どうも。サイト編集人のゴンです。
新撰組八犬伝もお話が進んでいるようですが、今回は、仁右衛門の家業であった御徒士について、調べて参りました。
御徒士組
新選組八犬伝の主人公、奥村仁右衛門は、御徒士の家柄です。
譜代(ふだい)、二半場(にはんば)、抱席
と御家人にも、区分けがありますが、本人が古い家柄といいはるのですから、仁右衛門は、譜代の御家人であったのでしょう。
譜代になったのは、文久二年、という記録もありますが、さておき。
御徒組。二十八人で一組。二十組ありました。各組に二人の組頭がいます。徒頭は1名で、役高1000石の旗本職でした。
徒歩で戦う兵のことをさし、将軍――公方さまのお出かけには道の警護などをつとめます。お鷹狩りや寛永寺、増上寺への参拝に、かご脇を固めました。将軍の親衛隊といったところで、大名の徒士には、御をつけず、単に徒士。徳川家のみが、御徒士と呼称されておりました。
江戸城内で、能などの催し物があれば、舞台の裏や縁の下に隠れます。事がおこれば、公方さまの元にとんでいき――というわけです。
この御徒士、将軍のボディガードですから、プライドも高く、出世の道も開けていましたので、志を秘めた人が多かったそうです。今は、七十俵五人扶持でも、いずれは……というわけです。
川路聖謨や、榎本武揚なども御徒士出身です。
御家人のお仕事
とはいえ、みんなが出世するわけではない。御、がつこうが、そこは下級武士です。生活は苦しい!
徳川直参とはいえ、みんながみんな仕事についていたのでなく、実質的な仕事についていたのは、五人に一人、とかになってます。そのぶん、御役科はなく、家計は苦しい!
御家人の勤めは三日勤め。一日出仕したら、二日休むのがふつうでしたから、内職をする時間はありました。
御徒士町の組屋敷では、組ごとにわかれて、傘張りや虫かご作りに精を出していました。下谷御徒町の朝顔の栽培、金魚の養殖で有名です。朝顔屋敷とよばれたそうで。
御家人の内職で、有名なのが青山の傘張りと春慶塗。これをやってたのは、青山の甲賀組組屋敷の人たちです。「青山傘」と異名がつくほどで、仲買商が付近に立ち並ぶ盛況ぶり。
伊賀組組屋敷の人々はつつじの栽培。大久保百人町にありました。
根来組組屋敷は提灯、凧。牛込弁天町でつくっております。
これらは、御鉄砲百人組の人たちですが、鉄砲の練習どころではないんですな。
御徒の服
役羽織と呼ばれる黒縮緬の羽織を三年に一度支給されています。 将軍も着ており、襲撃の際には御徒士の中に逃げ込む手はずになっていました。
戦場となれば、そろいの陣羽織を着て出陣! 将軍も同じものを着るのですから、豪華絢爛です。年に一度、虫干しのときだけ、城内で閲覧を許されたそうです。
御家人と株
曲亭馬琴が、孫のために、四谷鉄砲組の御家人株を買ったそうですが。相場はいくらだったんでしょうね?
御徒士衆で五百両とも言われていますが、与力1000両、同心200両、という相場もありました。
勝海舟の曾祖父が、御家人株を買って、という話は有名です。海舟のお父さんは、小普請組で一生をおえましたが、三代目にして花開いたことになりますね。
ところで、寺社武家地には、町名がありませんでした。御徒町というのも俗称で、地図に名前が乗っていても、どこからどこまで、という明確な区分は法制上ありませんでした。