菊池寛 作『貞操問答』

連載朗読 第二十七回

作者について:菊池寛(きくち かん)

1888年(明治21年)- 1948年(昭和23年)。香川県高松市生まれ。小説家、劇作家、ジャーナリスト、実業家として多岐にわたり活躍しました。京都帝国大学在学中から創作活動を始め、芥川龍之介や久米正雄らと共に第三次・第四次「新思潮」を創刊。リアリズムを基調とし、人間のエゴイズムや理性を鋭く描いた作品で知られます。

代表作に「父帰る」「恩讐の彼方に」「真珠夫人」など。また、文藝春秋社を創設し、芥川賞・直木賞を設立するなど、日本の文学界に大きな功績を残しました。

作品について:『貞操問答』(ていそうもんどう)

1927年(昭和2年)に新聞連載された長編小説。当時の社会における女性の「貞操」観念をテーマに、様々な立場にある女性たちの生き様や葛藤を描いた作品です。経済的な自立が困難な時代、女性の幸福は結婚や男性の庇護に大きく依存していました。本作は、そうした状況下で真の「貞操」とは何か、愛とは何かを問いかけ、大きな反響を呼びました。

主人公・新子を中心に、彼女を取り巻く人々の愛憎劇が、菊池寛ならではの巧みな心理描写と劇的なストーリー展開で描かれています。

第二十七回

 来てみるまでは、夫人もかほどまでに、新子に対する良人の心づかいが、行き届いているとは思っていなかった。
 階下を見て驚き、二階へ上ってみて、新子の私室らしい小部屋を見て、驚いた。
 すべては、小ぢんまりとしていたが、季節の飯蛸のように、充実している。階段を上るとき電話が引かれているのも見逃さなかった。
 夫人は憤らしさと口惜しさと、良人に対する馬鹿馬鹿しいといった嘲りを覚えるだけで、良人の愛情にのみ生きている妻のように、嫉妬から来る苦痛は少しも感じず、こんなにまで、良人の世話を受けていては、どんなに面詰しようとも、相手はグウの音も出まいと思うと、彼女の心は躍り、眼は輝き、新子が上ってくる二、三分の間も、もどかしいほど、心がはやるのである。

 新子は、このまま逃げ出してしまいたいような、激しい衝動を感じて、藁をもつかみたい今の気持には、美和子に勇気づけられたことで、やっと心を落着け、メズーサの首のようにも恐ろしく思える夫人に直面すべく、階段に足をかけた。

 階段を上って行く姉の後姿に、さも絶望したような憐れな容子があるので、美和子はいたく心を動かされた。
 ぼんやりしているよし子や妙子の側へ行くと、
「貴女達、気にかけないで、お客さんの方よろしくね。レコードをかけて、大いに騒いでいてね。前川さんが来たら……」と、云いさして、小ざかしくも頭をかしげて物思いながら、
「あんまり、二階の話が長いようなら、私容子を見に行くかも知れないから、その後にもし前川さんが来たら、ちょっと取りこんでいるから、資生堂へ行っているように、話してくれない、ね……」
 と、云うと自分も、奥へはいり階段の下から、二番目のところまで昇って上の容子いかにと聞耳を立てるのであった。

 新子が、自分の部屋へはいると、夫人は新子のベッドの端に腰をかけながら、皮肉な微笑を浮べて、新子を迎えた。新子が、また落着きを失って、ションボリとその前に立つと、
「ほほほほ。南條さん、しばらく。私が、いきなり来たので、随分驚いていらっしゃるらしいわねえ。でも、私の方だって随分びっくりしていますのよ。私、偶然、貴女のお姉さまとお友達になって、貴女がバーなどに、勤めていらっしゃるって聞いたんで、びっくりしましたの。貴女のようなインテリ女性が、こんな商売をなさるの、勿体ない気がしましたの。そして、酒場へは主人がお世話したという話でしたけれど、まさかと思っていました。でも、ここへ来て、私驚いてしまいましたわ。この家は、たしかに主人が出した店ですわね。私が見覚えのある装飾品だって、三、四点あるんですもの……」と、征服者のように笑いながら、「新子さん、貴女、お腹ン中で、私のウカツさを笑ってらしったでしょう。」と、云った。

 こんなことで、取り乱しては、自分の品位に拘るとでも思っているのだろうか、態度だけは、あくまでも冷静に、言葉も針のように鋭く、
「まさか、貴女もこのお店と、主人とが何の関係もないなんて、おっしゃらないでしょうね。家具の好み、装飾の好み、これはたしかに前川ですよ。色の調子なんか、私の家の主人の部屋と、そっくりですもの。」
 新子が、良心的である以上、今更そうした断定に抗することは、出来なかった。
 夫人は、最初の前提をしっかり定めるべく、
「この店を前川が出したことを貴女否定なさらないでしょう?」
「………」
 だまってはいたが、不覚にもかすかに、うなずいた。
「貴女だって、悪人じゃないんでしょうから、こんな見えすいたことまで、かくしはなさらないわけね。じゃ、お訊きするわ……」と、夫人はさも軽蔑したような調子に変り、「私と主人との間には、今までは何の秘密もなかったんですのに、私に全然内証で、主人が貴女の世話をしているなんて……。一体、貴女は主人の何なんですの!」と、冷静を装っている夫人の眼も、さすがに光った。新子は、懸命な努力で、
「前川さんと私、何でもございません。ただご親切にいって下さるもんですから、この店で勤めさせて頂いているだけですの……」と、いった。
「そう! じゃ、貴女は雇人ですの。でも、雇人の貴女が、
こんなハイカラなべッドや、立派な鏡台を持っているんですの……」と、夫人はまず、鋭い皮肉を浴せておいてから、「南條さん、貴女は、口では綺麗なことばかりおっしゃるけれど、貴女と私達一家とは軽井沢でご縁が切れているはずでしょう。それだのに、なぜ主人と交渉を……しかも並々ならぬ交渉をお持ちになっているんですか。しかも、妻たる私に、内証に。それが、私には不可解なのですよ。貴女が、最初から私と、何の面識もない、どっかの職業女性なら、こりゃ私文句は云いませんわ。ところが貴女は、かりにも、半月なり一月なり同じ家にいて、私と朝夕顔を見合わせた関係でありながら、私に内証で、前川と特別の関係をお持ちになる。主人が貴女を再び呼んだのか貴女が主人を呼び出したのかどうか知りませんけれど、一切私に秘密に、こんないかがわしい店に、貴女がいて、毎晩主人と会っていらっしゃる。そういうことはかりそめにも、教育のある淑女のなさることでしょうか。貴女自身可笑しいとお考えにならないのですか。そんなことをなさっては、貴女を立派な淑女として、私の家へ紹介した路子さんに、申し訳がないとは、思わないのですか……」

 層々と畳みかけて来る夫人の、一言一言剣を並べたような鋭い侮辱に、新子は完膚なきまでに斬り苛まれながらも、返すべき言葉は見当らず、ただじっとこらえる全身の口惜しさに、指先が烈しく震えて来るのであった。
 夫人は、新子が自分の言葉に、打ちひしがれて返事も出来ぬ容子に、有頂天になり、口で与え得るかぎり、あらゆる侮辱を与えて、二度と再び前川の周囲に、立ち寄らせないことにしようと、頭の中でいろいろ効果のある云い廻しを考えた後、
「こんな生活なんて、大抵自尊心のない、無教育の女がやることですけれど、貴女は不思議ですわね。専門教育をお受けになったくせに、よくこんな寄生虫的な生活がお出来になるのですね。」と、(つまり、貴女は教育があるのに、人の妾になるのか)と、云わんばかりの言葉で嘲った。
 新子は、たとい貞操を売っていないにしろ、形式だけはそう思われても仕方のない生活をしているだけに、夫人の非難の少くとも半分は胸にヒシヒシと徹えるので、心はしめ木にかけられたように苦しく、なぜこんな生活に、足を踏み入れたのだろうかと、我が身があさましく思われて、危く涙が出かかった。
 その上、新子がだまっていればいるほど、それはいよいよ夫人の気勢を、煽ることになるらしく夫人はいよいよ図に乗って、
「この店で働いているなんて云えば、とても体裁がいいけれど……私は、良人が、こんな不見識な商売をしていることだって、我慢できないんですよ。私の実家や、お友達にでも知れようものなら、良人はともかくも私までが、どんなに恥しい思いをすることでしょう。しかも、以前、私の家で家庭教師をした女を、その店のマダムに使っているなんて、分ろうものなら、それこそ、いい加減醜聞じゃないでしょうかしら。それにしても、貴女に長く子供達を委せておかなかったことは、こうなってみると、ほんとうによかったと思いますわ。」
 夫人は一層意地わるく、ジリジリと新子を責め始めて、
「あのまま貴女に長く居て頂こうものなら、それこそ私の神聖な家庭まで、汚されたかもしれませんわ。」
「まあ! 奥さま、それはどういうことなんですか。」と、新子も堪りかねて云った。
「どういうことだか、貴女の胸に手を当てて、訊いてごらんなさい!」
「だって、奥さま、私前川さんと何も邪しい!」
 新子の口惜し涙は、とうとう頬に糸を引くまでになって、身をふるわせながら、必死に叫んだ。
「じゃ、お訊きします。貴女は、この部屋で、前川とお会いになったでしょう。それとも、お会いになりません? この部屋、このベッドなんか置いてある部屋で!」
 夫人の額にも、激しい嫉妬の影がひらめいた。

 西洋では、男女二人ぎりで会う時は、部屋の扉を開けておくと云う、日本は、それほどでないにしても、ベッドの在る部屋で会っていれば、どんな疑いをかけられても仕方のない道理なので、急所を衝いて来る夫人の言葉に、新子はまた一太刀斬りつけられた思いで、
「でも何にも……」といったまま、後の句が継げないでいると、夫人は緩急自在、やや鋭鋒を収めた形で、
「まあ、いいわ。今までのことは、どうだっていいわ。よしんば、貴女と主人との間に、何かあったにしろ、どうせ主人の気紛れか過失だったと思いますわ。主人が、貴女のような人を本気に愛しているなんて、考えられないんですもの。だから、今までのことは深く咎めないわ。ただ、これから、先のこと私の心配しているような醜聞が、世間に広がらないように貴女にも考えて頂きたいのよ。そのために、私恥を忍んでここへ来たんですから、貴女だって、いずれはお嫁にいらっしゃる身体でしょう、今下らない噂なんか立てられたら、一生の恥じゃありません?」
 そう云われれば、そのとおりには違いない。しかし、新子は素直に、肯く気にはならなかった。
「だから、私、貴女が主人と、何でもないとおっしゃるのなら、それを信じたいわ。貴女も、信じてもらいたいでしょう。でも、貴女が潔白を証拠立てるのには、この店から、今晩にでも出て行って頂くのが一番よくないかしら。貴女が一介の雇人だとおっしゃるのなら雇人だということを、私の前で見せて頂きたいの。ねえ、南條さん! 私の申し上げることが、無理かしら。」
 まず名分論で、新子をさんざん痛めつけた上、今度は実際論で、新子を窮境に追い込もうという作戦であった。
 新子としても、かほどまでに悪辣な夫人に対しては、教養も外聞もかなぐり捨てて、滅茶苦茶な論戦を開くか、でなかったら、夫人の面前で前川との関係を、きれいに清算して(お騒がせしてすみません)とアッサリ引き下るか、二つに一つを出でないのであり、しかも今更、夫人と、いぎたなく口争いする勇気もない以上、今はサラサラと引き下る外ないのであるが、しかし、ただこのままに出て行くのは、何と云っても口惜しく、敵わぬまでも、何かしら云ってみたく、
「でも、私前川さんから、このお店を、お預りしているんですから、前川さんから、お話がない以上は……」と、云いかけると、夫人は軽く引き取って、
「それはいいじゃありませんか。この店が前川のものであることを、貴女が認めていらっしゃる以上、前川の妻の私が、出て下さいと云う以上、お出になってもいいじゃありませんか。バーテンダーを呼んで下さいませんか。私バーテンダーに話しますから。」
 新子にとって、はや絶対の場合となった時、何と思ったか、美和子が、気楽そうな笑顔で、いきなり扉を開けて、部屋の中をのぞき込んだ。

 美和子は、姉の泣き顔を一目見ると、急に前川夫人に対して、猛然たる敵意を感じたらしく、その可愛い眼に、殺気を漂わせ、部屋の内にはいって、姉の傍に歩み寄りながら、
「お姉さま、どうしたの?」と、いって訊いた。
「………」
 新子は、さすがに妹の肉親の情の頼もしく、それだけまた悲しくなって、口がきけずにいると、美和子はいきなり、前川夫人に対して、
「奥さま、どうしたと、おっしゃるんですの。私に、案内させておきながら、お姉さまを苛めるなんて、厭ですわ。」と、喰ってかかった。
 夫人は、この小イちゃい娘をハナから、無視していることとて、
「貴女は、お若いんだから、下へ降りていて下さらない?」と、アッサリ片づけようとすると、
「いいえ。いやですわ。お姉さまを苛められて、私だまっては、いられないわ。」
 小さい身体が、まるで反抗の塊のように、飛びかかって来そうである。
「まあ! 私いじめてなんかいませんよ。」
「いいえ。いじめていらっしゃるんですわ。きっと、お姉さまに、いろいろな疑いをかけて!」
 夫人は、少し本気になり、
「だって、そりゃ疑わしいことを、いろいろするんですもの。」と、いった。
「疑わしいことって、何ですの。」
「貴女のような、小イちゃい人には、話せないことだわ。」
「それなら、分っていますわ。お姉さまと、前川さんとの間を、疑っていらっしゃるんでしょう。」
「おませね、貴女は……」
 夫人は、眉をひそめながら、いまいましそうに、
「それなら、貴女にもいってあげるわ。どうせ貴女も圭子さんも、新子さんの縁で、前川の世話になっているんでしょう。そういうことを、貴女は自分で可笑しいと思わないんですか。前川と新子さんとが、普通の関係で、貴女方妹姉までの面倒が見られますか。」と、夫人は手きびしくやっつけたつもりでいると、美和子はケロリとして、
「あら、それは、奥様のひどい考え違いですわ。お姉さまなんか品行方正よ、ちゃんとしているわ。」
「品行方正で、こんなに前川の世話になっているんですか、前川と何でもなくて、こんなにまで前川の世話になれますか。」
「あら、お姉さんは、前川さんの何でもないわ、ただ、前川さんがお姉さんを、トテも好きなだけだわ。」
 それは、まさに夫人の自尊心を、真向に割りつけた返事である。
 たとい、良人と新子との間に、関係があったにしたところで、それを良人の気まぐれ、乃至は過失として片づけたい夫人には、良人が新子を愛していると云われたことは、堪えられないことだったので、思わずカッとなって、
「汚わしいことですわ、良人に限って、他の女性を愛しているなんてこと、絶対に信じられませんわ。」と、大見得を切ったが、美和子は、それを事ともせず、
「だから、奥さまは何にもごじないんだわ。ごじなければ、ごじないで、その方が幸福なんだわ。知らなければ、知らないで済んでしまうんですもの。わざわざこんな所を探して、いらっしゃることはないわ。」
 あまりの暴言に、夫人は正面からピシャリと叩かれた思いで、しばし呆気に取られて、美和子の顔を、まんじりともせず眺めていたが、その洒々とした容子に、また腹が立って来て、
「まあ、なんて恥知らずの人が揃っているんでしょう。私が、ここへ来て何が悪いんです。私の家庭を破壊しようとする者があれば、その人を面詰するのは、私の権利ですもの。」
 今は、皮肉な冷静な調子はなく呼吸もややせわしく取り乱して来た。
「だって、そりゃお姉さんを責めるよりか、前川さんをお責めになる方が、先だわ。」と、美和子は、さり気なく首を振った。
「だって、新子さんは、一度私に使われた人じゃありませんか、その人が、私の家にいる間に、主人と怪しい関係をむすんで、私の家を出ると、コソコソと店を出させたことを、私がだまって放っておけますか、貴方のような子供には、夫婦間の問題なんて、分らないことですわ。下へ降りていて、頂戴!」
 夫人は、憤りに煽られて、権柄ずくに、そう云った。
「いやですわ。私が、案内して来た人が、お姉さんを侮辱するのを、だまって見ていられないわ。」美和子は、決然として屈しない。
「私だって、故ない侮辱は致しませんよ。」と、夫人も今は、この小娘侮りがたしと見て、必死だった。
 新子は、もうどうにも出来ない羽目に、追い込まれたので、身を棄てて、夫人の罵倒に甘んじようとした矢先、思いがけない美和子の颯爽たる助太刀を、頼もしくは思いながら、これ以上事を荒立てると、どんなことになるかもしれないので、
「美和ちゃん!」と、低くたしなめた。すると、美和子は、紅潮した頬を向け、
「お姉さんが、煮え切らないからいけないのよ。だから、愚図愚図いわれるのよ。」と、姉触るれば姉を斬る勢い。

(愚図愚図いわれるのよ)という美和子の言葉に、夫人はギョッとして、
「愚図愚図いうとは何ですか。生意気だわ貴女は。何だって、私をそんなに侮辱するのですか。」と、今度は自分の方が、被害者でもあるかのような夫人の口調である。
 美和子は、相変らず、物に動じない円な瞳をジッと、見はって、
「だって、そうなんですもの。前川さんは、穏便主義でお姉さんは、志操堅固なんですもの。愚図愚図いわれることなんかちっともないわ。お姉さんは、処女ですわ。わたし、処女であることを信じているわ。奥さんに、苛められることなんかちっともないと思うわ。」姉に対する美和子の信念は、熱を持っていて、さすがに有力な反撃であった。だが、夫人も負けてはいず、
「へえ——。不思議なことを聞くものね。それなら、なおのこと、こんなベッドのある部屋で、前川と会うことなんか、慎むべきですわ。」
「そんなことは、お姉さんに、おっしゃる前に、前川さんに、おっしゃるべきだわ。」
「貴女の指図は受けなくっても、むろん前川を責めますよ。しかしそうするためにも、このいかがわしい場所を、確かめておく必要があるじゃありませんか。」
 さすがの夫人も、才気煥発、恐ろしい者知らずの美和子には、ややてこずっている気味である。
「だって、確かめようがありますわ。処女であるお姉様に対して、誰と怪しいとか怪しくないとかそんな確かめようなんて、ないと思うわ。そんなことを、おっしゃるのは、かえって貴方の人格を傷つけることになるんだわ。」
 と美和子は、もう姉のために弁ずるよりも、いかにもけんだかな増上慢を、歴々と顔に出している夫人に、突っかかって行く興奮に自ら酔うているように、止めどもなく、喰ってかかって行く。
 子供らしい彼女の受口の舌の中には、少しは的はずれでも、とにかく相手のどこかを突き刺す毒の針が、無数に含まれている。
 新子は、眼を伏せたっきり、問答は全く、夫人と美和子に移って、彼女は圏外に出された形である。
 夫人は、今まで、わがまま一杯に育ち、人を権柄ずくにやっつけることには、巧みでも、一度相手から逆撃されてみるとたちまち勝手が違い、カッとのぼせ上って来、気の遠くなるほど、美和子が憎らしくなりながら、口の方はかえって辛辣さを無くしていた。
「私は、別に埃のないところを叩いてやしません。それが証拠に、新子さんは恐れ入ってるじゃありませんか。」
 美和子を避けて、弱い姉を衝こうとした。

 美和子は、また奮然として、
「お姉さんだって恐れ入っているもんですか。お姉さんは、あんまり良心がありすぎるから、たった一月お世話になったことを考えて、遠慮しているだけよ。こんなに慎みぶかいお姉さまを危険視するなんて、大間違いだわ。お姉さんを、警戒する前に、奥さまは、手近な前川さんの心臓を、しっかりお握りになっているといいんだわ。」
 これは、美和子の揮う論理の中でも、相当夫人にとっては、痛いものであるだけに、夫人はますます苛々して、表情らしい表情を無くして了い、
「下らない理窟なんか聞きたくないわ。ともかく今夜かぎり、貴女方姉妹は、この店に出入を止して頂きたいわ。ねえ、新子さん、それに異議はないでしょう、貴女は先刻承諾したはずですもの。」と、敢然として高圧的な態度に出た。
「どんな理由で、止さなければならないんですか。」と、美和子は落着き払って訊いた。
「どんな理由? 私が厭なんです。前川がこんな酒場なぞを出すことに、反対するのです。この店が無くなる以上、貴女がここに止まるわけはないじゃありませんか。」夫人は、ようよう冷然たる態度を取り戻して来た。
「あら、奥さまは、そんな権利をお持ちにならないはずだわ。」
「おや、どうして……良人のものは、私のものですわ。」
「だって、このお店、前川さんのものじゃないわ。」
「じゃ誰のものです。」夫人は嘲りながら云った。
「みんな新子姉さんのものよ。」
「美和チャン!」新子は、思わず美和子を押えようとした。
「お姉さんなぞ、だまっていらっしゃい!」と、云ってまた夫人に向い、「ここのものは、みんなお姉さんのものだわ。」
 夫人は口惜しそうに、ジッと美和子を睨みつめながら、
「だって、みんな前川が買ったものじゃありませんか。」
「お金は、誰から出ているか、私知らないわ。しかし、今では、みんなお姉さんのものだわ。だって、お店の名義は、お姉さんの名前ですもの、そりゃ、みんな前川さんから貰ったものかもしれないわ。でも、貰い物は貰った人のものよ。」
「まあ! 図々しい!」
「図々しいよりも、こんなこと云い合うの、下品だわ。あさましいわ。だから、お姉さんは、だまっていらっしゃるのよ。奥さまが、愚図愚図と云えばだまって出て行くつもりよ。だからお姉さんの方が、奥さまや、私よりも人間が上よ、一言も云わないんだもの。」
「ヒドイ!」
 夫人は怒りにかすれた喉声でそう云うと、いきなり立ち上った。立ち上って、扉を押すと、よこっ飛びに階段へ出た。

あらすじ

ついに前川夫人が新子のバー「スワン」に乗り込んでくる。夫人は、夫が新子のために用意した店の隅々までを確かめ、嫉妬と侮蔑に満ちた言葉で新子を激しく詰問する。教養ある女性が人の妾のような生活をすることへの嘲り、家庭教師時代の関係を持ち出しての非難、そして夫との関係を執拗に問い詰める夫人の前で、新子は反論する言葉もなく打ちひしがれる。

夫人が新子に店を出ていくよう迫ったその時、階下で様子をうかがっていた妹の美和子が部屋に飛び込んでくる。姉の涙を見た美和子は、物怖じすることなく夫人に喰ってかかる。「夫が新子を好きなだけ」と言い放ち、夫人の欺瞞と自尊心を鋭く突く。子供とは思えぬ美和子の痛烈な反撃に、冷静さを失っていく夫人。ついに美和子は「この店は姉のもの」と宣言し、怒りに震えた夫人は店を飛び出していくのだった。

主な登場人物

  • 南條 新子(なんじょう しんこ)
    物語の主人公。知的で思慮深いが、それゆえに苦悩も多い。前川の支援でバー「スワン」を開店したが、前川夫人との対決に追い込まれる。
  • 前川夫人(綾子)
    前川準之助の妻。裕福な家庭に育ち、プライドが非常に高い。夫と新子の関係を疑い、嫉妬の炎を燃やす。
  • 南條 美和子(なんじょう みわこ)
    新子の妹。天真爛漫で怖いもの知らず。姉が追い詰められた場面で、機転と毒舌を武器に夫人と対決する。

Q & A コーナー

Q1. この回で描かれる「貞操」とは何でしょうか?

A1. ここで問われる「貞操」は、単なる肉体的な純潔だけを指すものではありません。前川夫人は、新子が前川の経済的な庇護下にあること自体を「不貞」とみなし、新子の精神的な自立や誇りを攻撃します。つまり、経済力のない女性が男性に依存せずにいかに精神的な尊厳(貞操)を保てるか、というより広いテーマが根底にあります。

Q2. 妹・美和子のキャラクターは、物語の中でどのような役割を果たしていますか?

A2. 美和子は、常識や体面に縛られて身動きが取れなくなる姉・新子とは対照的な存在として描かれています。彼女の物怖じしない言動は、一見子供っぽく無鉄砲に見えますが、大人の世界の偽善や建前を打ち破る力を持っています。理屈で固められた夫人の論理を「夫が姉を好きなだけ」という単純な事実で切り返す場面は、彼女の役割を象徴しており、物語に痛快なカタルシスをもたらしています。

Q3. 前川夫人の激しい嫉妬の根源は何だと思われますか?

A3. 夫の愛情が自分に向いていないことへの不満が第一ですが、それだけではありません。自分にはない知性や教養を持つ若い新子へのコンプレックス、そして自分の築き上げてきた「家庭」という聖域が侵されることへの恐怖が複雑に絡み合っています。彼女の攻撃的な態度は、実は彼女自身の不安や弱さの裏返しと読み解くことができます。