ホラーハウス

 その小さな家は、昔からわたしの住む町に建っていた。
 大人たちは誰もその家を気にしなかった。目にとまることさえなかったように思うのだが、敏感なこどもたちはみんなその家をこわがっていた。とくに神社に神聖なものを感じたり、朝靄や夕暮れにきらめきを感じるようなこどもたちは。そうしたこどもたちは犬や猫の気持ちがなんとなくわかる。なにかの拍子には、目に見えない物が見えるようにもなる。なにか……きっかけさえあれば
 わたしがその家の外観を最後に目にしてから、二十年ばかりがたった。そのあいだ、あの家が――あそこにいた人たちが頭をはなれたことは一度もない。だから、子供たちには教えた方がいいと思うのだ。力のある場所はどこにでもあるし、噂になるには、理由があると。
 そんな場所には、近づかないほうがけんめいだ。

 

あの家

○     1

 姫楠市の高蔵町には、いわくつきの物件がある。学校の通学路にあり、小学生たちは息をとめたり駆けぬけたりして対処していた。ホラーハウスとよんだり、お化け屋敷とよんだりしていた。その家に面した道まで、幽霊道路といわれる始末だ。
 おもしろ半分ふざけ半分でそんな噂をしあっていたのだが、こどもたちのうちでも勘のいい子たちは本気でこわがっていたし、そういう子たちのうちでも、特に鋭い子たちはほんとうにつかまったりすることがあった。

 金山祥輔もそんなうちの一人だった。

○     2

 その家の外観はつぎのようなものだった。家は南むき、西がわが道路。境には古ぼけた金網がある。学校によくある緑の金網とおんなじで、祥輔はところどころやぶけてサビのついた金網のこともなんだかこわかった。家をまもるため、というよりは、なにかを出さないためのように見えたから。道路と金網のすきまには何十年も放置された自転車がなぜか三台。すべてこども用の自転車で、つかまった子たちの自転車だとのうわさがあった。
 これも祥輔たちがこわがる理由のひとつだが、屋敷の門は金網のむこうにあったのだ。ということは、この金網はずっと後からだれかが立てたことになる。
 門からは踏み石が五つおかれて、ふるぼけたタイルの玄関につづく。玄関は砂まみれだけど、カサたてには赤と黄色のカサがきちんとさしてあった。
 南には庭があり、松や柊といった、ちょっとした日本の庭園によくある樹木が一面に植えられている。なんとなくうっそうとして見えた。それらは手いれをされていないから、年中ほんのすこしだけ枯れていた。クモの巣もいっぱいたかっていた。
 そして、表札――というよりも看板だ――には、岡崎医院、とあったのだ。

○     3

 祥輔が、あの日、ホラーハウスを通りがかったのはほんの偶然だった。けれど、後になってみると、その日にいたるずっと以前から目をつけられていたんだとわかる。
 ゲームに夢中になるうちに日は暮れて、友達の家から急いで飛び出したときには、街は真っ赤になっていた。その日の夕焼けはものすごかった。空は赤いサングラスを通したみたいに赤く、街はその赤と影の黒とのコントラストだった。なんだか別の街に来たみたいだ。
 祥輔は家までの道を一生けんめいはしる。夏のやけた空気がのどをカラカラにした。
 祥輔はもう幽霊道路をとおることはあきらめていた。ひどく遠まわりになるけれど、二車線道路にめんした鋪道まででて、ぐるっとまわりこむつもりでいた。だから、幽霊道路がみえた瞬間に足をとめたのは、不思議というほかない。
 通りはもう、血をこぼしたみたいに真っ赤だった。祥輔はこんな夕焼けを見たことがない。
 祥輔はあらい息をつきながら、胸をおおきく波打たせ、幽霊通りにちかづいていく。汗だくで、シャツもびっしょり。なのに、ドライヤーをつかったみたいにノドがヒカヒカで、ならすとペタリとはりつくほどだ。祥輔はノドの上をちょっとこする。それからあの道をめざして歩き始めた。
 へんだな、と祥輔はおもった。なんだかおかしい。カメラみたいに、家にだけピントが合っている。岡崎医院のほかはぼやけてみえた。耳栓をしたみたいに、自分の息がおおきく聞こえる。心臓の音も。違和感をたしかめるためにホラーハウスにちかづき、それでようやく何がへんなのかわかった。
 金網がないのだ。
 時間が止まったみたいだ。びっくりしすぎてこわがるのも忘れた。地面には金網のあとすらない。表面についた砂埃も、細かくはった蜘蛛の巣もすっかりおちて、新品みたいに輝いている。
 祥輔が顔をあげたのは、こどもの声がきこえたからだ。庭先で三人のこどもたちがボールをつかって遊んでいる。
 目の端になにかがひっかかる。自転車だ。乗りすてられていたはずの自転車がピカピカになっている。夕陽をうけてにぶく光った。けれど、そのほうを見なかった。こどもたちから目をはなせない。
 なにしてるの――
 声が出なかった。こどもたちは手をとめて祥輔をみた。そのとき――
 祥ちゃん……
 かすかな声がする。家の中からだった。夢みるような心地がますます強くなり、
 祥ちゃん……
「誰?」
 足をふみだした。気づいていなかったのだ。変化があったのはその家だけじゃない、あき地が三つばかりできていたし、積水ハウスはなくなって、古ぼけた日本家屋がふえていた。
 たすけて……という声が聞こえたときはもうおそかった。つまさきが敷地をこえた瞬間に、電流がはしった。祥輔はあっと声を上げた。のぶとい腕が、祥輔の腕をつかんでいた。

○     4

 ぽーん、ぽーん、ぽーん
 ピンクのボールが庭先をひとりではねている。こどもたちは消えていた。祥輔の前には太ったおばさんが立っていた。うしろに下がろうとする。おばさんは指にますます力をこめて許さない。
 そのおばさんはちょっと異様だ。ふとっているにしても、大きすぎる。まちがいなく横綱クラスだ。なのにふとっている人のやわらかさがなく、うごく岩みたいな感じがする。まるで邪悪さがかたまって、それでふくらんだかのようだ。
 看護婦長、ということばが頭にうかんだ。この女性にはにつかわしくない言葉だ。ナースのかっこうとはちがうし、どちらかというと、大昔の(戦時中の)看護婦みたいなかっこうだった。
「いらっしゃい、祥輔」
 と看護婦長はいった。ニコリともしなかった。重くてざらざらして、女らしさのない声だ。とはいえ、がさつではなく、威厳にみちた声だった。その声をきくと、祥輔のしびれはますます強くなる。脳みそにこだまする声が、こう連呼していた。危険! 危険! 危険! 看護婦長のすがたは、遠近感がくるったみたいに伸びちぢみする。
「いらっしゃい。いらっしゃい。いらっしゃい」
 口端がどんどんあがる。味気のない笑みになった。その顔は、こどもが大好きなのよ、でも、ほんとに好きなのは悲鳴なの、といっているみたいだ。祥輔は、手をはなして、はなせ! といった。看護婦長の腕から手をとりもどそうとひっぱった。そのとき、巨大なもみじみたいな手がかっとんできて、かれのほうを激しく打った。
 祥輔は門のたもとに倒れた。すごい打撃だ。くちびるのはしっこから血が糸をひいた。祥輔は立ちあがって逃げるんだ、と自分にいったけど、からだが震えてたてない。
 まごまごするうちに、首根っこをつかまれた。
「返事はどうしたんだい」
 看護婦長は、束ねた本を放り投げるみたいに、祥輔を庭園まで投げとばした。庭の石でふとももを打った、その勢いで一回転しながら手をついた。だけど、寝ころんでもいられない。背後の松や楓が、みたこともない植物にかわっていたからだ。巨大な口には、ギザギザの歯がはえている。その口をおおきく開けたり閉じたりしながら、祥輔に向かってしなやかな首をのばしてくる。ゴロゴロところがって、牙をかわす。手をついて顔をあげると、
「よくないね、よくない子だ」
 看護婦長がこちらにやってくるところだった。祥輔の目に涙がいっぱい浮かんだ。ちうさんとかあさんのことを考えた。
「ぼく、帰る! 帰らないと――!」
「帰さないよ」
「なんで? うちで母さんが心配してるもん! それに看護婦長は町内の人じゃないじゃないか! ぼくをさらったりできない……」
「もうやったよ」
「ぼくは帰るんだ……!」
 祥輔は走った。でも、門のほうこうは看護婦長がふさいでいたし、背後では人食い植物が牙をむく。祥輔は玄関にとびこむしかなかった。玄関のランプがぱっとついた。看護婦長の巨大な腕が、かれにむかって伸びてくる。
 祥輔はドアのとっ手を力まかせに引きあけた。ゴールをめざすランナーみたいに、ホラーハウスにとびこんだ。祥輔は反転すると、目をとじたまま、ドアに体当たりをしたけれど、赤ちゃんの頭ほどもある指が四本、扉のはしを、がっとつかんだ。
 祥輔はドアノブに手をかけたまま、恐る恐る顔を上げた。扉のわずかな隙間、はるか高見から、どでかい顔がかれを見おろしていた。
「来たね」
 と看護婦長はいった。
 看護婦長が扉をあけると、祥輔の小柄なからだはま後ろにふっとんだ。かまちに背をぶつけ、咳きこみながら見あげる。尻の下でクツがざらざらしている。こどものクツが無数にある。祥輔は、そのクツをひざで蹴ちらしながら玄関をよじのぼった。
 バタン!
 おおきな音と風が祥輔の後頭部をおそった。看護婦長か扉を閉めたのだ。
 祥輔は受付の真下でふるえながらうずくまった。
 玄関は左にクツおきがある、ふるぼけたスリッパがはいっている。右には、古ぼけたポスター。そのまんなかには看護婦長がいて、そのシルエットは一個の山のようだ。
 いよいよ痛めつけにかかるところだった。
 もうだめだ、と祥輔は仁王像みたいな女をみあげる。仁王像は夕陽をあびてまっくろだ。ぼくはホラーハウスにはいっちゃった、もう絶体絶命だ。
 そのとき、廊下のさきで扉がひらき、こどもたちの声があがった。

○     5

 受付の赤電話がりんりん鳴っている。十円玉をいれて使うやつが、台の上でけたたましく吠えている。その音をひきさいて、こどもたちが叫んでいた。
「祥ちゃん!」
「祥ちゃん、はやく! こっちよ!」
 祥輔はふりむいた。こどもたちが廊下の向こうで、ひとかたまりになって、かれの名前を呼んでいた。祥輔に迷っているひまはなかった。電話台をつかむと、痛みをこらえてダッシュする。
 看護婦長ののぶとい指は間一髪のところでかれの襟首をつかみそこねた。
 廊下のまんなかには、岡崎医院を中央でくぎるもうひとつの廊下が東にむかってのびていた。祥輔は暗い廊下を横目にみた。手術室、と書かれた扉がひらいた、血みどろの手術着をきた男が飛び出してきた。看護婦長と変わらないぐらいの巨体だった。ぼさぼさの髪、ふつりあいなほどちいさな眼鏡。全身に返り血をあびている。院長だ。
 祥輔をみると、一目散に駆けてきた。
 祥輔は悲鳴をあげて走った。院長と看護婦長の重みで床板がぐわんぐわんとたわむ。指が後頭部をかすめる。膝は恐怖にぐらつき、いまにも転びそう、目の端からは涙がこぼれている。
 祥輔はこどもたちにむかってダイブした。看護婦長はかれの真後ろにせまっていた。
 こどもたちが祥輔を受けとめるのと、扉をしめるのは同時だった。男の子たちが扉をおさえ、祥輔もくわわる。女の子のひとりが、長い髪をなびかせてカギ穴にとりつく。その子はちょっともたついた。看護婦長が扉をどんどん叩くものだから、ふるえてうまく刺さらないのだ。
 先端が金属板をむなしくうつ。三度めでようやくほんらいの位置におさまる。衝撃と汗で女の子の指はカギからはなれた。だれかが恐怖の悲鳴をあげた。看護婦長の体当たりで、こどもたちの体は扉のうえでジャンプしていた。
 女の子は容姿からは想像もできない罵声をあげて、大仰な飾りを力任せにつかむと、おおきくまわした。ぐるぐるぐる。看護婦長の打撃と怒声はカギがまわるごとに小さくなり、三度目にしてようやく聞こえなくなった。
 男の子たちは祥輔をみた。祥輔も男の子たちをみた。
 やがて、看護婦長がついにいなくなったのを知ると、かれらはおおきく吐息をつきながら、その場にくずおれてしまった。

○     6

 七人だ……
 七人そろった……
 その子たちは口々にささやきあう。なぜか信じられないといった顔をしている。
 祥輔は怒鳴り声がやんだとたんに力がぬけて、その場にひざを落としてしまった。痛みが体中にもどってくる。まわりの声が遠くに聞こえた。血の気がひいて、横むきに倒れる。祥輔は舌をたらして痙攣している。
 こどもたちが心配そうにのぞきこんでいる。みんな亡霊みたいだ。
「しっかりしろよ」
 少年の腕が首のうしろにまわりこむ。祥輔はガタガタと震えながらもどうにか気をうしなわずにすんだ。
 部屋にいたのは女の子が二人、男の子が四人だった。祥輔はちょっと衝撃をうけた。ホラーハウスのなかにこんなに人がいたこと自体が驚き。その子たちがフルマラソンをやったあとみたいに(連続10回だ)くたびれはて、やつれきっているのにも驚いた。祥輔は信じられなかった。あれほど自分を痛めつけたがっていた看護婦長が簡単にあきらめたりするわけない。
 部屋の奥にあるソファにつれていかれた。部屋をみまわすと、どうやら待合室のようだった。おおきなソファーが二つ、突き当たりと西の窓際にあった。こども向けの本が机のうえにころがっている。
 カギをまわした子は美代子という名前だった。切れながの一重で、さらさらの髪があっちこっちに跳ねている。かたわらの女の子は日向子。美代子とは真逆の顔立ちで、おおきな瞳を恐怖でいっぱいにひらいている。ロングの髪を三つ編みにしている。勝ち気そうな顔だった。眼鏡をかけた男の子が一郎。鼻がひくいせいで、眼鏡がずりおちている。その眼鏡というのも、右はひびわれ、うす汚れて、かけないほうがよく見える、という代物だ。そばかすのおおいのが武彦、手足がしなやかでかけっこが早そうだ。一番ふとった子が太一。ピチピチのシャツを着ている。淳也という子は、ジャニーズにいそうなととった顔だけど、今はやつれてちょっと病的だった。
 祥輔は力のない目をあげて、
「なんで僕の名前知ってるの?」
 日向子が、血がでてる、といって、ポケットからハンカチを差し出した。口に当てると、傷が歯にあたって痛みがひろがる。ほっぺたが腫れて熱をもっていた。
 武彦が、まっくろなノートをさしだす。学校でつかう名簿のようだった。祥輔が表紙をあけると、先頭のページにみんなの名前があり、一番さいごには、祥ちゃん、と墨書きしてあった。
 ぼくの名前だ……とノドの奥でつぶやいた。
「3日前、名前がうかんできたんだ。だから、新入りがくるってわかった。だれかがくるときは、もとにもどるんだ」
「もとにもどるって、なんだよ!」
 おもわず怒鳴ってしまった。美代子がびくりと肩をふるわし、日向子が祥輔をにらむ。
 口の傷がますます裂けてにがい血の味が舌いっぱいにひろがった。祥輔は痛いのまで悔しくなって、わざと大声を出した。
「君たち、誰なんだ? どこの子だよ! 山西小の子じゃないだろ?」
 みんなはこまったように顔を見合わす。日向子がいった。
「あたしたちみんな山西小よ」
「うそだ。ぼくはみんなのこと見たことない」
 ここにいる七人は祥輔と年かっこうが変わらないのだ。
 美代子がともだちの背にかくれながら訊いた。
「いまは何年?」
 え? と祥輔は思わず聞き返した。
「一九九五年だよ。それとこの家となんの関係……が」
 祥輔はだまりこむ。美代子がいまにも泣きそうな顔をしたからだ。日向子もちょっと顔をふせていた。一郎が言った。
「美代ちゃんは十年以上この家にいるんだ」と言葉をきる。「ぼくは三年目だ」
 祥輔は脳天が干上がるような気味の悪さをおぼえた。武彦は五年、淳也は二年半ここにいる。こんなところに何年も。けれど、この子たちの言ってることはおかしかった。祥輔はハッと思い当たって、
「でも、年をとってない!」と美代子を指さした。「十年もいたらもう大人じゃないか! 子供のままなんて」
「年はとらないんだ」
 祥輔が振り向くと、一郎は目をそらしていた。自分の言葉を、自分でみとめたくないみたいだ。
「それだけじゃないのよ」と日向子。彼女らしくない重いちいさな声だった。「外の人たち、わたしたちのこと忘れちゃうみたい」
 淳也がうなずく。「ぼくと武彦は近所なんだ。武彦はぼくのことおぼえてた」
 けれど、淳也は武彦をおぼえていなかった。彼の弟や妹は知ってる。でもその子たちに武彦なんて兄ちゃんがいたなんて知らない。
 祥輔はツバをのみながら必死に考えた。六人、六人も行方不明になってたのか? あれはたんなる噂じゃなくて、でも――
「ほんとはもっと大勢いたのよ」日向子は美代子をひっぱって、「だってこの子がいちばん古株だもん。もっと前のメンバーにもあってる。カギを持ってたのはその子たちで、ほんとはあたしたちも、そのカギがなんなのか知らないんだ。そんで、その子たちは、みんなつかまっちゃった」
 つかまった――その言葉に祥輔の体はかすかに震えた。体には看護婦長の野太い指の感触とか、あいつの邪悪な息の匂いが鮮明に残っている。
 一郎がおそろしげに眼鏡をおしあげる。
「いまはぼくらしかいない」
 祥輔はつったったまま、みんなの顔を順番にながめわたした。おなじ町内、でも時代のちがうこどもたち、外の世界から忘れ去られたこどもたちがここにいる。祥輔はみんなのことも怖くなる。
 淳也がいった。「この家からはでられないんだ。ぼくらはずっとここにいて、院長たちから逃げまわってるから」
 祥輔は扉にむかいだす。「ぼくは帰る。とうさんとかあさんが待ってるんだ。忘れるはずなんてない!」
「ぼくだってそう思いたいよ」
 太一が甲高い声で泣きはじめる。太一がこの家に来たのは一年前だ。祥輔はその家を知っていた、その家の子たちも。でも、あの兄弟の真ん中に、太一なんて少年がいたこと、彼は知らない。
「なんで帰れないんだよ」と振り向く。ほんとうは一人で外にでるのがこわかった「カギがかかってるってこと? それともあのおばさんが見張ってんのか?」
 武彦は一郎と顔をみあわせる。
「そうじゃないんだ。この家がさっきみたいに岡崎医院にもどるの、めったにないから」
「つまりあんたみたいな新入りが来るときだけってことよ」そういったでしょ? と日向子は薄寒そうに肘をなでる。「この家って、あっちこっちの開かずの間につながってんの。それでこのカギでいろんなとこに行けるんだよね」
 それで看護婦長がいなくなったのか――
 その話を信じたわけじゃない。けれど、看護婦長の攻撃がやんだのはとつぜんだったし、カギを回したぐらいであきめたのはおかしかった。
 一郎がため息をついて、「あの人たちもカギを持ってる。だからぼくらの後を追ってこれるんだ」
 祥輔が青くなると、あわててつけたして、
「だいじょうぶだよ。行き先は自分で決められないんだ。それに外にはカギ穴がないだろ?」
 祥輔は指をにぎったり開いたりした。きちがいじみた話を信じたくない。けれど、かれの直観はぜんぶ本当だとつげている。さっきみたいなめにあった後ならなおさらだ。
 淳也が美代子からカギをうけとって、祥輔の腕をとった。
「来なよ、証拠をみせるから」



学校

○     7

 淳也が三度鍵をまわした。うなるような音が頭の奥でこだまする。平衡感覚が狂うみたいだ。奥歯の疼きがますますひどくなる。
 なにかが所定の位置におさまる音がした。
 岡崎医院は消えていた。扉の先は暗い。踊り場があって、その先では階段が落ちていた。冷えた空気が待合室にながれこむ。あたらしい部屋だ、と一郎が言った。
 こどもたちはなんとなく部屋の外にふみだせずにいた。新しい部屋がまっくらだったことも一つあった。そんなふうにしていると、囲いの外にふみだせない囚人みたいだ。
 でも、祥輔が足を進められなかった理由はもう一つある。扉の外の景色には見覚えがあったのだ。
 太一が部屋の狭間に鼻をちかづけて匂いをかぐ仕草をした。武彦は耳に手をあてて何かをきいている様子。二人は同時にうなずいて、仲間たちにうなずいた。
「看護婦長はここにはいない」
 祥輔は武彦のことばをまたずに、外に出てしまった。階段の先には廊下があり、その先には窓がならんでいる。外はもう真っ暗だった。祥輔が振り向くと、待合室は夕暮れで、まだ明るさがある。祥輔はもう二歩ばかりあとずさって、踊り場の全体像がよく見えるようにした。淳也が開けたのは、両開きの扉の片方だった。そして、それは――
「非常階段だ」
 と祥輔は言った。階段をよく見ると、手すりの間にロープがわたしてあって、真ん中に看板のようなものがぶら下がっている。
 祥輔が階段をかけおりたので、武彦たちもあわてて後についていった。祥輔はロープを押し上げて、下をくぐった。正面にまわりこむと、ロープの看板には、立ち入り禁止、と漢字とひらがなの両方で書いてあった。
 見たことがあった。
 山西小の風景だった。
 祥輔は窓に走って外をのぞいた。夜だから、いつもの景色とちがってみえたが、校庭も遊具も砂場も鉄棒も、見慣れた位置においてある。正面玄関の門のわきには公衆トイレだ。
「学校だよ……」
 と祥輔はだれにともなくつぶやいた。
 ふりむくと、太一もまたその看板にくぎづけになっている。
「その看板、みたことあるだろ?」
 と祥輔は訊いた。太一は昨年あの家に行ったばかりだ。
「見てよ」
 階段の右側は、音楽室である。左側には四年A組の看板が突き出ていて、同じ形の教室がずらりと並んでいる。一番端っこにあるのはトイレだ。教室とトイレの間には同じ形の階段があるはずだ。
 祥輔はみんなと顔を見合わせる。美代子と日向子がこの学校にかよっていたのはもう十年と昔の話だが、それでも形はおぼえているはずだった。
「でも、なんでだ?」
 と武彦は階段に目を向けた。扉はもう閉まっていて、階段は真っ暗になっている。屋上につづく非常階段のわきには、二階におりるための階段。二階には、一年ら三年生までの教室があるはずだ。
 祥輔はつばを飲んだ。のどを湿してから、彼は言った。
「ぼくら、学校に出てきたんだよ。あれって屋上の扉じゃないか」祥輔の大声は暗い校舎に不気味に響いた。考えこむようにすこし顔をふせた。「おかしいよ。この学校に開かずの間なんてない」
「でも立ち入り禁止になってる」
 と日向子はつよがったが、いつの時代も外に出る子はいたのである。
 窓からは月光がさんさんと降っている。こどもたちの顔を神秘的に染めている。
「開かずの間が、別の場所にあるってことなのかも」
 と淳也がいった、そのカギがどこの扉にたいしてもつかえるからだ。
「そのカギ、なんなんだ?」
 ととがめるようにいった。祥輔はちょっと恐ろしくなる。カギを手に持ってみた。骨董品でむやみに重かった。鉄でできている。
 祥輔はひっしに記憶をさぐった。山岡小に行けない場所なんてあっただろうか? 開かない扉なんて?
「ホラーハウスと開かずの間とつながってるって、うそだったのかな?」と太一。「それをいいだしたのって、ぼくらじゃない。ずっと前のメンバーがまちがったのかも」
 そんなふうに死んだこどもたちの考えをさぐるのはすこし不気味なことだった。
「とにかく、外に出られたんだから」と祥輔は美代子のことを気にしながらいった。「ぼくは家に帰るぞ。みんなはどうするんだ?」
「だめなんだ、祥輔」と武彦がいった。「別の場所にでても、行ける範囲にはかぎりがあるんだ。たぶん、ここからだと外には出られない」
 武彦は学校がひろいからだといった。
 祥輔は納得できなかった。でも、それはみんなも同じだ。ホラーハウスの出口が高蔵町につながったのは、これがはじめてだったのだ。これまでは田舎の家だったり、外国だったりした。階段のスイッチを押したが、灯りはつかなかった。ブレーカーを落としているのかもしれない。みんなは暗い階段を下りた。
 一階は職員室や用務員室、家庭科室などがある。
 祥輔は急ぎ足で玄関に近づいたが、すぐに見えない壁にぶつかった。かれは鼻をおさえながらあとずさった。
「なにかある」
 日向子は期待をみごとに外されて、怒ってちかづいた。見えない壁を拳で叩いて、
「見なよ、ほんとだったじゃない。外には行けないの! わかった!」
 かのじょは急にそっぽをむいた。日向子の肩はふるえている。祥輔はいいかえせなかった。何年もここに閉じこめられていたみんなには少し同情していたからだ。
 武彦が壁を手で押しながら、
「行ける範囲も変わるんだ。ぼくらが怖がると、せまくなるみたいだ」
「ほんとうに?」
 祥輔は職員室の扉をひらいた。真っ暗だが、いつもの光景に見える。でも、違和感をかんじる。
「ホラーハウスはぼくらを閉じこめてるはずじゃないか、なのに外に出られるのはおかしいよ」
 日向子たちは顔をみあわせる。
「確かに祥輔の言うとおりだよ」武彦も納得した。廊下をながめる。「知ってる場所に出たのははじめてだ」
「でも、どこにも行けないんじゃ外にでたとはいえないよ」と一郎。
 祥輔は、「学校なら人がくるだろ?」
「別の場所でも、人がいたことがある。その人たちにはぼくらは見えないんだ」
 淳也が、まるでお化けになったみたいだよ、といった。彼らのたてる音はラッパ音や、幽霊のたてる音とおんなじだ。食べ物や服を手に入れても正体がばれることは決してなかった。
 祥輔は頭の中がすみずみと冴えわたるのを感じた。かれは考えるよりも体がうごくたちで、よく失敗しては母親にしかられていた。でも、今は大人のように理路整然と考えることができた。
「ここは本当に山西小なのかな?」
 自分がホラーハウスにくるまえ、街が異常にしずまりかえっていたことを話した。ずっと過去にきたみたいにみえたのだ。
 武彦たちもホラーハウスに来る前は、似たような体験をしていた。
 宿直室をみてみたが、先生はいなかった。
「ここが外じゃなかったら? つまり」と言葉を切る。「本物じゃないのかも。幻覚みたいなものなのかもしれない」
「まだ病院の中にいるのかもしれないってこと?」
 祥輔はちがうと思った。いくらホラーハウスでも、家の広さが変わったりするだろうか? 階段も校舎の冷たさも、空気の質も本物に思えた。でも――
「教室だ。三階にあったのは、音楽室だった。でも、ほんとは理科室だったはずだ」
 祥輔は標本のある理科室がちょっとこわかった。美代子と日向子は大昔の話すぎて記憶があいまいだったが、淳也と太一はよく覚えていた。いわれてみると、校舎のようすが記憶のものとは少しちがう気がする。
「七人そろったからだ」
 と太一がいった。祥輔は顔をあげてかれをみた。
「それってあのときもいってたよね」
 太一は話した。自分たちが七人そろえばなにかが起こるという話を信じてきたこと。そのことをマジックナンバーと呼んでいたこと。
 祥輔が眉をしかめたのを見て、
「でたらめな話じゃないんだ」と武彦がいった。ホラーハウスに来てから、武彦の耳はとんでもなく細かな音、遠くの音を聞きわけられるようになった。太一は鼻が敏感になった。いまで犬よりもするどいかもしれない。だから、二人は新しい部屋にでくわしたとき、匂いをかいだり、耳を澄ましたりしていたのだ。日向子は目、一郎は触覚が鋭くなった。淳也は味覚だ。美代子だけはちょっと特別で、いわゆる第六感のようなものが育っていた。
「ぼくらがこれまで助かったのは美代ちゃんのおかげだよ」と一郎。
「でも、感覚があるのって、六感までだろ?」と武彦。実際には五感までしかないのだが。「だからぼくら七人目がきたら、何かが起こると思ってた。だから、新入りが来るってわかったとき、看護婦長にはぜったいにわたしたくなかったんだ。もちろん、ぼくらが欠けてもいけない。これまでは、七人そろうなんてなかった」
 六人までならそろったことがある。じっさい美代子は六人目だった。でも七人がそろったのは今日がはじめてだ。
「あの家が感覚をするどくしてるの? ぼくらをつかまえてるのに?」
 祥輔は味方がいるのかとおもった。その話がほんとなら、ホラーハウスにいるのはお化けだけじゃないってことになる。
「なにか変化はないの」
 と日向子はすがるように訊く。勝ち気な彼女がそんな顔をするのは珍しかった。みんなの精神はホラーハウスでの生活ですりきれていた。
「そんなこといっても」
 祥輔は正直に話した。なんの感覚も高まっていないこと。せいぜい頭が冴えるぐらいだ。
 祥輔に起こった変化がそのていどと知って、みんなは落胆したようだった。
「みんなよせよ、祥輔のせいじゃないだろ?」
 と武彦がいった。彼は元の時代では、学級委員長だった男だ。
「それにまだわからない。ホラーハウスにそまれば、力はつよくなるんだ」
 一郎がめがねの奥でそんなふうにいうと、なんだかこわかった。ホラーハウスにそまるという表現は。
 祥輔はいちばん訊きたくて、もっとも訊きたくなかった質問を口にした。彼は、捕まった子たちはどうなったの? と訊いたのだ。
 淳也たちはその話をしたがらなかった。もうこの家では何百回と繰り返されてきた議論に違いない。手術をされるのかもしれない。ホラーハウスに喰われるのかもしれない。でも、一つだけ確実なことは、捕まった子たちはもうこの世にいないということだった。「でも、七人そろった」 
 太一がもじもじとお腹の前で指を組み合わせながら言った。
 武彦がうなずいた。
「はらごしらえをしたら、もう一度学校の中を調べてみよう。なにがおかしいか確かめるんだ」

○     8

 こどもたちは用務員室のカップラーメンをあさってたべた。パッケージはどれも最近のものだ。
 祥輔はどのぐらいの部屋とつながってるのかと聞いた。太一は三つしか行ったことがないと言った。来てから日が浅いせいだろう。淳也と一郎は六つの部屋に出たことがある。武彦も六つしか知らなかった。
「六つ?」
 と彼は訊いた。ちょうど六つなのはおかしかった。ここにいたのは六人だからだ。
「あたしはもっと多いよ。八つか九つは知ってる」
 と日向子。美代子はもう少し多いようだった。
 祥輔は名簿をうけとってしらべてみた。名簿にはずっと以前のメンバーも載っていた。その子たちの名前の上には赤線で×がしてある。おまけにページの端には、小さな字で、死亡、と書かれていた。祥輔は数を数えるうちに恐ろしくなった。すでに四一名、それだけの数がここで死んでいる。
 祥輔は、二人の女の子にどの子とあったことがあるかを聞いた。日向子は八人、美代子はもう少し多くて十五人だった。
「この子たちがいたときに行けた部屋には今は行けないんだよね? 武彦だって、もっと前のメンバーにはあったことがない――」
 日向子がきたとき、美代子は別の子といた。その子は入れ替わりでつかまってしまったのだ。新入りを助けようとして、殺されてしまった。武彦は、登という子との入れ替わりだった。以来、幸運にも、看護婦長につかまったものはいない。ホラーハウスがこどもをたべているんだとしたら、いまごろうんと腹を空かせてるはずだ。
 祥輔がきて、七つ目の部屋が開いた。重要なのはそこだった。日向子と美代子が二人しかいなかったときは、二つの場所にしかいけなかったのだ。
「与えられる力はひとつずつだろ? じゃあ、行ける場所もひとつずつなのかもしれない」
「この学校は祥輔の場所なのか?」
 淳也が箸をとめた。彼らは食事もはやばやにおえて、学校の探索にのりだした。学校の様子はところどころでちがった。でもそれは祥輔の希望を反映した物でもあった。
 祥輔は、自分の考えをとなりにいた一郎に熱心に話した。
「これは現実の学校じゃない。でも、ぼくの学校だ。頭の中にある学校なのかも。つまり心の中なのかもしれない。だから、行ける範囲が広くなったり狭くなったりするんだよ。心が広いとかせまいとかいうだろ。だから――」
 祥輔は足をとめた。一郎が目をかがやかせて、わかったぞ、と言ったからだ。
「ぼくら七人目のメンバーがもらえるのは、超能力かなんかだと思ってた。でも、ちがうんだ。きっと考える力だよ」
「そんなの」と日向子はむくれた。役にたつとは思えなかったからだ。
「いや、役に立つよ、きっと。重要だよ。だっと、考える力――推理かな? それがあればホラーハウスのなぞもとけるじゃないか」
「でも誰が?」と淳也がなじるように言う。「誰がそんな力をくれるんだ?」
「死んだ子たちなのかも」
 言ってから、太一は身震いをした。女の子たちが悲しそうな顔をしたから、武彦は太一の肩に肘打ちをした。女の子たちだけは、その子たちに会っているのだ。
「ごめんよ、ぼく……」
「いいのよ」と日向子も太一にだけはやさしい。「でも、ここがどこなのかなんて意味があるのかな? だって、あたしたち、出ても行けないんだから」
 祥輔はうんとうなずいたきり、少しだまった。ある考えにとりつかれていたからだ。だれかがヒントをくれるみたいに、かれの頭はある考えをみちびきだしていた。
「看護婦長もカギを持ってるっていったよね。あの人も別の世界にいける。ぼくらの世界にもこれる――」
「世界って」と日向子が反発した。「それがただしいかなんてわかんないじゃん」
「推測だよ。これがほんとうだと仮定をして話をしてるんだ」
 日向子ははなじろんだし、武彦たちも顔をみあわせた。
「まるで先生みたいだな」
 と一郎が感心したようにめがねをおしあげる。みんな、なんとなく、祥輔の推理の力を信頼するようになっていた。こどもはこんな話し方をしない。それに祥輔ははじめにあったときより、どんどん雰囲気がかわっている。本人はそのことに気づいてないみたいだ。それで信憑性があったのだ。祥輔は自分をすこしもつくっちゃいない。
「ぼくらのもってる世界が一人一つと仮定しよう。それが正しいとすると、看護婦長も自分の世界をもってることになる。看護婦長の心の世界だ」
「でもなあ」と武彦は顔をくもらせる。「看護婦長の部屋にいけば、なにかヒントがあるっていいたいんだろ? でもぼくらはそんな部屋に行ったことがないよ。このカギでは、仲間の部屋いがいには行けないのかも」
「出てきた扉からなら?」
 と祥輔はいった。
「ぼくら屋上の扉から入ってきた。その扉はカギをつかわなくても、待合室につながってるかもしれない」
「でも、看護婦長が自分の部屋に戻ってきたらどうするのよ」
 日向子は青くなっている。美代子がきゅっとその手をつかんだ。
「美代ちゃんはどう思う? いつもみたいにいけないって思わない」
 と期待するみたいに聞いた。けれど、美代子は首を左右にふる。その顔はすこし紅潮しているみたいだった。
「いいアイディアだと思う。危険なの、わかってるけど、いけると思うんだ」
 祥輔はちからづよくうなずいた。
「屋上でためしてみよう。カギをつかわずに扉がひらくか、ためしてみるんだ。開いたら――開いたら、ここで看護婦長が追いかけてくるのをまつ。そんで二手にわかれて、看護婦長の世界にいく」
 日向子はすっかりとりみだして大声をだした。「わかれるなんてだめよ! せっかく七人そろったんだよ」
「でも、看護婦長をおびきよせる役目がいるんだ。大勢いないとあやしまれるから、看護婦長の世界にいくのは三人だ」
「そんなのうまくいかないよ」
 一郎まで青くなっている。
「カギはこの世界にのこったメンバーが持つ。そんで、なるべく別の世界にはいかないで欲しいんだ」
「なんでだ?」と武彦。
「ぼくらはカギをもってない。だから、戻ってくるには、同じ扉をつかって、この学校にくるしかない。でも、わかれたら、ぼくの部屋には、みんなは来られないかもしれない」
 日向子は、やっぱり危険だよ、と小声でいった。美代子も賛成はしなかった。
「お前はいくつもりなのか?」
 と武彦が聞いた。反対するというよりは、確認のために聞いているようだった。
「ぼくはいかないといけない。と思うんだ」そして、側頭部を人差し指でつつく。「さっきからすごいんだ。ホラーハウスに味方がいて、そいつらが協力してるのはまちがいない。だれなのかわかんないけど、とにかく考えがどんどんわいてくるんだ。これからホラーハウスの秘密をときあかせるかもしれない」
 みんなは恐怖のなかに希望をもった。祥輔のいうとおりかもしれない。七人目のメンバーには本当に期待できるのかもしれなかった。
「ぼくは武彦にもいってほしい。君は耳がいいから、危険を察知できるだろ。全員で行けるならそれでベストだけど、そうはいかないから。あとは、太一かな」
 この言葉にみんなは驚いた。太一はメンバーのなかでいちばんの弱虫だ。日向子よりも臆病者だった。でも、いちばんびっくりしたのは当の太一だったろう。その太一がうなずいて、行くと言ったから、みんなは二度びっくりした。落ち着いていたのは祥輔だけだった。
「決まりだ」
「決めるなよ。ぼくだっていけるぞ」と淳也はつよがった。自分の力が役に立たないみたいで、腹をたてたみたいだった。「それに、連れていくなら、美代ちゃんがいちばん頼りになるだろ? この子の直観はすごいんだぞ。はずれなんてない。ホラーハウスにずっといるから一番ちからがつよいんだ。みろよ」
 淳也は武彦のわきから名簿をうばった(この名簿というのも変わった代物だった。ひとりでに文字がうかびあがるし、だいたいだれが持ってきたものなのかやっぱり誰も知らなかった)。淳也は名前のはしっこにある○を指さした。太一は△、他のみんなはたいてい○だった。でも、美代子だけは◎だ。
「見ろよ」と淳也はその◎をたたいていった。「ぼくらこれが力のつよさをしめしてるんだと思う。ぼくも最初は△だった。時間がたつとかわるんだ」
 みんなは淳也の顔をみた。彼がひゅっと息をのんだのがわかったからだ。太一が、もう二重丸になってる、と祥輔の項目をみていった。
「美代ちゃんはこっちのメンバーに必要だ。誰かがつかまったら、意味ないだろ? 看護婦長から逃げるには必要なんだ」
「そんなにうまく逃げられるかな?」
 と一郎は不安だ。淳也も自分の重要さがわかった。ともすると、こちらがわの方が危険かもしれないのだ。
「あたしたち、別の世界にいっちゃいけないのね。この学校でみんなの帰りを待たなきゃいけない」
 と美代子がめずらしく自分から口をひらいた。これで決定的だった。淳也はすこし涙目になって、だけどうなずいた。祥輔はすこし感心した。だってかれはこの少年のことをかっこうつけのいやなやつだと思っていたからだ。でも、淳也だって、ホラーハウスで二年間も生き残ったれっきとしたメンバーなのだ。
「できるだけ粘ってほしい。でも、危険とみたら、カギをつかってくれていい」
「武器になるものをさがそう」
 武彦はさっそく消化器をみつけてひっぱってきた。「ここが心のなかだったとしてもさ。ラーメンが食えるんだから、消化器だってつかえるよな」
 武彦はじょうだんが言いたかったみたいだ。でも、その笑顔はとちゅうで凍りついてしまった。みんなこれまでいっしょだったメンバーがばらばらになるのを恐れているのだ。
「味方がなんなのかわからないけど、力をくれるなら利用しよう。協力して、看護婦長たちとたたかうんだ」

○     9

 ホラーハウスの生活に、あたらしい希望がめばえてきた。もう逃げまわるだけじゃない。看護婦長の陰におびえるだけじゃない。七人は明確な意思をもってたちむかおうとしている。そのなかで美代子だけは浮かない顔だった。これまでも看護婦長たちをやっつけようとした男の子たちはいたのだ。でもそのたびにてひどい返り討ちにあってしまった。そのせいで彼女はあやうく独りぼっちになりかけたのだから。でも、彼女の直観はこの作戦がうまくいくと告げていた。
 屋上の非常階段をあがる。無機質でつめたい扉に手をかけ、ノブを回した。扉のむこうには待合室がまだあった。向こうも夜になっている。これで、カギがなくても別の世界にいけるとわかった。
 こどもたちはありったけの消化器、モップをかきあつめた。用務員室には、冬場につかう灯油のタンクが保管してあった。マッチもみつけた。こどもたちは三階にそれらのしなをもちこんだ。最後ににげこむ場所は待合室と決めたからだ。
 武彦のとうちゃんは消防官だった。消火栓からホースをひっぱりだし、万が一にそなえた。三階と二階をつなぐ階段では、踊り場に机を積みんでバリケードにし、灯油をまいて看護婦長の進入をふせぐつもりだ。
二階につづくている。
 階段には灯油のにおいがこくただよっていた。けれど、看護婦長は視力がよわかったし、濃い化粧のせいで鼻もきかない。気づかないはずだ。淳也はマッチを握りしめた。武彦は頼りがいがあったし、太一は臆病者だけど体はビッグサイズだ。その二人がいないのはなんともこころもとなかった。
 こどもたちは職員室からカギを借りて、音楽室の楽器をとりだしていた。これで看護婦長をおびきよせるつもりだった。
 美代子の勘では、看護婦長がくるのは、二階より下ということだった。家庭科室からみつけた包丁や果物ナイフも用意した。真夜中の学校でこどもがそんなものをにぎりしめているのは、なんだか不気味でこっけいにみえた。みんな災害用のメットをかぶり、体には茶室でみつけたざぶとんをまきつけた。
「あいつらとは戦おうとしちゃだめだ。力じゃかなわないんだから」
 と祥輔は忠告したが、みんな百も承知みたいだった。
 祥輔は準備がととのうほどに不安になった。みんなできそこないのヌイグルミみたいだ。
それに美代子の直観がどんなにたいしたものでも、的確に判断できなくては意味がない。学校は隠れ場所が多いけれど、隠れることじたいが危険だった。扉のちかくにいなくてはカギがつかえない。鬼ごっこはつかまっても自分が鬼になるだけだが、ホラーハウスでは死体になってしまうのである……。

○     10

 祥輔たちは職員室にはいった。一番奥の机の下に隠れたのだ。太一はもう息づかいが荒い。美代子の第六感は、危険が近づくほどに精度がますようで、看護婦長が出てくるのは保健室だといっていた。けれど、これまでその力を目にしたことのない(自分に起こった不思議な現象をわりひいても)祥輔にははなはだ不安なことだった。祥輔の頭は今もフル回転している。回転しすぎて疲れ果ててもいたが、考えをやめることはできなかった。誰かが彼の頭脳をつきうごかしていた。
 一人に与えられるのは一つの感覚だったり、ホラーハウスには法則がある。でもなぜなんだ? それになんでぼくらなんだ? こどもは他にも大勢いる。でも無制限につかまってるわけじゃない。ここには兄弟がいたためしがないらしい。親戚もいとこもなし。おなじ町内という以外、まったく無関係のこどもが集められてる。
 祥輔がむっつりと考えこんでいるので、自然武彦と太一もだまりこみがちになった。
 武彦と太一は消化器を脇に抱えている。安全ピンはすでに抜かれていた。祥輔は果物ナイフとさらしをまいた出刃包丁をもっている。けれど、行く先では誰かがいてもさわったりはできないはずだ。
 学校の中は暗闇だったが、表の外灯は生きていた。三人は恐怖の汗をぐっしょりとかいた。三階の日向子たちの物音もしなくて四人はとっくに殺されたんじゃないかと思ったそのときだった。
 カラカラカラカラと、扉の開く音がした。武彦が急にはりつめて、祥輔の二の腕をそっとたたいた。保健室から音がたったのを聞きつけたのだ。太一も無言でうなずく。汗がうごからポタリポタリと落ちる。なつかしい看護婦長の匂いがする。甘ったるい、オーデコロンの匂い。三人は身を固くして机の下で手足をちぢこめる。祥輔には何も聞こえなかった。何も匂わなかった。でも左右にいる二人の友達は看護婦長の動きが如実にわかるらしい。看護婦長はそっとスリッパをぬいだ。汚い靴下だけになると、前屈みになり、孫の寝姿をみにいく祖母のような足取りで廊下をすすみだした。巨体からは想像もつかないみごとな忍び足だったが、武彦の耳はわずかな物音ものがさない。
 太一が両手で口と鼻をふさぐ、看護婦長が近くなる恐怖にたえかねてのことだった。オーデコロンにまざって、死体の腐臭、血の匂い、垢の匂い、看護婦長の息の匂いまで届いてくる。この匂いをかぐたびに、太一は気が狂いそうになる。カラカラカラ、今度は殺気より小さな音がした。祥輔たちは桟に石けんをぬって、音をおさえていたからだ。やばいと思った。看護婦長はあざとい。顔のつぶれたアザラシのような(おまけにうんとおばかの)顔をしているが、彼女はあざとい。この小さな策略に気づいたかもしれない。果たして、看護婦長は闇の教室に忍びこんできた。武彦は看護婦長の口が開く音を聞きつけた。獲物にちかいことをしって、にんまりと笑っているのだ。
 三階から、太鼓の音がしたのはそのときだった。かすかな音だ。それからカラカラカラと何かが回る音。淳也たちが、消火栓のホースをわざとひっ張り出しているのだ。蛇口から水が流れる音。戸を開ける音。椅子をうごかす音。淳也たちはさまざまな音を出しながら、準備を進めていた。女の子の悲鳴がした。ほんとに恐怖を感じているだけにしんに迫った声だった。
 看護婦長は、二度大きく首をまわす意味のない動作をした。それから天井に目をむけ、部屋を出て行った。
 祥輔たちは、その間中、まんじりともできなかった。武彦は看護婦長が階段をあがる音を聞いた。それから、祥輔の耳にも重い足音、あの女が階段を駆け上がっている。祥輔は息をするのを忘れていた。大きく吸いこんでから、
「いこう、いましかない」
 三人は苦労して机の下をでた。体がこわばって手足がうごかないのだ。校舎には階段が二箇所ある。看護婦長がつかったのは、東階段だ。上から何かが派手に崩れる音と、獣のような唸り声、それから男の子たちのわめき声がする。
「みんな殺されちゃうよ!」
 太一がいった。
「だめだ、ぼくらは看護婦長の部屋にいくんだ」
 祥輔は先頭にたって、出口にむかった。いっしゅん、廊下に院長がたっているのが見えたが、気のせいだったようだ。廊下には看護婦長の狂った熱気を感じた。
 祥輔たちは階段の前を横切り、家庭科室の向こうにある、保健室についた。引き戸はしまっている。彼らはここでも色ガラスのむこうに、院長の陰をみた。けれど、その陰はすぐに消えている。こんなところにいるはずがないのだ。
 祥輔は取っ手のくぼみに指をかけた。電流が走ったような気がしたが、そんなことはない。祥輔は恐怖に胸を鳴らしながら、看護婦長へのドアを開いた。

看護婦長

○     11

 祥輔は目の前の光景を信じることができなかった。だから、まず知覚に入りこんできたのは、音だった。扉の向こうでは、大勢のこどもたちが廊下でさわいでいた。小学生みたいだ。みんな私服で男の子は坊主頭。女の子はおかっぱが多くて、それでみんなちょっと痩せていた。
「ここ、岡崎医院だぞ」
 と武彦がいった。廊下に出てみると、明るくてまったく雰囲気が違うが、たしかにあの医院だ。こどもたちは祥輔たちをきれいにさけて走り回っている。
「ほんとに見えないのか」
 振り向くと自分たちの出てきた扉がある。向こうは夜、こことはまるで気色のちがう、冷たい鉄筋の廊下だった。そして、扉の上の札には、第一病室とあった。ここには患者が寝かされていた病室があったはずだ。武彦は入ったことがあり、記憶では左右にベッドが三つずつ並んでいた。病室の反対側には診察室がある。祥輔は太った院長が手術室から飛び出してくるのをみた。でも、今はない。太一が祥輔に口をよせて、
「看護婦長だ」といった。「あいつの匂いがする。まちがいないよ」
 祥輔たちはこどもたちをさけながら、玄関側の廊下に向かった。右手にはあの待合室がある。壁には扉が三つ並んでいて、便所と掃除用具いれになっていた。
 祥輔は受付にかがみこんで、小窓の向こうのおばさんと話す男をみあげた。長身でめがねをかけている。短髪にかりそろえた髪が清潔そうにみえた。祥輔は首をひねった。どこかで見かけた気がしたのだ。
「名簿をもってる」
 祥輔がいうと、武彦は消化器を床において、腹にさしこんだ自分たちの名簿をとりだした。そっちは血のりがついて表紙もけばけば、すっかり古ぼけているが、男の手にしているものと、まったく同じ作りだ。三人は武彦の名簿をのぞきこんだが、表紙の文字は薄くて読めない。祥輔は男の手から名簿をとろうとした。太一がとめた。そのとき、看護婦がこどもたちをかきわけて、廊下の際から先生のことを呼んだ。尾部先生という名前だった。先生は窓口に名簿をおいて、さわぐこどもたちを叱りながら、看護婦のところにいった。
 祥輔はすばやく名簿をとった。受付の女もまわりの子供たちも名簿のことには気づかないみたいだ。
 祥輔は受付からにじりさがりながら、尾部先生と看護婦をみた。その看護婦はていねいに化粧をしたきれいな人だったけど、表情がとぼしかった。うごくのはほっぺただけ、本心では笑っていない感じだ。それで、尾部先生が、愛想よくしてはいるけれど、ほんとうはきらっているとわかった。なんでこんなことがわかるのか、それじたいわからなかったが。
「あいつ、看護婦長だ」
 太一がいった。
「まさか」
「匂いだよ。今の看護婦長はいろんな匂いがするけど、あの女の人の匂いも持ってた」
「声もちょっと似てるぞ」
 と武彦もいった。祥輔にはわからないが、この二人には常人には感じられないことが、感じとれるらしい。
 そのとき、三人の目に壁に貼られたカレンダーがとびこんできた。まるでカレンダーが巨大になって、目玉にせまったみたいな見え方をした。月は八月。そして、年号には、昭和十九年、とあったのだ。

  • 筆者
    h.shichimi
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