浮幽士シバ

 これを書いたのは、十代後半だったんでしょうか?
 ワープロのおかげで原稿が残っております。スララで書いたんですかね。メーカーも思い出せませんが、パソコン用にデータを変換する機能がついておりまして、おかげで原稿が残っております。

 皇兄を殺害した父を追い、師匠の鉄斎とともに別界にやってきた主人公李玄。が、汪豹はおもいのほか、手強く……一体宮廷術士であった父の身に、なにがあったのか……

司馬李玄……主人公。霊術がつかえない特異体質
司馬鳳仙……鉄斎らのあとをおい、別界に登場
鉄斎……李玄の師
汪豹……李玄の父
デュナン……李玄の契約霊

 

◆その一 別界の浮幽士


○   1


「司馬どの、司馬どの……」
 自らの口が、自らの名を呼んでいる……。
 森の景色が目に飛びこんできた。その景色は急速に後ろへ流れていた。
 ほんの寸前まで気絶していたというのに、李玄の渾身は猛烈に動いて鞭のように地を蹴っている。
「デュナンか?」
 と李玄は自らの口をつかい呼びかける。
 契約霊のデュナンが李玄の体を借りて、汪豹のこもる洞穴から命からがら逃げ出してきたところだった。
 デュナンは気絶した鉄斎をしっかりと背負ってきたようだ。
 いつものことだが、デュナンが入ると、李玄は金縛りにあったように感じる。
 彼は遮断された目玉に意識をつなげて、ギョロギョロと動かし周囲を見た。
「デュナン、ここはどこだ?」
「まだ後山を出ておりませぬ。早くこの場を離れねば」
 とすると、気絶してさほど経っていないようだった。デュナンは口を使わずとも李玄と意志を通じ合わすことが出来た(一つの体を共有しているのだから当然だが)。が、利口な彼は司馬の意識を保つために体を使うことに決めたようだ。
 李玄は鉄斎の体が重く背にのしかかるのを感じた。霊力のほとんどを使い果たし、仮死状態とかしている。ときおり鉄斎の体を揺すって名を呼んだ。
「師匠、死んだらだめだ。一緒に本界に帰るんだ」
 李玄は、父上を連れて、という言葉を飲みこむ。
 その父が、息子の李玄と、師である鉄斎を迷いもなく殺そうとしたのだ。
 5年ぶりにあった父親に殺され掛かったことで、李玄の心は深く傷ついていた。
 膨大な霊力をもつ李玄の体は、汪豹(おうひょう)に受けた裂傷もどんどん回復していった。攻撃は師匠以上に喰らったが、見た目ほどの重傷ではない。
 今は鉄斎が死んでしまわないか心配だった。八十才を越える五体はなんとも軽い。
 一方、汪豹は40代の壮年である。正面から戦うこと自体に無理があったのだ。鉄斎は、口ではなんと言おうと弟子を殺すつもりなど、なかったのだから。
「ちくしょう、俺に霊術が使えたら」
「そう申しますな。あの場から逃げられたのは、司馬殿なればこそですぞ」
「お前のおかげだよ、デュナン……」
 李玄は背後に首を回す。デュナンは霊体だから、首が後ろを向こうが、視界に支障はない。
 後山は、三人の霊力合戦で、地形まで変わり果てている。別界の住人がくれば、すぐに騒ぎになるだろう。
「デュナン、父上はどうした?」
 と李玄は言った。今は体が一人でに走るのに身を任せている。
「デュナン、きかせてくれ。お前は父上を殺したのか?」
「霊術使いを剣で倒せとは、奇っ怪な……」
 とデュナンは言った。だが、李玄が意識を失う寸前、鉄斎は霊術を仕掛けていたはずである。岩石の牢獄に汪豹を閉じこめたのだ。霊力を喪失した鉄斎が、汪豹の手を逃れることができたのは、汪豹もまた動けぬ身であったからだった。
「司馬殿は父上の死を望んでおられない。だから拙者は逃げ申した」
「ありがとう……デュナン」
 と言ったきり、李玄は疲れ果て、再び意識を無くした。デュナンは鉄斎を(正確には李玄をも)連れて、後山を後にした。


○   2


 司馬鳳仙は、山麓のなかほどにある神社の境内で、司馬李玄の帰りを待っていた。
 別界(司馬らのいる本界の下位世界。呼び名は通称である)についたのは二日前だが、李玄と鉄斎には会えぬままだ。
 李玄たちがねぐらとしているのは、太守神社という小さな社である。
 瀏帝は本界との通路を、この小さな社に築いたのだ。
 過去には別界と本界は自由に行き来をしていた。が、現在では皇家が往来を禁止して、別界に渡る術も隠匿している。
 とはいえ、犯人捕縛に協力してはいる。司馬一族の者が兄を殺した後も、瀏帝は養育掛かりであった鉄斎を信頼しているようだ。

 鳳仙は霊力を視覚と結びつけて下界の様子を探っていた。
 「五体を霊力と結びつける法」とも内界術とも呼ばれている。
 神社から眼下の道路に続く石段を李玄がのぼってくるのが見えた。どうやら鉄斎を背負っているようだ。
 また無茶をしでかしたらしい。
 鳳仙は吐息をつくと、階段を下りていった。


○   3


「何者だ!」と李玄が階上にたつ鳳仙に目を止めて言った。が、すぐに鳳仙の装束に気がついたようだ。「本界の者か? そこで何をしている?」
 鳳仙は顔をしかめた。親しくはないが、顔見知りのはずである。
「そうか、貴様デュナンとかいう契約霊だな」
 と鳳仙は言った。李玄がうなずいた。
 よく見ると、その目は青みがかっている。肌も白いようである。
 鳳仙は契約霊がつくと、浮幽士の体に若干の変化が起こるという話を思い出した。
「司馬殿は眠っておられる」
「眠っているだと? 契約霊を取り憑かせたままでか」
 そんなことをすれば、体を乗っ取られてもおかしくはない。
 鳳仙は、叩き起こせ、と怒鳴った。
 神社の戸が開いた。声を聞き付けて出てきたのは、朱仙と羌櫂である。ともに司馬一族の霊術使いだ。鳳仙は霊力で五体を高めると、すばやく李玄――デュナンに身を寄せて、唇を耳にそばよらせた。
「あの二人は司馬一族の者だ。しばらく李玄の振りをしろ」
 と言った。


○   4

 鉄斎は司馬一族の天才だから、たいていの者が手ほどきを受けている。
 朱仙と羌櫂も弟子である。
 二人は鉄斎の様子に驚いて、急いで社に運びこんだ。
 李玄の目を覚まさすのなら今の内だった。鳳仙は李玄を境内の脇につれていった。ややうつむいた李玄の目が、青から黒に変わるのを見たが、表情を変えず、「戻ったか?」と鳳仙は訊いた。
「鳳仙? なぜここに?」
 と李玄は目を一杯にして身をひいた。現在、別界にいる司馬一族は、自分と鉄斎だけのはずだったからだ。
 デュナンはすでに体を抜け出して脇に浮いている。生前は東方の騎士だった男だ。死後も金髪碧眼の姿を保っている。鎧を着込んでいるが、それが死んだ直後の姿なのだという。
 が、依り代の体質でない鳳仙には見えない。
 ――この娘、里で見かけましたな。
 とデュナンが心に語りかけてくる。李玄は鳳仙には気づかれぬようにうなずき、
 ――宗家の一人娘だよ。俺は苦手だ。
 と返した。李玄は分家の出だからろくに話したことがない。感情を表に出さない娘で、どこか近寄りがたかった。整った顔立ちだけに、実際の性格よりも冷たく見える。李玄よりも二つ若いが、霊術を使いこなすことに関しては天才である。
 李玄は疲労が重りのようにのしかかってくるのを感じた。眠気を強く感じる。
 李玄はそれを振り払って、
「皇帝一家との約定を忘れたのか? 別界に来ていいのは、師匠と俺だけのはずだぞ」
 鳳仙が李玄の口をおさえて黙らせる。意外に小さな手だった。
「お主こそ自体が飲み込めていないな。約定の期限まで三月だ。もうほとんど過ぎてしまったぞ。汪豹殿をいますぐに捕らえなければ、一族がどうなるやわからんのだ」
 李玄は口元の手をおしのけると、涙を隠すように頭をかいた。
 司馬汪豹が皇兄の玄武を殺害したのは、半年前のことだ。
 司馬一族でも飛び抜けた天才霊力者で、宮廷術士として都に召し出されていた(前任者は鉄斎)。占術の他に、宮廷の術者の育成、皇家の護衛にも携わっていた。それが、皇兄を暗殺したうえ、別界に遁走するという事件を起こしたのだから、都は天地を返す騒ぎとなった。
 皇家は異能者ぞろいの司馬一族を畏れもしたし利用もしてきたが、今度ばかりはその恐れが現実となったわけである。
 目撃者こそなかったが、現場には確定的な証拠がいくつも残されていた。宮廷での信任は厚かったが、都を抜けたことはいただけない。宮廷術師が無断で都を離れること自体禁じられているのである。
 政府では、汪豹と反瀏組織(瀏は国家名。反政府組織のこと)との結びつきを疑っている。
 鉄斎は都におもむき、汪豹の無実を主張したが、宰相たちは聞き入れない。そもそも得体のしれない霊力者自体を嫌っているのである。
 司馬一族は自らの手で同胞を捕らえ、都に護送せねばならなくなった。
 鳳仙はちらりと社をかえりみて、「朱仙殿と羌櫂殿も別界に来ている。声を抑えろ」
「叔父きもか?」
 李玄はいくぶんほっとした。朱仙は汪豹の弟だし、鳳仙とて元々は汪豹の弟子なのだ。
 長老たちが殺害の腹を決めたのかと思ったが、生きたまま捕縛することを諦めてはいないようだ。都に戻り、申し開きをすべきだと。
 鳳仙は吐息をつくと、視線を有らぬ方にやった。
「――が、羌櫂殿も一緒だ。大臣たちは鉄斎殿の遅れを疑いはじめている」
「師匠まで? なぜだ?」
「反瀏組織との関わりを鉄斎殿も疑われているのだ。言いがかりだが、司馬一族自体がつながっていると、噂する者もいる」
 と鳳仙は言ったが、この疑惑は以前から囁かれてもいた。
 ともあれ汪豹が無実ならすぐに出廷していいはずだった。鳳仙は、
「汪豹殿に会ったのか? デュナンは戦いに敗れたと言っていたぞ」
 李玄はつと目を反らしたが、
「本当だ。二人がかりだったが父上にはかなわなかった」
 そもそも二人は汪豹と戦うつもりがなかった。汪豹が本当に皇兄を殺めたとは考えられなかったからだ。都でも複数の下手人が手配されていた。
 汪豹が、罠にはめられた、とも考えられていたからだし、李玄はそう信じている。けれど――
 汪豹はそもそも聞く耳を持たなかった。
 李玄は不意打ちをくらい、危うく死にかけた。後はもう、ろくに話すことも出来ずに霊術合戦だ。
 このことの意味することは何か?
 李玄の心は千々に乱れた。疑惑が蛇のようにとぐろをまいて、胸の中をうねっている。
 唯一の肉親が、会得した霊術で人を殺したんだろうか?
 それも皇兄を殺したのか?
 李玄は下を向いて吐き気に耐えた。
 鳳仙は話をそらし、「ここは別界のどこにあたる」
「日本という島国だ」
 と思いを断つようにして額をぬぐう。
 鳳仙の後方に浮かぶ神主装束の男を顎で示し、
「そこに宮司がいる。二十年前に死んだそうだ」
 李玄、と鳳仙はさらに声を低めた。『五感を霊力で高める法』を恐れてのことだ。司馬一族は、聴覚をたやすく高めるから、気が置ける。
 彼女は李玄も知らぬ話を説明した。
「羌櫂殿は使い手には違いないが、汪豹殿にやぶれ宮仕えを逃した過去も持っておられる。お主ら浮幽士のことも快く思っていないのだ。霊に関することは口にするな」
 李玄は少し青い顔をしてうなずいた。羌櫂が怖いというよりは、過去の迫害をまざまざと思い出してのことだった。
 浮幽士の術は、浮幽霊と契約を結ぶことからはじまる。契約霊の持つ能力(デュナンであれば剣術)を五体に発現する者のことを言うのだ。
 が、今となっては禁術である。
 かつて浮幽士だったものが、能力の高い者を次々と殺し、契約霊にしてしまったことがあるためだ。
 以来、長老たちはこの体質の者が生まれることすら嫌った。修行を積んだ浮幽士は、司馬の里でも汪豹しかいない。
 李玄も表向きは浮幽士としての修行を受けていないことになっていた。デュナンという霊を従えていること自体、知る者は少ない。
 そもそも、浮幽士の術は体質によるところが多かった。霊と交信のできる霊媒の体質でなくてはならない。膨大な霊力も必要だ。普通の術士では霊力の消耗が激しすぎて、逆に体を乗っ取られかねない。そもそも素質のある者自体が少ないのである。
 李玄は幼い頃から忌み子と呼ばれ続け、孤独な少年時代を過ごしてきた。
 李玄は我に返ると、鳳仙を見た。この娘はじっと李玄を見つめている。
「皇家はなんと言ってる。父上を殺してでも連れて来いと?」
「当然だろう。皇兄を殺して蓄電してしまったのだからな」
「だから使い手のお前と羌櫂が選ばれたのか?」
 李玄は身を引いた。鳳仙の大きな目が、急に険しくなって迫ってきたからだ。
 鳳仙は李玄の目前に顔を立て、
「忘れるな。汪豹どのは私にとっても師に当たるのだ。汪豹殿が死ねばいいなどとは、里の者も思っておらぬ――皇兄を殺したのが、汪豹殿などと……間違いであればよかったのだが」
 李玄は黙りこんだ。
 汪豹は自分と鉄斎すら、殺しにかかったのだ。
「李玄、我々も困り果てている。汪豹どのが出廷せぬのなら、王宮での嫌疑を自ら認めたことになるのだぞ」
 鳳仙は苦渋に目を曇らせる。李玄がはじめてみる、感情をのせた顔だった。
 李玄は恥じ入るようにうつむいた。師匠以外で汪豹の味方についてくれる者が、他にいるとは思わなかった。
 ――よい娘ではありませぬか
 デュナンがとりなすように言ったが、李玄は答えず、
「羌櫂殿と話してみよう。父上をどう思っているのか、確かめておきたい」
 鳳仙はうなずいた。李玄はハッと黙り込んだ。朱仙が音もなく現れたからである。鳳仙も驚いて振り向いた。
 『五体を天地に溶かす法』を用いたのだろうが、鳳仙の背後をとるとは、この朱仙も相当の使い手だった。
「朱仙叔父……」
 と李玄は言った。信頼できる叔父の顔を見て、李玄は心の緊張が保てなくなった。
 父親に殺され掛かったという事実よりも、父親にすら否定されたような気がして、そのことの方が辛く感じた。
 李玄は拳を突き下ろすような格好をしたまま、とぼとぼと涙をこぼした。
 朱仙は李玄の肩を叩くと、そのまま抱くようにして神社のほうへ連れて行った。鳳仙も無言で後に続いた。


○   5

 司馬一族が暮らす山里は、里名すら伝わっていない。一族の霊力で隠されているために、場所は皇帝ですら知らないとされている。
 そもそも本界でも目にすることの少ない司馬の術者が、四人も別界にそろうのは、珍妙なことだった
 司馬の里の者は老若をたがわず霊術者である。子供の頃から霊力を練り続けるため、特異な体質者が多かった。
 その霊術の内容も謎に包まれている。学術的にまとめた者がいないため、まとまった名称も存在しない。各家で術名も微妙に食い違い、里の者でもその全体像を把握する者は少なかった。

 練り上げた霊力は様々なものに応用されるが、内容は、『外界術』と『内界術』に大別されている。
 外界術は『五大元素と霊力を結びつける法』とも呼ばれている。内界の霊力を外界と結びつける、とも表現する。
 内界術は『五体を霊力で高める法(五感を霊力で高める法をふくむ)』のことである。内界の霊力で五体を練り上げろ、と教わることが多い。
 術の応用はほとんど無限だが、李玄はどちらも苦手で使えない。
 司馬一族は独特の衣装をもちいるが、その色は白を基調に各家で装飾色が決まっている。李玄と朱仙は赤だし、宗家の鳳仙は紫、羌櫂は青。
 装束には霊力がこもるとされるが、確かに丈夫で汚れにも強かった。
 鉄斎はまだ目覚めていない。
 李玄は、これまでの経緯を、羌櫂らに語らねばならなかった。
 羌櫂は目つきの鋭い男である。李玄は、この男が、幼少のころから苦手だった。天才であることは疑いないが、自分の術を研くことにしか興味がなく、その分他人に冷たい男だ。今も、汪豹が皇兄殺害の下手人であると決めてかかっていた。
「だから、浮幽士などを宮廷にだすべきではなかったのだ。禁術となって以来、里の者でも術の実体を知らぬ。得体のしれぬ術をあつかう者が、不安定におちいるのは当然ではないか!」
「ちがう、父上ははめられたのだ」
「ならば、なぜお主を攻撃する。師である鉄斎殿を殺そうとしたのはなぜだ? 申し開きができぬのであれば、汪豹は我々の手で殺さねばならん。奴を殺したとて、皇家の怒りはおさまらぬのだぞ」
 二人が言い争う間も、朱仙は腕を組んで考えこんでいる。細身だった兄に比べるとずっと大柄で筋骨格もずっしりしている。広い顎を引き結ぶようにして唸り声を上げた。
「殺すなどと、それでは皇兄殺しが、汪豹殿の仕業と認めたようなものではありませぬか」鳳仙が珍しく声を荒げる。「今なら、汪豹殿は、下手人の一人にすぎませぬ」
「父は裁判にかけられるのか」
 李玄の声は重く沈んだ。深海のような悲しみが、押しつぶしていた。肩が下がり、背が丸まる。そんなふうにしていると彼は十五才の若者から一挙に老人になってしまったようだった。
 デュナンがそっと手を添えて、注意をひいた。李玄は小さくうなずいた。
 羌櫂はそんな李玄を横目に見ながら、
「もはや事実がどうのという話ではない。刻限は三月、もう二ヶ月が過ぎた。大臣どもは司馬の里を襲う覚悟を固めていると聞く。無実ならば宮廷に出向き、申し開きをしなければならん」と言ってから、李玄を睨み、「里の者はお前を連れて行ったこと自体を、疑問視している」
 李玄は悔しさに顔を赤らめ、頬の肉を噛んだ。霊力者として半人前なのは、自分でもよくわかっていた。なにせ霊術がほとんど使えないのだ。霊力をいまだに制御しきれない。
 霊媒の体質者は外界の影響を受けやすく、霊力のコントロールも不安定になってしまう。この体質を忌み嫌うものが多いのは、精神的に不安定な者が多いからだった。羌櫂が李玄親子を嫌うのは、なにも宮廷術師の地位を逃したからばかりではない。
「今はそんなことを申している場合ではあるまい」と朱仙がとりなす。「しかし、兄上が大人しく捕につかぬとなれば厄介だ。我々だけでは抑えられんぞ」
 と眠る鉄斎を見つめる。
「汪豹殿は本当に反瀏組織とつながっているのでしょうか」
 と鳳仙が訊いた。
「それはあるまい」と朱仙が答えた。「ならばなぜ反瀏組織に合流せず別界になど逃げたのだ」
 だけど、皇兄を殺したのでないならば、別界に来る必要もなかったはずだ――その思いがまた李玄の胸を締め付ける。
 司馬の里では、親が我が子を教えることを禁じている。だから、李玄の稽古は鉄斎が行ってきた。
 父の記憶はわずかだった。逆にそのことが汪豹の存在を大きくしていた。宮廷術師となった父親のことが誇りであり支えだった。忌み子と呼ばれても耐えられたのは、この体質すら父とのつながりのように思えたからだ。
 朱仙は李玄の思いをくみ取るように、「反瀏組織が暗殺するならば瀏帝のはず。なぜ皇兄の玄武を?」
 一同は答えあぐねて沈黙する。
「鉄斎殿はいかほどで回復する」
 羌櫂が言った。
 朱仙が、「ここは下位世界だから霊力が薄い。早くとも三日はかかろう」
「それでは遅い。そうしている間にも、都では里への軍隊を差し向けているかもしれん」羌櫂は鼻から大きく息をつくと、鉄斎のことを顧みる。「司馬一族の手で汪豹を捕らえろというのは、瀏帝の温情に他ならん。が、鉄斎殿が亡くなれば、その温情も失せよう」
「そんな言い方は……」
「李玄、今は一族存亡の危機であることを忘れるな」
 と羌櫂。里に残っていただけに現状がわかるのだろう。鳳仙と朱仙は同意するようにうなずいた。
「汪豹が戦いを望むのなら仕方あるまい。奴を封じて都に護送する他ない」
 羌櫂が内心の焦りを隠すように手を組んだ。汪豹ほどの術者を生かしたまま捕らえるなど不可能に近い。
 ――司馬殿
 とデュナンが言った。
 李玄も顔を上げてお堂の外に目線を向けた。何者かが結界をやぶるのを感じたのだ。三人の術者も異変を感じたらしかった。
 鳳仙がすぐさま鉄斎に飛びついた。
 羌櫂が膝をたてつつ、霊剣を手元に引きつける。
「汪豹か」


○   6

 李玄は自分も立ち上がりながら、
「馬鹿な、父上のはずがない。師匠と戦ったばかりじゃないか。こんなに早く回復できるはずがない」
 だが、汪豹の存在はどんどん近づいてくる。
「李玄。お主、汪豹が動けぬことを黙っていたな」
 羌櫂は責めるような口調ではなかった。そのことが李玄は恐ろしかった。戦う覚悟を決めたとわかったからだ。
「別界の者に、鉄斎殿の結界はやぶれん」
 と朱仙も霊符を取り出し、準備を始めた。
 朱仙叔父、と李玄は朱仙の袖を掴んだ。「あれは父上じゃない。きっと何者かに操られているんだ」
「だとしても、我々を襲ってくることに変わりはない」
 鳳仙はすでに鉄斎の体に帯を回している。
 朱仙は李玄の肩を叩き、「二人を連れて逃げろ。兄上のことは我々で食い止める」
 李玄はさらに袖を引いた。叔父のことが本気で心配だった。里中から嫌われた自分を、この叔父だけはかばってくれたからだ。
「朱仙叔父は父上を殺す気がないんだろ?」と言う。「でも、父上は二人を殺そうとするかもしれない」
 羌櫂が、
「かもしれん。だが、手を合わせれば、汪豹の身に何が起こったのかわかるはずだ」と口をはさんで、表に向かいだした。「お主の父が普通でないことは、すでにわかったはずだ。お主も身が危うくなれば、迷うことなく奴を殺せ。それができぬのならば逃げろ」
 李玄の背中に何かが乗った。朱仙が鉄斎の体をかぶせているのだ。朱仙は耳を近づけると、
「鉄斎殿が目を覚まさぬのはおかしい。何か術を施されているのかもしれん」
「なんの術を?」
「わからん。新術かもしれんぞ」
 でなければ、羌櫂や朱仙が見抜けぬはずはない。
 李玄は顔を上げる。鳳仙が彼の手をとったからだ。
「もう行くぞ、李玄。大勢いても逃げにくくなるだけだ」
「俺は足手まといにはならない」
 と意地を張ったが、
「誰もそんなことは言っていない。だが、お主は汪豹どのを攻撃できまい。覚悟がきまらんのなら、この場は去ることだ」
 鳳仙の言葉が、甘言のように身を揺らした。確かに父親には会いたくない。殺され掛かったのは今朝のことなのだ。
 朱仙はさっと身を寄せて、
「羌櫂は里の者が言うような男ではない。案ずるな」
 とはいえ、李玄はちっとも安心できない。朱仙は励ますように肩を抱き、
「必ず後から追いかける。鉄斎殿を安全なところにお連れし、霊力の回復を待て」
 李玄はうなずいた。彼に逃亡を決意させたのは、背中におった鉄斎だった。
 この世で一番偉いと思っていた師匠が、五体の力を抜かしてしなだれかかっている。
 朱仙が李玄の頬を、いかつい大きな手ではさんだ。李玄は嫌がった。が、ふいに幼子に戻ったような気がする。朱仙は力強い声で言った。
「お主は忌み子などではない。里の者もきっといつかはわかってくれる。お前は――お前はいずれ立派な奴になる。俺は信じているぞ」
 李玄の鼻がふいにふくらんだ。幼児から彼の面倒を見てくれた叔父の腕を、無数に思い出すようだった。彼は鳳仙に見られているのもかまわず大声を上げた。
「朱仙叔父、俺朱仙叔父に感謝してるよ。朱仙叔父がいてくれたから、俺は……」
 朱仙はふいに涙をうかして、顔をそむけた。
「もう行け、李玄」
 李玄は鳳仙を連れて板敷きに出た。廊下を走り、端にある引き戸を開けると、斜面に伸びる竹林が目に入る。
 実のところ、李玄は汪豹が怖かった。自分に向けた殺意は本物だ。彼にとっては霊術を使っての実戦も初めてだし、他人に殺され掛かったのもあれが初めてのことだ。
 これまで平和な里の中にいて、普通に修行をして普通に暮らすことしか考えていなかった。
 なによりも、彼は、自分が明確な殺意を抱く最初の人間が、尊敬していた父親だとは、思いもしなかったのである。
 李玄はその思いを振り払うように頭を振った。
 ちくしょう、あんなの父上であるもんか。
「デュナン」と彼は背後をついてくる契約霊に声をかける。「お前はここに残って三人の様子を確かめてくれ。頼めるか?」
 デュナンは一瞬迷う顔を見せたが、わずかにうなずくと廊下を引き返した。
 鳳仙、と彼は境内を見つめる鳳仙に声をかけた。
「下に別界の町がある。そこに逃げこもう」
 鳳仙は無言でうなずいた。落ち着き払ってはいたが、いくぶん顔が青いようにも見える。いくら天才でも、実戦ははじめてのはずだ。李玄はそのことにいくらか安堵しながら、疲れた体を引きずり、鳳仙をつれ、竹林へと逃げこんだ。


○   7

 朱仙は、三人の後ろ姿を見送ると、表に出た。
 羌櫂は、霊力を四方に伸ばして、汪豹の探索を行っている。
 殺意をこれだけ感じているのに、境内は不思議と静かである。
 見つかったか、と訊くと、左右に首を振った。気配をこれだけ感じるのに、姿が見えない。
 兄上は鉄斎を追ったのではないか、と朱仙が疑ったとき、左方の空中に黒点が浮かび上がる。点は水平の線になり、その線はグルリと回転して、軌跡は巨大な円になった。
 高い金属音が轟き、二人は思わず耳を押さえる。
 漆黒の円内に、複雑な文様が、黒い飛沫をあげて走りだす。見たこともない法陣だ。
 おどろおどろしい瘴気を吹き上げ、黒い物質がポタポタと血雫のように地面に落ちた。
「なんだあれは?」
 羌櫂が地面に突き刺した剣を抜いた。片足をじんわりと踏み出して気息を整える。腰をわずかに落とし、呼吸を練りだしたのだが、そのときになって体内の異変に気がついた。霊力を練るほどに、体力が減っていく。細胞中から力が抜けていくようだ。鉄斎の回復のために、霊力を半分方つかっていた彼は、
「まずいぞ朱仙」と言った。


 渾身をとりまく悪配に心音を狂わせていたのは、朱仙も同じである。このときになっても実兄と戦う勇気がわかない。彼は身を守るようにして金剛杖をささげながら、必死に頭を巡らした。
 ――あの法陣、あれは司馬一族の術ではない。
 法陣の中央が膨れあがり、ぐんと黒液が突き出てくる。何者かが内側から腕を突きだしているのだ。
 羊膜を突き破るようにして、法陣は左右に割れた。空を駆けるようにして地に降り立ったのは、汪豹だった。
「兄上……」
 朱仙は李玄の話を聞いた後も、兄の変質を信じることができなかった。あれだけの術者が精神を乗っ取られるなどありえないと思ったのだ。けれど、本当だった。
 姿こそ汪豹だが、面構えは似ても似つかず、肝心の霊力の質が違う。
 今にして思うと、兄は優しいだけでなく、どこかしら気品を感じさせる男だった。目前の汪豹は、いかにも残酷で……それに粗野だった。体外にもれでる霊気が乱雑なのである。それは羌櫂も一目で見取ったらしく、
「何者か知らんが、汪豹の体を返してもらおうか」
 汪豹は口端を上げる。冷酷さが笑みの形で、その顔に刻まれている。
 朱仙はようやく金剛杖をかまえた。
 汪豹が言った。「ここは霊力の薄い別界だ。貴様らでは力を発揮できんぞ」
「それは貴様も同じのはず」
 と羌櫂は答えた。
 朱仙の疑念は尽きなかった。汪豹は激しい霊術合戦を繰り広げたと聞く。なのにこの力の充実はどうしたことだろう? 鉄斎の結界は消えていないのに?、
 朱仙は背後に向けて、
「デュナン! 側にいるなら聞いておけ! これは皇家の秘術だ!」
 朱仙は危険を承知で振り向いた。汪豹はその機を逃さなかった。獣が地上より伸び上がるようにして、懐に飛び込んできた。
 朱仙は気配を頼りに、金剛杖を立てた。
 霊力で固めた汪豹の手刀は、鉄の杖をど真ん中で両断する。
 汪豹の指先は、朱仙の臍の真上に突き刺さる。
 朱仙は霊力を集中して防ごうとしたが、汪豹の火のような霊力はたちまち皮肉をつらぬいた。
 朱仙は体をくの字に折った。内臓を引き裂かれ、人血がたちまち衣服を濡らしていく。背骨を断ち斬られると、朱仙は下半身の力がどっと抜けるのを感じた。
 汪豹は朱仙の巨体を引きずりながら、なおも前進する。朱仙は兄の二の腕をがっとつかんだ。
「兄上……」
「貴様の兄などと虫酸が走るわ」
 汪豹は歯を剥き出し、朱仙の体内で拳を固めた。
 朱仙は渾身の霊力を腹部に集めていたというのに、まるでふせぐことができなかった。
 臓腑は焼け、その苦しみに朱仙は絶叫した。
「朱仙!」
 羌櫂が駆けつけたときには、汪豹はたちまち姿をくらましていた。
 羌櫂は剣を下段に下げながら、顔をレーダーのようにして左右に振る。
 汪豹はいつの間に移動したのか、階段に立っていた。霊力で五体を高めたのでも、天地に姿をくらましたのでもない。空間を瞬時に移動したとしか思えない。
 ――司馬一族の術ではない。
 羌櫂は、朱仙の言葉の意味を知った。
「おのれ、汪豹! 気を違えたか!」
 羌櫂は剣で宙を斬った。彼の剣風は霊気のかまいたちとなって、汪豹に迫ったが、その目前にして霧散してしまう。
 羌櫂は思った。外界術はまずい、霊力を消耗しすぎる。
 さほど戦ってもいないのに、すでに肩で息をしている。
 首を巡らすと、境内にはいつのまにか結界が張り巡らされていた。
 濃い茶色の円陣が幾重にも走り、古代文字が蜘蛛の巣のようにその円陣をつないでいる。
 これでは逃げられない。
 羌櫂は観念した。朱仙に屈みこみ、手をかざした。霊力で傷を回復しようとしたのだが、霊力自体が朱仙にいかない。
 朱仙が彼の腕をつかみ、羌櫂は我に返る。
「奴の言うとおり、ここは別界だ。むだな霊力を使うな」
「ならば、なぜやつはあれほどの霊術を駆使できる」
 羌櫂はかえりみ気がついた。汪豹の手には、いつ取り出したのか、拳大の水晶が握られている。
「あの霊玉はなんだ? あれに霊力を溜めこんでいるのか?」
 羌櫂は足元の法陣を見やる。どうやら、あれが霊力を吸い取っているようだ。鉄斎の霊力が回復しなかったのは、そのせいかもしれない。汪豹がなんらかの術を施していたとしか思えなかった。あそこまで霊力を注ぎ込めば、全快とまではいかずとも、目を覚ましたはずである。
 羌櫂はなかば呆然としながらもフラフラと立ち上がる。そのとき朱仙が霊力をつかい語りかけてきた。
 ――李玄だ。膨大な霊力をもつ奴ならば、この別界でも戦えるはずだ。
「ばかな、奴は半人前ではないか」
 羌櫂が答えた時には、朱仙は苦しい身をおこしていた。背骨がへしおれているというのに、この男もすさまじい精神力である。朱仙は手印をくむと、残った霊力をふりしぼり結界の一部をこじ開ける。李玄の契約霊が結界に閉じこめられたと見取ってのことだった。
「逃げろ、デュナン」
 朱仙は地に頭を落とした。残された霊力がぐんぐんと結界へと吸い取られていく。朱仙は傷を回復させることができない。
 李玄……と朱仙は思う。子供のない朱仙にとって、息子のような存在だった。李玄はどんなに苦しくとも、自分の前では明るく振る舞う少年だった。何よりも無償で愛してくれた。
 李玄が実の父親に殺される姿など見たくもない。
 朱仙の指はまだ戦おうとしているのか、無意識のうちに金剛杖をさぐっていた。
 李玄、お前は死ぬな、本界に戻るんだ、と思いながら、朱仙は意識を無くしていった。


○   8

 鐘をつくような音が幾つもする。体の芯に響いてくるようだ。
 鉄工所が一部で操業をしているのだが、李玄も鳳仙もそこがなんの施設なのかわからなかった。巨大で複雑だったから、身を隠すのに都合がよいように思えたのだ。鉄斎の回復をはかるのなら、霊力の強い場所にうつるべきだったが、それでは簡単に見つかってしまう。
 李玄はデュナンから全ての話を聞いた。デュナンを取り憑かせると太守神社に戻ったが、山は崩れ、建物も全壊した後である。三人の姿は跡形もなく別界の人間が集まっていた。もうなんの結界も残っていないのだ。本界に戻るすべも無くしてしまった。李玄はそのことを鳳仙に報告するのを恐れ、工場の中庭に腰をおろして時間を過ごしていた。中庭には樹が一本だけ立っており、その根本には大きな石が鎮座していた。彼はその石に座っている。あぐらを組んで、膝にに腕を垂らす。悲しみが天から降るようだ。彼は置物のように微動だにしなかったが、やがてポトリと涙が落ちた。デュナンがいたわるように側に来た。
「俺は臆病者だ。朱仙叔父を見捨ててしまったんだ」
 開いたままの目から、涙があふれる。自分が落ちこぼれだとは知っている。問題は自信のなさが、あの一瞬、彼を臆病者にしてしまったことだ。神社から逃げ出したのは、父と向き合う勇気がわかなかったからだ。鳳仙を守るとか、鉄斎を守るとか、そんなことは二の次だったのだ。そのことが自分でもよくわかっていたから、涙が出た。
 いい加減な男で、修行をさぼってきたのなら諦めもつくかもしれない。けれど一生懸命やってきたのである。人一倍稽古に打ちこんだのに、うまくできかなかった。李玄はほとほと情けなくて泣けてきた。
「そんなことを申されるな」
 デュナンが肩に触れる。霊体ゆえに、その手は冷たい。なのに李玄は心が温かくなるのを感じた。デュナンの心情にふれたからのようだった。李玄はむしろ申し訳なく、首を垂れたのだった。
 なんだか一人になったようだった。李玄の家系は血が弱いのか、血縁者は朱仙と汪豹しかいなかった。そのどちらともが自分の元を去ってしまった。李玄はなんとはなしにもう朱仙には会えないと思っていた。李玄とて霊術使いの端くれだから、叔父の霊力を感じないことはわかっていた。
 朱仙叔父。そう思うと、李玄は嗚咽すら漏らして泣いた。あの叔父だけは、忌み子と呼ばれた自分を手放しでかわいがってくれた。なのに自分は叔父の手助けもせずにむざむざと死なせてしまったのだ。
「俺は朱仙叔父の仇が討ちたい。でもその仇が父親だなんて……デュナン、俺はどうすればいい」
 デュナンにはなんとも言えない。
「司馬殿、あのとき朱仙殿は汪豹殿の術を皇家の秘術と申されました」
「ああ、父上は皇家の秘術を狙ったとの疑いも出ている」
 と涙を拭いた。
「それはそうかもしれませぬ。ですが、既知の事実なら、朱仙殿はわざわざ拙者に叫ばれますまい」
 李玄はどういうことだ、と訊いた。デュナンは視線をそらすように遠くを見た。
「ともあれ、鉄斎殿の回復を待ちましょう。あの方ならば何事かわかるやもしれませぬ」
 ああ、と返事をして、李玄は力なく立ち上がった。寄る辺のない子供のような気持ちだった。


○   9

 李玄は鳳仙に全てを話した。途中で鉄斎がようやっと目を覚ました。ともあれ、太守神社には別界の人間が大勢駆けつけており彼らは近づくことも出来ない。三人は救援を求めることもできず、自分たちだけで汪豹に立ち向かわなくてはならなくなったのである。
 そこは工場の一室である。鳳仙は結界を張り、別界の人間からは部屋の存在自体を眩ましている。
「朱仙は皇家の術だと言ったのだな」
 と鉄斎が言った。彼は横たわったままである。鳳仙が、汪豹殿はやはり秘術を盗むために玄武を殺したのですか、と訊いた。
「正確なところはわからん」鉄斎は疲れたように吐息する。「汪豹を支配している者は、おそらく皇兄玄武」
「玄武? 皇兄を殺して契約霊としたのですか?」
 と鳳仙が身を乗り出す。李玄と鳳仙は両側から鉄斎をはさんでいる。鉄斎は李玄の方を向いて、
「李玄、わしの身をおこせ」
 李玄と鳳仙は言われるがままに、鉄斎の体を起こして、霊衣をまくりあげる。すると鉄斎の背中、肩甲骨の合間に法陣が描かれているのが見えた。朱仙らが目にしたのと同質の物である。
「これが霊力を吸い取っているのですか?」
 と鳳仙。鉄斎はいかにもとうなずく。額には脂汗がにじんでいる。鳳仙は服を元に戻し、そっと寝かしつけると、鉄斎の襟元をていねいに整えだした。
 李玄はデュナンが見た物を正確に鉄斎に伝えた。
「朱仙と羌櫂はわしに治療をほどこしたのだろう。霊力が半減したまま奴と戦うことになった。対して玄武は二人の霊力をすら吸い取ってしまったのだ。わしの霊力も今もって奪われているようだ」
 李玄はぎゅっと膝頭をつかんだ。そんなやつとどう戦えばいいんだ?
 敵が実際には父ではないと知って、李玄は少しほっとした。鳳仙も同じのようだった。むしろ玄武の存在やそのやり口を知って、憎むところが大きかった。汪豹の体を乗っ取っただけでも許せないのに、他人の霊力を奪うやり方が姑息な気がしたのだ。
 李玄は我にかえって鉄斎を見おろした。鉄斎はふだんは飄々としたところのある老人だったが、今はきまじめな顔をして自分を見上げていたからである。
「二人とも心して聞くがいい」とおもむろに口を切った。「わしはじきに死ぬ。そうなればお主らは二人だけで汪豹と対さねばならん」
「禁縛術をとくことは出来ないのですか?」
 と鳳仙は言ったが、誰が聞いても無理な相談だった。鉄斎の霊力はすでに尽きかかっているのである。
 鉄斎は諦めたように首を戻した。別界の無機質な天蓋が見えた。李玄同様、彼もこの世界になじめぬようだった。
「本界との入り口は閉ざされてしまった。奴に対する方法はもはや一つしかない」
 と鉄斎は言った。いやに光る目で、李玄の目を覗きこんだ。李玄はつい視線をそらしたくなったが、できなかった。師匠がこんな目をしたときは、ろくなことを言わないとわかっていたのだが。
 果たして鉄斎の依頼は途方もなかった。
「わしを契約霊にしろ。死んだ直後に契約を結ぶのだ」と言ったのだ。
「そんなの無理だ」李玄は思わず腰を浮かした。「師匠は忘れてる――」
 鉄斎は李玄の声をさえぎる。「たしかに契約霊とできるのはこの世に残る霊魂のみだ。が、力ある術者を殺し、その御魂を次々と契約霊としたものがいた。死んだ直後ならば、肉体と霊魂は結びついたままなのだ。そのときに契約を結ぶ方法がある」
「師匠は知っているのですか?」
 鉄斎はうなずいた。「あの者が使った術式は伝わっておらぬ。が、その術理は想像出来ている。それを教えよう」
「では、汪豹殿は……」鳳仙の声が高くなる。信じたくないという響きが声音にまで現れた。「その方法を知っていたのですか? その術をつかって、玄武様を……」
「とも思えんのだ」と鉄斎は気遣うように李玄を見やる。目線を天井に戻し、「それではなぜ汪豹ほどの術者が体を乗っ取られたのか説明がつかん。たしかに玄武は相当な術者とみえる。これまでそのことを隠してきたやり口を見てもな。宮廷にいたころのわしには見抜くことができなんだ」それほどの男が大人しく契約霊になったとは思えなかったのだ。「奴には何か秘密がある。あれほどの法術をどうやって得たのかもふくめてだ」
 そんな、と李玄は首を垂れて涙ぐむ。「師匠まで死ぬなんて、俺には我慢できません」
「しっかりせぬか」鉄斎が声を励まし、叱りつけた。「汪豹を救えるのはお主らだけだ。わしが回復したところで、やつにはかなわん」
 李玄は信じられなくて、首を振った。鉄斎は都でも尊敬された霊力使いなのだ。鉄斎はこんこんとかき口説いた。霊媒体質で、外界の霊力を取りこみやすい李玄の体を借りれば互角の戦いができるかもしれないと言うのである。
「奴は司馬一族の術を使ううえに、皇家の秘術も体得している。どんな手を使ってくるかわからん。体のことはデュナンに任せて、お主は霊術に専念するのだ」
 鳳仙が話を割って、「しかし、李玄は霊術を使えません」
 鉄斎はかすかに首をふる。肉体の動きは弱々しかったが、その声は霊力をふりしぼり、二人の胸によく響いた。
「使えるのだ。デュナンに体を任せれば、霊術のみに専念することができるからだ」
 鳳仙は得心してうなずいた。だから、鉄斎は李玄に禁術を教えこんだのだ。長老達に知られれば、鉄斎といえば里を追われかねない。しかし、鉄斎も鳳仙に告げなかったことがある。デュナンの力を借りても、李玄が使えたのは霊術の初歩に過ぎないのである。李玄はそのことを思うと恐ろしくなった。幼児と変わらぬほどのつたない術で玄武と戦えるとは思えない。自分が死ぬならまだいいが、鉄斎の師を無駄にして、鳳仙もまた危険にさらすのだろうか?
 昔から、何をやっても足手まといの自分がいた。でも、今は子供の遊びをやっているわけではない。生死のやりとりの現場でも、昔と変わらないのだろうか?
 しかし、鉄斎には、自らを契約霊とすることに、あと一つ考えがあった。自分が体内から霊力を操れば、李玄にも体得できるはずだった。霊媒体質で、そのために霊力が膨大なものとなる体質にこそ、李玄の霊術を難しくしている要因があるのだから。訓練としてはこれ以上のものはないはずだった。李玄は黙り込んだ。
「だけど、師父は忘れています」
 と鳳仙が口を挟んだ。浮幽士の術がすべからく禁術となったのは、契約霊とされた者たちが、成仏できずに曲霊(まがつひ)と化したからだった。あのときは、里の者も滅却をする他なかったと聞く。
「曲霊となる前に契約をとくのだ。その間に玄武を倒すための結界術をほどこす。李玄、お主はわしの霊術を体を通して体得しろ。後は、玄武をおびき寄せればよい」
「玄武は来ますか?」
「わしが死んだとわかれば喜んで来よう」
 鳳仙はここまで「天地に身を眩ます法」を用いて逃げてきた。いかな玄武といえど、いまだ彼らの居所はつかめていないはずである。
「問題はやつの禁縛術よ。李玄の霊力まで奪い取られては手に負えん。二人で力を合わせて戦うのだ」
 鳳仙はさすがに揺れる面持ちで頷いた。
「お主は外に出ておれ。……これから李玄に契約術を教える」


○   10

 鳳仙を外に出したのは、浮幽術との関わりを持たせぬための配慮だった。
「我々で玄武を仕留めるのだ。鳳仙も腕は立つ。しかし、実戦にはなれてはおらん」
「でも、師匠。俺では足手まといにしかなりません」
「そういうな」と鉄斎は嘆息した。白髪がかすかに揺れた。「お主にはすまぬことをした。浮幽士の術を会得していたとなれば、お主はもう司馬の里に入られぬかもしれん」
「師匠」と李玄は鼻を赤くしてうつむいた。「いいんです。俺、納得して修行したし、霊術がちょっとでも使えたときはすごく嬉しかった。師匠には感謝してます」
 鉄斎はうなずく。「三人で力を合わせて玄武を倒すんじゃ。デュナンはいるか」
「側に」
「わしも霊魂の仲間いりじゃな」
「師匠」
 鉄斎は首をわずかに傾けて李玄をみた。「お主は素直でいいやつだ。術に長けるよりもずっと大切なことだ。自分の特質を見失うな。鳳仙を守ってやれ」
「霊術はあいつのほうがうまいのに。俺じゃああいつに守られてしまいますよ」
 鉄斎は李玄の二の腕を叩いて注意を引いた。
「お主は他人に劣ってなどいない。大成するのに時間のかかる者もいる。成長は人それぞれなのだ。だが、お主が懸命に努力しておったことをわしは知っておる。これまでめげずによくやったのう」
「師匠……」
 李玄は顔をおおってめそめそと泣いた。師匠は彼を叱らなかった。
「お主達を残して死ぬのは残念だ。が、里のために、身を捨てる覚悟はできている。汪豹を捕らえた後は奴を本界に連れて帰れ。里を救え」
 李玄はこくりとうなずいた。


○   11

 鉄斎の鼓動はどんどん小さくなっていく。李玄はその胸に手を置いて死に行く体を見守っていた。うまく行くとは思えなかった。鉄斎はそもそも浮幽士ではないし、この術を完成させた浮幽士は、その秘奥を誰にも伝えぬまま死んでいるのである。彼はつまり失伝した禁術を、理屈のみで組み上げようとしている。一族中でもきっての落ちこぼれであった自分がか?
 李玄は弱気になる心を叱りつける。鉄斎の脈をとり、完全に死んだことを確かめる。師の逝去を前に取り乱すことを恐れている。震える前腕を叱咤しながら、魂が天に召されぬよう教えられた通りに封印術を施していく。
 こんな方法でうまくいくのか? もっと複雑な方法が必要なのではないか、と自分でも疑問を持つ。もっとも禁忌とされた術を自らに施すとは、師匠だとて想像していなかったはずだ。
 舌打ちをしたい気持ちをこらえながら、霊力の経路の主要な部分に霊符を貼りつけていく。左手の数珠を一つずつまわし(これは霊術というより魔除けに近かったが)脂汗を拭う。大きく吐息をついた。体に魂が残っているのなら、鉄斎の霊魂を捕まえることが出来たはずである。
 李玄は契約術にとりかかった。デュナンにも聞き取れぬ声で一族に伝わる真言(言霊の霊力を引き出し法)を唱え、額に胸元、腹部から、指でつまみだすような動作をくわえて霊力の糸を伸ばしていく。霊線が鉄斎につながると、遺体がほのかに輝きはじめた。まるでにじみ出すようにして、霊魂が浮かび上がる。白い靄のようなものがまとわりつき、他の霊体に比べるとしっとりして見えた。どちらかといえば、生き霊に近かった。死人になりきっていないのではないか。
「師匠」
 と唾を飲む。果たしてこの鉄斎は曲霊なのか?
 李玄は傍らのデュナンを見た。デュナンもまた複雑な顔をして横に首を振る。二人とも祈るような気持ちだった。
 霊魂と弟子が固唾をのんで見守る中、鉄斎は静かに目を開いた。整然と変わらぬ目をして、李玄を見た。
「鳳仙を呼べ。これより結界式を行う」


○   12

 ――李玄、よく感得するのだ。体でなにが起こっているか、霊力をどう扱っているのかを。会得して忘れるな
 はい、と李玄は言った。彼も必死だった。文字通り、師匠はこの修行に命をかけたのである。八十年を越える修行の日々で身に付けた霊術の力が、李玄の霊体に及んでいく。彼は悲鳴をのみこむ。体中に霊力の通る経路が開き始めたからだ。
 全身に霊路が張り巡らされ、霊力は何倍にも増したかのようだった。李玄も霊線、霊丹を配置する、という言葉こそ知っていたが、こんなにも明確な物だとは思わなかった。雑然としていた霊力が、ついに機能をはじめた。鉄斎は外界の霊力を自在に取りこんでいく。それを丹田に練り上げ、外界に解き放ち、結界術を施していく。
 すごいこれが師匠の霊術か
 李玄は瞠目しながらも、夢中で鉄斎の動きを追っていった。それはある意味で容易なことだ。鉄斎は彼の脳を用いて生み出しているからだ。
 李玄の脳神経は激しく活性化し、霊術のための回路がつぎつぎと形成されていく。こんな真似をつづけたら、精神に異常をきたすか、脳溢血を起こすかのどちらかだろう。画然たる進化とともに、脳細胞を痛めつけられていたのも事実だった。鉄斎は上丹に霊力を掻き集めては、傷ついた脳を修復していった。その霊術は途方もない。全ての作業を同時におこなっているのである。
 鉄斎が封印の場所に選んだのは、用具部屋のような小さな一室である。そこに自身の遺体をおいておとりとするつもりだった。肉体には魂こそ宿らなかったが、禁縛術は残っている。死後硬直の始まった死体に結跏趺坐をくませると部屋の中央に安置した。
 魂の痛哭に苦しみながらも、多重結界術を施す。その遺体から霊道を地下に伸ばしていった。部屋の外では、死角となる位置で、鳳仙が小さな結界を張っている。鉄斎は彼女まで霊道をつなげていく。
「鉄斎殿! ご無理をなされぬよう!」
 鳳仙がこらえきれずに叫んだ。そもそも曲霊となった鉄斎を封じる方法を二人は知らないのだ。
 強引な契約術を用いたつけは、着実に出始めていた。李玄は魂を結びつけているから、四魂が乱れむしばまれていく様子が手に取るようにわかるのだ。
 ――司馬殿、もう限界だ、とデュナンも言った。
 思えばあのとき、鉄斎が脇に立ち上がったときから、李玄は師匠の異常に気づいていた。鉄斎が感じていたのは、絶望的な孤独と不安である。直霊(天とつながる魂)と切り離され、師匠の四魂はバラバラになりかけている。李玄はいにしえの霊術使いたちがどのようにして曲霊となったか、わかるようだった。あのとき鉄斎の目は虚ろで寄る辺を無くしたように見えたのだ。
 鉄斎は霊道を強化しながら鳳仙の元に向かう。
「ここから霊力を注ぎ込むのですね」
 と鳳仙が言った。すでに彼女からは霊力が流れ出している。禁縛術を通して、汪豹に吸い取られているはずだ。李玄はいつもの彼にはない空白の漂う表情で彼女を見おろしている。呼吸は乱れ、彼女を見ているようで見ていない。最後の力でどうにか自分を保っているようだった。
「霊力を注げば、玄武はわしが生きていると思うはずだ。決して動いてはならぬ。最後の封印術は任せたぞ」
 鳳仙は三つ指をついて頭を下げた。顔の隠れる寸前、涙が頬を伝うのを見た。
「鉄斎師父、最後のご教授ありがとうございました」
 李玄の顔から鉄斎がのき、若々しい表情が現れる。「師匠、もう十分です」と一息に言った。
「玄武をここまでおびき寄せるのだ」と鉄斎が口を借りる。「お主の霊術はまだ完璧ではない。無理はするな」
 李玄には師の気持ちがいやと言うほど伝わった。自分たちを残して行きたくないのだ。鉄斎から見れば、二人とも年端のいかぬ子供にすぎないのである。
 霊魂が体を抜けだした。不完全な幽体術で、もはや正体をなくしかけていた。
「鉄斎師父……」
 鳳仙が目に涙をうかべながらあらぬ方を探している。李玄はその手をそっと握って鉄斎の立つ位置を指し示してやった。
「契約術を解きます」
 ――手筈通りやるのだぞ
 李玄は言葉に詰まりながらもうなずいた。鉄斎は死んだ今も自分たちのことを気にかけている。
「ご心配なきよう」
 李玄は霊衣の裾をはらうと、身を整えて手印(印のこと)を組んだ。真言とともに二人をつなぐ幽力線が浮かび上がる。李玄は互いの絆を切っていく。糸が減るたびに鉄斎の存在は遠くなった。鉄斎の乱れた四魂が遠のいていき、李玄の負担も減っていった。それは鉄斎の支えが減ったということでもあった。
 李玄の渾身は突然の強風にぐらついた。彼は真言をやめて目を開く。鉄斎が急に苦しみ始めたのだ。嵐が突然現出したかのようだった。天井には台風のような雲がわいて風雨とともに渦を巻いている。鳳仙が膝を立て、
「李玄、間に合わなかった! このままでは曲霊に変わってしまう!」
「結界を出るな! デュナン、来てくれ!」
 鳳仙は結界の中にいるから外界の影響も受けていなかった。真四角の結界に雨が当たり弾けるのが見える。李玄は前屈みになって風に抗し、腕で雨を弾きながら雲の正体を確かめようとする。
 実のところ、二人は曲霊がどのようなものか知らない。大人たちは過去の事件を決して子供には決して語らなかったからだ。
「司馬殿、なんだあれは?」
 雲の中に裂け目が見える。巨大な目がまぶたを開けたかのようだった。中身はなく、どす黒い瘴気が雲を浸食するように漂い出している。李玄は玄武の術を思いだした。玄武は空間をわかる術を使いこなしていたはずだ。
「あれは、玄武の術ではござらん。法陣ではない」
 デュナンが言下に否定する。だが、李玄は霊門の向こうに人を見る。暗くて細部はわからないが、赤い目玉と長い鬣の子供をみたのだ。
 鉄斎が雲を見上げ、つぶやくのが聞こえる。――まがつひ
「曲霊だって?」と李玄。
「あれがそうなのか? 鉄斎殿が変わるのではないのか?」
 鳳仙が結界の中から手を伸ばし、李玄の腰にしがみつく。師匠の五体は音をたてて光芒を放ち、ひび割れを起こしていた。獣のごとき、牙に獣毛を生やし、人外に身を落とし始めている。
 ――このままじゃあ、師匠の四魂が裂ける
 合掌印を組むと、霊力を練り上げる。
「師匠、こらえてください! 曲霊などに負けないでくれ!」
 デュナンが風の縫い目をさくように体幹をくねらせる。李玄は体をデュナンに任せると、霊術に集中していく。これまでになかったほど意識の源泉まで深く沈み込んでいった。霊体には、鉄斎の操った霊線術と霊丹術が色濃く残っている。それらは霊力を、物質化あるいは身体化したものだった。鉄斎の築いた回路が、脳に残っているのが自分でもわかる。
 いけるぞ、自信をもつんだ。
 李玄は鉄斎の記憶を辿るようにして、霊力を練り上げ、体外に霊路を伸ばし、空間の裂け目そのものと結びつけていく。
「立ち去れ! 師匠は天に還るんだ! お前のところになんか行かない!」
 独鈷印を組み力を解き放つ。曲霊が霊路をつかみ上げた。霊路をつたい、曲霊の悪気が落ちてくる。李玄は邪悪な魂にふれて悶絶しかかる。どうにか耐えられたのはデュナンのおかげだった。デュナンの御魂が、崩れゆく四魂を支えてくれたからだ。
 二人は体を立て直すと、曲霊に向かって猛然と霊力を送りこむ。霊路がかがやき、霊門の陰で、曲霊が苦悶するのが見えた。李玄は霊路を広げると、先端を巨大な霊手に変えて曲霊の頭を抑えつける。霊門の奥へと押し戻していった。瘴気が彼の魂を再びおびやかしたが、霊力をふりしぼると、門の上下を抑えて目玉を閉じていく。裂け目からわき出た雲は、霊門に吸い込まれていった。風はやみ、雨は最後の小降りを残して消えた。
 構内は竜巻の通った後のような惨憺たる有様だった。李玄は呆然と曲霊の消えた箇所を見つめた。霊門は消えて、工場のランプが顔をあらわし、三人の人と霊魂を照らしている。
「師匠!」
 李玄は我にかえって、鳳仙の腕を振りほどくと、鉄斎の元にしゃがみこんだ。師の霊魂が幾重にもひび割れて、蒸気のようなものを発している。それに曲霊の放った瘴気だった。どす黒い気体が幽体のあちこちに貼りついて、鉄斎を苦しめている。曲霊はまだ去ったわけではないのだ。四魂が反魂すれば(邪悪化してしまうこと)鉄斎もまた曲霊に身を落とすのかもしれない。
 霊力を与えるしかない、と李玄は思った。伸ばした霊路をたぐり寄せると、鉄斎の幽体に繋げていった。
 ――よせ、李玄。玄武と戦うために、霊力を残しておけ。なんのために修行をつけたのだ
 鉄斎はこんこんと説得した。李玄も首を左右に振った。
「俺は師匠を放っておけない。だって、なんの恩返しもしてないじゃないか」
 このまま死なれたくないと思った。
 ――李玄
「天に還って下さい。師匠が曲霊になるところなんて見たくない」
 李玄は残りの霊力を使い果たしても構わないと思った。水が乾いた大地に染みこむようだ。彼の霊力は鉄斎の穢れを祓い、裂け目をつぎつぎとふさいでいく。李玄は自分でも知らぬ間に、魂鎮め(タマシズメ)を行っているのである。曲霊の存在は遠のいて、金色の煙は次第にやんでいった。幽体にまとわりついていた瘴気も、周囲に四散していく。李玄は霊力をとめて、日輪印をといた。
 直霊が戻ったのだろうか? 鉄斎の魂は金色の光の中にあった。その霊魂は陽光を放つように温かみをましている。ああ、師匠が消えてしまう。ぽつりと目尻を涙が落ちた。その魂は、里よりも遠い故郷に帰ろうとしている。デュナンと鳳仙が手を合わせて辞儀をしていた。
 霊魂の鉄斎には彼らの気持ちがじかに伝わる。光の中で彼は微笑む。世を去るときに、死を悼み涙を流してくれる者が側にいることは素晴らしいことだった。鉄斎もまたこの二人の弟子をどんなに愛していたか気づくことができたからである。
 李玄は濡れた地面に手をついた。鉄斎が光りに溶けていきながら語りかけてきた。
 ――どんな苦難もお主達なら乗り越えられる。四魂を磨き、立派な霊術使いになれ。司馬の者はみな見守っているぞ
 李玄はその場にひれ伏してしまった。
 これまでのさまざまなことが一度に蘇った。里一番の術者の弟子になったと威張ったこと。七つの頃から、共に寝起きをして、同じ物を食い、同じ物を見てきたこと。厳しい修行をして叱られたことや、褒められたこととか、他愛もない話を聞いて貰ったことが、ありがたいと彼は思った。師匠は自分に時間をくれて自分をつくってくれたから。本当はその全ての気持ちを伝えたかったのだが、もう時間はなく、鉄斎の二つの魂は、直霊に導かれて天へと還っていく。
「師匠、これまでありがとうございました! 師匠!」
 そして、二人は鉄斎の最後の遺言を聞いた。それは二人の切なる願いでもあった。魂が天へと召される最後に、鉄斎は、生き残れと告げたのだから。


○   13

 鉄斎が消えると、結界の内側は、まるで地下の洞穴のごとく静まりかえってしまった。「最後の鉄斎殿のお言葉、私にも聞こえた」
 どういうことだろう、と鳳仙は訊いた。
「それだけ、師匠は強く思ってくれたんだろう」
 李玄は雨を拭う振りをしている。鳳仙は吐息をついた。
「鉄斎殿は行ってしまわれたのだな」
 もうこれでこの世界に残る司馬一族は自分たちだけになってしまった。
 李玄が振り向くと、鳳仙がさすがに肩を落としていた。彼は胸をしめつける甘酢い感情を不思議に思う。李玄は勝手に死ねない、と思った。師匠の言うとおりだったのだ。鳳仙を一人にしたくなかった。李玄は自分を納得させるようにうなずいた。不安で孤独かもしれないが、なんとなく力がわいてきた。
「俺とデュナンであいつを誘い出す。そこからは決してでないでくれ」
「お主一人で大丈夫なのか。もう霊力をずいぶん使ってしまったぞ」
「それはお前も同じだろう。そこにいるだけで霊力が減っていくはずだ」
 鳳仙は答えなかった。
「お前の存在を玄武は知らない。きっとあいつの裏をかける」
「しかし……」
「師匠にも言われたろう。何があってもそこから出るな」
 鳳仙が彼を睨む。わずかに悲しむような顔でもあった。この娘とて一人ではどうにもできぬのだ。
「師匠が残してくれた最後の術だ。成し遂げよう」と彼は言った。
 鳳仙は顔を伏せている。以前の李玄を知るだけに不安なのだろう。が、顔を上げたときには、そんな色を微塵も見せなかった。彼女はただ静かに頷いたのだった。
「わかった。これを持って行け。結界術を封じた護符だ。貼りつければそこに結界が生まれる」
 三枚の黄色い護符には赤い文字で呪文が描かれている。その方面には疎い彼には文字を読むことは出来なかった。
「お主に任せたぞ」
 と鳳仙は言った。


○   14

 自分が死に向かって歩いていることを知っている。心を乱すな、四魂を保つんだと李玄は自らに言い聞かせる。これまでにないほど霊力術を開眼できた。けれど、肝心の霊力がもうほとんど残っていない。多重結界と、曲霊封じに使ってしまった。
 相手は鉄斎と互角に戦う化け物である。司馬の霊術と皇家の秘術をともに使える。自分がちっぽけに思えた。つい、体が強張りそうになる。
 恐れちゃだめだ、生き残る努力を最大限するんだと言い聞かす。なぜか自然に涙がこぼれる。それは怖かったからというよりも、鉄斎と鳳仙が自分を思ってくれたからだった。立ち止まり、二人のために泣いたらだめだと乱暴に涙を拭う。
 体には、鉄斎の残してくれた霊路霊丹の数々が、隅々にまで張り巡らされていた。だが、脳が恐ろしく疲れているのも事実だ。今日一日でこれまでにないほど酷使してきたのだから当然だろう。筋肉ならとっくに断裂していてもおかしくない。うまく温存しなければ、と自分を戒めた。疲労が濃すぎては冷静な判断を見失うかもしれない。死ぬことよりも、しくじる方が怖かった。
 結界を出ると、音が復活し、匂いも濃くなる。油と鉄の香りが鼻孔をさしたのである。緊張に奥歯を噛みしめながら玄武の気配を探った。 
「霊力の回復を待たれた方がよいのではござらぬか」
「だめだ、師匠の残してくれた結界も時間が経てば弱まってしまう」
 彼らは鉄斎が生きているように装っているが、玄武はいつこのからくりに気づくかしれない。それに霊術の問題がある。高度な感覚がなくなる前に勝負を付けたかった。
 彼は懐に結界符をねじこむ。わずかだが信念を持つようになっていた。以前なら、この体質を克服することが不可能なように思っていた。天才とうたわれた汪豹も相当の努力で克服したと聞いている。それだけに彼には父を尊敬する気持ちが強かった。鉄斎は、そんな自らに対する憤懣を打ち砕くかのように、霊力を完全に支配してみせた。使っているのは全く同じ肉体のはずだ。自分にも霊術が使えるのだ。
 あいつは自分が霊術を使えるのを知らない。第一撃は油断を付けるはずである。
 李玄は鉄斎から霊符を預かっていた。火術をこめた火符である。彼はそれを路面に貼りつけると、わずかに離れて真言を唱える。霊符を裂いて炎が噴き上がる。
「デュナン入ってくれ」
 ――よろしいので?
「ああ、奴は父上の体を使っているから、お前のことも見えるかもしれない」
 デュナンが取り憑いた直後だった。
「貴様一人か小僧」
 頭上から、汪豹の声が降ってきた。李玄は結界符を取り出し、デュナンは腰の剣を抜き出した。デュナンが素早く回転しながら、攻撃にそなえる。李玄は片手二指刀印を組んだ。
 来るのが早すぎる。やつはどこだ?
「鉄斎はどうした。貴様一人ではあるまい」
 玄武の声はぐるぐると回っているかのようだ。これでは出所がつかめない。李玄は目眩を堪えて怒鳴った。
「玄武! 姿を現せ!」
 そのすきに霊力をソナーのように伸ばす。デュナンは右足を中心にしてじわじわと体を回していく。
「貴様一人でどう戦うつもりだ。抵抗して何になる」
「黙れ!」
「浮幽士の貴様は貴重だ。大人しく俺のいうことを聞くのだ」
「お前は父上を罠に嵌めたではないか」
「だからなんだ。貴様に何ができる」
「しれたこと、お前の手から父上を取り戻すんだ」
 玄武の哄笑がした。「お前が父の何を知る? 鉄斎の何を? 司馬一族のことを何も知るまい。頑迷な長老共は全てを隠匿し、貴様らにはしらせようとしない」
「お前は誰なんだ……」
 李玄は一瞬唖然となった。玄武のいいようはおかしい。あれではまるで――
 ――司馬殿!
 デュナンが警告の声を上げる。玄武は彼の隙を見逃さなかったのだ。李玄は夢中で結界符を叩きつけた。霊符はコンクリートの上で微動しながら透明の結界を伸ばし、彼の体を足元から包みこむ。とっさに顔を上げると、四つの火球が彗星のように降ってきた。思わず腕を上げて顔をかばう。火球は見えない壁にぶつかり、平らにひしゃげて飛散していく。火の粉が結界の上を転がり、その音すらも耳に聞こえた。
「結界符か! 笑止な! 小僧、そこで固まるつもりか!」
 黙れ――李玄は護符を体に叩きつける。結界が胸を中心に広がり、全身を包んだ。デュナンが意図を察して走ると、結界は李玄とともに移動する。
「これならどうだ!」快哉を上げたときだ。
「面白い奴だ」
 耳元で声があがり、二人は夢中で飛び退る。李玄は胃の腑が裏返るような恐怖を覚える。玄武の顔が息が触れるほど近くにあったからだ。
 こいつ、ほんとに一瞬で移動するぞ!
 足元にはデュナンが見たという法陣が広がっている。しばらくぶりにみる父の姿だった。剣のかわりに松明を持っている。もう片方には、霊玉が七色にきらめく。父の顔はひどく青白い、その残酷な笑みを松明の赤々とした炎が照らし、不気味な陰影をつくっていた。
 李玄は夢中で霊路を地に這わしていく。見つかるな。あいつの油断をつくんだ。
 ――奴はなぜ松明を?
 ――五大元素の種だよ。あれを霊力で増幅させるんだ
 つまり霊術者といえど、無からは何も生み出せないのである。
 上空で工場のランプがつぎつぎに弾け、ガラスと粉塵がふってきた。結界の上にパラパラと積もる。が、玄武にはなんの影響もない。形こそ違うが何らかの結界を張っているのだ。
 汪豹の口を使い、玄武が怒号する。「お前は浮幽士としては完全ではない。霊術も使えず、父を攻撃できぬ貴様がどう戦う! 大人しく従え! 貴様のために言っているのだ!」
「馬鹿を言え! 死人になど従うものか!」
 霊路が松明に届く刹那に、力を送る。火の元素が活性化し、温度を上げ、たちまち巨大な火の玉になり、玄武を飲みこむ。デュナンは快哉を上げたが、李玄はくそと言った。霊力をこめた火炎だから、内部の様子がわかるのだ。玄武にはなんの影響もない。
 玄武は松明を大きく回しながら火炎を巻き取り、頭上に固める。太陽とみまごうような大火球である。玄武は回転を加えて投げつけた。李玄は息を飲んだ。とても、結界符では耐えられない。
「デュナン、あれを斬れ!」
 デュナンが夢中で剣を振りかぶる。李玄はその剣に霊力をあつめる。真っ向から切り下げると、霊気の剣風が太陽を二つに斬り裂いた。半円の火の玉が李玄を避けるようにして左右に落ちた。結界はたちまち溶けて、胸の護符は塵になった。霊衣がバサリとはためいて、あちこちを焦がしていく。火炎は水をまき散らすようにして地面にぶつかり、炎の湖面を伸ばしていく。デュナンは頭をかばいながら炎を飛び越えすさった。李玄が残りの護符を胸に貼ると、途端に後頭部に衝撃が走る。霊気の玉をぶつけられたらしい。あやうく頭をかち割られるところだ。
 李玄は夢中で下体を練り上げた、韋駄天の法をつかって逃走にかかる。
「貴様、鉄斎に何事か施されたな!」
 声が上から降ってくる。デュナンが振り向くと、玄武が空中を飛ぶようにして走っている。
「あやつめ、空を飛びおった!」
「ちがう、霊力で空気を固めてるんだ!」術を放つのが見えた。「左に飛べ!」
 デュナンは軽く跳ねたつもりだったが、韋駄天の法を扱い損ねて、左方の壁に激突する。李玄はこれまでこんな術をあつかったことがないのだから、デュナンも難儀なことだった。
 寸前まで彼らのいた場所を霊気が見えない鎌のように薙ぎ払い、地面を断ち割っていく。簡易結界などまるで歯が立たない威力で李玄は青くなる。
「だめだ、師匠と互角に戦った奴と霊術合戦じゃかなわない」
 李玄は辺りに霊路を伸ばして、鉄パイプをからめとった。これを槍のように投げつけながら、玄武の視界からどうにか逃れる。李玄は天地に身を眩ます法を用いた。
「今の内に隠れよう」
 デュナンが慎重に走りだした。李玄は心の中で首をひねる。
「おかしいぞ、あいつが玄武なら、なぜこうも司馬一族の術を使えるんだ」
 いくら汪豹の記憶や知識があるとて、使っているのは玄武自身のはずだ。皇兄の玄武が戦いに慣れているとも思えない。
 デュナンが、巨大な機械の群れに隠れこむと、彼は必死に策を練った。どうやったらあいつを鉄斎の部屋に誘いこめたものか。自分まで入っては鳳仙が封印術を使えない。かといってこのまま戦い続けるわけにもいかない。下手をしたら鳳仙が見つかってしまうかもしれないのだ。
 李玄が最後に確認したとき、玄武の霊玉はあきらかにしぼんでいた。あいつの霊力も無限ではないのだ。が、こちらの霊力も残り少ない。
 李玄は蒸気を見つけると、霊気の球をつくって、中に蒸気を吸い集めた。あやうく火傷をしかかる。掌に浮かべてみる、ひどく高圧なのが自分でもわかる。思いの外うまくいった。球体の内部で真っ白な蒸気が渦を巻いている。霊気の壁を通しても火傷をしそうだった。霊術合戦は発想の勝負だと師匠に教わったが、まさしくそうかもしれない。
「俺は父上に怪我をさせられない。本気で攻撃するなんて無理だ。それに、あいつにはこんなもの通じっこない」
「何を弱気な……」
「あいつの攻撃をわざと受けよう。やられたふりをするんだ」
「そんなことをすれば鉄斎殿の二の舞だ」と難色する。「禁縛術をかけられてしまう。そうなったら戦えませんぞ」
「俺たちは師匠とはちがう。危険だが……」
 李玄は簡単に説明した。それはデュナンにとって危険な方法だったが、デュナンは覚悟をきめてうなずいた。立ち上がり、周囲の様子を確かめる。めくらに逃げたようだが、李玄の誘導で二人は結界術の深くまで戻ってきていたようである。
「あと少しなんだ、やろう。命までは取られないはずだ」と自分に言い聞かせる。「あいつもこの世界じゃ、霊力を集めるのに苦労するはずだ」
 きっと李玄の霊力も欲しがるはずである。
 決意を固めるためにその場に剣を置いて物陰を出た。心臓が早鐘をうっている。胸の中で三倍までふくらんでいる。李玄は四魂を落ち着けようと、強く息を吸い、大きく吐いた。
 工場の真ん中をはしる通路は、緑に彩色してあり、中央がわずかに盛り上がっている。李玄とデュナンはその通路を歩きはじめた。李玄はわざと手持ちの武器が見えるようにした。
「玄武! 決着をつけよう! これで最後だ!」
 すると、玄武もまた物陰から無造作に身をさらした。李玄の霊力が残り少ないことに気づいているのだ。左手の霊玉は再び大きくなっている。あの中には朱仙おじの霊力も詰まっているのかもしれない。そう思うと、李玄は父でもある玄武をはっきりと憎んだ。
「あきらめがついたか」
「あきらめるもんか。だけど、この先には行かせない」李玄は全身に金剛力の法をしかけた。「お前は朱仙おじと羌櫂殿を殺した。師匠まで殺させないぞ」
 蒸気をこめた霊丸を投げる。機械でも出せないような剛球だが、玄武はたやすくこれをかわし、霊丸は地面にめりこんでしまった。蒸気が穴から轟々と噴き出す。攻撃を外したようにも見えたが、狙い通りだ。玄武が李玄の懐をとる。霊力で高めたすさまじい体さばきだった。剣の達人デュナンもこれには対応できない。玄武は李玄の肩をつかみ上げると、上体を引き起こして、腹部に手刀を叩きこむ。
「叔父と同じ傷にしてやったぞ。ありがたく思え」
 玄武の霊手が、腹を引き裂き、右の背まで突き抜けた。李玄は唸り声もたてられず、玄武の腕にもたれかかる。
「四魂を乱すなと師に教わらなかったか、出来損ないめ。死を早めたのはお前の方だ!」
 玄武の腕から、何かが送りこまれてくる。禁縛術だった。玄武はなじるように舌打ちをする。
「このていどしか霊力が残っておらんのか。貴様を仲間にするのはあきらめたぞ」
 玄武が腕を抜くと、緑の床に血雫が走る。李玄は内臓を引きずり出されるような痛みにのたうちまわった。玄武は苛立たしげに彼の頭髪をつかみ上げ、
「その年でこの程度しか霊術がつかえんとは情けのないやつだ。貴様の親父も落胆しているぞ」
 こめかみをコンクリートに叩きつける。李玄はあまりの衝撃に意識を失いかけたが、どうにかこらえて気絶したふりをした。
 玄武は弟子を片づけると、鉄斎の霊力を探し当てる。
「あの部屋か。積年の決着をつけてくれるぞ」
 玄武は李玄の体をまたぐと、壁際の一室に向かった。李玄は薄目をあけて、その姿を見送る。内臓が激しく損傷して、口元からは血が溢れていた。李玄は血にまみれた舌を口の中に戻し、デュナン、頼む、と呟いた。


○   15

 デュナンは玄武に見つからぬよう、李玄の体を抜け出した。その体には禁縛術が大穴をあけている。まるで真っ黒な刻印だ。幽体の彼はたちまち霊力を吸い取られていく、薄まってしまった。デュナンは腹に焼き付いた法陣を引きはがそうとするが、皮が伸びるように幽体が伸びるばかり。李玄は待ってろと声にならぬ声を発し、腹部にあいた大穴をおさえながらヨタヨタと立ち上がる。
 デュナン、こっちにこい
 声に出したつもりだったが、それは喉の奥でかすかになる風の音に過ぎなかった。李玄は悲鳴を上げてもがくデュナンに近づき、掌を霊力で固めると、法陣に指をかけた。そのとき、デュナンが暴れ、彼の体も左にふられた。片足で着地をすると、新たな激痛が総身を貫いた。
「でゅ、デュナン……」今度は声が出た。「待ってろ、デュナン」
 ほとんど真下に倒れ込むようにして(事実そのとおりだったが)、法陣を引っぺがした。右肩から路面に崩れ落ちる。法陣もまた霊霧を上げながら床に貼りつき、奇怪な焼け焦げを残して消えた。
 ――司馬殿
 デュナンが李玄の顔をのぞきこむ。
「デュナン……すまない。お前を消滅させるところだった」
 舌がうまく回らない。思ったより、手ひどくやられた。霊力で傷をふがなければ死んでしまうかもしれない。李玄は激痛のあまり震えながら、いやだめだ、とかんがえる。霊力を温存しないと。まだあいつをやっつけたわけじゃない。
「デュナン、手を貸してくれ」
 デュナンを取り憑かせることはもうできなかった。それだけで霊力を消耗するし、デュナン自体が危険な状態だ。
 二人はともにフラフラと立ち上がると、かすむ目で鳳仙の隠れている方角を見つめた。ここがどの辺りか、もう冷静な判断ができなかった。李玄は足を引きずりながら歩き始めた。


○   16

「李玄!」
 鳳仙が小声で叫ぶ。結界の中で印を組み、これも青白い顔をして彼を待っていたのだ。唯一の味方は血みどろである。こめかみに血を流し、下体も真っ赤になっている。李玄はこらえきれずに腹を屈し、獣のようにうめいた。鳳仙が立ち上がろうとしたので、首を振って止める。すると、血が口端からよだれのように垂れて、雫となって地面に落ちた。
「あいつは部屋に入った。封じてくれ」
「李玄駄目だ、霊力がもう……」
 鳳仙が珍しく弱気な顔をして、小さな頭を左右に振った。そんな表情を初めて見る。本当にもう限界なのだ。自分は玄武との戦いに時間をかけすぎてしまった。玄武は消耗するごとに、霊力をかきあつめようとしたはずだ。
「俺の霊力も、霊力を使え。結界術を……」
 李玄は足を引きずりながら、結界の中に入った。
「ひどい傷ではないか。それでは無理だ」
「無理じゃない。あいつを封じる機会はもうないんだ」
 李玄は血みどろの手を鳳仙の印にそえる。鉄斎の策は結界を何層にもわけて張り巡らすことで、玄武の油断をさそうというものだった。その多重結界も一つにまとめれば、強力なものになるはずだ。
 鳳仙は霊視を用いて、結界内の様子をさぐる。部屋の中では、玄武が鉄斎の様子を不審に思い、蹴り転がしてその生死を確かめようとしているところだった。李玄と鳳仙が真言を重ねて唱えると、鉄斎は死体ながらに腕を上げて、屈みこんだ玄武に組み付いた。二人はその鉄斎目がけて、結界を狭めていく。
 まるで霊気の大渦だ。全てのものが、結界の中心めがけて引きずり込まれる。玄武のいる部屋は見えない力に圧縮されていった。鉄筋の構内が激しく振動して、機械や鉄板が横倒しになる。建物ごと結界に引きずられている。北側の壁が大きくひしゃげ、天井も大きく斜傾した。鉄骨やトタンが二人めがけて降ってくる。鉄の通路がすぐ脇に落ちた。鳳仙が目を閉じたまま、
「だめだ、建物がもたない」
「かまわない、封印するんだ」
 二人は細胞に残った霊力までしぼりあつめた。大渦が最後の一巻きをすると、製鉄所は音を立てて崩れ落ちた。李玄と鳳仙もまた鉄骨の海に飲みこまれ、意識をなくしていったのだった。


○   17

 司馬殿……司馬殿――
 誰かが自分を呼んでいる。李玄は痛みのなかで目を覚ます。もう腹部は麻痺して鈍痛しか感じない。どうやらこれでおしまいらしい。
 彼は師匠を成仏させたあとも、死というものがよくわかっていなかった。霊魂になるのか、それともデュナンのようにこの世に残るんだろうかと思った。できれば、あの世に生きたい、この世はもうたくさんだ。あの世に行って故人になった人たちに――母や鉄斎に会いたかった。けれど、デュナンは李玄の名を呼び続けている。
 重い目蓋を開くと、引き裂かれた屋根の向こうに青空が見えた。彼の虚ろな瞳には激しすぎる光である。李玄は物に埋もれて立てない。ただ、デュナン以外の誰かが自分を見おろしているのが見えた。視力はどんどん弱まっていき、すぐにその姿も見えなくなったが。
 李玄が意識をなくすと、デュナンは彼を守るようにしてその霊体との合間に立った。異国人のデュナンには男の正体はつかめなかった。
 ――契約霊がいたか。
 男は幽体の顔をゆがめて冷笑している。
 ――小僧に伝えろ。今回はあなどったが、次はこうはいかぬ
 ――お主は何者だ。玄武ではないのか
 男は答えなかった。デュナンに背を向けると、たちまち姿を消してしまった。


○   18

 次に目を覚ましたとき腹部の痛みは本当に消えていた。完全にふさがったわけではいないが、ずいぶんとましになっていた。鳳仙が彼のことをのぞきこんでいる。なんだか心配そうな顔をしていたから、彼は妙にうれしくなった。鳳仙が生きていたことがうれしいし、心配されるのは面映ゆかった。
 そう言えば、この娘はずいぶんと瞳が美しい……。
 意識がようやくしゃっきりとした。李玄は慌てて起き上がり、
「玄武はどうなった? 父上はどこだ!」
「無理をするな」
 と鳳仙は彼をいさめる。手には霊玉が握られている。玄武の使っていたものをどうにか探してきたようだった。
「そいつで治してくれたのか」
 李玄は鳳仙の機転に感謝しながら、デュナンに目を向けた。デュナンが彼を起こしたのだから、彼はあいつのを見たはずである。しかし、デュナンは観念するように首を左右に振った。考えたら、自分だって玄武は見たことがない。
「そうか……」
 と彼も肩を落とす。なんだ、と鳳仙が問うた。
「意識をなくす前、俺は誰かを見た気がした。霊魂だったみたいだ。父上があそこにいるのなら、抜け出したのは、きっと玄武だ」
「では、結界内に残っているのは」
 そこまで言って、鳳仙は唇をきつく結んだ。聡明な娘だから、議論よりも確認の方が先と考えたようだった。


○   19

 二人は瓦礫をはがして、結界の中心までたどりついた。汪豹は大人がやっと入るぐらいの小さな鉄の箱に閉じこめられていた。鳳仙が結界を解くと、鉄の壁がガラクタのように崩れ落ちる。汪豹の上体がぐらりと傾く。その背中には鉄斎がもたれかかっている。まるで、子が親を背負うかのようだ。李玄と鳳仙は二人の師匠の体をひきはがし、それぞれを床に横たえた。
 全ての結界が崩壊したためか、外界の音が二人のもとにも届いてきた。聞いたことのないような高く不快な音がする。
 ああ。李玄の口から溜息がもれた。汪豹の腹部は無残にひきさかれていたからだ。
「父上……」
 汪豹はすでに目を開けている。鳳仙が霊玉を取り出したのをみると、よせ、と弱々しい声で言った。
「霊力を吸い取られるだけだ」
 胸をかくような仕草をする。李玄が胸元を開くと、禁縛術が押印のように口を開けている。これでは回復術をかけられない。
 汪豹が咳きこみ、すると人血が噴水のように飛散した。李玄が頭を持ち上げると、後から後から血がこぼれる。けれど、そうせねば汪豹はしゃべれぬようだった。李玄は、ああなんでだ、と泣きたい気持ちで思った。なんで、父上なんだ。殺すなら、役立たずの俺にすればいい。父上は里にだって、必要なんだ。
 けれど、もう遅かった。鉄斎の死も全て無駄になったのだ。
「すまなかった……すまなかった」
 と汪豹は二人の弟子に謝る。鳳仙は涙を浮かべて頭を振る。手と霊玉に涙が落ちて痕をつけた。
「鉄斎殿は亡くなったのだな」
 と溜息をつくように言う。実際には鉄斎は彼の脇に横たわっていたが、もう目が見えぬようだった。汪豹が片腕を上げた。見えぬ何かをつか蒙としているようだった。
「朱仙を、羌櫂の体をのっとるつもりだ。追って、追ってしとめねば……」
 李玄と鳳仙は顔を見合わせた。あの二人は生きていたのか。しかし、玄武ならそうしていてもおかしくない。汪豹の体がだめになったとき、逃げこめる肉体ならいくつあってもいいはずだ。だけど、あいつは契約霊ではないんだろうか。
「師匠、もうよいのです」
 鳳仙はやさしく汪豹の手を握る。汪豹はわずかな間目を閉じて、また開けた。瞬息、意識をなくしたようだった。
「李玄――李玄は大きくなったのか……」
 私はここにいます、と李玄は言った。汪豹は声のする方に首を傾けようとした。李玄は父の広い背中に腕を通してこれを助けた。父を抱くのは初めてのことだった。
 汪豹と李玄は久方ぶりに目を合わせている。互いに涙をこぼし、何かを通い合わせていた。霊路でもなんでもない、親子の親愛の情がある。李玄はこの人の息子なんだと強く思った。汪豹は彼を愛してくれたから。そのことを目で語っていてくれたのである。
「お前の成長が楽しみだった。お前の……」
 汪豹はしゃべりはじめたが、もう口を開けることもできぬようだった。声がひどく小さくなる。眼から何かが失われていく。汪豹の魂は肉体を離れようとしている。手紙をありがとう、と汪豹は言った。それは、もう聞き取れぬほど小さな声だった。
「父上、死なないで下さい。父上」
 と李玄は父をゆさぶる。鳳仙が肩をつかんだ。李玄が顔を上げると、汪豹の耳に口を近づけ囁いた。
「汪豹師父、我々が相手をした者は何者です。あなたは玄武兄を殺したのですか?」
 李玄はひゅっと息を飲んだ。
 しばし間が空いた。二人は汪豹が死んでしまったものと思った。しかし――
「ほうけん……」
 と汪豹はつぶやいた。それが最後の息だった。腕に重みがかかったかと思うと、汪豹の頭は急に後ろに下がってしまった。鳳仙がその頭を支えた。
「父上!」
 李玄は汪豹の胸に顔をうずめた。全身をよじりはじめた。もうこらえきれなかった。
 気がつくと、鳳仙が彼の髪を撫でていた。
「すまなかった。私はどうしても聞かねばならなかった……」
 李玄は夢中で父の亡骸に語りかけた。父がいなくてどんなにさみしかったか、どれだけ愛していたのか、これまで離れていた年月分の思いを語りたかった。
 それは、いくら語ってもつきることはなく、また伝えきれることではなかったのだが。


○   20

 二人は長い間そこにいたようだった。けれど、時間はそう経っていなかった。瓦礫の向こうでは別界の人々がうごめく声がしたが、まだ近くにはいないようだった。
 ほうけん、と最後に口にしたのが、なんなのかはわからなかった。二人は本界に戻る術をなくし、秘密を握る何者かも逃してしまった。
 李玄は汪豹を抱えると、ことさら背を伸ばしてあるきはじめた。妙に大人びた表情だった。鳳仙は鉄斎を背負っている。そして、李玄と鳳仙は二人の亡骸を連れて、その場所から姿を消した。それは二人の長くも辛い旅の、最初のはじまりにすぎなかった。

□ 第 一 部  完

  • 筆者
    h.shichimi
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