七之助捕物帳

口笛の謎

著:納言恭平

江戸の闇を切り裂く、名探偵の推理

「七之助捕物帳」は、捕物帳の名手、納言恭平(なごん きょうへい)による傑作時代小説シリーズです。 江戸は花川戸の御用聞(ごようきき)・七之助が、子分の音吉と共に、江戸八百八町で巻き起こる難事件に挑みます。

鮮やかな推理と、江戸の町に生きる人々の人情が織りなす物語は、今なお多くの読者を魅了し続けています。 このページでは、シリーズの一編「口笛の謎」をお届けします。

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口笛の謎

一、見世物小屋の男女

「おや?」
 擦れちがいざまに、音吉は小首を捻った。たしかに、どこかで会ったことのある御新造なのだ。年の頃は、二十二か三か、浮世絵からそのまま抜け出して来たような凄い美人だ。それだのに、どこの誰だか思い出せないなんてどうかしている。
「よし。こうなれば、どこまでも後を届けて、女の身許を突き止めてやろう」
 詮索癖の持合せだけは、音吉も一人前の岡っ引だった。くるっと裾をまくりながら踵をめぐらすと、見えがくれに女の後を尾けはじめた。
 尾行は楽だった。女は、何かに気を取られているらしく、傍眼(わきめ)も振らず、すたすたと足早に歩いて行く。
 その頃、浅草奥山に、「百鬼夜行妖怪尽」という見世物小屋がかかって、江戸の人気をさらっていた。女の目的は、その見世物小屋にあったらしく、そこの木戸口まで歩いて行くと、はじめて足をとめた。
「あっ、そうか!」
 音吉は、思わず声に出すところだった。思い出したのだ。――この前に、この女を見た時と場所とを。
 女は、不安な眼つきであたりを見廻した。すると、その眼つきに答えるように、近くの木立の蔭から、町家の若旦那風の男がついと姿を現わして、意味深い眼くばせを交し合った。
「あっ!」
 すると、音吉は、又しても、危く不覚の叫びをもらすところだった。――その若旦那風にも見覚えがあるのだ。しかも……。
 男と女は、べつべつに札銭を払って、木戸を入った。音吉もすぐその後に続いた。場内は昼尚暗く娑婆の光が遮られて、じめじめした空気の中に線香の匂いが流れていた。ドロドロドロ……と、はるかに楽屋から聞えてくる太鼓の音にも、早くも妖怪気分が漂っている。
 竹や杉や雑木(ぞうき)を植え込んだ林の中に、一筋の小径(こみち)が通っている。女はもう、恐そうに男の腕に縋っていた。
 最初は、腐れ筵や破れ畳でこしらえた隠坊小屋のかたわらに早桶があって、男女の幽霊が、空中から真逆さまに、その早桶を指しながら小気味よげに笑っている。
 次は獄門台に男女の梟首。
 そこを通り過ぎると、小さな池があって、その岸に、女の土左衛門が、ぶよぶよの屍体を仰向に浮べている。
 又、林だ。
 林の中の小径には、青白い月の光の射している趣好だった。そして、その月光を浴びて、杉の根方に縛りつけられた総身血塗れの裸男が、咽喉元深く短刀を突き通され、無念の歯を喰いしばり、両眼をかっと剥き出している。
「あ、あ……」
 男女の足は、ぴたっとそこで止った。どちらからともなくよろめいて、お互いの体を支え合った。
「俺だ。俺だ。……ちきしょう、とんだ悪ふざけをしやがって」
 男の声がふるえている。その変死人形の顔は、若旦那の男の顔に、そっくり生き写しだったのである。
 男女は、又、縺れるような足どりで歩き出した。今度は、林の切間に草原があって、無念の形相凄まじい若い女が、むごたらしく絞殺されていた。くびには緋のしごきが巻きつき、両手は虚空をつかんでいる。
「あっ、わ、若旦那!」
 女は、男の胸に倒れ掛った。男は、女の上体を支えてよろめきながら、何物かに向って拳を振り上げた。
 草の上に絞殺されている変死人形は、その女を生模型(いきでほん)にしたのにちがいなかった。左の頬の黒子までが、そっくりそのままなのである。
 しかし、もう、すぐそこの突き当りを左へ曲ると出口であった。額ににじみ出た脂汗を拭きもあえず、真蒼な顔をしてよろめき出た男女を待ち受けた、白丁に烏帽子姿の番人が、
「さあ、お清めをいたしやしょう」
 悪魔ばらいの榊の葉を持ち直して、男女の頭上を撫でかけたが、
「あ!」
 払いかけた手がぴたと止んで、まじまじと二人の顔を見比べるのだった。
「長さん、気がついたらしいね」
 呆気に取られたように、男女の後姿を見送っている番人の肩を、音吉はポンと叩いた。
「やっ、これは、花川戸の親分」
 音吉は、男女の後姿に頤をしゃくって、
「どこかで見たことがあると思って後を尾けたら、なんのこった。ここの変死人形の顔に見覚えがあったんだ。だが、助五郎も、ちっと悪戯(わる)がすぎるようだな」
 泉助五郎という人形細工人が、この見世物の作者だった。
「へえ、あっしも、今はじめて気がついてびっくりしやしたんですが、するてえと、今の二人は、師匠の知人と見えやすね」
「そうなんだろう。……あっ!」
 うっかりしている間に、気がつくと、男女の後姿が見えなくなっている。音吉は、急にうろたえだして後を追ったが、ついに姿を見失ってしまった。

二、根岸の寮の惨劇

 聞込は、音吉の自慢とするところ。
 日の暮頃まで、あちらこちらと忙しそうに走り廻っていたが、それまでに大体の調べはついたと見えて、花川戸の家に引き上げて行く音吉の顔には、得意の色が浮んでいた。
 泉助五郎は、当時、江戸第一と謳われている人形細工の名人だが、人物の評判はあまりよくなかった。邪心の深いことは空恐ろしいばかりで、二十年も前に勘当された恨を、師匠の泉治作に対して抱いている。それも、噂によると、師匠の治作は、助五郎の天才を惜しむのあまり、素行の紊れを戒めて発奮させるために、勘当という非常手段を取ったのだという。
 しかし、助五郎は、そうした師の情など解る男ではなかった。めきめきと技術は上げて行ったが、その発奮は師匠を見返すためであった。今度も治作が、回向院境内に、「風流化物尽」という見世物を開場すると、その向うを張るように、奥山に、百鬼夜行妖怪尽を開場したのである。そのために、回向院の客足は、その後、すっかり淋れ果ててしまっている。
 そんな助五郎だが、事一度情痴沙汰ともなれば彼の嫉妬深さは又、格別であった。彼は、この数年来、新吉原稲垣楼の花魁高嶺太夫の許に通い詰めていた。ところが、高嶺には、ほかに二世を契った若い男があった。横山町の木綿問屋、雲州屋の若旦那清次郎だ。それを知って以来、助五郎は、嫉妬の鬼のようになって高嶺を追いまわしていたが、今から半年ばかり前に、清次郎は、突然、高嶺を身請して、助五郎の眼の届かないところに隠してしまった。
 音吉の自慢の報告を聞いているうちに、七之助の膝に乗っていた三味線は、いつしか畳の上に辷っていた。
「ほほう。で、お前の尾けた一組は、その雲州屋の若旦那と、花魁上りの女だったというのか?」
「たしかに、そうじゃねえかと思うんですがね。だって、助五郎らしいいやがらせじゃござんせんか」
「そうだなあ。当人たちも、噂が耳に入ったら、実否をたしかめたくなるに違えあるめえからな」
 七之助は、分別臭い口調で言った。

 それから中一日おいた次の朝。大工の政吉が、泡を喰って、七之助の玄関にころがり込んだ。
「なんだ。政吉じゃねえか。何をうろたえてやがるんでえ」
 物音に立って行った音吉が、いやに落ちついた訊ね方をすると、
「とんちき奴、落ちついている場合じゃねえや。人殺しでえ、人殺しでえ。早えとこ、親分に知らしてくんねぇ」
「政。人殺しゃあ、どこだ?」
 人殺しと聞きつけて、とび出して来た七之助の体が、もう、政吉の眼の前に、仁王さまのように立ちはだかっている。
 政吉は、十日ばかり前から、根岸の里に仕事に行っていた。仕事場の隣りの寮には、玄人上りらしい若い美しい御新造が、耳の遠い雇婆さんと二人で住んでいた。
「今朝、あっしたちが、仕事場に着くと間もなく、そのつんぼ婆さんが、生垣を押破ってとび込んで来て、大変です、大変です、御新造さまが殺されていますから、早く来て下さい、というじゃありやせんか。聞くより早く、あっしゃ、鑿を投げ捨てて飛び出しかけやすと、棟梁があっしを呼び止めて、政、おめえ、ひとっ走り、花川戸の親分に知らせて来い、というんです。だから、あっしあまだ、現場の様子を見ているわけでもないんだけれど、とにかく、親分、支度をしておくんなさいよ」
 息をはずませながら、政吉はまくし立てた。
「よし、今行く」
 奥へ引込んだと思うと、七之助も音吉も、支度は早い。政吉が乱れた気息を整えている間に、もう飛び出して来ている。
 三挺の辻駕籠が、根岸の里を指して飛んだ。
 目指す寮は、田圃の中に、背の低い杉の生垣をめぐらして建っていた。門の前で駕籠を乗りすてて、開戸を押すと、庭先にかたまっていた大工たちが、てんでんに、何かがやがや騒ぎながら三人を迎えた。
 縁側の雨戸が、一枚だけ外れている。
「棟梁がね、親分が見えるまで、どこにも手をつけちゃいけないってんで、雨戸も、そのままにしておいたんです」
 と、一人の大工が説明した。
「棟梁は?」
「そこの座敷の仏の枕許に、つんぼ婆さんと二人で坐ってまさ」
 果して、仏の顔に白布を載せて、棟梁とつんぼ婆は、枕元に供えた、線香の煙の中に坐っていた。七之助は、棟梁に向って、丁寧に礼を言ってから、片膝ついて、顔の白布を取り除けた。顔は恐怖に歪んで、両眼をカッと見開いていた。くびには、絞殺の形跡も歴然と、紫色のあざが残っていた。虚空を掴んだ片手には、緋のしごきの千切れをつかんでいる。よほど苦しんだと見えて、屍体の半身は、夜具の外にずり出ている。
「親分。そこに、そんな物が落ちていやすぜ」
 と、棟梁が注意した。
 一方の壁寄りに、印籠が落ちているのだ。拾い取って調べると、泉助五郎という銘が、毛彫してある。
「音吉、音吉」と、七之助は、雨戸の外に向って音吉の名を呼んだ。
 待ってましたとばかりに飛び込んで来た音吉は、死人の顔を見るなり、
「うえっ! こ、こりゃア、親分、一昨日あっしが尾けた御新造だ。……わあっ、そ、その手の中に掴んでるなあ、緋、緋、緋のしごきの千切れじゃござんせんか。なにからなにまで・・・・・・」
「奥山の変死人形にそっくりよ。その上、御丁寧にも、こんなものまで、落して行ってやがる」
 七之助は、印籠を音吉の手に渡した。
「わあっ、泉助五郎てえ銘がありやがる。でも、こう呆気なく犯人が挙っちゃア、張合がありやせんね」
 だが、七之助は、それには耳も籍さず、
「棟梁! つんぼ婆さんは、これを発見けた時の様子を、何か話しましたかえ?」
「田舎訛がひどくってねえ、気が顛倒していると来てまさ。それに、こっちで訊ねることはなかなか解らねえ。訊くのに苦労しやしたが、こう言うんでさ。耳が遠い上に、人一倍寝坊と来ているので、今朝まで何にも知らなかった。菊の花を剪りに庭へ出たら、雨戸が一枚外れているので、これは可怪しいと思って、御新造の寝室をのぞきに行ったら、この様だったので、びっくりしてあっし共の仕事場へ飛び込んで行ったんだそうで」
「成程」と、七之助はうなずいた。
 婆さんは、ぶつぶつ口の中で念仏を称えながら、死人の枕許の線香を取換えている。

三、被害者をめぐる二人の男

 迎えにやった村役人と入れかわりに、七之助は、音吉を連れて寮を引き上げた。
 人形細工人泉助五郎の店は、下谷山崎町にあった。助五郎は、弟子共を指図しながら店にいた。訪ねて行った七之助の名前をきくと、ぎょっとして顔色をかえたが、すぐ、さりげなく顔色を取り戻して、二人を座敷に通した。
 座敷の縁先に取り込んである庭は、可なり広かった。裏手はどこかの寺の墓地に続いていて、そのしきりには、簡単な竹の垣が結ってある。
 七之助は、不安そうに座を占めた助五郎の膝の前に、いきなり、懐中の印籠を取り出して置いた。
「師匠、この印籠に、見覚えがござんしょうね?」
 助五郎は一眼見るなり、
「あっ、こりゃア、たしかに、あっしの物です。四五日前の晩に、近所の銭湯で盗まれたものだが、親分、これを、どこで手に入れなすったんですかい?」
「銭湯で盗まれたといいなさるんだね」
 七之助は、油断のない眼つきで、しげしげと助五郎の顔色をうかがった。
 突然、庭先で犬が吠え出した。
 一匹の野良犬が、寺の墓地から竹垣をくぐり抜けて、しきりに、そこの土を掘っているのだ。
「師匠、一寸、庭下駄を拝借します」
 何に気がついたのか、七之助は、無遠慮に座を立って、沓脱の庭下駄を突っかけた。野良犬が掘り越している土の中から、赤い布っ端がはみ出している。犬を追って手を掛けると、土の中から、緋のしごきがするすると抜けて来た。
 助五郎は、土気色にかわった顔に、不安な眼を光らせながら、座敷に戻って来る七之助を迎えた。
「こんなものが、あそこに埋け込んでありやしたぜ。どうしたんですかい、師匠?」
「あっしゃ知らねえ。ゆ、夢にも知らねえことだ」と、助五郎は喘いで、「親分、なにがあったんですかい? あっしゃあ、なんにも知らねえが、なにか、あっしの身に、不吉な嫌疑でも掛ってるんじゃねえんでしょうね」
「いや」と、七之助は言葉を濁して、「なに、ほんの一寸したことでさ。いずれ又、迷惑を掛けるかも知れないけれど、今日はこれで失礼いたしやしょう」
 気味の悪い不安を残して、七之助は音吉を連れて、助五郎の店を出て行った。
「親分、なんだって、さっさと挙げておしまいなさらなかったんですかい?」
 七之助の腰のあたりに付き纏いながら、音吉は、口をとがらせた。
「あんまり、証拠が揃いすぎている」
「え?」
「あんな抜目のねえ顔をした男が、お誂え向の証拠を、あんなに、いくつも残すと思うのか。音、こりゃあ、とんでもねえ厄介な事件かも知れねえぜ」
「そうかなあ」
 それから、半刻あまり経って、二人は、横山町の雲州屋の店先に立っていた。
 店の者をつかまえて、ふところの十手の端をのぞかせながら、若旦那に会いたいと、申し入れると、帳場格子の中の番頭が、心配顔を七之助の前に運んで、
「何か、若旦那に、間違いごとでも起ってるんじゃねえんでしょうか?」
「いや。若旦那にお目にかかって、少々訊ねたいことがあるんだ」
「そんなら申上げますが、若旦那は一昨日の朝、お出掛になったまま、まだお戻りになりません」
「そりゃあ、困ったな。お出掛先あ、根岸の寮かい?」
「えっ、親分は、そんなことまで御存じですか」と、番頭はおどろいて、「じつあ、そうだと思ったんですが、昨日、急用ができて、店の者を迎えにやりますと、一昨日の夕方、今戸の船宿で夕飯を食って別れたきりだというんです」
「ふうん」と、七之助は考え深そうに、「じゃあ、若し、今日のうちにも、若旦那が帰って見えたら、あっしの家まで、一っ走り使いを頼みてえ」
 外へ出ると、
「音。大車輪だ。雲州屋の若旦那の行状を、早えとこ洗い上げてくんねぇ」
「親分、合点だ!」
 聞くより早く、音吉は、のっぺり脛の裾をまくって――二人はそこで袂を別った。

四、非運の師弟

 泉治作は、痩せて小さな老人だった。
 いかに相手が女でも、元気ざかりの高嶺が、こんな貧弱な老人のためにむざむざ絞殺されようとは思えない。
「何か、御用の筋でお見えなすったね。何です?」
 訪ねて行った七之助を奥へ通すと、老人の方から、用件を促した。人の善さそうな顔に、その時だけは、きちっと、両眼の光が鋭かった。
 七之助は、一寸説明のいとぐちをさがしてから、根岸の寮の女殺しの顛末を語り出した。奥山の見世物小屋の変死人形。根岸の寮の絞殺屍体の発見。現場に落ちていた証拠物件。第一の嫌疑者の泉助五郎の詮議。・・・・・・順序を立てた七之助の説明に、老人は、眼を閉じ、両手を膝に乗せた静かな姿で、じっと耳を傾むけている。七之助は、時々そっと、老人の表情をうかがうのだが、そこには、なんの反応も現われないのだ。
「やっぱり、この老人だけは、嫌疑者の中から除かねばなるまい」
 七之助は、そう気がついていた。しかし、貴重な時間をつぶして無駄なおしゃべりをしているとは思わなかった。というのは、彼はさっきから挙動不審な、一人の男に眼をつけているのである。
 実直らしい中年者である。その男は、お茶をはこんだり、その他、つまらない用事にかこつけては、何度となく室に出入りをしている。妙に落ちつかない素振である。唐紙の外で、七之助の言葉に聴耳を立てているらしい気配に気づいたこともある。
「あんまり、誂え向きの証拠が揃いすぎているんで、かえって犯人はほかにあるかも知れねえという、親分のお見込なんだね」
 七之助の説明の一段落を待って、老人ははじめて口を開いた。静かな口調であったが、不安の翳が痩せた頬骨に絡まっていた。
「師匠にお目にかかったら、何か智恵を貸して頂けるかと思いやしてねえ」と、七之助は微笑んだ。
「それはお気の毒だった。わしは、助五郎のことを、折角天分を持ちながら惜しい男だと、気の毒にこそ思って居れ、決して、あれの名声を妬んだりした覚えは無え」
「師匠!」
「うむ」
「先刻から、この室に何度も出入をしている人は、師匠のお弟子ですかえ?」
 すると、治作の顔には、突然、狼狽と不安の表情が溢れて、
「さよう。弟子の治平てえもんだが……。うでは駄目だが、心はきれいだから、わしの跡目をつがせようと思っている」
「そうですか」と、さすがに七之助も口ごもって、「あっしゃあ、治平さんと二人きりで、しばらく話がして見てえんですがね」
「ふうん。……親分の見込で、その必要があると思いなさるなら仕方がねえ。だが、あの男に、人殺しなんて恐ろしいことができよう筈あ無え。それだけは、わしがきっぱりと言っておく」
 老人は、怒った眼つきをして、ポンポンと手を叩いた。

 座敷には、治平が、師匠の治作と入れかわった。おどおどと顔の置場に困っている治平に、いきなり七之助は、
「お前、昨夜、なんの用事で根岸くんだりまで出掛けたんだ?」
「えっ! あ、あっしゃあ、そ、そんなこたあ知ら無え」
「白っぱくれやがって、この野郎。横山町の雲州屋の寮の付近で、お前の姿を見掛けた者がある。こちらにゃあ、ちゃんと証拠があがってるんだ」
「……」
「御新造を絞め殺して、前もって銭湯の板の間で盗んでおいた、助五郎の印籠を、現場に落しておいたろう。そればっかりじゃあ無え。女を締めた緋のしごきを、わざわざ助五郎の庭の隅に持って行って埋めたじゃねえか、自分で犯した大罪を、人になすりつけようなんて、太え野郎だ」
 火のような溜息もろとも、治平は、へたへたと、その場にへたばってしまった。
「お、お、恐れ入りやした、親分!」
「そうだろう。おれの眼力に狂いは無え筈だ」
「で、でも、親分、あっしの心も汲んでおくんなせえ。助五郎は人非人だ。治作師匠の恩を忘れやがって……」
「うむ、そのいきさつなら俺も知っている。だが、復讐の手段にことを欠いて、お前となんの関わりもねえ女を手に掛けるなんて、そりゃあ、天道さまが許さねえぜ」
「恨みに眼が眩んで、とんでもねえことをしてしまいました。……だ、だが、親分、これだけは信じておくんなさい」
「なんだ?」
「御新造を手に掛けたなあ、やっぱり、あっしじゃあ無え」
「な、なんだと?」
「助五郎のしわざです。あっしが押し込んだ時には、御新造は、すでに殺されちまってたんです」
「ふうむ。だが、助五郎のしわざだと、どうして、お前、判ってるんだ?」
「あっしがあそこに着いた時、庭先で口笛の音が聞えて、間もなく、黒い人影が、垣を破って逃げて行ったんです。助五郎が口笛の名人てえ噂は、親分、聞いちゃいなさらねえんですかい?」
「ふうむ」
「あっしゃ、やりやがったな、と思ったけれど、どんな様子かのぞいて見てえ。だからあっしも、生垣を乗り越え、雨戸をこじ開けて、御新造の室にとび込んで見たんです。すると案の定、行燈の灯影に、御新造がむごたらしく殺されているじゃござんせんか。くびに紫色のあざが残っているので、絞殺されたんだということがわかりやした。そこで、あっしは、証拠の印籠をその場に落し、死人のしごきを外して、それで絞められたように見せかけるために、端を千切って死人の手に握らせてから、あの家を逃げ出したのでござんす。それから、残りのしごきを助五郎の庭の隅に埋めたのは、いずれ嫌疑が助五郎の身にかかったならば、詮議の結果、おそかれ早かれ発見け出されて、動かぬ証拠となるに違いないと思ったからですが、もはや親分の手に入っているとは、ほとほと、眼力に恐れ入りやした」
「治平」
「へえ」
「お前、今、雨戸をこじ開けて家の中へ入ったと言ったようだな。すると何か、助五郎は、引上際にわざわざ雨戸を閉めて行ったのか。ほかの場所から人の押入ったあとかたは残っていねえぞ」
 治平は、きょとんとして、七之助の顔を見詰た。それから怪訝そうに小首をひねって、
「おや、そう言えばへんだな」
「なにがへんなんだ」
「親分、こりゃアへんだ。その時、雨戸は閉っていたばかりじゃねえ。たしかに、内側から心張棒をかってありやしたぜ」
「な、なに。じゃあ、助五郎は、どうして雨戸の外から、内側の心張棒をかったんだ」と、思わず、七之助の声は高かった。

五、口笛の秘密

 真犯人は誰であろう? 助五郎か? 治平か? 雲州屋の若旦那清次郎も、あの日以来行方不明になっているというから、或は新しい女でもできて、邪魔になるあの女を手に掛けたとも考えられる。更に、犯人はべつに清次郎も手に掛けて、どこかで死体になっているのではあるまいか?
 こんなにむずかしい事件ははじめてだった。七之助はすっかり考えあぐねてしまった。一刻、一刻半、やがてもう二刻近くも、室の真中に腕組をして黙ったままだ。日はとっくに暮れ果て、五ツの鐘がどこかで鳴ったが、行燈に灯を入れようともしない。
「まあ音吉の帰りを待ってからのことにしよう。何か耳よりな材料を持って来るかも知れない」
 投げ出すように呟いて、暗い中に燧石を探った時、
「親分、ただ今」
 威勢のいい声と一緒に格子戸が音を立てて、当の音吉が帰って来た。
 やがて、灯の入った行燈のかたわらに、向い合った七之助と音吉。
「何しろ、親分、おどろきやしたぜ。雲州屋の清次郎、途方もねえ女殺しだ」
「ほう、そんな果報者か」
 七之助は、音吉の大袈裟な言葉を受けて微笑んだ。
「羨やましいが、金があってのっぺりした野郎にゃかなわねえ。よろしゅうがすかい、親分、あっしが聞き出しただけでも、これまでにわけのあった女が、堀の芸者、西両国の並茶屋の女、蛇使いの女太夫、てめえの家の女中にまで手をつけてるんですからね」
 七之助は、何かしら、はっとしたようであった。腕を組んだ。音吉が、まだ何かしゃべりまくっているが、もう、耳には入れていなかった。急に、晴々と、眉根のたて皺が伸びると、つと立って、壁の三味線を取り下した。それを膝に載せると、

――秋風さんがとんとんと、萩のとぼそを叩くじゃないか、はいらんせ、待ってたえ、桔梗が露に濡れている。――

 粋な音締の三下り、爪弾の調子に乗せて、いい気持そうに唄い出している。
「ちぇ、嫌んなっちゃうな」
 くさって、ひっくり返った音吉に、
「音。寝酒でもひっかけて、ぐっすり眠っときな」と七之助は言った。

 その翌日の午下り。七之助は、音吉を促し立てて、花川戸の家を出掛けた。松坂町へ廻道をして、泉治作の店から治平を呼び出した。
「そんなにひまは潰させない。お前も、一寸そこまでつきあってくれ」
「親分、いったい、どこへ連れてこうてえんですかい?」
 今日に限って、子分の音吉にもまだ、行先を明してないのだ。
「まあ、黙ってついて来いよ」
 七之助は、相かわらず笑っている。今日も、東両国の見世物小屋は、どこにも人がたかっていた。七之助は、蛇使いの小屋の前に立止って札銭を払った。音吉も治平も、もう余計な口はきかなかった。
 二人は、七之助の後から、黙って木戸を入って行った。
 舞台では女太夫のお若が、楽屋の三味線に合せて、卑猥な唄をうたいながら蛇を使っていた。蛇使いといえば、どこでも、女太夫の美貌が売物だが、お若は、東両国でも評判を取っているだけあって、なかなかの縹緻好しだった。
「これなら、雲州屋の若旦那が打ち込んだ筈だ」
 音吉は、こう思って、ふと、七之助の思惑が、漠然と読めるような気がした。
 三味線の音が止んで、蛇は、するすると籠の中に隠れ込んだお若は、幕のうしろからべつな蛇籠を持ち出した。お若が、おどけた口調でなにかまくし立てると、舞台の反対側に、六尺ゆたかな大男がのっそりと突っ立った。大男は、自分の筋骨の逞ましさを誇示するように、両足を踏ん張り、両腕の肱を曲げた。力瘤が隆々としてむくれ上った。
 忽ち一声、異様な、かん高い口笛がひびき渡った。お若が吹き鳴らしたのだ。と――その口笛を合図に、籠の穴から、子供の拳ほどもある青大将の頭がぬっとのぞいて、一尺、二尺、三尺・・・・・・舞台の板の上に這い出した長さは、たっぷり五尺。
 泣くような、咽ぶような、異様な口笛の音に踊らされるように、青大将は、大男を目がけてするすると辷って行く。
 ついに、青大将は、男の足許に這い寄った。足を伝って、腹から胸、と思った次の瞬間には、二巻、三巻、電光のはやさで尻尾を刎ねて、大男の猪首に巻ついている。
 目を白黒させながら、男は、ううん、と唸った。次第に顔面が充血して行く。男は両手で青大将の胴をつかみ、苦しさにのた打ちまわった。しかし、青大将の攻勢は貧乏揺ぎもしない。徐々に、徐々に、その恐るべき蛇の輪は皮肉に喰い行って行くかのよう。
 ついに、男は、断末魔のうめきを洩らしてよろめいた。
 と、突如として、口笛の調子が変った。ぱらっと、蛇の輪は大男の猪首から解けて、逃げるようにお若の口笛に呼び戻されて行く。三つ四つ、観客の中から、弥次馬の声が掛った。治平が、息をはずませながら、七之助の袖を引いた。
「今の口笛に覚えがあるらしいな。あの晩の口笛は、助五郎じゃなかったんだろう」
 と、七之助は、治平の耳に囁いた。
「そうです。て、てっきり、今の口笛でげすぜ」
 と、治平は、口の中が干からびてしまったような声で言った。

解決

 男を奪られた恋の恨みから、根岸の寮で、花魁上りの女を殺したのは、蛇使いの女太夫お若だった。
 あの晩、お若は、根岸の寮の、雨戸の上の空気抜から忍び込ませた秘蔵の青大将を、自分は雨戸の外から、お手のものの口笛一つで、自由自在に使いこなして目的を遂げたのであった。
 雲州屋の若旦那清次郎は、女だけには勇敢だが、根が臆病者だったので、あの日、奥山の見世物小屋で、自分を生模型(いきでほん)にした変死人形を見ると、今にも自分の上に、変死人形そのままの運命が迫っているような恐怖におそわれて、品川の知人の家に隠れ潜んでいたのであった。
 お若は、舞台の手すきに、血眼になって清次郎の行方を尋ねているところを、七之助の手によって、御用になったのである。

「口笛の謎」あらすじ

浅草奥山の見世物小屋「百鬼夜行妖怪尽」では、生き人形を使ったお化け屋敷が人気を博していた。ある日、木綿問屋「雲州屋」の若旦那・清次郎と、元花魁の高嶺がこの見世物小屋を訪れると、そこには自分たちそっくりの惨殺死体の人形が。二人は恐怖に慄き、その場を立ち去る。

数日後、根岸の寮で高嶺が絞殺死体で発見される。その殺され方は、見世物小屋の人形と瓜二つだった。現場には、見世物の作者である人形師・泉助五郎の印籠が落ちており、彼に強い疑いがかかる。助五郎はかつて高嶺を巡って清次郎と争った過去があったのだ。

しかし、七之助はあまりに揃いすぎた証拠に疑問を抱く。捜査を進めるうち、助五郎の師匠・泉治作の弟子・治平が、助五郎を陥れるために偽の証拠を仕組んだことが判明。だが、治平は殺人を否定し、現場で謎の「口笛」を聞いたと証言する。

七之助は、女癖の悪い清次郎の周辺を探り、彼が懇意にしていた蛇使いの女太夫・お若にたどり着く。彼女こそが、嫉妬から高嶺を殺害した真犯人だった。お若は、見世物小屋で聞いた治平の証言と同じ口笛を使い、蛇を操って高嶺を殺害するという、前代未聞のトリックを用いたのだった。

主な登場人物

花川戸の七之助(はなかわどのしちのすけ)

本作の主人公。巧妙に仕組まれた偽装工作を見破り、口笛の音を手がかりに真犯人を突き止める。

音吉(おときち)

七之助の子分。見世物小屋での出来事を目撃し、事件の捜査に関わることになる。

お若(おわか)

蛇使いの女太夫。本作の真犯人。雲州屋清次郎に懸想し、恋敵である高嶺を嫉妬から殺害する。

高嶺(たかね)

元吉原の花魁。雲州屋清次郎に身請けされ、根岸の寮で暮らしていたが、何者かに殺害される。

雲州屋清次郎(うんしゅうや せいじろう)

木綿問屋の若旦那。大変な女好きで、高嶺やお若など多くの女性と関係を持つ。

泉助五郎(いずみ すけごろう)

見世物小屋の人形を制作した名人人形師。高嶺を巡って清次郎と争った過去があり、事件の容疑者となる。

治平(じへい)

助五郎の師匠・治作の弟子。師をないがしろにする助五郎を憎んでおり、彼に罪を着せようと偽装工作を行う。

Q&Aコーナー

Q. 犯人のお若は、どのようにして密室殺人を実行したのですか?

A. 彼女は、雨戸の上の小さな空気抜きから蛇を屋内に忍び込ませ、外から得意の「口笛」で蛇を操り、眠っている高嶺を絞殺させました。殺害後、再び口笛で蛇を呼び戻したため、部屋は完全な密室状態となり、犯行の痕跡が残りませんでした。この前代未聞のトリックが、事件を「口笛の謎」たらしめたのです。

Q. なぜ人形師の泉助五郎に疑いがかかったのですか?

A. それは、助五郎を憎む弟子・治平の偽装工作によるものでした。治平は、高嶺の殺害現場に助五郎の印籠をわざと落とし、殺害に使われた(と見せかけた)緋のしごきを助五郎の家の庭に埋めることで、彼に罪を着せようとしました。助五郎自身も、かつて高嶺を巡って恋敵と争った過去があったため、動機の上でも疑われやすい状況でした。

Q. 七之助が真犯人にたどり着く決め手となったのは何ですか?

A. 治平が現場で聞いたという「口笛の音」です。当初、それは口笛が得意な助五郎のものと思われましたが、七之助は密室の謎が解けないことから、別の可能性を探ります。そして、女好きな清次郎の交友関係を洗う中で、蛇使いのお若が芸で口笛を使うことを突き止めます。実際に彼女の見世物小屋でその口笛を聞いた治平が、事件の夜に聞いた音と同じだと証言したことで、全ての謎が解けました。