作品紹介

山本周五郎の作品の中でも、特に静かで深い感動を呼ぶ名作短編。人知れず善行を続ける武士の姿を通して、人間の尊厳と信頼、そして真の思いやりとは何かを問いかけます。

物語の象徴である「あいている裏の木戸」は、困窮する人々への最後の希望であり、作者の温かい人間観の表れでもあります。派手な立ち回りはないものの、登場人物たちの心の機微が丁寧に描かれ、読後に穏やかな余韻を残す一編です。

あらすじ

武家屋敷が並ぶ静かな裏通り。その一角にある高林喜兵衛の屋敷の裏木戸は、いつも鍵がかかっていない。夜ごと、生活に困窮した人々が人知れずその木戸をあけ、中に置かれた箱から必要なだけの銭を借りていくのだった。

この仕組みは、貧しさのあまり一家心中した桶屋の悲劇を知った喜兵衛が、人々の尊厳を傷つけずに助けたいという思いから始めたものだった。

しかし、妻の放蕩な弟・藤井十四郎がこの仕組みを悪用しようとし、喜兵衛の善意は役人の知るところとなる。「人を怠けさせるだけだ」と非難されるが、喜兵衛は「飢えの苦しみを知らない人にはわからない」と、木戸をあけ続ける決意を曲げない。

やがて、またも十四郎が起こした揉め事に巻き込まれ、喜兵衛は刺されてしまう。それでもなお、彼は十四郎を庇い、その未来を案じるのだった。雪の降る夜、一人の老人がすがるように裏木戸に手をかける。木戸は、いつものように静かにあいていた。

本文

 その道は狭く、両側には武家屋敷が並んでいた。内蔵町の辻から西へ数えて一町ばかりのあいだは、その屋敷が両側とも裏向きなので、道は土塀と土塀に挟まれるが、北側の中ほどにある一棟の屋敷だけ、土塀ではなく、黒い笠木塀をまわしてあり、その一隅に木戸が付いていた。その道は昼のうちも殆んど人通りはない。

 夜はもちろん、月でもないかぎりまっ暗であるが、しばしば人が(あたりを輝かるように)忍んで来て、その笠木塀の屋敷の裏木戸をあける。木戸には鍵が掛っていない。

 桟を引けば、ことっと軽い音がするだけで、すぐに内側へ開くのであった。

 ……男も来るし、女も、老人も来る。みんな足音をぬすむように来て、その木戸をあけ、庭へはいって、しばらくなにかしていて、やがて出て来ると、静かに木戸を閉め、来たときと同じように、足音を忍んで去ってゆくのであった。

お松は立停って、うしろへ振返った。

 十月はじめの夜、もう十時を過ぎた時刻で、細い上弦の月が中空にあり、初冬にしてはやや暖かい風が吹いていた。そこは内蔵町の辻から裏通りへと曲ったところで、あたりに人影はなかった。お松は歩きだした。彼女は桶町の「巴屋」という料理茶屋のかよい女中で、いま店からの帰りに、そこへまわって来たのであった。

 土塀に沿って半町ばかりいったとき、お松はまた立停り、振返って、「どなた――」とうしろの暗がりへ呼びかけた。

「どなた」とお松は云った、「どうしてあとを附けたりするんですか」

すると暗がりから一人、ふらふらと出て来た者があった。着ながしに草履で、腰の刀がずり落ちそうにさがっている。

「勘のいいやつだ」と男が近よりながら云った、「聞けているのがよくわかったな」

「藤井さんね」とお松は云った、「なんの用があるんですか」

「それはこっちで訊きたいことだ、おまえこそこんな処へなんの用があって来たんだ」

「あなたの知ったことじゃありません」

「見当はつくさ」と藤井十四郎は云った、「おまえは金に困っている、そこで誰かの家へその金を作りにゆく、というわけだろう」

「それがどうしたんです、あなたには関係のないことだわ」

「相手は誰だ」と十四郎は云った、「店では男嫌いと堅いので評判だが、やっぱり男があったんだな、誰だ、河本か」

「あなたらしい邪推ね、ほんとに藤井さんらしいわ、いけ好かない方よ、あなたは」とお松は云った、「仰しゃるとおりあたしはお金に困ってるわ、おっ母さんは長患いで寝たっきりだし、やくざな弟はいるし、いろんなとこに借りは溜まっているし、……でもあたし、そのために身を売るほどおちぶれやしませんよ」

「そうむきになるな」と十四郎は笑った、「おまえが身を売ったなんて云やあしない、こんな夜なかに忍んでいって、金を貰う相手は誰だと訊いているだけだ」

「それが藤井さんになにか関係でもあるんですか」

「おまえはおれに金の無心をしたことがある筈だ」

「あなたは貸してやろうと仰しゃったわ、でもお金は貸してくれもしないで、いやらしいことをなさろうとしただけよ」

「おれは三男坊だからな、いつもふところに金が唸ってるというわけにはいかないさ、しかしそのつもりになれば五両や十両くらいの金は作ってやるよ、これからだってさ、」と十四郎は云った、「但し、金を払ったら品物を受取るのが世の中の定りだからな」

「御重役の御子息らしいお言葉ですね」

「世間は甘くないということだ」

「人間も甘くみないで下さい」とお松はやり返した、「あたしはばかかもしれないけれど、あなたのことはもうすっかり知ってるんですから」

「なにを知ってるって」

「たいていのことは聞きました。云えと仰しゃるなら云ってもようございますよ」

「嘘っぱちさ、ふん、世間の噂なんてでたらめなもんだ」と十四郎は云った、「おまえそんな世間の噂なんかを信用しているのか」

「どっちでもありません、あたしには縁のないことですからね」とお松は云った、「どうぞお願いします、もうあたしのあとを跟けまわしたりしないで下さい、あたしはたとえ殺されたって、あなたの自由になんかなりゃあしませんから」

「そろそろいったらどうだ」と十四郎が云った、「向うでも来るのを待っているんだろう」

「眼をつけないで下さいってお願いしているでしょう」

「おれに相手を知られたくないんだな」

「勝手になさるがいいわ」とお松は歩きだした、「あたしだって相手の方を存じあげてはいないんですからね、御身分に恥じなかったら掛けて来てごらんなさるがいいでしょ」

「おまえが相手を知らないって」

お松は黙って歩いた。十四郎は不決断な口ぶりで、「おれをごまかそうというのか」とか「もういちど相談しよう」など云いながら、うしろからついていった。

「おい、そこは高林だぞ」と十四郎はお松が立停るのを見て云った、「そこは高林喜兵衛の家だぞ」

 お松は黙って、笠木塀の端を手でさぐり、桟をみつけて右へ引いた。十四郎が近よって来て、お松の肩を押え、「相手は喜兵衛か」と囁いた。お松は返辞をしないで、肩の手を振り放し、木戸をそっと内側へ押した。木戸があくと、向うに高窓が見え、障子にぼっと燈火が映っていた。

 ――お松は木戸から中へはいった。十四郎はうしろから、首だけ入れて覗いた。お松はすぐ右手の、塀の内側にある箱のところへゆき、その蓋をあけた。箱は縦五寸に横一尺ばかりの大きさで、前面の板が蝶番で前へあくようになっている。お松は蓋をあけ、それから箱の中を手でさぐった。

「此処だったのか」と十四郎が低く喉声で囁いた、「するとあの噂は本当だったんだな」

 箱の中で小さな物音がした。そしてなにかをつかみ出し、窓からさして来る仄かな光りで、掌の中にあるものを数えた。そこには小粒銀と南鐐が幾つかあり、文銭もあった。おどろいたなあ、本当だったのか、と十四郎が呟いた。おれは根もない噂だと思ったし、このせち辛い世の中に、そんなばかなことがある筈はないと思っていた、それがどうやら本当らしいうえに、高林喜兵衛のしごととはおどろきだ、と十四郎は云った。お松は掌の上から幾らかを数えて握り、残ったのを箱に戻して、蓋を閉めようとした。すると十四郎がすばしこく寄って来、お松の手を押えて、「待て」と云った。

「ちょっと待て、ついでにおれも借りてゆこう」

「手を放して下さい」とお松が云った、「そんな冗談をなさるものじゃありませんわ」

「困っている者なら、誰でも借りていいんだろう、おれの聞いた噂ではそういうことだったぜ」

「冗談はよして下さい」とお松は云った、「これはその日の食にも困るような貧乏人だけが貸していただけるお宝ですよ、茶屋酒や博奕に使うお金とは違うんですから」

「大きな声をだしますよ」

「聞きたいね、さぞいい声だろう」

お松は突然「誰か来て下さい」と高い声で叫んだ。十四郎はびっくりして、「おいよせ」と手を振りながら、殆んど横っとびに木戸の外へとびだした。――向うの窓の障子があき、一人の侍が立ちあがってこちらを覗いた。

「誰だ」とその侍が云った、「どうしたんだ」

「お金を拝借にあがったものです」とお松が云った、「お騒がせ申して済みません、有難うございました」

 お松は低くおじぎをした。窓の侍は黙って立っていた。

 藤井十四郎はかしこまって、袴の膝に両手を突っぱり、すくめた肩の間に頭を垂れていた。幸助というのは四十がらみの、軀の小さな、実直そうな男であるが、いまは十四郎に対する不信のために、容赦のない眼つきをしていた。彼は浜田屋の手代で、浜田屋は藩の御用達だから、高林喜兵衛も彼とは面識があった。喜兵衛は納戸方頭取で、いま郡代取締を兼務しているが、死んだ父はながいこと勘定奉行を勤めたので、幸助とは父の代のときのほうが近しかった。

「人の名が出るから、詳しいことは話せないけれど」と十四郎が頭を垂れたまま云った、「酒色に使ったわけじゃないんだ、どうしてもそれだけ必要だったし、期限までには返せる筈だったんだ」

 幸助が咳をした。十四郎は言葉を切り、横眼ですばやく幸助を見て、それからまた「期限までには返せる筈だった、本当なんだ」と続けた。喜兵衛は穏やかな眼つきで、頷き頷き聞いていた。それは話を理解するというよりも、聞くことによって相手を慰めている、というふうにみえた。

「だからもう一と月待ってくれと頼んだんだが、だめだというんだ」と十四郎は云った、「すぐに返済しなければ、屋敷へ来て話して、兄から返してもらうと云うんだ」

「話しますとも」と幸助が云った、「私はもう信用しません、貴方にはなんど騙されたかしれないんですから」

 喜兵衛は手をあげて、「大きな声を出さないでくれ」と云った。

「失礼ですが貴方は藤井さんという人を御存じないんです」と幸助が云った、「この人は大きな声ぐらいに驚くような人ではございません」

「そうかもしれないが」と喜兵衛は襖のほうを見た、「家の者に聞えるといけないからね、たのむよ」

「それで、――」と十四郎は続けて、「家へ来て話されれば、まえにもしくじりをやっているし、兄はあのとおりの性分だから、こんどは放逐されるにきまっているんだ」

 幸助はまた咳をした。

「そちらは」と喜兵衛は幸助を見た、「どうしても待てないんですね」

「はい」と幸助は頷いた、「高林さまが保証して下さるなら、二日や三日はなんとか致しますが、それ以上お待ち申すことはできません」

 喜兵衛は立って居間へゆき、まもなく戻って来て、紙にのせた金を、幸助の前に置いた。十四郎はうなだれたままだったが、その顔には安堵の色があらわれ、唇には微笑さえうかんだ。

「ここに半分だけある」と喜兵衛は幸助に云った、「あとは明日か、ことによると 明後日になるかもしれないが、私が店のほうへ届けることにします」

「いや店は困ります」と幸助は首を振った、「これは店には内密で御用立てしたのですから、店ではお屋敷からのお断わりで、十四郎さまには一銭もお貸ししないことになっているのです、あんまり哀れそうな話をうかがったので、私はつい騙されてしまったのですが」

「まあまあ」と喜兵衛が遮った、「金が返れば騙されたということはないだろうから、ではどこへ届けようか」

 幸助は「私が来る」と答えた。喜兵衛はこちらから届けると云い幸助は「それでは私の住居へ来ていただきたい」と云った。自分は店へかよっているので、住居は川端町二丁目の裏である、と幸助はその道順を詳しく述べ、来てくれるなら早朝か夜がいい、と云った。彼は金を数えて包み、ふところから大きな古びた革財布を出して、金包をその中へしまった。その財布には紐が付いていて、その紐はまた彼の首に掛けてあった。

「こう申すと失礼ではございますが」と幸助は云った、「金が返っても騙されたことには変りはございません、十四郎さまは私をお騙しなすったのです、話を聞いて私はもらい泣きを致しましたが、しらべてみるとまるで根も葉もない、口から出まかせの嘘でございました」

「ばかなことを云うな」と十四郎がどなった、「きさまそんなことを云って、きさま自身はどうだ、きさまは店の金で利を稼いでいるじゃないか、知ってるぞ」

「もういい」と喜兵衛が制止した。

「なんですって」と幸助がひらき直った、「私が店の金でどうしたんですって」

「もういい、よしてくれ」と喜兵衛が手を振った、「十さんもよして下さい、加代に聞えるとよけいな心配をさせるだけですから」

 幸助は怒りの眼で十四郎を睨み、やがて、喜兵衛に挨拶をして去った。

「あいつは悪人ですよ」と十四郎は去っていった幸助のほうへ顎をしゃくった、「私に貸したのも欲得ずくです、金は店の金でちゃんと利息を取るんです」

「そういう話はよしましょう」

「本当です、ほかにも貸しているし、利息は自分のふところへ入れることもわかっているんです」

「その話はよしましょう」と喜兵衛は穏やかに云った、「それよりも、浅沼との縁組のはなしはどうしました」

「気乗りしないんだ」と十四郎は気取った口ぶりで云った、「娘が年をとりすぎてるし、いちど会ったんだけれど縹緻もよくないもんでね、私は気乗りがしないんですよ」

 喜兵衛はかなしげに微笑し、「まあよく考えることですね」と云った。

 その翌日、喜兵衛は隣り屋敷の和生久之助を訪ねた。和生は重職の家柄で、久之助は寄合肝煎を勤めている。喜兵衛より二つ年上の三十二歳であるが、少年時代から(互いに)誰よりも親しくつきあっていた。

「いいとも」と喜兵衛の話を聞いて、久之助はこころよく頷いた、「――このところ多忙でみまいにゆかなかったが、松さんのぐあいはどうだ」

「ああ、もういいらしい」と喜兵衛は柔和に眼で頷いた、「自分では起きたがっているが、加代があのとおり神経質なんでね」

久之助は頷いて、立っていった。彼はすぐに、紙に包んだ物を持って戻り、「では」と云って、喜兵衛に渡そうとして、ふと疑わしげな眼をした。

「ちょっと訊くが、藤井の三男に貸すんじゃあないだろうね」

 喜兵衛は眩しそうな眼をした。

「やっぱり十四郎か」

「それは訊かないでもらいたいんだ」

「いやだ、十四郎ならおれはいやだ」

「だって」と喜兵衛はかなしげに云った、「これは和生には関係のないことだから」

 喜兵衛は穏やかに久之助を見た。

「その金は私が借りるんだよ」と喜兵衛がゆっくり云った、「どう使うかは私の自由だと思うんだが」

「ものには限度がある」と久之助が云った、「これまでにも、高林は幾たびも彼のために手を焼いている、御妻女の兄だから、或る程度まではしかたがないとしても、これでは際限がないし却って当人のためにもならない、もう放っておくほうがいいよ」

「放っておくわけにはいかないんだ」

「現に彼のきょうだいが匙を投げているじゃないか」と久之助は云った、「彼のやることはたちが悪い、侍らしくない噂がいろいろ耳にはいる、もうよせつけないほうがいいな、さもないとどんな迷惑を蒙るかわからないぞ」

「しかし、私が放っておけば、彼は良くなるだろうか」

「彼には三郎兵衛という長兄もいるし、岡島へ婿にいった次兄もいる、父は亡くなったが母親だってまだ健在な筈だ」

「それがみな匙を投げているって、いま云ったばかりじゃないか」と喜兵衛は微笑した、「しかも家中ではもうつきあう者もないようだし、このうえ私までがよせつけないとしたら、彼はどうなるか想像はつくと思う」

「樹が腐りだしたら根から伐るがいいさ」

「彼は樹じゃあない、人間だよ」

「だからなお始末が悪い」と久之助は眉をしかめた、「樹ならはたに迷惑は及ぼさないが、腐った人間はまわりの者までも毒する」

「藤井十四郎は人間だし、他の人間と同じように、悩みも悲しみも苦しみもある、あると私は思う、いろいろな失敗や不始末をするが、そのたびに苦しんだり悩んだりするだろう、私は幸いにしてまだ、彼のように不始末や失敗をしないで済んでいるが、それでも彼の傷の痛みや、どんな気持でいるかということは、推察ができるよ」

 久之助は「ああ」と溜息をつき、片手で膝を力なく打った。いかにも「やりきれない、もうたくさんだ」とでも云いたげな身振りであった。

「いつも思うんだが」と久之助は云った、「高林のそういう考えかたは、人を力づけるよりもなまくらにする危険が多い、ことに彼のような男はそうだ、同情やいたわりや、しりぬぐいをしてくれる者がいるあいだは、決して彼の行状は直らないし、ますます深みにおちこむだけだ」

 喜兵衛は頷いて「そうかもしれない」と口の中で云った。慥かに、そうかもしれないと思う。彼はそう呟いて、久之助を見た。

「だが、どうしてだろう」と喜兵衛はかなしげに(まるで訴えるように)云った、「彼にはいま同情やいたわりや助力が必要なんだ、ぬきさしならぬほど必要なんだ、しかも、そうすることが、逆に彼の堕落をたすけるかもしれないということは、なぜだろう、和生、どうしてだろう」

「それは十四郎自身の問題だ、十四郎がそういう人間だというだけのことだ」

「わからない、私にはそれだけだとは思えない」と喜兵衛は頭を垂れた、「人が不幸になってゆくということは、単にその人間の問題だけではなく、環境や才能やめぐりあわせなど、いろいろな条件の不調和ということもある――彼は傷ついた人間だし、私は幸いにして傷ついてはいない、私は自分が無傷でいて、傷ついた人間を突き放すことはできない、それは私にはできないことだ」

 久之助は紙包を渡しながら、「わかった、その話はもうよそう」と云った。それからふと喜兵衛を見て、ときになにか云いかけたが、すぐに首を振り、「いや、なんでもない」と咳をしながら、云いかけたことをうちけした。喜兵衛は包をしまって、役目の用件について暫く話し、まもなく和生家を辞去した。

 日が昏れてから、喜兵衛は川端町までいって来た。すると、妻が待っていて、「松之助がまた発熱した」と告げ、「いま長さまが帰ったところです」と加代は云った、「これから薬をとりにやるのですけれど」

 そして良人の顔を見た。喜兵衛は「どうした」という眼つきで妻を見返した。

「お薬礼が溜まっているんです」と加代は云った、「もう三月も溜まっているんですから、お金を持たせなければ薬を取りにはやれませんわ」

「しかし」と喜兵衛は訝しそうに云った、「まだ薬礼ぐらいはある筈じゃないか」

「あればこんなことは申上げません」

 妻の云いかたがあまりきついので、喜兵衛はちょっと答えに詰り、黙ってわが子の寝ている部屋へいった。松之助は眠っていて、部屋の空気は(熱の高い)病児に特有の、物の饐えるような匂いがこもっていた。子供は五歳になるが、生れつき弱く、ちょっと風邪をひいても、半月くらいは治らないというふうで、今年は夏に寝冷えをして以来、下痢と発熱がしつこく続き、九月の中旬から殆んど寝たきりという状態であった。

 子供はもう少し自由にさせておくほうがいい、こちらでは神経質にかまい過ぎる。

 藩医の村田研道はたびたびそう忠告した。妻の加代はそれが気にいらず、町医者の氏家長玄を頼むようになった。長玄は六十に近く、小児科では良い評判をとっていたが、薬礼の高いことでも知られていた。

 喜兵衛はそっと子供の枕許に坐り、暗くしてある行燈の光りで、その寝顔を覗いた。松之助は妻に似た神経質な顔だちで、眉が際立って濃く、鼻が尖っている。繰り返す下痢のため、栄養が付かないから、いまはかなり痩せていて、その寝顔は熱で(発赤しているにもかかわらず)まるで老人のようにみえた。…加代は良人のあとから来て、その脇に坐ると、「あなた」と囁いた。

「よく眠っている」と喜兵衛が云った。

「お薬をどう致しますか」

「薬だって」と彼は振返った、「まだ取りにやらないのか」

「ですからお金をお願い申しましたわ」

「いま急に云われても困るよ」

「頂けないのでしょうか」

 喜兵衛は妻の顔を見て、「困るね」と云い、立ちあがって、自分の居間へ去った。机の前に坐り、行燈の灯を明るくして、火桶の火に炭をついでいると、加代が来て坐った。喜兵衛は眼を向けなかったが、それでも妻の顔が蒼ざめて硬ばり、唇の歪んでいるのが見えるようであった。

 家計はどこでも予算どおりにはゆかないものである、と加代は云った。ことに松之助が弱くて、半年と医者の手をはなれたことがないのだから、それだけでもよけいな出費があると思ってくれなければならない、薬礼がとどこおって、薬も取りにやれないようではあまりに悲しいことだ、と加代は云った。喜兵衛は太息をつき、机の上へ写本の支度をひろげた。彼はもう二年あまりも、古書を筆写してそくばくの賃銀を稼いでいるが、それも加代にとっては、「外聞が悪い」といって不満のたねであった。

「家計は予算どおりにはいかないだろう」と喜兵衛は静かに云った、「しかし、松之助のことがあるから、急の場合の用意をしておくように云ってあるし、雑用もこのまえは余分に渡した筈だ」

「わたくし帯を買いました、それは申上げましたわ」

「帯を、買ったって、――」

「慥かに申上げた筈です、お忘れになったのですわ」と加代は云った、「十一月には実家の父の三年で、法事にまいらなければなりません、親類縁者がみんな集まるんですから、せめて帯くらい新調しなければ、わたくし恥ずかしくって出られはしませんわ」

 喜兵衛は硯の蓋をあけた。

 喜兵衛はくたびれたような気分で、墨をすった。彼は帯のことを聞かなかった。むろん帯を買う買わないは問題ではない、「薬礼を持たせなければ薬を取りにやれない」とか、「古い衣裳では、(恥ずかしくて)法事にも出られない」などという妻の考えかたが、――藤井家とは禄高が違うのだから、といくら云い聞かせても、あらたまるようすがない。それがつねに喜兵衛を悩ませ、重荷になっているのであった。加代はなお不満を並べていた。喜兵衛は墨を摺っていて、「わかった」と云い、では私がいって来よう、と立ちあがった。

「どこへいらっしゃるんですか」

「もちろん医者へだ」

「うちには下男がおりますわ」

「しかし、金を持たせなければやれないんだろう」と喜兵衛が云った、「それなら私が取りにゆくよりしようがないじゃないか」

「あなたは」と加代は声をふるわせた、「わたくしに当てつけをなさるんですね」

「私がそんなことをする人間かどうか、わかっている筈じゃないか」と彼は穏やかに云った、「医者の払いは年に二回ときまっている、氏家は町医者だからというが、町医者だってかかりつけになれば同じことなんだ、むろん手許に金があれば払うほうがいいさ、しかし金がないのに無理をして払うことはないし、そういうみえはもう棄てなければ困るよ」

「私のすること、わたくしのすることがみえで、あなたのなさることはみえではないのでしょうか」

 と彼は妻を見た。

「知らないと思っていらっしゃるんですね」と加代は云った、「裏の木戸の箱もそうですけれど、家計のほうは詰めるだけお詰めになって、他人には幾らでもお金を用立てていらっしゃる、たった一人の子供の薬礼にも不自由しながら、人に頼まれれば幾らでもお金の都合をしておあげになる、それはみえではないのでしょうか」 喜兵衛はかなしげに首を振り、そこへ膝をついて、妻の手を取った。そして妻の手をやさしく撫でながら、「その話はまたのことにしよう」と云った。

「おまえは疲れて気が立っているんだ」と喜兵衛はなだめるように云った、「今夜はいねに代らせて寝るほうがい、薬を取って来たら、私が松之助に飲ませてやるよ」

「あなたは少しも」と加代は涙声で云った、「あなたはわたくしの申上げることを、少しもまじめに聞いては下さいませんのね」

「もういい、おやすみ」と彼は静かに妻の手を撫でた、「私は薬を取って来る、おまえはもう寝るほうがいいよ」

「医者へは与平をやりますわ」

「私がいって来よう、そのほうが早いからね」と彼は立ちあがった、「みえなどと云って悪かった、あやまるよ」

 加代は眼を押えながら微笑し、喜兵衛も微笑を返して、そして部屋を出ていった。

 松之助の熱は朝になるとおさまった。

 それから五、六日のちのことであったが、夜の九時過ぎに、裏の木戸で妙なことが起こった。その年はじめての冷える晩で、写本をしていた喜兵衛が、火桶へ炭をつぎ足していると、裏木戸のあくかすかな音がした。喜兵衛は手を止めて耳をすました。

 返しに来たのか、借りにか……。

 そこへ銭を借りに来る者は、たいていは黙って、おじぎをしてゆくだけであるが、返しに来た者は、必ず低い声で礼を述べる。この部屋の(灯の映っている)窓に向って、囁くような声で礼を云うのが、ときには、かなりはっきり聞えるのであった。

 喜兵衛は眉をひそめた。「必要だけ箱にあればいいが」そう思っていると、ふいに人の争う声が起こった。裏木戸のあたりで、暴あらしく揉みあうけはいと、平手打ちの高い音と、「きさま、恥を知れ」という声が聞えた。喜兵衛は驚いて机の前を立ち、窓の障子をあけた。

「誰だ」と彼は呼びかけた、「どうしたんだ、なにごとだ」返辞はなかった。誰かの逃げてゆく足音がし、すぐに、誰かが木戸を閉めて、ことっと桟を入れる音がした。

「どうしたんだ」と喜兵衛は呟いた、「なにがあったのだろう」

 暫くようすをうかがっていたが、もうなにも聞えないし、人のいるけはいもないので、喜兵衛は障子を閉め、机の前へ戻った。

 十一月になってまもない或る日、城中の役所で事務をとっていると、「細島どのがお呼びです」といって来た。

 細島左内は寄合で、馬廻支配を兼ねている。平常は寄合役の部屋にいるので、喜兵衛はすぐにそっちへいった。そこには細島左内だけでなく、脇谷五左衛門、藤井三郎兵衛、そして和生久之助がいた。

「表向きの話ではないが、少し訊ねたいことがあって、――」と左内が云った、「御用ちゅうだから簡単に云うが、そこもとが隠れて金貸しめいたことをしている、という訴文が、目安箱の中に投げ入れてあった、十数通も入れてあったので、念のために事実かどうかを訊きたいのだが」

 喜兵衛は「事実無根である」と答えた。左内は藤井三郎兵衛に振向いた。三郎兵衛は無表情に喜兵衛を見つめながら、「それだけでは判然としない」と云った。喜兵衛は戸惑ったような眼で三郎兵衛を見た。この、妻の長兄に当る人物は、潔癖と頑ななことで、親族じゅうに知られていた。

「私はそこもとと妹の縁でつながっているからこういう忌わしい問題は明白にしておきたいのだ」と三郎兵衛は云った、「訴文は十数通に及んでいるし、ただ事実無根というばかりでは納得がゆきかねる、なにか思い当るようなことがあるのではないか」

 喜兵衛は眼をつむった。

 裏木戸のことだろうか。

 そうかもしれない、「金貸しめいたこと」といえば、意味は違うけれども、そのほかに思い当ることはない。だが、もしもそうだとすると話すことはできない、絶対に話してはならない、と喜兵衛は思った。

「いや」と喜兵衛は首を振った、「私には思い当るようなことはありません」

「慥かにか」と三郎兵衛が云った。

「よけいな差出口かもしれないが」と和生久之助が云った、「高林には、そういう中傷のたねになるようなことが一つある筈だ」

 喜兵衛は久之助を見た。他の三人も久之助に振向き、あとの言葉を待った。久之助はさりげない顔で、静かに喜兵衛を眺めていた。

「私から云おうか」と久之助が云った、「裏の木戸のことだ」

 喜兵衛は「あ」と口をあけた。待ってくれというように、手をあげて制止しようとしたが、その手は膝から二寸ほどあがったばかりで、久之助はもう言葉を続けていた。

「私から云いましょう」と久之助は三人に向って云った、「高林の家の裏木戸の内側に、金の入っている箱が掛けてある、金額は知らないが、たいした額ではないでしょう、その木戸はいつもあいているし、窮迫している者は誰でもはいっていって、箱の中から欲しいだけ持ってゆくことができる、そして、返すときも同様に、黙って木戸をはいって、その箱の中へ戻しておけばよい、――これはかなり長い期間ずっと続けて来たらしいし、訴文はこのことをさすのだと思われます」

「それは事実か」と三郎兵衛がするどく喜兵衛を睨んだ、「いま和生どのの云われたことは事実か」

 喜兵衛は弁明しようとして義兄を見た。すると三郎兵衛の顔が急に赤くなり、片膝を進めながら、「それが事実とすれば、金貸しめいたことではなく、金貸しそのものではないか」とたたみかけた。

「それは違います」と久之助が遮った、「それは藤井どののお考え違いです」

「しかし現にいまそこもとが貸している」

「まあお聞き下さい」と久之助はゆっくり云った、「金貸しというものは、人に金を貸して利を稼ぐものでしょう、高林は利息などは取りません、窮迫した者が必要なだけ持ってゆき、返せるときが来たら返せばよい、借りるのも返すのも自由だし、返せなければ返さなくともよい、誰がどれだけ借りたか、誰が返し、誰が返さないかもわからない――高林はただその箱をしらべて、金があればよし、無くなっていれば補給するだけです、これが些かでも金貸しに似ているというなら、私が御意見をうけたまわりましょう」

 細島左内は脇谷五左衛門を見た。五左衛門は藤井三郎兵衛を見、それから喜兵衛に向って、「それに相違ないか」と念を押した。喜兵衛は当惑したように、眼を伏せながら、「相違ない」と答えた。

「どうしてだ」と五左衛門は訊いた、「どういう事情でそんなことを始めたのだ」

「それは――」と喜兵衛は低い声で云った、「その日の食にも窮している者たちに、いちじの凌ぎでもつけばよいと思いましたので」

「小人の思案だ」と三郎兵衛が云った、「それは人に恵むようにみえるが、却って人をなまくらにする、貧窮してもそんなふうに手軽に凌ぎがつくとなれば、そうでなくても怠けたがる下人たちは、苦労して働くという精神を失うに違いない、十人が十人とはいわない、十人のうち一人でも二人でも、そういう人間の出ることは慥かだと思」

「それに」と五左衛門が云った、「返してもよし返さなくともよしとなると、借りたまま口をぬぐっているという、狡い気持をやしなう危険も考えられる」

「これについてどう思うか」と三郎兵衛は喜兵衛に云った、「そういう安易な恵みが、逆に害悪となるという点を考えたことがあるか」

喜兵衛は暫く黙っていたが、やがて「そういうことは考えなかった」と答えた。三郎兵衛は左内の顔を見た。左内は咳をし、膝の上で扇子をぽちっと鳴らし、それから三郎兵衛に向って「どうぞ」と云うように頷いてみせた。

「それでは寄合役の意見を述べる」

三郎兵衛は改まった調子で云った、「いずれお沙汰があるまで、ただちにその木戸を閉め、その箱を取払っておくがよい」

喜兵衛は静かに「いや」と云って、眼をあげて三郎兵衛を見た。

「それはお受けできません」

「なに、――不承知だというのか」

「お受けすることはできません」と喜兵衛は穏やかに云った、「箱の中の僅かな銭を、たのみにする者が一人でもある限り、私はその箱を掛け、木戸をあけておきます」

「寄合役の申しつけでもか」

「それは、――」と喜兵衛は口ごもったが、頭を垂れながら、呟くように云った、「いや、私にはお受けは、できません」

 三郎兵衛が眼を怒らせ、なにかどなりだそうとしたとき、「まあ暫く」と久之助が静かに云った。

「これはそう簡単な問題ではない」と久之助は続けた、「領内に窮民があれば、藩で救恤の法を講ずるのが当然で、高林はそれを独力でやって来たわけです、したがって廃止を命ずるまえに、その実際の状態と、なに者が目安箱へ訴文を入れたか、ということを調べるべきだと思いますが、いかがでしょうか」

 他の三人は顔を見交わした。久之助は寄合役肝煎だから、三郎兵衛も(不満そうではあったが)敢えて反対はしなかった。

「ではまた沙汰があろう」と久之助は喜兵衛に眼くばせをした、「今日はこれでさがられるがよい、御用ちゅう御苦労であった」

 喜兵衛は感謝の眼で久之助を見、それから会釈をして立ちあがった。

 その日、――下城の太鼓が鳴ってから、喜兵衛の役部屋へ久之助が来た。彼は他の者が帰るのを待って、「頑張ったな」と微笑した。お受けはできない、と二度まで云いきったのはさすがだ、「しかし、あの箱をたのみにする者がいるということを、なぜもっとはっきり云わなかったのか」と久之助は訊いた。

「しかし、それを云ったところで」と喜兵衛はかなしげに微笑した、「あの人たちにはわからないだろうからね、自分で現実に飢えた経験がなければ、飢えがいかに辛いかということはわからないものだ」

「だが高林にはわかるんだろう」

「あの人たちは云ったね」と喜兵衛は嘆くような口ぶりで続けた、「そんなふうに手軽に凌ぎがつくとなれば、苦労して働く精神が失われる、金を借りたまま口をぬぐうような、狡い気持をやしなうって、――あの人たちは知らないんだ、知ろうともしないんだ、下人どもは怠けたがるものだって、ああ」と彼は悲しげに首を振った、「貧しい人々がどんなふうに生き、どんなことを考えているか、貧窮とはどんなものか、あの人たちはまったく知ってはいないんだよ」

「だが高林は知っているじゃないか」

「もう十五年ちかく経っているが」と喜兵衛は低い声で続けた、「――和生などはもちろん知らないだろう、家に出入りの吉兵衛という桶屋がいたが、貧窮のあまり、妻子三人を殺して自分も自殺した、ということがあった」

「その話は覚えている」と久之助が云った、「桶屋の吉兵衛はおれの家へも出入りしていた、慥か可愛い娘がいたと思う」

「なおという名だった」

「名は知らないが、十三四になる縹緻のいい子だった、――そうだ」と彼は頷いた、「父親が足をどうかしたといって、その娘が桶を取りに来たり届けに来たりしたようだ」

 喜兵衛は「うん」と頷いて、遠くを見るような眼つきで、じっと襖の一点を見まもった。久之助は「そうか」という表情をし、喜兵衛はその娘が好きだったのか、と心のなかで問いかけた。

「私は吉兵衛の家へいってみた」と喜兵衛はやがて言葉を継いだ、「父には隠して、経料を届けるように母から云われたんだ、そして事情を聞いたんだが、吉兵衛が足を挫いてから不運つづきで、借財や不義理が重なった結果、どうにもならなくなって一家で自殺したという話だった」

 喜兵衛にその話をしたのは、家の差配をしている老人だったが、「吉兵衛は正直で気の弱い、まことに好人物であった」と云い、子煩悩だから「娘を茶屋奉公に出す」気もなかったのだろう、「ちょっと相談してくれれば、少しくらいの金は都合してやったものを」などと云った。

「その晩か次の晩だった」と喜兵衛は続けて云った、「父のところへ客があって、その話が出た、客は、よく覚えているが、藤井兄弟の父の図書どのだった、二人は吉兵衛の一家自殺を評して、銀の一両か二両あれば死なずとも済んだであろう、そのくらいの金なら誰に頼んでも都合ができたであろうに、ばかなことをする人間もあったものだ、……二人はそう云った、誇張ではない、殆んどこのとおりに云ったのだ」

「私はそのとき思った」と喜兵衛は少しまをおいて云った、「差配の老人もそう云い、父や図書どのも同じように云う、だが、はたしてそうだろうか、銀の一両や二両というけれども、それは吉兵衛一家が死んだあとだからで、もし生きているうち借りにいったらどうだ、こころよく貸す者があるだろうか、――いや私にはわかっている、かれらはおそらく貸しはしない、少なくともそういうことを云う人間は、決して貸しはしないんだ」

 久之助は同意するように頷いた。

 喜兵衛はそのとき「裏の木戸」のことを思いついた、と云った。かなしいことに、人間は貧乏であればあるほど、金銭に対して潔癖になる。施しや恩恵を、かれらほど嫌うものはない。しかし顔も見られず、証文や利息もなしに、急場を凌ぐことができたら、かれらもたぶん利用しに来るだろう。喜兵衛はそう考えたのであった。

「実際に箱を掛けたのは、父が死んで家督相続をしてからだ」と彼は続けた、「初め吉兵衛の差配だった老人に相談をして、小金町と山吹町の、裏店の人たちだけに限り、よほど困った場合にはといって知らせた、半年くらいは誰も来なかったが、やがて来るようになった、……差配の老人は、返すような者はないだろう、と云った、藤井や脇谷どのも云ったように、借りる者はあっても返す者はないだろうって、――慥かに、二年ばかりのあいだは、箱はからになることのほうが多かったし、その補給にはかなり苦労をした」

「やめようと思ったことはないんだな」

「うん、」と喜兵衛は頷いた、「そう思ったこともある、ずいぶん苦しいときがあったからね、しかし、そういうときには、いつも吉兵衛の小さい娘のことを思いだした、なおという娘のことを、……あの子がどんな気持で死んだかということをね」

 久之助は眼をそらしながら、「それほどあの娘が好きだったんだな」と心のなかで合点した。喜兵衛は「それがいつも自分を支えてくれた」と云った。死んだ娘のことを考えれば、彼の苦労などはさしたることはない、「続けられるだけ続けよう」といつも思い返した。

「そのうちに返す者が出はじめた」と喜兵衛は云った、「箱がからになるときより、余っているときのほうが多くなった、しかも、ときによると元金より多く入っていることさえあるんだ」

「高林が勝ったんだ」と久之助は顔をそむけながら云った、「――貧しい者ほど金銭に潔癖だという喜兵衛の信頼が勝ったんだ」

 喜兵衛は急に息をひそめて、久之助を見た。そむけている久之助の横顔を、じっと見まもっていてそれから「ああ」と声をあげた。

「そうか」と喜兵衛は云った、「和生も入れていてくれたんだな」

「おい、よしてくれ」

「いやだめだ、裏木戸のことを知っているのは、小金町と山吹町界隈の者たちだけだ、それと和生はさっきの席で云いだしたし、――そうか、そうだ、思いだしたよ」と喜兵衛は云った、「先月中旬の或る夜、裏の木戸で人を殴る音がし、恥を知れ、という声が聞えた、そのときは気がつかなかったが、いまは思いだすことができる、あれは和生の声だった」

「十四郎のやつが来たんだ」と久之助は街れたように云った、「十四郎のやつが来て、箱の中からつかみ出そうとしたんだ」

「和生は金を入れに来ていたんだな」

「おれはかっとなった」と久之助は云った、「どうして木戸のことを知った、彼などに一文だって手を付けさせたくなかったからな、思わず捉まえて平手打ちをやったんだよ」

 喜兵衛は俯向いて「有難う」と囁くように云った。

「だいぶなが話をしてしまった」と久之助は立ちあがった、「よかったらいっしょに帰ろうかね」

 喜兵衛は机の上を片づけながら、「寄合役の意見はどうなるだろう」と訊いた。大丈夫だおれが引受けるよ、と久之助が云った。目安箱へ訴状を入れた人間も、およそ見当がついてるんだ。見当がついているって。「うん」と久之助は頷いた。小金町あたりの連中に日金を貸しているやつの仕事さ、やつらは貧乏人の生血を吸って肥えるんだから、裏の木戸は大敵なんだ。へえー、と喜兵衛は眼をみはった。和生はいろいろなことを知っているんだな。そうでもないさ、じつを云うと町奉行の意見を聞いたんだ、と久之助は苦笑した。

「むずかしいものだ」と喜兵衛は太息をついて云った、――こういうことでさえも、どこかへ迷惑を及ぼさずにいないんだな」

 久之助は「帰ろう」と云った。

 数日のちに藤井で法事があった。亡くなった図書の三年忌で、加代は松之助を伴れて寺へゆき、喜兵衛は下城してから、藤井の家へいって焼香した。そのとき三郎兵衛が、「木戸のことは構いなしになるようだ」と告げたが、あまり機嫌のいい顔ではなかった。――加代は「松之助を夜風に当てたくない」と云って日の昏れるまえに帰り、喜兵衛は残って、二十人ばかり集まった親類縁者たちと、精進の接待を受けてから辞去した。

 まだ宵の口だったが、もう霜でもおりたかと思われるほど寒く、やや強い風が北から吹きつけていた。供の提灯の光りを踏みながら、内蔵町の辻へかかろうとすると、ふいに横のほうから、藤井十四郎が出て来て呼びとめた。

「済まないが」と十四郎は供のほうへ手を振って云った、「内密で話したいことがあるんだが」

「家へゆきましょう」

「いや」と彼は首を振った、「いそぐんだ、非常にいそぐんです」

 喜兵衛は供の者から提灯を受取って、「先へ帰れ」と命じた。

 二人きりになると、十四郎はせきこんで、金を五両ほど都合してくれと云った。

「騙されて博奕場へ伴れこまれた」と十四郎はふるえながら云った、「もちろんいかさま博奕で、五十両という借ができた、――半月ばかり延ばしてもらっていたんだが、今夜かぎり待てないと云って来た、かれらはいま内匠町の神明の境内で待っている、時刻までに来なければ、屋敷へいって兄に談判するというんだ」

「それで」と喜兵衛は訊いた、「五両の金でどうするんです」

「おれは、私は逃げる」と十四郎は云った、彼の荒い息が、寒さのために白く凍った、「とても五十両などという金は作れないし、博奕の貸しは殺しても取るというから、もう逃げるほかに手段はないんだ」

「相手は神明の境内にいるんですね」

「頼む、これが最後だから」

「いや、私がいって話してみましょう」と喜兵衛は云った、「博奕場のしきたりがどんなものかは知らないが、事情を話せばなんとか方法があるでしょう」

「だめだ、それはもうだめなんだ」と十四郎は殆んど泣くように云った、「相手は海松徳といって、兇状持ちの博徒だし、これまで延ばしたのを騙したといって、怒っているんだから」

「とにかく話すだけ話してみましょう」と喜兵衛は歩きだした、「相手がそういう人間なら、逃げたところで必ず捜し出されるでしょう、こんなときには当って砕けろというじゃありませんか」

 喜兵衛は道を引返して、大手筋を横切っていった。十四郎はなお「それはむだだ、かれらは話など聞きはしない」と繰り返しながら、それでも喜兵衛のあとからついて来た。

 おそらく嘘だろう。

 五両という金を借りるために、そんな話を拵えたのだろう、と喜兵衛は思った。しかし内匠町にかかると、十四郎は急に黙って、喜兵衛の蔭に隠れるようにして歩いた。――神明社は武家町の端に近く、境内はさして広くないが、古い杉林があり、石の玉垣のすぐ内側に、大きな池があった。喜兵衛は鳥居のところで、「此処ですね」と十四郎に念を押した。十四郎は頷いた、彼のふるえているのが喜兵衛によくわかった。

 喜兵衛は鳥居をくぐっていった。

「海松徳の人はいますか」と喜兵衛は呼びかけた、「藤井十四郎のことで話したいのだが」

 すると右手の杉の木蔭から、「やっちまえ」という声とともに、四五人の男がとびだして来て、一人がいきなり喜兵衛に躰当りをくれた。脇腹へ火を当てられたように感じ、喜兵衛は「うっ」といった。提灯がはね飛んで、地面へ落ちて燃えあがり、喜兵衛は手で脇腹を押えながら、くたくたと膝をついた。

「待て」と喜兵衛は喉で云った、「待て、話がある」

 そのとき、「いけねえ、こいつは大変だ」という声がした、「高林の旦那だ、大変なことをした、誰か医者へいってくれ」そう叫ぶのを聞いたまま、喜兵衛は気を失ってしまった。

 医者が来て、手当をされたとき、痛みのためにわれに返った。そこには十四郎と、見知らぬ若者が二人いて、その一人(まだ十七八とみえた)がふるえながら、「とんでもねえことをした、とんでもねえことをしちゃった」と伴れの男に囁いていた。おれの姉さんが旦那の御恩になったんだ。おふくろの病気が治ったのも旦那のおかげなんだ、暗くってわからなかったし、まさか旦那が来ようとは思わなかったんだ。「もういい、諄いことはよせ」と伴れの若者が云った。

 この若者の姉とは、誰だろう。

 喜兵衛は手当をされる痛みのなかで、ぼんやりと思った。十四郎はまっ蒼に硬ばった顔で、医者の手許を見まもっていたが、やがて喜兵衛のほうへ振向き、「勘弁してくれ」と低い声で云った。

「済まなかった、高林、勘弁してくれ」

 喜兵衛は眼で頷いた。

 ――それでも彼は逃げなかった。

 おれを置いて逃げるほど、彼も卑怯ではなかったんだな、と喜兵衛は思った。

「わかってるよ」と喜兵衛は喉で云った、「もののはずみだったのさ、心配することはない、たぶんこれで、あの話もうまくいくだろう、――私は大丈夫だから、もう家へ帰るほうがいいよ」

 十四郎は泣きだした。十四郎の眼から、涙のこぼれ落ちるのを、喜兵衛は見た。まもなく、他の二人の若者が、戸板(喜兵衛を運ぶための)を持って走って来た。

「もう帰って下さい」と喜兵衛が十四郎に云った、「今夜のことは私がうまくやります、どんなことがあっても決して他言しないように頼みますよ」

 雪の降る夜の十時ころ、五十年配の老人がひとり、頭からやぶれ合羽をかぶって、内蔵町の裏道を歩いて来る。彼は口の中で絶えずぶつぶつ呟いている、「だめかな、だめだろうな」などと云う。風がないので、雪はまっすぐに降り、老人のまわりだけでくるくると舞う。老人はぶるぶるとふるえ「旦那はけがをなすったそうだからな」と彼は呟く、「けがをして半月も寝ておいでだというからな」そっと首を振り、それでも歩き続けながら、「きっとだめだろう、むだ足だろうな」と呟いた。

 老人は笠木塀の処で立停り、(雪明りで)木戸を捜し当てた。彼はそこでためらった。その家の主人は、半月ほどまえにけがをした。刀の手入れをしていて、誤って自分でどこかを傷つけた。という噂を聞いていたのである。

 ……老人は溜息をつき、救いを求めるようにあたりを眺めまわした。それから、不決断に木戸へ近より、おそるおそる桟へ手をかけた。その手は見えるほどおののいていたが、桟はことっと動き、木戸はかすかにきしみながらあいた。

 木戸はやはりあいていた。木戸があくと、積っていた雪が落ち、向うに灯の映っている窓の障子が見えた。老人はその窓に向って、低く三度おじぎをした。

「旦那……」と老人は囁いた、「また拝借にあがりました、どうぞお願い申します」

Q&Aのコーナー

Q.なぜ高林喜兵衛は「裏の木戸」をあけていたのですか?

A.貧しさから一家心中した桶屋の悲劇に心を痛めたからです。誇り高い人々が施しを嫌うことを理解し、誰にも知られず、尊厳を保ったまま急場をしのげるようにと、匿名の貸付制度を始めました。それは、人々への深い信頼に基づいた善行でした。

Q.藤井十四郎はどのような人物として描かれていますか?

A.他人の善意につけこむ、無責任で自己中心的な人物として描かれています。しかし物語の終盤、喜兵衛が自分のために大怪我を負った際、彼を見捨てずに涙を流す場面からは、心の奥底にある良心や人間性が垣間見えます。

Q.この物語のテーマは何でしょうか?

A.見返りを求めない無償の愛と、人間そのものへの信頼が大きなテーマです。喜兵衛の行いは、時に誤解され、悪用されさえしますが、彼は動じません。常に開かれている裏木戸は、どんな状況でも人を信じ、救いの手を差し伸べ続けることの尊さを象徴しています。