ねじまげ世界の冒険 冒頭チラ見せ

第一部 おまもりさま

章前 二〇二〇年 梅雨

    一

 また、あの夢だ。
 彼女は布団の重みを感じ、かっと目を見開いた。暗闇のなかで、目をしばたく。汗をビッショリかいている。悪夢のために体はこわばり、息をつめてさえいたが、そこが自宅の寝室だとわかると、やっと呼吸をつくことができた。
やせこけて、おもやつれがしている。暗闇で、目がランランと光っている。うすいピンクのパジャマを着ているが、その明るい色合いは、女の深刻な状況をかんがみるに、なんともふつりあいな感じがした。
布団のなかで曲がった膝を伸ばすと、こわばった背筋がきしんで痛かった。彼女は眉をひそめながら、目が覚めるたびに浮かぶあの言葉を、いまいましい思いでうけとめる。
世界はねじ曲げられている……という言葉。
「またあの夢か……」
 泣きたい気分で一人ごちると、額に手をやり、大粒の汗をぬぐった。辺りは暗く、部屋はしんとしている。時計の音が、ほとほと鳴るばかりで、あとは夫の寝息がするだけだ。
 彼女は三十七才の主婦で、名前は芝原利菜といった。芝原秀三とは結婚して十二年がたち、小五の娘を一人もうけている。昨年、絵本を出版したこと以外は、ごく普通の主婦だと、自分では思っていた。
不眠症、不眠症、という言葉が浮かぶ。昨晩は何時に眠ったのかと、焦燥にかられる。さいごに時計の針を確認したときは、夜中の二時だった。いまは三時半である。その間、熟睡の感覚は、一度もなかった。睡眠時間が減りはじめたのは、昨年の十二月――いまでは一時間も眠ればいい方だ。
 体を起こそうとすると、関節がきしんで痛かった。筋肉は、オーバーヒート寸前のエンジンみたいだ。
不眠症と悪夢が始まって五ヶ月がたち、自分が限界に来ていることを知った。
ベッドの上で身をよじらし、夫を起こさないよう、注意をして、布団をどかす。鏡をみると、頬のこけた女がいて、その女の光る瞳が見え、泣いていたんだな、と彼女は思って、鼻をすすり、夫に背をむける。泣くほど怖がっていたのに、夢の内容は、さっぱり思いだせない。
 床に足をおろし、つめたい板間の感触に、吐息をつく。
 動悸がおさまるのを待った。
 ゆっくりと立ち上がる。体がふらついた。すっくと身をたてると、胃袋の中身がさかのぼるのをこらえる。
 時計とにらめっこをするうちに、吐き気はとおざかった。部屋を歩くと、足下もしっかりしてきた。
 彼女は、額と腰に手をあてるおなじみのポーズで、なじみの不眠症問題にとりくんだ。
 はじめのうちは、体をつかっていないのが原因かと思った。ジョギングもしたし、水泳もやった。つまらない本を読んだり、コーヒーを断ったり、蜂蜜をたべたり、呼吸を深くしてみたり。あらゆる努力をおこなったが、効果はなかった。自立訓練法を試みたこともある。ヨガもやってみた。かかりつけの医者に相談もしたが、無駄だった。だいいち睡眠とは、努力をするようなことなのだろうか? 眠るのは、自然なことではないのか?
眠いときに眠るのは、天国だと思う。要求と行為が合致する。眠れる健常人は、神経の問題だと彼女に言うが、それならば、彼女はこのところずっとトゲトゲしていた。朝がきても疲れが抜けないのだから当然だし、ジワジワとだが、自分が鈍くなっていくのがわかる。精神を満たしているのは、不安と強迫観念だ。
 頭が回らない、気が利かなくなる。注意力は散漫で、神経過敏になっている。娘に手をあげたこともある。それにたいし、反省もしている。
 彼女は右のこめかみをもみながら――実のところ頭痛もしていたのである――部屋を歩き回った。
「こんなことをしたって、どうせ名案なんか浮かばないわよ!」
 壁を殴りつけたかった。疲れをとるために眠るのに、眠るために疲れはてるとはどういうことだ?
 途方にくれた。不眠症がすべてを鈍らせている。判断力も、思考力も、記憶力も、生きる気力も削りとっている。感情をおさえることすら難しかった。人にくらべれば寛大な方だったのに、神経過敏でヒステリーの兆候がつねにある。
口答えをしたからなに、とつぶやく。あの子の顔をはりとばしたのに、正当な理由はなかった。やつ当たりをしたのである。
 いまでは鉢植えにさえ腹がたつ。体調はつねにくずれて貧血気味だし、それに幻覚をよく見るのである。声をきくし、誰もいないのに、人の気配をかんじたりする。脳腫瘍でもあるんだろうか?
 医者には、ストレスをためないこと、などと言われたが、そのことにもまたぞろ腹がたってきた。
「ストレスがたまってなにが悪いの? ストレスをためるな? 助言をどうも、役に立つわよ。ついでにストレスをためない方法も教えろってんだ。眠れないからストレスがたまるんだ! 人の百倍高給とるくせに、旦那とおなじことしか言えないのか。不眠症はたいしたことじゃない? 夜中に死にたいぐらいイラつくのがたいしたことじゃない? たいしたことじゃないんなら、いますぐ治せ!」
「利菜?」
 声をかけられ、利菜は自分が一人ごとをつぶやいていたことに気がついた(つぶやくというより怒鳴っていたが)。彼女はばつの悪い気持ちでふりむいた。秀三がベッドのうえで、体を起こしていた。
 秀三とは、講文社の職場で知りあった。利菜は大学の頃から原稿の持ちこみをしており、そのまま出版社に就職をしたのである。秀三は三つ年上で、彼女の上司だった。気のつよい彼女は、仕事のうえでは何度もぶつかりあったが、一年後には結婚し、その一年後には子どもが生まれたので仕事をやめた。
 その後、秀三は編集長になり、雑誌をいくつも抱えている。利菜に絵本の仕事をもちかけたのも、この秀三である。
「眠れないのか?」
 秀三がベッドの上から体をのばし、ナイトテーブルの明かりをつけた。部屋がすこし明るくなった。
 彼女は鼻で笑いとばし、「おもしろい質問するじゃない。眠ってるように見えるんなら、そういって」
「また八つ当たりか」秀三がグラスを手にとった。錠剤入りの瓶をもう片方の腕にもち、今年いくどめかになる質問をくりかえす。「薬は飲んでるか?」
「飲んでない……」
 彼女は爪をかみはじめ、秀三はその手元をみている。
「飲んだほうがいい」
 秀三はペットボトルを手にとり、ミネラルウォーターをコップについだ。薬瓶のふたをまわすと、錠剤を手に落とす。
 ベッドを降り、近づいてきた。
「欲しくない……」と利菜は涙声で言う。
「そんなに苦いのか?」秀三が鼻を錠剤にちかづける。「においは悪くないぞ。飲め」
 利菜は強情に腕をくんだ。「いやよ」
「飲めよ」
 秀三がなおも手をつきだしてくると、彼女は薬をうばいとり、
「いらないわよ!」
 と壁に叩きつける。錠剤の一粒は、粉々になり床に落ちた。ほかの粒は周囲に散った。
 利菜はあとじさる。
「欲しくない……欲しくないのよ……飲んでも効かないんだもん」
「はじめは効いたじゃないか」
 秀三のおちつきぶりに、利菜はまた腹をたてた。
「それは最初だけよ!」怒りでふるえながらにらむ。「それはね、たしかに眠れたわよ。でもあのときだってすぐに目が覚めたのよ。あんたには言わなかったけど……」
「そうなのか?」
「そうよ、まぬけ面しないで。すぐに眠れたけど、すぐに目が覚めたのよ。もう薬なんて飲まないわ。眠れなくたってけっこうよ」
「そうやってやけをおこすのはやめろよ」秀三はがまんづよく腰に手をあてる。「眠らなくて平気なのか? まいってるのはわかるだろう?」
「当然よ。あたしがいつもどおりに見えるの? あんたこんな女に惚れたわけ?」両腕を広げて、首を左右に振りたてる。「まいってなにが悪いわけ? ろくに眠れなくてごめんなさいね」
「その早口と身振りは変わってないぞ」彼は彼女のまねをした。「オーバーアクション」
「あんたも、あたしを怒らすのはあいかわらずね」利菜は腕をくんだ。秀三が肩をすくめた。彼女の物真似をまだやめない。「あんたはいっしょに働いてるころからいっつもそうよ。あたしがいらついてるのが見えない?」
「感情は見えないし、おまえは怒ると頭がまわる」
「いまはあんたにキレてんのよ」と吐き捨てる。「八つ当たりだけどね」
「それも変わってない」秀三はふくみ笑いをもらす。
「そうね」利菜は嘆息する。「絵本を書き出して、またぞろ上司と部下にもどったわけだし。礼でもいおうか?」
「ごほびに薬を飲めよ」
「いやよ」
「効くかもしれないだろう」
 彼女は本気で腹をたて、きつく言った。「薬を飲むともっと自分がだめになるのよ。にぶくなんの。わかったっ?」
 秀三は彼女の語気に口ごもる。ふざけるのをやめて本腰になったが、方途がなかった。利菜はもともと不眠症になるような性格をしていない。絵本の仕事が終わって、燃え尽き症候群でも出たのか、ライターズブロックかと思ったが、そんなありきたりなもののせいにするには、彼女の症状はおもかった。毎日小一時間と眠れていないし、日頃の挙動もおかしいのである。認めたくはなかったが、精神的な病に見えた。
 不眠症がここまできた以上、薬を試してみるのは良策だと思えたが、当の妻兼部下が拒否している。秀三は腕をくんだまま弱りはてた。
「どうしてやったらいいんだ。眠れない理由がわからないし……ストレスが……」
「ストレスのせいじゃないっていってるでしょ!」
 利菜の大声が、切り裂くように部屋をみたした。秀三は表情を硬くした。
「おい、大声をだすな。純子が起きるだろう」
 二人はだまった。ややあって、彼女は言った。
「起きたからなんなの。あの子はいつでも眠れるじゃない」
 秀三は傷ついた表情をみせたが、顔はふせなかった。
「そんなふうに言うなよ。そこはおまえらしくないね」
 利菜はだまって唇をかむ。不眠症がすすむと、ばかな言葉が出るもんだ。
 秀三はだまってポケットに手をつっこんだ。今度はちいさく肩をすくめた。「仕事はすすんでるか?」ときいた。秀三は、利菜の気晴らしになるかと思い、ライターの仕事をいくつか持ちかけていた。
「ぜんぜん。あんたが編集長じゃなきゃ、とっくにお払い箱かもね」
「心配ないよ」秀三は言った。「おまえは才能あるから」
 利菜は鼻でわらったが、べつに嫌みな笑いではなかった。
「あたしをのせんのも、あいかわらず上手よね」
「ああ」秀三は一瞬とまどうように顔をふせたが、まっすぐにみつめ、「おまえが不眠症でも幻覚をみても。夜中におきておれにあたっても、関係はかわらないよ。いまでも惚れてるからな」
 と秀三は言った。彼の目はつよく、おかげで彼女は彼の言葉を信じた。ときどき率直なことをいって、喜ばすのもかわらないな、と彼女は思った。このところ、二人の関係はうまくいっていなかったが、彼女だっていまでも彼が好きだった。
 秀三が、「おれもストレスが原因とは思ってない。おまえここんとこ、ほんとにおかしいもんな」
 率直なご意見どうも、と利菜は思った。
 二人は思い思いの行動をとった。利菜はポケットに手をつっこむと、プラプラと歩きまわり、秀三はおなじ場所で、踵を浮かせてはおろすのをくりかえし、腕を組んで考えている。
 秀三はやがてぽつりと、「実家に戻るか?」
 利菜は立ち止まり、険のある表情をみせた。「なによそれ」
「純子も春休みだろう。寛ちゃんとこでも泊まって、のんびりしてきたらどうだ?」
「女二人追い出して、浮気相手でもつれこむ気?」と意地のわるい笑顔をみせた。
「浮気相手はいない」秀三はにやけた。「もてるけど」
 二人は互いにうつむいて、にやりと笑った。
 彼らはまた部屋をぶらつきはじめた。ときおり互いに目をやった。
「あんたなに考えてんの?」
「明日の仕事のこと」
「また雑誌をたちあげるんだって?」とあきれたように言う。
「そう」秀三は思いついたようにつけたす。「ああ、心配すんなよな。おまえの助けはいらないから」
「そんなこと言って。仕事がつまったら原稿をまわすじゃない。いつもいつもいっつも」
「腕が落ちてなきゃ、こんども回してやる」
「もちろん落ちてるわよ……」
 落ちこんだ声でいうと、秀三がそっと近づく。「できることがあったら、なんでもするよ」と彼女を抱きよせる。
「不眠症は治せないけど?」
 秀三はすこし体を離して、彼女の額にキスをした。
「不眠症は治せないし、文も書けない。絵もだめだし。だから原稿はおまえに任す」
「頼りにしてるわよ、編集長」
「おれもおまえを頼りにしてる」と彼は言った。「わかるよなあ。お互いさまだってことぐらい」
「もちろん」と彼女は言う。「あたしだってあんたを頼りにしてる」
 秀三が利菜の髪をなでおろす。利菜はほっと吐息をつく。秀ちゃんはまだ私が好きだな、とのんびり思った。いいかげん愛想をつかされるかと思っていた。このところ、八つ当たりばかりしていたからだ。でも、八つ当たりをするところは秀三にだってある。秀三のいうとおり、確かにお互いさまで、まだ互いが必要だった。
「こんな女と離婚したら?」と心にもないことを言った。
「よせよ」と彼が言う。「おれにほれてるくせに」
「ほれてるのはあんたの方でしょ」利菜は秀三の肩をそっと噛む。「一目ぼれだったくせに」
「さきに告白したのはそっちだ」
「最初のデートでせまってきたの誰?」
「それはおれじゃない」秀三が笑った。「別の相手」
 秀三は彼女の背をなではじめた。二人はいつもの言い合いをつづけた。そのうち、彼は体をぴたりとくっつけ、軽く体をゆすりだした。
 彼女の右手をとった。
「なにしてんの?」
 利菜はさもゆかいげに声をたてた。
「おどってる」
 二人はわりと長い間踊った。やがて二人でベッドについた。
 行為を終えたあと、利菜は秀三のとなりで天井をみつめた。
 不安は消えてはいなかったが、いまは安心感も生まれている。彼は彼女と手をつないでる。互いを信じる気持ちは消えていない。二人が仕事上の上司と部下でしかなかったとき、秀三はよくこう言った。「問題が見つかってよかった」そういって、肩をすくめてみせるのである。「なおせばもっとよくなる」
 彼女は眠れなかったが、起きる前より前向きだった。ただ、彼女はこうも思った。悪夢や幻覚の遠因は、このなぜとは知らない不安感にあるのだと。彼女は不安だ。医者のいうストレスなど関係なかった。強い不安を感じていた。
 強迫観念が、空気のように彼女をとりまいている。それでも利菜は、秀三のことを思い、一人娘を思い、あきらめないことを決めた。不眠症だって、いつかは解決するにちがいない。
 ところが、彼女の心中には、あの言葉が浮かんでもいた……世界はねじ曲がっている――という言葉。
 彼女は言った。
「世界はねじ曲がってなんかないよ。曲がってんのはあたしの性根の方」
 結局、彼女は彼女の夫を信じ、彼女自身を信じたのである。問題をかかえるのもお互いさまだが、いままで前向きに解決してきたのだ。だめだったことはあるが、だめにしたことは一度もない。
 利菜はとなりで眠る秀三に、そっとつぶやいた。
「不眠症にはいちばん効果があるわよ」

   二

 事態がうごきはじめたのは、数日後のことだった。その日は、前日からの雨がつづいた。家には、彼女だけがいた。夫は仕事にいき、娘は学校だった。午前十時すぎ、クロネコヤマトの宅配が、彼女に荷物をとどけてきた。
 芝原利菜の郷里は千葉県多賀郡の神保町だが、いまは東京の一戸建てに暮らしている。荷物をおくってきたのは、その郷里にすむ竹村佳代子で、利菜とは幼稚園のころからつづく幼なじみの親友である。佳代子は、これも小学校からの腐れ縁だった寛太と結婚し、十九年がたった今では、二人で自然農園をやっている。
 利菜は中学の卒業とともに、県外の女子校にかよいはじめ、大学も就職も東京だった。神保町とはずっと疎遠だったのだが、佳代子と数人の仲間とだけは、ずっと交友がつづいている。
 利菜は、段ボールを居間まではこんだ。佳代子が、ホームセンターからもらってきた段ボールには、薄く土がついていた。いつものように、野菜を送ってきたらしい。箱をひらくと、新聞紙でくるまれた野菜がある。
 佳代子が野菜をとどけてくるのは毎月のことで、宅配などめずらしくなかったが、今回は新聞の上に封筒がある。茶色の便箋がのっていた。
 佳代子が手紙を? と彼女はいぶかしんだ。用があるのなら、電話をかけてくればいいと思った。佳代子は筆まめな方ではなかったからだ。
 そういえば……と彼女は気がつく。この数ヶ月は電話のやりとりすらしていない。以前は三日とあけずに連絡をとりあっていたのに? 彼女がかけなかったのではなく、向こうからもかかってはこなかった。
 封筒をうらがえした。これといって署名はない。胸騒ぎがした。封筒を机に置きなおす。佳代子にもなにかあったのではないか、という直観がした。不眠症では半年もなやんでいたのに、佳代子に相談する気にならなかったこと自体が不思議だ。友だちは大勢いるが、かくべつ思い入れのある親友といえば、佳代子をおいてほかにない。出版された絵本をまず見せたのは佳代子だし、結婚の報告を真っ先にしたのも佳代子だった。だれにも打ち明けられない悩みも、佳代子になら相談できた。ともに初潮を経験した友人とは、そういうものではないのか? 幼なじみといえば自然とはずかしいところも知ってしまうものだし、なんといっても佳代子は利菜に関する、いろんな秘密をにぎっていたのである。
 彼女は、表に面したガラス戸に目をむけた。そのとき、六人の子どもたちが小雨のなかに立っているように見えたが、気のせいだったようだ。
 彼女は大きく息をついて、封筒に視線を戻した。不眠症がはじまったのが昨年の十二月……三月のなかばからは、夢遊病がはじまった。ロフトに隠れていたこともあるし、庭に出ていたこともある。
 二日前は、風呂場にかくれていた。目を覚ますと、バスタブにうずくまっていた。シャワーからは小雨のように水が落ち、ずぶぬれになって、泣きながら膝をかかえていた。部屋は真っ暗闇だったが、突如として明かりがついた。どこにいるかを悟った。
 バスタブのカーテンはしまっていたが、そこに人影がうつっていた。
「誰……」
 と利菜はつぶやいた。夫のはずはない。輪郭でそれを察した。立ち上がって、カーテンを開けた。
 そこにはずぶ濡れの女が、着物と長い髪をたらして立っていた。彼女は溺死女だと思い、悲鳴をあげ、尻もちをついた。激痛に顔をしかめ、それでも急いで顔をあげたが、そこではカーテンがかすかに揺れているだけで、何もいなかった。誰も。
 彼女はシャワーを止めた。ずぶ濡れの体をみおろした。いつもの幻覚にしてはできすぎだな、と暗い笑みをもらし、服を着替え、台所の椅子にすわり、何が起こったのかを考えた。包丁をもち、何事かを考えながら、ほうれんそうを切った。みそ汁をつくり、目玉焼きをつくり、食卓にならべていると、家族が起きてきた。たまたま早く起きたのよ、と説明した。たまたま不眠症になったし、たまたま幻覚を見るようになったのよ、と考えた。二日前のことである。
彼女自身は、そうした幻覚などの症状には、すべてなにかしらの遠因があるのだと考えていた。無作為におこっているのではなく、ある一定のまとまりがあったからだ。無意識のうちに行動しているときは、なにかから逃げようとしていることが多かったし、例の悪夢も、おなじ内容を、くりかえし見ているようだった。
佳代子の文面は、つぎのようなものだ。
『まいど。ゲンキでやってるか? おひさしぶりです、竹村佳代子でございます。梅雨もちかごろ盛りがついて、こっちじゃあざんざんぶりがつづいてる。ここんとこ、あんたともご無沙汰だったんで、手紙を書こうかとおもう。こっちじゃあ近所の小学生を十人ばかりひきうけて、農園をてつだってもらった。収穫があったんであんたにおくる。そっちはどう? あんたは元気か?』
 佳代子は簡単にご無沙汰だったと書いているが、ここ最近は、メールのやりとりすらしていない。不眠症がはじまってからは、ふっつりと連絡がとだえていたのではないか、と思って、彼女は眉をしかめる。半年もご無沙汰がつづけば、身のうえを心配しだしても、おかしくはない。
 佳代子の手紙はこうつづいた。
『さいきん電話もしてなかったけど、あんたのことは気にはしてる。あんただってあたしのことを気にかけてくれているとは思うけど』
「ほんというと、あんたのことはかけらも思い出さなかったよ……」
 利菜は茶をいれた。手が震えていたので、彼女はますます落ちこんだ。体の病気ならまだ対処のしようがあるよ、と彼女はおもって、熱い玄米茶をひとくち飲んだ。
『最近こっちは物騒でね、ちっぽけな町のくせに犯罪はよくあるし、子どもが連れ去られる事件が頻発して、うちの坊主も集団下校なんてやってる。東京より不安全なぐらいよ。こんな田舎で、割にあわないと思わない? うちの農園も、ちょっかいを出されてまいって.るし。温室のビニールをひっぺがされたこともある。そんなわけで、あんたには聴いてほしい愚痴がいっぱいあるのよ。電話をしたかったけど、それだとうまくつたえられるか自信がない。根暗な話になりそうだしね……』
「だからなにがあったのよ」
 手紙に話しかけながら、無意識のうちにポットをなでた。猫がいればいいのだが、二ヶ月前に家出をして、それきり戻ってきていない。
 一枚目の紙をめくったとき、彼女が目にしたのは、不眠症という文字だった。
『こういう子どもじみたいたずらもたまらないけれど、一番まいってるのは眠れないことなのよ。去年の暮れあたりから寝つきが悪くなってるのに気づいたけど、それがよくならないまま今もつづいてる。いまじゃあ一時間とねむれない。悪い夢ばかりみるし。あんたにだけは打ち明けるけど、幻覚までみるようになった』
 佳代子の文字は急速になぐり書きになり、読むのも難しいぐらいの字面がつづいた。利菜は、苦労しながらも必死によんだ。夢中になってペンをはしらす佳代子の姿が、容易に想像できた。同時に少しだけど、罪悪感を持った。理不尽だが、おなじ悩みをもつ人間をみつけて、どっと安心したからである。
『寛太のやつもおなじだった。別に夜の営みに精を出してるわけじゃないんだけど、眠れないし、幻覚をみてるらしい。つまり夫婦そろって不眠症にかかったというわけ。あたしたちは、そのうち好転するものと思いこみ、たがいにその話しをしなかったけど、症状はだんだん重くなってくるし、黙っているなんて不可能だった。二ヶ月前、あたしたちは悩みをうち明け合った』
「それはうらやましい限りね」
 といらだちをにじませる。彼女には、おなじ症状で苦しむ相手が、そばにいない。
 秀三も不眠症にかかればいいのに。
 佳代子はほんとうに思いつくままに、ひとり思索にふけりながら、筆をはしらせたらしい。手紙はだんだんと、自己独白めいてくる。
『あたしたちは話すうちに、子どものころ似たような体験があったことをおもいだした。たしか小学四年か五年のころだ。あたしたちは不眠症にかかり、集団で幻覚をみるようになった。子どものころそんなことがあったなんて、思い出しても信じることができなかった。不眠症が伝染するなんてあたしはきいたことがないし、そんな強烈な体験を、うっかり忘れたりするものだろうか?
寛太とあたしは、新ちゃんと達郎ちゃんにもこのことを話した。すると、二人も不眠症で悩んでいることがわかった』
 新治と達郎というのは、郷里にすむ尾上兄弟だ。いまも交友がつづく幼なじみたちである。
『症状が出はじめたのはみんなおなじ時期で、悪夢をみるという点でも、共通している。あたしたちはあの夏、おなじような経験をした仲間のことをおもいだした。あたしたち四人をのぞけば、後はあんたと紗英がいる。ふたりも不眠症にかかっているんじゃないだろうか? あたしたちはよくよく話しあったが、あの夏に関するあたしたちの記憶は、ほとんど抜け落ちていた。あたしにはあんたが覚えているかどうか確証がない。だけど、あんたは、あたしたちと、ちがう体験をしている。
 四人であつまって話をするうちに、新ちゃんが、とつぜん思いだしたように立ち上がってわめいた。稲光にあったみたいな顔だった。「あの夏に、利菜が両神山で遭難した」、と。あんたは二十五年前、あの山でひとり遭難した。ちょうどみんなで幻覚をみていた時期だった。二十年以上も忘れていたけれど、でもあたしは思い出すことができた、あたしたちは。あんたはどうなの?』
「おぼえてないわよ!」
 利菜は手紙をなげ捨てた。しかしおぼえていたのである。佳代子の手紙は、彼女の記憶をも呼びもどしていた。朝礼台にのぼる、自分の姿がうかんでくる。それは、無事かえったことを、みんなに知らせる集会だと彼女はさとり、佳代子たちと自転車を走らす姿や、あの子たちと笑いあう姿を思い出す。あのころ――佳代子、紗英、新治、達郎、寛太の五人は、いちばんの親友だった。いまにいたっても交友がつづくほど、親密な友だちだった。だけど、二十五年前に自分たちが抱えた深刻な悩みのことは、すっかり忘れていたのである。
 大人になって、昔のことを話しあうのは、幼なじみの特権だ。しかし、これまでに不眠症の話が出たことはいちどもなかった。遭難のことも。幻覚を見たことも。
 彼女はふたたび外に目をやった。すると、二十五年前の子どもたちが、ずぶ濡れの庭に立っていた。六人の子どもたちが、雨に濡れながら――
 彼女は手紙をとり落とした。
「あんたたち、あんたたちも苦しんでたんだ……」
 と彼女は言った。こわごわしながら、ちらばった手紙をかきあつめる。外では雨が吹きしぶいている。しまい忘れたタオルが、風になびいている。子どもたちは一様に暗い表情をして、彼女をみつめる。あの子たちが寄ってきはしないかと、彼女は不安になる。
 二十五年前の佳代子が、子ども時代の自分のとなりに立っていた。おさげを編んで、そばかすを散らした顔の佳代子。二十五年もたつのに、ここにいる佳代子は、あのころとおなじ格好をしている。デニムのつなぎを着て、両手をポケットに突っこんでいる。なんでも入れられるから、でかいポケットのついたのが好きで、寛太を殴るのが趣味だった。おなじ県営マンションに住んでいた佳代子。兄弟が多くて、いつもめんどうを押しつけられるんだと、腹立ちまぎれに愚痴をこぼした佳代子が、どんよりと濁った目をして立っている。
 あのころ、県営マンションにはあと二人の親友がいて、それが達郎と新治の兄弟だった。達郎はひとつ年上で、リトルリーグのヒーローだった。高校のとき肩をこわして職人の道にすすんだが、当時はプロを嘱望された逸材でもあった。そこにいる一同のなかでは、いちばん背が高い。ほお骨がぐりぐりと突きでて、佳代子にはホームベースとあだ名された。
 達郎のとなりに立つ、ちっちゃなネズミ男が新治である。二人の兄弟はおなじTシャツを着ている。本が好きで、利菜が絵本を書くことを、いちばんに喜んだのが新治だった。のび太がかけるみたいな、まん丸めがねに水滴がつき、彼の目玉はみえなくなっている(あの奥には目玉なんてないんだと思って、利菜はぞっとする)。
 列のはじっこで、すねたように口をとがらせている丸坊主の小僧が寛太だ。小学生当時の寛太は、じいさんに丸刈りにされて、それでいつも坊主頭だったのである。彼の顔をながれる雨の筋は、子どもたちのなかでもいちばん多く太い。喧嘩っぱやくて、神保小では問題児あつかい。けれど、いまではりっぱに仕事をこなして、トライヤルウィークの生徒のうけいれだってやっている。
 反対端にいるのは、紗英だ。中学に入学すると同時に、急速に背をのばし、男の子たちにからかわれた背いたかのっぽの紗英も、このころは利菜たちと頭をならべている。肩までの髪からしずくが垂れている。黒いフリルのついたお上品なワンピースを着てる。彼女たちがママゴンとよんだ母親が、いつもそんな服を着せるのである。
「あんたもなの?」
 と彼女は言った。このなかで町をはなれているのは、自分と紗英だけだった。紗英はいまではスチューワデスになり、世界中を飛びまわっている。結局ママゴンは、この子に足かせをつけるなんてできなかったのだ。線のほそかった紗英も、人一倍の粘りをみせ、文字どおり、あの町を巣立っていったのである。
 新治と達郎は、いまでは二人で木工房を開いている。木にかんするものならなんでもつくってしまう、手作り工場をたちあげたのだ。利菜がデザインを手伝うこともある。二人とも絵の趣味を知っていたし、彼女の腕をかってもいた。
だけど、そこにいる子どもたちにとっては、まだとおい未来の話だった。あのころは大人になるなんて夢にも思わなかった。小学校生活のおしまいなんて、まだまだ考えられなかった。
 一同のまんなかにいるのが、利菜だった。小学五年生の彼女は、ながく髪を伸ばしている。やせっぽちの脚にジーンズがぺったりとはりつく。まつげをとおして雨が目にはいるのか、まぶたをしばたたいている。
「あんたたちみんな……」と彼女は言葉をうしなう。「でも……なんでよ、なんでわたしたちはそんな目にあったの? どうやって解決したのよ」
気がつくと、彼女はいつにない行動に出ていた、幻覚に話しかけ、あまつさえ幻覚に近づこうとしたのである。あれは幻覚じゃないと、なぜとはしらない確信をもった。
 いままで見てきたものも、全部幻覚などではなかったのだと。
 あの子たちの足は、ぬかるみにめりこんでいる、影まであった。溺死女は髪を落としていった。自分のものだとごまかしたが、ちがう。彼女の髪はストレートなのに、あの髪はちぢれていた。旦那がほかの女でもいれたんでしょ、と、笑ってごまかそうとしたのだが、そんなはずはなかったのだ。
 戸口のすぐそばまできて、きゅうに恐ろしくなり、利菜はサッシをあけるかわりに、カーテンをしめた。ガラスに背をくっつけた。心臓がはげしく鳴った。手紙の中で、佳代子は記憶がない、と書いていた。利菜もまた、遭難の日々と、その後の記憶がない。思いだせないのではなく、その部分の記憶が、すっぽりとぬけおちている感じだった。佳代子たちはなにかを思いだした様子だが、彼女にはもどってこないのだ……。
 そのとき、背中ごしで声がした。子どもの利菜がガラスに口をつけ、そっとささやいてくる。「両神山にもどるのよ……」
「帰りなさいよ。あんたはあたしじゃない、あたしの友だちなんかじゃない。あんたたちみんな……」
 みんな? みんな、何だというのだ? 幻覚なのか?
 彼女にはとても幻覚だとは思えなかった。だから、「偽物じゃない……」とそれだけを言った。ひどく、正確な表現におもえた。
 鼻をすすりながら、机にもどった。手紙をおいて、気がおちつくのを待った。秀三がもどってくれば、そんなばかなと一笑にふしてくれるにちがいない。幻覚に話しかけるなんて、ばかだなといってくれるにちがいないと彼女は思ったのだが、読みかけの手紙はまだ目の前にあり、記憶はたしかに戻ってきていた。利菜は紗英の心配もした。不眠症と幻覚があのころの仲間に起こっているのなら、あの子もまたおなじ体験をしていて不思議はない。
 利菜は佳代子の手紙に目をやり、「まいった。頭がいかれたのが、あたしだけじゃないなんて」と額をかかえた。「頼りのあんたまでいかれてるとはね」
 佳代子の手紙を、読まずにたたんで物思いにふけった。そういえば、あのころはみんなが問題をかかえていた。佳代子には片親しかなくて、なのにその母親は娘も知らない男の子どもを産んだ。だから、当時は、佳代子も白い目で見られていた。
 佳代子の母親は、情緒不安定なところがあった。機嫌がよいときはいいが、かっとなると娘に暴力をふるうのである。佳代子はいつも妹や弟をかばっていた。だから、母親の暴力は、もっとも佳代子にむけられた。頬を腫らしたり、体に傷をつくっていることがよくあった。そんなときは、利菜も佳代子の母親に、憎しみをおぼえたものである。彼女は考える。あの子はどうなんだろうか? あの子も母親を憎んでいたんだろうか?
 ガラス戸を、ドン! とはたかれた。子どもの声で佳代子が叫んだ。「もちろん憎んでたわよ! あいつが嫌いだったんだ! 殺してやろうと思ってたんだ!」
「消えなさいよ! 佳代子はそんなこと思いやしないわ! あんたは佳代子じゃない!」
 利菜は、そちらを見もせずに言ったのだが、「ひどいよ……」と佳代子の傷ついた声がきこえたときは、さすがに表に目をむけた。カーテンには人影すら映っていなかった。
 佳代子だけではない、新治と達郎の兄弟だって大問題だった。佳代子も利菜も、当時は自分たちよりあの兄弟に関心をもっていた。他人の問題に目をむけることで、自分たちの問題から、顔をそむけていたのかもしれないが。
 尾上兄弟が、小学二年と三年だったころ、二人の両親が離婚した。母親が子どもたちをひきとったのだが、その二年後には再婚してしまった。あたらしい父親はとてもいい人だったのだが、達郎は大きくなっていたせいか、まるでなつこうとしなかった。ボロアパートに住む本物の父親を、しょっちゅう訪ねていた。泊まることもあるみたいよ、と、当時からゴシップ好きだった佳代子が、話してくれたこともある。
 一方で新治は、あたらしい父親になつくようになった。家族がうまくいくよう、新治なりに心をくばっていたようで、そのせいか、彼は他人の顔色をひどく気にする子どもになっていた。兄弟はいまでこそ同じ仕事についているが、あのころはうまくいっていなかったのだ。話もせず、顔をあわせることもなく、互いにさけているようだった。別に、どっちがどっちになつこうが、かまわないと思うのだが、二人は子どもだったから、お互いにどう接していいかわからなかったようだ。その後、どうやったか知らないが、あの兄弟なりに折り合いをつけたわけだ。
 紗英はカナダからの帰国子女だったが、やはり両親がうまくいっていなかった。カナダにいたころは仲良くやっていたそうだが、工場が倒産し、家族が日本に戻ってからは、父親は家に寄りつかなくなっていった。あの子の母親は、娘にすべての関心をそそぐようになった。そうしないと、娘も離れていくというかのように。紗英を規則と塾でしばりづけにし、友だちにすら口を出した。暴力こそふるわなかったが、ヒステリーで、言葉で紗英を傷つけた。
両親が離婚したのは、寛太のところも同じである。寛太は鷹揚で、男っぽいところのあるやつだったが、なにかの拍子にひどくひねくれた面を見せることがあった。学校で喧嘩をしては、じいちゃんが呼び出されていた。利菜たちが彼の家に泊まりに行くようになってからは、乱暴も少しはおさまったが、あいかわらずのじいちゃん子で、母親にあまりかまっていないようだった。子どもが母親にかまうとは、おかしな言い方だが。
「あんたはどうなのよ……」
 子どもの利菜の声が、すぐ近くでした。
「そうね、わたしも問題はあった……」
 彼女は悲しい気持ちでおもう。子どもの頃はひどい貧乏で、あの町ですむ最底辺のぼろアパートで暮らしていた。県営マンションにうつる前のことだ。中野区の克美荘というところにいた。父親はあまり働かず、職を転々とした。母親はいつも苦労していた。妊娠もしていた。
 彼女はいまでもあのアパートを思いだす。割れたガラスをテープでとめた窓、きしむ床、暗い階段、そこに住む零細な、人、人、人。トイレは共同で風呂はなく、洗濯機は表にあり、二階建てで、瓦屋根で、廊下は窓にせっしていて、明るいがすきま風に底冷えがした。春よりも冬の木枯らしが似合い、日中の日差しよりも夜の暗がりが似合う。貧乏な学生が騒ぎ、おばさんたちは母親をいじめた。
「片桐さん……片桐さんにいじめられてた」
 片桐さんには、髪をきってもらった思い出がある。彼女が三つの時である。ざんばらの髪にされたのか、虎刈りにされたのか(まさかそこまでひどくないだろう)、いまとなっては思い出せない。けれど、母親が頭を撫でながら、泣いていたのを覚えている。学生たちが怒ったが、片桐には文句すらいえなかった。あのアパートでは、主のような存在だった。片桐の亭主はいい人ではあったが、嫁には文句もいえずに小さくなっていた。母親は、あそこで流産をした。
そのうち父親が、県営マンションのくじを引き当て、暮らし向きは好転した。父親は仕事についた。二人はいまも問題を抱えながら、あの県営マンションに暮らしている。
 だけど、あの年に佳代子の母親が子どもを産んだ。利菜の母親が信子という名前をつけた。生まれるはずだった、子どものために考えていた名前だった。そのせいか、夫婦の仲はふたたび冷めはじめた。利菜はまた、克美荘にもどるのではないかと、恐々としたものである。
 彼女はまた思いだした。あの頃、母親は新興宗教にはまっていたのだ。なんという名の宗教だったか?
 当時、彼女たちはそれぞれの問題をかかえ、そのために結束をつよくした。互いに問題を抱えた仲間をそばにおくことで、安心していたのかもしれない。小学五年生の利菜にとって、あの子たちだけは本当の仲間だったが、集団で不眠症や幻覚にかかるなど、いまの彼女には考えられなかった。手紙に目をおとし、佳代子が両神山と不眠症をむすびつけたように書いているのを、不思議に思った。
 とりとめのない考えに、自分でもとりつく島をなくし、手紙をひらく。ごくりと唾をのみながら、つづきを読みはじめる。
『当時の事件をおぼえていたのは寛太だった。あたしたちは、少しずつ記憶をとりもどしていった。あたしたちはまわりの状況も、二十五年前とにかよっていることに気がついた。あのころも、神保町とまわりの町では、犯罪が多発していた。行方不明や、傷害事件がかなりあったし、それに両神山では殺人事件があった。あんたが遭難したときは、殺人犯にさらわれたと噂がたったほどだ。あの山で死体が発見されたのは、遭難の直前だったんじゃないかと、慎ちゃんはいっていたけど。
 ねえ、あたしたちこの話題を二十年以上も口にしなかった。子どものころのことは会えばかならず口にするのに、このことは話題にすらのぼらなかった。だって思い出すことすらなかったんだから!
寛太が遭難事件を思い出したのは、今回もあの山で殺人事件が起こったからだった。亡くなったのは六十代の男性で、林の中で絞殺されていた。テレビでもちらっとやったし、新聞にもちいさく載った。狭い町でのことだから自然に知ってはいたのに、あたしたちは四人であつまるまで、あのころのことを思い出すことができなかった。それで、あの日、寛太のやつが言いだしたのだ。両神山に、いまから行こうと』
 手紙をもつ手がふるえた。彼女は指のふるえにすら気づかなかった。佳代子たちは両神山に出かけたのだ。
 子どもの頃は、あの山にたびたびピクニックに出かけた。中腹には草原があり、そこへ家族ぐるみで出かけた。草原にはアスレチックがあり、確か山道にはハイキングコースもあった。
 吐息をみだし、額の汗をぬぐう。
 さきほどカーテンをひいたので、部屋はうす暗くなっている。立ちあがって電気をつけると、部屋の戸口に誰かがいて彼女は悲鳴をあげたが、つぎの瞬間には人影はきえて、彼女はいま見えたのは、野球帽をかぶった子どもの水死体だったのかと、推測をめぐらすばかりだった。
 すわりなおした彼女が目にしたものは、畳の上にできた、水たまりだった。
 佳代子はあの夏に、殺人事件が頻発した、と書いてる……この幻覚も、あの夏と関係があるのではないか。水死体を、見たことがあるんだろうか?
 利菜は呼吸をととのえた。冷や汗がひくと、また手紙に目をおとし、佳代子の打ち明け話にもどっていった。
『両神山には二十年間出かけてない。あんたの事件があってからは、いちども。子どもを行かせたこともない。あの山のことはずっと忘れてたのよ……。
両神山につくと草原はすっかりさま変わりして、ロッジがいくつも建ちならんで、いつの間にかキャンプ場になっていた。信じられる? ロッジはかなりでかく、小中学の林間学校のチラシが貼られている。記憶にあった場所と、ずいぶんちがうんでめんくらった。小川だけが、昔とおなじとこを流れてた。流れに沿って石がそえられていたし、アスレチックも新しくなっていた。駐車場の脇には、でっかい管理施設も建っていた。子どものころはジュースも買えないって不満をもらしたものだけど、いまでは販売機もあるし、ジュースどころかビールもたばこも買える。食堂もできてたわ。
 平日のせいか管理所はしまっていて、話を聞くことはできなかった。あたしたちは草原をみてまわった。子どものころはだだっぴろく感じたけど、大人になってきてみると、狭くなったように感じた(本当は杉を切り倒して、丘を広げてしまったらしい)。
 新ちゃんはこういったわ。キャンプ場のパンフレットは前に見たことがあるって。だけど、両神山のことだとは気づかなかったし、行こうとも思わなかった。彼、アスレチックには興味あるじゃない? 達兄とくんで、神保小の校庭に寄付もしたよね。だから、見にいきもしなかったのは、不思議だっていっていた。
 あたしたちはロッジの間をぬけて、斜面をのぼった。あたしはおまもりさまの蔓壁がなくなってるのに気がついた』
「おまもりさま……」
 彼女は肘をついて両手で顔をおおった。草原の上にある杉林いったいを、地元の人は、おまもりさまと呼んでいた。
 林と草原の境界には網がはられていた。そこに低木と杉の木から垂れた蔓草が何重にもからみつき、ぶあついカーテンのように、林の縁をおおっていた。彼女たちは見たままの印象から、「蔓壁」、と名づけたのである。
 大人は、子どもたちが、おまもりさまに近づくのをいやがった。そうして蔓壁は子どもたちを林から遠ざけるのに、格好の役目をはたしていた。あそこにちかづくと、大人たちが大あわてで飛んできた。休日に人があふれかえるようになっても、林の縁にござを広げる人はいなかったし、林を切り倒して、草原をひろげようなどという、環境破壊団体もいなかった。奥には沼地があるという話だったし、まむしも出たからである。蔓草を刈りこもうとしないのは不思議だったが、子ども目にも、うす気味がわるかったのを覚えてる。
 佳代子はおまもりさまのことを、ひとしきりつづっていた。
『子どものころは草原がかっこうの遊び場だったけど、大人になって来てみると、怖くてしかたなかった。山にいるのはあたしたちだけだった。草原は静かだった。鳥の声が、いやによく聞こえた。蔓壁がなくなったせいか、あたしにはおまもりさまが口をあけて待ちかまえているクジラにみえた。あんたには、馬鹿代子と笑いとばしてほしい。だれが蔓を切ったのか、聞いてみたかったけど、てぢかには人がいなかった。管理所にも人をおいてない。閉鎖されたわけでもあるまいに……。
 あたしたちは林にはいってみるか話しあったけど、無人のロッジはなんとも不気味で、尻ごみをするまま帰ってしまった。
不眠症とあの山が関係あるのか、あたしにはなんともいえない。だけど、二十五年前のあんたの遭難と集団幻覚は、ときをおなじくして起こってる。
寛太は、あんたがあの事件のことは覚えてないんじゃないか、といってる。手紙を書くのも反対していた。あんたまで不眠症にかかってるなんて、ばかげた話だと寛太は言った。あの人らしくはないけれど、そんなふうには考えたくもない様子だった。だけど、いままで音信不通だったこと自体、あたしにとっては不安だった。
 あんたの身になにも起こっていないのならいい。だけど、もしあんたの身にあたしたちとおなじことが起こっているんなら、気をつけてほしい。あんたの身におこってるのはたんなる不眠症ではないし、幻覚にもよくよく注意すること!
 どうにもならなくなったら電話しておいで。あたしたちはあんたの味方だし、なにが起こっているか理解もできる。もしかしたら、あたしの方があんたを必要としているのかもしれないけど。
 まわりがたとえ頼りにできなくとも、あたしのことだけは、頼りにしてほしい。以上』
 読みおわると、最初のページを上にした。彼女は手紙をにらみつけながら、これは容易ならないな、と考えた。佳代子は長々と書いているが、なんのことはない、これは警告の文面なのである。
 あんたはなにを思い出したの? と、利菜は佳代子に問いかけた。事件のことを思いだすために、山にいったはずなのに、手紙は核心にはふれないままに終わっている。なにも思いださなかったとは、考えられない。佳代子は手紙の文面を、こんなかたちで終えていたからである。
『最後にひとつだけ。ひまわりは咲いてなかったわ』
 ひまわり? 草原にひまわりなんて咲いていただろうか?
 手紙を読みかえしながら、彼女はこうつぶやいた。
「あの山でなにがあったのよ」
 佳代子の心配のほどが理解できた。電話をかけてこなかったのは、慎重に慎重を重ねたかったからだろう。そうでなければ手紙をよこすはずはない。
 佳代子のやつ、あたしも山に行くなんて言いだすのを怖がったんじゃないだろうか?
 殺人事件のことをたしかめるために、置きためた新聞をとりにいきたかったが、なかなか。腰をあげるには勇気がいった。手紙を読むあいだも、見られている気配を、ずっと感じていたからだ。
 表にはぜったいに顔をむけないと決めていたが、居間の畳には、子どもたちの人型が、長く影をおとしていた。電話が必要になるのはまもなくらしい。
 そうして、娘がもどってくるのを心待ちにしながら、彼女はたちあがろうともせず、佳代子の手紙を何度も何度も読みかえしていった。
 そこに、隠されたメッセージがあるというかのように。
 今夜は、ますます、眠れそうになかった。

  • 筆者
    h.shichimi
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