Q1: 本能寺は、織田信長の時代にも、町中にあったのですか?
はい、織田信長の時代にも本能寺は京の町中にありました。ただし、「本能寺の変」が起こった当時の本能寺は、現在京都市中京区寺町通御池にある本能寺とは別の場所にありました。当時、本能寺があったのは現在の京都市中京区の**四条堀川あたり(四条西洞院のあたり、または蛸薬師通油小路東入ル付近)**に位置しており、広大な敷地を持ち、高い塀と深い堀で囲まれた要塞のような寺院だったと言われています。信長がたびたび宿所にしていたのも、その防御性の高さが理由の一つとされています。「本能寺の変」で焼失した後、豊臣秀吉の命令により、現在の寺町通御池の場所に移転・再建されました。そのため、現在の本能寺の近くには「本能寺跡」を示す石碑が建てられています。
Q2: 現在の本能寺は、秀吉によって再建された当時のものが残っていますか?
現在の本能寺は、豊臣秀吉によって現在の場所に移転・再建されましたが、**当時の建物がそのまま残っているわけではありません。**秀吉によって再建された後も、本能寺はたびたび火災に見舞われ、その都度再建されてきました。現在の本堂は、**1928年(昭和3年)に再建されたもの**です。
Q3: 京都の空襲は免れたのですか?
京都は第二次世界大戦中、大規模な空襲を免れた都市の一つです。これは、京都が歴史的・文化的価値の高い建造物を多く持つ古都であり、アメリカ軍が文化財保護の観点から爆撃を避けたという説が有力です。また、京都を目標から外すよう進言した人物がいたという説もあります。そのため、京都市内の多くの歴史的建造物や景観は、空襲による被害を受けずに現在まで残っています。本能寺もその一つで、1928年に再建された現在の本堂は、戦災を免れました。
Q4: 本能寺の変で京都に侵入した明智軍に人数は
本能寺の変において、明智光秀が京都に侵入し、本能寺を襲撃した際の兵力は、**およそ1万から1万3千人**とされています。対する織田信長の手勢は、本能寺に宿泊していた僅かな近習(こんじゅう)や小姓(こしょう)など、100人から160人程度だったとされており、圧倒的な兵力差がありました。
Q5: 京都の人口は?
2024年6月1日時点での京都市の推計人口は、**1,438,981人**です。これは京都市が毎月発表している「京都市の推計人口」に基づいています。
Q6: 本能寺の変の頃は?
本能寺の変があった1582年(天正10年)頃の京都の正確な人口を把握するのは非常に困難です。当時の統計は現代のように整備されていなかったため、あくまで推計になります。しかし、当時の京都は日本最大の都市であり、**およそ20万人から30万人程度**の人口があったと推測されています。これは当時としては世界的に見てもかなり大きな都市でした。
Q7: 明智軍は、信長側に気付かれずに、本能寺に接近したのですか?
はい、明智軍は、**信長側に気付かれずに本能寺に接近し、奇襲に成功した**と考えられています。これは本能寺の変が成功した最大の要因の一つです。明智光秀は、信長が備中高松城の毛利攻めの援軍に向かうという名目で、丹波亀山城を出発しました。しかし、途中で進路を変え、京都へ向かいます。この進路変更は、ごく一部の家臣にしか知らされていなかったとされ、軍の全体にも「信長の閲兵を受けるため」などと偽って、京都へ向かわせたと言われています。本能寺に近づいた際も、通常の行軍に見せかけたり、夜間や早朝を選んだりするなどして、警戒を解かせたまま接近しました。信長が少数の側近しか連れていなかったことや、京の町中という油断しやすい状況も、奇襲成功の背景にあったと考えられます。結果として、信長はほとんど抵抗する間もなく、明智軍の襲撃を受けることになりました。
Q8: 京都の町人が騒がなかった理由は何ですか?
本能寺の変の際、明智軍が京都の町中に侵入しても町人が騒がなかった主な理由はいくつか考えられます。
1. **早朝の奇襲であったため:** 本能寺の変は未明から早朝にかけて行われました。多くの町人はまだ眠っていた時間であり、異変に気づくのが遅れたと考えられます。
2. **通常の行軍に見せかけたため:** 明智光秀は、「信長の閲兵(えっぺい)を受けるため」という名目で軍を動かしていました。当時の京都では、大名やその家臣団が頻繁に出入りしており、武装した武士の集団が移動することは珍しいことではありませんでした。そのため、町人たちは当初、特別な事態が起こっているとは認識しなかった可能性が高いです。
3. **厳重な情報統制と秘匿性:** 光秀は、ごく一部の家臣にしか真の目的を明かしていませんでした。軍全体にも情報を与えず、京都への方向転換も秘密裏に行われたため、情報が外部に漏れることがありませんでした。
4. **軍事行動への慣れと警戒心:** 戦国時代末期の京都は、応仁の乱以降も度々戦乱に巻き込まれることがあり、武士の動きに対してある程度の慣れがあったかもしれません。また、不穏な動きがあっても、下手に騒ぎ立てて武士に目をつけられることを避ける、という心理も働いた可能性があります。
5. **本能寺の防御性:** 当時の本能寺は広大な敷地を持ち、堀と土塁で囲まれた要塞に近い寺院でした。明智軍が本能寺を襲撃しても、その外側で何が起きているか、すぐには町全体に伝わりにくかったとも考えられます。
これらの要因が複合的に作用し、明智軍は信長側に気づかれることなく、また京都の町人に大きな騒動を起こさせることなく、本能寺への奇襲を成功させることができたと考えられています。
Q9: 広大過ぎて僅かな人数では守りにくかったでしょうね。本能寺への侵入路は限られていたんですか?
お尋ねの件、承知いたしました。明智軍が本能寺に侵入した際の、侵入経路と防御の状況についてですね。
**広大な敷地と侵入経路について**
たしかに本能寺は広大な敷地と堀や土塁といった防御施設を持っていましたが、その規模の大きさが、かえって守る側にとっては困難な点となりました。本能寺は城郭に準じる堅固さがあったとはいえ、あくまで京の町中に建つ寺院であり、完全に閉鎖された要塞ではありません。したがって、**複数の出入り口(門)が存在した**と考えられます。明智軍の侵入が成功した要因は、侵入路がどうだったかという点よりも、**「奇襲」という要素が圧倒的に大きかった**と言えます。
**防御が機能しなかった理由**
1. **完全な不意打ち(奇襲):** 最大の要因はこれです。信長も側近も、まさか明智軍が自分たちを襲うとは夢にも思っていませんでした。そのため、門番や警備の兵は全く警戒態勢になく、無防備な状態でした。たとえ厳重な門であっても、不意を突かれれば簡単に突破されてしまいます。
2. **圧倒的な兵力差:** 明智軍が1万を超える大軍であったのに対し、信長の手勢は百数十名に過ぎませんでした。これだけの兵力差があれば、仮に少数の兵が門を守っていたとしても、力で押し切られてしまいます。
3. **広い敷地が裏目に:** 広大な敷地は、通常であれば防御に有利ですが、奇襲を受けた際には逆効果となります。少数の信長側の兵は広範囲に散らばっており、本堂を守るために集中して防衛線を張ることができませんでした。明智軍は一度敷地内に入ってしまえば、散らばった信長勢を各個撃破することが容易でした。
4. **防衛準備の時間がない:** 信長は、本能寺が囲まれていることに気づいてから戦いを強いられました。堀や土塁といった防御施設を有効活用する時間も、兵を配置して防戦態勢を整える時間もありませんでした。
したがって、本能寺への侵入路が「限られていたか」というよりも、奇襲と兵力差によって、**複数の門や突破可能な箇所から一気に侵入され、防御施設が機能する間もなく制圧されてしまった**と考えるのが自然です。
Q10: 門を突破し、寺院に侵入するまでの時間はわかっていますか?
現在確認できる歴史資料や研究において、明智軍が本能寺の門を突破し、寺院内に完全に侵入するまでの具体的な「時間」が詳細に記されているものはありません。しかし、状況から見て、**非常に短時間であった**と推測できます。理由としては、**奇襲であったこと**、**圧倒的な兵力差**、**信長の行動**(短時間で自害を決意したこと)などが挙げられます。これらのことから、明智軍が本能寺の門を破り、敷地内に侵入するまでにかかった時間は、**数分から長くても10分、15分といったごく短い時間**であった可能性が高いと考えられます。本格的な戦闘や信長の自害に至るまでの一連の動きも、夜明け前から日の出にかけての短い時間帯で決着がついています。
Q11: 本能寺の変の際の天皇は誰?
本能寺の変(1582年)の際の天皇は、**正親町天皇(おおぎまちてんのう)**です。正親町天皇は、応仁の乱以降、衰退し財政難に陥っていた朝廷を立て直そうと尽力しました。織田信長は、その権威を利用し、朝廷も信長の経済的な支援を受け、両者は持ちつ持たれつの関係にありました。
Q12: どんな人?当時何歳?
正親町天皇(おおぎまちてんのう)は、本能寺の変が起こった1582年(天正10年)当時、**65歳**でした。正親町天皇は、学識豊かで文化人としての側面を持ち、朝廷の権威維持に尽力しました。激動の戦国時代において、穏健かつ現実的な政治手腕で朝廷の存続を図った人物です。
Q13: 何歳まで生きられましたか?
正親町天皇は、**77歳**まで生きられました。本能寺の変から約10年後の、1593年(文禄2年)に崩御されています。信長の死後も豊臣秀吉との関係を築き、激動の時代を生き抜いた天皇でした。
Q14: 本能寺の変は、応仁の乱の何年後?
本能寺の変は、**応仁の乱の終結から105年後**に起こりました。
・応仁の乱:1467年~**1477年**
・本能寺の変:**1582年**
Q15: 応仁の乱って、長いんですね
はい、おっしゃる通り、**応仁の乱は非常に長い期間にわたる内乱でした。**約11年間(1467年から1477年まで)にわたって続いたこの戦乱は、京の都を主戦場とし、日本の歴史に大きな影響を与えました。その長さと、京都が焼け野原になるほどの激しさから、「応仁の乱以後」という言葉が戦国時代の始まりを意味するほど、社会の大きな転換点となりました。
Q16: 応仁の乱以降が戦国時代?
はい、**応仁の乱(1467年~1477年)が戦国時代の始まりである、というのが一般的な見方です。**応仁の乱は、京都を主戦場として全国の守護大名を巻き込み、約11年間にわたって続きました。この戦乱によって室町幕府の権威は完全に失墜し、全国各地で守護大名に代わって「戦国大名」と呼ばれる新たな勢力が台頭する「下剋上」の時代へと突入していきました。ただし、研究者の中には、応仁の乱終結後も室町幕府が一定の機能を持っていた時期があることや、地方での戦乱の状況を考慮して、**「明応の政変(1493年)」を戦国時代の本格的な始まりとする説**など、いくつかの見解が存在します。しかし、高校日本史の教科書などでは、多くの場合、応仁の乱の勃発(1467年)を戦国時代の始まりと位置づけています。
Q17: 応仁の乱以前は平和な時代がつづいていた?
応仁の乱以前も、完全に平和な時代が続いていたわけではありません。応仁の乱以前は**室町時代**にあたりますが、この時代も大きな戦乱がいくつかありました。例えば、**南北朝の動乱(1336年~1392年頃)**や、各地での小規模な争いなどです。ただし、足利義満の時代には比較的安定した時期もありました。応仁の乱は、それまでの局地的な争いとは異なり、**京都を主戦場として、全国の有力守護大名が二分して争うという、前代未聞の規模と期間の戦乱**でした。そのため、「応仁の乱以前は、比較的安定していた」という認識は、あくまで「応仁の乱や戦国時代に比べれば」という相対的な意味合いで言われることが多いです。
Q18: 応仁の乱のきっかけは?
応仁の乱のきっかけは、一つではなく、複数の要因が複雑に絡み合って発生しました。主なきっかけは以下の3点に集約されます。
1. **将軍継嗣問題(将軍家の後継者争い):** 第8代将軍足利義政の弟・義視と、正室日野富子が生んだ嫡男・義尚の間で後継者争いが起こりました。
2. **管領(かんれい)家の家督争い:** 畠山氏や斯波氏といった幕府の要職を務める有力守護大名家の内部で、家督を巡る激しい争いが起こっていました。
3. **有力守護大名同士の対立(山名宗全と細川勝元):** 上記の将軍継嗣問題や管領家の家督争いに、当時の二大勢力であった山名宗全と細川勝元がそれぞれ別の派閥を支持する形で介入しました。
これらの将軍家の内紛と有力守護大名家の内紛が、**山名宗全を総大将とする西軍**と、**細川勝元を総大将とする東軍**という形で、全国の守護大名を巻き込む大規模な武力衝突へと発展しました。
Q19: 応仁の乱期の主な合戦を教えて
応仁の乱期は、11年という長期にわたる戦乱であり、京都を中心に大小さまざまな合戦が繰り広げられました。主な合戦(戦いの局面)としては、以下のようなものが挙げられます。
1. **上御霊神社(かみごりょうじんじゃ)の戦い(応仁元年、1467年1月)**:応仁の乱の**直接の火蓋を切った最初の戦い**です。
2. **上京の戦い(応仁元年、1467年5月~)**:本格的に東軍と西軍が京都に集結し、**京の市街地を主戦場として、大規模な衝突が始まった**時期です。
3. **内野(うちの)の戦い(文明5年、1473年)**:応仁の乱が長期化する中で、東軍総帥の細川勝元と西軍総帥の山名宗全が、同年中に相次いで病死しました。この両者の死は、戦乱の大きな転換点となります。
4. **相国寺(しょうこくじ)の戦い(文明6年、1474年)**:宗全と勝元亡き後も、戦いは続きました。特に相国寺周辺では、両軍がたびたび激突し、この巨大な寺院も度重なる戦火で焼失しました。
Q20: 応仁の乱は、京都を中芯にしたそうですが、具体的な戦闘範囲は?
応仁の乱は「京都を中核にした」という表現がまさにその通りで、主要な戦闘は**京の都の市街地、特に「洛中(らくちゅう)」と呼ばれる中心部**で繰り広げられました。具体的な戦闘範囲は、以下のようになります。
1. **東西に分かれた京の都:** 東軍(細川勝元方)は京の東部、西軍(山名宗全方)は西部に陣を構え、それぞれを城塞化させました。
2. **上京と下京の激戦区:** 特に激しかったのは、当時の京都の北部である**上京(かみぎょう)**と、中心部から南にかけての**下京(しもぎょう)**でした。内野(平安京の大内裏跡地)を挟んで激しい攻防が繰り返され、現在の京都御苑の北側や西側、相国寺周辺などが激しい戦場となりました。
3. **市街地全体への影響:** 直接的な戦闘は特定の地域で行われましたが、火災や略奪は京の都のほぼ全域に及び、多くの寺社仏閣が焼失しました。