消え失せた男
著:納言恭平
「七之助捕物帳」は、捕物帳の名手、納言恭平(なごん きょうへい)による傑作時代小説シリーズです。 江戸は花川戸の御用聞(ごようきき)・七之助が、子分の音吉と共に、江戸八百八町で巻き起こる難事件に挑みます。
鮮やかな推理と、江戸の町に生きる人々の人情が織りなす物語は、今なお多くの読者を魅了し続けています。 このページでは、シリーズの一編「消え失せた男」をお届けします。
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回向院の杜に、花ぐもりの宵月がかかっていて、春の夜を浮かれ出た人の群が、川べりを埋めていた。
花川戸の御用聞七之助も、気に入りの子分音吉を腰巾着にして、両国広小路の雑沓の中をおよいでいたが、
「そら、親分、そ、そ、そこを、こぶの権十が行きやすぜ!」
「うむ、あれだな」
五六間先を、耳のうしろに大きなこぶをくっつけた男が、きょろきょろと、狡猾そうな眼をあたりに配りながら歩いている。手に下げている皮袋がずっしりと重たげなのは、日済しの金でも集めにまわったかえりかも知れない。
「おやっ! へんな奴が飛出して来やしたぜ。ほお、三日月仙太か。 こ、こりゃあ、親分、なんだか面白えことになりそうですぜ。 それにしても野郎、けんかを売ってのされでもしやがったのかな」
いつ、どこから飛出したのか、遊人風ていの若い男が、なにやらまくし立てながら、こぶ権と足並を合せはじめたのだ。左腕をほうたいで首からつり、額にはこうやくを貼っている。左の頬の赤いひっつれになっている大きな三日月形の傷痕が、くっきりと灯影を受けて毒々しい隈をつくっている。
こぶ権は、悪い相手に因縁をつけられはじめたのを迷惑がっているようす。なにやら言ってやり過そうとしたのだが、その瞬間、仙太の上体がぐるっと廻り込んだ。
「わあっ、人殺しいっ!」
権十が、わめいて相手の胸に、仆れかかりながらむしゃぶりついた。が、
「野郎っ!」
ぐっと突戻されて、権十は、よろよろっと他愛く、その場にのめった。
あっという間の出来ごとだった。りすのようにすばしっこく、雑沓の中をかいくぐって逃げる仙太。なにをと追い詰める七之助。
「人殺しだあっ! そ、そ、そこを逃げるつりほうたいの男を捕まえてくれえ!」
とうとう、音吉が喚き出した。
が、その時、仙太の姿は、米沢町三丁目の角を、ついと、そこの小暗い横町へそれてしまった。
それきりだった。事の真相に気づいた弥次馬連も手つだって、その界隈にはくまなく手をまわしたが、天に消えたか地にもぐったか、仙太の姿は、まるで魔術のように消えてしまった。
「なんてえすばしっこい野郎でげしょうね。全く人間わざたあ思えねえや」
口惜しそうにぼやきはじめた音吉の声が聞えたのか聞えないのか、じいっと腕を拱ねぎながら、七之助は月を見ていた。
こぶの権十は、下谷坂本町に住っている小金かしであった。強慾非道な五十男で、金のためならば、恥も外聞もかまわない。こんな男が、こともあろうに、すれ違った男がかならず後を振りかえらずにはいられないという、若い美しい女房を持っているのだから呆れるのだ。
女房はお早といって今年二十三。落魄した浪人の娘だが、この浪人者は、娘をかたに権十から金をかりた。それがかえせなかったので、 十五の春に、お早は無理に権十の妾にされてしまった。 浪人者は間もなく死んで、お早はずるずるべったりに、ちょうど先妻に死に別れていた権十の女房になったのである。そういう事情から権十の女房になったお早は、無論、亭主を憎んでこそいれ、愛惰などはみじんも持合せてはいない。はたちの頃から浮気をはじめた。何人かの男を食いちらしているうちに、だんだん大胆になった。それも、堅気の男では食い足りなくなったのか、今度の相手は、三日月仙太という二つ名を持った無頼の地まわりだった。
「親分、見ててごらんなさい。こぶ権と三日月の取合せじゃ、今にきっと、なんかぼっぱじまりやすぜ。なんしろ、こぶ権てえのが稀代のやきもちやきで、ここんところ、夫婦のあいだに痴話喧嘩の絶間がねえって、もっぱらの取沙汰ですからね」
下谷、浅草、向島かいわいのことなら、どこのぶち猫のおやじはどこのどら猫ということまで知り抜いているんだ、というのが自慢の音吉。その音吉から、なんど聞かされたか知れない同じセリフを思い出しながら、七之助は、一先ずしょんぼりと犯行の現場に引きかえした。
現場はすでに往来止になっていた。顔見知りの町役人が、鳶の者を指図して弥次馬を食い止めている。
「親分、取り逃したそうですな」 と、 町役人だ。
「取逃した。あんなすばしっこい奴は知らねえ。人間業じゃねえな。誰か、八丁堀に走りましたか」
「へえ。猪牙舟を仕立てましたから、間もなくでしょう。検視のお役人が見える前に、親分、ちょっとごらんになりますか」
町役人はこもをめくった。
俯伏に土を掻いている死骸の胸を、棒のようなものが突張っている。
「ほ、ほう、錐か! 心の臓を一突きにやったんだな。突きっ放しで、錐を抜かなかったから、血もこぼれてやしない」
検視の役人が到着して間もなく、
「おお、音兄い!」
遠巻きに取巻いている弥次馬の中から、馴々しく声をかけた男がある。
「どこのどいつだ。音兄いだなんて、心安そうな口をききやがるのは」
「おれだよ。 小間物屋の半平だよ。見忘れなすったかえ」
「おう、半の字か。どうしたんだ。ここんところちっとも顔を見せねえようだが、どっかいいねぐらでも見付けたと見えるぜ」
「えっへっへっへっへ」と、半平は、思わせぶりに、頤の下などを掻いた。山の宿の浮世床、床岩の常連に小間物屋の彦八という愛敬者がいることは、七之助捕物帖にお馴染の諸君なら先刻ごぞんじの筈。 その彦八が、縁台将棋の名人だという触れこみで、何回か引っぱって来たのが、この半平。
「音兄い、ちょっと通してくんなよ」
「駄目、駄目、この通り、弥次馬は往来止めじゃ。今夜ばかりは、親であろうと兄弟であろうと、顔をきかしてやるわけにはいかねえぜ」
「そりゃあそうだろうけれどもさ、しかしおらあ、耳寄りな話を、お前の親分に知らせて上げることができるんだがなあ」
「呼びねえ」
検死の手伝いをしていた七之助が、聞いていたと見えて、顔を振り向けた。
「来ねえ」
と、さしまねかれて、半平は、往来止の綱をまたいだ。
「なにか耳寄りな話を知っているということだが」と、七之助。
「へい」と、半平はへどもどして、「あそこで皆さんの話を聞いていたんですが、なんでもその人を手にかけたてえのは、片腕をほうたいで首からつって、額にも薬をはっていたとかいうんですね」
「うん」
「あっしゃ、今しがた、そっくりそのままの男を見かけたんですがね」
「えっ! ど、どこで?」
「裏門代地の「すみだ川」って船宿に入って行くのを見かけやした」
「へえ。いよいよ以ってすばしっこい奴だな。いつの間にか橋を渡りやがったんだろう。それとも舟かな。うむ、薬研堀あたりで小舟でも盗んで——そういう手もある」
七之助は、検死の役人——同心の浜中茂平次に、そっとなにごとか耳打した。
「ふむ。そうか。 そんなら、早速踏みこんでふん縛っちまおう。 小間物屋の半平とやら、案内を頼むぞ」
「へ、へい!」
こぶ権の死体を自身番まではこび込んでおくように町役人に命じて、一行は、足早に裏門代地に向った。
三日月仙太は、船宿「すみだ川」の二階で酒を飲んでいた。
女中が廊下の障子をすべらせた時、気短な瞳を振り向けて、
「お早か?」
「いいえ」
「なにをしてやがるんだろうな。人、待たせやがって」と、言いかけたが、女中のただならぬようすに気がついたらしく、「え、なんだ、どうした?」
「三日月、御用だ、神妙にお縄を頂戴せい!」——女中の返事のかわりに、真先に、踏み込んだ七之助。
「なに、花川戸だな。早まんなさんな。 おらあ、身に覚えがないぞ」
自由な左手に盃を握って、すっくと立上った三日月仙太。
「あっ!」
七之助は、思わずうろたえた声を出してためらったが、その時、もう、気負い立った茂平次配下の手先共が、右手の利かない仙太の体を、畳の上に押したおして、折りかさなっていた。
「半平さん」
浅草奥山の銀杏の木蔭。暗がりの中から、へんにやにっこい女の声。
「うむ、おれだ」
「首尾は、どう?」
「そこに抜かりがあるもんか。 仙太の身柄も、ちゃんと不浄役人の手に引渡して来たぜ。へん、江戸第一の捕物名人とかなんとか言やがったって、この半平さんの智恵にかかっちゃ、まるで子供よ」
「へえ、花川戸の大将と一騎打をやらかしたのかい?」
「うむ。おれが仕事をすましたと思ったら、例の抜作を腰巾着にして、すぐうしろに眼を光らしてやがるじゃねえか。あの時ばかりは、睾丸がちぢみ上ったよ」
「そりゃ、危かったね」
「しかし、相手が相手だから、おいらとしてもかえって張合があったぜ。 おやっ、誰だ、そんなところで、人の話を盗み聞きしてやがるのは?」
「え、どうしたんだえ?」
「今、がさっと音がした。そこの石燈籠の蔭に誰かいやがるぜ」
「行きましょうよ」
「いや、待ちねえ」 と、黒い影が二つ、石燈籠の陰からぬっと現われた。
「誰だ?」
「花川戸の七之助!」
「さてその次に控えしは……おれだ、半の字。抜作の音だ!」
「わあっ!」
「音。雌をたのむぞ!」
踵を蹴っておどりかかった七之助。 忽ち、半平を後手に捩り上げて縄を打ったのが、電光石火の早業だった。
その間に、あちらでは、お早が、 音吉の手につかまれた帯を解き捨て、袂を絡められた着物を脱ぎ捨て、あられもない姿になって、 大銀杏の根方をぐるぐると逃げまわっている。 が、やがて、 運が尽きたか、地べたにのたうっている根こぶにつまずいて、ばったりと前にのめったお早。
「ちっ、往生ぎわの悪いあまめ!」
音吉。 のしかかるように、女の背中を膝に敷いて、むっちりと豊満な腕をねじり上げる。
「あちちちち、痛いじゃないか。もちっとお手やわらかにしておくれよ。たかが相手は女じゃないか」
とことんまで追い詰められると、女は男よりも度胸があるというが、全くそうらしいな、と、ふっ音吉は感心した。
間もなく、最寄りの自身番に引立てられた半平とお早
「花川戸の七之助など子供扱いだなんて、大きな口をきいていたようだが」
縄を打たれて意気銷沈の半平を引据えながら、七之助がわらった。
「ふむ」と、半平は口惜しそうに唇をかんで、 「親分、すみだ川から、あっしの後をつけなすったんですかい?」
「そうだ。 おらあ、あの時——仙太の室に踏込んだせつなに、あ、こりゃあ違う、と気がついたんだ。なぜといって、両国のさかり場で、権十の胸に錐を突き刺した手は右手だった。ところがどうだ。すみだ川では、仙太のつりほうたいは右の腕にかわっているじゃないか」
「ううむ」 と、半平はうなって、「じつああっしも、そのことを考なかったんだ。しかし、あっしは右利きなんで、右の手を自由にしとかなくっちゃ、あの早業はできっこないからね。しかし、あの雑沓の中で、そんな細かいことにまで気のつく人間はなかろうと、たかをくくったんでさ」
「悪いことはできねえもんだ。うちの親分に見つけられたのが、百年目だったのさ」
音吉がいい気持そうに頭をなでた。
「それに、米沢町三丁目の横丁で煙のように消えてなくなった。あの時おれの頭には、あれとこれとがとっさに結びつけて考えられたんだ。権十を刺した奴が仙太の偽者だったらどうなるだろう。横丁の暗がりに飛込むと同時に、にせのつりほうたいを取りはずす。額の薬をこすりとる。染料でかいた頬のきずあとも拭いとる。そして、弥次馬と一緒になってつりほうたいの男をさがしまわる。ハハハハ、どこにもいねえ人間を追っかけまわしたって捕まるもんじゃない」
「親分、恐れ入りやした」 もう全く観念のほぞを固めたらしく、半平が、「で、親分は、仙太の偽者は小間物屋の半平だと、はじめからそういうお見込みだったんでしょうか?」
「半信半疑——いや七分の疑いというところかな。 それも、お前の方から、わざわざ疑いをかけてくれ、と持ち込んでくれたようなものだからな。それでなくちゃ、今頃はまだ、犯人の手がかりもつかめないでまごまごしてたかも知れないけれど、お前が下手な小細工をやって、仙太の居所を密告してくれたばっかりに、いや、とんだ手が省けたよ」
半平は黙って唇をかんだ。
「お前にかわって、これまでの、だいたいのいきさつをしゃべって見ようか。——ざっとまあ、こんなことじゃないかねえ。お早は三日月仙太というならず者を色に持ったが、さて持って見ると、思ったよりもうるさい。なんとかして切れてしまいたいのだが、これまでの男とちがって、かんたんには行かない。持てあましているところへ現われたのが小間物屋の半平だ。 顔に似合わず、智恵もまわれば度胸もすわっている。お早のほうでも今度は真剣に打ち込んで行った……」
「ホッホッホッホ……」
あざけるように、お早が、とつぜん笑い出した。
「なんだ、お早?」
「親分さんの前だけれど、あたしが半平さんに打込んだなんて、おかしくって。……この人はそういうつもりだったかも知れませんけれど、あたしはただ、この人を唆かして道具に使ったばかりですよ」
「お早、ほ、ほんとうか、それ」
「半平さん。 そんな顔したって、ちっともこわかあありませんよ。……親分さん、芝居の筋書はみんなあたしが立てたのですよ。あの時刻に、亭主の権十が両国の西詰を通りかかることを知っていたので、半平さんを仙太に仕立てて一芝居打たせたんですよ。その一方では、仙太に使を立ててすみだ川まで呼び出しをかけたのです。もちろん、仙太の居所を半平さんの口から役人に知らせるのが目的ですから、あたしはそんなところに出かけやしません。はじめっから、観音さまの境内で、今夜の首尾を待っていたんですよ」
「じゃ、お前、一石二鳥で権十と仙太を片付けたら、後は晴れて夫婦になりましょうといったお前の口は……」
「知れたことよ。 あたしゃ、男なんて知りすぎるほど知ってしまったんだもの。又新しい男のために苦労しようなんて思いませんよ」
やけっぱちになってお早が、しゃあしゃあとして、男をわらった。
春の夜、両国の雑踏の中、御用聞の七之助と子分の音吉は、高利貸しのこぶ権十が殺害される現場に居合わせる。犯人は腕を吊り、顔に三日月形の傷がある男。人混みに紛れて姿を消した犯人は、権十の妻・お早の浮気相手である無頼漢・三日月仙太の特徴と一致していた。
捜査が難航する中、小間物屋の半平と名乗る男が「仙太が船宿『すみだ川』に入った」と密告。七之助たちはすぐさま踏み込むが、捕らえた仙太の様子に七之助は違和感を覚える。現場で目撃した犯人は右利きだったはずが、捕まった仙太は右腕を怪我していたのだ。
これは巧妙に仕組まれた罠だと見抜いた七之助は、密告者の半平を密かに尾行する。すると、半平は浅草の暗がりでお早と落ち合い、自らが仙太に成りすまして権十を殺害したこと、そしてお早の筋書き通りに仙太を犯人に仕立て上げたと語っていた。
邪魔な夫と、厄介になった浮気相手を同時に葬り去ろうと企んだ毒婦・お早。彼女に利用された道化・半平。二人の共謀を暴いた七之助は、その場で両名を捕縛し、事件を鮮やかに解決するのだった。
本作の主人公。花川戸に住む敏腕の御用聞。鋭い観察眼と推理力で難事件を解決に導く。
七之助を「親分」と慕う子分。お調子者だが、情報収集能力に長けており、七之助を補佐する。
権十の若く美しい妻。不幸な身の上から権十を憎んでおり、邪魔な夫と愛人を一挙に葬り去ろうと画策する、本作の黒幕。
お早に惚れ、唆されて権十殺害の実行犯となる男。仙太に成りすまして犯行に及ぶ。
顔の傷からその名で呼ばれる無頼漢。お早の浮気相手だったが、彼女の策略によって殺人犯に仕立て上げられる。
今回の事件の被害者。強欲で嫉妬深い高利貸し。耳の後ろの大きなこぶが特徴。
A. 犯行の矛盾点に気づいたからです。七之助が両国で目撃した犯人は、左腕を吊りながらも、器用に右手で権十を刺していました。しかし、半平の密告で捕らえた本物の仙太は、右腕を怪我して吊っていました。この利き腕と怪我の腕の違いという、ほんの僅かな綻びから、七之助は「犯人は仙太の偽者であり、これは巧妙に仕組まれた罠だ」と看破したのです。
A. 権十の妻、お早です。彼女は、自分を不幸にした夫の権十と、関係が厄介になった愛人の仙太という、二人の男を同時に社会から抹殺することを計画しました。そして、自分に好意を寄せる半平を「夫婦になろう」と唆して実行犯に仕立て上げ、仙太に罪を着せるという、恐ろしい筋書きを描いたのでした。
A. 江戸時代の町奉行所の手先として、非公式に犯罪捜査や犯人逮捕に協力した者のことです。岡っ引(おかっぴき)とも呼ばれます。彼らは十手を預かり、自身の情報網や土地勘を駆使して活躍しました。七之助もその一人で、公式の役人である同心(どうしん)などと協力しながら事件を追います。