縦書き版 ねじまげ物語の冒険 第二巻

はじめに――その少年について

 以前――
 ずいぶん昔の話になるが。
 牧村洋一少年に関するお話は、つらつら述べたことと思う。そのお話は、ちょいと奇怪で、少しく奇抜で、だから終わりまでお付き合いしていただけたか、心許なく思っている。
 いや、やっかい至極。
 そのお話が、そんなふうに奇妙であったのは、洋一少年のおかれた状況によるものだが、少年たちに関するお話は、あれで終わったわけではない。なるほどエンドマークの鐘こそ鳴ったが、洋一少年にかかる苦難は、あの事柄が最後だったわけではないし、むしろあれからの方が、大変であったのだ。

 さて、くだんの少年は、小学四年生で、体格も普通なら、容姿も並、別段とりたてたところのない、普通の少年だった。住んでいるところは古い古い洋館で、そいつを私立図書館にしたてなおしている。
 が、両親はいない。殺されてしまった。
 自分の親のことを、普通だと思っていた。それまで普通に暮らしていたし、自分自身が、取り柄も特徴もない、普通の少年であったのだから、当然だ。
 だけど、中間世界からやってきたという、ほらふき男爵と侍の親子が、彼のすべてを変えてしまった。
 彼に関わる秘密を、話してしまったのだ。
 彼の両親が、本の世界を守ってきた古い古い一族の生き残りで、伝説の書という、これも奇怪な本を守ってきたこと。その本を狙う凶悪な敵がいて、二人はその人物に殺されてしまったこと――
 洋一はその敵――ウィンディゴの力を削ぐために、本の世界に乗り込んだ。その仇は、本の筋書きを悪い方に変えて、自らの力に変えていたからだ。
 洋一が宿敵の目的を阻止するべく、選んだ本は、かの「ロビンフッドの冒険」だった――

 平凡な少年が、いかにして物語の主人公となりえたのかは、すでに述べた。
 洋一は奥村少年と協力して、数々の危機を脱しはした。ロビンの命も救ったし、物語も正しい方向へと導いた。ロビンたち森の仲間が勝利して、本の善は守られたのだ。
 だが――
 洋一少年は、目的の一端を果たしたけれど、真の目的となると、どうだろう?
 宿敵との決着はまるでついていない。洋一は、それからもウィンディゴに狙われ続けたのだし、狂った物語は、ごまんとあったのだ。
 いや、くどくどと申し訳ない。語り残したお話がたんとあるのは、わたしの不徳と致すところ。
 物語の幕は、開かなければならない。
 あれよりも奇怪面妖なお話になってしまうことは、もうしわけないが。

 

第一部 果てしない物語のちょっとした開幕

第一章 牧村洋一、自作に入る
   その一 再び、物語の中へ

     1

 ぐるり、ぐるり。ぐるり、ぐるり。
 果てしない闇を、真っ逆さまに落ちていく。
 牧村洋一は、この感じは、味わったことがある――
 と、考えた。そう、本の世界に入ったときだ。あのときも、こんな感じだったのだ。
 先ほどまでは、真っ白な世界を飛び跳ねていたというのに、エンドマークの鐘の音が終わった瞬間、地面は、テーブルクロス引きをくらったみたいに一瞬で消えて、洋一の体は、闇の中に放り出されしまった。
 そのまま、下へ、下へと。落ちるごとに、彼の体は縦へと伸びて、やがて、らせんを描き始めたかと思うと、まるで嵐の中に飛び込んだ気球みたいに、四方八方に吹き飛びはじめた。
 その間も、落下の感覚はあった。濃い闇が、一瞬のうちに光で満ちた。ドスンという音とともに、固い地面を感じるようになった。
 うめきながら、手をついた。
 手の下には、赤い絨毯があった。
 洋一は、うつぶせに倒れた体を起こした。その周囲では、彼の仲間たち――ミュンヒハウゼン、奥村真幸、そして、奥村太助が――同じように、身を起こしていたことだった。

     2

 洋一は、太助と目を合わせて、ほっと笑みをかわしあった。そこは、ロビンの世界に入る前にいた、父親の書斎だ。あのとき、カーテンの向こうは闇だったが、今では朝の光が、キラキラとさしこんでいる。
 戻ってきた、と思うと、洋一はうれしくてたまらない。それは、彼らの勝利にほかならないからだ。
 男爵は、ソファの上で、だらしなく手足を投げ出していたが、のっそりと立ち上がると、四人の中央に落ちていた、『ロビン・フッドの冒険』を拾いあげた。
「愉快な冒険じゃと?」男爵はふんと鼻を鳴らし、「ちょいとばかり、手こずったわい」
 と言って、立派なカイゼル髭の端を、得意げにこすった。
 太助の父親が、左腰の両刀を指し直すと、洋一を助け起こす。
「二人ともよくやった」
 そうして立ち上がり、部屋を見回すと、洋一の胸にも、ようやく誇らしい感情が沸き起こってきたのだった。
 冒険は終わったのだ。とりあえず。

     3

「なにはともあれ」
 と男爵は言った。
「あ、あ、オホン」
 と、わざとらしく指をつきたて、
「これで、ウィンディゴには一矢報いたわけだな。ロビンの物語は、正しい終わりを迎えたわけだし」
「ウィンディゴはどうなったのかな」洋一が聞いた。
「奴はもう、ロビンの世界に手はだせん」と男爵が言う。
「でも、あいつはいなくなったわけじゃない。次の手をうたないと」
 太助が眉をしかめて言うと、父親がその肩をやさしくたたいた。
「その通りだな。だが、まずは腹ごしらえを済ませるとしよう」

     4

 男爵と奥村が出て行くと、書斎には、洋一と太助だけが残された。
 二人の守護者が、扉を開けて出て行く瞬間、洋館の奥からは、狂った物語の騒ぐ声が聞こえたけれど、それは、あの晩の一幕に比べれば、ずっと小さなものとなっていた。
 洋一はソファをまわり、男爵がローテーブルに置いていった、『ロビン・フッドの冒険』を手に取った。その古めかしい、赤い表紙の書物は、確かに強い力を持っているらしい。数々の冒険を終えた直後だというのに、いまだ、熱気を放っている。
「ジョンたちはどうなったかな」
 と洋一は訊ねた。
「わからないな」太助が真面目な顔で答える。「けれど、ロビンとアーサー王の世界が混じり合ったぐらいだから、また会う機会があるかもしれない」
 洋一は吐息をつきながら、テーブルに本を置いた。頭の整理をつけるには、あまりも多くのことが起こりすぎていた。
「今はいつなんだろう?」時計を見る。「ぼくら、ずいぶん本の中にいたろ? 外の世界でも、おんなじぐらいに時間がたったのかな?」
 二つの世界での時間の流れについて話し合ったが、答えのない話だった。
 太助がいった。「こっちの世界で時間が流れていたんなら、養護院の連中は、とっくに君を探しに来てる」
「それか、団野院長は、誰にも言わなかったのかも」
「君は行方不明にされているかもしれないぞ。ここに戻ったことは、誰にも知らせていないんだし――」
 太助の声を聞いてはいた。が、洋一の頭には、ちっとも入っていなかった。気になっていたのは、ずっと別のことだ。
 父の書斎に、違和感がある――
 それは、書斎というにはもったいないほど大きい。二十畳ほどもある部屋の壁面は、あますことなく本と棚に覆われている。南面はバルコニーに面していたので巨大な掃出しになっていた。私立図書館の書斎として、全く名に恥じないものだった。
 違和感――といっても、そこは彼の部屋ではない。が、小説の執筆では、ずっと利用していた。ここ一年は、入り浸っていたと言っていいだろう。
 洋一は、一編の物語を、三冊のノートに書き上げた。それは稚拙で穴の多いものではあったけれど、恭一(父親)とともに完成を喜び合ったものだった。
 二人は新作に関するアイディアを出し合っていたところだった。父親がその物語を読む機会は、永久に失われたわけだが。
 洋一は、ふいに心にきざしたうら寂しさに、幼い胸を痛めながら、巨大な(といっていいだろう。小柄な体格を考慮しても)書斎机をまわりこんでいった。
 あのとき――ロビン・フッドの物語に乗り込んだ、まさにあの夜。この部屋には結界が張られていたので、ウィンディゴは窓の外で吠え立てたが、入ってくることはできなかった。
 以来、部屋は、無人であったはずである。
 洋一は、違和感の謎をとくべく、マホガニーの分厚いテーブルと座椅子に手を添えた。
 装飾をほどこしたいくつもの引き出し。机の上には、本やノート、筆記用具が置かれている。それらは、きちんと整理整頓されている。あるべき位置に。それらは、ただ置かれているわけではない。クラウチングスタイルで号令を待っている、百メートル決勝のランナーみたいだ。戦闘配置についた軍隊みたいに。所定の位置についている感覚。
 それらは、所有者の生前の性格を正しく表していたが、たった一つ。ずれている物があった。年代物の、椅子。
 一人かけの、チェスターフィールドソファだけが、所定の位置からずれている。
 恭一は、書斎を離れるときは、必ず仕舞った。だから、本革の巻かれた肘かけは、机の下にもぐりこんでいるべきだった。
 洋一が、その不自然に傾いた椅子の背もたれに手をかけたとき、思っていたのは、ぼくが完結させた小説を、父さんはどこにしまい込んだんだろう、ということだった。
 太助は、洋一の異変に気がついていた――が、黙って彼の様子を見つめていた。けれど、洋一がその椅子の背もたれを引いて、はっと息をのんだときには、彼の元へと急ぎ駆け走っていた。
「どうした、洋一?」
 洋一は、彼の方を見ようともせず、椅子の座面を指さした。そこには、大学ノートが無造作に置かれている。表紙には、黒のマジックの太い方で、デカデカとこう書かれている。
『ナーシェルと不思議な仲間たち』

     5

 洋一は、その物語を、分厚い大学ノートに書いた。恭一は古いワープロを与えようと考えていたのだが、息子はアイディア帳として与えたノートに、いきなり物語を書き始めてしまったため、ワードプロセッサを与えることはあきらめた。考えてみると、洋一はキーを打ったことすらないし、物語を書くには勢いがいる。やがてはパソコンを使いこなすだろうが、最初はこれでよかろう、と、恭一は納得したのである。
 洋一は、そのノートが、最初からそこに置かれていたのかを考えた。
 恭一の性格を考えると、それはありえない。もし読み返していたんだとしても、こんなふうに置くことはない、と思った。
 太助がすぐに察して、君が書いた本か、と訊いてきた。
 洋一はうなずきながら、
「でも、父さんが置いたんじゃないと思う。このノートは、ぼくのだけど」
「この部屋には、結界が張られている。なのに、入ってきた者が?」
 二人は顔を見合わせる。それから、どちらともなく、扉の方をみた。
 男爵たちの、物音はしない。
 戻ってくる、気配もない。
 洋一は、椅子の背を引いて、座面に乗ったノートが、よく見えるようにした。
 そうしていると、そのノートは、なんだか禍々しい物に見えた。まるで、伝説の書と、同列の存在みたいに。
 二人はバルコニーに目を向けたけど、そこにウィンディゴの姿はない。鍵も、閉まっていた。
 洋一は、ノートを前にして、手を伸ばすのを躊躇した。ふと、伝説の書のことが気になって、懐に手をやる。赤本の、固く分厚く、頼もしい感触はまだあった。
 太助がそんな洋一の様子を見て、咎めるように、彼の肩に手を置いた。
「ウィンディゴの罠ではないのか? 男爵たちが戻ってくるまで、手を出すのはよした方がいい」
 洋一が振り向いて、頷こうとした、そのときだった。
 ノートが、一人でにバラバラと開き、中から風と光が、猛然と吹き上がった。
 二人の少年は、たじろいだ。
 ノートからは、洋一の書いた文字が、螺旋を描いて立ち上ってきたからだ。
「や、やめろ!」
 洋一が、突然腹痛を起こしたみたいに、おなかを抱えた。伝説の書が、ノートの動きに呼応して、シャツの下で、七転八倒をはじめたからだ。
 無数の文字が、天井めがけて舞い上がる。すると、その文字の雲からは、彼の産み出した無数の声が降ってきた。洋一にとっては、聞きなじみのある声――ナーシェルや、ミッチやネッチ、ふうせん男爵たちの声だった。
 ノートは、今や、部屋に嵐を巻き起こしていた。書斎のあちこちで、洋一が思い描き、ノートに込め続けたシーンの数々が空に浮かび、浮かんでは千々に細切れて乱れ飛ぶ。
 太助が、腹を抱える洋一の背に被さる。壁中を埋め尽くす書物の数々が、ノートに呼応して飛び交いはじめたからだ。
 書斎の中は本物の嵐となり、豪雨が舞い、稲光がゴオゴオと、雲を裂いて落ちてきた。床は、たちまち水浸しになって、子供たちの膝元まで上がってくる。
「ウィンディゴだな!」
 太助が、洋一の肩に手を突いて、前に出ようとした。今にも刀を抜きはなって、切りつけんばかりの勢いだ。
 洋一が、太助の姿を見ようと顔を上げたそのときだ。
 天井付近で、大空を巡るジェット機のごとく飛び回っていた文字の大群が、巨大な手を形どり舞い落ちてきた。その巨大な腕は、二人の子供たちの胴体をまとめてつかむと、再び急上昇して、本の渦巻く天井へと舞い上がった。
 もはや――
 もはやそこに、天井はなかった。
 洋一と太助は、嵐の中を、天高くのぼっていった。耳の中には、キーンという音が、高く聞こえた。
 やがて、その文字でできた巨人の腕は、勢いをなくして加速を止めた。かと思うと、地上目掛けて、頭から急降下をしていった。
 洋一と太助が、腕に連れられて大学ノートに飛びこんだ時には、嵐は収まり雲は消え、床を満たす洪水は撤収し、部屋中を特攻隊よろしく飛び交っていた本たちは、突如紐を切られた操り人形のごとく、絨毯目掛けて、バラバラと落ちていった。
 騒ぎを聞き付けた男爵と奥村が駆けつけたときには、二人の子供たちの姿は、どこにもなかったのである。

     6

 二人の守護者が子供たちの姿を求めて部屋を駆けずるその間、チェスターフィールドソファの上に乗った大学ノートは、ひっそりとページを閉じて、傲慢な美食家よろしく派手なゲップを漏らしていた。
 子供二人を飲み込んで、重みを増したノートは、シートにズシリと沈みこんだ。
 後は、なんの物音も、たてなかったのである。

 

  • 筆者
    h.shichimi
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