丸竹問答 史実と物語の荒木又右衛門

Harugoro:

荒木又右衛門は、いつの時代の人ですか?

Gemini:

荒木又右衛門は、江戸時代初期の武士、剣客です。

慶長4年(1599年)に生まれ、寛永15年(1638年)に亡くなったとされています。特に「鍵屋の辻の決闘」での活躍で名高い。

Harugoro:

何がきっかけで、誰と戦いましたか?

Gemini:

荒木又右衛門が戦ったきっかけは、義弟である渡辺数馬の弟、渡辺源太夫が河合又五郎に殺害されたことです。

荒木又右衛門は、その仇討ちの助太刀として、渡辺数馬と共に河合又五郎と戦いました。この事件は「鍵屋の辻の決闘」として知られています。

Harugoro:

この時又右衛門は何才?

Gemini:

荒木又右衛門は慶長4年(1599年)生まれ、「鍵屋の辻の決闘」は寛永11年(1634年)に起こりました。

したがって、この時又右衛門は35歳でした。

Harugoro:

この時将軍は誰?

Gemini:

「鍵屋の辻の決闘」が起こった寛永11年(1634年)当時の将軍は、徳川家光です。

Harugoro:

有名な仇討ちですか?また有名になったのはなぜですか?

Gemini:

はい、荒木又右衛門の「鍵屋の辻の決闘」は、日本三大仇討ちの一つとして非常に有名です。

有名になった理由はいくつかあります。

Harugoro:

江戸期を通じて仇討ちは何件ぐらいあったとされていますか?

Gemini:

江戸時代を通じての仇討ちの正確な件数は、資料によって多少のばらつきがありますが、記録に残っているだけでも100件から370件程度あったとされています。

ただし、これはあくまで記録に残っているものであり、実際には目的を達成することなく終わったものや、記録に残らなかったものも無数にあったと考えられています。

Harugoro:

藩に届け出るよう、法制化されたのはいつから?

Gemini:

仇討ちが法制化され、藩への届け出が義務付けられたのは、江戸時代初期です。

具体的には、江戸幕府は仇討ちを完全に禁止するのではなく、特定の条件を満たした場合に限り、公的な手続きを経て許可する制度を設けました。これにより、単なる私的な復讐ではなく、幕府や藩の管理下で行われる「公認の仇討ち」という形が確立されました。

ただし、明治6年(1873年)2月7日に太政官布告によって「復讐ヲ嚴禁ス」(仇討禁止令)が公布され、仇討ちは法的に禁止されました。

Harugoro:

江戸期最初の公的仇討ちは?

Gemini:

江戸時代における最初の公的な仇討ちについては、特定の事件として明確に「これ」と断言できる記録は、現在の検索結果からは見当たりませんでした。

しかし、江戸幕府の創成期に制定されたとされる「家康百箇条」の中で、「討たるる者の子葉(しよう)ども敵討を願うに、簿に記し、願ひに任すべし。然れども重敵(またがたき)は停止すべきこと」とあり、仇討ちが公的な手続きを経て認められる方針が示されたのが最初であるとされています。

このことから、江戸時代に入って比較的早い時期から、仇討ちは幕府や藩の管理下で行われるようになっていったと考えられます。

Harugoro:

全ての仇討ちを禁止しなかった明確な理由はありますか?

Gemini:

江戸幕府が全ての仇討ちを禁止しなかった明確な理由は、主に以下の点が挙げられます。

このように、江戸幕府は仇討ちを公認しつつも、その無秩序な横行を防ぐために厳格なルールを設けていましたが、武士の行動原理や社会の慣習との間で、常に板挟みになっていたと言えるでしょう。

Harugoro:

武士以外は仇討ちをしてはいけない?

Gemini:

江戸時代において、仇討ちは武士だけでなく、町人や農民といった庶民にも認められていました

ただし、武士の場合と同様に、藩や奉行所への届け出が必要であり、許可を得て行う必要がありました。庶民の仇討ちについては、武士のそれよりも許可が下りにくい傾向にあったとも言われますが、江戸時代中期以降は庶民の仇討ちも増加したとされています。

重要なのは、身分に関わらず、仇討ちが単なる私的な復讐ではなく、公的な手続きを踏んで行われるべき行為とされていた点です。届け出をせずに仇討ちを行った場合は、殺人罪として処罰される可能性がありました。

Harugoro:

処罰された好例をあげてください。

Gemini:

仇討ちが公的な手続きを踏まずに行われた場合、殺人罪として処罰される可能性がありました。

好例として、直接の仇討ちの処罰例ではありませんが、仇討ちのルールから外れた行為が処罰の対象となった事例として、「臼井六郎の仇討ち」が挙げられます。

臼井六郎は、明治維新直後の混乱期に、父と母を殺害した旧干城隊士・一瀬直久を討ちました。これは仇討ちの精神に基づくものでしたが、仇討ち禁止令が発令された明治6年(1873年)以降の出来事であったため、私的な復讐行為として扱われ、臼井六郎は終身禁獄の刑に処されました。後に恩赦で減刑され仮出獄していますが、これは法制化された仇討ちのルールから外れた行為が処罰された一例と言えます。

江戸時代においても、届け出をせずに行われた仇討ちや、定められた対象(尊属以外)への復讐、あるいは喧嘩両成敗の原則に反する行為などは、殺人罪として処罰の対象となり得ました。

Harugoro:

江戸期に処罰された物件は、記録として残ってますか?

Gemini:

はい、江戸時代に仇討ちとして行われたものの、公的な許可を得ていなかったり、定められたルールから逸脱していたために処罰された事例は、記録として残っています

ただし、その多くは武士以外の庶民によるもので、公式な記録(幕府の法廷記録など)にはあまり詳細に残されず、地域の伝承や個別の藩の記録、あるいは後の時代に編纂された史料の中で触れられていることが多いようです。

主な処罰の対象となったケースとしては、以下のようなものがありました。

これらの事例は、江戸幕府が公認しつつも、その無秩序な横行を防ぐために厳格なルールを設けていましたが、武士の行動原理や社会の慣習との間で、常に板挟みになっていたと言えるでしょう。

Harugoro:

武士とて法に外れた復讐を果たすものはいたと想像しますが、暗黙に処理されたんですか?

Gemini:

江戸時代において、武士が法に外れた復讐を果たした場合、原則としては処罰の対象となりました。仇討ちは幕府や藩に届け出て許可を得ることが必須であり、これを怠れば殺人罪に問われるのが建前でした。

しかし、ご指摘のように、武士の「面目」や「家名」に関わる事柄であったため、必ずしも厳格に法が適用されたとは限らない、という側面も考えられます。

考えられるケースとしては、以下のような状況が「暗黙の処理」に近い形で行われた可能性が示唆されます。

  1. 届け出前の「私闘」の黙認: 仇討ちの届け出を出す前に、偶然仇と出会って斬り合いになり、結果的に仇を討ってしまったような場合、その状況によっては事後的に仇討ちとして認められたり、厳重な処罰を免れたりするケースがあったかもしれません。ただし、これは「黙認」というよりは「事後承認」に近い形です。
  2. 藩内での内密な処理: 藩の内部で不祥事が起きた際、その武士の行為が藩の体面に関わる場合、外部に知られないよう内密に処分が行われたり、あるいは藩主の裁量で寛大な措置が取られたりすることもあったかもしれません。これは、藩の秩序維持と武士の名誉を両立させるための苦肉の策であった可能性があります。
  3. 「無礼討ち」(切捨御免)との混同: 武士には、自身や主君に対して耐え難い「無礼」を働いた者を、その場で斬り捨てることが許される「切捨御免」という制度がありました。これは仇討ちとは異なる制度ですが、私的な制裁として公認されていた点で共通しており、中にはこの名目を借りて、本来の仇討ちのルールから外れた行為が行われたケースも皆無ではなかったかもしれません。しかし、「切捨御免」にも厳格な条件があり、正当な理由がなければ「辻斬り」として処罰されました。

明確な「暗黙の処理」の記録は、その性質上、公的な文書には残りにくいものです。しかし、武士社会の倫理観や名誉を重んじる風潮、そして当時の司法制度の限界を考えると、厳密な法の適用とは異なる形で、個別の事情が考慮されたり、内々に解決が図られたりするケースが存在した可能性は十分に考えられます。

総じて、江戸幕府は仇討ちを公認しつつも、その無秩序な横行を防ぐために厳格なルールを設けていましたが、武士の行動原理や社会の慣習との間で、常に板挟みになっていたと言えるでしょう。

Harugoro:

荒木又右衛門の師匠は誰ですか?

Gemini:

荒木又右衛門の師匠については諸説ありますが、最も広く知られているのは柳生十兵衛三厳(やぎゅう じゅうべえ みつよし)に師事し、柳生新陰流を学んだという説です。

ただし、これを疑問とする説や、柳生の門に入る前に既に一流の剣術を極めていたとする説もあります。

彼の剣術の流派としては柳生新陰流が挙げられます。

Harugoro:

仇討ち当時すでに高名な剣士でしたか?

Gemini:

仇討ちが行われた寛永11年(1634年)の時点で、荒木又右衛門は既に大和郡山藩の剣術師範を務めており、剣客として名を知られていました。

Harugoro:

山本周五郎の壺という作品では、鍵屋の辻の翌年という設定です

以下本文抜粋です

内容は史実に近いんですか?

その前年、すなわち寛永十一年十一月、かれは義弟に当る渡辺数馬の助け太刀として、伊賀のくに上野の鍵屋の辻で河合又五郎はじめ数名の者を斬った。これは仇討ではあるがほかの場合のように単純ではなかった、河合の党には徳川はたもとの庇護があったし、渡辺、荒木らには大名のうしろだてがついていた、つまりようやく固定しかかっていた封建制のなかで、旗本と大名という対立がその出来事を中心にひとつの渦紋を巻きおこしたのだ。幕府の機宜の扱いで大事には至らなかったが、河合を討ったとなると、その庇護をしていた旗本たちが、荒木、渡辺らを覘うのは必定と思われた、そこで幕府はひそかに上野城主である藤堂大学頭(高次)に二人の保護を命じた、ほとぼりのさめるまで匿えという意味である。藤堂家がよろこんで承知したのはいうまでもない、寧ろそのまま家臣に抱えてしまいたかったのだろう、鄭重な客分あつかいで、又右衛門は屋敷を与えられ、なお家中の士に刀法の教授を依託された。復讐のときにも藤堂家からはかげの助力を受けたし、懇切をきわめたこの待遇にあって、又右衛門は少なからず困惑した、それは旧主である本多氏の恩義と、藤堂家への義理との板挟みになったからだ。新宮への旅は、その去就をきめるために気持のいとまを求めて来たのである。

Gemini:

山本周五郎の小説『壺』における荒木又右衛門に関する記述は、史実を基にしながらも、小説としての脚色が加えられている部分があります。

以下に、本文抜粋の各点について史実との比較を述べます。

  1. 仇討ちの時期と場所、参加者:
    • 本文: 「寛永十一年十一月、かれは義弟に当る渡辺数馬の助け太刀として、伊賀のくに上野の鍵屋の辻で河合又五郎はじめ数名の者を斬った。」
    • 史実: 「鍵屋の辻の決闘」は、寛永11年11月7日(1634年12月26日)に、伊賀国上野の鍵屋の辻(現在の三重県伊賀市)で、渡辺数馬が義兄の荒木又右衛門の助太刀を得て、弟の仇である河合又五郎を討った事件です。河合又五郎以外に、又五郎側の関係者も討たれていますが、「数名」という表現は史実と一致しています。荒木又右衛門が実際に斬った人数については諸説ありますが、「36人斬り」は誇張であり、実際には数人であったとされています。
  2. 政治的背景(旗本と大名の対立):
    • 本文: 「河合の党には徳川はたもとの庇護があったし、渡辺、荒木らには大名のうしろだてがついていた、つまりようやく固定しかかっていた封建制のなかで、旗本と大名という対立がその出来事を中心にひとつの渦紋を巻きおこしたのだ。」
    • 史実: 河合又五郎は、岡山藩主池田忠雄の小姓を殺害し、江戸幕府の旗本である安藤重長(安藤対馬守)の屋敷に匿われていました。一方、渡辺数馬は池田家家臣であり、荒木又右衛門は大和郡山藩の剣術師範でした。このように、事件の背後には旗本と大名という異なる勢力の関係があったことは事実であり、幕府がこの仇討ちをどのように裁くか、という点で政治的な配慮が必要とされました。
  3. 仇討ち後の処遇(藤堂家での保護):
    • 本文: 「幕府はひそかに上野城主である藤堂大学頭(高次)に二人の保護を命じた、ほとぼりのさめるまで匿えという意味である。藤堂家がよろこんで承知したのはいうまでもない、寧ろそのまま家臣に抱えてしまいたかったのだろう、鄭重な客分あつかいで、又右衛門は屋敷を与えられ、なお家中の士に刀法の教授を依託された。」
    • 史実: 仇討ち後、荒木又右衛門と渡辺数馬は、伊賀上野城主である藤堂高次に身柄を預けられ、約4年間、客分として保護されました。藤堂家が彼らを厚遇し、又右衛門が刀法の教授を依託されたという記述も、史実に近いとされています。これは、仇討ちが幕府公認の「義挙」とされたため、討ち手に対する社会的な評価が高かったことを示しています。
  4. 又右衛門の去就の悩み(旧主本多氏と藤堂家):
    • 本文: 「それは旧主である本多氏の恩義と、藤堂家への義理との板挟みになったからだ。新宮への旅は、その去就をきめるために気持のいとまを求めて来たのである。」
    • 史実: 荒木又右衛門は元々、本多氏に仕えていましたが、浪人となり、その後大和郡山藩の松平忠明に仕え、剣術師範となりました。仇討ちの際に浪人であった渡辺数馬を助太刀したことで、彼自身も浪人となります。藤堂家に預けられた後、最終的には鳥取藩に召し抱えられます。旧主への恩義と新たな庇護者への義理の板挟みという心理描写は、小説としての深みを与える脚色と考えられますが、武士の「義」を重んじる心情として、あり得る葛藤と言えるでしょう。

結論として、山本周五郎の『壺』における鍵屋の辻の仇討ちに関する記述は、主要な登場人物、時期、場所、そして仇討ち後の藤堂家による保護といった骨子は史実に非常に近いと言えます。 しかし、又右衛門の心情描写や、旗本と大名の対立が「渦紋を巻きおこした」という表現など、物語としての面白さを追求するための脚色や解釈が加えられている部分もあります。これは歴史小説の常道であり、史実を基盤にしつつも、作者の視点や解釈で物語を構築していると言えるでしょう。

Harugoro:

荒木又右衛門はいくつまで存命されましたか?

Gemini:

荒木又右衛門は、寛永15年(1638年)に亡くなったとされています。

享年については資料によって異なり、40歳とする説と41歳とする説、あるいは54歳とする説がありますが、最も有力なのは40歳または41歳です。

彼は鳥取藩主池田家に召し抱えられた後、鳥取に到着して間もなく急死したとされており、その死因については謎が多いとされています。

Harugoro:

決闘で怪我を負っていて命を縮めた説もありますか?

Gemini:

はい、鍵屋の辻の決闘で負った怪我がもとで命を縮めた、あるいはそれが死因の一つになったという説も存在します。

荒木又右衛門は、決闘の際に深手を負ったという記録や伝承があります。特に、多人数を相手にした激しい戦いであったため、たとえ勝利したとしても、その後の体に大きな負担がかかった可能性は十分に考えられます。

彼が鳥取藩主池田家に召し抱えられて間もなく急死したという事実(寛永15年、享年40歳前後)も、この説の根拠とされることがあります。当時の医療水準を考えると、深い傷がもとで感染症を引き起こしたり、内臓に損傷があったりして、数年後に体調を崩し命を落とすということはあり得たからです。

ただし、彼の死因については明確な記録がなく、病死説、毒殺説など諸説あり、決闘での怪我が直接の死因であると断定できる決定的な証拠はありません。しかし、物語や伝承の中では、その英雄的な戦いの代償として命を削ったという形で語られることも多く、人々の間でそうした認識が共有されているのは事実です。

Harugoro:

その年でなくなったのでは、自分で流派を立てることはなかったんですか?

Gemini:

はい、その年齢(40歳前後)で亡くなったとすれば、荒木又右衛門が自身で新たな流派を大成し、その流派が広く後世に伝わるということは難しかったと考えられます。

一般的に、流派を立て、それを広めるには、長年の指導実績と多くの門弟の育成が必要です。若くして亡くなったため、その機会が十分に得られなかったと言えるでしょう。

しかし、彼は柳生新陰流の免許皆伝を得ていたとされ、その剣技は高く評価されていました。鍵屋の辻の決闘での活躍は、彼の剣術が非常に優れていたことの証です。彼自身が流派の開祖とならなくとも、その卓越した技と武士としての生き様は、後世の剣術家や武士に大きな影響を与え、語り継がれていきました。

Harugoro:

荒木又右衛門が有名になったのは、講談や歌舞伎などの影響ですか?

Gemini:

はい、その通りです。荒木又右衛門が「鍵屋の辻の決闘」で名を馳せ、今日までその名が広く知られるようになったのは、講談や歌舞伎、浄瑠璃などの大衆芸能の影響が非常に大きいです。

史実としての「鍵屋の辻の決闘」は、確かに江戸時代初期の重要な仇討ち事件の一つですが、荒木又右衛門の「36人斬り」といった劇的な描写は、主にこれらの芸能によって生み出され、広められました。

これらの芸能では、荒木又右衛門は義弟を助ける義侠心に富んだ剣豪として描かれ、その豪快な立ち回りや武士としての生き様が人々の心を捉えました。特に、講談や歌舞伎は当時の庶民にとって主要な娯楽であり、繰り返し上演されることで、荒木又右衛門の物語は広く浸透し、伝説的な剣豪としてのイメージが定着していったのです。

現代においても、時代劇や小説、漫画など様々なメディアで荒木又右衛門の物語が描かれ続けており、その人気は衰えることがありません。

Harugoro:

荒木又右衛門の名が知れ渡るきっかけになった作品があると思うのですが、最初に大当たりした作品はわかってますか?

Gemini:

荒木又右衛門の名が知れ渡るきっかけとなった作品として、特に大当たりしたと言えるのは、浄瑠璃や歌舞伎の演目である『伊賀越道中双六(いがごえどうちゅうすごろく)』です。

この作品は、鍵屋の辻の決闘を題材にしており、劇的な展開や荒木又右衛門の活躍が描かれ、当時の大衆に絶大な人気を博しました。これにより、史実の仇討ち事件は、より伝説的な物語として広く人々に知られるようになりました。

Harugoro:

それは又右衛門の死から、何年後のことですか?

Gemini:

荒木又右衛門が亡くなったのは寛永15年(1638年)です。

浄瑠璃『伊賀越道中双六』が初演されたのは天明3年(1783年)です。

したがって、荒木又右衛門の死から『伊賀越道中双六』の初演までは、1783年 - 1638年 = 145年の歳月が流れています。

Harugoro:

かなり後のお話なんですね。作者は誰ですか?

Gemini:

はい、荒木又右衛門の死後、かなりの年月が経ってからの作品です。

浄瑠璃『伊賀越道中双六』の作者は、近松半二(ちかまつ はんじ)とその門弟たち(近松徳叟、吉田冠子、友七など)の合作とされています。特に近松半二が中心的な役割を担いました。

Harugoro:

又右衛門を直接しる人はもういなかったんですね。そうなるとかなり脚色が可能だったでしょうが、物語の中の又右衛門は、どういう人物ですか?

Gemini:

荒木又右衛門の死後100年以上経ってから作られた『伊賀越道中双六』などの作品では、史実に基づきつつも、物語としての魅力が増すように様々な脚色が加えられました。

これらの講談や歌舞伎、浄瑠璃といった大衆芸能の中で描かれる荒木又右衛門は、主に以下のような人物像として確立されています。

このように、物語の中の荒木又右衛門は、史実の剣術師範としての実力に加え、義理人情に厚く、圧倒的な強さを持つ、理想的な武士像として描かれ、それが彼の名を不朽のものとした大きな要因と言えます。

Harugoro:

現実の又右衛門がどういう人だったか、門弟もいたのである程度伝わっていると思いますが、わかる範囲でこたえてください。

Gemini:

はい、史実としての荒木又右衛門は、物語のヒーロー像とは異なる部分もありますが、確かな剣の腕と、当時の武士としての規範を重んじた人物であったことがうかがえます。

わかる範囲で、現実の又右衛門についてお答えします。

現実の荒木又右衛門は、講談で語られるような荒唐無稽な「無敵の超人」ではなかったでしょう。しかし、当時の武士社会の規範の中で、自身の剣術を磨き、義理を重んじ、いざという時には命を懸けて行動した、紛れもない一流の剣士であり、武士の鑑と見なされる人物であったと言えるでしょう。門弟たちを通して、彼の教えや剣技、そして生き様が伝えられていたはずです。

Harugoro:

数馬は弟子だったんですね。子孫はいますか?

Gemini:

はい、渡辺数馬は荒木又右衛門の義弟(妹婿)であり、また彼の剣術の弟子でもありました。数馬自身も池田家の家臣であり、後に仇討ちのために脱藩しています。

渡辺数馬の子孫については、以下の情報があります。

数馬は鍵屋の辻の決闘後、荒木又右衛門と共に鳥取藩主池田家に召し抱えられました。しかし、寛永19年(1642年)に35歳で死去し、嗣子がいませんでした。

藩主池田光仲は、数馬の功績を称え、死後に養子を許し、美田(みた)氏という姓を与えて家を存続させたとされています(『鳥取藩史藩士列伝』)。この美田氏が渡辺数馬の家を継ぎ、その子孫が続いたと考えられます。

したがって、直接の血筋の子孫は途絶えましたが、養子縁組によって家系としては存続し、その子孫は現在も存在している可能性が高いと言えます。鳥取県の地方史料などには、その美田氏の系譜が記されている場合があるようです。

Harugoro:

荒木又右衛門の子孫は?

Gemini:

はい、荒木又右衛門には、子孫がいます

彼は鍵屋の辻の仇討ちの後、鳥取藩に迎え入れられ、そこで亡くなりました。彼の墓がある鳥取市の玄忠寺には、又右衛門の墓の隣に子孫のお墓も並んでおり、現在も子孫の方がご存命であると伝えられています。

子孫が代々、鳥取藩に仕え、又右衛門の墓を護ってきたという記録もあります。

彼の家系は、元の姓である服部氏から、一時菊山姓を名乗り、後に荒木姓を名乗ったとされています。

Harugoro:

どうもありがとう。

Gemini:

どういたしまして。お役に立てて光栄です。

もし他にも何かご質問がありましたら、お気軽にお尋ねください。