丸竹書房MARUTAKE SHOBO

2025.11.26

山本周五郎『立春なみだ橋』 

[immersive_reader]{
“title”: “立春なみだ橋”,
“author”: “山本周五郎”,
“synopsis”: “腕利きの職人でありながら博打に身を持ち崩した新吉は、賭場の開帳中に手入れに遭い、顔なじみの岡っ引・島屋の仁右衛門に捕らえられる。\n\n仁右衛門は新吉に、牢へ入る代わりに”ある条件”を提案する。それは、12年前に家出し、盲目になりながらも息子を待ち続ける老婆の”身代わりの息子”になりすますことだった。\n\n”母親は仏”という言葉に心を打たれた新吉は改心し、老婆・お兼に実の息子のように尽くす。平穏な日々が戻り、仁右衛門の娘・お仲とも心を通わせる新吉。しかし、立春も近いある日、かつての悪仲間たちが現れ、新吉の過去をネタに土蔵破りの手引きを迫る。\n\n老婆との慎ましい幸せを守るため、新吉は自らの命を賭して”涙橋”へと向かう。そこで彼を待っていたのは、あまりにも哀しく、温かい結末だった。”,
“authorProfile”: {
“name”: “山本 周五郎”,
“desc”: “1903年(明治36年)生まれ。日本の小説家。本名は清水 三十六(さとむ)。\n庶民の哀歓や、封建社会における人間の誇りと孤独を描いた時代小説の名手として知られる。代表作に『樅ノ木は残った』『赤ひげ診療譚』『さぶ』など。権威を嫌い、直木賞の辞退など、数々の文学賞を辞退したことでも有名。その作風は人情味に溢れ、多くの読者に愛され続けている。”
},
“characters”: [
{
“name”: “新吉”,
“role”: “主人公”,
“desc”: “元は大工の腕利きだったが、博打に溺れていた若者。仁右衛門の温情により、盲目の老婆の”身代わり息子(次郎吉)”として生き直すことを決意する。”
},
{
“name”: “島屋仁右衛門”,
“role”: “岡っ引”,
“desc”: “新吉の幼い頃を知る顔なじみの親分。罪を犯した新吉に、牢獄の代わりに”親孝行”という更生の道を与える情け深い男。”
},
{
“name”: “老婆(お兼)”,
“role”: “母親”,
“desc”: “12年前に家出した息子・次郎吉を待ち続ける盲目の老婆。新吉を帰ってきた本物の息子と信じ込み、深い愛情を注ぐ。”
},
{
“name”: “お仲”,
“role”: “仁右衛門の娘”,
“desc”: “新吉に好意を寄せている娘。新吉の更生を誰よりも喜び、母親の世話などを手伝う。”
},
{
“name”: “佐助”,
“role”: “遊び人”,
“desc”: “新吉のかつての悪仲間。貧相な風貌の男。実はこの物語の鍵を握る重要な人物。”
},
{
“name”: “無手の辰次”,
“role”: “悪党の頭”,
“desc”: “新吉を悪の道に引き戻そうとする賭場の元締め。冷酷な性格で、新吉の新しい生活を脅かす。”
},
{
“name”: “伝五郎”,
“role”: “遊び人”,
“desc”: “辰次の乾分。向こう傷のある強面の男。”
}
],
“chapters”: [
{
“title”: “雪空”,
“content”: “”あら、新さん、お出掛け?”\n”お仲ちゃんか”\n”今日もお休みなの?”\n”ちらちらやって来そうだからな”\n 結城紬の衿をぐっとこきながら、新吉は照れた眼を空へやった。\n”どうせ半てんぐなら同じことだ……ところでなにか用かい”\n”あたし、これが縫えたから”\n お仲は抱えていた風呂敷包を見せて、\n”ちょっと着てみて貰おうと思ったの”\n”こないだの羽織かい”\n”いいえ、縫直しの袷の方よ”\n”なあんだ、縫直しなんかいいと云ったのになあ。あれや竹の奴に呉れてやる積りでいたんだぜ、おらぁ縫直しなんか着られねえよ”\n”え、それあそうだけど、でも……家で着るだけならいいでしょう”\n”まあそんなこた何方でもいいや”\n 新吉は早く別れたそうに、\n”とにかく家へ抛り込んどいて呉んねえ、……おっと、親方は家かい?”\n”ええ、なんだか頭が痛いって……”\n”おいらのこたあ、内証に頼むぜ”\n そう云って新吉は河岸の方へ歩きだした。\n お仲は哀しそうにその後姿を見送った、……同町内の岡っ引島屋仁右衛門の娘で十八になる、小町娘とまではゆかないが、下ぶくれの愛くるしい顔だちで、上眼づかいに人を見る眼もとがなんとも云えぬ色気を持っていた。\n”あれがいけねえんだ。……あの眼がよ。……あれだけあ苦手だ”\n 新吉は足早に行きながら呟いた。\n 猿屋町をまっすぐに大川端へ出ると、お蔵前の渡舟場のところに待っていた二人の男が眼で、合図をしながら寄って来た。\n 向う傷のある色の浅黒いのが伝五郎、なりの小さい顎の尖った貧相な男は佐助という、ひと眼で堅気者ではないと分る通り、下谷浅草かけて少しは名の売れた遊び人だった。\n”……待たせて済まねえ”\n”いまの娘はなんだ”\n 伝五郎が訊いた。\n”なに、あれあ島屋の妹娘よ”\n”島屋たあ仁右衛門か”\n”うん、……なにしろうるせえ親爺さ、ひとを砕かなんかの積で、箸の上げ下しに文句を云やあがる。尤も死んだおふくろが妙な遺言をしたせいもあるが……実の子だと思って叱って呉れろとさ、以来どうもうるさくっていけねえ”\n”おめえそれを話したことはねえぜ”\n”云っても仕様があるめえ、相手は岡っ引のちゃきちゃきだ、まさか賭場へ誘って鴨にも出来めえからな”\n”そうじゃねえ、島屋に因縁がついてれあ、使い道があるってこった”\n”へえ、そいつあ気がつかなかったな”\n 新吉はそれが癖の、人指し指でひょいと鼻の頭をこすった。\n”いったい、どんな役に立つんだ”\n”島屋ならこの界隈を握ってるんだ。今日は何方へ眼が向くか、何処へ網が下りるかてえことは分る筈だ、その穴を抜ければ安心して開帳できるじゃあねえか”\n”なあんだ、そんなことかい”\n”ええ……?”\n”そんなことなら疾くにやってらあな、これまでおいらの顔を出す賭場にゃあ、一遍だってドサのあった試しあねえだろう”\n”そうかい、やって呉れてたのかい”\n 伝五郎はにやりとして、\n”それじゃ今日の場所もいいだろうな”\n”島屋あ頭痛で寝ているそうだ”\n”…………おっ、兄哥が来たようだぜ”\n 佐助が渡舟場の方を見ながら云った。\n いま着いた舟から四五人の客があがって来た。そのなかから一人、痩形の蒼白い顔に、きゅっと唇をへし曲げた凄みのある若者が此方へ近寄って来た。\n この一脈の兄哥株で、”無手の辰”という、年はまだ二十五六だが喧嘩沙汰で何度も牢入りをしているし、噂に依ると人をあやめた事もあるらしい。今度お縄になったら首はあるまいという男だった。\n”顔は揃ってるか”\n 辰次はじろっと三人を見て云った。\n”よかったら出掛けようぜ”\n”お供をします”\n 新吉はいい気持そうに腰を矯めた。\n\n 新吉はのぼせていた。すばらしく勝っているのだ。\n 辰次の賭場は金張り一本槍で、然も客筋のずばぬけて良いのが自慢だ。その日も日本橋あたりの大店の主人たちが、いずれも駕籠舁夫の肩を痛めるほど持寄っているので、盆茣蓙は裸蠟燭の光を浴びながら山吹色に輝いていた。\n もういちど目と出れば五十両、新吉は眼を血走らせていた。喉がひどく渇いて息苦しかった。\n ……すると宵の八時じぶん、見張りの若い者が襖を明けて、そっと辰次になにか眼配せをすると、同時に辰次はぱっと盆茣蓙をはねて場を包みながら、\n”お客人、風が吹いて来ました。此の場は辰次がお預り申します、どうか若い者が御案内をする通り静かにお引取り下さいまし。……いいえ、決して御迷惑は掛けませんから”\n”どうかそのまま、此方らへどうか”\n 若い者が床間脇の袋戸棚を押すと、そいつがくるりと廻ってぬけ道になる。\n 客たちは顔色を変えて総立になった。\n もうその時は、梯子段の方にどどどっと荒々しい足音が聞え、罵り喚く声が近づいて来ていた。……新吉は初めの瞬間にすぐ”ドサ”だと感じた。するとまるで予想もしなかった恐怖に全身を掴まれてすっと血のひくような気持のなかで居竦んでしまった。\n 然し客たちが総立ちになって逃げだすのを見るや、夢中で前にあった小判を掴みながら立った。\n”立つな!”\n 辰次がそれを見て極つけた。\n”場の金に手をつけちゃならねえ、それから客人を無事に逃がすまでは動くんじゃねえぞ”\n”だ、だって兄哥……”\n”伝五郎、灯を消しねえ”\n どすの利いた態度だった。この危急に当っても少しも騒がず、客たちが、全く見えなくなるのを確と見定めて、辰次は場の金を纏めながら命じた。廊下へ足音が殺到するのと、灯の消えたのが殆ど同時である。新吉はがくがく全身が震えた。\n”逃げるんだ”と思ったが足が云うことをきかなかった。\n ばっ!と襖が押倒された。\n 何人ぐらい踏込んで来たのか分らない、誰がどうしているのかも分らなかった。新吉は凄じい叫び声と、物のひき裂け倒れる音の中を、全く無我夢中で出窓の方へ走寄り、障子と雨戸をもろに、体当りでぶち破りながら屋根へとびだした。\n いつ頃から降りだしたものか、外はいちめんの雪で、屋根の上にも二寸は積っていたろう。そこへいきなりとびだしたのだから、つるっと足を取られて、新吉は横さまに庭へ、雪もろともだあっと転げ墜ちた。\n”神妙にしろ!”\n しめた、――とはね起きる。\n 盲滅法に馳けだそうとするうしろから、だっと跳掛った者がある。\n 息のぬくみと共に威嚇するような声が耳をうった。\n その声を聞いた刹那の、新吉の恐怖をどう説明したらいいだろうか。……彼は生れて始めて”法”というものの冷たい、鉄のような表情に直に触れたのだ。世界中の人の指と眼が、その声の中から一斉に自分に注がれるように感じた。\n”お、おっかさん…………”\n 千切れるように新吉は叫んだ。\n そして必死の力で体を捻ると、雪の上へのめりながら逃げようとする。然しそのときすでに彼の右の手首には、ひっしと捕縄が掛っていた。がくんと引ずられてよろめくところを、再び捻じ伏せられた、雪が口の中へ入った。\n”神妙にしろ”\n 相手は新吉の両手を確りと縛りながら、十手を出して極つけるように肩を打った。\n”十手の味だ、よく覚えて置け”\n”か、……勘弁してお呉んなさい、見逃してお呉んなさい”\n”立て、立つんだ”\n”お願いです、見逃してお呉んなさい”\n”ねをあげるんじゃねえ”\n 泣声で叫ぶのを、相手は低く制しながらひき起すと、\n”黙って歩け、ねをあげるな!”\n”あ、……親方……”\n”叱ッ”相手は島屋の仁右衛門だった。\n 茫然と息をのむ新吉を、追いたてるように横木戸から出ると、仁右衛門は塀際に脱ぎ捨てて置いた合羽を取って、新吉の肩へ掛けてやった。縄を隠してやったのである。\n”……親分”\n”黙ってろ、話はあとでする”\n 仁右衛門は冷やかに外方を向いた。\n 今年五十一歳、岡っ引ではあるが人気のいい男だ。世間の評判がいい許でなく、本来なら敵同志の悪る仲間にも好かれていて、彼が捕り親になった捕物に血を見た例がないとまで云われていた。”
},
{
“title”: “母親は仏”,
“content”: “”ああ姐さん、酒はちょいと待って呉んな、飲むめえに話があるから。火鉢へ火をうんとついでな、茶もいらねえ、その代り呼ぶまでは誰も邪魔をしねえようにして呉んねえ”\n”承知致しました、ではお済みになりましたらどうかお手を”\n”うん、済んだら呼ぶから……そこをよく閉めてって呉んなよ”\n あれから真直に来た並木町の、河岸っぷちにある料理茶屋”よし村”のひと間。……仁右衛門はぐっと新吉の方へ向直った。\n 新吉は髪の乱れた頭をうなだれたまま、石のように膝をみつめて坐っている。ほつれた髪の毛に、雪解けの滴がひとつ。行燈の光をうつして珠のように美しい。\n”新吉、おめえ到頭……此処まで来ちまったな。その手首に喰い込んでるお縄を、ようく見ながら聞きねえ、いいか”\n”へえ”\n 仁右衛門は火桶を引き寄せた。\n”おらあ、おめえがまだこのくらいの時分から知ってる、めはしの利くすばしっこい利口な子だ。親父が早く死んだんで、おめえはおふくろの手で育てられた。おめえのおふくろは二十七で後家になり、三年めえに死ぬまで立派に後家をたて通した。器量よしだったから子持ちでもずいぶんいい再縁の口があった、けれどおめえのために頭を振り通して来た立派な貞女だった。……いいか新吉、おふくろさんはおめえを一人前の人間にしてえ許りに自分の一生を打ち込んだんだぜ。あの世のこたあ分らねえ、出来るなら人間、この世で美味え物を食い美味え物を着て、面白可笑しく暮してえのが人情だ。おふくろさんはそれが出来たんだ、ええといっぺんその積になれあ栄耀な一生が送れたんだ。……新吉、おめえ分るか”\n 仁右衛門の眼はうるんでいた。新吉は眼を拭こうとしたが、手首を縛られているのに気付いて止した。……すっきりと通った高い鼻へ、泪が滴って来た。\n”橋田屋棟梁の弟子が二十一人、その中で一番の腕っこきにまで仕上げたおめえは……、おふくろにどれだけの事をした。鑿と鉋を持てば一日三匁取るいい腕を持っていながら、いつ覚えたのか手慰み、……初めのうちは雨降り風間だったのが、しめえにあ仕事を抛りだしての博奕場出入りだ。それでもおふくろは面と向って小言が云えねえ、親分どうしたらあの癖が直りましょう、このまま無頼にでも成られたら死んだ亭主に申訳がありませんと、陰でおいらにそっと泣いていた。……持たぬ子に苦労はしねえと云うが、おめえのおふくろくれえ気毒な人はありあしねえ。おあそれを思うと、おめえが憎くて、……憎くてならなくなる”\n 仁右衛門は拳で鼻をこすりあげた。\n 雪は小歇みもなく降っているらしい、四辺はひっそりと鎮って、時折り雨戸がことんかたんと音をたてている。\n”おらあ、……今夜は、本気でおめえをお縄にする気なんだ、おめえが憎いからだ、火傷をしねえうちあ火の熱さが分らねえ、いちど臭い飯を食わせてやろう、……本気でそう思ってるんだぞ。いいか、……だがよく聞け、火傷の疵は治るが、人間いちどあの飯を食ったら、もうそれっきりだぞ、もうその垢が一生おちる時は来ねえんだぞ。……新吉”\n”親分、か、勘弁してお呉んなさい”\n 新吉はいきなり突っ伏して云った。\n”どうか勘弁してお呉んなさい、二度とはしません、もう決して悪さはしません。眼が覚めました、どうか一度だけ見逃してお呉んなさい”\n”本気か、……おめえ本気でそう云うのか”\n”本当です、本当に眼が覚めました。もう決して、決して悪さは致しません”\n 仁右衛門は黙って新吉の衿首を見下していた。……大川の上で三味線の音がする、舟で河岸っぷちの料亭を廻る新内語りであろう、二上りのすき透るような音締めに乗って、きれぎれに嫋々と唄声も聞えて来た。\n あとは等しく呼びあげる許りだった。\n”おめえさっき、おいらが肩へ手を掛けたとき、……おっかさん、と云ったのを覚えてるか。夢中で怒鳴ったんだ、恐らく自分じゃ気づかなかったろう、だがおらあ耳へ針を刺されたような気がした。……親は有難え、……なかでも母親は仏さまだ、ふだんは知らずにいるが、切羽詰ったどたん場へ来ると、誰でもおっかさん、と呼びたくなる。……世界中の人間に憎まれても、おふくろだけは、膝の上へかき寄せて泣かして呉れる、……その大事なおふくろをおめえは泣き死にに死なせたんだぞ”\n”……申訳がねえ、おらぁ……”\n”新吉、申訳がねえと感づいたか、本当に済まなかったと気がついたか。……性根から悪かったと眼が覚めたのなら今度だけは見逃してやる。いや待ちねえ、おめえを見逃すんじゃねえ、亡くなったおふくろさんのために見逃してやるんだ”\n”…………有難うございます”\n 新吉は肺腑を絞るように叫んだ。……仁右衛門は涙をかんで膝を摺り出した。\n\n”だがそれには一つ条件がある”\n”よく似た話だが、ちょうどおめえのような息子を持った気毒なおふくろがあるんだ。眼の中へ入れても痛くねえほど可愛がって育てたのが、十三の年にぐれ始めて家をとび出し、それっきり十二年音沙汰がねえ。……そのうち亭主にも死に別れて、その人は息子を捜しながら諸国を廻り歩いたが、いつか眼を泣き潰して江戸へ帰って来た”\n”……へえ”\n”不孝な子ほど可愛いという、自分は盲目で乞食も同様に落魄れながら、せめて息子の無事な体に触ってから死にてえと、……竜泉寺裏の長屋に人のお情で粥を啜りながら、いまだに方々尋ね廻ってるんだ。……条件というのあ是だ”\n”…………”\n”泣き死にに死なせたおふくろの代りに、おめえその人の息子になって呉れ”\n 仁右衛門は新吉の眼に見入りながら、\n”実あそう考えたから、二三日まえに心当りがあるからと云って長屋へ引取ってあるんだ。幸い向うは眼が見えねえし、十二年昔に別れたっきりと云えば声も分るめえ。……どうだ新吉、亡くなったおふくろだと思って、孝行をしてみる気はねえか”\n”その息子の名はなんと云うんです”\n”品川歩行新宿の生れで、親父は金兵衛という漁師、おふくろはお兼、息子は次郎吉と呼んでいたそうだ”\n 新吉は口のなかで繰返していたが、\n”宜うござんす、親方、……その人の息子にさせてお呉んなさい”\n”身代りになって呉れるか”\n”勘付かれさえしなけれあ、あっしは一生その人に孝行を致します、……死んだおふくろも、ちっとは喜んで呉れましょうから”\n”……手を出しねぇ”\n 仁右衛門は新吉の手を取って、ぴっしり喰い込んだ捕縄の結び目へ指をかけた。\n”肩へ当った十手の痛みと、このお縄の味を忘れるなよ、いいか”\n”ええ、……骨身にこたえました”\n”手荒なことをした、勘弁しねえ”\n するすると解いた縄を、器用に巻いて袂へ入れると、仁右衛門は手を叩いて酒を呼んだ。\n”さあ、是ですっかり忘れるんだ”\n”有難う存じます”\n”いま迄のこたあ夢と思え、今夜っから生れ更って真人間になるんだ。……親の口から云っちゃ気障に聞えるが、お仲のやつもこれで安心するだろう、……さあ一杯”\n お仲というひと言が、新吉の胸へ鮮かに明るく灯をともした。\n”そうだ、あの眼が、あの眼が喜んで呉れるんだ”\n 雪のなかを駕籠二挺。間もなく、”よし村”を出た二挺の駕籠は、そこから真直に猿屋町の長屋の露地口へと着けられた。\n 雪はもう五寸あまり積って、なおとつとつと降り頻っている。……もう十一時を廻ったろう、表を閉して森閑と寝鎮っている長屋の露地を、拾うように行って突当りの右から手前へ二軒め、……仁右衛門は雨戸を静かに叩きながら、\n”御免よ、島屋だがちょいと起きて呉んねえ”\n”はい、…………どなたさま”\n”島屋の仁右衛門だ”\n”まあ親分さまで、唯今、唯今明けます”\n おろおろと立って来る気配。\n”新吉、気取られるなよ”\n”……大丈夫です”\n がらがらと戸が明いて、半分白髪になった老婆が顔を出した。\n”島屋の親分さまでございますか、耳が遠いもので失礼を致しました、どうぞまあ”\n”晩く起して済まなかったな”\n 仁右衛門は新吉を促して入ると、\n”明日でも宜かったんだが、早く知らせて喜ぶ顔が見たかったもんだから、寝込みを承知で起きて貰ったんだ。実あ……おめえの息子をみつけて来たんだ”\n”……なんと仰有いましたので?”\n”おめえの息子をみつけて来たんだよ。……さあ次郎吉、おめえのおふくろさんだ、なげえ不孝の詫びをしねえか”\n 老婆は一瞬、息をのんで立竦んだ。\n 新吉は仁右衛門に押しやられて、よろめくように進みながら、老婆の前へ崩れるように両手を突いた。……その気配で察したのだろう、老婆は泳ぐように新吉の側へすり寄ると、いきなり両手で抱き締めながら、狂ったようにその頬を新吉の頬にすりつけた。\n なにも云えないのだ。こんな場合に言葉がなんの用を為そう、荒々しい愛撫と、嘘びあげる歓びの喘ぎをあとに、仁右衛門はそっと外へ出て行った。”
},
{
“title”: “浅草涙橋”,
“content”: “”あら、お帰んなさい”\n”また洗濯か”新吉は道具箱を置きながら、\n”そんなこたあお仲ちゃんがして呉れなくってもいいと云うのになあ、折角の指がだいなしになっちまうぜ”\n”いやあだ、折角の指だなんて”\n お仲はやさしく睨んで立った。\n”なにさまのお嬢さんじゃあるまいし、綺麗な指なんてちっとも自慢にはならないわ。それよりあたし不器用だからお洗濯だって碌には出来ないと思うと、恥しくって仕様がないの”\n”冗談じゃねえ、お仲ちゃんなんざあいまに何処か立派な親分の姐御にも成る人だ。洗濯なんか上手になったって使い道はありあしねえよ”\n”あたしが何処へ嫁に行くんですって、……新さん、あんたそれ本気で云うの”\n”おっ怖ねえなあ、気に障ったら勘弁して呉んねえ、おらあただ”\n”いやよいやよそんなこと”\n お仲は濡れた手を拭きながら、例のうるんだ大きな眼で新吉を見上げた。\n”あたし他へお嫁に行く気なら、なにもこんなに苦労をして来やしないわ。誰にどんなことを云われても構わない、世間でどんな噂をしているかも知っていて、あたし今日まで……”\n”御免よ、御免よ、つい口がすべったんだ”\n”いや、他の冗談と違うわ、口がすべったからって、……本当は、あたしが嫌いなんだわ”\n”困るなあ、泣いちゃ困るよ、そこで泣かれちゃ困るよお仲ちゃん。冗談じゃねえか、おめえに済まねえと思うからつい口がすべっちまったんだ、本当に御免よ”\n”よう、御両人”\n 露地口から合長屋の講釈師、風々亭山雨老人が入って来て、二人の側を通りながら半帖を入れた。\n”夫婦喧嘩なら家の中でやって呉んな、それとも露地口へ止札を出してみっちりやるか。仲人なら風々亭山雨師匠が引受ける、ちょうど師走で客足の少い折だ、ひと喧嘩の仲人料十文でお受けをするぞ、ええ十文十文”\n”それみねえ、山雨に一本やられたぜ”\n 新吉は笑いながら、\n”おいらが謝るからもう勘弁だ、さあ涙を拭いて。……おふくろがいねえようだな”\n”ええ銭湯へ行きましたわ”\n”独りでかい、そいつあ危ねえぜ”\n”いいえ魚屋のお光ちゃんが一緒に行って呉れましたの。新さんもいまの内に流しておいでなさいましな、今夜は柚子湯ですよ”\n”そうか、もう冬至になるのか、……早えもんだなあ”\n”憎らしいこと”お仲は上目遣いでそっと睨んだ。\n”おっかさんでごまかしちまって、……あたし本気で怒ってたのに……”\n”もうそのこたあ、云いっこなしさ”\n 新吉は苦笑しながら足袋を脱いで上った。\n お仲はその後からいそいそと、仕事着の着換えを手伝ってやった。……あの日から二十日あまり、父親の許を得て留守の間の世話をしに通って来るから、いつか新吉の身の廻りのことにも馴れて、うしろから着せかける着物のうつり香も親身なものになっていた。\n”それにしても、いいおっ母さんねえ”\n”全くだ、……いいおふくろだ。お仲ちゃんも知ってるようなゆくたてで身代り息子に成ったのだが、おらあもう……他人とは思えねえ”\n”困るようなことは無くって? 昔のこと、小さい時分の話なんかで……”\n”大抵なことあ、なんとかやってるよ”\n 新吉は平ぐけをきゅっと締めながら、\n”なげえ苦労で忘れっぽくなってるから、子供じぶんの話でちぐはぐになると、そいつあおっ母さん思い違えだと云えば、温和しくそうかで済んじまう。……だがなあお仲ちゃん、昔の話を聞くたびにおらあそう思うぜ、おふくろは有難えもんだって”\n”あんないいおっ母さんを置いてとび出すなんて、まるで鬼のような子供だわ”\n”おいらもその鬼の組だった。……さりながら墓に蒲団も着せられず。……他人のおふくろで親の有難味を知るとはいい見せしめだ”\n”あたし、……そう思ってるの……”\n お仲は脇へ向きながら云った。\n”今のおっ母さんには、亡くなった新さんのおっ母さんが乗ってるんだって。他人じゃないわ、他人ならこんなに情がうつるもんじゃないわ。きっとそうよ、きっと亡くなったおっ母さんが乗り移ってるのよ”\n”……おっ母さん”\n 新吉は眼をつむりながらそっと口のなかで呟いた。\n”――そうかも知れない”\n 自分でも何処かそんな気がした。\n\n あれ以来ぷっつり手慰みが止ったのも、曾てなかったほど仕事が面白くなったのも、死んだ母親の心が身についたからだ、死んだ母親の魂がいまの母に憑いて自分を護って呉れるからだと思う。……そう思うと、新吉は改めて体のなかに新しい力が生れて来るのを感じた。\n 新吉はすっかり生れ更った。\n 仕事が面白くなれば、もう大したもので、なにしろ後に橋田屋という大きな棟梁が控えているし、腕は大工仲間で何人と指に折られるくらいだから、良い仕事だけ拾うようにしても手に余るほどの急がしさ、……正月も三ヶ日が明けるともう引張り凧だった。\n 正月九日の夕方だった。下谷の方の帳場から帰って来ると、安倍川町の堀のところで、いきなり三人の男が新吉の前後を取巻いた。新吉はあっと云った。\n 無手の辰次に、伝五郎、佐助だった。\n”久し振りだな、新さん”\n 辰次は蒼白い顔に、ひき歪んだ唇でにやりと笑いながら寄って来た。\n”おらたちあ暫く足を抜いていた、あのとき以来ずきが廻って動きがとれねえ。仕方なしに伊豆の方へ湯治場稼ぎと洒落れていたが、おめえはまた留守のうちに、たいそう評判がよくなったそうじゃねえか”\n”待って呉んねえ兄哥”\n 新吉は道具箱を揺り上げながら、\n”おらあ足を洗ったんだ、あれから素っ堅気の職人に戻ったんだ、済まねえが兄哥たちとの付合はもう無えものと思って”\n”おっとそいつあいけねえ”\n 伝五郎がぬっと顔を突き出した。……向う傷が宵明りの中でくっきりと抉れて見える。\n”冗談じゃねえ、いちど仲間に入ったからにあ都合勝手に脱けられねえのが無頼の掟だ、おめえがどう藻掻こうと、もう金輪際おれっちと縁を切るこたあ出来ねえんだぜ”\n”まあそう怒鳴るなよ伝五”\n 辰次は静かに制して云った。\n”新さんもそうだ、久し振りで逢ったのに愛想もねえ、なにもそういきなり見得を切ることもねえじゃねえか。……兎に角なんだ、今夜あ何処かで一杯やろう。それから改めて相談がある、まあ念のために云って置くが、……おれっちも今じゃ賽ころ弄りはさっぱりとやめたのさ。がらがらぽんも潮時がある、お互えにこのへんでひと稼ぎ大きくさらい込んで、あとは後生楽、気随気儘に世を送ろうという算段よ。斯う云やあ凡そ察しはつくだろう、大きな声じゃ云えねえが……娘師だ、土蔵破りだぜ”\n どすの利いた眼光と、声音だった。\n いきなり土蔵破りと打明けたのは、明かに相手を身動きのならぬ力で押えつける切札であった。新吉は蒼白めた額をくっと挙げた。\n”もう一遍、云うが、……おらあ綺麗に足を洗ったんだ、おらぁ素っ堅気だ。おめえたちに脅かされて縒の戻るような、やわな性根は持っちゃいねえ、……通して呉んねえ”\n”云やあがった”\n”まぁ待て伝五郎。……新さん、なんでもいいから後で涙橋の袂まで来て呉んな、十時の鐘を聞くまで待っててやる。いいかい、若し十時の鐘が鳴っても来なかったら、おめえの家へ出掛けて行くぜ。……おめえに会いに行くんじゃねえ、おふくろに会うんだ”\n”おふくろがどうしたってんだ”\n”本当のことを教えてやるのよ”\n 辰次はにっと唇を曲げて笑った。\n”おめえを本当の倅だと思ってる、可哀そうなおふくろに何も彼もばらしてやるんだ。あんなに喜んでるおふくろさんが、若し実のことを聞いたらさぞ吃驚するだろう”\n”い、いけねえ、辰兄哥、そいつ許は……”\n”じっくり考えねえ、十時までは間があらあ、場所は涙橋、あの空地の椎木の下に待ってるぜ”\n 云い残して三人は立去った。\n 新吉は足許が震えた。いきなり足下にぼかっと地獄の口が開いたのである。今の今まで考えもしなかった、あれっきりで縁が切れたものと思っていた、それが思懸けぬ時、思懸けぬところから再び燃えだして来た。\n どうしよう。\n 新吉は息苦しく喘いだ。\n どうしよう、どうしたらいいんだ。\n 宙を歩くような気持で家へ帰った。\n 湯へ行く気もなく、母親と二人の食膳に向ったが、むろん箸を動かしているという許り、なにか話し掛けられているなと思うが、その返辞もまるでちぐはぐだった。\n どうしよう――心はそれでいっぱいだった。\n”いやだね次郎吉、どうしだえ”\n 母親はやがて不審をうった。\n”おまえ今日は体の具合でも悪いんじゃないのかえ、さっきからまるで話がとんちんかんじゃないか”\n”済まねえ、おっ母さん”\n 新吉ははっと気がついた。\n\n”今日ちょいと、仕事のこって、気になることがあったもんだからつい、……なに大したこっちゃねえのだが。……時に、なんの話でしたっけね”\n”おまえが八百屋の留さんと喧嘩した時の話さ”\n”ああそうか、八百屋の留公ねえ”\n”留さんはおまえ猟師町でも評判の暴れん坊だろう、あの時はたしか十六かねえ、……いいえ十五だったよ、十五だけど大人もうっかり手の出せない乱暴者じゃないか。それをおまえときたら人が止めるのも肯かずにとび掛って行ってさ、……到頭あのお稲荷さまのところから二人一緒に海のなかへおっこちてしまった、あの時の傷ときたら……”\n”誰だ、誰かいるのか”\n 新吉がいきなり外へ怒鳴った。\n 戸袋のところでがたりと音がしたのである。ふだんなら気にとめるほどの事ではない、然し新吉はすぐに、……伝五郎か佐助が見張りに来ているのだと察しをつけた。\n そう思いながらぞっと寒気だった。\n”おっ母さん”\n と湯呑を置いて、\n”話の途中だが、どうも仕事のことが気になっていけねえ。済まねえがちょいと出掛けて来るから”\n”なんだか、今日は変だねえ、おまえなにか……”\n”な、なんでもねえ、本当に仕事のことなんだ。明日でもいいんだが気になると忘れられねえ性分だから、ひとっ走り行って方をつけて来る、済まねえが先に寝ていてお呉んねえ”\n”それあいいけれどおまえ、行くんなら寒くないようにして行ってお呉れよ”\n”なあに、今夜は暖けえから大丈夫さ”\n そそくさと立つと、手早く帯を締め直しながら土間へ下りた。母親は立って来て、\n”そう云えばおまえ、明日は立春じゃないか。今年は十日夷と立春がいっしょだね、きっと今年は良いことがあるよ”\n”立春か、……立春大吉”\n 口のうちで呟くと、……新吉は思切って家をとびだした。\n どうする当がある訳ではない。\n ――よし!\n 思詰めているから仁右衛門に相談するということさえ考えつかず、一か八か当って砕けろと、進まぬ足を無理に踏みしめながら、田原町から東本願寺裏へ抜け、堀っぱたを伝って三丁あまり来た。\n 本願寺の塔頭から寺町へかけて渡してある小さな土橋、俗になみだ橋と云う、その橋の向うに五百坪ばかりの空地がある。……歳暮に降った雪がまだところどころ斑らに残っている、その空地へかかったときだった。\n”――よし!”\n 初めて新吉は覚悟が出来た。\n”――頼むだけ頼んで背かなかったら、いっそ三人を……そうだ。どうせ生かして置くだけ世間の邪魔者、おふくろのこたあお仲ちゃんがなんとかして呉れるだろう!”\n 腹が決ると恐ろしさも消えてしまう。そのまま大股に空地へ踏み込もうとすると、……向うからひょろひょろと近寄って来る者があった。\n”新吉だ、約束通りやって来たぜ”\n 辰次と思ったからそう声をかけると、\n”…………新さんか、ま、待っていた……”\n 妙に喉へひっかかる声で云いながら、ひょろひょろとやって来たのは佐助であった。\n どうやら息づかいも苦しそうである。\n”辰次は何処にいる、会わして呉れ”\n”いいんだ、もういいんだよ新さん”\n 佐助は息をつきながら云う。\n”辰兄哥も、伝五郎も、もうおめえの邪魔はしねえ、おいらも是で、お別れだ”\n”…………佐助、おめえ若しや……”\n”案外……二人とも、脆かったぜ”\n 佐助はにっと笑った。いや笑おうとしたのである、然しもうその力はなくて僅かに白い唇が歪んだだけであった。新吉は思わず空地の奥へ行こうとしたが、\n”いけねえ”と佐助が前へ立ち塞がった。\n”いけねえよ新さん、堅気の見るものじゃねえ。二人とも落着くところへ落着いたんだ、是ですっかりけりがついたのさ。………新さん、おらぁ、さっき、おめえの家の表でおめえと、おめえのおふくろさんの話を聞いたよ。……いいおっ母さんだなあ”\n”そうか、矢っ張りおめえがいたのか”\n”聞いたんだ、おめえは仕合せだ、おめえのおふくろさんも仕合せ者だ。……八百屋の留公の話は、……おらあ泣いた。……大事にしてやんねえ、頼むぜ”\n”佐助、おめえその体でどうするんだ”\n”行くんだ。新さん……下手な仏心を出すんじゃねえぜ、此処で起った事はおめえとは違う世界の出来事だ。話あもう済んだ、……おふくろが大事だったら行って呉んな、行かねえのか”\n”有難え、……一生、恩に着るぜ佐助”\n”新さん、じゃあ、あばよ”\n”……あばよ”\n”ああ待って呉れ、ひとつだけ、覚えていて貰えてえことがある”\n 佐助は振返って云った。\n”新さん、おめえ……八百屋の留と喧嘩をしたとき、海へ墜ちて怪我をしているんだぜ”\n”な、なんだって?”\n”忘れねえで呉んな、頭のうしろに、二寸ばかりの傷痕がある。そいつを気付かれねえようにな……頼んだぜ”\n”佐助、おめえ!”\n 仰天して、思わず新吉が追いかけようとする、その肩をうしろからぐっと引戻す者があった。\n”待ちねえ新吉”\n いつ来ていたか、島屋の仁右衛門だった。\n”おめえの後を尾けて来た。話はみんな聞いた、……佐助は喜んで、安心して死んで行くんだ、邪魔しずに死なしてやれ。……あの世へ行けば、きっとおめえのおふくろが抱取って呉れるだろう”\n”親分、……だって佐助はあのおふくろの……”\n”なんにも云うな。明日あ夷子講だ、……お仲とおふくろと三人で六地蔵でも廻って来るさ””
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