作品紹介
「七之助捕物帳」は、江戸を舞台に、粋でいなせな御用聞・七之助が難事件を解決していく痛快な時代ミステリーシリーズです。
「お市観音」では、亡き娘を偲んで奉納された観音像をめぐり、人間の愛憎が渦巻く事件が描かれます。瓜二つの美女、職人の執念、そして嫉妬。複雑に絡み合う人間模様を、七之助が鮮やかに解き明かしていきます。江戸情緒あふれる描写とともに、ミステリーの醍醐味を存分にお楽しみください。
あらすじ
本所羅漢寺のさざえ堂に、亡き娘お市に生き写しの観音像が奉納され、江戸で大評判となる。制作者は仏師の熊木照山。しかし、照山の情人で、お市と瓜二つの芸者・蝶太郎が観音像の前で嫉妬に狂い、騒ぎを起こす。
その翌日、観音像が忽然と姿を消した。内密の調査を依頼された御用聞の七之助が探索を始めると、今度は観音像の制作に関わった塗師重が殺害されているのが見つかる。現場には蝶太郎の銀釵が落ちており、彼女に殺人の嫌疑がかかる。
だが七之助は、事件の裏に隠された複雑な人間関係を察知していた。お市に叶わぬ恋心を抱いていた仏師・照山。金に目が眩んだ塗師重。そして、愛する男の心を得られぬ芸者の嫉妬。
七之助の鋭い推理が、観音像紛失と殺人事件、二つの謎を結びつけ、悲しい事件の真相を明らかにしていく。
本文
さざえ堂
本所五ツ目といえば、もう、人間よりもカワウソの方が、よけいにはばを利かしていようという、葦深い江戸のはずれ。
ここには、五百羅漢で有名な天恩山羅漢寺があって、春秋の季節には、行楽を兼ねた善男善女の参詣人が後を絶たないのだが、 今年の春の人出ぶりというのはこれまたただごとで無かった。
それも、不思議なことには、総門をくぐった参詣人の群が、一人として羅漢堂の方角には眼もくれないことだ。騒々しい蟻の行列は、真直に、さざえ堂の入口へとつづいている。
さざえ堂には百観音が祀ってある。元禄以降の名ある仏師の苦心の作が、悉く網羅されているといってもよかった。
というのは、この百観音は、羅漢寺建立当時から、全国の富裕な信仰者たちが、親の冥福を祈るとか、愛児の死の追善のために寄進をしたものだからである。自然の人情というものは止むを得ない。寄進者の競争心は、その時代の名ある仏師を選んで白羽の矢を立てる。依頼を受けた仏師の方でも、なにしろ、一世の名人上手といわれた人々の作と並べて一堂に配列されることであるから腕によりをかけて丹精を凝らすのだ。
で——祀られている百観音は、そのような秀作揃いであったが、も一つ面白いのは、この御堂の一風かわった建築様式。丁度さざえの殻のような螺旋形の参詣道を、ぐるぐる廻りながらのぼる仕組になっていて、百観音は、ずっとその参詣道の両側に飾ってある。参詣道をのぼりきると、今度は、そこからべつの道を、 やっぱり両側に百観音を拝しながら、ぐるぐる廻りに降りてくるという仕組。
さて。
そこで、今年の春のさざえ堂の人気だが、それは神田和泉町の糸屋、大辻屋甚五郎が、江戸っ子特有の弥次馬性に油を注いだからであった。
大辻屋の当主甚五郎は、土地でも評判の変り者であった。鼻曲りの人間共を集めては喜んでいるのだ。
だが、一人娘のお市に関する子煩悩だけは、世の常の親とかわらず、 はたの見る眼もおかしいくらいに他愛が無かった。
その愛娘が、去年の秋に、 はやり病にかかってポックリと死んだ。 甚五郎はその悲しみの中から、さざえ堂に観音像の寄進を思い立った。仏師は、下谷山伏町の熊木照山。世にありし頃のお市の俤を観世音菩薩の御姿にしてもらいたい、というのが、甚五郎の、特別の註文であった。
照山は、その作品の製作に四月ばかりかかったが、それはまるで、お市の再生の姿かと疑われるばかりの、写実的成功を収めていた。
「おお、まるでお市に生きうつしじゃ。わしはもう、わきへ寄進するのが惜しうなりましたぞ」
大辻屋甚五郎はことごとく満足して、それから、やっと気がついたように、見違えるばかりに憔悴した照山の顔をしげしげと見直した。
「お痩せなすったなあ。よっぽど苦心なすったと見える」
お市観音の像は、龍宝寺門前の塗師重の手を経て、寺町の餝師の店に廻される。
こうして、天恩山羅漢寺のさざえ堂に祀ったのが、向島の桜もちらほら咲きはじめようという三月のはじめ。
狂い蝶
「てえしたもんですな、親分!」
「人出の景気かえ?」
「人出も人出だが、あの観音さまの出来栄ったら、全く以って……」
「乙なことを言ってるぜ。 お前、彫物の善悪を見分ける眼を持っているのか」
「げっ! あんまり馬鹿にしないでおくんなさいよ。あっしゃね、親分! あの観音さまの前に立った時、なんだか、ニッコリと笑いかけられたような気がしたんですぜ。あっしにゃあ、あの観音さまは、どうしても生きている人間としか思えねえんでげすよ」
「そうかねえ」
「ちぇ。頼りねえ返事だな。……ねえ、親分。 あれじゃ評判になる筈だ。あっしも外を出歩く稼業で、いい女もずいぶん拝んでるが、あの観音さまみてえな別嬪を拝んだなあ、生まれてはじめてですぜ。 大辻屋の箱入娘は今小町だたあ、噂に聞いていやしたが、あの観音さまにそっくりの別嬪なら、どうして、どうして、江戸はおろか……」
「お前、大辻屋の娘を拝んだことはなかったのか?」
「そればっかりが心残りでげすよ親分。……だが、待てよ、こうっと」
「なんだ?」
「さっきから、ひどく気がかりになっていることがあったんでげすが、あの観音さまに瓜二つの女を、あっしゃ、どこで見たんだっけ」
「まあ、ゆっくり考えて見ろよ」
「ちぇッ!」
「音! ほかにだいじな忘れ物はないのか」
「あっ、そうか。観音さまに夢中になって、大した忘れ物をするところだったな。危い、危い!はい、御免よッ!」
藤棚の蔭に、花見団子の腰掛茶屋が並んでいる。その一軒の店先へずいと通る音吉。笑いながらその後につづく七之助。
花川戸の御用聞七之助。
といえば、今売出しの若手のチャキチャキとして、評判男の一人に数えられている。名前を名乗ったら、掛茶屋の女たちも、目引き袖引きささやき合うかも知れない。が、今日の彼は、珍らしく十手をはずした丸腰の身軽い体。気に入りの子分、音吉を連れて、今評判の観音像見物がてらのぶらぶら歩きだ。
が、花より団子の音吉が、眼の色をかえながら団子の皿を手繰り込んだ時、羅漢寺の寺内をでんぐり返すような大騒ぎが持ち上った。
総門から出入口まで続いていた蟻の行列が、さざえ堂の出入口に向って、わあっ! となだれはじめた。
音吉、「おっ!」というと、もう、団子の串を横ぐわえしたまま、のっぺり脛の尻をまくっている。
耳をすますと、喧々轟々たる弥次馬共のさけびの中から、一際際立った女の金切声が途絶え勝ちに聞えて来る。
いつしか、掛茶屋は空っぽになっている。 赤い前垂の茶汲女まで、一人のこらず飛出してしまったのだ。七之助は、たった一人、ぽつねんとして出がらしの番茶などをすすっている。
「親分!」
声に、振返ると、音吉だ。鷲づかみの豆絞りで額の汗をこすりながら、 ぎらぎら光る両眼から、なにやら興奮がほとばしっている。
「いやあ、こんなに驚かされたこたあありやせんぜ」
「なんの騒ぎだ?」
「あの、それ、大辻屋の観音さまに瓜二つってえ女でげすよ。ありゃあ、花本の蝶太郎でげしたね」
「やっと思い出したのか」
と、七之助が、
「しかし、あの騒ぎはどうしたんだ?」
「あれが、その、蝶太郎ですよ。ほら、聞えるでしょう、女の金切声が。ありゃあ花本の蝶太郎が、「口惜しい、口惜い」って、泣きさけんでるんですよ」
「ふうん!」
「蝶太郎は、大辻屋の観音さまの前まで行くと、いきなり狂い出して、観音さまに掴み掛って行ったんだそうですぜ」
「で、誰か連れでもあったのか?」
「それだ! 親分、連れの野郎というのが、それ、龍宝寺門前町の塗師重でげすぜ」
「なにい、塗師重?」
七之助は腕を組んだ。
七之助は、花川戸に住んでいる。 山谷堀はほんの地元だ。で、堀の芸者の中で面食の客がいの一番に指を屈するのは花本の蝶太郎だということ。その蝶太郎が血道をあげて打ち込んでいる男が、仏師の熊木照山だということ。 照山と塗師重が、一風かわった遊友達だということ。そんな事情なら、なにからなにまで知り抜いている。
だいたい、照山も塗師重も身持はいたってよろしくない。
ところが、変り者の大辻屋甚五郎は、この二人のそういうところがかえって気に入っているので、さざえ堂へ寄進の観音像の製作も、この二人に依頼したわけであった。
(だが、果して)――と、七之助は呟くのだった。
(大辻屋甚五郎の愛娘お市は熊木照山の情人蝶太郎と瓜二つだった。この秘密を甚五郎は知っていたのだろうか?)
観音像紛失
その翌朝。
「親分、来やしたぜ、 来やしたぜ!」
飛び込んで来た音吉のようすが、ただごとでなかった。
「朝っぱらから騒々しい! なにが来たんだ?」
「大辻屋の番頭でげすよ。えらく心配そうな顔をしてますぜ」
「そうか。通せ!」
やがて、実直そうな胡麻塩頭の老人が腰低く座敷に通った。
老人は、挨拶がすむと、すぐ用向の口上にかかった。何物のしわざか、昨夜のうちに、さざえ堂から寄進の観音像が盗み去られたというのである。
「旦那が、町方へ訴え出るといきり立つのを、あっしは無理になだめて、親分のところへ駈けつけたんです。なるべくならば、表沙汰になるのを避けて、穏便に取り返したいと思ったもんですからねえ」
「昨日の騒ぎのてんまつは、もうお聞きでしょうね」と、七之助。
「ええ、聞きました。 とんでもない騒ぎを惹き起したものです」
老人の顔に怒りの表情が浮んで、
「なんてんじゃありませんか。昨日の阿婆ずれは、お市さまに顔のよく似た女てんじゃありませんか?」
「あの観音さまの顔が、大辻屋のお嬢さんに生き写しならばねえ」
「そりゃもう、お市さまにそっくりそのまま生き写しでしたとも」
と、老番頭が、
「あの照山て仏師も、旦那の御ひいきを受けていながら、だいじなお嬢さまに瓜二つの女を情人に持つなんて、ふてえ野郎じゃござんせんか。それに、塗師重も塗師重ですよ。 あの野郎、わざわざ昨日の阿婆摺を引っ張り出して、やきもちを焼かせるように焚きつけたに違いございません。ねえ、親分! あっしは旦那が、あんな身持のよくねえ野郎共を御ひいきになさるのが、気に食わなかったんですよ。あっしゃ、それで、度々御諌め申したんですがね。 でも、旦那ったら、「お前になにが分るもんか、名人上手なんて手合は、肌合が普通の人間とは違っている。絵師だの彫物師だのいう手合で、店口を張ったり、金を貯めたりする奴があったら、そいつは真赤な偽者だ」なんて、てんで取合おうともなさらなかったんです」
「番頭さんは、観音像を盗んだのは、照山か塗師重だと思っていなさるのか?」
「でなくって誰でしょう。あの観音さまには、えらく金がかかっております。それを知っているのは、あの二人きりで、二人共、悪所通いの金に困っていたんですからねえ」
「ほお!」
「御像のあちらこちらに、金箔と見せかけて、 じつは一身代起せるくらいの金むくが使ってあるのです」
「いや、分りました」
と、七之助は言った。
活動開始
七之助が皮切に訪ねたのは、龍宝寺門前町の塗師重の店。
しかし、塗師重は留守であった。細工場にいた弟子が立って来て、
「師匠はまだおかえりになりません。昨日おでかけになったまんまです」
その言葉に嘘がないらしかったので、七之助は、「そうか」と言って、あっさりとくびすをかえした。
次は熊木照山。照山の住居はひどい。露地奥の長屋ずまいだ。
「へえ。 これが、あの評判の仏師の住居ですかねえ」
音吉。呆れながら、立てつけの悪い格子戸をやけに揺ぶったが、返事が無い。
「師匠かね? 師匠ならば、昨夜おそく出てったきりだよ。それっきりかえって来たようすはないよ」
向い合せの格子が開いて、唇の薄い女の顔がのぞいたが、途端に、「あっ! 花川戸の親分さん!」
と、顔色をかえた。
「なに、一寸したことをたずねたいと思って伺ったんだ。昨夜、師匠が出かけた時刻はいつ頃だったろうか」
「さあ、そこまではよく分りませんがねえ。それでも、よっぽど遅うござんしたよ」
女は、七之助の物やわらかな調子に、ほっと安堵の胸をなで下したらしく、
「耳の早い親分さん方は、もうとっくに御承知でしょうけれど、あの堀の芸者衆ですよ」
「蝶太郎とかいう、人形みたいな別嬪かい?」
「そう、そう、その別嬪なんですよ。あの二人の仲は、女の方からよけいに血道をあげているらしゅうござんしてねえ。時々、忍んで逢いに来てるんですが、昨夜の痴話喧嘩ったら、 まあ大したもんで、あたしなんかも、お蔭ですっかり眼をさましたんですよ」
「酒でも飲んで来やがったのかな?」
「へべれけでしたよ。 あたしゃ、ここの格子戸を細目に開けてのぞいてましたが、そりゃあ、もう、髪もなにもくしゃくしゃにして、露地口を出るまでに三度も転びかけましたよ」
「では、師匠が送って行きなすったんだな」
「そうですよ。泣いたり喚いたりするのをなだめすかしてね。あたしゃ、ながくつき合っていても、あんなに辛抱強い師匠を、これまで見たことはありませんね」
「それっきり、師匠はかえって来ないんだな?」
「ええ、そうらしゅうござんすよ」
七之助は、ここの詮議はそれで打切にした。おしゃべり女に礼を言って露地を出て行くと七之助の額に、興奮の色が浮んでいた。
女人
山谷堀の色里に着いたのは、午に近かった。夜の遅い稼業なので、花本の家では、まだやっと、朝飯をすましたばかりのところ。だが、宿酔の蝶太郎だけは、まだ顔も洗っていなかった。
七之助は、茶の間に通って、女将を相手に世間話をしながら、蝶太郎の起き出てくるのを待っていた。しばらくして、蝶太郎は、酒むくみの腫れぼったい顔に、さっと白粉を刷いて茶の間に入って来た。 こめかみに頭痛膏を貼っている。
「昨夜はずいぶん夜更しをしたようだが、山伏町の師匠とは、どこで別れたんだえ?」
七之助は、ずばりと、斬り込むようにこうたずねた。
蝶太郎は、ざくっとして顔を上げたが、すぐ、ふてぶてしく居直ったように、
「さあ、どこだったでしょうか。あたしは、一人でさっさと帰って来たんですからね。師匠はしつっこく付きまとって来なすったようですけれど、あたしが相手にならなかったもんだから、途中からあきらめてかえっちまいなすったんでしょう、家にかえり着いた時には、どこにも姿は見えませんでした」
「蝶太郎! お前、昨日、羅漢寺では、ずいぶん人騒がせをやったそうだな。和泉橋の大辻屋が寄進した、さざえ堂の観音さまに、狼藉を働いたっていうじゃないか」
蝶太郎はいきなり、両手に顔を埋めた。
「だって、だって。師匠があんまりなんですもの。師匠は、大辻屋のお嬢さんが好きだったんですけれど、身分違いでどうにもならないもんだから、あたしを身代りになすってたんです。いくらなんでも、それではあたし、立つ瀬がないじゃありませんか。『蝶太郎! お前の顔を観音さまに彫って見たい。 下絵を一枚取らしてくれ」なんて、なんにも知らないあたしをそそのかすんですもの。あたし、なんて馬鹿だったんでしょう。 いい気になって、裸体みたいに体の透いて見える衣裳なんかつけさせられたり……」
蝶太郎は、もう泣いてはいなかった。 虚空にやった両眼には、いつしか、めらめらと怪しい炎が燃えている。
「しかし、観音さまには、なんの罪もないじゃないか」
「そりゃあそうかも知れません。でも、あたし、大辻屋のお嬢さんも憎いんですもの。せめて観音さまにでも当ってやらなければ。 いいえ、あの時、あたしには、あれが、なんだか、木でこしらえた観音さまとは見えなかったんですもの」
凄まじい嫉妬の炎が、蝶太郎の全身を包んでいるかのようであった。
銀釵
嫉妬に狂った女の詮議が、なによりも苦手の七之助。 山谷堀から引上げると、遅い昼飯を掻き込んだ後、がっかりと煙草などをふかしている。
すると、そこへ、さっき別れたばかりの花本の女将が、息せききって駆けつけて来た。
「どうしたんだよ、女将?」
煙草盆を引寄せながら、女将を迎える七之助の顔も、びいんと緊張している。
「大変なことが起りました。今しがた、蝶太郎が、みみずくの親分に引立てられました」
「えッ! 藤兵衛に?」
「ええ、そう。なんでも、押上村の麦畑の中に龍宝寺門前町の塗師重さんが殺されてるんですって。塗師重さんの死体のかたわらに落ちていたという、血だらけになった平打の銀釵を見せられたんですけれど、それはたしかに、蝶太郎のものに相違ございませんでした。 塗師重さんは、その釵の柄で、滅多突きに突き刺されて殺されてるんだそうです。だけど……」
「話の腰を折るようだが、蝶太郎には、その釵を突きつけられて、なにか筋の通った申開きができましたかえ?」
「昨夜はひどく酔っぱらっていたから、どこで落したか知らない、と言ってました。 でも、あたしには、いくらなんでも、あの子にそんな恐ろしいことができようとは思われません。……ねえ、親分!どうか親分のお力で、蝶太郎の無実の罪を晴らしてやっては頂けませんか」
「ううム、むずかしいな」
七之助は唸ったが、すぐ、ポンポンと手を鳴らして、
「音! 出かけるぜ。おっそろしく忙しいことになって来やがったからな」
「おっと、合点!」
隣の室から、勇み立った音吉の返事がこだまのようにかえって来た。
間もなく、軽々と尻ひっからげた七之助と音吉が、中ノ郷瓦町の河岸ぶちを、押上村の方角に向って、韋駄天走りに走っていた。
塗師重殺しの現場は、通りからすこし外れた麦畑の中なので、すぐに分った。二三人の手先共が、汗だくになって弥次馬を追っぱらっている。手先は、八丁堀同心浜中茂平次の配下の者共であった。
「やあ、七之助!」
近づいて行く七之助に、茂平次の方から声をかけた。
「今度ばかりはどじを踏みました。もう早いとこ、下手人の当りがついたそうじゃあありませんか」
「退引ならぬ証拠の品が落ちていたからな。たしかに、今度ばかりは、お前も運がなかったぞ」
「仕方がございません。なんでも、平打の銀釵が仏のかたわらに落ちていたっていうじゃありませんか」
「なんだ、知っているのか。さあ、見てくれ、これだ!」
茂平次は自分の手で、死骸の菰をめくって見せた。七之助は、片膝を折ってしゃがみ込んだ。 なんというむごたらしさ。顔といわず、胸といわず、滅多突きの傷痕だらけだ。
「心の臓を刺されているだろう。心の臓をやられたんではたまったものではない。女といって、なかなか侮れないな」
「かっとのぼせあがると、女の方がかえって仕末にいけませんよ」
七之助は、元通り、丁寧に菰をかぶせて立上り
「旦那はまだ、お引上げになりませんか?」
「うむ。こいつを片付けてからと思って、人足の来るのを待っているのだ」
「じゃ、済んませんが、あっしゃ、 一足先に御免蒙りやすぜ」
茂平次に別れを告げて、麦畑から通りに出ると、後を追いすがった音吉が、
「親分!口惜しゅうござんすね」
「どうして?」
「どうしてって、山谷堀と言やあ、あっし共の地元ですぜ。 それを、みみずくの大将づれに縄張荒しをされたかと思いやすと、あっしゃ、もう……」
「音! 大辻屋の観音さまは、昨夜のうちにさざえ堂から消え失せている。そいつあどこへ行ったんだ。これを忘れちゃあいけねえ」
「なある、ねえ」
音吉が、ぱっと愁眉を開いた。
悲恋の果
その翌る晩の夜更。
熊木照山は、ひそかに自分の長屋に立戻ったところを、網を張っていた七之助のために捕えられた。その時、照山は旅仕度をしていた。それもただの旅仕度では無い。白衣の巡礼姿だ。背中には、白木の箱を負っている。行燈の灯影に四角に坐った照山の顔を、慚愧の涙が流れていた。
「一昨日の晩」
照山は、涙の中から告白の口を切った。
照山は、自棄酒に狂った蝶太郎を送りながら、その女が憎くて憎くてたまらなかった。嫉妬に狂う女の気持も無理はないと思う。蝶太郎の言分は、決して女の浅墓な邪推ではない。照山が思いを焦していたのは大辻屋の愛娘お市であった。だが、相手は手の届かない高嶺の花。その遂げられない恋の熱望を、姿容だけでも似通った女を求めて満していたのだ。すまないと思う。それでいて、照山は、さざえ堂の観音像に仕掛けた蝶太郎の狼藉を思うと、煮えくりかえる怒りと憎しみをどうすることもできなかった。
その激情を押えに押えながら、彼は蝶太郎を送って行った。女は邪堅であった。 とっととおかえりと、小石を拾って投げつけたりもした。しかし、人通りも途絶えた夜更に、足元も覚束ない女。どぶに嵌って死なれでもしたら、と思うと捨ててもおけない。
そのうちに、ちゃりん!と音がした。地べたになにか光っている。拾い上げて見ると、蝶太郎愛用の平打の銀釵だ。
「おい釵が落ちたぞ!」
照山は呼んだが、蝶太郎は見向きもしない。がっくりと髷を崩した後姿は、とつとつと、のめるような千鳥足に乗って早、三四間ばかりも先の、月明りの中によろめいている。
と、その時。 どういうわけか照山の心眼に、さざえ堂のお市観音の姿がまざまざと浮び上った。激しい恋慕の情が、矢も楯もたまらなく、彼を駆り立てた。彼は憑かれたように走り出していた。
「おッ!」
と、さけんだのは、どちらが先だったか分らない。 とある曲り角で、危く一人の男と衝突するところだった。相手の男は頬かぶりをして、大きな風呂敷包を背負っていた。
「わあッ!」
今度は相手の男だ。くるっと後がえりをして逃げ出しかけたのを、 照山が引戻した。
「意外にも、その曲者は塗師重でした。塗師重は、大辻屋の観音像を盗み出して来たところだったのです。 塗師重は、あっしを麦畑の中に誘い込みました。包の中を見せながら、これに火をかけて灰を吹いて、地金を山分けにしようじゃねえかと、とんでもない相談を持ちかけました。あっしはかっとなってしまいました。あっしが精魂を傾けつくした観音像を火にかけるとはなんたることでありましょう。 それに、あっしにとっては、この観音像は、もうただの彫物では無いのです。この御像の五体の中には、お市さんの生命が宿っているような気がしているのです。 「な、なんということを吐すか」とさけびざま、あっしは、その時までも握り締めていた蝶太郎の釵を逆手に持って、所かまわず、滅多突きに突きまくったのです」
照山は、語り疲れたように、がっくりと肩を落した。が、またすぐ、新な気力を揮い起したように、
「昨日から今日にかけて、あっしは、観音像を納める白木の箱を注文したり、巡礼の巻物を求めて古書屋を歩いたり、むざむざと時をつぶしてしまいました。でも、これだけは止むを得なかったのです。あっしは、お市さんの冥福を祈りながら、東国三十三ヶ所を振り出しに、巡礼の旅に出るつもりだったのですから」
「じつはあっしも、そんなところじゃないかと思ったのです。 ところが、師匠の留守に調べて見たら、道具箱がちゃんと残っている。師匠のような名人気質の人がどこにどうずらかるにしたところで、道具箱だけは捨てて行く筈がない。と、あっしゃ、睨んだのです」
「親分、 図星ですよ。獄門台にさらされる危険はあっても、これだけは残して行けませんでした」
すべてを諦めた照山の頬に、かすかに、哀しい微笑のかげが刻まれていた。
Q&Aのコーナー
Q.「お市観音」は、なぜ江戸中の評判になったのですか?
A.仏師・熊木照山が、亡きお市の面影をあまりにも写実的に、そして魂を込めて彫り上げたからです。その出来栄えは、まるでお市が生き返ったかのようだと噂が噂を呼び、多くの人々がその姿を一目見ようとさざえ堂に押し寄せました。
Q.塗師重を殺害し、観音像を盗んだ真犯人は誰ですか?
A.観音像を最初に盗んだのは塗師重ですが、彼を殺害し、結果的に観音像を持ち去ったのは仏師の熊木照山です。照山は、塗師重が観音像を溶かして金にしようとしていることを知り、自らの魂の結晶である作品を守るために、激情にかられて犯行に及びました。
Q.照山の犯行動機は何だったのでしょうか?
A.彼の動機は、金銭欲ではなく、芸術家としての矜持と、亡きお市への叶わぬ恋心でした。お市の面影を宿した観音像は、彼にとって単なる彫刻ではなく、お市そのものであり、神聖な作品でした。それを金のために破壊しようとした塗師重が許せず、殺害に至ってしまったのです。