ねじまげ物語の冒険 縦書き 冒頭チラ見せ!

第一部 果てしない物語の果てしない始まり


第一章 恐怖の院長とほらふきな男爵について


 その一 養護院みろくの里の実体について


   1


 果てしない夜の森のなか、洋一少年が思いをはせていたあの日というのは、冬も間(ま)中(なか)の寒い夜のことだった。
 その日、古い石油ストーブの前で、彼は毛布にくるまっていた。外をわたる風に、洋館の窓はゆれていた。そうしてただ一人、お気にいりの本を膝におき、クリームパンと瓶詰めの牛乳に手をのばしていたその間に、彼の両親は、この世の人ではなくなった。手の届かぬところに、行ってしまったのである。
 警官が訪ねてきたのは、洋一が、そろそろ時間の遅いのを、心配しはじめたころだった。
 玄関に応対に出て、そこで三人の警官から事情を聞いた。聞いているうちに、彼の手からは、牛乳とパンと、毛布が落ちた。ほとんど飲み終えていた牛乳が、床にこぼれ、その白い液体は、彼の真っ白になった脳裏に、いやに強く焼き付けられた。
 いやな予感がした。
 彼は毛布をもったまま、警官に誘われた。パトカーに乗るのは初めてだった。隣にすわる警官たちは、いたわりの目を向けていた。
 パトカーは、サイレン音を鳴らしもしなかった……


  2


 洋一は病院までつれていかれたが、両親には会わせてもらえなかった(二人の体が、すっかり燃えたことを知ったのは、ずっと後のことである)。
 洋一のまわりで、時間だけが呆然と流れていった。両親の死を受け入れるには、彼はまだ幼すぎた。相談をしようにも、となりにいる警官は、洋一にはちょっとばかりおっかなかった。友達に電話をしたかったが、夜も遅いし、どこからどこにかければいいのかもわからなかった。電話番号の、控えすらない。
 洋一は、父さんと母さんはまだ手術室にいて、まだ治療を受けているにすぎないんだと、そんな考えにしがみついた。呆然とはさきほど述べたが、彼の脳みそは、大部分が、考えることを放(ほう)棄(き)したかのようだった。
 やがてそんな時間も過ぎ、病院の安置室の長椅子にすわりこむ洋一の前に、役所の人間が現れた。彼らはもう、あの屋敷には住めないこと、法律により、養護院で暮らさねばならないことを告げた。洋一には、 親戚がいなかった。彼の唯一の身内は、安置室にいるから、独りぼっちになったわけだ。肉体的にも、精神的にも……。
 役所から来た女は、足立という名前で、きれいだが冷たい感じのする、背の高い女性だった。冷えきっていたのは、洋一の身と心の方だったから、そんなふうに感じたのかもしれない。
 ともかく、洋一は病院をでると、その人の車に乗せられ、いったんは、自宅の図書館までつれもどされた。服や身のまわりの品を、持っていくためである。
 足立は屋敷までの道々、養護院はどんなところか、そこではどんなふうに暮らさねばならないかを話してくれた。また、屋敷にはときおり戻っていいこと、そのおりは養護院の院長を通し、自分に連絡をつけることを約束させた。鍵は私が持っておくから、心配しなくていいのよ……。
 車のヘッドライトは、夜の無機質な街を照らしていた。車はゆっくりだとも、速かったともいえる。時間の感覚が、なかったのだ。
 洋一は足立の方は見ずに、窓の外ばかり向いていた。外に知り合いがいないか、友達が呼び止めてくれはしないかと、そんな姿ばかりを探していた。
 ときおり足立の車は、柳やんやカッツンの家の前を通ったが、どの家並みも明かりは消えていて、彼の期待した友人の姿は、どこにもなかった。

 屋敷につくと、洋一はわざとゆっくり自室に向かった。後ろから足立が屋敷を見回し、感嘆の声を上げるのが聞こえた。家具や、造りの広壮なことに驚いたのである。屋敷だけを見ていると、洋一の家は、とほうもないお金持ちだと人は思うのだが、じっさいにはつつましやかな生活だった。
 洋一は旅行用のバッグを探し出し、子供の頭でいるだろうと思われるものを、バッグの中にほうりこんだ。その間も、外で物音がするたびに窓に駆け寄り、両親か、あるいはクラスメートの姿をさがした。そのたびに、ガッカリしては引き返すのだった。
 阿部先生は、なんでこんなときにかぎってきてくれないんだろう。今が一番肝腎なときじゃないか、文化祭や体育祭より大事なときだと、彼は思った。
 洋一は、パンツをたくさんと、ズボンを少々、セーターを一枚用意した。たまに戻ってこられると足立は言っていたから、ゲームやおもちゃは持っていくのを控えることにした。養護院がどんなところかわからないし、ノリさんみたいな嫌なやつがいたら、ゲームをとられないともかぎらない。
 それから、養護院はどこにあるんだろう、これまでの学校に通えるんだろうかと不安に思って、最悪の結果を予想した。だから、足立に訊くのは控えることにした。たびたび戻ってきたかったから、わざと置いていったものもあった。帰るときの、口実になるように。
 つまるところは、こういうことだ。
 洋一は、ちょっと待ってよ、と言いたかった。車に乗っている間も、カバンに服をつめている間も、ずっとそう言いたかった。足立が、もう屋敷にはなかなか戻れないだろう、とか、はやく新しい親御さんが見つかるといいのだけれど、と言っているときは、とくに強くそう言いたかった。彼にはろくすっぽわけがわからなかった。人が死ぬだとか、両親にはもう会えないだとか、こんなときの世の中の仕組みだとか……
そんなことを理解するには、彼の心は柔軟でありすぎたのかもしれない。だけど、洋一だって、もうどうにもならないということは、わかっていた。
 荷造りはすんだ。足立の車はゆるやかに発車して、屋敷につづく坂道を、ゆっくりと下った。洋一はシートにへばりつくようにして、その道と屋敷を、視界におさめつづけた。
 自宅のある丘を離れ、あの林が見えなくなると、洋一はゆっくりと前をむいて、座り直した。


   3


 養護院みろくの里は、三十人ばかりの子供たちを収容している。院長の自宅は、その邸内にあって、問題が起これば、いつでも駆けつけるというわけである。
 さて、洋一をこの養護院に送ってきたものの、足立はこの院に、洋一を預けるのは気が進まなかった。この辺りには、他に市立の養護院がなかった。みろくの里は評判がよかったけれど、それはこの院が、どんな子供でも預かるからだった。みろくの里がいいと思っているのは、足立の上司だったが、その人たちは、みろくの里には来たこともなかった。事務処理も子供たちの世話も、足立が一人でやっていた。だから、現場をのことを詳しく知っているのは、足立だけなのだ。
 足立はインターホンを押した。扉は、すぐに開いた。鼻にドアがぶつかりかけた。扉の裏で待ちかまえていた男が、急にドアを開けたのだった。
 洋一は、クラスでもとくに、後列から三番目に背が低かったが、院長は背が高かった。洋一が見上げると、八の字の髭(ひげ)が、にょきりにょきりと、立体型にくっきり見えた。
院長は、女性にも洋一にも、注意を払わなかった。酔っているようだった。
 足立が、どぎまぎした様子で言った。「団野院長、夜分遅くにもうしわけありません」
「ああ、まったくだな」
 院長は言った。
「こちらは牧村洋一君ともうします。あの……院長、聞いてらっしゃいます?」
「それがどうかしたのかね……この子は孤児なんだろう」
 と、院長は、急に高くなった声でそう訊ねた。
「そのとおりですが、院長」
 足立が院長の肘をとり、洋一から離れるような仕草をみせた。彼らは玄関の奥に寄った。院長は、足立の話を少しだけ聞くと、洋一に向かって身をかがめた。
 洋一は、院長の肌から、日本酒の臭いをかいだ。彼の父親はワインやウィスキーを好んだ。なんだか嗅ぎなれない、いやな臭いだと、洋一は思った。
「牧村」
 と団野は言った。洋一君、とも、洋一、とも言わなかった。名字で呼ばれたので、洋一が感じていた団野院長の冷たい感触は、よりいっそう強くなった。
「親が死んだのか? 君には親戚がいないのか? 独りぼっちなんだな?」
 院長は最後の、独りぼっちなんだな、を、噛み締めるようにゆっくり言った。洋一は、答えることができずに、ひゅっと息をのみこんだ。
 洋一は、足立にこう言いたくなった。
 ぼくを連れて帰ってください、ここに残したりしないでください、この人と、二人きりにしないで下さい!
 そんなことを言ったら、院長はどう思うだろうか? 最後に感じたこの思いで、洋一は胸に渦巻くその言葉を、口にすることだけは踏みとどまった。洋一は虐(ぎやく)待(たい)を受けたことはないが、虐待のなんたるかは知っている。
 洋一はこわばった顔のまま、小さく幾度かうなずいた。院長の髭だけが、うれしそうに笑った。
 洋一は、よりいっそうの不安を覚えたのだった。


   4


 足立は去っていった。
 彼女は去り際に、気をつけてね、と洋一に言いたかったが、そんな失礼なこと、院長の前でいえるだろうか?
 団野院長が玄関を閉めた。団野院長は、目の前に立った。
 洋一は、扉と院長にはさまれた格好になる。洋一には、院長のズボンとチャックしか見えない。背の高い人だな、と思った。ぼくが小さすぎるのかな?
 次の瞬間には、洋一は顔を平手打ちにされ、タイルの上に尻持ちをついていた。なにが起きたのかわからずにいるうちに、鼻血が垂れ落ち、彼の服に、赤い染みを、一つ、二つともうけていった。
「夜分遅くに申し訳ありません」と、院長は上目遣いで、足立の口まねをした。「まったくだな。礼儀がなっとらん。失礼じゃないか。そうは思わないか? わたしは寝ていたかもしれない。酒を飲んでいたかもしれない。女と淫(いん)行(こう)をしていたかもしれないではないか。そうは思わないか?」
 と、訊きながらも、院長の目は洋一を通り越していた。地球の中身でも、覗いているかのような、心ここにあらずな目……
 洋一は、震えて黙りこんだ。両親が死んだのだって、彼にとっては、口も利けないほどショックなことだ。骨が砕けるほど、強烈な平手打ちを食ったのだって、初めてだ。彼は父さんにはぶたれたことはなかったし、母さんにぶたれたのだって、もういつのことだったか、思い出せもしないほど。それに、院長は手首付け根の硬い骨で、洋一のあごを正確に打った。彼のダメージは、脳みそにまでおよんで、いまだにぼうっとしている。その意味では、あの瞬間だけは、院長の足下は確かなものだったといえる。
 院長の目の焦点が、ようやく洋一を探り当てた。洋一は、院長の目玉に、怒りの熱気が揺らめくのを見た。
「お前はあいさつをしらんのか……」
「はい……?」
「はい? イエスなのか? そうなのか……」院長は洋一の襟首をひっつかむと、むりやり立たせ、「悪い子だ。すごく悪いじゃないか。うちじゃな、悪い子には折檻することになってる。折檻しないと、子供はいいことと悪いことを覚えないんだよ! なぜなら、子供には理屈を言っても無駄だからだ!」
 院長は酔っているとは思えない力で、洋一の体をドアに向かって放り投げた。
 硬い樫のドアに、背骨が跳ね返され、内臓が、胸から飛び出るほどの衝撃を受けた。
 洋一が、咳きこみうずくまっていると、院長は間も与えずに髪をつかみあげ、
「悪い子だ悪い子だ、覚えろ、覚えろ、しつけを覚えろ! 俺にあったらあいさつをすると!」
 大声で叫びながら、洋一の頭を扉に打ち当てはじめた。洋一は脳みそを揺さぶられ、考えることもできない。ようやっと考えられたのは、今日繰り返しつぶやいてきた言葉で、これは夢だ、の一言だった。
「みんな、なんでも俺に押しつけやがって、市の補助金なんてくそくらえだ」
 院長は、最後に洋一の体を、ボールみたいに床にたたきつけた。
「くそくらえだ」
 そう言うと、彼は立ち去ったのだが、恐怖と痛みに震える洋一の目には、院長の足下しか見えなかった。


   5


 骨が折れたんじゃないかと思った。肩甲骨や肋が、ひどく痛かった。こんなふうに痛めつけられたのは初めてだ。友達と喧嘩をしたことはあるが、それは痛めつけられたなんて言わない。院長は大人の圧倒的な力で、彼をおもちゃみたいに扱った。ゴミやボールをほうるみたいに、洋一の体をほうり投げた。
 だけど、洋一が本当に、冷凍庫に放りこまれたネズミみたいに震えだしたのは、鞭(むち)を持ってもどってくる院長の姿を目にしたときだ。こんな恐怖は、これまでなかった。
「おしおきだ」と院長は言った。「おしおきだ。言うことをきかないやつは御仕置きだ。しつけのなってない子はお仕置きだ! 俺様が悪いお前を、とことんこらしめてやるぞ。腕を出せ!」
 院長の持っている鞭は、乗馬につかう、短いが威力の鋭そうなやつだった。それを、びゅん、とふるわせる。鞭が棚にぶつかり、木枠が裂けた。
 洋一は、扉まで後ずさると、腕を体の後ろにかくし、
「ぼくはなにもしてません!」
 と泣きながら叫んだ。
「いやしている」
 院長は、壁にかかった額縁の絵を、鞭で打った。分厚い紙が、斜め一文字に、きれいに裂けた。
 洋一は、ぼくのほっぺもあんなふうにさけるんだ、と震えた。生まれてはじめて、どんなことでもするから、許してほしいとさえ思った。
 院長は鞭の端を両手で持ち、仁王立ちした。
「お前は甘ったれてる。その証拠にあいさつもろくにできない。俺の睡眠のじゃまをした。酒を飲むのをじゃまをした。うちの院では、そういう小僧は、きつくしつけるんだ。俺はそのためにお前を預かっている。両親にかわって、お前をしゃんとしてやるぞ、とことんだ!」
「あやまります!」
 洋一は言った。院長はハッとしたように、しゃべるのをやめた。天井を見ていた目を、水平の位置までおろした。それでも、洋一のことは見ようとしなかった。
「悪いことしたんならあやまるよ。だってぼく、こんなところに連れて来られるなんて知らなかった。ぼく……」
「知らないことが罪なんだあ!」
 とたんに院長が駆け寄ってきて、右のつま先で、みぞおちを蹴り上げた。痛みで息がつまる、横隔膜が引きつって、空気も吸えない。
「知ったふうな口をきくな! 知ったふうな口をきくな! 子供は大人のいうことを聞けばいいんだ!」院長は叫びながら、なんどもなんども足を踏みおろす、洋一の体めがけて。「そうしないと、まちがうだろう! 誰かが、お前たちを、しつけなければ、世の中は、どうなる? むちゃくちゃに、なってしまう。そう、ならない、ために、しつける、役目が、大人には、あるんだ!」
 院長は酒に酔った荒い息を吐き、洋一を見下ろした。「腕を出せ」
 洋一は、震えながら丸まっている。泣きながら言った。
「おしおきならもう受けた。もういいでしょう!」
「なんだその口の利き方は?」
 洋一が見上げると、院長はあまりのことに呆然としているようだった。そんなふうに反論されるのは、さも心外だと言いたげに見下ろす。
 焦点が二転三転して、洋一の目線と合った。
「誰にそんな口の利き方を習ったんだ?」
「誰でもいいよ! ぼくの父さんは、ぼくを叩いたりしなかった……」
「いまは、俺がお前の父さんじゃないか」
「お前なんか、ぼくの父さんじゃない……」
 洋一は泣きながら、そっと膝元に顔をうずめていった。そうしたら、体が小さく丸まって、消えてしまえるみたいに。
 院長はうなり声を上げながら、踵を、洋一の後頭部に振り下ろした。院長は飛び上がると、お尻から彼の背中に落ちた。あまりの衝(しよう)撃(げき)に、洋一の体が伸びると、こんどは右足の上で地団駄をふみはじめた。
「こい」と、院長は洋一の腕をひっつかみ、彼の体を引きずりだす。「二度とそんな口の利けない子にしてやるぞ! 俺にそんな口をきいたやつがどんな目にあうか、お前の体に焼き印をおしてやる!」
 洋一は、意識がもうろうとして、逃げなきゃ逃げなきゃと思うのに、頭が扉や壁にぶつかってもどうにもできず、その身に起きたあまりに理不尽な出来事のために、軽い緊張病を起こしていた。彼は痴(ち)呆(ほう)のように口を半開きにし、よだれを垂らしていたのだが、院長が煙草を束にして丸め、それに火をつけだすと、急にシャンとなった。
「どうするの?」
「吸うと思うのか?」
「ぼ、ぼくにそいつを押しつけたら、きっと黙ってないぞ」
「誰がだ?」
 院長は洋一を見下ろした。真剣な目で。
「誰が黙っていないんだ。お前の親は丸焦げになって、ずっと黙ったままだ」
 それが、さもおもしろいジョークだとでもいうかのように、一笑いした。洋一が泣き始めると、拳で彼の頭をこづきはじめた。
「泣くな、こいつ。男だろう、男だろう、男だろう。鍛え直してやるぞ、お前を俺が鍛えなけりゃあ、そうとも、とことん、とことんやらなけりゃあ」
 煙草に火がまわった。十本ばかりが重なり合い、その先端の火(か)口(こう)は、赤い火の玉に変わった。
「誰も助けなんてこないんだぞお。それなのに、俺に逆らうってことが、どういうことなのか、こいつで体に刻みこめ!」
 洋一は逃げようとしたが、院長は彼の頭を床に押しつけている。洋一は、痛みとあきらめの気持ちも手伝って、抵抗らしい抵抗もできなかった。
 院長は彼の背中に、服もめくらず、火のついた煙草を押しつける。洋一の耳に、服がとけるジュウッとした音が届き、彼は皮膚が焼ける痛みに、声をかぎりに絶叫した。
 洋一は信じられなかった。こんな痛みも、自分がこんな声をだしたことも。彼がちょっとでも怪我をしたら、心配してくれる母さんがもういなくって、見知らぬ男に煙草の火を押しつけられていることも。
「どうだ! 誓え! ここに神に誓って誓約しろおっ! 二度と俺には逆らわないと! この院で起きたことは絶対に口外してはいけないんだぞお! みながそうしてきたように、お前も誓えええ!」
 誓う! 誓います!
 洋一は自分の喉がそういうのを聞いた。服や皮膚だけでなく、頭の中にも火がついたかのようだった。
「いい子だ」
 院長の体が離れた、洋一は、ぐったりと床にしなだれた。
 しかし、院長は手にした煙草の幾本かに火が消え残っていることに気がついたようで、その火を消すのに、灰皿ではなく、洋一の体をつかうことを思いついたようだ。
 院長は、消え残しの一本を、洋一の右手に押しつけた。新しい痛みに苦(く)悶(もん)する洋一の耳で、もう一本。こめかみでもう一本。そして、親指の爪に一本ずつ。
「お前は、しばらく外に出ることを禁ずる。この家の部屋に閉じこもってろ。いいか、体の傷を誰かに見られたら、俺が困るんだ……」
 ぼくの体を傷つけたのは、院長じゃないか……と、洋一は心で、悲鳴混じりの非難を上げた。


   6


 洋一は、自分が気を失っていたのか、そうでないのか、後になっても思いだすことができなかった。だけど、院長が彼の手を引き、廊下を引きずっていた光景を覚えているということは、完全に気絶していたわけではなかったらしい。ともかく、院長は自宅の物置に連れて行くと、その部屋に彼を押しこめた。それから、忙しくて放尿のことを今の今まで忘れていたみたいに、壁に向かってしょんべんをした。
 足下に、飛沫(しぶき)が飛んできた。
 その後、院長は洋一の元にもどってきて、テーブルに紙とペンを用意した。書け、と、彼は言った。
「お前がここで暮らすための誓約書だ。言っておくが、これはれっきとした法律にのっとった書類なんだ。汚すなよ」
 と院長は言った。
「お前は、ここで起きたことを誰かにしゃべってはいけないし、俺に逆らってもいけない。養護院の仲間とはうまくやれ。掃除や雑用も、すべてお前に課せられた義務だ。うちではな、子供には労働の義務があると見なしている。お前は働いて、金を稼がねばならん。お前が食う飯のための金を、お前の親父や母親が稼いだみたいに、今度はお前が稼ぐんだ。ここに名前を書け」
 院長は、洋一に紙に書かれた内容を一通り読ませたあと、誓約書の下にある署名欄に、名前を書かせた。
 そのあと、院長が懐からカッターナイフをとりだしたので、洋一は、あ、と声を上げた。
「心配するな。判を押すだけだ」
 と言いながら、院長は、彼の親指を切り裂いた。
 カッとした、痛みがあった。かと思うと、洋一の親指に、見る見るうちに、血があふれ出してきた。
 院長は、指にたっぷりと血がついたことを確かめると、名前の横に拇(ぼ)印(いん)を押した。
「これでいい。これでお前は正式にうちの院生となった。お前は以降十年間をここで暮らすんだ。これからは、俺と養護院の生徒がお前の家族だ」
 院長は誓約書を掲げた。
「逃げ出してはいけないと書いてある」
「誓約書に違反したら、どうなるの?」
 洋一は怖ろしかったが、どうしても訊きたくて、その質問を口にした。それに、これ以上は痛めつけようがないんじゃないかという、期待があった。
 院長は、さも心外なことを聞いたと言いたげに、
「それは法律違反じゃないか……そんなことをしたら、どうなると思う?」
 洋一は、うなだれて答えなかった。
「お前は裁判にかけられて、刑務所に入ることになる」
 院長は、保証すると言いたげにうなずいた。それから、洋一の頬をはりとばした。
「そこはここなんかより、何十倍も怖ろしいところだ。そこに入らないためなら、なんでもするという気分に、お前はなる。養護院を変わりたいなんて、そんなことは思ってもだめだ。そんなことはできない。世話になった俺にたいして、失礼じゃないか。シャンとした俺様が、お前をシャンとさせてやっているというのに。第一どこも似たようなものだし、どこよりもうちがましだからな」
 院長は立ち上がると、扉に向かっていった。
「お前はここにいるんだ。俺の許可がないかぎり、一歩も外に出てはいかん。出るかでないかは、傷の治り具合をみて俺が決める。もし、規則をやぶったときは……わかっているな?」
 院長は部屋を出ていった。出ていくときは、洋一を見もせずに、こう言い残していった。
「養護院、みろくの里に、ようこそ」


その二 ほらふき男爵、かく現りき


  1


 暗闇だった。その闇の中で洋一が覚えているのは、体の痛みと心の痛み、院長の放ったアンモニアの臭気。日本酒のまじった、あの臭いときたら……。
 時折身じろぎをしたが、その身じろぎすら、体に走る激痛のために、苦痛ですらあった。彼は、暗闇のなかで涙した。院長の痛烈なことばの数々は、受け入れるべからず両親の死を、むりやり喉に押しこんだ。もう二人には会えないんだ、と思うと、つらかった。自分もこの世から、消えてしまいたかった。
 これからは、自分が家族だ、と院長は言った。洋一は、「あんな家族なら、欲しくないよ……」と、闇の中で答えた。
 洋一は闇の中に横たわったまま、夜が明けるのを待った。夜が明けたとて、ここを出られるわけでもないのだが、院長に逆らって、ふたたび虐待が行われれば、拘束はさらに長引くものと思われる。
「父さんも、母さんも、ぼくをちゃんと育ててくれたんだ……お前なんか」
 熱いものが喉にかかって、先を続けられなかった。びっくりするほど、熱い涙がこみ上げて、しゃくり上げて泣いたのだった。
 あんなふうに言われっぱなしで、自分や父さんにたいして、もうしわけがなかった。なんとすれば、両親はもう反論なんてできないのだから、彼こそがあの院長に、きっと言ってやらなければならなかったのだ。
 それから、洋一は、院長に言われたことを、一生懸命考えてみた。
 大人からこんなふうに扱われたからには、自分が悪いことをしたからじゃないかと疑ったのだ。だけど、院長の発した言葉の数々は、彼にとって大半が意味不明なものだったし、自分のどこが悪かったのかは、わからなかった。
 洋一は涙をこぼしたが、院長に聞こえないよう、必死に嗚(お)咽(えつ)をかみころした。
 それから、誓約書の規則をやぶったら、刑務所にいれられるなんてほんとかな? と考えた。いくら彼が小学生とはいえ、多少の知識はある。院長の言葉は信じがたかったが、それでも彼は子供だ。刑務所がここよりもおっかないところなのは、ほんとかもしれない。あそこは、罪を犯した大人が入るところだ。
 事態がこれ以上悪くなるなんて、それこそお笑いぐさだが、今の洋一にはすべてが悲観的に見えた。生活と人生のすべてがひっくりかえった小学生が、奈(な)落(らく)の底まで落ちこんだとして、それを攻められる人なんて、きっと三千世界に、いやしないのである。


  2


 さて、牧村洋一は体をのたくる激痛に歯を鳴らしながら、なんとか手をつき身を起こした。闇に目がなれて、涙をぬぐい落としてみると、そこがデスクや本棚のおかれた狭い物置であることがわかった。
 洋一は立ち上がって、扉に鍵がかかっているか確かめようかと思ったが、足を振り上げ、暴れ狂う院長の姿がなんども脳裏をよぎって、立つことすらかなわなかった。そんなふうにおびえるのは腹立たしくもあったが、院長の殴打は彼のガッツを、根こそぎ持ち去ってしまったものらしい。
 洋一は腫れ上がった瞼(まぶた)の下で、部屋の端にカーテンが掛かっているのを見た。一瞬、映画の主人公よろしく、そこから逃げだす自分を想像したが、怪我で思うように動けない今、逃げだしたところで捕まるのは時間の問題だと思えた。車で来たから、自分のいた洋館がどのあたりにあり、どのぐらいの距離があるのか皆目わからなかった。ここを出たところで、家に帰り着くのはむりだと彼は考える。なによりも、自分が逃げだすことを、院長は望んでいるような気がして(望んでいるのは、その結果行われる虐待をだ)、行動を起こす気にはなれなかった。
 窓があると思われるカーテンの向こうから、ホトホトと中をおとなう物音がしたのは、洋一がしばらくここに身をひそめていようと、考えることすら放(ほう)棄(き)しようとした、まさにそのときだったのである。


  3


 洋一はびっくりして目をしばたかせた。誰? と声をかけたのだが、喉からは空気の漏れるかすれた音しかでなかった。院長の言葉と打撃は、彼をすっかり萎(い)縮(しゆく)させていた。あの院長が、窓にまわって見張っているんだろうか? と考えた。
 洋一は、もうなにもかもが嫌になり、また涙をこぼしながら横たわろうとした。そのとき、
「洋一、洋一……」
 窓の外にいる誰かが、彼の名を呼んだ。院長の声ではなかったが、洋一はかえりみなかった。
「ぼくはもういない。牧村洋一は死んじゃったんだ……」
 洋一は空耳だろうと、背を向けつづけた。ひどい激痛で、考えることすら億劫だった。すると、
「洋一、おらんのか? おのれ、返事がない。奥村、玄関にまわって様子を見てきてくれ」
 玄関っ?
 洋一は体を痛めたことも忘れて、身をひるがえした。たいへんだ、そんなことになったら、院長がまた目を覚ましちゃう。
 洋一は立ち上がってとめようとしたが、院長に痛めつけられた足のために、その場に膝をついてしまった。
「待って……」と彼は院長に聞こえないよう細心の注意をはらって、外の男に声をかけた。「ぼくならここにいる。よけいなこと、しないでよ」
「おお、洋一、そこにいたか」
 洋一は、外の男の無(ぶ)遠(えん)慮(りよ)な大声に腹が立った。
「ちくしょう、ぼくはこんなに苦労してるのに、なんでそんな大声をだすんだよ」
 と言うと、身も世もなく泣けてきた。
「うむ、この窓には鍵がかかっておるな」
「格子もじゃまですな」
 別の男の声がした。
「洋一よ、わしらに手を貸して欲しい。まずは窓を開けて、顔を見せてくれ。洋一」
 洋一は耳をうたがった。ぼくの方こそ、人の手を借りなきゃ立てないぐらいなのに、手を貸してくれだって?
 いったいどうなっているんだろうという疑惑が心をかすったが、洋一は心にわいたかすかな希望にすがりついた。スーパーヒーローを信じるには、彼は年をとりすぎていたけれど、それでも外の男たちが自分のことを知っていて(でなければ、なんで名前を呼んだりするだろう!)、院長とは無関係の人間であることだけはわかった(そうでなければ、なんで窓から呼びかけたりするだろう!)。
「役所の人なの?」
 洋一は言った。足立という人の様子から見て、あの人たちは、あたごの実態を、少しは理解しているようだった(それなのに自分をひきわたすとは、ひどい話だが)。
 ともあれ、いまの洋一は、なんにでもすがりつきたい気持ちだった。彼は痛む足を引きずり、ソファーやデスクに手をついて、窓ににじり寄りはじめた。
「待って、すぐに開けるから、待ってよ。玄関にはまわっちゃだめなんだ」
「おお、洋一、なつかしきわが友よ。顔を見るのも久(ひさ)方(かた)ぶりなら、声を聞くのも久方ぶり……」
 外の男は、舞い踊るような声音で言った。洋一は、どうにも変な人だな、と泣き笑いの顔に滴をつけながら、窓へと向かっている。
「待ってよ。院長に痛めつけられたんだ」
 洋一は、やっとの思いで窓にたどりついた。薄い緑のカーテンを、月明かりが照らす。外ではまだこの夜にみた満月が照っているようだった。自宅であんパンを食べ、本を読んでいた時分のことを思いだすと、すべてが夢であるような気になった。
 ああ、この痛みだけでも、夢と消えてくれたらいいのに。
 洋一はカーテンに手をかけた。咳きこむと、白い息の中に血の飛沫がまじり、ぞっとした。口の中も、ずいぶん切ったようだった。
「なにがあったのだ。洋一、しっかりせい」と表の御仁は、慌てた様子だ。「我らには危険が迫っておる。気を抜いてはいかんぞ」
 抜いたりするもんか。
 カーテンを引き開けた。そして、口をあんぐりと開けた。
 格子の向こうには、どでかい鷲(わし)鼻(ばな)をした、白髪の男が立っていた。十八世紀の貴族が被っていたような、豪(ごう)奢(しや)な絹の帽子を頭に乗せている。その帽子からは大きな鳥の羽根が飛び出し、ヒラヒラと揺れていた。洋一が絵本でみた貴族の挿絵を想像したのは、男の目が青かったからだ。本物の白人で、しかも、その髪は、ルイ十六世のように幾重にもカールをまいていた。窓の向こうに立っているから全身は見えないが、大昔の赤い軍服めいたものを着こめかしている。背も高いようだった。
 洋一は顔をゆがめて、カーテンを閉めようとした。頭がおかしくなったと思ったからである。
「どうした?」
 とその赤づくめの服を着こんだ白人の老(ろう)爺(や)は言った。洋一は老人をよくよく見直した。彼の服はナポレオンが着ていた服みたいに紐やボタンがあちこちについて、装飾がほどこされている。おまけに腰にはサーベルをさしている。
「本物なの?」
「なにを言ってる。子供のころ会ったろう?」
「記憶にないよ。あんた、誰?」
「わしはミュンヒハウゼン男爵。お前の父の親友にして、よき仲間、お前の名付け親でもある」
 洋一は顔を上げた。両親から、自分の名前をつけたのは、外国人だと聞いていたからだ。だが、洋一の頭ではミュンヒハウゼンの名が、いくつもの連想をともなって、グルグルと回っていた。
 ミュンヒ、ハウゼン。
「でも、ぼくその名前きいたことあるよ。家にある本に出てたもん」
「いかにも。わしこそがほらふき男爵」
「なにを言ってんだ。父さんの友達だって? じゃあなんでこんなときに仮装してるんだよっ」
 洋一は窓を開けた。十二月の冷たい空気がしのびこんできた。男爵の背後には、着物をめかしこんだ小柄な男が立っている。頭の上に乗っかっているのはちょんまげみたいだ。月代(さかやき)こそ剃っていないが、腰には刀を差している。
 最初の男はミュンヒハウゼンの仮装で、こっちはサムライの仮装をしてる……洋一の心に、ムラムラと怒りがわいた。しかも、男のわきには、洋一とおなじぐらいの年恰好の少年が、男と似たような格好をして立っていた。その少年も、おもちゃみたいな刀をさしている。
「誰だよ!」
 声がすっとんきょうに高くなった。
 ミュンヒハウゼンがふりむいた。
「彼は奥村左右衛門之丞(さえもんのじよう)真(まさ)行(ゆき)。お前の両親の友人だ。あれは奥村太(た)助(すけ)と申すもの。奥村の子息である」
 洋一は怒りに身を震わせる。
「ぼくの父さんも母さんも死んじゃって、あさってには葬式があるんだぞ。友達なら、なんでそんなふざけた格好をしてるんだよ」
「お前こそずいぶんではないか」ミュンヒハウゼンは落ち着きはらって、鷲鼻の下のちょび髭をチョッピリなでた。「ひさしぶりにあったというのに、ふざけたとはなんだ。お前を見つけだすのには苦労したのだぞ。しかし、お前の身に起きたことを思えば……」
 ここでミュンヒハウゼンは、口をぽかんと開けた。
「その傷はどうした?」
 自分では気づかなかったが、洋一の姿はまったくもってひどかった。唇もまぶたも腫れ上がっているし、やけどをしたところは、広範囲に炎症をおこしている。殴られすぎたのか、ろれつもおかしくなっていた。
「ここの院長にやられたんだ」
 思いだすだけでも悔しく、唇をかみしめる。ミュンヒハウゼンと奥村が顔を見合わせた。
「何者だ?」
 と、男爵は怒りを押し隠した声で(隠しきれていなかったけれど)言った。
「ここの院長だよ。団野院長。知ってて来たんじゃないの?」
 男爵は渋い顔をした。
「われわれは今日になって、ようやくこちらに到着したのだ。だが、一歩間に合わず、恭(きよう)一(いち)たちは救えなかった」
 洋一の頭で、またも疑問が渦を巻いた。その疑問は、心を締めつける荒縄のようだった。救えなかった――救えなかったと男爵は言った。両親は交通事故で死んだと聞いている。事故は突発的に起こるものだ。なのに、救えなかったとは、どういうことだろう?
 奥村が、「男爵、そやつもウインディゴの手のものかもしれませぬ。急ぎましょう」
「ウインディゴって、なにっ?」
 洋一はとうとう悲鳴を上げた。ミュンヒハウゼンと奥村がまた顔を見合わせた。「知らんのか?」と男爵は逆に面食らったようだ。
「知るわけないよ。ぼくは、あんたたちのことだって知らないんだぞ」
 奥村が、
「ともあれ、ここから救い出しましょう」
 と言った。洋一は初めて奥村と目があった。気づかわしげな視線だった。それは、両親が、いつも彼にかけてくれた視線だった。不覚にも、洋一は鼻(はな)っ柱(ぱしら)が熱くなった。
「だめだよ、ぼく契約書にサインしちゃった。ここを出たら、ぼくは刑務所にいれられるんだ」
「なんの話だ?」と、ミュンヒハウゼン。
「契約書なんだ。院長にいわれたんだ。ぼくはこの養護院を出てはいけないし、ここのことを誰かに話してもいけない。ぼくは、もう二度と、ここから出られない……」
 洋一が涙ながらに訴えると、男爵は怒りに身を震わせる。
「わしはお前の洋館に立ち寄り、お前は、お前を保護する施設に入れられたと聞いた。わしは、お前がこの国と、この国の役人に保護されていると信じた。だが、来てみればどうだ。わが親愛なる友人の息子にして名付けの子は、痛めつけられ、目も覆(おお)わんばかりのありさま」
「でも、ぼく……」
「しっかりしろ洋一、人を保護する法はあっても、人を縛(しば)る法などないぞ。さしづめそやつは、ウィンディゴに支配されておるのだろう。だが、わしらが来たからには安心しろ。お前の身は、必ずや守ってやる」
 その申し出に、洋一の顔はかがやき、胸は熱い想いで満たされた(ウィンディゴのことは、さっぱりわからなかったけれど)。
 洋一は目の前をじゃまするデスクを乗り越え、格子に近づこうとした。だが、そのとき、彼の背後で扉が開き、廊下の明かりが暗い物置に差しこんだ。


  4


 団野は部屋に入ってくるなり、開口一番、
「なにをしている」
 と言った。団野は、男爵たちに度肝をぬかれたようだ。彼らから、目を離すことができなかったが、それでも洋一のもとに駆け寄り、彼をデスクから引きはがすことはできた。洋一が、体に走った激痛に悲鳴を上げ、表の三人が怒りを発した。
「なんだお前らは」と団野は言った。「ここは俺の敷地内だぞ。なんだ……おかしな格好をしやがって! とっとと出ていけ!」
「貴様などにいわれなくとも出ていくわい」と、男爵は、口(こう)辺(へん)に唾を飛ばしてわめいた。「ただし、その子も一緒だぞ。我が輩こそは、その子の真の保護者だからな」
「なにを言ってやがる、この餓鬼にもう身寄りはいないんだ」
 そう言って、洋一の頭を押さえつけた。団野のローブからただよう酒の香りが、強く彼の鼻(び)腔(こう)をみたした。このさき洋一は、酒の臭いを嗅ぐたびに、真っ赤な唇を、絶叫でぬらす団野のことを思いだす。
開け放たれた窓からは、真冬の冷気が、かんかんと部屋に注ぎこむのに、団野の体からは、狂気の熱気が漂いだすかのようだ。現に、団野は、零(れい)下(か)に近い室温のなかで汗をかき、真夜中だというのにきれいになでつけた前髪を、額に幾筋も貼りつけている……。
 洋一は、団野が手荒くあつかう体の痛みよりも、心の痛みのほうが強かった。男爵はああ言ってくれるけど、ぼくの身内はもういないんだ――
「だから痛めつけてもいいというのか?」
 奥村はまるで居合い斬りをしかけるかのように、低く腰を落としている。彼が低音の押し殺した声で言うと、団野ははっと洋一を見下ろした。
「この子はうちの院生だ。院生は規則にしたがう必要がある。院生はしつける必要だってある」院長は燃えたぎる眼光で、奥村たちをみわたした。「ここでは団体生活を行っているんだ! 規則をさだめてしたがわせなければ、院内の生活はどうなる! 院内の規律は! それに子供を鍛えるのは、俺の役目だぞ! この俺の使命! だから――」
「黙れ、この若造!」と男爵は手にしたサーベルで地面をつき、雄々しく腕を振り上げた。あふれんばかりの情熱という点では、彼も団野に負けてはいない。「その子は我が同(どう)胞(ほう)にして、我が家族! 手をあげるものは、何人たりともゆるさんぞ!」
「俺があずかったんだ!」と院長は唾を飛ばしてわめいた。「俺がこの子の親代わりだ! おいっ!」
 団野は洋一の右手をつかみ上げる。洋一は骨が砕けるんじゃないかと思ったが、団野から目線をはずせなかった。ちょっとでも視線を外したら、また痛めつけられると信じたからだ。
「オマエはここの生徒だ」洋一の頬を拳で殴りつけた。男爵たちが、抗議の悲鳴を上げた。「ここの院生こそが、オマエの家族だ!」もう一度。「俺がオマエの親で!」もう一度。「オマエは息子なんだ! わかったかわかったかわかったか」
 団野はそう連(れん)呼(こ)しながら、洋一の頭をこずきつづけた。男爵たちがなにかを叫んでいるが、洋一の心には、もう団野に殺される恐れしかない。
舌が口の中でふくれあがり、気管をふさいで、息もできなくなった。もう息をしたくなかった。恐怖心が彼の体を殺しにかかっていた。
だが、こめかみから流れだした血が、床に落ちた瞬間、ショック死しかかっていた身のこわばりがとけた。血は、事故を連想させた。両親の姿が、彼の目(ま)蓋(ぶた)に浮かんだ。両親はいなくなったけれど、彼の体は、二人の記憶を、誰よりも色濃く残している。その点で、洋一の両親は、この世とつながっている。洋一は、自分が死んだら、二人は本当にこの世から消えていなくなってしまうんじゃないかと、そう信じたのだ。
 血の水滴がまた三つ――洋一はふりむき、団野の姿を視界にとらえた。
 ふりあがる団野の拳のタイミングを見計らうと、かの拳が舞い降りかけたその瞬間、身をひるがえし、戸口にむかって駆けだした。団野は目標をうしなって、身をふらつかせている。男爵は、走れ、玄関まで走れ、と、狂ったように叫んでいる。
 洋一は走った。ふらつく足で、痛む肋を腫れ上がった指で押さえ、自由への扉めがけて駆けぬけた。後ろからは団野が狂気の熱を帯びた罵(ば)声(せい)を上げ、スリッパをばたつかせ、音も高らかに追ってくる。追いついてくる。玄関が見えた。廊下を曲がって、一歩二歩、廊下をなかばまで来たときには、彼はゴールを目前にひかえたマラソンランナーのように疲労困(こん)憊(ぱい)だ。洋一はドアノブに向かって、めいっぱいに手を伸ばした。
 団野は彼の襟首をひっつかみ、その自由への逃(とう)避(ひ)行(こう)を阻止したのだった。

 洋一は虎柄にもにた敷物のうえで、体をふりまわされた。
「貴様あ、契約書にサインしたろう! 忘れたのかあ!」
 団野はもう一度洋一をぶとうとした。洋一は両腕で頭を抱えながらわめいた。
「お前なんか、ぼくの両親じゃない! あんな契約書、くそくらえだ! ぼくは、ぼくはあんなもの……」
 団野は洋一にのしかかり、顔を床にたたきつけ押さえつけた。洋一は苦しい息の下で、まだなにかをしゃべろうとした。彼自身のためだけではなく、両親のために。ここでひきさがったら、一生団野のことを、おびえて暮らさなきゃいけなくなると、わかっていた。だが、洋一は、団野の膝で首をおさえつけられて、ほとんど窒息しかかっている。男爵が、玄関扉を引き開けて、昔日の勇者のごとく踊りこんでこなければ、彼はきっと涙の下で、意識をなくしていたにちがいない。
 洋一が顔を上げると、無敵の男がそこにいた。海賊が被るような金(きん)縁(ぶち)の黒帽子に大きな鳥の尾(お)羽(は)をなびかせ、息も切らせて駆けこんでくる。ああ、そう、彼は年老いたフック船長のようでもある。だけど、彼はほらふき男爵その人だ。サーベルを手に傲然と立ち、ブーツの音も高らかに、玄関口から上がりこんでくる。
「貴様、洋一から離れろ!」
 ミュンヒハウゼンは、扉を叩きあけた瞬間から絶叫をした。三百五十年の長きにわたって、人々に愛されつづけた男爵の義侠心に火がついた。彼はサーベルを引き抜いて突進したから、さしもの団野院長も、洋一の上から身をひきかけた。
「不法侵入だぞ」と団野は言った。「こんなことをしでかしてただですむと思うな! 警察は貴様らをとっつかまえるぞ! そんな刃物でこのわしを脅したんだからな!」
「なにを、このちょび髭の下(げ)郎(ろう)!」
 と男爵は火のでるような絶叫を上げ、手にしたサーベルを床に突きたて、
「奥村、ここはわしに任せろお!」
 と背後の二人に呼ばわった。
「決闘じゃ」
 男爵は右の手袋を脱ぐと、団野にむかって放り投げた。
「その子と我が命をかけて、決闘をもうしこむぞ! さあかかってこい!」

 

  • 筆者
    h.shichimi
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