第一輯 その三

2019年10月05日

○   八


 見知った顔、であろう。
 男は、江戸も江戸の者。日野の佐藤道場に出入りしていた男で、その後、近藤の隊士募集に従って、新撰組に入隊した男である。
 頬はこけ、髭が伸び、人相がずいぶん変わっている。だが、太い眉の下にすっと伸びた切れ長の目をみて、仁右衛門には何者かわかった。
 天然理心流を学んでいるが、元は小野派一刀流。
 腕は、立つ。
「お、お前は……」と仁右衛門は、もう一度言った。「大石鍬次郎ではないか」
 甲州で死んだのではないのか、と仁右衛門は問うた。
 流山で参集したとき、この男はいなかった。みな、勝沼で命を落としたと思ったのである。
 前身は、大工であった男である。
 多摩の出稽古時代に、多少顔を合わせていたから、互いに認知してからは、ひどく長い。
 仁右衛門は手を合わせたこともなければ、ろくに話したこともない。土方の口ぶりからはあまり気に入っていないらしく、自然仁右衛門から近づくことはなかった。
 が、ある種の人物ではある。京に上ったのちは、あれよあれよという間に、人斬りとよばれる存在にのしあがった。
 功名心が、よほど強いのだろう。
 大石は、足下の老人に刺さっていた刀を、ぐっと抜いた。老爺は、ピクリともしない。絶命した、と見えた。
 仁右衛門は、銃床にそえた左の手を、そっとなでるようにまわした。雨で滑る。合間の水気を、とろうとしてのことだった。そのまま銃口は大石に向け、ピクリともしない。
 大石、無言――刀は重みに任せるように、水のたつ泥濘に落としている。
 あいた左の手が、そろそろと赤子に伸び――
「動くなら、お主の頭蓋を飛ばしてやる」仁右衛門は強(こわ)い声で言った。「その子から離れろ……」
「奥村――仁右衛門、だな」
 大石はゆっくりと言った。手の動きは止まったが、赤子の上にかざしたまま上げようとしない。頬は痩せこけ、全身の肉が落ちている。ここまでの苦闘を物語っているかのようだった。
 仁右衛門はゆっくりと引き金の指をあげ、また沿わす。指のこわばりをとるためだったが、血の気が失せて、自由がきかなくなったこともあった。
 弾は二発……が、不発でないとは限らない。まして、相手は人斬りの異名をとった鍬次郎である。
 外せば……何が起こるかわからない。
 かすかに吐息をつき、
「ここで何をしている」
 と、問うた。
 大石が、少し唾を飲むような仕草を見せ、
「異な事をいう……わしは……」
「彰義隊士ではあるまい」 と決めつける。「その赤子、よもや貴様の子ではあるまい」
 眼光が射るように大石の眉間に集まっていく。引き金の指が落ちかけたとき、「新兵衛どの!」
 と声がした。
 仁右衛門は、思わずそちらに銃口を向ける。しまったと思った。大石は刀を地面に突き立てると、赤子を両の手で掻き抱くようにして懐に入れたからである。
 仁右衛門は、新たに現れた男に驚いた。頭のはげ上がった入道だ。手には錫杖をもち、僧兵ととれなくもないが、武器と見えるものは他に何も持っていない。
 戦場の死体を、拝みにきたと思われてもおかしくない格好だが、梢をつかんばかりの巨体である。
 仁右衛門が、男に気をとられたのは一瞬であった。
 大石に銃口を振り向け、飛下がる。両者から距離をおいてジワジワと下がるようにしながら、どちらも射程におさめられるようにした。
 二人は、仁右衛門の殺気に気圧されたように、動きを止める。連射のきくスナイドルであったのは、幸い。だが、僧を撃てば、はしこい大石である。
 たちまち逃げ去ってしまうに違いない。
「貴様。何者だ! 薩長腹の手の者か!」
 仁右衛門は大石を見たまま言った。
「銃口を奴に向けろ!」と入道が言う。「伏姫を奪われるわけにはいかん」
 ふせひめ? と仁右衛門は心中に問うた。あの赤子のことか?
「大石が、なぜその姫を狙うというんだ」
 と切りつけるように言う。大石から、答えは引き出せまいと知ってのことだ。が、その大石は、
「こやつは、表の家人だ」嘲るように笑う。「何も知るはずがない」
 仁右衛門の目は、大石に釘付けとなる。大石は顔をさくように唇をつり上げ、壮絶に笑っている。
(表の家人だと?)
「ふふふ」大石、目だけは笑っていない。「お前がここにいるということは、沖田のやつはくたばったか。馬鹿な奴だ」
「どういうことだ?」仁右衛門は息をのんで言った。もはや銃口は、大石にしか向いていない。「俺が沖田と一緒にいたことをなぜお前が知っている――歳さんに会ったのか?」
 大石は身をのけぞらせながら高笑いをした。「だから、貴様らはバカだと言うんだ。かたや、近藤、かたや幕府に踊らされ、それで何が残ったあ!」
 仁右衛門は、胸裡にあがった疑問に、心を乱される。銃口が、わずかに下がった。
「二人を同時には撃てまい」大石はわざと、袂をあけ、赤子の顔が見えるようにする。「その傷で当てられるか、試してみるか!」
 仁右衛門は大石の言葉を聞いてはいなかった。大石の開けた袂、そこにちょうど赤子の拳程度の玉が、首から紐でぶら下がっていたからである。
 ギヤマン、でもない。その玉は、自ずから、まばゆいほどの輝きを放っていたからだ。
 僧は目を剥いて言う。「貴様、貴様が、なぜ義の珠をもっている!」
 赤子の泣き声はもうしていない。目が見えるとも思えぬ大きさだが、ジッと宝玉を凝視して、身じろぎもしないのである。
 大石は、その赤子の上で、カッと、犬歯を見せた。「今はわしのものだ、ちゅ大法師」
「二人とも動くな!」
 仁右衛門は体を回して牽制する。
 ちゅ大法師とよばれた男が、かまわず前に進み出た。
「祟り憑きに落ちたか、鍬次郎!」
 仁右衛門は動けない。二人の動きを封じるには、彼はあまりに傷つきすぎていた。それにちゅ大法師という名、彼はその名に聞き覚えがあった。
「わしは、力を手に入れた――みろ、犬江新兵衛もあのざまだ」
 犬江新兵衛だと?
 ふいに、仁右衛門は合点がいった。この二人はさきほどから、馬琴の戯作の名を口にしていたのだ。
馬琴はこれより、二十年と昔に死んでいるはずである。だが、彼の残した戯作――南総里見八犬伝は、今も残り続けている。
 江戸期最大の作家にして、その最高傑作は、絵手本、紙芝居、歌舞伎、浄瑠璃など、様々に形を変えて江戸に浸透していたから、仁右衛門もおおよその物語は知っている。
伏姫とは、あの伏姫か――?
 仁右衛門は血のにじむ唇をかみしめた。腹部の弾丸は、内臓に達したと見えた。
 気力の尽きる前に、あの赤子を救わねば――
 大石は、
「動くな!」
 とわめいて、ちゅ大法師を牽制し、懐の赤子に、切っ先を向ける。
「伏姫を死なせたくはあるまい……それともまた生まれ変わるのを待つか?」
「卑怯者め」
 仁右衛門は大石よりも上に向けて、引き金を引いた。雨中に硝煙が、ばっと散った。仁右衛門は、銃の反動に耐えきれず、どっと尻餅をついた。
 仁右衛門の放った弾丸が、大石の少し頭上の幹を砕いた。
 大石は、破片を避けるように身を下げる。
 ちゅ大法師が、空を飛ぶようにして、濡れた大地を走った。錫杖にて打ちかかると、大石は左手で伏姫を抱えたまま、右手の刀で受けた。
 六つの遊環が揺れ、激しく鳴る。ちゅ大法師はその膂力を利用して、錫杖を押し下げようとしたが、びくともしない。
 ちゅ大法師は瞠目した。
 自分をにらみあげる大石の全身に、炎に似た痣が、真っ黒な入れ墨のように、浮かび上がってきたからである。

○   九


 仁右衛門は呻きながらも、膝立ちとなり、スナイドル銃を拾い上げた。
(まだ弾丸は残っているはずだ)
 だが、再装填しようにも、その手はブルブルと揺れている。いや、全身が、瘧にかかったように、震えているのだ。
 仁右衛門は、投げ捨てるようにして銃床を地に着けると、手首をレバーにかけ、むりやり下に押し下げた。ガチャリという音がして、どうにか装填はできた。
 顔をあげると、ちゅ大法師を退けた大石鍬次郎が、鬼の形相をしてこちらに駆けてくる。
(あれは、人か?)
 我が目を疑いつつも、夢中で銃を引き上げる。両膝をついたまま、銃口を向けるが、大石は瞬足の間に迫っていた。もう撃てる距離ではない。
上段にかぶった大石の刀が落ちてきた。仁右衛門は激痛に耐えながら、銃を掲げる。
 激しい刃鳴りがして、大石の刀は木被の銃床に、ガッと食いこんだ。スナイドルは暴発して、二人は同時に顔を背ける。
 仁右衛門は銃を放してしまった。
(刀を――)
 大石は、束に手を伸ばす仁右衛門を、許さなかった。右肩を蹴り上げると、倒れたところへ、一刀袈裟斬りをみまったのだ。
 深傷である。
 仁右衛門は、声もたてずに、倒れこむしかない。
 大石はさらに一歩出て、とどめを刺そうとした。その背を、ちゅ大法師が打った。
「ぐううっ」
 と大石はうめいて振り向いた。なにせ雲を突く巨漢の一撃である。
 仁右衛門は最後の力を振り絞ると、大石の懐にむしゃぶりついた。
「貴様あ!」
 大石は仁右衛門を躱そうとするが、ちゅ大法師もさせない。大石の両の手をおさえ、動きを封じようとする。
 仁右衛門はほとんど半身不随になりながら、大石の袂から赤子を引きずり出した。
「逃げろ」
 ちゅ大法師が、大石ともみあいながら、苦しい息のもとで言った。真っ赤になったその顔の中で、目だけが爛々と輝いている。

○   十


 仁右衛門は、赤子を抱え、夢中で這った。が、四歩も行かぬうちに、力尽きた。
 肘をつき、仰向けになる。
 傍らでは、ちゅ大法師と大石が、激しい剣戟を交えている。
 仁右衛門は、どっと喀血する。
「総司……」
 と彼は言った。そういえば、このひと月は、沖田のこんな姿を、ずっと見続けてきたのである。天の迎えは皮肉にも、仁右衛門に先に訪れた。
 赤子を抱いたまま、横様に倒れる。
 驚いたことに、赤子はやはり泣いていない。雨をさけるように目を瞬いていたが、はっきりと彼を見ていた。
「すまぬ、お主を守ってやれそうにない……」
 仁右衛門は、半顔を泥濘に埋めながら、赤子に言った。それでも赤子を守るため、胸元に引き寄せる。
 大石は巨漢のちゅ大法師に抱きすくめられていた。驚いたことに、ちゅ大法師に頭突きをかまし、さらには噛みつき、激しく暴れ回っている。まるで、獣である。義の珠を持つとはいえ、大石は人間離れした力を発揮している。
「きさま、祟り神を身に取りこんだか」
 ちゅ大法師が叫んだ。血しぶきを上げている。大石は何か仕込んでいるのだろうか。ただ噛みついたとは思えぬ威力である。
 大石の異変は、黒痣だけではない、牙は伸びまるで狼だ。おまけに、首を自在に伸ばして噛みついてくるのだからたまらない。
「あんなやつに、お主はわたせん……」
 起き上がろうとするが、身は震えるばかりで、指も動かせない。
 仁右衛門は、身も世もなく泣けてきた。
 胸元の赤子が、奇妙なほどに温かい。
仁右衛門は、ハッと目を開けた。伏姫が小さな手を伸ばして、頬に触れてきたからだ。
 赤子は、言葉にならぬ声を発しながら、何かを差し出してくる。
「何だ。何を持っている……」
 見ると、出来たての紅葉のような手で、黒い石のようなものを握っているのである。
 いぶかしみ、目を細めると、赤子はその玉で、仁右衛門の額を叩いた。赤子とは思えぬ力で、仁右衛門朦朧とした意識が、そのときだけは、ハッキリしたほどだ。
「妙なもので……」
 無意識のうちに、手を出すと、赤子がその掌に珠を預ける。
 仁右衛門は、息をのんだ。
 真っ黒で、ゴツゴツとした鉄(と彼は思った)の玉が、突如として光芒を放ち、右衛門の手の内でくるりと回転をはじめたからだ。感触まで変化して、奇妙なほどに艶やかになった。赤子の柔肌のように滑らかな心地だ。握ると、回転は止まったが、純白の光は居残っている。
「こ、こんなばかな……」
 本物の珠なのか……
 とっさにその宝玉を握りこみ、「お前が真の宝玉なら、俺に力を……」そのとき、また、うむ、と血を吐き、その血が宝玉へとかかる。
「力を貸してくれ……」
 仁右衛門は宝玉を握りしめたまま、意識のなくなるのを感じた。
 閉じたまぶたの向こうすら暗闇となり、すっと額より、血の気が引いた。

○   十一


 目を開くと、彼は暗闇の中に立っていた。いまだ宝玉を握りしめ、その輝きだけが、濃い闇を払っていた。
 赤子は、いない。
 雨もなく、痛みもなく、音すらもしなかった。
 俺は死んだのか、と仁右衛門は思った。
 身動きすると、その闇はいやに重く、体にまとわりついてきた。まるで、闇という名の海に、沈んでいるかのようでもあった。
 サァ……と何かが、体の脇を流れていく。闇の中に、何かがある。それが巨大な顔だと気づいたとき、はじめてその顔が自分に向けて言葉を発していると知った。
「何者だ!」
 と仁右衛門は言ったが、彼の声はたちまち闇に吸い取られていく。
 巨顔の声は、倭語のようでいて、そうではなかった。聞き取ることができない。
 そのとき、右の手のなかで、宝玉が再びくるりと一回りした。胸元に差し上げると、珠の中央にジワジワと墨が浮かび、枝分かれをし、一個の文字と化していく。
「仁……?」
 それは、犬江新兵衛の所持したという、宝玉の文字に他ならない。
 仁右衛門は、右の肩に焼きごてを当てられたような痛みを感じた。「どういうことだ。俺に何をさせようというのだ」
 仁右衛門は、左手で肩をおさえながら言った。
声は聞き取れぬほどの早口になり、音量を上げ、仁右衛門をとりまいた。
「やめろ」
 声は、仁右衛門の体を侵食していく。皮膚を通り、肉を突き抜け、骨の髄まで染み渡る。
 仁右衛門は闇に浮かんで、ついに方角すらわからなくなった。天地は消え、浮いているのか、落ちているのかもわからぬ。
 その中で、赤子の声だけがあった。彼は再び意識をなくしながら、その泣き声に向かって手を伸ばした。

○   十二


 仁右衛門は、叫びを上げて、目を覚ました。
 ザーザーと、雨音が耳によみがえる。彼が抱いているのは、声の主である赤子である。
「ううっ」
 と仁右衛門は突っ伏する。激痛が、身の奥にあった。内臓を引き裂かれるような痛みである。体の奥に埋まった銃の礫が、ズリズリとひとりでに動いて、出てこようとしているのだ。
「うああっ」
 肉を潰してうごめく、弾丸の痛みに堪えかね、仁右衛門は赤子を抱いたまま、のたうち回った。不思議なことに、赤子はもう泣いてはいない。まどろむような半眼を向け、かすかに笑んでいるようだ。
 仁右衛門は膝をついて起き上がると、痛みに耐えかね、袂を開いた。
 血は残っていた。が、大石に受けた刀傷が、みるみるうちに塞がり、赤々とした肉腫の皮が、胸元に一筋の川のように流れる。そして、腹部にポッカリあいた銃傷からは、ボロリとひしゃげた弾がにじり出てきた。傷口は弾を押し出すと、瞬く間にふさがっていく。
「なんだ、これは……」
 荒い息をつき、呆然と輝く珠を見る。慌てて確かめると、宝玉の中央には、いまだ仁の文字が、黒々と浮かび上がっていた。
「お前の仕業か……」
 傷は塞がったが、失った血はどうにもならぬようだ。血の気が落ちているせいか、激しく頭が痛む。
だが――
「体が動く。本当に傷がふさがったのか――」
 信じられぬことだが、三つの弾は、すべて身のうちより取り除かれていた。刀を振るのに、何の支障もなさそうだ。
 だが――
「これでは、馬琴の戯作そのままではないか」
 仁右衛門は、赤子を抱いて立ち上がる。
「貴様、珠を奪いおったか!」
 大石がわめいた。
 仁右衛門は、樫の根元にねむる老人に、やおら目をやった。
(あの老人は本物か? では、この子も――)
 伏姫なのか――?
 信じられぬ話だが。
なんの力かはしらない。が、傷が治ったのは事実だ。
 仁右衛門に、迷い、思いを巡らす時間はなかった。子玉しか持たないちゅだい法師では、大石の敵となりえていない。
 が、鍬次郎は一刀流の使い手である。
「刀がいる」
 仁右衛門は、急いで宝玉と伏姫を腹に隠した。

○   十三


「仁右衛門!」
 と大石がわめく。
「宝玉をよこせ。それはわしのものだ!」
「逃げろ、仁右衛門!」
 と言いつ、ちゅ大法師は、大石の強力に屈して、膝を突いている。
 仁右衛門は無手である。
 争う二人にかまわず、樫の根元に走った。そこに、犬江新兵衛の亡骸があった。小柄な老人である。旅装を解きもしていない。入府してすぐに、大石と遭遇したのだろう。
 犬江新兵衛は、右の肩口から腹にかけてを一刀のもとに断ち割られている。薩腹の示現流でも、こうはいかない。
「ごめん」
 と仁右衛門は断り、新兵衛が右手に握る愛刀を、指をへし曲げるようにして無理矢理にとった――とたんである。
 その刀はたった今、命を得たように静かな光を放ち、あまつさえ、かすかな冷気と水気を漂わせ始めた。
 これは、と仁右衛門はうめいた。
 よもや、霊剣村雨か――?
 村雨丸といえば、八犬士の持ち物である。
 ドサッと音がして、泥がはねとんだ。足下に、ちゅ大法師の巨体が落ちてきた。
 ちゅ大法師は倒れこんだまま、錫杖を突きつけた。
風がコオッと吹いて、雨と三人の衣服を払う。
 仁右衛門は瞠目した。大石はもう、人相まで変わっている。いや、人相という言葉では足りないだろう。人外、である。目は赤く輝き、大石が首を振るたびに、その赤い残像が残った。口はさけ、白煙を吹き出している。体毛がみっしりと生え、その脂が雨水をはじいていた。刀を握るその指は、ぐわりと爪が伸び、まるで五本の小刀である。
 人、というよりも、狼に近い。
「あれは、なんだ?」
 と仁右衛門はちゅ大法師にささやいた。
「お主」法師が、チラリと仁右衛門の懐をみる。「それは、仁の珠か?」
 信じられぬ、と言いたげに首を戻す。
「お主、里見一族の血筋の者なのか。まさか……」
 仁右衛門は否定しようとしたが、奥村家は、身分こそ御家人だが、古い家柄である。どこで、どの血が混じっていようかなど、わかるはずもない。
 大石が、犬のように喉を鳴らし、ヒタヒタと迫ってく。骨格すらも変わったのか、膝を深く折り曲げ、人を遠く離れた動きである。自身も一流の剣客である仁右衛門は、大石の身ごなしを見て、逃げることも容易ならぬと判断した。しかし――
 仁の珠は、彼の傷を治しただけではないらしい。今、過去味わったことがないぐらい、体の奥深くから、力が湧き出してくるのを感じる。剣術の修行を通して、これこそが極意、という感覚を得たことはあったが、体中に、別の動力を得たような心持ちである。
 が、油断はできない。体力は、著しく減少している。早めに決着をつけなければ――
「なぜ目玉が光っている」
「邪神眼だ。まともに見るな」とちゅ大法師もささやきかえす。「お主、名は?」
「徳川家(とくせんけ)浪人。奥村仁右衛門」
「傷は治ったか?」
 仁右衛門は立ち上がり、スッと、村雨を垂らす。村雨は雨気を受け、さらなる冷気を立ち上らせている。
 彼がうなずくと、法師はやや満足そうに肯首(こうしゅ)した。
「まだ、宝玉の力を使いこなせまい。伏姫を連れて逃げろ、と言いたいところだが」ちゅ大が唾を飲む。「奴も新兵衛殿との戦いで、傷を得ておる。今、仕留めるべきだ」
「お主は、本物の金椀大輔なのか?」
 と仁右衛門はささやいた。ちゅ大法師が、チラリと彼をにらむ。
「馬琴のことは、今は忘れろ。奴をどうにかせねば……」
 そのとき、首をグルリグルリと回しながら、こちらに迫っていた大石が、止まった。喉を鳴らすのをやめ、その場で二度三度と腰を沈ませる。
 さらに深く沈んだかと思うと、鞠がはねるように跳躍をして迫った。
「伏姫を守れ!」
 ちゅ大法師が滑走したが、大石は鋭く左にはね飛んで、かと思うと、急激に角度を変えて、仁右衛門に迫った。
 仁右衛門は、下段にあった刀をさっと振り上げた。大石の一刀を受け止めはしたが、大石はなんと宙に浮いたまま、全体重を乗せて推してくる。
 重い――
「貴様、本物の壬生狼になりさがったか!」
 仁右衛門が刀を振り抜く。村雨丸は、周囲の雨粒を凍らせながら、鍬次郎の体をはねのける。
「本物の犬士になりおったか――」
 と大石は吐き捨てる。村雨丸は、真の犬士にしか扱えないのである。その刀は大きく欠け、表面に多量の霜をつけている。
 仁右衛門とちゅ大法師は、別の角度からジワジワと大石に迫った。
 大石が、法師に向かって、息を吐くと、その息は真っ黒な毒霧にかわった。
ちゅ大法師はたまらず膝を折る。常人なら、即死したはずだが、百の子玉をもつ法師は耐えた。
 仁右衛門は刀を下段に預けたまま、飛ぶように距離をつめた。まるで、何者かが回しているのかと思うほど足腰が軽い。
 鍬次郎が直前で顎を閉じた。
 仁右衛門もまた一息で距離をつめ、上段に跳ね上げた村雨丸を真一文字に振り落とす。
鍬次郎が真っ向からうける、狼と見紛う鼻より、ブフウと毒霧を吹き、食い止めた。
 仁右衛門は、中心に重みを集めると、粘りをかけるようにして、村雨丸に身を預けていく。
 祟り神を身に宿す大石も、その重みに屈服して、腰を下げた。
 村雨丸は、大石の刀に切れこんで、その刀身を断ち割り始める。
「おのれえ」
 大石がのろいの声を上げると同時に、刀は真っ二つに折れ飛び、村雨丸がその胸を切り裂いた。
 大石は、数歩よろめき下がる。胸元の傷をおさえ、
「村雨丸さえなければ」
 とうめいた。
 だが、仁右衛門もまた追わない。伏姫が、胸元で叫喚していたからだ。
(毒をすったか)
 仁右衛門にも影響はあった。が、仁の珠のおかげか、毒はたちまち体内で中和していく。
 大石が、刀を拾った。先刻、スナイドル銃とともに、仁右衛門が落としていたものである。
 倒れていたちゅ大法師が、かすむ目を瞬かせながら、
「義の珠を奪え! あれは近藤殿の物だ!」
「なんだと?」
 仁右衛門は伏姫をなだめつ、じわりと大石との距離を詰める。
「貴様、近藤さんを裏切ったのか」
「裏切っただと!」大石が激怒した。その語調には強い恨みがある。「俺をだましたのは、あ奴らではないか。国のためと、祟り神と戦い、穢れのみは俺たちに負わせた! 結果をみろ、幕臣になって何が残った! 今では、国にすら追われておるではないか!」
 仁右衛門とちゅ大法師は動けなかった。大石の声に何者かの胴張り声が重なった。それは、裂けた大地の奥深くからとどろいたような、力強くも不吉な声であった。
「いかん、祟り神に飲まれおった」
 ちゅ大法師は錫杖をズブリと地にさし、指をからませ次々と印を結びながら、呪文を唱えていく。

  • 筆者
    h.shichimi
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