ファイヤーボーイズ

○   1

「文吾お。なんだこの申し送り書は!」
 長谷野辺出張時の所長、高橋は、書類を大きく振って、文吾をどやしつけた。
「なんだよ、おやっさん。ちゃんと書いてるだろ」
「書きゃいいってもんじゃないんだよ。書きゃいいってもんじゃ。こんな汚い字で書き殴りやがって。おまけに何だこの文章は? むずかしいことを書けなんて、一言も言ってねえだろう」
 文吾は、字の汚さまで攻められて口ごもった。
 高橋の階級は消防指令で、若い頃は、ホースをもたせれば、市局一といわれた。渋みの訊いた小男だが、怒ったときの迫力は誰にも負けない。向こう見ずの文吾が、火事場よりおそれる唯一の男である。結婚して二児の父だが、この頃娘の結婚話もあって、妙に涙もろくなっている。苦労が絶えないせいか、白髪も増えた。
「申し送り書なんて。消防官は、火を消すのが仕事だろ」
「ばかやろう」と高橋はなぐった。「口答えばっかりしやがって。火事を未然に防ぐために、おれたちの仕事はあるんだろうが」
「まあまあ、おやっさん。そのぐらいにしといてやれよ」
 宮田がとりなすように言う。キャリア三十年のベテラン消防官で、高橋との付き合いももっとも古くなった。酸いも甘いも知り尽くした、よき理解者である。自慢のひげは、火事場で焦がして剃ったばかりだ。所員の中でも、ずいぶんな古株となったが、体はまだまだ新品のつもりでいる。
「なあ、文吾。申し送り書だって、立派な仕事なんだよ」
「でもさ、一番重要なのは、やっぱり火を消すことでしょ」
 高橋は、まだ言ってやがるのか、という目つきだ。
「消火よりも、防災だよ」
「お前ももう成人したんだ。書き物ができなきゃ、りっぱな消防官じゃねえ」
 と高橋が口を出した。
「わかってますよ」
 と文吾は口ごもった。
 出張所は、ちょうど一部と二部の交代の時間である。仲間の視線が痛かった。
「文吾。いいか、出張所では、ともかくなあ、現場では……」
「上官の言うことに絶対服従。わかってますよ。これでも、消防学校でてんだから」
「どうだかなあ、このやろうめ」
 と高橋はため息をつき、宮田は肩をすくめた。

 望月文吾が、長谷野辺出張所に配属になって一年になる。文吾はふてくされた顔で、持ち場のデスクに大きな体を沈める。両隣には、同僚の駒野俊一と小池雅俊がいる。
 駒野は男前だが、きまじめすぎて女にもてない。三人の中では、ゆいいつ大学を出ている。そのくせ消防官になった辺り、じっとしていられない性格らしい。見た目どおりの秀才で、酔うと議論をふっかけては、バカの文吾とけんかになる。
 小池は三人の中ではもっとも小柄だが、話がうまく、しゃれもので一番もてる。実家が資産家だが、消防官になった変わり種である。彼がしゃれ者なのは、実家の経済状況と関連があるようだ。
 二人に比べると、文吾はもっとも直情径行で、何にでも熱くなっては失敗している。涙もろくて、義理には厚く、そのせいか誰彼となく、世話をやいてもらって、得をしている。がたいが大きく、骨格もしっかりとして、態度のでかさは、市局一。周囲には、スーパーヒーローを目指すバカと思われている。出張所の問題児だが、高橋が大物の見込みあり、と目をかけているのが、この文吾である。よくよく考えずに行動するのが玉に瑕だが、ひらめきにすぐれたタイプで、いざというときは、意外に役に立つ男だ。反面、自分の考えを言葉にするのが苦手で、だから、書類の作成も苦手だ。猫に目がない。
 駒野は文吾より二つ年上で、小池は一つ上になる。三人は年が近いこともあって、なかなかに馬があった。
「おまえ、なにをふててるんだよ」
 小池がささやく。
「だってよ、せっかく消防官になったのに、まともな現場にでてないんだぜ」
「火事を待ってどうすんだよ」
 小池はあきれ顔だ。二人とも、文吾とちがって冷静な男だ。
「現場がおれを待ってるんだよ」
「ハイハイ、お前はスーパーヒーローだよ」
 と駒野は言った。文吾の一つ話を、知っているのだ。

 消防は命をさらす仕事と言うこともあって、横のつながりが深い。高橋たちは、三人の親代わりのような心持ちでいる。それだけに、つい口うるさくもなる。
 高橋は、デスクの三人を見ながら、長いつきあいになる。宮田にぼやいた。
「あいつはどうしようもねえなあ。あのばかを見てるとやきもきする。あのやろう、いつか、現場でひどいめにあうぞ」
「行動力のある男ですからね」と宮田はおっとりしている。「先日の火事も、立派に消し止めましたよ」
「小火じゃあなあ」高橋は嘆息した。少しまじめな顔になる。「あいつ、ほんとにひどい火事場には、まだ出たことがなかったな」
「一度経験すりゃ、やつもおとなしくなりますよ」
「あまりしおらしくなられても困るぜ」高橋は宮田との話を切り上げ、「文吾お、今度学校に、防災指導に回るからよ、そのときはしゃんとしろよ」
「わかってますよ」
 文吾の言葉が終わらぬうちに、出場のサイレンが、所内に響いた。スピーカーが火災指令をがなりたてる。
『第一出場指令! 現場は、高知町、5ー1ー6! 出場隊、長谷野辺1!』
「高知町か」
 駒野が立ち上がった。所轄のなかでも、かなり近い。
 文吾は訓練かと疑った。高橋がそんな考えを、否定するかのように怒鳴った。
「文吾! 来やがったぞ、用意しろお」
「お、おう」

○   2

 防火服を着込み、ポンプ車で現場に向かう間も、無線が現場の様子を伝えてきた。通報では、出火はアパートの二階。家族が取り残されている模様、という。
『火元は、世田谷アパートの203号室! 斉藤孝夫宅! 現場には、家族が居残っている模様! 妻と、五歳になる息子が現場に取り残されている!』
 高橋たちは、的確な無線連絡を、頭にたたき込む。「うちの所轄の現場(げんじょう)だ。俺たちで消し止めるぞ!」
 後部座席で文吾は、早くも防火メットをかぶり、高鳴る心臓をおさえていた。高橋からは、どんな現場でも、平常心をたもてと言われてきたからだ。現場で、セオリーを守れないやつは、大けがをするぞ、と。
 セオリーを守れないやつは、セオリーを忘れるやつだ。
(へ、わかってるよ。)
 文吾は、高橋の言葉を思い出しながら、胸をどんと拳でたたいた。心臓が大丈夫だよ、と答え返したかのようだった。

 現着すると、アパートの周囲では、周辺住民が、火元の部屋を指さして叫んでいる。
 古ぼけたアパートで、空き部屋も目立った。外塀も半ば崩れている。窓枠に干されたワイシャツが、うらさびしくゆらめく。
 高橋たちは、火事場だというのに、風を冷たく感じた。太陽が隠れ、大気が雨気をはらんでいる。
 高橋は住民から、火元の様子を聞き出しながら、5名の部下に次々と指示を飛ばしている。
「消火栓に吸管をつなげ!」
 高橋のそばに、宮田が近づいた。
「おやっさん、おかしいぜ」
 二人は火元を見上げる。
「現場の部屋から、火が見えねえ」
 高橋の言うとおりだった。
「煙もほとんどあがってない。小火ですか?」
「ならなんで、住民が出てこない?」
 そのとき、窓の中央でぱっと火の玉があがった。火種もない空中に、ライターのように燃え上がり、すぐに消えてしまった。
(こんな現象、見たことがないぞ。)
 だが、火勢自体は、強くなさそうだ。
 高橋は、こっちを、ちらちらと見ている文吾を呼びつけた。
「お前が、筒先をもて! 二人で現場に乗り込むぞ!」
 文吾の顔に赤みがさした。彼は言った。
「お、おう」
 文吾は、ボンベや面体、装備一式を装着した。全部で10キロばかりになる。ずっしりと負荷がかかる。が、命を救う重みだ。
 機械班で中堅消防官の遠藤が、行ってこいとばかりに、背をたたいた。
 文吾は筒先を受け取り、トランシーバーのマイクをさぐる。ポンプ車に残る駒野と小池に向かって、うなずいた。

 文吾と高橋は、ホース車をからからと引きながら、アパートの外階段にまわりこんだ。そこからも火は見えない。その場にいた住民が、右から三番目の部屋だ、と文吾に言う。
 階段をのぼる。鉄の階段にふれたホースがジュージューと音をたてる。手すりまでもが熱を放っているように見えた。文吾は、住民たちが、なぜ逃げ遅れた一家を助けに向かわないかわかった。熱くて防火服なしでは、現場に近づけないのだ。
「おやっさん。変だよ、この現場」
「怖いか?」
 面体の後ろで、高橋は静かに訊いた。
 その落ち着いた目を見ていると、文吾は、あせりが、腹の底から、すーっと引いた。
 高橋は、口は悪いが、面度見のいい男だ。口には出さないが、若い所員をかわいがっている。文吾のぼやきを聞いて、現場にふみこむ機会を与えてくれているのだ。
「こ、怖くねえ。大丈夫だ」
 高橋は頼もしげに肩をたたいた。
「その意気だ。踏み込むぞ」
「おお」

 文吾は、重いホースを力任せに引きずった。火元の部屋にたどりつく。
 ノブに手をかけようとする文吾の腕を押さえて、高橋が言う。
「待て。火が消えたのは、中の酸素を食い尽くしたからかもしれん」
 文吾はうなずいた。扉を開けば、炎は酸素をもとめて吹き出してくる。炎が爆発したように空気を求めて広がっていく。バックドラフトという現象だ。バックドラフトはふせぎようがない。
「俺が開ける。扉から離れてろ」
 言われるまでもない。
 心臓がどうしようもなく、高鳴る。まるで、体中が心臓になったみたいだ。喉元から内蔵が出てきそうだ。
(怖くなんかねえ、おれはスーパーヒーローだ。)
「文吾」
 高橋が声をかける。文吾は、マスクの中で、自分の目玉が大きくなっているのがわかる。どうしようもなく怖かった。
 火事場だからじゃない。いやな予感がする。
 高橋が笑いかけた。
「落ち着けよ。スーパーヒーロー」
「お、おお」
 高橋は力強く扉を開けた。吹き出して来たのは、炎ではなく熱気だった。百戦錬磨の高橋が、身を引くほどだ。高橋は無線マイクに向かって怒鳴った。
「こちら高橋。現場に到着した。これから中に踏み込む。合図をまって水をくれ。――文吾、面体着装。放水の準備だ。踏み込むぞ」
 文吾は、酸素マスクの音を聞きながら、小さくうなずいた。のどがからからだ。

 屋内に踏み込んだとたんに、途方もない熱気が二人をつつんだ。部屋は、サウナ以上の熱が渦をまいている。防火服の中で、体が冷気を求めてうめきをあげる。マスクをしているから無事だが、まともに空気を吸ったら、のどがやける。
 高橋は中に踏み込むのをためらった。これほど異常な熱気を発しているのに、火が見えない。
「行こう、おやっさん」
「ああ、わかってる」
 二人はさらに、すすんだ。アパートは古い木造で狭い。入ってすぐが台所になっている。炊飯器のボタン光が、やけに明るい。狭い部屋に、レンジやガス台がギュウ詰めにされている。三段のカラーボックスには、新聞や雑誌が無造作につっこまれている。入り口は火種にみちている。燃え広がるのはあっという間だろう。
 しめきっていない蛇口から、水滴が垂れ、ジュッと音を立てて蒸発する。文吾は息をのんだ。熱を帯びて縮んだ肌が、身動きをするだけで、きしみをあげる。
(こんな熱じゃあ、要救助者が、生きてるはずがない……。)
 文吾はそんな考えを振り払うかのように首を振る。メットの中で汗がダラダラと吹き出しているのに、すぐさま蒸発する様子が、見えるかのように感じられる。
 高橋が文吾の肩に手を置き、足を止めた。
 暗い室内の中央で、誰かが立っている。
「おい、大丈夫か?」
 影が小さい。無線報告にあった、斉藤孝夫の一人息子だろう。
 文吾は、妙だな、と思った。年頃の少年にしては痩せすぎている。病的といってもいい。
 少年は、高橋の言葉にも聞こえなかったように立ちつくしている。うつむき、顔はかげで見えない。
「おやっさん」
 文吾が高橋の肩をつかんだ。指が、熱を帯びた肌に食い込み、高橋は顔をしかめた。
(これほどの熱なのに、あんな子供がなぜ無事なんだ?)
「あ、あれ……」
 高橋は文吾が指さす先をみた。
 幼児の足下に、真っ黒にこげた人形がころがっている。それが人だと気がついたとき、高橋は息をのんだ。なんども火事場で見てきたものに、似ていた。
(消し炭だ。あの子の親が炭にかわってやがる。ろくに火もねえのに、なんで……)
 だが、高橋の胸に去来したのは、少年に対する同情だった。あの子は、目の前で親が焼け死ぬのを見ているのだ。
 少年の眼前で火が上がった。
「文吾お。火だあ。消し止めろお」
 そのとき、少年が顔を上げ、こちらをむいた。文吾が、息をのむような速さだった。
 高橋は、きれいにパンチをもらったボクサーのように、突然両膝を落とした。
「う、うああ」
 高橋が畳に転がり、手足を大の字に広げ、苦しみだす。
「お、おやっさん」
 防火服の隙間から、煙と肉の焼けるにおいが立ち上る。
(燃えてる。おやっさんの体が? 火点もなにもないのにっ)
 文吾の脳裏から、火事場のことも要救助者のこともふきとんだ。防火服の中が燃えるという異常事態に、なんの疑念も浮かばない。
(大変だ! おやっさんが焼け死んじまう!)
 文吾は無線マイクをつかむと怒鳴った。
「水くれえ! 放水開始だ! バルブを開けろお」
 文吾の手は忙しく、筒先をひねる。水量を最小限にしぼることしか頭になかった。
 文吾が手をこまねいているうちに、防火服のすきまから火が噴き出してきた。文吾は筒先を片手に、大あわてで高橋の体をたたき始めた。自分が見ているものが信じられなかった。
 文吾は筒先に目を落とした。腹の奥底、ほんのわすが冷静な部分が、
(人に向けるのか?)
 とささやいた。
 ぐずぐずしているひまはない。文吾は防火服の下に水を入れるために、高橋の体をひっくりかえした。
「うお……」
 マスクの下に、高橋の顔はなかった。火があった。高橋の目玉が、ぱちんぱちんとはじける。体内の水分が、音をたてて、蒸気に変わる。
 ぺちゃんこのホースがぼこぼことふくらむ。文吾の心は、平常心とはほど遠かったが、それでも、体は放水にそなえて、かまえをとった。
 ホースの先から、水が噴き出し、文吾は、ありがてぇ、と快哉をあげた。命の水が、防火服の上をすべりおちる。文吾は、防火服の胸元を開くと、そこにホースの水をつっこんだ。
「おやっさん、返事をしてくれ! 死んじゃだめだ!」
 高橋はもう、呻き声すら上げない。ぴくりとも動かない。
 文吾は放水を続けながら、マイクに呼びかける。
「誰か来てくれ! 助けてくれ!」
「文吾! どうした! おやっさんを無線にだせ!」
「おやっさんが火事だ! 現場に来てくれよ! おやっさんが死んじまう!」
 文吾の放水で、高橋の火は、ジュージューと音をたてて消えていく。文吾は振り向いた。少年はその間も、異様ともいえる熱心さで高橋を見つめ続けている。
 文吾の背筋に、ぞくり、と寒気が走る。
 こいつ、なんて目で、おやっさんをみるんだ。
「何をしてるんだ! 歩けるんなら、外に出ろ!」
 少年が、その目を、文吾に向けた。
 文吾の視界に、少年の開いた瞳孔が、巨大にふくらみながらせまってきた。心臓にちりりっとした痛みを感じる、彼は夢中で転がる。
 ホースから手が離れ、筒先がまるで生き物のように部屋をのたうちまわる。文吾は腰を抜かしてへたりこんだ。
 さきほどまで自分がいた空間に、巨大な炎が浮かび上がっていた。
 文吾は、横目に火の玉を見、黒こげになったおやっさんを見た。居場所を変えたことで、部屋の奥が見えた。少年の足下に黒こげの死体が二つある。
 ここから見る部屋はひどい惨状だ。テレビは、原子爆弾を食らったかのように、溶けて固まっている。部屋の壁も崩れ落ちていた。文吾は、少年が、この異常な現場で、汗一つかいていないことに気がついた。
「お、おまえが……」
 火の玉は、少年が見つめている間、ぶるぶると震えながら宙にういていた。
 文吾の胸の奥で、するどい痛みが走る。
 玄関先から、防火靴が階段をたたく音が聞こえる。
「く、来るなあ! きちゃだめだ!」
 駒野、小池、宮田の三人が、熱気をものともせずにふみこんできた。
「文吾お! どこだあ!」
「来ちゃだめだって!」
 文吾は夢中で暴れる筒先を拾おうとした。もう何もかも信じられなかった。自分の胸に走る痛みも、高橋の死も。信じられるのは筒先だけだ。
(放水だ。火を消すんだ。)
 駒野、小池、宮田は、倒れている高橋と、その枕元で、筒先を拾う文吾を呆然とみた。
「文吾お!」
 温厚な宮田が、聞いたこともない怒声で、高橋の首を抱き上げた。
 高橋のマスクがとけている。顔がない。宮田の手の中で、高橋の体はグズグズと崩れた。
「ああ、うそだ! おやっさん、返事をしてくれ!」
 今度のけぞったのは、宮田だった。後方に倒れ込むと、胸元をかきむしる。
 駒野と小池は、暴れる宮田の手足をとり、落ち着けようとする。
 文吾は自分も胸を押さえた。
(まただ、あれが起こりやがった。)
「やめろ! このやろう!」
 少年の目が、三度、向いた。文吾の腰骨を恐怖がつらぬく。
(火がつく。俺に、火がつく)
 文吾は夢中で突進した。後方で、文吾を追うかのように、次々と、火の玉がおどる。
「うわあ!」
 文吾はフットボーラーのように、少年の体にくみついた。ぞっとするほど、冷たかった。
 文吾は少年といっしょに吹っ飛んだ。少年の頭が柱に激突する。少年の体から、ぐにゃりと力が抜け、床にくずおれた。
 文吾は、少年の胸ぐらをつかむと、憎しみをこめて拳を振り上げた。
「文吾! やめろお!」
(こいつが、こいつが殺したんだ……!)
 だが、目の前にいるのは、血を流して弱々しくうなだれる少年だった。気絶して、意識をなくしている。
(ほんとに、こいつがやったのか? ほんとにそんなことが、あるのか?)
 駒野、小池が息をのんで見守る中、文吾はやっとの思いで手を下ろした。
「要救助者、一名確保……」
 文吾のつぶやきが、狭い室内にむなしく響いた。

○   3

 呆然と、部屋に立ちつくす一同の耳に、サイレンの音が新たに響く。遠藤の呼んだ、応援隊と救急車が到着したのだ。
「おやっさん……」
 文吾は、倒れたままの高橋に近づく。面体に手を伸ばすと、宮田が腕をつかむ。
「文吾。お前は見るな」
「でも……あれはおやっさんだ」
「もうちがうんだよ……おやっさんには、さわるな」
 宮田の言うとおりだった。人型の固まりがそこにはあった。
「生きてるかも……」
 宮田は首を振った。
「気持ちはわかるがな……」
 宮田は血をはき、言葉につまる。
 文吾たちは、宮田の枕頭にあつまったが、
「もういい。お前たち、あの子を連れて、外に出ろ」
 宮田は疲れたように首を落とした。
 文吾は高橋の生死を確かめたかった。彼の心はふるえた。消防官としての知識が、あんなふうに燃えて、生きているはずがないと告げていた。だが、同時に、あんなふうに燃えるはずがない、と知ってもいたのだ。
「それは親父さんなのか?」
 と、小池は言った。二人とも、自分が見ているものが、信じられない様子だった。
 文吾が高橋の手をとると、まるで、泥細工のように、防火服の中で腕が崩れた。文吾は悲鳴を上げて、へたりこんだ。
「もういいだろう。おやじさんをそっとしといてやれ」
 宮田が言った。宮田は泣いていた。高橋とのつきあいがもっとも長かったのが、彼だ。
「でもよ……」
「ばかやろう。はやく、要救助者を助けてやれ」
 文吾はまだ抗弁しそうになった。彼には、その要救助者が、高橋に火をつけたようにしか思えなかった。
(おやっさんだけじゃねえ、おれだってやられそうになったんだぞ。)
「宮さん、立てないのか?」
「俺のことはいい。残火処理に当たれ」
 部屋は燃えたというよりも、破壊されたというほうが合っていた。テレビが溶け、壁がハンマーの一撃をうけたように砕けている。焦げ目がある他は、火のあった形跡がない。
 部屋にある死体は、一つではなかった。完全に炭とかした遺体の他に、女のものと思われる腕が残っていたからだ。体があったと思われる部分には、人型の焦げ目が残っている。
 文吾たちは、無言で少年を見下ろした。駒野が少年の体に手をさしいれると、ひどく体が熱い。汗をかいているようだった。呼吸も荒い。駒野が抱えるうちに少年は震えだし、泡をふきはじめた。舌をかむかもしれない。小池が少年の口に布をつっこんだ。
 次に、文吾たちは、抵抗する宮田の防火服を脱がせた。内出血を起こしているのか、腹が真っ赤だ。頑固者で、我慢強い宮田が、脂汗をかいている。
 無線がガーガーと音をたてた。
「宮さん。遠藤です。応援の第二小隊と救急が到着しました。中の様子はどうなっとります」
 宮田は気力をふりしぼり、マイクを手に取る。
「こちら宮田。要救助者を、一名確保した。犠牲者は、三名の模様。火はない」
 ない、としかいいようがない。
「要救助者を確保したのに、犠牲が三名とはなんです? 家族以外に人がいたんですか?」
 宮田は別のことを言った。「担架がいる。第二小隊をもって、残火処理に当たらせてくれ。文吾たち三名は、帰署させる」
「おやっさんは? 高橋消防指令はどうしとります?」
 宮田は歯を食いしばった。「高橋消防指令は、犠牲になった。俺は動けない」
 遠藤は無言だ。宮田がマイクをもった腕を落とすと、部屋は急に静かになった。
 外の廊下に足音がした。長谷野辺消防の第二小隊と、たんかを抱えた救急隊員が姿をみせた。彼らは、部屋の惨状と、人肉のこげついたにおいにうめきをあげた。
 生身の体を内部から燃やされるという激痛に耐えながら、宮田は若い隊員に指示を出し、少年を連れ出させると、そのまま意識を失った。

○   4

 一同が病院につくと、宮田の手術はすでにはじまっている。文吾たちが出てきた看護婦に聞き出すと、開腹が必要となる大手術のようだった。文吾は、宮田の妻や子供の顔が見られなかった。
 高橋の家族も来ていたが、遺体には会わさないことに決めたようだ。
 文吾たちは、長椅子にすわり、手術がおわるのをまちかまえた。
 市局長の二宮が駆けつけた。非番だった二部の消防官も、病院にやってきた。彼らは、現場で何があったのかを、文吾たちから聞き出した。
 文吾は現場についたあとの出来事を詳しく語った。少年が振り向いた瞬間に、高橋の体が防火服の下で燃えだしたこと。その目が自分に向いたとたんに、胸に痛みが走り、空中には火がともった。
 二宮たちは唖然として、話に聞き入った。
「君たちが、気が動転しているのは、わかるが、自分の言っていることがわかっているのか? それでは、まるで……」
 二宮は言葉に詰まった。
「だけど、斉藤夫婦と思われる死体は、完全に消し炭になっていましたよ」と遠藤が言った。「鑑識に聞いたんですが、骨ものこっていないそうです。それに、妻と思われる遺体ですが、腕を残して、残りは燃え尽きてなくなったとしか思えない」
「誰かが、腕を切り落として連れ去ったんだろう。警察は殺人の線でも、捜査を進めていると報告があった」
「でも、部屋の壁に、人の燃えた跡がありましたよ」と文吾が言った。
 二宮はいらいらと、背中を向けた。
「そんな報告はあげられない。火だねもないのに、火がついたりするか。防火服の中だけが燃えることもない。あの子供が火をつけたみたいな言い方はやめろ!」
「そうは言ってませんよ」と小池が言った。「ただ俺たちは見たんだ。たしかに、空中に火がついたし、それに、防火服の中が燃えたのは……」
 小池はつばを飲んだ。
 一同は黙り込んだ。
「なにか説明のつくことがあるのかも」と駒野はつぶやいた。「あの部屋の温度は異常だった。防火服の中でなにか化学反応をおこしたのかも」
 文吾たちは疑わしげに駒野をみた。彼らは消防官だけに、火事や火災事故に関する知識が一般人よりある。人体が、骨ものこさず、炭にかわるような高熱の炎などは、考えられない。それならば、人体だけが燃えて、なぜあの部屋が燃えなかったのか、その説明がつかなかった。
「君らは、なにかるあの五歳にもならん少年が、念力発火かなにかをやったとでもいうつもりかね」二宮は言った。「信頼する所長が目の前で死んで、動揺しているのはわかるが……」
「防火服の中が燃えたんですよ。いっしょにいた自分には火がつかなかったのに……」
「もういい」と二宮は言った。「児童福祉局から連絡があった。あの斉藤哲朗という少年は、福祉局に保護されたことが一度ならずあったそうだ。君たちは両親から虐待をうけていた五歳の子供を、このうえ放火犯として報告するつもりか。それが良識ある消防官のいうことか。マスコミにはかっこうの餌だぞ。まともな消防官の言ったこととはとても思えん。いまの話は聞かなかったことにする」
「市局長、彼らだって、そんな話を信じてるわけじゃない……」大野がとりなすように言ったが、
「三人とも三日間の謹慎をもうしつける。プレスにあっても、なにもしゃべるな。その間に頭を冷やすんだ」
 二宮は湯気をたてて去ってしまった。
 沈黙のおちた廊下で、時間だけが過ぎていった。

 文吾は、屋上にのぼった。
 欠けた月が、照っている。空の半分ほどに、雲がある。
 宮田の手術は、まだ終わらない。
 文吾は金網のそばまで行った。風が強かった。高橋のことが思い起こされてならなかった。ふいに、泣けた。
「おやっさん、ごめんよお」
 文吾の声を風が吹き払った。文吾は、自分の声に、高橋が死んだことをようやく受け入れた。
「一人前になるまで、生きててくれりゃあよかったのに」
 月が高橋の顔に見えてきた。
「おやっさんのために、なにかしてやりゃあ、よかった。ごめんよお」
 文吾は手すりをつかみ、膝を落とすと、よよ、と泣き崩れた。

○   5

 高橋の葬儀は、三日後に執り行われた。多くの消防官と、報道関係者が集まっていた。病院での会話が、あちこちに伝わっているのか、文吾たちは注目のまとになった。
 遺体のない葬儀で、満足な別れもできなかった。
 葬儀の後、文吾は、小池、駒野といっしょに河原に向かった。何度も放水訓練をおこなった場所である。
 いい天気だが、テニスコートにも、サッカー場にも人がない。
 文吾たちは土手にすわり、しばらく黙ったままでいた。宮田は、脊髄を損傷し、下半身不随だそうだ。
 駒野が、「謹慎も終わりだな」とつぶやいた。「補充員が来るらしいぜ。所長には大野さんがなるってよ」
「哲朗って子は、どうなるんだろうな?」
 小池が訊いた。
「火災現場もずいぶん調べたみたいだけど、結局火の出た理由はわかんないらしいぜ」
「殺人じゃなかったのか?」
「鑑識のしようがないんだと。遺体が、もう、灰に近い状態だったし、骨まで燃えてたろ? 警察はまだ疑ってるみたいだけどな」
 小池の口調は、どこか人ごとのようになっていた。
「文吾、まだ疑ってんのか?」
「わかんねえよ。なんで、おやっさんが死んだのか、でも、おれは、あのガキの目が忘れられないんだよな」
 駒野は、念力発火について、いろいろと調べたようだった。消防官なだけに、もともと、そうした現象に興味があった。だが、しょせんは映画や小説の出来事で、現実のこととは思えなかった。数日たった今では、信じることすら、難しい……。
「現場についたとき、あの子の様子はたしかに尋常じゃなかったんだ。でも、念力で火がついたなんて話、しらふじゃ考えらんねえよな」
「ファイアースターターか。スティーブン・キングの小説じゃないんだ」
 駒野は自分の言葉を、バカにするようにつぶやいた。
 だが、三人ともが、腑に落ちないのは確かだ。知識や理性が、念力発火を否定しているのに、状況証拠だけは、やまと残っているのである。
 小池が言った。「もし、だぞ。もし、可能性として、あの子にそんなことができたとするよな。その場合、事件はまた起こると思うか?」
 三人は顔を見合わせた。
「ばからしい。お前、そんなこと言ってると、そのうち懲戒免職くうぞ」
 文吾が言うと、二人は首をすくめた。
「なんで、よりによって。おやっさんが死んじまったんだろうな」
 文吾はわざと明るく言ったのだが、声がしけって、いけなかった。
 駒野が立ち上がった。
「おい。宮田さんに会いに行こうぜ。もう面会できるかもよ」

○   6

 宮田は病室にいた。家族は幸いに、外出をしていない。消防官たちがもちよった見舞いの品が、部屋のあちこちにあふれている。宮田は、入ってきた若いのをみて、いやになつかしそうにほほえんだ。そんな表情の一つ一つがいじらしく、文吾たちは、宮田の引退を悲しんだ。力なく横たわる姿をみて、ああ、もう動けないんだな、と悟った。
 文吾たちは、宮田になら、思う存分、自分たちの考えを話すことができた。宮田なら、そんな幼稚な考えですら笑わないだろうし、なによりも宮田自身が大けがを負っているのだ。
「市局長が悩んでたぞ。お前らを怒鳴って悪かったってよ」
「もう怒ってないんですか」
「怒っちゃいない。でもな、おやっさんが死んで動転したのは、二宮さんだっておんなじなんだよ」宮田が腹を撫でていった。「俺の体、腹の中が焼けてたらしい。公表はできないんだが……」
 宮田は意味ありげに三人をみた。しゃべるな、と言っているのだ。
「消防官二〇年やって、こんなこと、はじめてだ。だけどな、お前らの言うとおりだったとしたら、気をつけろ」
「やっぱりあの子が……」
「おやっさんなら、敵をうてなんていわねえよ。あれが、誰かの放火にしろ、あの子がつけたにしろ、助けてやれっていうはずだ」
「もし、放火犯がいるんなら、あの子がねらわれるってことですか?」
 宮田はうなずいた。「あの子は犯人をみたかもしれない」
 文吾たちは顔を見合わせた。そんなふうには誰も考えてこなかったのだ。
 文吾だけはそんな宮田の考えを否定した。あのときの哲朗の目を見た。宮田とておなじだ。そんな文吾の気持ちを読み取ったかのように、宮田はうなずいた。
 文吾は言った。「目が合ったとき、あいつは意識がないみたいだった。そうでなきゃ、五歳のガキにあんな目つきは無理ですよ」
「あの子はいま、親戚の家にいる」宮田は言った。「これは公表されていないことだ。二宮さんがおれにだけ話したんだ。上本町にいる」
「管轄外ですね」
「お前らのそばじゃ、あの子も不安だろう」
 と宮田は笑った。
 宮田は窓の外を見た。やがて振り向いた。
「文吾、お前、あの子をはってろ。お前らだから、あの子の居場所を話すんだ。忘れるな、あの子は要救助者なんだ。想像どおりだとしたら、また事件は起こるぞ」

○   7

 文吾は、口には出さないが、宮さんはあの子を疑っていると思った。文吾にとっては心強いことだった。
 三人は仕事に復帰し、平常通り、仕事や訓練をこなした。斉藤哲朗がいるはずの、本町には、たえず火災が起こらないか注意をむけていた。管轄外だが、いつ第二出場指令がかかるかわからない(出場指令のかかる消防署は、火災の規模に応じてふえる)。
 文吾は、たえまなく悪夢にうなされた。夢にみるのは、哲朗の目だった。五歳の子供ににらまれて、生身を焼かれる様は、夢とわかっていても恐ろしい。文吾は火事が起こらないことを願い続けた。彼らは、火災警報のたびに、一喜一憂することになる。
 そして、一ヶ月後、事件は起きた。

○   8

 火災指令は、当初第一出場だった。じきに、第二出場指令がかかった。文吾は、防火服を装着しながら、駒野、小池をそばによんだ。自分たちが、出場のときに火災が起きたのは、むしろ幸いだ。
「でもよ、文吾。あんときは、ほとんど火が出てなかったろ。第二出場がかかるほど燃えてるってことは、前とはちがうんじゃねえかな」
「でも、火がついたのは、あいつのいる家だ」
 ポンプ車が現着すると、出火宅は、ごうごうたる炎に包まれ、燃え尽きようとしていた。応援隊がつぎつぎと到着し、ホースの数がふえていくが、火勢は強くなるばかりだった。

 三時間後に、火は消し止められた。木造の二階家屋は、なかば焼け落ちている。文吾たちは、哲朗がこの中にいたとしても、もはや生きてはいまいとあきらめていた。なにかすっきりしない気持ちがした。
 全焼した家屋から出てきたのは、大人の遺体だけだった。残火処理にあたった消防官たちは、屋内にいたはずの哲朗少年を捜索したが、遺体は見つからなかった。
 すぐさま、周辺住民の聞き込みがはじまった。外出していて、火に巻き込まれなかったのならいい。だが、文吾たちは別の可能性を考えていた。
 哲朗は、火災現場にいた。火がついたあとに、現場を離れたのだ。
 文吾は、酸素ボンベの残圧を確かめた。まだ十分にある。
 彼は、駒野と小池に言った。
「俺たちだけでいくぞ。装備をとくなよ」
 文吾たちは、仲間の目を盗んで、消防車に隠しておいた消化器を持ち出した。
「文吾、ほんとに行くのか?」
 小池が言った。持ち場放棄は重大な違反行為だ。
「みんな、哲朗のこと探してるだろ? おれたちが行ったって変じゃねえよ」
「そうじゃねえよ。おまえ、ほんとにあの子が火をつけたって思ってるのか?」
 文吾は黙った。彼らの部署は、家屋での残火処理である。第二小隊の他のものは、中で、放水を続けている。
「あの子がやったんじゃないんなら、それが一番いいよ。でも、お前、絶対ないっていえるか? あの子のいる家で、立て続けに火事があったんだぞ」
 駒野たちはうなずいた。
「前回はあの子が気絶した。でも、今回は、あの状態のまま、ふらついてる可能性があるんだ」
(もし、哲朗が、なんの装備も持っていない、一般住民と接触したら?)
 三人は、最悪の事態を想像して、息をのんだ。
 彼らは、逃げ出すように、現場を離れる。重い装備を背負ったまま、哲朗の姿を探し歩いた。
 文吾たちの想像は当たった。哲朗は、道のあちこちに痕跡を残していた。住宅の壁や、道の土手に焼けこげた痕があった。彼らは、もしや、黒こげの死体に行き当たりはしないかと、びくびくしながら、跡をたどった。
 住宅は減り、田畑が多くなった。文吾たちの目に、三年前に廃校となった長谷野辺小学校がとまった。辺りには人家も少なく、よりいっそうの廃墟に見えた。誰も手入れしていない校庭を砂埃が舞い、あらゆる音を吸い込んでいる。
 校庭の門が、開いていた。
「おい、見ろよ」
 二階の教室の一角に、火の玉があがり、小さな人影も見えた。文吾は腰にはさんだトランシーバーのマイクに呼びかける。
「長谷野辺1、こちら望月。火災現場に現着した。火点が見える。応援をたのむ」
 応答はなかった。
「遠藤さん、ガキをみつけた。校舎に火がついてるかもしれない。ポンプ車をまわしてくれ」
 トランシーバーが雑音をひろう。
「だめだ。届かない。俺たちだけで行くぞ」
「冗談だろ。応援をよばねえのかよ」駒野が振り向いた。
「見失ったらどうするんだ。あいつは、みさかないなく火をつけるんだぞ」
 まさにその通りだ。哲朗は、世話になった親戚すら殺した。
「あいつの親戚は、虐待なんかやってない。あいつは、無意識でも火をつけるんだ。トランス状態ってやつだ」
 駒野は無言で、文吾を見つめていた。やがて消化器を抱え直すと、校舎に向かって歩き始めた。
「お前も、この一ヶ月調べてたんだな。でも、忘れんなよ。おれたちはふつうの消防官なんだ。超能力者の専門家じゃない」

 一同が、運動場をよこぎる間も、校舎からは、哲朗が放ったと思われる火点が、一度ならず見えた。文吾は振り向いた。本町の方角からは、まだ煙があがっている。焼け跡に転がった死体や、ベッドに寝たきりの宮田、防火服を着たまま炭になった高橋のことを思った。彼は怖くてふるえている。膝に力が入らない。
(ちくしょう、ほんとは、あんなとこに行きたかねえよ。)
 マスクをもつ手が震えた。なんとか口もとにあてがう。冷たい酸素を吸い込んだ。
「面体着装……」
 無意識につぶやく。重い装備も、今は心許ない。
「あいつが火をつける瞬間はわからないのか?」駒野が訊いた。
「見られたらまずいと思った方がいい。いいか、チリッときたら逃げろ。あいつの火は追ってこない」
 文吾が、校舎につづく扉を開けようとすると、鍵のあった部分が溶けているのがわかった。文吾はその扉を、そっと開く。校舎から熱風が吹き出し、屋内で影が揺らめいた。まるで熱帯の砂漠にいるかのようだ。
(あのときと、おなじだ……)
 三人は、消化器のピンを抜いた。つばをのんで、屋内にふみこんだ。
「あ、熱い……」
 校舎全体の温度があがっているかのようだ。
(どんな熱量があったら、こんな温度になるんだよ……)
 柱に温度計が残されている。赤い筋が、ガラス管をふりきっている。
 文吾はのどをしめらせたかったが、舌の根までカラカラだ。
 ふるえるブーツが廊下に音をたてる。
「廃校に入ってくれて、助かったぜ」小池は強がったが、声がふるえている。「燃え種が少ないぞ。鉄筋なら、燃えにくいはずだ」
「あいつ、よく家出してたんだってよ。この校舎にも、来たことあるのかもな」
 駒野がつぶやく。彼らは、暗い階段をゆっくりとのぼる。空気が、濃密だ。体がだるい。緊張のあまり、逆に筋肉が弛緩している。文吾の目に涙がにじんだ。胃袋の中身を戻しそうだ。
(消防官になって、なんどもチビリそうなことがあったけど、こんなに怖かったことはねえ。)
 彼の頭脳は、危険信号を最大デシベルで発している。引き返せ。全身の肌が、細胞が、冷や汗をにじませ叫んでいる。恐怖の分泌物が、もれだして、文吾の脳を支配する。
 踊り場に出る。上を見上げる。誰かが待ちかまえているような気がしたが、誰もいなかった。彼らは、横一列になり、消化器のホースを前方に向けて、階段を進んでいく。一度火がついたら、こんなものが役に立たないことはわかっていた。あいつの炎は、体の中につくのだ。大切なのは、絶対にくらわないことだ。
 階段がとぎれた。三人はじりじりと廊下をすすみ、壁際から、教室へと続く、通路をのぞいた。
 二階の廊下には、これまで以上の熱気が渦をまいている。三番目の教室だ。と文吾はつぶやいた。二人には聞こえなかったようだ。
 文吾は、以前に駒野がつぶやいた言葉が、なぜか頭をかけめぐった。
 ファイアー、スターター。

○   9

 彼らは身を低くして、最初の教室のドアを開けた。
 あいつは移動しているかもしれない。
 文吾は、扉の上にかかった札をみる。一年A組。
(あいつだって、将来は、小学校に通うかもしれないんだよな。)
 文吾は、自分でも、こんなときに妙なことを考えるなあ、と思った。ここにはいなかった。
 駒野が手を挙げて、前方に指をふる。いけ、の合図だ。
 文吾は覚悟をきめて、次の教室を目指した。
 校舎には、自分たち以外は無人のようだが、残念ながら、机のたぐいは撤去されておらず、教室の後ろに固めてある。こいつを燃やされたらことだぞ、と文吾はつばをのもうとした。ポンプ車の援護が欲しかった。それに、熱い。ここは熱くてたまらない……。
 二つめの教室もいない。
 三人が確認して、先を急ごうとしたとき、C組の教室が開き、哲朗が姿を現した。
 文吾たちは悲鳴を上げて、消化器の筒先を振り上げた。小池は、自分の胸元に異様な熱の固まりを感じた。
(チリリッときたら、逃げろっ)
 小池は夢中で後ろに飛んだ。その瞬間、胸元で、火の球がふくれあがり、小池の体を吹き飛ばした。
「あ、あぢぃ」
 小池は、廊下にもんどりうって転がる。背中のボンベが、乾いた金属音を立てた。
「小池え!」
 文吾があわてて、駆け寄ると、防火服が、溶けている。
「あ、熱い。焼けるう」
「動くな」
 二人は、小池の防火服を脱がしにかかる。体に、火がとどかなかったのは、幸いだ。火の玉は、空中に出現してすぐに消えた。
 防火マスクまで脱いだ小池は、熱風に咳き込んだ。
「ばか、面体を外すな!」
 文吾が急いで、マスクを装着させる。
「肺が、焼ける……」と小池は恐ろしいことをつぶやく。
 三人は胸元が溶けた防火服をみおろす。
「おい。防火服って、1800度の熱でも、15秒は持つって習わなかったか?」
 駒野は、そいつが溶けるって、どんな温度だよ、とつぶやいた。
「防火服だって、燃えないわけじゃない。十分な温度さえあれば、煉瓦だって、なんだって燃えるんだ」
 文吾は自分に言い聞かそうとしたが、頼りにはならなかった。そんな炎が存在すること自体、信じがたかった。
 廊下をかえりみる。哲朗の姿がない。
「あいつがいない。隠れたんだ」
 文吾はむしろほっとした。今、攻撃をうけていたら、おしまいだったはずだ。
 二人は、小池を見た。彼には、もう、防火服すらない。
「お前、外に出てろよ」
 文吾は心にもないことを言った。
「えっ?」
「防火服がないんだぞ。あいつが火をつけたら、どうする?」
「防火服の、意味なんかあんのか?」
 小池は立ち上がった。ふいに駒野は気がついた。自分たちは火消しの専門家だが、ファイアースターターについてはろくすっぽ知っちゃいないのだ。
「よし、小池、俺たちのサポートをしてくれ。あいつをとっつかまえて、正気にもどすんだ」
 駒野が文吾を止めた。「どうやってだよ」
「知らねえよ。気絶でも、なんでもいいから、あいつをとめろ」
 廊下の奥で、教室の扉が、吹き飛んだ。
「いるぞ」
 駒野は言ったが、体が動かないようだった。小池が、消化器の縁で、窓をたたき割った。風が吹き込み、三人はほっと息をついた。
「こちとらファイアーファイターだ……。ファイアースターターなんか怖くねえぞ」
 文吾は、強がる。だけど、怖い。怖くて、足が出なかった。
(ちくしょう、おやっさん。助けてくれ。)
 宮田は、高橋の仇はとるな、と言った。あいつを助けてやれ、と。哲朗を助ければ、せめて弔いのかわりになるんだろうか? 文吾にはわからない。
 文吾は、意を決して、足を踏み出した。彼らは、教室に向かって、踏み出していった。

 文吾が扉を開くと、哲朗は待ちかまえるように、こちらを見ている。あわてて身をかわすと、文吾の頭があった場所に、炎が炸裂した。
 文吾の頭が振動で震えた。幸い、その教室には、教壇のたぐいがない。机も撤去され、広々している。
「やめろ、坊主。おまえ、おれらとやりあう気か?」
 と文吾は呼ばわった。次の攻撃が来た。哲朗の目が迫った瞬間に、文吾は、首をすくめてそれを交わした。教室に転げいった。
 駒野が後を追おうとした瞬間、彼の体に火がついた。駒野が絶叫をあげて転げ回る。小池はあわてて消化液を拭きかけた。
「駒野お!」
 文吾は助けに走ろうとしたが、背後の視線に振り向いた。胸元に焼け付くような痛みが走る。文吾は脇に身をかわした。逃げ遅れた肘が燃え上がった。まるで、肘が火点になったみたいだ。
「うああ」
 文吾は、尻餅をついた。肘がもげたと思った。右手でさわると、まだ肘はある。炎が出現した瞬間に、腕を抜いたおかげで助かった。だが、左腕は、もう動かない。消化器が扱えない。
 文吾は、転がったまま、哲朗を見上げた。視線があった。尿道が、ゆるむのを感じる。
「も、もう」つばを飲む。「もうやめろ。もう十分だろ」
 駒野たちが見守っている。哲朗は無言で、文吾を見返す。そこに、意志は感じない。強烈な怒りだけがある。
「お前が、虐待されて、つらかったのは、わかるけどよ。もう、殺さなくても、いいだろ」
 消化器が、音をたてて破裂した。鉄の筒が、天井まで跳ね上がり、蛍光灯を砕いて、落下する。木製の床を砕いて、転がった。蛍光灯の破片が、遅れて降ってきた。
 温度が上がった。
 文吾は、むかっ腹が立った。哲朗を虐待した親にも腹が立った。高橋が死んだことにも、腹が立った。駒野や小池が傷ついたことにも。
「火ぃつけられりゃあ、いてえんだよ。お前の親戚も、おやっさんだって、お前を助けようとしたんだぞ」
 文吾は、マスクを外し、哲朗に歩み寄った。熱波がおそってきたが、彼を外れて、天井に突き刺さる。コンクリートがガラガラとふってきた。
「ちくしょう、俺だって、お前を助けようとしてんだぞ」
 また、背後で黒板に火がついた。駒野たちが、やめろ、文吾、と叫んでいる。
 のどが、顔が、焼けそうだ。
 文吾は、哲朗の足下にひざまずいた。小さな体を力任せにだきすくめた。
「そんなにしんじらんねえなら、俺の心を読んでみろ。ファイアースターターなら、できんだろうが」
 文吾は、もう死ぬと思った。高橋とおなじになるんだ。せっかく消防官になったのに、いっしょうけんめい、やってきたのに、もう死ぬんだ。
「ちくしょう、おっかねえ」文吾は哲朗の体を抱きながら、ガタガタとふるえる。「おやっさん、助けてくれ。助けてくれよお……」
 文吾は自分が震えていたので、しばらくその変化に気づかなかった。ふるえていたのは、哲朗の体だった。しゃくり声を上げながら、泣いている。
「ごめんなさい」と彼は言った。
 文吾が体を離すと、辺りの熱気が薄くなっている。呆然と哲朗を見た。目の前で哲朗が泣きじゃくっていた。
 駒野たちがそばにきた。三人は、放心して、哲朗をみつめた。
 真っ赤になって泣きながら、ごめんなさいを繰り返した。

○   10

 河原の風は、いつものように涼やかだ。
 包帯で、腕をつった文吾がいる。河川では、長谷野辺消防の第二小隊が、放水訓練を行っている。
 文吾が人の気配に気づいて見上げると、駒野がいた。駒野は無言で、隣に腰をおろす。
 二人は、しばらく、訓練を眺める。
 二人の足下にはツクシが咲き、タンポポの群れがあちこちに見えた。こうして親父さんが死んでも、土手の景色は相変わらない。文吾は、なんだか、ありがたかった。
 やがて、どちらともなく口火を切る。二人は、訓練の様子をからかう。ときおりは、笑い声をあげる。そして、少年のことを考える。
「あいつ、なんで正気に戻ったんだろうな」
 と駒野はつぶやいた。
 文吾はしばらく黙って考えた。
「あいつ、自分がやられたことを、他人にやってるってわかったんだよ。おっかねえ、助けてくれって、あいつはいつも思ったんだろうな」
「そうか」
 と駒野は嘆息した。
 文吾は首を垂れた。あーあ、とおおげさに頭をかいた。
「やつぱりおれは、スーパーヒーローなんかじゃねえよ」ため息をつく。「おっかなくてふるえてただけだもんな」
 駒野がほほえんだ。「おまえは、スーパーヒーローだよ。おれを助けてくれたろう」
 文吾はクシャリとなった。「ばかやろう……」

○   11

 持ち場を勝手に離れたことで、文吾たちはこっぴどくしかられたが、それ以上のおとがめはなかった。
 長谷野辺小学校は、もう廃校だったし、校舎が破損したところで騒ぐものはいなかった。ともあれ、哲朗少年は保護されたのだ。
 あの子が、自分のしたことを覚えているのか、文吾にはわからない。いまは、この町の福祉局に引き取られている。
 また、火災はあるかもしれない?
 火災はいつだってある。理由はどうあれ、火事場がなくなることは、たぶんないのだ。だから、消防官は訓練をおこたらない。
 自分たちが駆り出される、そのときのために。

○   12

 子供の頃、スーパーヒーローに会った。俺は、スーパーヒーローにあこがれて、消防官になった。今も、その仕事についている。格別な才能もないし、火事場がおっかない。書類仕事は、やっぱり苦手だ。
 俺はたぶん、スーパーヒーローなんかじゃない。だけど、どこかで、俺のことを見た少年は、俺をヒーローだと思うかもしれない。
 俺は、それで、十分だ。

  • 筆者
    h.shichimi
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