人真似鳥の夢
著:納言恭平
「七之助捕物帳」は、捕物帳の名手、納言恭平(なごん きょうへい)による傑作時代小説シリーズです。 江戸は花川戸の御用聞(ごようきき)・七之助が、子分の音吉と共に、江戸八百八町で巻き起こる難事件に挑みます。
鮮やかな推理と、江戸の町に生きる人々の人情が織りなす物語は、今なお多くの読者を魅了し続けています。 このページでは、シリーズの一編「人真似鳥の夢」をお届けします。
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霜月に入ると底冷えのする雨の日が続いて、気象はそのまま、ずるずると冬の配置に移るのかと思われたが、五六日目に雨があがると、陽の色もあたたかな、嬉しい小春日和。
花川戸の御用聞七之助は、子分の音吉を腰巾着に連れて、命の洗濯とばかり、家をとび出した。音吉得意のへらず口にいい加減な相槌を打ちながら、当てずっぽうに歩きまわっているうちに、ふと気がつくと、いつしか音羽の通を歩いている。
「折角ここまで来ちまったんだ。親分、ついでに雑司ヶ谷の鬼子母神に参詣して帰ろうじゃござんせんか」
「うむ、よかろう」と、七之助は、気軽に音吉の誘いに乗った。
九丁目の角から、雨上りの目白坂を上って行く。柳生播磨守の下屋敷を左に見ながら、そこのだらだら坂を曲りかけた時、のっぺり脛の裾をまくって先に立っていた音吉が、
「おや?」
と、呟いて立止った。
坂の右側には武家屋敷が並んでいて、露地が切れ込んでいる。音吉のへっぴり腰は、その露地奥をうかがっているのだ。
坂から二軒目の、杉の生垣ごしに、屋敷の中をのぞき込んでいる、売卜者風の男がいる。彼はすぐに、こちらの様子に気がついた。七之助も音吉も、あわてて、身を隠そうとしたけれども、間に合わなかった。男は可怪しい程うろたえはじめたが、露地は袋になっている。ついに、意を決したように、爪先をこちらに向けると、足早に七之助のかたわらをすり抜けた。
「親分。たしか、ありゃあ、香仙堂てえ売卜者でげすぜ」
逃げるように目白坂を下りて行く男の後姿を見送りながら、音吉が言った。
「どうして知ってるんだ?」
「鬼子母神の境内で、二三度見掛けたような気がするんですよ」
音吉は、かねてから雑司ヶ谷の鬼子母神をひいきにしている。どこが気に入っているのか、十日にあげず、はるばると参詣を怠らないのだ。
「よし。じゃあ、お前、野郎の後をつけてって見ねえ」
「合点だ、親分」
尾行は音吉の性分に合っている。響の物に応ずるように、彼は尻をまくり直して、とつとつと男の後を追いはじめた。
その後姿が見えなくなると、七之助の顔に自らなる微笑が浮んで、彼は懐手をしながら、静かに露地の中に歩いて行く。男がうかがっていた屋敷の門には筒井兵馬という名札が懸っていた。それを横目ににらんで、男が立っていた生垣の外まで行くと、あまり広くもない内庭越に縁側が見えて、そこに珍しい鳥の籠が下っている。
「あれを珍らしがっていたのかな?」
ふとそう考えた時、
「ブエモン、ブエモン」
突然、鳥が、はっきりした人間の言葉で、二度啼いた。
「なんだ、人真似鳥か」
それに答えるように、
「オツユ、オツユ」
人真似鳥は、続いて二度、今度は女の名前を呼んだ。
「はい、はい。私の名を呼んだの」
毬のようにはずんだ若い女の声がして、眉の剃あとの青々とした美しい武家の妻女が、鳥籠のそばに来て立った。
「はて?」と、七之助は小首を捻った。
先刻の売卜者は、この人真似鳥の人語を珍らしがって、ここからうかがっていたのであろうか。それにしては、ここから逃げ出した時の狼狽振が不自然すぎる。
「しかし、何かあるなら、音吉が後をつけて行ったんだから……」
七之助は美しい御新造の姿を振り返りながら、露地の中から出て行った。
鬼子母神に着いて、葭簀張の団子茶屋に腰を下して番茶をすすっていると、小半刻ばかり経って、鬼子母神前の長い往来の彼方に音吉の姿が見えた。
「途中で気がつかれちゃってね、あっさりとまかれちゃいやした」
音吉は七之助の前に立つと、豆絞りの手拭でくびすじの汗をこすりながら、面目なさそうな笑声を立てた。
よほど口惜しかったに違いない。
「もういい加減、打切にしたらどうだ」
七之助にそう言われても、音吉は相かわらず、香仙堂の行方を尋ね廻っている。いずれ、江戸川橋を中心にした、あの界隈のどこかに巣食っているにちがいない。——そういう音吉の見込だった。
今朝も——。
朝飯を噛み噛み、花川戸の家を飛び出して行ったが、一刻も経たないうちに飛び戻って来て、
「さっ、親分、支度だ、支度だ。歩けば犬も棒に当るというが、飛切無類の大事件ですぜ」
「なにがどうしたってんだ?」
いやに落ちつき払っている七之助の様子は、いつもながら、騒々しい音吉とはよいコントラスト。
「聞いて腰を抜かしたって、あっしゃ知りませんぜ。ようがすか親分、夢廼舎(ゆめのや)三五が殺されたんだ」
「ほう、夢廼舎三五が。そうか。よし、それじゃ、おみこしを上げずばなるまい」
こうと決まると支度は早い。一息入れる間ももどかしく、雷門前の広小路を、下谷の方角に向って、自慢の脛をとばしている七之助と音吉。
夢廼舎三五と言えば、一時世間を沸かした「女形(おやま)太平記」の作者として知られている。「女形太平記」は、森田座の名女形中村粂四郎の情史を、一篇の物語りに仕組んだ草双紙で、その実在の人物をほうふつさせる物語の仕組——つまり実話的興味と、煽情的な舞文曲筆(ぶぶんきょくひつ)が世間の喝采を博したのである。当今の言葉で申せばさしずめ暴露小説とでもいうところ。従って、主人公の中村粂四郎はいわずもがな、相手役として登場する女たちのこうむった迷惑は非常なもので、中でも、勤めをしくじった御殿女中や、非業の最期を遂げた旗本の妻女や、旦那に棄てられた腹癒せに三五の家へ暴れ込んだ堀の芸者や、その他幾多の劇的挿話を生んでいる程である。
しかし、三五は、そのために寝覚の悪さを感ずるどころか、どうでげす、あっしの筆の力は——なんぞと、かえって得意の鼻をうごかした。それまで、音羽の通りに開いていた薬種(やくしゅ)屋の店を他人に譲ると、牛込水道町の仕舞屋(しもたや)に引移って、二階の窓際に洒落た小机なぞを据えたのである。そして、最近、第二の暴露小説を世に出す準備を着々として進めているという噂は、小説ぎらいの七之助の耳にも、いつか入っている。
夢廼舎三五の水道町の住居は、狭いながらも小綺麗な庭を抱えた、さっぱりとした構えの家であった。犯行の現場は二階の書斎で、三五は普段着のまま、短刀を背中に刺されて、俯伏に青畳を抱いている。その枕元には、町役人と、意外にも売卜者の香仙堂が坐っていた。
「ほう、お前さんは……」
七之助は、狐につままれたような呆れた顔で、香仙堂を見守った。
香仙堂も七之助との再会には、一寸度胆を抜かれたらしい。しかし、彼の顔にはすぐ、さりげない微笑が流れて、
「意外なところで、又お目にかかりましたな。私は、このすぐ裏の、夢廼舎先生の家作に住っている、香仙堂という占師でございます。私も、かねがね下手な発句(ほっく)なぞをひねりますところから、夢廼舎先生には特別昵懇を願って、出入りを許されていたのでございます。今日も……」
「最初にこの室(へや)に入ったのは誰です?」
香仙堂の落ちつきはらった悠長な言葉尻を遮ぎりながら、七之助は鋭く質問の言葉を投げつけた。
「女中のお仲どんです」と、町役人。
「その他に、家族は?」
「女中のお仲どんと、下男の作造と、三人暮しでした」
「じゃあ、二人共呼んで下さい」
下男の作造は三十前後の薄あばた。大分足りないらしいことは一目見ればわかる。女中のお仲は、二十二三の賢しげな女だが、主人の変死に動顚した気持が、まだ十分には恢復していないらしい。
今朝、五ツ過ぎに、板元(はんもと)の鱗光堂(りんこうどう)から、縞本の催促が来た。その時刻までには、間違なく、全部の稿本を取纏めてお渡し願える約束であったから、という口上だった。主人の三五は、昨夜はおそくまで起きていた様子である。お前たちは先に寝め、と言われて、お仲も作造も、四ツ頃に寝に就いた。旦那さまは定めしまだ、お眼覚めではあるまいと思いながら、お仲は恐々と二階に上って行った。ところが、三五の室は、雨戸が一枚繰られていて、そこから差し込む朝の光の中に、三五は、背に短刀を刺されて死んでいた。
「私は、危く叫声を挙げるところでしたけれど、でも、すぐに気を取り直して、もう一度おひる過に来て下さいと、板元さんの使いの方に帰って頂いてから、大急ぎで自身番に届けに行ったのでございます」
と、お仲は言った。
「その時、丁度折よく、あっしが、自身番の前を通りかかったってえ寸法でげす」と、音吉も、手柄のきっかけを披露に及んだ。
「で、なにか盗まれたものはないかね?」
「はい。あの、鱗光堂さんから催促を受けていなすった稿本が、なくなっているようでございます。それから、ひょっとしましたら、手文庫の中に家賃を集めたのが入っていたかも知れません」
「ほほう、稿本がなくなっている」
七之助は、すこし考え込んでから、
「それについて、何か心当りはないかえ? 誰かに怨まれていなすったとか……」
「さようでございますね」と、お仲は、曖昧に口ごもって、顔を伏せていたが、やがて思い切ったように顔を上げると、「関係があるかどうか知りませんが、昨日のお客さまは、旦那さまと、何かいさかいをなすったようでございます」
「それは、誰だえ?」
「紫峰(しほう)さまと仰言る、旦那さまのお友達の方でございます」
「滅相もない。紫峰さんなら、私も一寸知っているが、こんなむごたらしい人殺しなどの出来る仁じゃねえや」
香仙堂が、泡を食ったように、かたわらから口出しをした。
検視の役人の到着と入れかわりに、三五の屋敷を離れると、音吉が、
「下手人は俳諧師の紫峰でしょうね。何だか呆気なくって張合抜がしちまやがった」
「ハハハ……。いつもながら呑込の早え男だな。だが、稿本の内容さえわかりゃあ、犯人は大体眼星がつくだろう」
板元に行って訊ねたら知っているだろうと、二人は麹町三丁目に向って脛を飛ばした。
鱗光堂主人越前屋清六は、七之助の口から夢廼舎三五の横死と稿本の紛失をきくと、のけぞるばかりに打ちおどろいて、
「そりゃあ困ったな。親分、なんとか、その稿本だけでも取り返す工風はありますまいか。お礼は十分にいたしますが」
越前屋は、三五の横死よりも、稿本の紛失に当惑しているらしい。
「そう簡単なわけには行きますめえ。犯人は、人一人殺してまで盗み去ったんですからね。稿本を取り返すたって、先に犯人を探さなくっちゃどうにもならねえ」
「そいつあ、困った。何しろ、お得意先から矢の催促を受けている矢先、ああ、とんでもねえ間違いが起ったもんだ」
七之助は、越前屋の強慾さに腹が立ったが、むかつく胸をやっと押えて、
「そこで、あっしゃあ、一日も早く犯人を捜し出すために、お前さんの手を借りに来たんだが」
「えっ! そ、そいつあ無理だ、親分。あっしにゃあ、そんな智恵の持合せはありゃしねえ」
「そんなことがあるもんか。考えても見ねえな。この前の『女形太平記』の時にも、中に書かれた人たちは、どんな迷惑を掛けられているか知れねえ。こう考えて来ると、夢廼舎殺しの犯人は、今度の草双紙でひどい目を見る人間に、十中八九までは決っている」
「なるほど、そう言えばそうかも知れませんね」
「越前屋。そこであっしがお前さんに聞きてえのは、盗まれた稿本の中身なんだ。お前さんは板元だから、かねがね物語の筋くらいは聞かされているだろう」
「さあて、そりゃあ困った」開きかけた越前屋の愁眉が、すぐ又曇って、「ところが、そいつはてんで聞いちゃいねえんです。宣伝のためにもそいつを知ってなくっちゃ都合が悪いから、何度かまを掛けて聞き出そうとしたか知れませんけれど、先生、思わせぶりばかりうまくって、これんばかりもぶちまけてはくれなかったんです」
「そりゃあ、困った」
七之助も、はたと当惑を感じた。しかし、頭はすぐに、別の途を求めて、
「越前屋、俳諧師の紫峰を知っているだろうな?」
「紫峰さんなら、三五先生の紹介で知っていますよ」
「どんな人物だろう?」
「いい人ですよ。神田鍋町の薬種屋の御隠居でしてね。妾のお市さんと砂利場の隠居所に住んでいまさ。三五先生とは、同商売の誼みもあって、ずい分古くからの知己らしいですね」
「妾のお市というのは、どんな素性の女なんだ?」
「護国寺前の幸楽の女中だったんですよ」と、越前屋はかすかに笑って「紫峰さんは御存じないらしいですが、あの女には、三五先生も思召があったんですぜ」
「へええ。だって、夢廼舎は女ぎらいで通ってるというじゃねえか」
「世間体はねえ。しかし、本心はどうだか分りませんや。あの顔でしょう。それに、金はあっても気風のいい方じゃねえから、女に惚れられたためしがない。それじゃあ、いい加減、女嫌えみたいな顔だってして見たかろうじゃありませんか」
「……」
「さんざんっぱら儲けさせてもらって、こんなことを言っちゃなんですが、先生は、自分が女にもてない鬱憤を「女形太平記」を書いて晴したんですぜ。こいつあ、あっしの想像だが、あっしゃあ、たしかにそうだと睨んでやすよ」
紫峰の隠居所は、砂利場の南蔵院門前にあった。畑の中の一軒家である。七之助が、身分を明して面会を求めると、数寄屋づくりの茶室めいたはなれに通された。間もなく、煙草盆を持って室に入って来た紫峰は、五十前後の人の善さそうな隠居であった。
「なにか――」
と、さすがに、隠し切れない不安を包んでいる面持だった。
「師匠は昨日、水道町の夢廼舎三五をお訪ねなすったそうですが」
七之助は、いつものでんで、ずばりと、詮議の要点に斬り込んだ。果して、狼狽が紫峰の面を走った。
「なにかと思えば、唐突に、どうも驚きましたね。成程、少々用事があって訪ねました」
「どういう用向だったんでしょう」
紫峰は、むっと顔色を動かして、
「そりゃあ、知己(ともだち)の間柄ですから、偶(たま)には会わねばならぬ用向だって起きましょう。そんなことを、一々調べられていた日にはやり切れたもんじゃありませんね」
「言いたくなければ当てて見ましょう。夢廼舎三五は、草双紙の第二作の縞本を、今日、板元に渡すことになっていた。師匠は、その稿本の中味に、そのまま板元に下されては迷惑を蒙むる箇所があるのを知って、懸合に行ったんでしょう」
紫峰の顔色は見る見る蒼褪めて行った。
「懸合はうまく行かなかったと見えますね。いったいそれはどういう箇所だったのです。師匠は、世間に知れては困るような身の秘密でもお持ちなんですかい?」
「滅相もねえ。あっしゃあ、そんな暗い影なぞ背負っているような人間じゃねえ」
打ちのめされたように、紫峰が、そう呟いた時、三十前後の小柄な女が、茶盆を抱えて入って来た。じみなこしらえだが、根からの素人女でないことは一目で知れる。しかし、性質はいかにも素直そうな女である。ちらっと紫峰の青褪めた顔に注いだ女の心配顔には、親身の情が動いていた。女が室を出て行くと、
「お市さんですね」
「へえ」
と、言って、紫峰は、不審そうに七之助の顔を凝視めた。
「なんでも知っていなさる」
「商売柄でね」と、七之助は口元で笑って、「よっぽど仲がいいようですね。それにしても、お市さんの身の上について、何を書かれたか知らないけれど、師匠もすこし、血迷いすぎましたね」
「はて? 何を言ってるのやら、ちっとも解せませんが」
「夢廼舎三五は、夜のうちに、誰かに殺されて、草双紙の稿本が盗み去られているんでさ」
「ええっ!」
「背中に短刀が刺さってるんだが、まだ床には入っていなかったんだ。犯人は、よっぽど親しい間柄の人間で、油断を見すまして一突きにやっつけたにちがいねえ。それでなけりゃあ、下男や女中が騒ぎを知らねえ筈はありやせんからな。……だが、そうだ、こんなことを、あっしが師匠に向って講釈するのは、反対かも知れませんがね」
「おや、じゃ、親分は、夢廼舎を手に掛けたのは、このあっしだとでも思ってなさるんですかい」
禿げ上った額にねっとりと滲み出た油汗を拭きもあえず、紫峰が、おののく唇でそう言った時、
「伊織、伊織!」
どこからか、水々しい若い女の呼声が聞えて来た。ふと眼をそらすと、一匹の白い仔猫が、泉水のかたわらから、築山(つきやま)の芝生をがさがさとはい上っている。仔猫は途中で力が尽きたのか、築山の中腹から、ころげ落ちた。すると、その仔猫を追っかけて来たらしい三歳ばかりの小童(こわっぱ)がある。
「チロ、チロ……」
まわらぬ舌ではしゃぎながら、その小さな両手に、四肢をもがいて暴れまわる白い仔猫を掴み上げたのだ。
「伊織、伊織・・・・」
若い女の声は、すぐもう近くで聞えた。
「まあ、そんなところ。いけません。お客様じゃありませんか」
まだ二十歳そこそこの武家風の若妻だった。そのにおやかな姿を、さっと七之助の視野にさらすと、小童のからだを、仔猫ぐるみに抱き上げて、
「御免あそばせ。とんだ失礼をいたしました」
小腰を屈めて会釈を送って、逃げるように視野の外に消えて行く。
「はて?」
殆んど瞬間的な一瞥に過ぎなかったけれど、七之助はその若妻に見覚えがあると思った。それも、ごく最近のことらしい。
「よそに嫁っている娘が、孫を連れて遊びに来ているんですよ。しようのない悪戯者で——。でも、孫は可愛いものです」
その時、ふいと、七之助は思い出した。そうだ。目白坂の武家屋敷の、人真似鳥の籠のある縁側で見た女。
「たしか、娘御の嫁入先は、筒井兵馬さまと言いましたな」
「ええっ! 親、親分、そ、そんなことまで御存じですかい?」
紫峰の両眼は、今にも眼窩の外にとび出しそうであった。
雑司ヶ谷鬼子母神の大榎の蔭。そこに見台を据えて、香仙堂は天の一角を睨めながら筮竹(ぜいちく)を揉んでいる。
「尋ね人は辰巳の方角。めぐりあえやすよ。きっとめぐりあえる。それも遠いことじゃない。遅くて半年かな」
見台の前に立っている亡者は、二十五六の茶屋女らしい風俗の女。何べんも礼言を繰返して、見料を置いて立去ったと思うと、
「武右衛門、御用!」
姿は見えず、榎の向側から、だし抜けにど鳴っ声がある。
「ええっ!」
と、飛び上りざま、香仙堂は見台をひっくり返した。
「だ、だ、誰だ?」
「俺だよ」
と、榎の後から姿をさらしたのは、花川戸の御用聞七之助。
「あっ!」
と、逃道をさがすように後を振返ると、そっちにも、子分の音吉が十手をひねくっている。
「な、な、なんだ。どうしたんだ。俺あ、お前たちに、御用呼ばわりされるような人間じゃねえや」
「何を言うか。武右衛門御用と呼び掛けられて見台をひっくり返したのが、後暗えものを背負っている何よりの証拠。おとなしくついて来るか、それとも、痛い目を見たければ縄を打とうか」
香仙堂は、げっそりと肩を落して、溜息を洩らした。
香仙堂を間にはさんで、鬼子母神の境内を出ると、往来の途中にある茗荷(みょうが)屋という料理屋に連れ込んだ。
「香仙堂、ざっくばらんに打ちまけてしまいねえ。夢廼舎三五を手に掛けたのはお前だろうが」
「恐れ入りやした」と、香仙堂は神妙に頭を下げた。「集った家賃が手文庫の中に入れてあった。そいつを見てしまったものだからあっしの心に魔がさしたんだ。あっしゃ、庭木の松から攀(よ)じのぼって、二階の雨戸を叩いたんだが、夢廼舎さんは、急用だとおどろかされて、うかうか雨戸を開けてくれたんです」
「可怪しいじゃねえか。物盗りが目的なら、なにも、草双紙の稿本まで盗み去るには及ぶめえ」
「そ、それは親分。ほ、ほとぼりの冷めるのを待って、慾張りの鱗光堂に売りつけるつもりだったんでさ」
「即興の出鱈目にしてはなかなかうまいな。しかし、俺にはそんな嘘は通用しねえ。お前さんの留守をあらして気の毒だったが、押入の奥からこんなものを発見けてしまった」
七之助はふところから、一束の稿本を取出すと、どさっと畳の上に置いて、
「この間、お前さんが、目白坂の武家屋敷の露地の中で、うろうろしていた理由もわかったんだ」
「親分、それを読みなすったんですかい」
と、香仙堂は、泣き叫ぶような声で言った。
「読んだ。謎はそれですっかり解けたんだ。目白坂の筒井兵馬の恋女房は、お露といってお前の娘だ。十七年前、東海道掛川の宿で、兇状を見破られて捕手に囲まれたんだ。お前は、連れていた女の子を宿に残して身を以って逃れた。その女の子を拾ったのは、お伊勢参りの帰りみち、同じ宿屋に泊り合わせていた二人連れの江戸の町人、それが紫峰と三五だった。連れて帰っているうちに、紫峰は、お露がすっかり可愛ゆくなってしまったので、隠女の子供のように世間を言いつくろって、自分の子供として育てたんだ。しかし、お露は、お前のことを忘れることが出来なかった。筒井兵馬に望まれた時にも、お露は紫峰のほかに、真実の父のあることを打明けて、それでも構わなければと大事を取っている。しかも、人真似鳥に、父の名と自分の名とを教え込んで、果敢ない再会の希望をそれに繋いでいるのだ。気の毒な女。お露は父親の素姓を知らないんだと俺は思っている。もしも、それが知れたら世間にあばかれでもしようものなら、筒井兵馬の身の破滅だからな」
「親分。ああ、もう止しにしておくんなさい。あっしゃあ、とんでもねえ失策をやっちまったんだ。あの時、なぜすぐ、この本を灰にしてしまわなかったか」
未練がましい溜息を落すのを、
「なに、それなら、今からでも遅いことはねえ」
七之助は、稿本の束をむしって、火鉢の火にくべた。それは、焦くさい煙を上げながら、次第次第に灰にかわって行く。
「親分、親分……」
香仙堂は、咽び泣きながら、頭の上に手を合せていた。
香仙堂は、調方与力の吟味に対しても、白洲のおさばきの時にも、夢廼舎三五の紛失した稿本のことについては、知らぬ存ぜぬの一点張で押し通した。
しかし、人を殺して金を盗っているというのである。これだけでも死罪はまぬかれない。死罪をまぬかれないとわかっている罪人が、覚えのあることなら、べつの微罪を隠すわけはない。やっぱり香仙堂は稿本の紛失には関係がないのであろう、ということになって、この方は有耶無耶のうちに葬られてしまった。
香仙堂が処刑されたのは、今にも霙でも落ちて来そうな、寒い冬曇りの日であった。七之助は音吉を連れて、小塚原の処刑場(しおきば)の竹矢来の外から、ひそかに別れを告げた。香仙堂は、弾左衛門の振上げた刃の下にくびを差し伸しながら、感謝の目くばせをこちらに送った。穏やかな安堵の表情であった。
その翌朝、音吉は、一人で、雑司ヶ谷の鬼子母神に参詣に行った。
「かえりに、目白坂の屋敷を、のぞいて見たんですがね。今日も人真似鳥が、ブエモン、ブエモンと、鳴いていやしたぜ。あの可愛らしい御新造の姿も見掛けやした。なんにも知らねえんだから仕方がねえが、昨日の今日だてえのに、御新造、やっぱし、父娘再会の夢を、あの鳥の人真似につないでるんでしょうね」
花川戸の家へ戻って来ると、早速、七之助の前に報告した。音吉、今朝の早起は、どうやら、鬼子母神参詣の方が、目白坂探検のついでだったらしい。
小春日和のある日、七之助と音吉は目白坂で、武家屋敷を覗き込む怪しい売卜者・香仙堂を見かける。その屋敷では、美しい若妻・お露が飼う人真似鳥が「ブエモン」「オツユ」と人の名を呼んでいた。数日後、暴露小説で有名な戯作者・夢廼舎三五が殺害され、執筆中だった新作の稿本が盗まれる事件が発生する。
現場に居合わせた香仙堂や、三五と口論していたという俳諧師・紫峰に疑いがかかる。七之助が紫峰を訪ねると、彼の家には養女に出した娘が孫を連れて遊びに来ていた。その娘こそ、目白坂で見た若妻・お露だった。
七之助は、全ての点が繋がったと確信し、香仙堂を捕らえる。彼は凶状持ちの過去を持つ男で、本名を武右衛門といった。十七年前、追っ手から逃れる際に幼い娘・お露と生き別れになっていたのだ。そのお露を拾い、我が子として育てたのが、紫峰と夢廼舎三五だったのである。
三五は、お露の数奇な運命を次の暴露小説の題材にしようとしていた。それを知った香仙堂は、娘の幸せが壊されることを恐れ、三五を殺害して稿本を盗み出したのだった。七之助は香仙堂の親心を汲み、証拠となる稿本を火にくべる。香仙堂は物盗りの罪で処刑されるが、娘の秘密は守られ、彼女は何も知らぬまま幸せな日々を送るのであった。
本作の主人公。人真似鳥が呼ぶ名前と殺人事件を結びつけ、哀しい親子の過去を解き明かす。
七之助の子分。目白坂で怪しい売卜者を見かけたことが、事件の捜査のきっかけとなる。
売卜者。その正体は、お露の実の父親である凶状持ちの武右衛門。娘の幸せを守るため、殺人を犯してしまう。
武士・筒井兵馬の貞淑な妻。幼い頃に別れた父を慕い、人真似鳥に父と自分の名前を教えている。
暴露小説で人気の戯作者。お露の過去を小説にしようとしたため、香仙堂に殺害される。
俳諧師で薬種屋の隠居。三五と共に幼いお露を拾い、我が子として育てた心優しい人物。
A. 「オツユ」は、鳥を飼っている若妻・お露のことです。「ブエモン」は、彼女が幼い頃に生き別れた実の父親・武右衛門(売卜者の香仙堂)のことです。お露は、いつか父に再会できることを夢見て、鳥に二人の名前を教えていました。
A. 夢廼舎三五が、娘・お露の出生の秘密を暴露小説に書こうとしていることを知ったからです。お露が実は凶状持ちの自分の娘であることが世間に知られれば、武家に嫁いだ彼女の幸せな生活が根底から覆されてしまいます。娘の未来を守るために、彼は三五を殺害し、その証拠となる原稿を盗み出しました。
A. 娘を思う香仙堂の親心に、七之助が情けをかけたからです。香仙堂が犯した殺人は許されることではありませんが、その動機には同情の余地がありました。このまま原稿が世に出れば、罪のないお露が不幸になることは明らかです。七之助は、法で裁かれるべきは香仙堂一人であり、お露の幸せまで奪う必要はないと判断し、事件の真相を闇に葬るために証拠を自らの手で消したのでした。