ落ち着きに落ち着いている。
 腐っても鯛は鯛。さすがは玄奘三蔵と、僧らはこの場も忘れて感じいった。
 八戒と悟浄は牛魔王と聞いて、文字通りふるえ上がった。たしかに只毎ならぬ妖気である。とても適う類のものではなかった。
「兄貴、師匠を連れて逃げよう」
 八戒はうわついた声でわめいた。
 古代妖怪が相手では、八戒悟浄が、百人群がったところで到底勝てる相手ではない。
 すでに利扇も羅刹女の姿に戻っている。こちらも女ながら、恐るべき相手といえた。八戒が怯えても無理からぬことだ。
 牛魔王はふーふーと荒い息を吐き、すさまじい目で三蔵を睨みすえた。
「うぬがっ、このクソ坊主め! よくもやりおったな!」
 と、割れ鐘のような声を響かせたから、文官たちはたちまち逃げ出し、傭兵たちは面目は守って、どうにか托羽をかこみこんだ。
「これはどういうことだ!」
 太宗が郭羽に向けてわめいた。
 あの二人は郭羽が西域より連れ戻った者たちである。それがこともあろうに妖怪に化けおったっ。
「あの妖怪たちは東大寺に乗り込み、宝を奪って逃げています!」
 三蔵が牛魔王を指で差した。「なんだとっ?」
 とのけぞり驚けば、さすがの太宗もこの状況の変化についていけないようである。
(ばかな……っ)
 郭羽は足元の崩れる思いであった。三蔵一行を陥れるはずが、どえらいことになってしまった。
「ば、化物だっ。あいつを捕えろ!」
 托羽の悲鳴で、我に返った傭兵たちが、まずはと牛魔王に襲いかかった。
 さすがに傭兵だけあって、妖怪退治には慣れている。
 だが、牛魔王は大物中も大物の大妖怪である。
 羅刹女はひらりと舞を打って空に逃れ、牛魔王は手にした混鉄棒を打ちふるった。
「なっ、なっ……」
 千悌は目の前で繰り広げられる光景が信じられなかった。
 恐れ多くも、皇帝の御前で死闘が演じられている。
 牛魔王は変わらぬ強さを見せ、群がる傭兵をあっという間に打ちのめした。
「やめろ、やめんか! ここは御前なるぞ!」
 気を取り戻した千悌が、必死の体で叫ぶもとんと効果がない。
 そのうえ、罪人の悟空まで耳から取り出した妙意棒をぶんぶん振り回しはじめたからたまらない。
「と、捕えろ! 逃げるつもりじゃ! 托羽を守るのだ!」
 千悌はすっかり取り乱している。
「馬鹿者! その妖怪を先に捕えろ!」
 太宗と千悌の命令が入り乱れ、兵士たちはすっかり動転してしまった。
「なぜこのようなところに妖怪が」
「見ろっ。あの妖怪、只者ではないぞ」
 高僧たちはさすがに取り乱しはしないものの、牛魔王の姿には心の臓まで冷えきっている。
 高僧といっても、東大寺の僧とはまるでちがう。百戦錬磨の牛魔王と戦えるわけがない。
 魔王は混鉄棒をふりまわし、辺りの柱ごと傭兵たちをふっ飛ばす。郭羽の静止の声も届かず、牛魔王は暴れ狂った。
 兵士たちは郭羽によって選りすぐられた精鋭だったが、こんな巨大な妖怪は相手にしたことがなかった。尻込みするうちに、牛魔王は辟水金晴獣を呼び寄せた。

孫悟空と牛魔王

 洪福寺で厩に繋がれていた白龍は、宮中の方角から漂う異様な妖気に気がついた。
(これは主人の身に何事かあったな)
 と思い、綱を引き千切ると、ふわりと空に舞い上がった。
「俺を置いていったりするからだい。きっとばちが下ったんだ」
 白龍はプリプリ怒ってはいるが、それでも急ぎ御殿に駆けていった。

 一方、宮中では牛魔王による大立ち回りが演じられていた。
「八戒、悟浄、ついてこいっ」
 悟空が言ったが、二人にとってはとんでもない話である。
「行きたいけど武器がないよ……」
 と言い訳をしたが、悟空は側近が、三蔵の荷物と一緒に、まぐわと宝杖を持ってきたのを目ざとく見つけている。
「あそこにあるだろう! とってこいっ」
 二人は悟空にケツをケッ飛ばされ、しぶしぶ武器を取りに出かけた。
「悟空、本当に戦うのかっ」
 三蔵がそばに来てわめいた。悟空が東大寺で、牛魔王に手も足も出なかったのを知っていたからである。
「当たり前だろうがっ。俺はそのために寺を出たんだぜ!」
 そこに白龍がやってきた。
 割れた天井から飛び込んできた白馬に、太宗たちはまたまた顎も落ちんばかりに驚いた。
「いいところに来た」
 と悟空がその背に飛び乗った。
「ひでぇよ、主人。俺のこと忘れて置いて行くんだから」
 白龍はさっそく文句を言っている。
「悪かったよ、そうくさるな」
 悟空がまいっていると、白龍は壁を背負って戦う牛魔王に気がついたようである。
「あ、あいつは牛魔王っ」
「おっ、よく知ってるな」
「なんで牛魔王がこんなところにいるんだっ」
 白龍がヒステリックにわめいていると、三蔵がその前に立ちはだかった。
「やめるんだ、悟空っ。お前は仙術を封じられているんだぞ」
「へっ、仙術なんてなくたって、この妙意棒をひとしごきすれば、あんな牛はイチコロよ」
 悟空は威勢よくわめいて、妙意棒を伸び縮みさせている。
 どうやら、また生来のお調子者の血が騒いでいるようだ。
 そこへ、まぐわと宝杖をとり戻した二人がおっとり戻ってきた。
「あれ、白龍じゃない。どうしてこんな所にいるんだ」
 こんな時でも八戒はやはり呑気である。
「兄貴ぃ。牛魔王は西域妖怪のボスだよ。逆らわない方がいいんじゃない」
 と悟浄は気が進まない。
「けっ。牛ごときに何を言っていやがる。俺はどうしてもあいつとやらなくちゃならないんだ。イヤなら来るなっ」
「そんなぁ」
 二人は早くも泣きべそをかいている。同じ妖怪でも、格がちがうとこうも情けなくなるものらしい。
「さすがは主人。男だねぇ」
 白龍が感にたえたように首を振った。
 そこに三蔵がしがみついてきた。
「馬鹿者! 牛魔王と戦うことはならんぞ!」
「なにいってやがる。俺はあいつから宝玉をとりもどさなきゃならないんだ」
 もみあっているうちに、牛魔王が吠えた。「どうした孫悟空! 前回で懲りたか!」
「牛を相手にビビる道理があるか!」
 すがる三蔵をふり払い、白龍は牛魔王めがけてすっ飛んでいった。
 八戒と悟浄もついには腹を据えると、『白雲里の法』をつかって悟空の後を追いかけた。
「お師匠はそこに居て下さい!」
 悟浄が叫び、宝杖をふるった。
 牛魔王は、口から黒煙を吐いて天井を吹き飛ばすと、屋外へとおどりでた。

 牛魔王を乗せた辟水金晴獣は、グングン上空へと駆け昇っていく。
 白龍に乗った悟空ものがさじと追いすがる。「野郎め、ばかに上までのぼりやがるぞ」
 いい加減ぼやいていると、
「主人。頼むからおっこちないでくれよ。あんた、術が使えないんだから」
 白龍が心配そうに忠告した。
「兄貴、待ってくれよぉ」
 八戒と悟浄が、大声を張り上げついてくる。
 悟空が振り向くと、白龍が速度をゆるめた。「ありがてぇ」
 白雲に乗った二人が悟空の両隣にならんだ。
 牛魔王はかなりの上空にのぼったところで、くるり辟水金晴獣を翻転させこちらと正対した。
「東大寺は愚か者ぞろいだな。貴様など何度こようとものの数ではないわ」
 魔王は大きく口を裂いて三人を威嚇した。「へっ、よぉく俺の持ってるものを見ろい。この妙意棒は伸縮自在の神器だぞ」
 これを聞くと、牛魔王はガハハと大笑した。「獲物など何を使ったところでおなじ事よ。俺の混鉄棒とて、十万斤の名器。そんな棒は一打ちでお仕舞いだ」
「妙意棒は十万八千五百斤だぞ。てめぇのスリコギと一緒にするな」
 スリコギとは鉢で物を摺るのに使う棒のことである。
 大事な混鉄棒をスリコギなんぞと一緒にされてはたまらない。
「スリコギだとっ。うぬ、この猿めがっ」
 牛魔王は怒って鉄棒で打ちかかった。
「うわぁあ!」
 八戒は牛魔王の形相にたまらず逃げ出した。「こ、こらっ、八戒っ」
 悟浄はなんとか踏み止まったが、恐怖のあまりオロオロしている。
 金晴獣がガバリと口を開く。白龍も負けじと、目から金光を放った。
 牛魔王は胴体をぐぅんと伸ばして、真上から混鉄棒をふりおろした。
 悟空は妙意棒を掲げて、ぐわんとこれを受けとめる。
「えいっ、頼りにならん相棒どもだっ」
 悟空は混鉄棒をギリギリと食い止めながら、口の端からしぼるような声をだす。
「うぬぬ、つぶれろこのクソ猿が」
 牛魔王は力で押し切ろうとする。両腕の筋肉がメキメキと膨れる。すさまじい剛力に悟空の渾身が悲鳴を上げた。
 その時、魔王が口をもごもごやりはじめた。『金剛力の法』である。
(やばいっ)
 悟空は仙術がつかえない。
 ままよ、と『万人力の法』を試みるが、どうしたことか神通力がさっぱり働かない。
 悟浄が助太刀するが、牛魔王は術を完成させて、混鉄棒を押し切った。悟空と白龍はバランスをくずしてたまらず吹き飛んだ。
「ですぎたな、孫悟空!」
 と、牛魔王が追い打ちをかければ、
「待てぃ、この沙悟浄が相手だ!」
 悟浄が大見得を切って立ちふさがる。牛魔王はえたりと鉄棒をふるい、二人はガッチャガッチャとやりあったが、悟浄ではとてもかなわない。
「ちくしょう、ほんとに封じられちまったのかっ」
 と、こちらでは、吹き飛ばされた悟空がいろいろと呪文を唱えているが、彼の神通力はすっかりなくなって、これでは術も法もない。
「さすが牛魔王だね。べらぼうな強さだ」
「感心してる場合か。あの野郎、本当に俺の仙術を封じやがった」
 悟空はギリギリと歯噛みしたが、もう後の祭りである。
 こうなると、さしもの悟空も少々不安になってきた。義兄弟の八戒など、牛魔王に怒鳴られただけで逃げ出す始末である。
「おい、牛魔王ってのは妖怪の中じゃそんなにえらいのか?」
「えらいね。妖怪にもあれだけ強いのはちょっといない。八戒が裸足で逃げるのも無理はないよ」
 白龍は呑気に答えたが、次にあっと声を上げた。
 向こうでは牛魔王がガラ声をあげて、悟浄を押しまくっている。
「主人、悟浄が苦戦してるぞ」
「いけねぇ、忘れてた」
 悟空があわてて駆け付けると、魔王は腕を六臂に変えて応戦する。
 悟空と沙悟浄は力を合わせて戦ったが、五十合打ちあってまだ勝負がつかない。
 そのうち牛魔王は混鉄棒を二本としたので、さすがの二人もしだいに受け太刀となっていった。
「ちくしょおめ、なんて凄い奴だ」
 ぱっとその場を飛び離れながら悟空がうめいた。
「あ、兄貴。やっぱり二人じゃだめだ」
 見ると、悟浄はすっかり息が上がっている。
 そこへ、
「兄貴ぃ、てぇへんだよぉ」
 どこぞに姿をくらましていた八戒が、慌てふためいて戻ってきた。
「てめぇ、どこへ行っていた」
 悟空は雷王のように怒ったが、
「それどころじゃないんだよぉっ」
 八戒が指差す方を見ると、兵に化け忍び込んでいた牛魔王の部下が、本性を現わしてこちらに攻め昇ってくる。
「こりゃ、やばい」
 八戒と沙悟浄もたちまち本性をあらわした。
「お前の命運もここまでだな」
 牛魔王が呵呵と大笑した。
「うるせぇ、とっとと宝玉を返しやがれ」
 悟空は怒って妙意棒をふりまわしたが、それであの妖怪どもが消えるわけではない。
 八戒と悟浄はもうだめだと、互いの身を抱き合った。牛魔王一人でも手強い奴なのである。そこにあの妖怪軍団が加わっては勝ち目などあるわけがない。頼みの兄貴は仙術を封じられているし。
 牛魔王は鼻で笑って答えた。
「ふん、玉コロ一つでうるさい奴よ」
 どうやら宝玉の価値をまるきり知らないらしい。
「バカ野郎っ、あの宝玉はな、東方世界を統一できるありがたい代物なんだぞ。お前みたいな牛妖怪が持ってていいもんじゃないんだっ」
 東方世界を統一できると聞いて、牛魔王はぶったまげた。
 郭羽はただの宝だと言っていた。自分はだまされたのだ。
「しまったっ」
 と一声叫ぶと、三人を蹴散らし、急降下をはじめたではないかっ。
「大王さま」
 出迎えようとした手下まで弾き飛ばしたから、牛公の怒りのすごさといったらこの上ない。
「くそっ」
 牛魔王の体当たりで、またもフッ飛ばされた悟空は、なんとか白龍の背にはい上がり、不屈の闘志で後を追いはじめた。

潅江口の武神

 牛魔王と羅刹女が郭羽の部下だったと聞いて、三蔵は急速に疑惑を深めていった。
 もしやと思い照妖鏡でうつし見たが、郭羽にはなんらの変化もない。照妖鏡は真実の姿をうつしだす鏡だ。郭羽が妖怪が変化した姿ならば、鏡には正体が映るはずなのだが。
 郭羽は太宗の前に引き出され、さんざんに尋問を受けていた。
 砕けた天井からは、争う妖怪たちの姿が見える。
「悟空、八戒、悟浄……」
 三蔵はまさに胸のつまる思いであった。ようやく手に入れた大事な仲間が、あの妖怪に殺されてしまう。そう思うと、修業のできた三蔵も、とても平静ではいられなかった。
 郭羽はよもや牛魔王が敗れるとは思わなかったが、たとえあの妖怪が悟空を殺しても信用回復にはならない。
 知らぬ存ぜぬを通すしかないが、それで通ずる相手ではなかった。
(玄奘め……)
 三蔵に対する怒りが急速に深まる。自分を罵倒する太宗たちも、残らず皆殺しにしてやりたかった。
(見ていろ。宝玉のナゾをといたら、貴様らなど……)
 胸の奥で怒りの湯を煮えたぎらせていたら、またも天井を打ち破って牛魔王が飛び込んできた。
「うわぁ」
 太宗たちは肝を飛ばして逃げ散った。
「おのれ、よくもわしをだましおったな!」
 牛魔王は猛然と怒って混鉄棒をふるった。
 郭羽も都随一と言われた剛の者である。寸でのところで混鉄棒をかわすと怒鳴り返した。
「なんのことだっ」
「なんのことだとっ? 貴様、宝玉はただの宝なんぞとぬかしおって……!」
「あ、あれは……」
「うるさい! 義兄弟にまで嘘をつくような奴はクズだ。俺がくさった性根を叩きなおしてやる」
 牛魔王はボタボタと牛の目から涙をこぼし、混鉄棒を平らにかまえる。これぞ愛の鞭である。
(宝玉だと?)
 話を聞いた三蔵はぎょっとなった。宝玉は郭羽が持っている。しかも、牛魔王と義兄弟だと?
「お、お前、いつ妖怪なんぞとさかずきをかわしたっ」
 太宗はすっかり狼狽して、かすれ声をはり上げた。
 まわりの側近たちは、牛魔王の憤怒の形相に心の臓まで震え上がり、腰を抜かしかけている。
「ま、待て、牛魔王、話を聞け」
 嘘がバレたと知った郭羽は、すっかりうろたえてしまった。
「お前が親玉か!」
 そのうえ、悟空まで郭羽の前に飛んできたではないか。
 これに続いてブタと河童の妖怪まで現われたからたまらない。
「さっさと俺にかけた術をとけ!」
 悟空は怒って妙意棒を振り回す。太宗たちはどういうことだと喚き散らす。千悌と托羽は泡をふいて気絶も寸前。

 

□  お話とぎれるその二

ここで、再び皆々様に頭を下げたい。またも、原稿が消え去ってしまったのです。この後、どのようなシーンがあったのかは、作者本人も覚えていないのですが、ともあれ、郭羽は正体を現し、二郎神君へと姿を変えます。郭羽、牛魔王との関係も語られたはずですが、詳細は不明。那托と李天は、それぞれ、なだ太子、托塔李天王となって本性を現し、悟空たちに戦いを挑みます(ともに原作では天界編で登場しております。漢字はワープロでは外字を使用していたのですが、テキスト版では残念ながら復活できず。いずれサポートしますので、ご容赦、ご容赦) さて、物語は、三蔵の前に、利扇こと羅刹如が現れ、これを救わんとする悟空、悟浄めが、なだ太子に行く手を阻まれる(八戒は托塔李天王と格闘中)ところから再開されます。

「いいのか? 一人で俺の相手はかなわんぞ」
 なだ太子がニタリと笑った。
「けっ、子分風情がえらそうにいうんじゃないよ。俺なんか、一番弟子だぞ」
 悟空は白龍の背で空威張りをする。
「しょせん弟子ではないかっ」
「うるせぇ、これでもくらえっ」
 妙意棒が左袈裟に振りおろされた。
 なだ太子は身をひねってこれをいなす。
 剣と棒がはげしくぶつかり合い、雨となる激しさだ。
(ちっ)悟空は本当に舌打ちをしてやりたい気分だった。(頼むぞ、沙悟浄っ)
 弟分への願いをこめて、孫悟空は妙意棒をふるう。

 羅刹女はいつのまにか消えていた牛魔王の部下を率いていた。
 御殿の衛兵が相手をしているが、百戦をこなしてきた妖怪たちにはてんでに押されている。今にも蹴散らされんばかりだ。しかも、彼らは太宗をも守らねばならない。
 三蔵の前に浮かぶ羅刹女が妖艶に笑った。
 両手に持つ青鋒宝剣が、陽光をはねかえし、羅刹女の笑みをきわだたせて恐ろしくしている。
 風がたち、僧衣がはためく。錫杖が、しゃらんと涼やかな音をたてた。
 三蔵は羅刹女と相対したまま、微動だにしない。
 高僧たちが三蔵の後ろで固まって震えている。彼らは三蔵のような法術を持っていない。古代妖怪の羅刹女と、戦えるわけがなかった。
「お前も托羽にさえ見初められなければこんなことにはならなかったのにねぇ」
 羅刹女が口許をゆがめ語りかけてくる。
「あながちそうとも言えぬ。こうしてお主たちの悪業を食い止めることができるのだからな」
 三蔵の言葉に、羅刹女は声をけたてて笑った。
「おかしなことをいうじゃないか。東大寺で、宝玉を奪われるのさえ止められなかったお前たちに、止められるかねぇ」
「止められるとも、私と弟子がさせるものかっ」
 三蔵の腹の据わりように、羅刹女の目が冷えた。
「気に入らない女だね。女はふるえるぐらいがいいのさ」
「手前は出家の身だ。女も男もない」
「じゃあ、なぶり殺しにしても、かまわないね」
 羅刹女の語尾に殺気が交じる。目の色が変わり、口が釣り上がった。憤怒の笑みに、僧たちが気圧されている。膝を折り、へたりこむ者。
 三蔵の頬を、冷汗が伝った。
 羅刹女の肢体が華麗に舞いをうつ。円舞のような剣技が三蔵に迫る。
 玄奘は錫杖をかざし、呪符をとばした。
 符がたちまち獣の形をとり、羅刹女に襲いかかった。青鋒宝剣がやすやすとこれを切り裂いた。
「死ね、三蔵っ」
 羅刹女の目がぐっと大きくなり迫ってきた。三蔵はぴくりとも動けなくなった。
(これは、『射竦みの法』っ)
 か細い体をふるわすが、凍り付いたように指すら動かない。
「これでもう止められない」
 羅刹女がまた笑った。
「て、鉄扇公主……っ」
 ようやくしぼりだした声も、かすれるほどにわずかであった。
 羅刹女の青鋒宝剣がヒラリと空に舞い上がる。
 今や、女僧の首を跳ねんとした時、いずこからか妖怪沙悟浄が駆け込んできた。
「まて、まて、まてぇ~い!」
 沙悟浄は、師匠を助けんとまっさかさまに急降下。地面にふれるかというところで、今度は急制動をかけた。
 三蔵の眼前に躍り出た沙の字は、手にした宝杖で青鋒宝剣をはっしとばかりに受けとめる。
「なんだ、貴様はっ」
 羅刹女は沙悟浄を知らない。お仲間の妖怪にじゃまをされて、目を見開いて驚いた。
「玄奘三蔵が三番弟子っ。姓は沙、名は悟浄にてござる!」
 妖怪沙悟浄は大声でよばわる。聞いていた高僧たちが、またも驚倒して腰を抜かす。
 鉄扇公主、かっとおこって目を光らせた。
 その瞬間、三蔵の神通力が弾けた。『射竦みの法』がわずかにとける。
「目を見るな、悟浄!」
 この声に、師に忠実な悟浄は反射的にまぶたを閉
じた。
「おのれっ」
 羅刹女は悟浄を呪ってとびはなれる。
 河童は深追いはせずに、動けぬ師匠にかけより守った。
「なんだ貴様っ。坊主のくせに妖怪なんぞ飼いならしおって」
 にくたらしい妖怪に手を挟まれて、羅刹女はムッときたのだろう。
「私にとってはかわいい弟子だ。愚弄は許さんぞっ」
 三蔵はやはり人物である。沙悟浄はグッと胸が熱くなった。許すまじ、鉄扇公主っ。
 悟浄は宝杖を真っ向にたてて走った。
「いやあああ!」
 悟浄の気迫に、羅刹女は驚いて剣を正眼にかまえた。
 宝杖を左右に振って、猛然と打ちかかれば、青鋒宝剣を手にした羅刹女は得意の二刀流で対抗する。
 しかし、羅刹女も大雁とまともに渡り合った妖怪である。
 沙悟浄はよく戦ったが、三十合もすぎた頃にはその差が如実に現われはじめた。しだいに防御一辺倒にかわり、見るにもあやうくなってくる。
「悟浄っ」
 三蔵が声をはり上げたときには、悟浄は胸を切り下げられ、弾け飛んでいた。
「悟浄!」
 のどがつぶれるほど悲痛に叫んだ三蔵に、鉄扇公主が切りかかる。
「お師匠っ!」
 倒れこんだまま、悟浄は絶望に心を凍らせた。
 羅刹女は三蔵に向かって、一直線に打ちかかる。
 あわや、斬られるかというところで、三蔵は何者かに突き飛ばされていた。
「托羽殿……っ」
 三蔵は息がつまるほど驚いた。彼女を突き飛ばしたのは、なんと第一太子の托羽である。
「おおっ」
「托羽殿っ」
 僧たちが感嘆の声を上げた。
「なぜ……?」
 三蔵が托羽の肩に手をかけた。
「すまぬ、三蔵っ。俺は……っ」
 後は声にならず、涙だけが流れはじめた。「托羽殿……」
 三蔵には托羽の気持ちが痛いほどにわかった。今、托羽を満たしているのは後悔だ。今までの所業を悔い、泣いている。
「じゃまをするかっ!」
 羅刹女が剣を振り上げる。
 托羽がこれで最後と目を閉じた瞬間、雷鳴とともに、広場の中央に稲妻が落ちた。
 衆目の目がつどうなか、砂煙が晴れていく。
 後に現われたのは、憤怒の形相をした仁王である。
「あれは、毘沙門天……」
 羅刹女の口から、ポツリとうめきにも似たつぶやきがもれた。
「そこまでだ、鉄扇公主!」
 見得を切っての登場に、羅刹女は大いにあわてた。
 毘沙門天の怒声が轟きわたる。この仏は須弥山を護る守護神である。かなわじと見て、羅刹女はとんぼ返りをうった。
 すると、彼女の体を衣が包み、ぎゅるぎゅると鞠ほどの大きさの球体にかわった。
「おぼえておいで、必ず出し抜いてやるからね!」
 鞠になった羅刹女が、ピョンピョンとびはね喚き散らす。
 毘沙門天がおのれと打ちかかると、羅刹女は一歩早くこれを逃れた。
「うぬ、逃げ足の早い奴めっ」
 毘沙門天が悔しげに呻く。
 羅刹女が逃げたのを見て、妖怪たちも泡を喰っての逃走をはじめた。
 我に返った太宗が、
「三蔵をとらえろ!」
 と叫んだ。
 三蔵は『射竦みの法』が効いてまだ動けなかったが、毘沙門天が、駆け寄る衛兵より早く袖に包み込みこれを救った。
 沙悟浄は、
(『天地を袖に包む法』だ)
 と思っているうちに、自分も袖に包まれていた。

逃れた牛魔王

 牛魔王と二郎真君の戦いは、ますます激しさをましていた。辟水金晴獣が駆け回り、牛の字の混鉄棒が流星のごとく飛びかう。
 魔王が頬げたをぶったたけば、真君は柄頭でアゴをかちあげる。
 風がゴオゴオと渦を巻き、二人の周囲には鳥も近づけぬ。
 そこへ雷とともに、時国天、広目天、増長天の三人が出現した。
 甲冑をつけた怒気あらわな武将形。無論、残りの三天王である。
「うぉっ」
「なんだ」
 二人は肝をつぶして左右に飛びすさった。
「帝釈天さまのご命令により、参上つかまつった」
 増長天が時代がかってよばわった。
「帝釈天だと、おのれっ」
 真君は神通力を発し、三王に向けて紫電をはなった。
 時国天たちが飛びのけば、紫電は三方に散って後をおう。三王は結界をはって、紫電を微塵に粉砕した。
「四天王が、出すぎるな!」
 真君は悪鬼の形相で、広目天に神鋒をうちこむ。胸にくらって、ふらつく広目天を、救いにかかる時国天。
 真君は小枝のように神鋒をふるって、三王を相手に意気天を衝く勢いである。
「俺を忘れるなよ、二郎神っ」
 ここに、牛魔王まで加わり、真君は四人をことごとく相手にせねばならなくなった。
 さしもの真君も、牛魔王に三王が相手では分が悪すぎる。
「これはかなわん」
 真君、身を引けば、四人は激怒して追撃する。
 あやうし、二郎神。
 三王はこぞって、太刀や鉾を振り降ろす。
 すんでのところで半身をひねった真君の横っ面を混鉄棒がひっぱたいた。
 その瞬間、真君の懐から宝玉が転げ落ちた。「しまった、宝玉がっ」
 真君が鋭く舌打ちをした。牛魔王の乗る辟水金晴獣が真っ先にとびだし、三王が一拍遅れて後を追う。
 宝玉はなだ太子と戦う悟空の目の前に落ちてきた。
「んっ?」
 悟空がとっさに空いた手で受けとると、牛魔王が混鉄棒で不意打ちをくらわした。
 ドタマにきつい一撃をくらって、悟空はたまらず気を失った。
「それは宝玉っ」
 悟空の手のなかにある玉を見て、なだ太子は驚いた。と、見る間に、宝玉は悟空の手から転がり落ちる。
 転げ落ちた宝玉を、牛魔王がとりもどした。「おのれ、牛魔王!」
 魔王めがけて三天王が殺到する。
 悟空は完全にのびて、白龍の背に横たわっている。
「しゅ、主人っ、しっかりしろっ」
 白龍が背中の悟空をゆすっている間に、騒ぎを聞きつけた托塔李天王と八戒もあらわれた。
 托塔李天王は、すぐさま牛魔王におどりかかったが、八戒はのびている悟空に気づいてこちらに来た。
「あ、兄貴、しっかりしてくれよ」
 八戒がゆすると、悟空はう~んと目をさました。
「うっ、いてて、なにが起こったんだ」
 悟空は軽く左右に頭を振りながら目を開く。
 八戒は托塔李天王にさんざんやられて、満身創痍である。
「宝玉はどうした?」
 見ると、あちらでは牛魔王をとりかこんでの大殺陣である。
「ありゃあ、四天王までまざってやがるぞ」
 小手をかざして眺めみれば、悟空の胸がわくわくと躍った。
「いきなり奴ら現われたかと思うと、二郎真君と戦いはじめたんでさ」
 悟空はすこんと状況を飲み込んだ。
「行くぞ、八戒っ」
 もはや逡巡もなく、弟分をひきつれ戦場に飛びいった。
 牛魔王に向かう真君を、なだ太子と托塔李天王が守っている。
 二郎神は広目天を押し退けながら、魔王に神鋒を突き立てた。牛魔王は混鉄棒をふるって、まさに羅刹の勢いである。
 恐るべき怪力で鉄棒をふるう牛魔王に、さしもの仏たちも容易には近づけない。
 そうするうちに三蔵を救った毘沙門天まで下から上がってきた。
 そこへ、悟空が乗り入れて、なだ太子に強烈な一撃を見舞った。そのうえ、
「伸びろ!」
 と、妙意棒をぐーんとのばして、ふらつくなだ太子を魔王の方に押しやった。
 牛魔王は無造作に飛び込んできたなだ太子に、驚いて鉄棒をふるった。なだ太子は横殴りにされて消し飛んだが、牛魔王も体勢を崩している。
 四天王と真君が、この機をのがさじと打ちかかる。
 遅れて、悟空が四天王を飛び越すようにして妙意棒をくりだした。
 牛魔王はたまらず、鉾をかいくぐって上へとのがれる。
 四天王が印を組んで次々と光球を打ち出せば、牛魔王は混鉄棒でことごとく打ち返す。
「兄貴ぃ」
 八戒が叫んだ。
 あっと思うや、牛の字はぺろりと宝玉を飲み込んでしまった。
「て、てめぇ牛公っ。大事な宝玉を飲み込むたぁ、どういう了見だ!」
 悟空は怒り狂って妙意棒をふりまわした。
 牛魔王は金晴獣と一体となり、巨大な白牛となった。黒煙をはき、猛然と角をふりたてる。
 仏に妖怪、人間まで加わり、まさに三つ巴の決戦である。
 そのうち四天王と托塔李天王たちが争いはじめ、戦いは乱闘の相を呈しはじめた。
 牛魔王はこの間隙をぬって、黒雲をよびよせた。
 濛々たる雲が急速に空をおおい、辺りは真っ暗になった。四天王は目から光を放射し、白牛を照らしだす。白龍と八戒も、同じように双眼から光を放った。
 黒雲はまだまだ増えて、層を厚く濃くしていく。
 四天王はめくらうちに神通力をこめた光球を放ち、牛魔王は角から稲光を放射して対抗する。
 白龍は体をのたくらせながら、上空の牛魔王に追いすがった。
「待ってくれよ、兄貴」
 八戒がまぐわをおっとり追いかけてくる。
 牛魔王はまっしぐらに黒雲をめざし、かっと角から雷を放ちながら、雲間に飛び込んでしまった。
 この黒雲は牛魔王の領域である。
「しまったっ!」
 真君は叱咤をもらし、なだ太子と托塔李天王をつれて、黒雲のまわりをぐるぐると飛びかった。
 悟空と八戒は迷わず、雲に飛び込もうとする。
「待て、悟空っ」
 毘沙門天が一声わめいて追いかけてきた。
 悟空と八戒はその手を逃れ、するりと雲の中に入っていった。
 こうなると、真君も意地がある。なだ太子たちを率いて雲をかきわけ押し入った。
 後を追う三天王。
「牛魔王!」
 悟空は真っ黒な雲のなかで、白牛の姿を必死にさがした。
「主人、あそこだっ」
 と白龍がわめいた。
 みると、白牛の尻尾が見え隠れしている。「見つけたぞ!」
 悟空が叫び、白龍が後を追った瞬間、四方から稲妻が二人を襲った。
 悟空はぎゃっとわめいて、白龍共々雲間を落ちていった。

 真君はなだ太子らと共に、牛魔王の後を追ったが、とんとその姿が見えぬ。そのうち雷電が周囲を飛びかいはじめ、とても立っていられない。
 三神は雲を飛びぬけ、雲上へ出た。
「牛魔王は逃れました」
 下に雲海をのぞみながら、なだ太子が口惜しげにうめく。
「うぬ、四天王めっ、奴らさえ出てこなければ……」
 真君は歯軋りをして悔しがったが、もはや後の祭りである。
 一方、八戒は、雲の中をだらりとして落ちていく悟空を見て、慌てて後を追いかけた。
「いわんこっちゃない」
 下で待ち構えていた毘沙門天が、悟空と白龍の体を受けとめる。
「こいつ、兄貴をかえせっ」
 それを見て、八戒はまぐわをふりかざしてうちかかった。
「これ、よさぬか八戒。この方は我らの味方だ」
 すると、この仏の服のたもとの辺りから、三蔵の声が響いたから、八戒は目玉が飛び出んばかりに驚いた。
「あっ、その声はお師匠」
 その時、雲を突き抜けて二郎真君の声が轟いてきた。
「覚えておれ四天王! この借りは必ず返すぞ!」
 それきり、真君たちの気配は消えた。
「逃れたか……」
 うめく毘沙門天の腕のなかで、悟空は死人のように眠っている。
 八戒が心配げにのぞきこんだ。
「兄貴は平気かね?」
「悟空めは無事だ。こっちの龍も多少こげてはいるが、神通力があるから平気だろう」
 そういったきり、毘沙門天は下界に目線をうつした。
 都は突然の天変地異に大混乱である。
 なにより宮中では、悟空たちを捕えんと兵隊がくり出されている。
「もう都にはいられまい。ついてまいれ」
 毘沙門天が身を翻したので、八戒は仕方なく後に従った。

 

終章 天竺へとつづく道

 野原に横たわっていた悟空がうんとうめいて目をさました。
 そのとたん、
「ぎゃあ!」
 と肝をつぶして絶叫をする。毘沙門天の憤怒の顔が、自分を覗き込んでいたのだ。
 気付けにしては過ぎたるもの。悟空は心臓を押えつ身を起こした。
「あ、兄貴が気がつきましたよ」
 離れたところにいた八戒と三蔵が、これに気づいて近づいてくる。
「どうした悟空?」
「傷はなおしたはずだが?」
 いぶかしむ三人に、悟空は元気よく怒鳴り散らした。
「バカ野郎! そんな顔で待ってるない!」
「これ、悟空っ。助けてもらっておいて、その口の聞きようはなんだっ」
「まぁまあ、この男の言うことに、一々腹を立てていてはキリがありますまい」
「なんだとっ」
「悟空っ」
 三蔵がぴしゃりと叱りつける。
 悟空は額を押えて、軽く頭をふった。記憶が少々混乱している。
 辺りを見回すと、そこは都も遠くはなれたびょうびょうたる荒野である。
 自分はたしか、牛魔王と戦っていて、二郎真君が敵になって……そういえば四天王もいた気がする。
 そうだ、牛公が宝玉を奪って逃げたんだっ。
「牛魔王はどうしたっ?」
「時国天たちが後を追ったが、今一歩のところで逃げられた」毘沙門天がムスリと答える。
「まこと、仏も恐れぬ神通を持った奴よ」
「その仏のせいでこっちはえらい目にあったぞ。二郎真君め、盗みをやりやがった」
 まったく最近の仏はだらしがない、と悟空は不平不満を並べたてる。
 八戒は悟空の回復ぶりに呆れ果て、三蔵はくすくす笑っている。毘沙門天にいたっては悟空の遠慮会釈のない物言いに目を丸くしている。
 そこへ、馬に戻った白龍を連れて、河童の沙悟浄が戻ってきた。近くの村で荷物を用立ててきたらしい。
「お前たちも無事だったか」
 悟空が話しかけると、白龍は憤然とした様子。
「無事だったかだって? 冗談じゃないよ。雷に打たれて黒焦げになるし、牛魔王には逃げられるし、いいとこなしだ」
 自慢の毛並みを焦がされたのが悔しいらしい。毘沙門天をギロリと睨んだ。
「そう言うな白龍。我らはおなじ仏である四天王の方々のおかげで無き命を救われたのだ」
 三蔵が淡々とさとすので、悟空と白龍もムスリと押し黙った。
「まぁ、命が助かってよかったですな」
 沙悟浄はまた哲学ぶって、生きているってすばらしい、などと言っている。
「あ、そうだっ。俺は真君の奴に術を封じられたんだっ。あの野郎、術をとかずに帰っちゃったぞっ」
 悟空がしまったと悔しがれば、
「安心せい。術ならわしがといておいた」
 毘沙門天がのんびりと言う。
 悟空はためしに、『千人力の法』をとなえてみた。すると、今度はちゃんと術がきいている。
「よかった」
 悟空はひどく安心して安堵の吐息をついた。これで一生仙術が使えなくなったら、どうしようかと思っていたところだ。
「多聞天さま。なぜ二郎神はあのようなことをなさったのでしょう? 宝玉とはいったいなんなのです? それになぜ私は天竺に行ってはならないのでしょう?」
 三蔵はさまざまな質問を思いつくままに言いたてた。悟空は三蔵がこんな風にしゃべるのをはじめてみた。冷静沈着な玄奘三蔵が、頬を上気させて、言いつのっている。
 毘沙門天は彫像のように黙って、三蔵を見つめている。
 毘沙門天には答えられなかった。また答えていい問題でもなかった。三蔵の問いは、深く、そして複雑な濁流の中にある。
 帝釈天は三蔵を救うように命令された。それは一件にかかわったからだけでなく、三蔵の人柄を見込んでの処置であった。
「今は全てを話すわけにはいかぬ。お主たちがふさわしい人物なら、答えはいつか得られよう。苦難の道を乗り越えるのだ。二郎神はお前たちの行く手に立ちはだかり、惑うこともあろう。だが、我らと帝釈天さまは、お主たちの味方だ」
「苦難の道を……」
「そうだ」
 毘沙門天がこくりとうなずく。
「孫悟空、猪悟能、沙悟浄、そして白龍よ。三蔵を守り、旅を続けよ。さすれば、いつか正しい道を見つけられるであろう」
「いつかっていつだ? 答えを知ってるなら、教えてくれればいいだろう!」
 怒って妙意棒を手に持った悟空に、毘沙門天は冷厳と答えた。
「おいそれと言えることではない。自分をみがくのだ、孫悟空。全ては帝釈天さまの意のままに……」
 そして、ふわりと浮かび上がった。
「おい、待て!」
 悟空がバッと立ち上がる。
 毘沙門天は空高く上って行き、やがて光のなかに包み込まれた。光が消えたとき、毘沙門天の姿はなかった。

「なんて勝手な奴らだ! 苦難の道を乗り越えろだと、そんなもん乗り越えたくねえや!」
 悟空は毘沙門天の消えた空に向って喚きたてた。
「バカー!」
「ブタのケツー!」
「なんだと悟浄っ」
 八戒たちもてんで勝手にわめいている。
「おのれをみがけか……」
 三蔵だけが一人ポツリとつぶやいた。
「人のもんをとるような奴のいうことを信じるなっ」
 悟空はまた怒って怒鳴り散らす。
「兄貴、宝玉を奪ったのは毘沙門天の奴じゃありませんぜ」
 悟浄が真面目ぶって答える。
「ふん、なにを。知ったかぶるなっ」
 八戒はブタのケツに頭にきたのか、つんけんしている。怒った悟浄とケンカをはじめた。
「おおっ」
「新しい趣向ですな」
 悟空と白龍が喜んでいる。
「よさぬか!」
 三蔵の語勢に、四人はハタと動きを止めた。「私は天竺に行く。気持ちはかわらん」
「ええっ」
「しょ、正気ですかっ? 天竺なんて行き着けるもんではないですよ。それに、行ったところでなんの得にもなりゃしませんよ」
「行った人間がいるのだ。私に行けぬ道理があろうか」
 三蔵はぐっとこぶしを握りしめた。目に熱意の色がある。
「なんのために行くんだよっ。天竺に行ってなんになるってんだっ。冗談じゃねぇ、俺はもう付き合いきれねぇ。俺たちゃもうおたずねもんだ。不老長生の薬なんて手に入れる必要がねぇ。行く理由なんてなくなったんだっ」
「そうではない。天竺に行くのは修行者として至高の願いではないか。お前は仏門にありながら、そんなこともわからんのかっ」
「うむ。師匠が行くというのなら、私に依存はありませんっ」
 と悟浄が口をムの字にして言った。
「ずりぃよ、悟浄。俺も行くよ」
 と八戒まで三蔵の味方をする。
 三人は残った悟空と白龍を見た。
「俺は主人に従うよ」
 と白龍だけはすましている。
「悟空」
 三蔵が声をかけるが、悟空は背を向けたまま何も言わない。
「お前は宝玉をとりもどさねばならないのだろう? わたしの理由はもう話したはずだ」
 悟空の脳裏に牢獄での一夜がよみがえった。蝋燭に照らされ、志に目覚めた三蔵の横顔。
「……本当に行くのか?」
「天竺に、天竺になら答えがある気がする」
 悟空は振り向いた。三蔵はとても頼りなげで自分がついていなければならないのだと悟空は思った。
「ふん、どうせおりゃあ牛魔王の奴もとっちめなきゃならないんだ。天竺なんてチョチョイのチョイだい」
 悟空は西を向いて妙意棒を肩に担いだ。
 この荒野の先に、天竺がある。
 朝日が原野を照らしている。露に濡れた草花が、やさしい光を放っている。天蓋が、しだいに青さをましてきた。
「やぁ、さすがは兄貴兄貴だ」
 八戒と悟浄がしきりに誉める。
「俺の背にお乗りなさい」
 白龍がすすめた。
 三蔵が馬上の人となると、悟浄が手綱を引く。
「これ悟空、荷物をもて」
「なんでぇ、そんなもん八戒にもたせろいっ」
 悟空が憮然とやり返す。八戒がつづらを背に負った。
 すべての答えは天竺に。
 玄奘三蔵と弟子一行は、西へと荒原を進みはじめた。
「まずは孝達殿に会いに行こう」
 三蔵が高らかに言った。
「兄貴、半分持ってくれよ」
 八戒がもたついている。
「なんでぇ、そんなの悟浄に持たせろい」
「いや、それがし、手がふさがって……」
 悟浄河童がこもごもと答える。
「なにいってんだ、背に負えばいいんだよ」
「それだったら、白龍に……」
「バカ言うない。俺は本物の馬じゃないんだぞ」
「なんだ、兄貴の子分のくせに」
「お前だって子分じゃないか」
「子分じゃないや、弟弟子だ」
「腹が減ったなぁ」
「もう少し行けば、村がありますよ」
 言い争いをはじめた二人を尻目に、悟空と悟浄が笑い合っている。
「どうした八戒?」
 三蔵が後ろに遅れる八戒に声をかける。
「待ってくださいよ。荷物が重いんだ」
「情けない奴」
 悟空たちが声をそろえる。
 八戒は口を尖らせて不平を言った。
「ぶっつづけで戦ったんだぞ。少しくらい疲れたって……」
「わかった、わかった。次の村で宿をとるとしよう」
 三蔵が呆れて笑っている。
「やったぁ、ばんざいだっ」
 八戒がまぐわを放り上げた。
「のんびりした旅だなぁ!」
 悟空の声が、しんとした碧空に響き渡る。
 実に、これからの旅を暗示していると、三蔵などは思うのであった。

  • 筆者
    h.shichimi
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