第一輯 その四

 大石は苦しみもだえながら、天に向かって吠えた。辺りの桜が緑葉を揺らし、その身につけた水滴をバッと散らしていく。
仁右衛門はその邪気におされて、蹈鞴を踏みつつ、数歩押し下がる。
 都で大石をむしばみ続けた穢れの数々が、肉体に残ったわずかな魂、その僅微な欠片を、いま、飲み込まんとしていた。
 大石の四魂は、乱れあらぶる。祟り神の巨大な御霊の前で、その四魂は、波にさらわれるあぶくのごとく、無力であった。呪詛に引きちぎられんとする魂を、すんでの所で鎮めているのは、近藤より奪った義の珠でしかない。だが、その堤は、あまりに非力で、蹴破られる寸前である。
 悪気(あっき)が腕の霊絡を駆け巡ると、六倍にも醜く膨れ、耐えきれぬ肉が裂け、噴血が暑気払いの打ち水のように辺りを打った。


○   十四


 ちゅ大法師が結界をはりおえる。すると、雨はこの二人にはかからなくなった。
「受け取ろう」
 と法師が手を伸ばす。仁右衛門が懐を覗くと、伏姫は彼の懐でスースーと寝息を立てている。
 仁右衛門がふっと笑うと、ちゅ大法師も微笑んだ。
「豪儀なものだ」
 仁右衛門は、ふと真顔になりささやいた。「あいつが持っていた義の珠は近藤さんの物なのか?」
 法師は憮然とうなずく。 
「近藤殿だけではない。沖田もかつては、勇の珠の持ち主であった」
 なに? と仁右衛門は言葉に詰まる。「今――あんたはかつてと言ったな。それはどういう意味だ」
 ちゅ大法師は、黙って仁右衛門を見返した。
「後で話す」
 後などあるのか、とは、仁右衛門も言えない。ちゅ大法師はなだめるように仁右衛門の肩を叩き、
「奴は義の珠の持ち主ではない。悪心を捨てねば、祟り神には対抗できん」とちゅ大は言った。「お主もだ。まだ仁の珠を使いこなせてはおらん。逃げろと言いたいところだが」
 どこへだ――とは仁右衛門もきけなかった。
抜き身の村雨を手にしたまま、伏姫を見つめるばかりである。
 大石が祟り神に飲まれていく様は、凄惨としていながらも、なにか荘厳としたところがあった。
その背骨は和弓のごとく弓なりとなり、それに反して巨体となる。悪霊におかされ、重みまでましたのか、足首までが泥濘に埋ずまっていく。
「祟り神か、何かは知らぬが」と仁右衛門は言った。「あんな男でも新撰組だ。放ってはおけん」
地にめりこむ足の周りで、土は黒々と変色していき、オドロオドロと腐った水を吐き出し始めた。
 悪神、とはいえ、神である。
「神殺しの罪は重い。お主もわしもただではすまんぞ」
「あれが死ぬとは思えんがな」
「このままでは、御府内がふたたび穢土になりかねん」
「――どういう意味だ?」
「あれは鬼門を崩す気だ。食い止めねば」
 上野一帯が東叡山とよばれているのは、仁右衛門も知っている。江城を二百年守ってきた、御徒士の一族である。天海の手によって、江戸に結界が張られたという話は、寝物語にきかされてきた。それは馬琴の戯作同様、やや浮世離れして聞こえたが、八犬伝が現実なら(あの戯作のままだとは思えないが)、江戸の結界もまた正銘のものであって、おかしくはない。
江戸は天海亡き後も、海を埋め立て、拡張をつづけてきた。結界はほころび、崩れさる寸前である。
 仁右衛門は考えた。上野が本物の鬼門封じなのだとしたら、この戦争でその守護は崩潰したとみて疑いない。
「あいつは、玉梓にそそのかされた可能性が高い」と法師は言った。「なにか裏があるはずだ」
「玉梓まで存在するのか」
 仁右衛門は嫌気がさしたように言った。
ちゅ大法師は黙殺した。
「江戸が要だったのだ。家康殿は江戸を芯にして日ノ本の守りを、もう一度まとめなおした。だが、二百年の平穏も外夷とともに崩れた」
「あんたは」と仁右衛門は尋ねた。「まとめなおしたと言ったな。なおしたと――権現様が、元々あった結界を、むすびなおしたという意味なのか」
 ちゅ大法師は眉をひそめた。結界に関する知識のあることに、瞠目したのである。
 仁右衛門は大石に向き直る。「それならば、取り戻せるはずだ。作り直せるものならば」
「そのためには、あやつが邪魔だ」
 ちゅ大法師もまた、大石に目を向けた。仁右衛門は犬江新兵衛を見ている。
 俺はまだ生きている――そのことをくっきりと実感した。死ぬことを怖れていたわけではない。彼は平穏な時代の武士ではない。数々の出兵を繰り返し、その大半は手ひどい負け戦で、いずれも苦しいものだった。仲間の死を見送り、自分も死の縁に接してきた。
 だが、仁右衛門の感動は、そんなところになかった。
時を得た――と仁右衛門は思った。
戦がなくなり、平和なときをえて、旗本も御家人も存在意義をなくしていった。夷狄とあいまみえたいま、彼らは旧態依然の遺物と化した。仁右衛門は、生き方をかえ、役目も変えさって、ときに従い生きてきた。
 だが、自分の父や祖父、先祖がやってきたことは、無駄ではなかった。奥村という家が禄を食み、徳川家に尽くしてきたことは意味があった――
 場を得た――
 と彼は思った。自分の人生どころか。奥村の家を守り、 御徒士という職禄を得てきたこと、そのことに意味があったのだ。一所懸命が、武門の誉れならば、彼は所を得たのである。
思えば、御徒士組が解体となり、撒兵隊となり、伝習隊に編入された後も、違和感があった。 自分は、江城の守護者として、身を立てたかった。御徒士とは、そういうものだ。奥村という家に与えられた御役とは、元来そういうものだったはずだ。
「俺は――」と仁右衛門は言った。「俺たちは、開府以来、このお江戸を守ってきた。今更、あやつらなぞに譲れるか」
 ほう、とちゅ大法師は笑った。
「よかろう。あやつを任せられるか」
 心得た、と仁右衛門は言った。彼は犬江新兵衛のもとに歩いていく。

○   十五

 犬江新兵衛は意外におもうほど小柄であった。大石に遺体の生命力まで吸い取られているのか、老人の皮膚は瞬く間にしなび、干からびていく。
 仁右衛門の心は、怒りに燃えた。彼には、この老人が、千年の知己のように感じられたからだ。まるで仁の珠が、哀悼の意を示しているようでもあった。犬士となった今では、この老人の苦闘の歴史が、不思議とよくわかった。
 仁右衛門は、犬江新兵衛の腰から鞘を抜き取り、その胸元に手を置いた。
「表裏のことはわからない。だが、俺は新兵衛殿の後を、確かに継いで犬士となった。あなたのやろうとしたことも、自分は継ごうと思っている。今は安らかに眠ってくれ」
 仁右衛門は決然と立ち上がり、大石に向き直る。

○   十六


 仁右衛門が側に行くと、ちゅ大法師は錫杖を地面に幾度も打ち付けながら、古代の呪文を唱えていた。夢の中できいた、あの言葉に似ている。
(こやつ、もしやあの男の言語がわかるのか?)
 疑問がわいたが、彼はちゅ大法師を見てもいない。僅かにうつむき、佇立している。
 いやに、心が鎮まっていた。
 祟り神にのまれた大石は、恐るべき相手である。姿がではない。大石の奥底から、あふれでる力が、ここからでも感得できるのだ。
 仁右衛門が村雨丸の束を抜くと、はばきが鯉口を離れた瞬間に、鮮烈な冷気があふれてくる。
 彼は抜き身を垂らし、結界をでた。強い雨が全身を打つ。
 天は、墨のような雲が立ちこめ、稲光が九天を割るようにして、いくつも走った。
 仁右衛門はつと、まわりの桜をみた。江戸の誇る名所も、無残なものだ。銃弾に幹を砕かれ、砲弾にその身を裂かれ、昔日の面影はどこにもない。
 そういえば、この桜も、天海が吉野山から、植栽したものである。
 北で、黒雲に逆らうように、炎を上げているのは、根本中堂であった。二百六十年、江戸の平和を見守りつづけてきた東叡山の堂塔は、灰燼に帰そうとしている。
 大石が吠える。その体を真っ黒な呪怨が、取り巻いていた。
 仁右衛門には見えた。体が仁の珠になじみはじめると、黒々とした呪怨の中に、苦しみもがく人の顔が、いくつもいくつも現れはじめたのだ。あれがただ呪いなのではなく、人の怨霊なのだと気がついた。祟り神は怨霊を従え、また怨霊の魂を喰らって、力と変えている。
 それはヘドロのように粘着のある代物らしく、地に落ちると、たちまち大地を穢土へと変えた。大石が咆哮すると、津波のように辺りに散っていく。桜が呪怨を浴び、たちまち緑葉をおとし、尽きていく。
「仁右衛門……」
 大石の声は、祟り神の声と重なり、二重唱となって聞こえた。その呪怨は、痩身から、炎のように立ち上っている。生命を求めるようにさまよい、周囲の下生えや樹木を枯らしていく。
 怨霊どもの呪いの声は、冬の木枯らしのようだ。人の背筋を凍らし、笑みを奪い、弱き者の生命を奪う――そんな声。
 怨霊どもの声を断ち割り、大石の怒声が轟いた。
「お前たちは、もう終わりだ! 主君をなくし、土地を奪われ、どこへゆこうというのだ!」
 これは、大石の言葉ではない、と仁右衛門は直覚した。あるいは、大石はその身の内で、すでに意識をなくしたのかもしれない。
 仁右衛門は雨に打たれ、雷に煌とさらされながら、祟り神によばわった。
「徳川は滅びるかもしれん。だが、世は続くだろう! 日ノ本が消えるわけではない。志は残り、民を誘う。この国にいるべきは、貴様などではない」と言った。「どこから来たかは知らぬが、さっさと元いた所に、いぬがいい!」
 それは、海図のない船出のようなものだ――悪神はいった。「貴様らが、どこに行き着くというのだ! 滅びろ、現世(うつしよ)はわしらのものだ!」
「黙れ!」仁右衛門は、祟り神の怒気を払うかのように、刀をふった。「大石鍬次郎! こんなことが貴様の望みか! 祟り神にのまれ、正体をなくし、貴様こそ何を望むのだ!」
「宝玉を得た程度で、図に乗るな!」
 大石が腕を振るうと、呪怨が三日月のように空を飛び、大地をえぐりながら迫ってきた。仁右衛門は下段の刀を跳ね上げこれを切り裂くが、まるで大蛇の太胴を断ち割ったような重い手応えである。
 革靴の踵がズルズルと後ろに下がる。呪怨は左右に断ち割れ、背後のちゅ大法師の結界にぶつかり、岸壁に打ち当てられた波濤のごとく、周囲に飛散していった。
 仁右衛門が、背後を気にしたわずかな隙である。
 大石は、境内を穿つような勢いで地を蹴って、わずか二歩で目前に来ていた。
 呪怨に包まれた刀を、振り下ろしてくる。
 仁右衛門は身を下げつつも、村雨丸を引き上げ、受けた。村雨は、刀こそ食い止めたが、仁右衛門は呪怨をまともに浴びて、後方に大きく跳ね飛ばされる。怨霊どもが体に食らいつき、呪怨が毒のようにしみこんでくる。
 大地に叩きつけられ、その手から村雨丸が離れる。
 仁右衛門は空を飛びながら、身をひねり、村雨丸に向かって手を伸ばした。あれがなくては、祟り神と化した大石には、対抗できない。
 村雨の刀身が、指にからむことはなかった。
 仁右衛門は大きく回転しながら大地を幾度も転がり、樹幹に背を打ち当て、ようやくとまった。
 村雨を拾おうと、地面を這いずるが、呪怨が穢れとなって、総身を蝕んでいる。皮膚を冒し、肉をついばみ、ついには骨にまで達して、手足の自由を奪った。
 力が、抜ける。
 泥をかきわけるようにして這いずる仁右衛門の目の前で、巨大な犬が現れ、村雨丸の束をくわえた。
 犬――とも言えない。馬と見紛うばかりの巨体である。色は白く、目玉は銀色。長くたなびくその体毛は、ところどころで銀に輝く。その銀毛は、馬のたてがみのように、背骨に沿い伸びていた。
 巨犬は、鮎のように身を振って、村雨丸を放ってよこす。仁右衛門は、手近につきたった村雨丸を、手中に収めながら、
「八房なのか?」
 と言った。八房――と言えば、伏姫をさらい、八犬士誕生のきっかけとなった、霊犬である。
 戯作では、金椀大輔に討たれたはずだ。
 が、その伏姫も、現実には、赤子である。
 大石が怒りに燃えて打ちかかると、八房は負けじとその胴に食いつく。牙をたてるが、呪怨が大石の身を守り、歯が通らない。怨霊どもが小さな手を無数に伸ばして、八房の顔を打ち、耳をひっぱり、または首を伸ばして、耳に呪詛を吹き込んでいる。
 大石は、八房の首にぐいと右腕を回すと、力任せにこの霊犬を宙に放り上げた。八房は、さも犬めいた悲鳴を上げたが、空で身を切ると、独楽のように一回りをして、タッという音も鮮やかに、優雅ともいえる軽やかさで、地に柔らかく足をつけた。

  • 筆者
    h.shichimi
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