2025.11.24
山本周五郎『おたは嫌いだ』 ナレーター七味春五郎 発行元丸竹書房

「おたは嫌いだ」――若侍の津由木門太にとって、幼馴染の「おた(双葉)」は、あまりに親しすぎて、妹のようにしか思えない存在。
姉からおたとの縁談をしつこく断る門太は、あろうことか「酒豪で怪力の娘」を屋敷に送り込み、この話を破談にしようと画策する。
そんなある日、門太の不注意から、藩主の大切な印鑑が入った箱が行方不明になる。 その箱が隠されたお堂が、猛火に包まれる事態に!
燃え盛る炎を前に、絶体絶命の門太。
死を覚悟したその瞬間、彼の心に浮かんだ「本当に会いたい人」とは?
勘違いとすれ違いが織りなす、江戸の青春ラブコメディ。
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“title”: “おたは嫌いだ”,
“author”: “山本周五郎”,
“heroImage”: “https://www.google.com/search?q=https://images.unsplash.com/photo-1528360983277-13d9012355ce%3Fq%3D80%26w%3D3270%26auto%3Dformat%26fit%3Dcrop”,
“catchCopy”: “”おたは嫌いだ”そう言っていたはずなのに。\n燃え盛る炎の中で、もんたが最後に選んだのは?”,
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“title”: “一”,
“content”: “”どうだ津由木”と税所主殿が云った、”れいのあれは、どんなぐあいだ”\n”はあ、まあぼつぼつです”\n”うまくないか”主殿は御印筐を封じ、それに封印をおした、\n”そうか、うまくないか”\n”うまくないこともないと思うんですが、あんまりうまくいってるとも思えません、どうも少し心配なんです”\n”それはいけないな”と主殿は云った、”それはいけない、あんまりあせってはだめだ”\n”ええ、私もそう思うんです”\n”あせってはいけない”主殿は御印筐をさし出した、”ではこれを御宝庫へ”\n 津由木門太は両手でささげて受け取った。\n”百里の道も一歩からという”と主殿は云った、”なにごとによらずせいては仕損ずる、おちついて、ゆっくりやってくれ”\n”そうするつもりです”と門太は云って、”私もそのつもりなんです”\n”結構だ、それなら結構だ”\n”ではこれを御宝庫へ納めます”\n”うん、結構だ”と主殿はうなずいた、”ひとつその気持で、やってもらおう”\n 門太は老職の役部屋を辞去した。\n ——おかしな人だ。\n 廊下を歩きながら、門太は心の中で呟いた。おかしな人だ、どうしてあのことを知っているんだろう、どうして感づいたのだろう、と思った。中ノ口へゆくまでに、五人ばかりの者が声をかけた、”なにしに来た”とか、”普請場は暢気でいいだろう”とか、”肥えたなぁ、ずいぶん肥えたじゃないか”とか云った。また”おいやせたね”と云った者もあった。門太はこれには返辞をした。そうかい、やせたかい。”やせたよ、どうかしたのか”いやべつにどうもしないさ、近ごろあまり飲まないんだ。”飲まないって、どうしてさ”どうということもないがね、とにかくあまり飲まないようにしているんだ。”ふん”とその男はしかめっ面をした、”つまりやせたいんだろ”いや、そんなことはないさ。\n”わかってるよ”とその男は——三浦吉郎という名前なのだが——そっぽを向いて云った、\n”飲まない門太なんて油のきれた行燈みたようなもんだ”そしてその男は休息所のほうへいってしまった。\n ——あの、三浦の、のんだくれ野郎。\n 門太は心のなかでどなった。彼は御宝庫へいって”御印筐”を納め、それから三ノロへゆくまで心のなかで、どなり続けた。こんなにいそいでいるときでなければ、ぶん殴ってやるんだ、あの太っちょ野郎、”やせたね”なんて甘ったるい声を出しやがって、あの。\n”やあこれは、どうも失礼”\n 門太は声を出して云った。三ノ口の式台で一人の老人と衝突したのである。相手はこちらをぎろっとにらんだ。それは次席家老の折田なんとかという頑固おやじであった。門太はあわてておじぎをし、”失礼しました”と云いながら、すばやくそこを逃げだした。\n”あれは頑固おやじじゃないか”と、彼は走りながら呟いた、”なんだってまた次席家老が三ノ口からなんぞ入るんだ、え、——”\n 彼は足をとめて振り返った。\n 誰かに呼ばれたので、折田のじじいかと思ったら、もうそこは笠木塀の木戸の外で、呼んだのは姉のすみ江であった。\n ——あっ、そうか。\n と門太は心のなかで云った。\n ——税所さんのは求婚の話だった。\n 彼は税所主殿に、半年もまえから”すみ江どのの気持をきいてみてくれ”と頼まれていた。彼はすぐ姉に話し、姉は即座に断わった。姉のすみ江は”いやです”と云い、”あなた自身のことをお考えなさい”と云った。彼はひきさがったが、姉が断わったということは、税所主殿にはまだ知らせていなかった。\n”やあ姉上、いかがですか”\n 門太はこう云いながら、心のなかで、——へつ、あせってはいけない、ゆっくりやってくれ、か。と呟いた。\n”うちへ寄るのでしょう”とすみ江は云った、”いっしょにまいりましょう”\n”いや、私はすぐまた普請場へ”\n”まいりましょう”とすみ江は云った、”あなたに話すことがあります”\n そして彼女はさっさと歩きだした。\n 姉は門太より六つ上だから三十二歳になる。姉弟には両親がない、父は十五年まえ、母は父に三年おくれて亡くなった。以来、姉のすみ江と叔母(父の妹で、いちど他家に嫁し、不縁になって戻っていた)の小萩とで門太を育てた。といっても、そのために姉が今日まで独身でいるわけではない、彼女は十六の年に失恋し、そのため奥女中にあがって、現在では”中老”という位地についていた。\n 彼女(中老としての名は”松島”という)は縹緻よしであった。色はちょっと浅黒いが、すんなりと均斉のとれたつきで、うりざね顔の眼鼻だちも、やや険はあるけれども、凜とした気品をもっていた。彼女は年よりませていたらしい、十四歳のとき、これはじつに皮肉なことだが税所主殿に恋し、”主殿さまと結婚できなければ一生独身で暮す”と、両親に宣言したそうである。税所は八百二十石の寄合で、主殿はそのとき二十四歳、すでに家督として藩主附きの用度係を勤めていた。そうして、それから二年後に、江戸詰のとき杉原氏から嫁をもらったので、すみ江は失恋してしまった。杉原氏から来た妻女は病身で、嫁に来てからも寝たり起きたりの状態だったらしいが、一人の子も産まないまま、去年の二月に病没した。\n 税所主殿が門太に向って、すみ江に対する求愛の情をうちあけたのは、亡き妻の一周忌がすんだ直後のことであった。主殿は自分がかつてすみ江に恋されたことを知ってはいない。すみ江の両親は、彼女がせめて十六にでもなったら、縁談にとりかかろうと思っていたので、そのまえに主殿が結婚したため、彼女の想いを主殿に通じる暇がなかったのであった。\n ——その主殿がいまは姉を欲しがっている。\n 皮肉なもんだな、と門太は心のなかで呟いた。しかしなぜ姉は断わったのだろう、かつて熱烈に恋し”その人の妻になれなければ一生独身で暮す”と宣告したそうではないか。その人がいま彼女に求婚しているのである、ひとり身であり子供もない、年こそ四十二歳になるけれども、姉だってもう三十二歳だ、まるで錠前へ合鍵を差すような話じゃないか、と門太は心のなかで思った。\n”どこへゆくんですか”と姉が云った、”うちはこちらですよ””
},
{
“title”: “二”,
“content”: “ 自宅へ帰るのは五日ぶりであった。\n 松平対馬守は、今年の春から、深川海手の堤防工事に、その総奉行を命ぜられ、ほとんど毎日、この麹町二番町の上屋敷から、深川の現場へかよっていた。\n 門太は馬廻りであるが、こんどは使番を命ぜられて普請小屋に詰め、十日に一度の休暇のときしか、自宅へ帰ることができない、今日は”御印筐”を戻すために上屋敷へ来たのであった。\n”御用でしょうから簡単に話します”と姉は門太に云って、”こちらへ来て坐ってください”\n 叔母の小萩が”まあ門さん”といって出て来たが、姉は彼女に手を振り、自分の居間へ弟をつれていって坐った。叔母は”お茶をいれますか”ときいたが、姉がまた手を振ったので、門太にちょっと笑ってみせ、そして自分の部屋へ去っていった。\n”このあいだの娘は受け取りました”とすみ江は云った、”これで三人めですが追い返すこともできないから使っています”\n”どうもすみません、どうもありがとう”と門太はおじぎをした、”なにしろ、手紙に書いたとおりの身の上で、ほかに頼る者もなし金もなし、私としても姉上にお願いして、部屋子に使っていただくよりしようがないと思ったんです”\n”それがこんどで三度めですよ”と姉は——中老松島の声で——云った、”あわれな身の上で、見るに見かねるから助けてやってくれ、給銀はどちらでもいい、姉上の部屋子として使ってもらいたい、……そういって、見も知らない娘を三人もわたくしに押しつけてよこした、三人もですよ”\n”それなんですが、姉上は御殿づとめでご存じないでしょうが、世の中にはじつに気の毒な、とうていじられないくらい不幸な娘たちがずいぶんたくさんいるんです”\n”たとえば、——”と姉は云った、”二番めにつれて来た八重という娘ね”\n”ええそうです、あの娘なんぞは、その、泣くにも泣けないような、それこそもう”\n”ひどい貧乏で”\n”ひどい貧乏で”と門太が云った、”親は病気で寝たままだし、食う物にもこと知くような始末ですし”\n”その兄は極道者で”\n”そうでした、ひどい極道な兄がいまして”\n”妹を売ろうとして”\n”そうなんです、いまにも妹を、というのはもちろん、八重というあの娘のことなんですが”\n”その人が来ましたよ”と姉は云った。\n 門太はぽかんと姉の顔を見た。\n”その兄という人が、わたくしのところへ訪ねて来たんです、聞えましたか”\n”聞えました”と門太は云った。\n 姉は”それで”と弟の顔を見た。門太は”それでなんですか”ともじもじした。\n”私は普請場へ帰らなければならないんですが、もうかなり時刻がたちましたし”\n”弁明を聞きましょう”と姉は云った、”八重の兄は和泉屋喜助といって、日本橋に大きな京染の店があり、雇人を八人も使っているそうです、八重がお世話になるといって、わたくしに高価な櫛 笄を進物にくれたし、八重の衣装や道具など、葛籠に五つも持ってきました”\n”それではまんざら極道者でもないわけですね”\n”妹おもいの善い兄ですよ”\n”ふしぎですね”と門太は首をかしげた、”もしそれが本当だとすると、つまり私はだまされたんでしょう、だから私は世間が倍じられないというんです、私はまじめにですね、この世の中を”\n”門太さん、あなた逃げるんですか”\n”非番の日に来ます”と門太は廊下へとびだした、”そのときお小言をうかがいます、失礼しました”\n 彼はすばやく玄関へおりた。\n そのとき、門をはいって来た(奥女中ふうの)若い娘が、門太を見てぽうと頬を染め、恥ずかしそうに会釈をした。門太は草履をつっかけて外へ出ながら”やあ”といった。\n”姉はうちにいますよ”\n”非番でございますか”と娘がきいた。\n”いや使い走りです”門太は云った、”いい天気ですね、さよなら”\n 娘は”ごめんあそばせ”と腰をかがめ、うるんだひとみで、じっと彼のうしろ姿を見送った。\n ——あぶなかった。\n もうちょっとでつかまるところだった、と門太は心のなかで云った。もうちょっと姉の部屋にいたら、あの双葉と茶でものまなければならなかったろう、おい、あぶないところだったぞ、門太、と彼は自分に云った。\n”和泉屋はまずかったなあ”と歩きながら門太は渋い顔をした、”おれは断わったはずなんだ、ちゃんとこれこれしかじかと打ち合せたはずなんだが、和泉屋の野郎おれの話を用しなかったんだな、うん”と彼はうなずいた、”姉の気にいれば嫁にもらう、まず姉の気にいるかどうかが先決問題だと云ったのに、……あの野郎おれのことを疑ったのかもしれないぞ”\n そうだ、と門太は心のなかで思った。和泉屋喜助は妹をかどわかされるとでも思ったのかもしれない、商人なんてものは金銭のほかにはなんにも信用しない人種なんだからな——だがまあいいさ、と門太は思った。\n ——八重よりもこんどのお銀のほうがいい、はるかにいいと思う。初めのなみというのとちょっと似ているが、躰の健康な点ではずっといい、うん、お銀のやつうまくやってくれるといいがな。\n 育った境遇が問題だ。しかしなんとかやるだろう、と門太は心のなかでうなずいた。お銀だってばかじゃあなし、酒さえ飲まなければ、大家の令嬢といったってとおるくらいなんだから、こんどは姉公も文句はつけられないだろう、と彼はひとりでほくほくした。\n 姉に約束したにもかかわらず、次の休暇に門太は帰宅しなかったし、そしてその次の休暇にも顔をみせなかった。\n 初めの違約は彼の意志であった。姉の小言を聞くのが億劫だし、三人めのお銀が気にいって、姉の機嫌がなおるのを待つほうが利巧だと思ったからである。しかし、二度めの違約は彼の意志ではなかった、まったく思いがけないことだが、彼は五人のならず者たちと喧嘩をし、半月間の禁足をくったのであった。\n 事情はこうである、——\n その日(それは非番の前日であったが)の午後、彼が普請場の事務所にいると、下役の者が一通の手紙を持ってきた。妙な男が門太に届けてくれといって、置いていったのだそうである。門太はすぐに読んでみた、無学文盲な手合が書いたとみえ、ぜんぶ仮名の字もまずいし文章もでたらめであった。”うん”と門太は鼻をしかめ、ながいこと、穴のあくほどその文字をみつめた、”うん、はいけいしかれば、……というらしいな、けいけいすかりばと読めるが、こいつは訛りだろう、ところで次がわからない、次のこの字が——”\n 彼はその字を判読しようと努めたが、頭は頭でまったくべつのことを考えていた。\n ——おかしなもんだな、税所さんに”あれはどんなぐあいだ”ときかれたとき、おれはてっきり自分のことだと思った、姉に娘たちを預けたことがうまくいってるかどうかときかれたんだと思った、ところが先方は先方で自分の問題について。\n 門太は頭を振り、”おいしっかりしろ”と自分に云った。\n”しっかりしろ”と彼は眼をそばめた、”ここに『はたすあえ』と書いてあるぞ、それからええ、……すんまくじりかっぱしてるんべやなすや、わからねえ、なんだこれあ、まるでお禁呪みたような文句じゃないか、待て待て、ええ、——はたすあえ、すんまくじりかっぽして、すんまく、……わからねえ、頭がちらくらしてきた、かってにしやあがれ”\n 門太はその手紙をくしゃくしゃにまるめ、土間のすみへ投げ捨ててしまった。”
},
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“title”: “三”,
“content”: “ 手紙の用向はすぐにわかった。\n その夕方、事務を終ったあとで、彼は門前町の”辰巳”へ食事にいった。明くる日が休暇にあたるので、一杯飲もうと思ったのである。辰巳はちょっとした料理茶屋で、普請場の侍たちの弁当をまかなっていた。門太は三日にいちどくらいのわりで、酒を飲みにでかけたが、辰巳にはお銀おむらという姉妹がいて、とくにお銀という姉娘が、彼のゆくたびに大はしゃぎで歓待した。\n お銀は縹緻は悪くないのだが、背丈が五尺四寸、よく肥えたたくましいつきで、客がへたな悪戯でもしようものなら”張っ倒す”というふうだったから、妹のおむらのほうが客ににんきがあった。お銀はそんなことは気にもかけない、酒もよく飲むし、明るい気さくな性分で、門太のことを”あたしのいいひと”などと呼び、いちどなどは、二人だけの座敷だったが、酔っぱらって裸踊りをしてみせたことさえあった。\n そのお銀はいま姉のところにいる。\n ——もしも姉の気にいったら嫁にもらうが、少し奥女中で辛抱してみないか。\n ——いいわ、それが本当なら奥女中だって番太だってやってみるわ。\n こんな問答があった。”辰巳”の夫婦は嫁の話はべつとして、娘が行儀作法を覚えることは賛成だった。そうすれば客を”張り倒す”ようなこともなくなるかもしれない。よろしくお願いします、ということになったものであった。\n さてその夕方、——\n 門太は”辰巳”へゆき、お内所で飲んだ。お銀が屋敷へあがってから、夫婦はいつも彼を内所へとおしてもてなすようになった。娘はうまくやっているでしょうか。大丈夫うまくやってるさ。このあいだへんな夢を見ました。夢なんか気にしなさんな。いちどようすをみにゆきたいんですが。姉にきいてみよう。そんな話をしながら飲んでいた。すると、半刻ばかりたってから、店の給仕女が来て、\n”津由木さんにお客が来てます”\n と云った。門太は同僚だろうと思ったが、女はそうではないと云った。二人づれの、風態のよくない男で、ちょっと店まで出てもらいたい、と云っているとのことであった。\n”よし”と門太は盃を置いた。\n 夫婦は”おやめなさい”と止めたが、門太は無腰のまま店へ出ていった。\n 二人は土間に立っていた。なるほど風態が悪い、年はどっちも二十四五くらいで、長半に平ぐけ、ふところ手という、無頼を看板にしたような恰好であった。門太は”おれが津由木だがなんの用だ”と云った。男の一人が、ちょっとそこまで顔を貸してもらいたい、と云った。いま酒を飲んでいるところだ、用があるならここで聞こう。すると相手はせせら笑いをした。\n”おっかねえんですか”と男の一人が云った。\n 門太はかっとなった。\n”おっかねえらしいな”とべつの男が云った。\n 門太は”穿き物を貸してくれ”とどなった。下女が草履を持ってとんで来た。門太はそれをはくとあごをしゃくった。\n”さあ、どこへいくんだ”\n 二人の男はにっと笑い、先に立って店を出た。\n 通りを横切って、暗い横丁を北へゆく。つき当れば永代寺で、その土塀と門がすぐ向うに見えた。門太は歩きながら”ははあ”とうなずいた。さっきの手紙はこいつらがよこしたんだな、たしかにこいつらだ、間違いなしと思うと、おかしくなって、われ知らずくすくす笑った。\n”おい”と彼は前をゆく二人に云った、”あのけいけいすかりばっていう奇天烈な手紙はおまえたちがよこしたのか”\n 二人は振り返った。\n”けいけいなんですって”\n”すかりばさ”と門太は笑った、”それから、すんまくとかとばっちりとか、まるっきりちんぷんかんでわけのわからねえ手紙さ、あれはおまえたちがよこしたのかっていうんだ”\n 二人はささやきあった、”あの爺さんだ”とか”ちゃんと書けるっていったぜ”とか、お互いにささやきあうのが聞えた。つまり代筆を頼んだのだろう、その代筆者がどこかの田舎出かなにかで、あんな手紙を書いたという事情らしかった。\n 永代寺の門前までくると、暗がりからさらに三人の男が現われ、合わせて五人で、門太をぐるっと取り囲んだ。一人が提燈を持ってる、その光で見ると、なかに一人、色のなまっ白い、ぞろっとした着物の、にやけた若者がいた。ほかの四人はみな似たような風態だから、その若者はすぐ眼についたし、”辰巳”へよくくる、どこかののら息子だということがわかった。\n”ははは”と門太は云った、”おれを呼びだしたのはおまえさんだな”\n”やかましいやい”\n と無頼漢のなかの、肥えた大きな男がどなった。のら息子の脇にいて、どうやらこの中でのあにい株らしい。ぐいと前へ出て来て、門太のことをすごくにらんだ。\n”おらあ洲崎の伝次ってえもんだ”とその男は云った、”おめえさんはお武家にも似あわねえ、辰巳の夫婦をうまくまるめて、娘のお銀さんをどこかへさらっていったろう”\n”ばかを云え、お銀は屋敷奉公にいったんだ”\n”どんな屋敷奉公かわかるものか”と伝次は云った、”おおかた手馴ずけて、てめえの囲い者にでも、しようというんだろう”\n”察しがいいな”と門太は云った、”奉公ぶりがよければ、囲い者どころか正式に結婚するつもりだ”\n”うるせえや”と伝次がわめいた、”お銀さんにはな、ここにいる吉野屋の若旦那という、れっきとした、なんだあ、その立派な旦那がついているんだ”\n”なるほど”と門太は若旦那を見た、”なるほどな”と彼はうなずいた、”なかなか立派そうな若旦那だ、うん、おれも辰巳でちょいちょい会ってる、いつかお銀の乳をなでて張っ倒されたっけ、若旦那はすっ飛ばされた案山子みたように”\n”やかましいやい”と伝次がどなった、”四の五の云わずにお銀さんを返せ”\n”お銀ちゃんを返せ”と若旦那がきいきい声で叫んだ。\n”うすっきみの悪い声だ”と門太は云った、”——お銀は子供じゃあないから、帰りたければ帰るだろう、お銀へじかにそう云うがいい、用がそれだけならおれは帰るぜ”\n”おめえそれですむと思うのか”\n”おれは酒の途中だ、酔いがさめるから通してくれ”\n”やっつけておやり、伝次”と若旦那がきいきい声で叫んだ、”かまわないからうんとやっつけておやり”\n 伝次は”がってんだ”といって殴りかかった。門太はとびさがった。”
},
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“title”: “四”,
“content”: “ 友達の三浦信吉郎は、のんべえであるが、酔うとべらぼうに強くなる。いつか浅草のほうで七人を相手に喧嘩をして勝ち、七人をくたくたにしてしまった。そのときうしろから丸太ん棒で頭をなぐられたが、なぐったやつは手がしびれたのに、吉郎は平気な顔で、そいつをひっつかまえて投げとばした。あとでみると、後頭部に瘤ができていただけで、自分ではなぐられたことも気がつかなかったそうである。——門太は素面だと相当に強い、三浦信吉郎なども一目おいているくらいだが、酒がはいるとだめであった。\n 殴りかかった伝次の拳をのけ、一人を突きとばした。横から組みついてきたやつを、組ませたまま、ほかの一人の顔を叩いた。\n”よせ”と門太は叫んだ、”おれは怒るとあぶないんだ、なにをするかわからない、あっ”と彼は叫んだ、”おいやめろ、きさまたちみんな片輪者になっちまうぞ、やめろ”\n だが四人はやめなかったし、どうやら喧嘩には練達者だったらしい。門太は押し倒されさんざんに殴られた。\n さいわいそこへ町方の役人が(”辰巳”の者の知らせで)来たからよかったが、さもなければ門太自身が片輪者になったかもしれなかった。役人が来たので若旦那と四人の無頼漢は逃げてしまったが、門太はまだ地面の上でばたばたれながら、”やめろ、やめろ”と叫んでいたそうである。\n”おれが怒らないうちにやめろ、おれが本当に怒ると手がつけられないぞ、命が惜しかったらいまのうちにやめろ”\n 役人は彼を助け起こして、”辰巳”までつれていった。\n もう酒どころではなかった。着物はほころび、袖はちぎれ、全身泥だらけで、手足はひっ掻き傷、頭は瘤だらけ、片方の眼は紫色にはれふさがっていた。——彼はそのはれふさがった眼から、ぽろぽろと涙をこぼしながら、役人の質問にはなにも答えなかった。\n”いや、なんでもない、ころんだだけだ”と門太は主張した、\n”道が凍っていたので、ついすべってころんだのだ”\n しかし役人は信用しないようすで、断わったのに普請場の小屋まで送って来た。\n 喧嘩したことが露顕したのは云うまでもない。とくに脇差も差さず、無腰だったことが(役人は贔負して告げたつもりらしいが)上役に知れ、ついに半月間の禁足ということになった。もっとも、その顔ですぐ使番を勤めるとしたら、彼自身にとってもっと閉口ものだったろうが。\n 禁足がとけた日に、門太は上屋敷へ”御印筐”を返しにゆく役に当った。”御印筐”というのは、藩主対馬守の印章を入れた筐で、月に一度ずつ、工事担当の大名三家(林播磨守、立花左近将監、本庄安芸守)から届出する書類へ、総奉行として対馬守が照合検印するものであり、そのたびに宝庫から出して来、すむとすぐ宝庫へ戻すのであった。\n 上屋敷へゆき、老職部屋で税所主殿に封をしてもらった。主殿は年寄肝入で、”御印筐”の出し入れの責任者であった。\n”帰りに自宅へ寄るがいい”と主殿は筐に封印をおしながら云った、”すみ江どのがなにか用があるそうで、必ずたち寄るようにと伝言があった”\n 門太は”そうですか”と云った。\n”お小言だぞ”と主殿は云った、”喧嘩のことは評判だからな”\n”喧嘩ではないんですよ、ただすべってころんだだけなんです””お小言にちがいない”と主殿は”御印筐”をおしてよこした、”それとも、うん”と主殿は門太を見た、”そうだ、ことによると例の話ではないだろうか”\n 門太は返辞に困り、”はあ”と眼をそらしながら”御印筐”を両手で受け取った。\n”そうかもしれないぞ、うん”と主殿は自分にうなずいた、”ことによるとあの話かもしれない、もうそろそろ決心のつくじぶんだからな”\n”これを御宝庫へ納めます”\n”結構だ”と主殿は云った、”そして必ず自宅へ寄って、もしすみ江どのの話が例の件だったら、すまないが私にちょっと知らせてくれ”\n 門太は”承知しました”と答え、なおなにか云いたそうな主殿にはかまわず、逃げるように老職部屋から出た。ところが、御宝庫へゆく途中の廊下で、三浦信吉郎に呼び止められ、喧嘩のことをからかわれた。\n”すべってころんでひっ掻き傷や瘤だらけになるというのは珍聞だな”と三浦が云った、”躰じゅう泥だらけ、着物はほころび袖はちぎれ、そうして地面にひっくり返って、誰もいないのにおそろしく威張ったことをわめきちらしていたそうじゃないか”\n”すまないがちょっと外へ出てくれ”と門太は云った、”そのことなら外で話すとしよう”\n 三浦は”よかろう”と云った。\n 門太は廊下を戻って、三ノ口から外へ出た。吉郎もついて来た。彼は一杯飲めると思ったらしい、多少いそいそしているふうだったが、笠木婦の木戸を出たところで、振り返った門太の眼を見たとたん、三浦はさっと顔色を変えた。\n”さあ、——”と門太は云った、”いま云ったことをもういちど云ってくれ”\n”まあ待ってくれ、おれはただ”\n”はっきり聞こう”と門太は云った、”おい、のんだくれの太っちょ、おれがすべってころんでどうしたとか云ったな”\n”待ってくれ、おれはあやまるよ”と三浦はおじぎをした、”べつにわる気で云ったんじゃない、本当だよ、二人の仲だから心やすだてについ”\n”門太さん”と呼ぶ声がした。\n 門太は振り向いた。するとそこに、姉のすみ江が、双葉をつれて立っていた。信吉郎はほっと救われたような顔をし、門太は首がちぢみそうになった。\n”これから寄るところです”と門太は姉に云った、”いま三浦にちょっと用があるもんですから”\n\n”いや用はすんだんですよ”と三浦はすみ江に云った、”いま津由木にとっちめられましてね、やっと勘弁してもらったところなんです、では津由木”と彼は門太に手を振った、”また近いうちに会おう”\n 門太は噛みつきそうな眼でにらんだ。\n 姉は”ゆきましょう”と云った。双葉は手を出して”お持ちいたしますわ”と云い、門太のかかえている物を受け取った。\n ——これはことによるとおたのことかもしれないぞ。\n 門太はふと心のなかでそう思った。\n おたとは双葉のことである。彼女は国井靭負という勘定奉行の娘で、同じ上屋敷の中に家がありまえには津由木と隣り同士だった。門太とは四つ違いで、今年はもう二十二になる。二人はごく幼いころから仲がよく、まるで兄妹のように親しかった。双葉はまる顔で、眉と眼がやや尻下がりであり、笑うと両方の頬にえくぼがよる。自分のことを”おた”と呼び、門太のことを”もんたん”と呼んだ。\n 門太が十五の年に、邸内の地割りが変更され、そのとき国井の家はお庭下のほうへ移った。津由木とは六七丁も離れてしまったが、それでも双葉は毎日のように遊びに来たし、ときには泊ってゆくことさえ珍しくはなかった。——これは津由木ですでに父母がなく、すみ江(彼女はもう御殿へあがっていたが)と叔母と門太の三人ぐらしで、淋しくもあり、ほかに気がねがなかったからでもあろう。そのじぶんでもまだ双葉は、自分のことを”おた”と呼ぶことがあったし、津由木ではずっとその名で呼ぶならわしであった。\n 門太が二十一になったとき、姉のすみ江が”双葉さんを嫁にもらう気はないか”と門太にきいた。門太は笑って”おたをですか”ときき返した。笑いごとじゃありません。まじめな話です。よろしい、考えてみます。なにを考えるんですか、と姉がきいた。なんということもないが、とにかくよく考えてみます、と門太は答えた。\n それからしばらくして、すみ江が”双葉さんのことはどうしました”ときいた。\n 門太——どうも気が進まないんです。\n すみ江——嫌いではないんでしょう。\n 門太——おたとしては嫌いじゃありません。しかし妻としては好きになれそうもないんです。\n すみ江——それはどういうわけですか。\n 門太——はっきり云えないんですが、なにしろ小さいときからあまり親しくしてきたので、その、つまり他人のような気がしないんです。\n すみ江——いいではないの、それほど気心がよくわかっているのだから結構じゃありませんか。\n 門太——あなたにはわからないんです。\n すみ江——なにがわからないの。\n 門太——私にとっておたは妹みたようなものです、おたと結婚することは、私には妹と結婚するのと同じことなんです。\n 姉は”まあ呆れた”と云い、門太は”私はいやです”とはっきりと断わった。\n それから五年経つ、——双葉は十七歳で奥勤めにあがり、現在では姉の下で、奥方づきの部屋持になっている。姉は口には出さないが、まだ二人の結婚をあきらめてはいないらしい。それで門太は門太の手段を考案したのであるが、どうやら今日の姉のようすでは、あらためて双葉の話がむし返されるように思える。門太にはどうもそんなふうに直感されるのであった。\n”わたくしの部屋へいらっしゃい”\n 家へ着くと、姉がそう云った。\n”双葉さんは叔母の部屋で待っていてください””
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{
“title”: “五”,
“content”: “”さきにお断わりしておきますが”\n 姉の部屋へはいると、すぐに門太が云った。\n”おたの話ならどうかよしてください、それはおっしゃってもむだですから”\n”お坐りなさい”と姉は云った、”話はそのことではありません”\n 門太は坐って、”では喧嘩のことですか”ときいた。すみ江はいぶかしそうな眼をし、”あなた喧嘩をしたんですか”と反問した。門太はしまったと思い、”いやなに、べつに”などと口をにごした。すみ江は喧嘩のことは聞いていないらしい、えへんと咳をし、まっすぐに弟の眼をにらんだ。門太はまぶしそうに、まじまじと眼をそらした。\n”門太さん”と姉が云った、”あなたわたくしの眼が見られないんですか”\n”どうしてです、見られないことはありません、見られますよ”\n”ではまっすぐに見てごらんなさい”\n”こうですか”彼は姉の眼を見た。\n”そのままお聞きなさい、眼をそらさずにですよ、門太さん”と姉は云った、”あなたが三人めにつれて来た娘は、いったいどういう育ちだかもういちど聞かせてください”\n こんどは門太が”えへん”と咳をした。\n”あの娘の、育ちですか”\n”眼がそれますよ”\n”えへん”と彼は咳をした、”それはあのとき、手紙に書いたとおり、じつになんとも、あわれ極まる、——姉上は忘れたんですか”\n”お続けなさい”\n”率直に云いますが、姉上が知りたいのはあの娘の育ちの問題じゃあないでしょう”と門太は云った、”本当はおっしゃりたいことはべつにあるんじゃないのですか”\n”それがわかりますか”\n”それはもう”と彼はにこにこした。\n”ではなんだと思います”\n 門太は”さて”といった。すみ江はしばらく弟の返辞を待っていた。が、やがて”時間が惜しいから申しましょう”と云った。\n”あの娘、……お銀というあの娘はとほうもない娘です、つい四日ばかりまえのことだけれど、肌ぬぎに鉢巻をして、御殿の中を大あばれにあばれまわりました”\n”お銀がですか”門太はぎょっとした、”あのお銀がですか”\n”鉢巻をして肌ぬぎで、お乳なんかもうまる出しです”と姉は云って、”そして擂粉木を振りまわして、張っ倒すぞ張っ倒すぞってわめきながら、いいえ、もっといやらしいみだらなことをわめきながら”\n”ちょ、ちょっとうかがいますが”と門太がきいた、”それはもしや、その、誰か酒でも飲ませたんじゃないでしょうか”\n”誰が飲ませるものですか、あとで聞いたら、自分でお台所へいって飲んだということです”\n”ああ、——”と門太は片手で額を押えた。\n”お台所の者が気づいたときは、ほとんど二升ちかくも飲んだあとだったそうです”とすみ江は云った、”みんなで押えようとしたけれど、蠣はあのとおりだし力は強いし、——どんな騒ぎだったかあなたにも想像がつくでしょう”\n”どうもまことに、その、なんとも”\n”それでどんな育ちかきいたんです”と姉は云った、”けれども肝心な話はそのことではありません、あなたはむりやり、三人の娘をわたくしに押しつけました、いろいろな、——ありもしない理由や、つくり話の身の上を云いたてて、部屋子に使ってくれといって押しつけましたね”\n 門太は黙って(神妙に)頭をたれた。\n”なぜそんなことをするのか、わたくしはすぐにわかりました、あなたはあの娘たちの中から、嫁を選ぶつもりだったのでしょう、門太さん、そうでしょう”\n”ええじつは、単直にいえばですね”\n”いけません、不承知です”と姉は云った、”そんなことはおやめなさい、ばかげています”\n”なにがばかげているんですか”\n”ばかげていないとでもお思いなの”と姉はひらき直った、”肌ぬぎのお乳もまる出しで、張っ倒すとかばらすとか、このせ……あま(その言葉に姉は自分で赤くなった)とかわめきちらしながら、御殿じゅうあばれまわるような娘を、かりにも嫁にしようなどということが”\n”それはべつです、それはお銀が酒を飲んだからなんで”彼はこう云いながら、いつかお銀が裸踊りをしたことを思いだして、われ知らず首をすくめた、”酒さえ飲まなければ、お銀はどこの大家の娘にも劣らないくらい”\n”たくさんです、よしてちょうだい”姉はぴしっと云った、”奥勤めをしていれば、女だって酒ぐらい飲まなければならないときがあります。どんな家庭だってそうでしょう、でも娘の身で二升も飲み、あんな騒ぎを始めるようで、武家の妻がつとまると思いますか”\n”しかしそれは良人しだいでしょう、人間には誰しも欠点があるものです、その点をお互いの愛情で直しあってゆくのが、夫婦というものじゃないでしょうか”\n”あなたにそんなことがわかるんですか”\n”あなたは考えが古いですよ”と門太もひらき直った、”まあ聞いてください、昔の武将たちは軀の立派な百姓の娘などを選んで、健康な強い子を産ませたものです、家柄だの階級などにこだわっていると、ろくな子孫はできやしません、問題は強い健康なです、侍だから侍の娘を嫁にするなんて、そんな考えは寛永時代の、古くさい”\n おかしいじゃないの、と姉がさえぎった。なんですか。なんですかって、あなたいま”昔の武将たちはそうする”と云ったでしょう。ええ云いましたとも、でも昔というのは寛永より前ですか後ですか。それはもちろん、その、——寛永よりずっと前でしょう。それなら門さんのほうが古くさいんじゃないんですか。いや私はその。——なんですか。私は時代のことを云ってるんじゃありません、ものの考え方のことを云ってるんです、と門太は云った。\n”いいでしょう”と姉は云った、”それがあなたの本心ならあの娘を嫁になさい”\n”怒ったんですか”\n”あの娘をおもらいなさい、さぞ立派な花嫁ができるでしょう”と姉は云った、”わたくし楽しみに拝見しています”\n”もうおそくなりますから、帰ってもいいでしょうか”\n”時間が救いの神のようね”と姉は唇で笑った、”断わっておきますが、わたくしをこの縁談にひきださないでください”\n 門太は聞きながし、失礼しますと立ち上がり、”また来ます”と云って逃げだした。\n ——さんざんだね、え、門太先生。\n 上屋敷の門を出ながら、彼は自分にそう云い、舌を出した。\n ——さんざんだったが、どうやら勝ちはこっちのものらしいぞ、うん、お銀のやつが酔っぱらったのは失敗だったが、……あいつ、まさか酒を飲もうとは思わなかったがな、二升もあおりつけたとしたら、さぞみものだったろう、うん、さぞ壮観なことだったろうよ。\n 門太はくすくす笑いだした。”
},
{
“title”: “六”,
“content”: “ 姉は”あの娘をもらえ”と云った。\n それをそのままは信じられない、姉は怒って少しばかりのぼせていた、”あれは云い間違いです”などと云いだすかもしれない。女というものはそのときの感情で、なにをどう云い曲げるかわからないものだ。\n”しかしともかく”と門太は呟いた、”ともかくいちどはあの娘をもらえと云ったので、それを云わせたのはこっちの勝ちだ、……だが、勝ちは勝ちだが”と彼は立ちどまった、”おれはなにか忘れ物をしたらしいぞ”\n そこは永代橋の上であった。十二月中旬の午後三時すぎで、空は曇っていたし、おそろしく寒い風が吹いていた。門太はふところや両の袂をさぐってみた。あるべき物はみんなある、だいいち忘れるような物は持ってゆかなかったはずだ。門太は不決断に歩きだした。\n”おかしいな”と彼は首をひねった、”どうもおかしい、なにか忘れ動をしているようだ、たしかにそんな気がするんだが……”\n 彼は普請場へ帰った。\n 門太は忘れ動をしていたのであった。そして、夜半になって思いだした。それを思いだしたとき(彼は寝ていたのであるが)あっと叫んで、はね起きた。\n”しまった”と彼は叫んだ、”しまった、そうか、あれだったのか”\n”なんだ津由木”と隣室から同僚が云った、”なにごとだ、盗賊か”\n”いや、なんでもない””ではなんだ、火事か”\n”いや賊でも火事でもない”と門太が情けない声で云った、”なんでもない、寝てくれ、夢をみただけだ”\n 同僚は”おどかすなよ”と云い、そのまま寝たようであった。門太は夜具の上に坐って腕組みをし口の中でぶつぶついいながら、ややしばらく起きていたが、やがて”しようがない、明日暇をもらっていってみよう”と呟き、夜具をかぶって寝てしまった。\n 朝になるとすぐ、彼は支配のところへいって、半日の賜暇を頼んだ。支配は機嫌の好い顔はしなかった。松木秀十郎という五十七歳になるその支配は、”そこもとは禁足が昨日解けたばかりでしたな”と、いやに丁寧な口をきき、眼鏡の上からじろっと見た。\n 自宅に急用ができたのです、と門太は懇願した。急用とはどういう用ですか。非常にいそぐ用なんです。それはそうでしょうな。ええそうなんです。急用といえばたいていいそぐものらしい、支配はそう云って薄笑いをした。\n”いけないんですか”門太はかっとなった、”いけないなら私は総支配へお願いすることにします”\n 松木支配は”まあまあ”といった。松木支配は総支配の渡辺備後をおそれていた。松木支配は眼が悪く、記帳などもよく間違えるので、まえから総支配ににらまれていたのである。\n”そういうことなら”と松木支配は云った、”私の一存でとくに暇をあげるとしましょう”\n”それはどうも”と門太はおじぎをした。\n”ただし半日ですぞ”\n”午まえには帰ります”\n どうもすみませんと云って、門太はそこを出るなり、まっしぐらに普請場からとびだしていった。\n 上屋敷の自宅へ着いた彼は、出迎えた叔母に向って、いきなり”私の忘れ物は”ときいた。気のいい叔母はどぎまぎして、すぐには返辞ができなかった。結局のところ叔母はなんにも知らないのである。門太は”御紋章のついた服紗に包んだこのくらいの大きさの包みですよ”と念をおした。叔母は困ったような顔をした。\n”ゆうべ税所さまがみえましてね”と叔母はつかぬようなことを、ぼっと赤くなりながら云った、”すみ江さんとながいこと話していらっしゃいましたよ”\n”包みです包みです”と門太は叫んだ、”私の忘れていった包みのことをきいているんですよ”\n 叔母は笑い顔をつくった。門太は”自分で捜します”と云い、姉の居間へとびこんでいったが、そこではっと思いだした。\n”そうだ”と彼はうなった、”そうか、おたに預けたんだ、お持ちしますわと云って、おたがおれの手から取り、おたが持って、……そうだ、それから姉のお説教を聞き、御印筐を忘れたままで逃げだしたんだ”\n 彼は戻って、また叔母にきいた。すると叔母は、”ああ”といった、”そういえば双葉さんが持っていたようですよ”それをどうしました、”さあどうしたかしら”置いてゆかなかったんですか、”どうしたかしら”と叔母は考えた、”ここにはみえなかったから、たぶん双葉さんが持っていったのでしょう”と叔母は云った。\n”おたを呼んで来てください”\n”——だって門さん”\n”呼んで来てください”と彼は叫んだ、”あれがなくなりでもすると切腹ものです”\n 叔母は眼をまるくし、顔色を変えた。そうして、甥がしんけんであり、気のいい叔母をだましているのでないことを認めると、急にふるえだしながら、双葉を呼びに出ていった。\n”出て来られればいいが”と門太は式台をそわそわ歩きまわりながら云った、”奥勤めはむずかしいらしいからな、しかし責任はおたにあるんだ、おたが持ちましょうなんて洒落たことを云って、——やあ、これはどうも”\n 門太はおじぎをした。向うから税所主殿が来たのである、麻裃で、すっかりめかしこんで、髪などは(油を濃くつけたとみえて)ぴかぴか光っている。主殿はなにか紙包みを持って、明朗に笑いながら玄関へはいって来た。\n”ちょっとね”と主殿は云った、”小萩どのにこれを、——珍しい到来物があったのでね、小萩どのは御在宅かね”\n 門太はまじまじと相手を見た。すると主殿はばつの悪そうな顔をし、咳をして、”じつは昨夜すみ江どのに会って話をした”と云いだした。門太では埒があかないと思ったわけではなく、自分で直接談判がしたくなったのだそうで、ところが、すみ江は主殿の申込みを誤解した。主殿が叔母を欲しいと云うのだと誤解し、”それは結構だと思う、ぜひもらってください”と云ったそうである。\n 門太は心のなかで”ははあ”と思った。いましがた叔母は、ゆうべ税所がみえた、——と云いながら赤くなった。つまり叔母は知っていたのであろう。また姉が誤解したのは、門太から話をきいたとき、”いやです”とはっきり断わっているので、縁談となれば叔母のことだと、初めから思いこんだものに違いない。だが、主殿その人はいったいどうなのか。\n”私はね、じつに縁は異なものという金言を思いだしてね”と主殿は云った、”すみ江どのにそう云われて、はじめて小萩どのという人がおり、自分とは似合わしい縁であるということに気がついたわけだ”\n”すると”と門太はどもった、”つまり、——”\n”さよう、つまり私は小萩どのを”\n 門太は”ああ叔母が来ますよ”と云った。”
},
{
“title”: “七”,
“content”: “ 叔母はいそいで来たため赤い顔をしていたが、主殿のいるのを見るともっと赤くなり、いまにも消えてしまいそうなふぜいで、しなしなと会釈をした。主殿は主殿ですっかり昂奮してしまい、土産物を出したり引っ込めたりしながら、それが、”つまらない到来物”であることや、べつに”仔細があって”持って来たわけではないことや、俗に”食べ物と念仏は一と口ずつでも”という金言があることなど、脈絡もなく並べたてた。叔母は叔母で、手を(土産物へ)出したり引っ込めたりしながら、恍惚と、まるで夢でもみているように、うっとりと主殿の話に聞きほれていた。\n これはきりがない。門太は”叔母さん”と無遠慮に声をかけた。\n”どうなんです、おたは来るんですか”\n”あら門さん”と叔母はさらに赤くなり、おろおろと主殿に云った、”あの、失礼ですけれど、ちょっとおあがりくださいませんでしょうか”\n 主殿はもごもごと云った、”今日は非番ではあるが”とか”すみ江どのがお留守では”とか、要するにあがって話したい肚らしい、門太はがまんを切らした。\n”あがってください”と門太は(ほとんど)どなった、”どうかあがってゆっくり話してください、しかしいまは私が叔母に用があるんです”\n”まあ門太さん”\n”おたは来るんですか来ないんですか”\n”なんですか門太さん”と叔母はおろおろした、”税所さまがいらっしゃるのに失礼じゃございませんの”\n”お願いです”と門太は主殿に云った、”これでは埒があきません、お願いですからあがって、叔母にちゃんと私と話ができるようにさせてやってください”\n 叔母も”どうぞ税所さま”とすすめた。主殿はあがった、叔母は彼を奥へ案内した。\n”早く戻って来てくださいよ”\n 門太はうしろからどなった。\n しれたことだが、叔母は戻って来るようすがない。門太の前でさえあんなにのぼせあがっていたのだから、二人っきりになったらどうなるか、それは、——いや、門太は草履を突っかけて、玄関の外へとびだした。\n 向うから双葉の来るのが見えた。\n”やあ”と門太はかけだした、”やあ、呼び出してすまない”\n 双葉は頬を染めながら会釈した。\n”あれはどうしました、あのときのあれは”\n”はい”と双葉はすぐに諒解した、”お渡しいたそうと思ったときは、もうお帰りになってしまったあとでしたから”\n”どこにあるんです、お宅ですか”\n”それがあの、——よく見ると服紗に御紋章が染めてありますし、中は封印のある筐で、これはよほど大切なお品だと思ったものですから”\n”それでどうしたんです”と門太はせきこんだ。\n”それで御仏堂へ入れて置きました”\n”御仏堂だって”\n”はい”と双葉はうなずいた、”あのあとで奥方さまの御念議があり、わたくしがお供をいたしました、御仏堂なら決して人がはいりませんから、どんな大切な品でも大丈夫と思いまして、御厨子のうしろへ、そっと置いてまいりました”\n”それはいま出せますか”\n 双葉は”さあ”と当惑した。\n”出せないんですか”\n”御仏堂は奥方さまのほかにあけたてのできないものですから”\n 門太は片手で額を押えた。畜生、なんてこった、と彼は心のなかで毒づいた。よけえなお節介をしやあがって、だからおたなんか嫌いだっていうんだ。しかしどうしよう、どうしたらいいんだ、と門太は自問した。\n 御仏堂は松平家代々の夫人の持仏堂で、御殿の中庭に独立して建っている。本尊は黄金(無垢だそうであるが)の如来像であって、年に一度ずつ、家中の者にも拝観——したければ、することが許されていた。門太などはぜんぜん無関心で、これまでかつて拝観などしたことはないが、こういうことになってみると無関心どころではない、できることならたったいま拝観したいくらいであった。\n”いまぜひ必要なのでしょうか”\n”ぜひ必要です”と門太が云った、”あれは殿さまの御印筐で、御宝庫へ納めなければならなかった、それが廊下で三浦の太っちょに会って、つい喧嘩になったものだから、——あれ、あれはなんだ、なんでしょう、ひどく煙があがっているが”\n 門太が向うを指さした。\n 双葉は振り返って”お中庭のようでございますね”と云った。そのとき中庭のほうが、にわかにがやがやと騒がしくなり、”火事だ”とか、”手桶を””竜吐水を出せ”とかいう叫び声が聞えた。中の木戸から人がとびだして来、徒士長屋の者たちがかけだしていった。\n”火事だ”と門太が云った、”ちょっといって見て来ます”\n 双葉がなにか叫んだが、門太はそのまま走っていった。\n 中の木戸から笠木をぬけてゆくと、煙は一段としくなり、人の混雑もひどくなった。その人たちの中から”昨日の夕方、御念誦があったそうだ”とか”ではその残り火だな”などという言葉が聞えた。\n 門太は不安になり、その侍を呼び止めた。\n”ええそうです”とその侍は答えた、”火事は御仏堂です”\n 門太は仰天し、人をはねのけ突きのけ、中庭へと夢中でかけつけた。\n 火事は御仏堂であった。大和の法隆寺の夢殿を模して造られたという(規模はずっと小さいが)その仏堂は、八角宝形の庇や、扉のすき間からふき出す煙に包まれ、垂木のあたりにはちろちろと焔の色さえ見えていた。\n”どいてくれ”と門太は人垣に割ってはいった、”どいてくれ、とおしてくれ”\n 門太は人垣をぬけ出ると、そのまま仏堂に向って走ってゆこうとした。するとうしろからとびついて、彼を抱き止めた者があった。\n”よせ津由木、もうだめだ”\n”はなせ”と門太は振り返った、抱き止めたのは三浦信吉郎であった、”止めるな三浦、放せ”\n”やめろ”と三浦が云った、”御本尊の如来さまは金むくだ、焼けても溶けるだけで損はない、はやまるな”\n じつに冷静な判断である。が、門太としては感心しているばあいではなかった。”なにをこの野郎”と云いさま、拳骨で相手のあごを突きあげ、信吉郎が”ぐっ”といって腕をゆるめるすきに、刀をほうりだしながら走っていった。\n 扉の前へ立つと、熱気がむっと顔を打った。扉には鍵がかかっている。門太は力をこめて、全身を扉に叩きつけた。二度、三度。扉の蝶番が(すでに焼けていたので)はずれ、倒れる扉といっしょに、彼は堂内へころげ込んだ。\n 内部は火と煙で充満していたが、扉が倒れて外気が流れ込んだためだろう、充満した煙がぱっと火になり、まるで生きもののように扉口からふきだした。その一瞬、堂内が眼のくらむほど明るくなり、中央に安置された厨子がおごそかにありありと見えた。”
},
{
“title”: “八”,
“content”: “ ——あのうしろだ。\n 門太はそう思い、焙の下をくぐって、そっちへ近よった。火熱と煙とで、眼もあけられず、呼吸もできない。めくらさぐりに厨子へたどり着き、そのうしろを探った。服紗包みはそこにあった。服紗には火がついているけれども、中の筐は大丈夫らしい、”八幡、——”と門太は心のなかで叫んだ。\n 彼は扉口のほうへ戻った。すると、梁らしい大きな材木が、火になって落ちて来、だだっと片方の端で床を砕いたまま、斜めに門太の退路をふさいだ。金粉を飛ばしたように、微細な火の粉が渦を巻き、髪毛の焦げるのが感じられた。門太は”だめだ”と思った。\n ——もう出られない。\n これがおれの最期だ、と思った。するとふいに”おたに会って死にたい”という激しい想いが胸をしめつけた、”おたにひと会ってから死にたい、ひと眼だけでいいから、——”門太は自分を罵倒し、呪咀した。こんなときになって初めて、本当に誰が好きだったか気づくなんて、……だがもうおそい。門太は喉が焼け始めたと思った。胸がつぶれそうになり、眼が舞ってよろめき、前のめりに倒れた。\n そのとき彼を呼ぶ声が聞えた。\n”どこです”と女の声が叫んだ、”門さん、どこにいらっしゃるの”\n 彼は答えようとした。しかし声が出なかった。彼は御印筐をかかえ、倒れたままで顔をあげた。すると斜めに落ちて(燃えて)いる梁をくぐって、頭から着動をかぶった人間がとび込んで来た。\n ——おただな。\n 門太はそう直覚した。いま彼女のことを考えたばかりなので、おたに相違ないと思い、けんめいに半身を起こした。とび込んで来た相手は彼を認め、走り寄って、自分のかぶっていた物(それは布子二枚を水に浸したものであった)を門太にかぶせ、えいというと、彼を横さまにかかえた。これは大力である、そして、さらにそのとき、扉口から竜吐水がそそぎ込まれ、外から人たちの声援するのが聞えたが、門太は不覚にも気を失ってしまった。\n 門太は自宅の寝床の中でわれに返った。\n 躰じゅうが熱く、燃えるようで、しかもいたるところひりひりと痛んだ。眼もはれふさがってしまって、なにか見ようとしても瞼があかなかった。\n”動いてはだめです”と枕で姉の声がした、”お眠りなさい、もう大丈夫です”\n 彼は”御印筐は”と云った。自分でもびっくりしたくらいな、とんでもないしゃがれ声であった。\n”御印催も無事です”と姉が云った、”もう御宝庫へ納めていただきましたよ”\n 彼はまた、”おたはどうしました”ときいたが、その声はひしゃげたようで、まるで言葉にならなかった。門太はわれながらあさましくなり、眠ることにした。\n 七日めになって、門太はようやく人心地がついた。右の肩と背中の一部と腕(御印筐をかかえた)と、左の足に火傷をしたが、たいしたことはなかった、問題は髪毛や眉毛が焼けてしまい、声がつぶれたことである。まる坊主で眉毛のない顔とくると、業病者か化け物であろう、ただしこれはすぐに生えてくると医者が証明した。\n”ただその声がです”と医者は云った、”その声がもとどおりになるかどうかという点については、さすがのわしもちょっと——”\n なにがさすがだ、この籔医者め、と門太は心のなかでどなった。\n 彼が火中から御印筐を取り出したことは、貶二説にわかれて評された。しかしともかく、——それが失態だったにせよ、彼は死を賭して責任をはたしたので、重役たちの意向は賞することに傾いている、という噂であった。\n”驚きましたね、姉さん”\n ある夜、門太は姉に云った。寝たまま看護されるうちに、彼は少年時代のような、すっかりあまえた気分になっていた。\n”ねえ姉さん”と門太はひしゃげた情けない声で云った、”いざというときになると、女は男より力が出るっていいますが、あのとき私を横抱きにした力は、まったくすごいもんでしたよ”\n”驚くにはあたりません、あのくらいあたりまえのことです”\n”あたりまえですって”\n”もちろんよ”と姉は云った、”一人ぐらいなんですか、二人だって三人だって、平気でひょいひょいだわ”\n”まさかそんな、まさか、いくらなんだって”\n”どうして”と姉は弟を見た、”あなたは自分の嫁になる人の強さをご存じないの”\n 門太はぽかんと姉を見た。\n”嫁になるって”と彼はどもった、”——誰のことですか”\n”もちろんお銀ですよ”\n 門太は”おぎ”と喉を詰らせた。すみ江はいぶかしそうに弟を見、それから”あなた知らなかったの”ときいた。\n”ええ”と門太は云った、”お銀とは、知りませんでした”\n”ではわかってよかったわね”\n”しかし、本当にお銀ですか”\n”そんなことを疑うと、結婚してからぎゅうというめにあいますよ”と姉は云った。\n 門太は唾をのんだ。それからおそるおそる、”おたはどうしていたのか”ときいた。姉はまた弟を見、それから”あの人は気を失って倒れました”と云った。門太が御仏堂の中へとび込み、扉口から火がふきだすのを見たとたん、悲鳴をあげて卒倒したということであった。\n”でも、——”と姉は云った、”どうして双葉さんのことなどきくんですか”\n”結婚したいからです”\n”お銀とでしょう”\n”おたとです”と門太は云った。\n”なんですって”\n”おたと結婚したいんです、いけないんですか”\n”あなた正気なの”\n”いけないんですか”\n”信じられません”と姉は云った、”急にそんなことを云いだして、お銀に命を助けられたというのにどうしたんです、なぜいまになってそんなこと云いだすんですか”\n”わかったんです”と門太が云った、”火に包まれて、これが最期だという、ぎりぎりのときに、初めて、——本当に好きなのはおただということがわかったんです”\n 姉は眼をそらした。\n”人間というやつは”と門太がつぶれた声で云った、”いま死ぬというどたん場にならないと、気のつかないことがいろいろあるらしいですね”\n”あなたは姉さんをまごつかせてばかりいるのね”と姉は云った、”いったいお銀はどうすればいいの”\n”あれは深川へ帰りますよ”\n”深川へですって”\n”うちが料理茶屋なんです”と門太が云った、”きっとのうのうして、一升酒でもあおって、どこかの若旦那でも景気よく張っ倒すことでしょう”\n\n\n\n おしまい”
}
],
“characters”: [
{“name”: “津由木 門太”, “role”: “主人公・御普請役”, “desc”: “幼馴染の”おた”を妹扱いしていたが、死の淵で愛に気づく。少しおっちょこちょいだが責任感は強い。”},
{“name”: “双葉 (おた)”, “role”: “門太の幼馴染”, “desc”: “門太を”もんたん”と慕う。奥ゆかしいが機転が利く。火事の際はショックで気絶してしまう。”},
{“name”: “お銀”, “role”: “料理茶屋の看板娘”, “desc”: “大柄で怪力、酒を飲むと暴れる。火事の現場から門太を救出した真の英雄(怪力)。”},
{“name”: “すみ江”, “role”: “門太の姉”, “desc”: “奥女中”中老”。しっかり者で、門太とおたの結婚を熱望している。”},
{“name”: “税所 主殿”, “role”: “上司・年寄肝入”, “desc”: “妻を亡くしている。津由木家に頻繁に出入りするが、実は狙いは門太の叔母・小萩だった。”},
{“name”: “三浦 吉郎”, “role”: “同僚”, “desc”: “酒癖が悪く門太をからかうが、火事の現場では冷静に門太を止めようとする常識人な一面も。”}
],
“scenes”: [
{“title”: “門太と主殿の会話”, “desc”: “役部屋で上司の税所主殿が、もじもじしながら門太に探りを入れている冒頭のシーン。”},
{“title”: “お銀の大暴れ”, “desc”: “台所で酒に酔っ払って着物を肌脱ぎにし、擂粉木を振り回す豪快なお銀。”},
{“title”: “夜の無頼漢との対決”, “desc”: “提灯の明かりが薄暗い道を照らす中、門太が5人の無頼漢に囲まれる緊迫した場面。”},
{“title”: “炎上する御仏堂”, “desc”: “夢殿を模した八角形の御仏堂が炎に包まれ、門太が飛び込んでいくクライマックス。”}
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