『オリバー・ツイスト』の物語が繰り広げられるのは、イギリスが世界の頂点に立ち、後に「ヴィクトリア朝(Victorian era)」と呼ばれる時代(1837年~1901年)の幕開けの時期です。
救貧院の冷たい石の床から、犯罪が渦巻くロンドンの裏通りまで、オリバーの旅路は、この時代の持つ「二つの顔」―輝かしい光と、底なしの影―を象徴しています。
【光の顔】大英帝国の栄光と「進歩」の時代
ヴィクトリア女王が統治した約64年間、イギリスは空前の繁栄を迎えました。「世界の工場」と称されたほどの圧倒的な工業力、世界中に領土を広げ「太陽の沈まぬ国」とまで呼ばれた大英帝国。その首都ロンドンは、世界経済の中心地として富が集まり、蒸気機関車が国土を結び、人々の生活は劇的に変化しました。
この時代を支えたのは、産業革命によって力をつけた新しい中流階級(ミドルクラス)の人々でした。彼らは勤勉、倹約、そして自らを律する「自助(Self-Help)」の精神を美徳としました。
家庭を重んじ、道徳を尊び、社会の「体面」や「 respectable(尊敬に値する)」であることを何よりも大切にする。これが、ヴィクトリア朝の「光」の側面を象徴する価値観でした。ブラウンロー氏やメイリー家の人々が見せる品位や教養は、まさにこの理想的な姿と言えるでしょう。
【影の顔】繁栄の代償―貧困、格差、そして搾取
しかし、その輝かしい光が強ければ強いほど、影もまた濃く深く落ちるものです。ヴィクトリア朝の繁栄は、多くの人々の犠牲の上に成り立っていました。
🌱都市化とスラムの誕生
工業化によって仕事が都市に集中すると、人々は農村を捨ててロンドンのような大都市に殺到しました。しかし、急激な人口増加に街のインフラは追いつきません。住む場所のない人々は、上下水道も整備されていない不衛生なスラム街に密集して暮らすことを余儀なくされました。汚染された水や劣悪な環境は、コレラやチフスといった伝染病の温床となり、多くの命を奪いました。オリバーがフェイギン一味と隠れ住んだ薄汚い地区は、まさにこうした場所でした。
🌱児童労働という名の搾取
産業革命は、安価な労働力として多くの子供たちを必要としました。オリバーが煙突掃除人や葬儀屋の見習いとして「売られ」そうになったように、子供たちはその小さな体と従順さを利用され、危険で過酷な労働現場へと送り込まれました。工場や鉱山で、大人ではできないような危険な作業を、わずかな食事と引き換えに長時間強いられることは日常茶飯事でした。彼らに教育の機会はなく、貧困の連鎖から抜け出すことは絶望的に困難でした。
🌱「自己責任」という冷酷な眼差し
ヴィクトリア朝の道徳観は、貧しい人々に対して非常に冷酷な側面を持っていました。成功した中流階級の人々は、「貧困は本人の怠惰や不道徳の結果である」と考えがちでした。この「自己責任論」が、前回解説した「新救貧法」の背景にある思想です。助けを求める貧しい人々は、「怠け者」として軽蔑され、救貧院のような場所で尊厳を奪われることになったのです。物語の中で、バンブル氏や救貧院の理事たちがオリバーに示す冷たい態度は、まさにこの時代の「貧困者を見る目」を体現しています。
ディケンズが描いた真実
チャールズ・ディケンズは、単なる小説家ではありませんでした。彼は鋭い観察眼を持つジャーナリストであり、社会改革への情熱を燃やす活動家でもありました。
彼は『オリバー・ツイスト』という物語を通して、ヴィクトリア朝の輝かしい「光」の裏に隠された「影」の部分―貧困と不正義に喘ぐ人々の現実―を、小説を読む安楽な中流階級の人々の目の前に突きつけたのです。
オリバーの純粋な瞳を通して見る19世紀ロンドン。それは、善と悪、富と貧、偽善と誠実が混沌と渦巻く、まさに「光と影」の時代そのものでした。この背景を知ることで、オリバーの旅がいかに奇跡的であったか、そしてディケンズが社会に投げかけた問いがいかに切実であったかが、物語がすすむにつれて、われわれはより深く理解できるでしょう。現代への警鐘も含めて。