第一輯 その二
○ 五
この、仁右衛門という男、元々、彰義隊士ではない。
洋式訓練を受けてはいるが、元は直新影流の皆伝者で、長じてからは、牛込の試衛館で、近藤の食客となっていた。
本人が御家人であるので、清河八郎の浪士組には参加しなかったが、試衛館の面々とは、ずっと剣を通じてのつながりがあったし、上洛のおりは、屯所に立ち寄り、親交を深めてきた。
だから、江戸に戻って後は、伝習隊の脱走組には加わらず、甲陽鎮撫隊に、身を投じたのである。
仁右衛門は、荒い息をつきながら、手近の幹に背を預けた。おもっていたより、傷が深い。血は胴丸にたまって、腰をおり、側線入りのズボンを染めあげていた。
仁右衛門は脇の紐をとくと、胴丸を落とし、より軽装になった。
血が流れすぎたのだろう。痺れが手先に走る。
仁右衛門は、木立を離れ、さまようようによろめいた。
総司……
植木屋に残してきた、沖田の姿が胸裡を埋める。悔恨があった。彼は、近藤の死を、沖田には告げずじまいで出てきたのだ。
自分は飯もろくにとれんのに、近藤の心配ばかりして。奴は近藤の消息を知るためだけに生きているようなものである。
医者ではない仁右衛門の見立てでも、総司はとても助からない。
この二人、年が一つしか違わない。互いを意識し、切磋琢磨して生きてきた。
ふいに試衛館での日々が思い起こされて、仁右衛門は涙で胸を埋めた。
多摩での出稽古の日々や、京での日々が、鮮やかによみがえる。
彰義隊への参加をほのめかしたとき、沖田は彼を笑わなかった。
が、今思うと、沖田は、これ以上、病み衰えていく姿を、自分に見せたくなかったのではないか。いや、自分こそが、あの強い総司が骨と皮だけになっていく様を見ていられなかったのではないか、と思うのである。
「卑怯者め……」
仁右衛門は、そう自らを責めると、赤子の声に導かれるようにして、よろぼうていく。
総司は江戸を守ってこい、と佩刀までよこしてきたが、江戸は守れず、早晩自分も死ぬことになりそうだった。
総司、すまん、先にあの世で待っておくわい。
仁右衛門は、決然顔を上げると、最後のいくさにのぞんだのだった。
○ 六
慶応四年。
五月十五日、のことである。
江戸城は無血開城し、徳川慶喜は、すでに水戸へと去っている。
が、彰義隊は、徳川家、霊廟守護を名目に、寛永寺に留まり続けた。
薩長軍と敵対しては、政府軍兵士を殺傷する。そんな事件が、多発していたおりである。
その新政府が、対旧幕軍の司令官として呼び寄せたのは、天才軍略家、大村益次郎であった。
大村は、手始めに、上野山に総攻撃をかけることを、江戸中に布告した。
市中に散らばる隊士を、一カ所に集めて殲滅すること、逃げる時間を与え、戦闘を回避することを、目的としている。
事実、四千名を超えていた隊員も、決戦の間際には、千名ほどに減ってしまった。
寛永寺は二百四十年間、江戸の鬼門を守り続けた、将軍家の菩提寺である。開府以来の隆盛を誇ってきた。が、それも、わずか半日の闘争で、地形が変わるほどに荒廃している。根本中堂はおろか、三十六坊にのぼる子院も五重塔も、大仏殿を要する伽藍も、灰燼に帰そうとしている。
黒門にいた仁右衛門は、よく戦った。山王台から砲撃にくわえて、旺盛な射撃を見せ、官軍を諸門に近づけなかった。
が、会津藩兵に化けた長州軍が、藩旗を掲げ、彰義隊陣地に出現すると、背後を打たれた部隊は大混乱に陥った。
時を同じくして、アームストロング砲が、不忍池を越して炸裂した。
薩摩兵の決死の吶喊がはじまると、各隊は総崩れとなり、ついには黒門口まで抜かれてしまった。
圧倒的多数の官軍に囲まれ、彰義隊は、寛永寺本堂まで退却している。
仁右衛門は、生きたまま、戦場に取り残された。
○ 七
今、彼は、スペンサーのみを頼りに、声の主へと近づいている。
この体ではもう刀は振るえないだろう。銃床を頬に当て、いつでも射撃ができるよう、引き金に指を添えて慎重に近づいていく。
声は、近い。
辺りを索敵しながら、木立の蔭を拾うようにして移動する。
赤子の悲鳴に混じって、激しい剣戟の音がする。
残存兵がいる、と思った。自分と同じく逃げ遅れた者だろう。
声がいっそう高くなった。
仁右衛門は巨大な樫の根元で、争う人影をみた。
上下真っ黒な着物をきた男が、太い根の合間に倒れた男に向かって、刀を突き下ろすのが見えた。仁右衛門ははっとなった。黒づくめの足下にいて、救いを求めるように虚空に右手を突き出した男が、白髪の老人だったからである。どちらが官軍かはわからない。が、仁右衛門は老人を味方と思った。故郷を遠く離れた薩長兵にあんな老兵が混ざっているとは思えない。
(赤子は――?)
いた。胸を貫かれ、あげていた腕をドッと落とした老人の側で、白布にくるまれた赤子が、盛大に声を上げている。
黒づくめは剣を引き抜くと、血ぶるいをして刀をおさめている。その間に、仁右衛門はひそひそと距離をつめた。失血のため、視界がくらんできた。この距離では当てる自信がない。
男が赤子に向かってかがみ込むのに及んで、仁右衛門は力を絞って声を荒げた。
「待て、その子から手を離せ!」
男が鋭く振り向いた。仁右衛門は雨のかかるまぶたを瞬いた。
「お前は……」