第三部 最初の七日間

  章前 二〇二〇年 ――東京

   一

 結局41便は、予定よりはやく東京についた。到着予定時刻より、二時間もはやい着陸だった。
 受けいれ側の管(かん)制(せい)塔(とう)も、混乱がつづいた。機長のラルフと副長のエングルは、事情の説明におおわらわだった。乗客たちがみたという奇怪な現象、フライトレコーダにのこった動かぬ事実。お偉方(えらがた)は答えを知りたがったが、その答えを、誰にもとめればいいのかもわからぬ始末だ。
 だが、結局は、誰もが納得するしかなかったのだ。科学的な説明をつけようというほうが、土台無理な話。このことは、誰もが心の片隅にとめながらも、忘れていくしかない。やがては、航空世界の七不思議として、語りつがれるだけになる。
 語られるだけましというものだ。単に忘れさられる話よりは。
 三日の査(さ)問(もん)会(かい)がおわると、紗英はすぐさま半年間の休暇を申しでた。こんどは、ナンシーも止めなかった。紗(さ)英(え)が申し出たのは、退職ではなかったし、彼女に休職が必要なのは、仲間の誰もがみとめるところだ。同僚との亀裂も、紗英は辞さなかった。神保町に、もどるつもりだった。
 はたすべき役目があるのなら、それを完(かん)遂(すい)するまでだ。
 空港近辺のホテルをとり、芝原利菜に連絡をとった。
 電話のあと、タバコを片手に、ベッドに腰掛け、それから、おかしなことに気がついた。紗英が、半年間の休暇をとったことについて、利菜は驚きもしなかった。むしろ、当たり前のような口の利き方をしたのだ。
紗英は、服を着がえ、髪をといた。待ち合わせのカフェは、そう遠くないところにある。約束の時間には、まだはやい。だが、じっとしてはいられなかった。
ふと手をとめて、別れぎわのナンシーの、不安げな表情を思い出す。きっと、自分は、そんなナンシーよりも、ずっと不安げだったのだろう。エングルの、別れることをほっとしたような、よそよそしい態度。つかれきった、利菜の声。
 電話では、なにも訊かなかった。神保町のことも、山のことも――近況すらも。
 紗英はタバコに火をつける。あの光の渦をとおりぬけるときに感じた、超自然的な力はもはや消えていた。脳細胞が、隅ずみまで開ききったような感覚を思うと、不安でしかたない。自分でないなにかが、体にはいりこんだような感覚。それが麻薬以上の快感だったら、始末におえない。きっと、自分を抑えるなんてできなくなる (この一年間、彼女がとりくんできたのは、まさしく、自己統御の訓練だったのだが) 。
「利菜のやつ……」
 組んだ手のなかで、タバコの火がすこしずつ位置を変えていく。吸えば吸うほど短くなるタバコとおなじで、こんな状態がつづいたら、自分が磨(す)りへってしまうにちがいない、と紗英は思った。恐ろしいのは、これから会おうとしている旧友が、磨りへっているように感じられたことだ。
 紗英はあの渦をぬける瞬間、その昔に起こった出来事を、ほとんど思い出しかけていた。出来損ないの脳みそは、気絶している間にほとんど忘れてしまったけれど。
 それでも、記憶力だけはすぐれたほうだ。
 幻覚や夢遊病といった症状が、きっと利菜にも起こっていたんだろうな、と彼女は思い、そんな話をどう切り出したらいいのかで、また頭を悩ますのだった。

   二

 紗英が指定したのは、キャラバンという名のオープンカフェだった。いい具合の日差しで、風も気持ちが良い。十時を半分ばかり過ぎたころあいで、客の入りもよかった。さきに着いたようだ。窓際の、通りがみえる席に、案内された。
 コーヒーをふたつ注文した。携帯に着信があった。席を指示するうちに、利菜の姿が入り口にみえる。手をふった。利菜がふりかえしてくる。その明るい表情に、紗英はほっとする。
 中学以降も、親友との連絡は、絶やしたことがなかった。日本に帰(き)省(せい)して、利菜や佳代子に会うのが楽しみだった。母親に会うよりも、この二人の顔をみるほうが、安心したものだ。ホームグラウンドにもどったような、そんな感じ。
 フライトアテンダントになって、世界中をとびまわるようになった後も、東京にもどるたびに、なにかにつけて連絡をとり、利菜に会うのがつねとなっていた。たがいに社会人となり、昔のことなど多忙な毎日に埋(まい)没(ぼつ)していたのに、いまだに親密な関係がつづいていたのは不思議なことだ。だけど、ここ一年ばかり。利菜とも神保町の旧友とも、連絡をとっていなかった。紗英はそのことに気づき、身震いをした。
親密な関係がつづいたのは当然だ、と考える。子ども時代にあんなことがあったのなら(たとえ記憶が欠(けつ)落(らく)していたとはいえ)、自然なことではないのか?
 なのにこの一年ばかりは、意識的にしろ無意識にしろ、旧友のことをさけてきた。おまもりさまでともにつかまった面(めん)子(つ)のことを、すっかり忘れていたのである。
 物思いにしずむうち、利菜が店員と二(ふた)言(こと)三(み)言(こと)かわして席にちかづいてきた。
 利菜はすわりもせずに、紗英の肩に手を置いた。
「ひさしぶりじゃない、相棒。いつ東京にもどったのよ」
「まずは席につきなさいよ」と紗英は言った。「コーヒーたのんどいたから。アメリカンでよかったよね」
「なんでもまかすわよ。そこにかんしちゃ、あんたがプロだからね」
 二人は声をころして笑った。利菜がすわった。
「秀三さんは、どうしてる?」
「元気よ」
「純ちゃんは?」
「バスケはじめて、張りきってるわ」利菜が髪をかきあげる。「あの子とも会ってないでしょう?」
「何年生になったっけ?」
 すこし間があき、「五年生」
「そう……」
 利菜に会ってふくらんだ気持ちが急にしぼんで、紗英はうつむいた。利菜の娘も、あの頃の自分たちと、おなじ年代になっていたのだ。すべてが符(ふ)合(ごう)しているようで、紗英は息苦しかった。
「ジョンとはどうなったの?」
 紗英は鼻でわらう。「もうわかれたよ、あんなやつ。絵ばかり描いて、口ばっかでさ」
「絵で思い出したけど、わたしも本を出すことになってね」
「ほんと? すごいじゃん?」と目をまるくする。
「といっても、もう出版したんだけどね。絵本を一冊。とうぜんいってないよね」
 利菜の質問に、つばを飲む。利菜が、この一年連絡すらとっていなかったことに気づいていて、それ以上のことを言おうとしていることに、気がついのだ。
 顔を上げ、表情に不安がまじらないことを祈りながら、利菜の瞳をひたと見つめた。佳代子になにがあったの? 寛ちゃんになにがあったの? あんたたちはなにを知ってるの? と訊きたくなったが、その疑問は瞳のなかで渦巻くばかりで、一言も口にすることはなかった。本当は、すでに事がはじまっていることを知っていたからだし、利菜が口にすることで、その現実とむきあうことが怖かった。
 彼女はまた顔をふせ、ミルクティの揺れを見つめるふりをした。
「どんな本?」
 と訊く。利菜が顔をあげたので、
「いやいい。内容はいわなくていい」と取り消した。
「なにが書いてあるか、知ってるの?」
「知るわけないじゃない。楽しみはとっておきたいだけよ」
 だけど、なにが書いてあるかは知っていた。これまでの経過をおもんばかるに、利菜の絵本があのときの出来事を題材にしていることは、容易に想像できたからだ。怖いのは、利菜がそれを書いたときに、まったく狙っていなかったことだ。きっと彼女だって、おまもりさまのことは、すっかり忘れていたはずだから。
 二人はそれから、とりとめのない話で盛りあがった。幼馴染が顔をあわせたら、かならずといってとりくむ話題。昔話と、当時の知り合いの近況について、花を咲かせたのだ。利菜は、小学生時代の恩師が、また神保小学校にもどったことを教えてくれた。中学時代にくっついた、吉田と熊谷という先生の間に、三人の子どもが生まれた話。初恋の谷村君に、三人目が生まれた話。
だけど、どこかしら紗英はひっかかっていた。ながい付き合いのせいか、利菜がいろんな話をふせているように感じられた。悪い話は、全部。
 ひとしきり笑った後、利菜は椅子にもたれかかって、吐息をついた。ガラスごしに、通りに目をやった。
 紗英はそんな利菜を見つめている。二人は、本題にはいる覚悟を決めたようだ。
「そろそろ、帰ってくるころだと思ってたよ」
「わたしのシフト表でも持ってんの?」
 利菜は笑わなかった。真顔で、紗英のことをみかえした。「そんな気がしただけ」
 利菜は話した。神保町でまた殺人事件が起こっていること、行方不明事件が起きていること、クラスメイトの子どもが、殺されたこと。
「松本君の息子さんだったの? 良治君?」
 利菜はうなずいた。
「うそでしょう。犯人は捕まってないの?」
「つかまってない。警察は、連続殺人の犠牲者じゃないかっていってる。遺体の一部を切りとられてたんだって。佳代子が教えてくれた」
「佳代子とは連絡をとってたの?」
 利菜は首をふって否定した。「ここ一年は、ぜんぜん」
 紗英はまたティーカップに目をおとした。ふと二人が、カップをなでまわしたり見つめたりするばかりで、中身をひとつも口にしていないことに気がついた。
 利菜の顔からは、笑みが消えていた。かたい表情だった。
「子どもたちが殺されてる。寛太や達さんの知り合いの子どもよ。私たちの知り合いの子どももいる」
「待ってよ。わたしは最近まで、五年生のときのことを覚えてなかったのよ。あんたはどうなの?」
 ややあって、「おんなじ。五月に佳代子が手紙をよこすまで、あの山のことはすこしも思いだすことがなかったのよ。でも、夢や幻覚では、ずっと暗示してたのね」
「幻覚をみてたの?」
「おかしい?」
「おかしがってるように見える?」
「真剣なふうに見えるわね。あんたも見てたの?」
 利菜は取調官のような冷静な目で、紗英のことを観察している。相手の話を、じっくりと訊くときにみせる、冷(れい)徹(てつ)な表情。
 紗英は言った。「見てた。溺(でき)死(し)女(おんな)をなんども」
「あたしも見たよ」
「不眠症にもかかった?」
「かかった。夢遊病にもかかった」
「帰りの飛行機でさ……」
 と紗英はいいかけて、ふと口をつぐんだ。41便には仕事で乗りこんだのに、紗英はいま、帰りの飛行機と口にした。べつに、日本に帰省する予定ではなかったというのにだ。
「飛行機でなにがあったの?」
「おったまげるようなことよ」
 紗英は笑おうとしたが、唇がふるえて中途半端に終わり、きゅっと唇を引きしめた。
話した。飛行機のなかで、溺死女があらわれたこと、コクピットで見た光、そのなかを通りぬけ、結果的にロンドン東京間のフライトを、二時間ばかり短(たん)縮(しゆく)したこと。それは空間を飛びこえたことにほかならな い。集団での瞬間移動といえなくもないが、そんな話は査(さ)問(もん)会(かい)ではいちども口にしなかったし、仲間と再度話しあうこともしなかった。
 そのとき利菜のみせた行動は意外で、それでいて利菜だからこそ納得のいくものだった。彼女はさも、納得したようにうなずいたのである。
「佳代子はね、またおさそいがはじまってるんじゃないかっていってる。それも、子どものときよりずっとひどいことが起こってるって。わたしはあのときのことを全部思い出したわけじゃないけど、でも、もう一度……なんていうのかなあ」
 言葉につまった。利菜にはめずらしいことだった。
 紗英は少し下を向く。「召(しよう)集(しゆう)がかかってるってこと?」
「誰から?」利菜が問いかえす。
「わかんないよ。でも、あんたはおさそいっていった」
「子どものころは、そういってた……」
「わるいものって? 昔はあいつらのこと、そう呼んでたよね」
「幻覚のことを?」
 紗英はうなずく。利菜が、
「でも、あれは幻覚以上のものだったよ。あれがなんだったのかは思い出せないけど、幻覚は人を殺したりしないし、佳代子をひっぱたいたりしないんじゃないかな……」
「みんなはどうしてるのよ?」
「まだ町にいる」
 利菜は知っている経(けい)緯(い)を、ひとつずつ話しはじめた。佳代子たちが山にもどったこと、自分に手紙をくれたこと。佳代子との電話のこと。
「もうひとつ困ったことがあってね」
 と利菜は笑った。不思議な――笑いたくもないのにそうしているような――不思議な笑みだった。
「うちの両親と連絡がとれないのよ。あのときも母さんがいなくなったはずだけど、とにかく電話をしてもつうじないの」
「携帯は?」
「だめだった」
 紗英は息をのんだ。思いだしたのだ。
「またあの家に?」
「どうかな……」利菜が眉(まゆ)根(ね)をよせる。「坪井って人が死んで、あの宗教はなくなったはずだよね。母さんも、足を洗ったはずだし。でもね……」
 利菜が口をつぐんだ、訴えるような目で見つめてくる。
「わたしは両親とも連絡をとってなかったのよ。一年ばかりの間、神保町のことはいっさい考えてこなかった。無意識のうちになんだろうけど、わたしは逃げてたんだと思う」と彼女は言った。「でも、ここまできたら、そうもいってらんないよ。あんたはどう思うの?」
 紗英は指をくみあわせた。「あんなことがあったのに、みんな忘れてのほほんと生きてさ、つけがまわってきたって感じよね」
「忘れたのはあんたのせいじゃないよ」
「ともかく……わたしはなんだかわかんないけど――」と胸に手をあてる。41便で感じた力のことを思う。あの女が発していた力のことも。「自分に働きかけてくるなにかがあるのを知ってる。わたしだってこの一年、わけのわからないまま生きてきたけど」
 仲間やまわりの人間に、さんざん迷惑をかけたけど。
 紗英は、男性ほどもある上(うわ)背(ぜい)を、精一杯のばした。
「それが私の人生なら、むきあうしかない」
「よくいった」
 と利菜が微笑んだ。
 とはいえ、石川紗英といえば、芝原利菜が、上原利菜のままで、そのことに感謝したいような心持ちだった。紗英はともに過ごした中学時代をおもい、そのときかわした友情も、その後に自立した人生を歩めたことも、全部小学五年生のあの夏に起(き)因(いん)していたのだと感じたのだ。
 利菜が、セカンドバッグを手にして立ち上がる。
「午後の便で、千葉にもどろう。両親のことも確かめときたいし、こっちにいても、なにも始まんないからね」
「どんなことになるかわかる?」
 利菜は首を左右にふった。
「わかんないけど……むこうにもどったら、思いだすことも、きっとあるよ」
「出かけることはいってあるの?」
「旦那にも娘にもいってある。何日になるかわかんないけど、むこうにもどるって」
 紗英は、利菜を追って立ち上がる。
「秀三さんは、なんていってた」
「秀ちゃんには、町の様子はいってないから。娘もいっしょに連れてけなんて、いってたけどね」
「殺人事件のことは知らないの?」
「知らない。話してないから」
 利菜は会計をすますために、財布をいじくりだした。
 紗英はその背を追いかけて、「それっておかしいんじゃない? 出版社につとめてるんでしょ? あんたの故郷で連続殺人が起こってるんなら、耳にも入ってるんじゃないの?」
 テレビにもうつっているはずだし。
「知ってるだろうけど……」利菜がふりむく。「連続殺人の起こった神保町と、わたしの故郷がおんなじ町だとは、思ってないのよ。わかる?」
「そんな……」
「つまりこういうことよ」紗英の肩を叩く。「あんたのいう力が働いてんのは、わたしたちだけじゃないってこと。秀ちゃんやみんなに働いてる」
「うれしそうね」
 利菜は肩をすくめて、「公平ってことでしょ? それならわたし、納得できる」
 紗英は、不服そうに唇をかんで眉をひそめたが、心中では利菜の意見に納得していた。彼女だって、こんな事態に巻きこまれているのが自分たちだけだとは、考えたくなかったからである。

第三章 バスツアー

 一九九五年 八月十九日――土曜日

  三

 血を洗いながし、服を着がえた。
 なめ太郎はいなくなったが、混乱は去っていなかった。
 紗英は、襖(ふすま)をあけ仁王立ちする溺死女を何度もみたし、ほかの面(めん)子(こ)もご同様だった。
 達郎は、布団の上に一同を集め、固まりあって座るようにした。パニックを、なんとか抑えようとしたのだ。
 風がゴオゴオと吹き、雨戸がガタピシと揺れている。このままじゃあ、家が壊れるんじゃないかと、みんなは思った。屋根の上をなにかが走り、軒下からは部屋をおとなう物音がし、隣(りん)室(しつ)には、誰かの息づかいがあった。
 利菜はこんなことがつづいたら、ぜったいに気が狂うと思った。坪井の家では、杉浦佳代子をわるいものから守った彼女も、ここでは気持ちが切れかけていた。寛太郎が、いない。心理的な防(ぼう)波(は)堤(てい)が、なくなった感じだ。
 大津波がみんなの心を押しながしている。なんでもいうことをきくから、勘弁してほしいと、考えている。
 長い夜が明け、雨戸のかすかなすきまから光がおちた。ばあちゃんとおばさんが起き、みんなはしかたなくご飯を食べた。二人の大人は、子どもたちの不(ふ)可(か)解(かい)な様子にも、まったく注意をはらわなかった。六人ともが、出された食事の十分の一も食べなかった。ご飯を口にはこぶ箸(はし)はふるえ、爪のすきまに入りこんだ血の痕をみては、吐き気をもよおすありさまだ。おかずの味が、まったくしない。
 食事が終わると、彼らはまっすぐに、岩野辺川までいった。その川は、寛太の家から歩いて二、三分のところにあり、自転車なら一分とかからない。川辺の草は、朝(あさ)露(つゆ)にぬれていた。この日は雲もなく、岸辺もじきに干上がってしまうことだろう。
 石ころだらけの土手からは、岩野辺橋の高い欄(らん)干(かん)がみえた。
 血まみれの服を、川にながした。
 やっぱり、山にもどるしかないの? 佳代子が訊いた。達郎は無言だった。だけど、家にもどろうとむかった自転車のかごを見て、新治が悲鳴を上げはじめた。ホラー映画の子どもみたいな、理想的な悲鳴の上げ方だ。彼は口をOの字にあけ、絶叫しはじめたのだ。「ぼくんのだ、ぼくんのだ、ぼくんのだ!」
 すぐさま達郎が抱きつくことで、その口をふさいだ。だけどみんなは見た。新治の自転車の荷台には、おまもりさまでなくした靴が、手際よくつっこまれていた。正確には、靴の片方は金(かな)熊(くま)川にながしたのだが。両方とも戻ってきていた。
「無駄なんだ」と新治は言った。「川に流しても無駄なんだ。こいつらはみんなもどってくる。なにをしてもむだだ」
「そんなこというな。そんなことない。そんなこと思ってもいけない」
 達郎が言った。
「でも見ろよ」
 寛太が自分の自転車から、なめ太郎にとられたはずの帽子をとりあげる。案の定だ、と利菜は思う。彼の帽子が、血に濡れていたからだ。
「あんたのせいよ、あんたがおまもりさまに行きたいなんていうからよ」
 佳代子が寛太を責めはじめた。寛太は口のなかでモゴモゴいったが、その言葉はだれにも聞きとれない。
 達郎が佳代子をとめる。「やめろよ。寛太が林にいこうっていったとき、おれたちは誰も賛成しなかった。そのときは行かなかった。気がついたら、いつのまにか、林の前に立ってたんだ。そうだろ?」
「そうなんだよ……」
 利菜がぽつりと言った。その確信をこめた口調に、みんなは彼女をかえりみた。利菜はしゃくりあげている。パニックの渦に、飲まれようとしていた。
「い、いつのまにか草原に行ったみたいにさ、いつのまにかそこに行ってるかもしれない。そこってどこかはわかんないけど、でもおっかないとこなのには決まってる。あたしどんな目にあうか、わかる。英二君や、秀幸君みたいな目にあうんだよ! 人殺しがいて、そいつに殺されるんだよ!」
 利菜が絶叫した。紗英が肩に手をかけようとしたが、その手を振りはらう。彼女はみんなから離れて、背中をむけてしまった。
 達郎は自分たちの結束が、いまここで崩れるんじゃないかと思った。だけど、利菜は必死の努力で涙をひっこめ、ふりむいた。
「どのみち行くんなら、あたしたち自分の意思で行くべきだよ。だってあのときのみんな、ほんとにおかしかったもん」
 おまもりさまへの訪問を思いだす。友だちに、腕をつかまれたときのこと。
「いままで黙ってたけど、あたしのことおまもりさまにおしやろうとした。みんな、あんときあやつられてた。行くんなら、ちゃんとしてるときに行きたい……いつのまにか、そこにいるなんていやだ、誰かに操られるのもいや」
 利菜の告白は衝撃だった。自分たちまで操られるという考えは、頭になかった。
「そんなことがあったの?」
 佳代子が訊く。利菜がうなずく。
「なんで言わないのよ?」
 佳代子のなじるような口調に、利菜はきっと目を上げた。
「あんたなら言える? 達郎ちゃんがいったみたいにさ、友だちが……」とみんなのことを指しまわす。「みんながいたからわるいものにとっつかまんなかったとして、その友だちが、自分のことうらぎったみたいなこと、佳代子ならいえる?」
 利菜は目をとじた。まぶたの端から、涙がこぼれた。彼女は鼻水をこぼして泣いた。
「あんなめにあうの、もういやだ……」
 胸元からしぼりだすような告白があり、佳代子と紗英が駆けよった。みんなも。彼らは抱きあって、一塊になった。
 達郎はみんなをだきかかえるように、腕をひろげて言う。
「みんな、じいちゃんが帰ってくるのを待とう。明日はあの山にいくんだ。あの山になにかがあるんなら、決着をつけるしかない」
「なめ太郎が来いっていったのに?」紗英はしゃくりあげている。「ワナかもしんないじゃん」
「いまだって十分危険だよ。それに、じいちゃんなら、なんとかしてくれる」
 だけど、寛太郎は、その夜も帰ってこなかった。彼らは寛太郎の身にも、なにかが起こったのではないかと、心配をした。
 両神山には、いく必要がある。肝腎なのは、どう決意をかためるかだ。はやく決めないと、またなめ太郎がやってくる。あんなやつにもういっぺん出くわすなんて、誰でもいやだった。
 彼らは山にいくにあたって、十字架やおふだなど、集められるものはみんな用意した。懐中電灯も。ろうそくも。食料も。必要とあらば、お堂の位(い)牌(はい)だって、むりやり引っぺがして持ってきた。ロープもラジオもコンパスもバットも、みんな寛太のリュックにつめこんだ。足りないのは寛太郎だけだ。その意味では、決意はかたまっていなかったが、用意だけは、万端ととのっていたといえる。
 彼らはそれぞれの親に、電話をすることにした。
 みんなでいれば大丈夫なのではないかという、甘い期待と、誰でもいいから反対意見を言ってくれ、という気持ちとでせめぎあっていた。
 利菜の父親が、車を出そうと言いだした。佳代子の母はおらず(当然だが)、紗英の母親も、達郎たちの両親も、両神山行きを反対しなかった。瀬田英二がいなくなって、まだ見つかっていないというのにだ。
 子どもたちは、これまでは話のなかだけの存在だったおまもりさまが、現実として迫ってくるのを感じた。両神山にいくというのがどういうことなのか、もういちど真剣に考えようとしたのだが、頭の中がグルグルまわって、考えはひとつもまとまらない。
 利菜が電話をかけたとき、父の俊(とし)郎(ろう)は、待ちかまえていたように電話をとった。呼び出し音はいちどもならなかった。父さんは、もしもし、上原です、とも、どちらさまでしょうか、とも言わなかった。決まったか、といきなり訊いた。うん、と利菜はこたえた。その時点で、胸がふるえて、うまく答えることは、できなかったのだが。
 利菜はもちろん、あんなところに行きたくない。けれど、坪井のおじさんちで見たモンスターみたいなのが、母さんを捕まえたとしたら? あいつが母さんのことも、食べちゃったとしたら? そんなこと思うだけでも嫌だ、考えてもだめだと思った。わるいものはそんな考えも、喜んで現実にすると思った。そんなことになるまえに、母さんをつれもどすべきだと思った。利菜は、涙でにじんだ目をぬぐった。それから彼女は、うつむけた顔を上げたのだった。父さんは当てにできないから、あたしがやるんだと、彼女は思った。
 父さんは、明日の朝迎えにいくから、みんなで用意してまってなさい、と言った。母親のことをまったく話題にしないのと同様、利菜がいまどこにいるのか、どこにいくつもりなのかは、訊きもしなかった。訊かなくても、知っているようだった。
 利菜は受話器をおき、父さんが車を出してくれるって、とみんなに言った。平静を装おうと、必死だった。みんなのほうは、ひと目たりとも見られなかった。自分の父さんがモ、ンスターみたいになっている、自分が今朝言ったみたいに、操られたみたいになっている。そんなことが言えるだろうか? 不信を招くようなことを?
 彼女は言えないと思った。そいつは無理だ。

  • 筆者
    h.shichimi
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