七之助捕物帳

歎きの黒ン坊

著:納言恭平

江戸の闇を切り裂く、名探偵の推理

「七之助捕物帳」は、捕物帳の名手、納言恭平(なごん きょうへい)による傑作時代小説シリーズです。 江戸は花川戸の御用聞(ごようきき)・七之助が、子分の音吉と共に、江戸八百八町で巻き起こる難事件に挑みます。

鮮やかな推理と、江戸の町に生きる人々の人情が織りなす物語は、今なお多くの読者を魅了し続けています。 このページでは、シリーズの一編「歎きの黒ン坊」をお届けします。

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歎きの黒ン坊

一、自身番

 本所花町の自身番で、家主(いえぬし)の藤兵衛と定番(じょうばん)の民吉(たみきち)とが、東両国の見世物小屋で評判を呼んでいる、天竺渡りの黒ン坊の噂に花を咲かせていると、
「番人!」
 折柄、巡廻して来た、廻り方同心浜中茂平次が、型の通り、番屋の表から声をかけた。
「へえい」
「町内に何事もないか?」
「へへえい」
 定番の民吉も、型通りの鹿爪らしい返事をすまして、
「御苦労さまでございます。まあ、ちょっとお入りになって、一服やっていらっしゃいませんか」
「そうさな、一服やらして貰おうか」
 茂平次は、他の中間や手先たちに顎をしゃくって、番屋の土間に入って行くと、
「なにか、莫迦に話がはずんでいたようだが」
 きせるに煙草を詰めながら笑った。――民吉とは、世間話の好きな同志で、茂平次は、町廻りの途中を、ここの部屋で話し込んで行くことは珍らしくなかった。
「へえ。両国の見世物小屋に出ている、黒ン坊の噂をしていましたんで」
「ああ、黒ン坊か。噂に聞けば、大当りだと云うではないか」
「いやもう、大へんな評判ですね。小屋のまわりは、毎日、まるで戦場みたいですよ。旦那はまだ、小屋の景気をごらんになりませんか」
「いや、通りがかりに横眼で睨んで来た。木戸口に押しかけた野次馬共が、狂人(きちがい)のようにど鳴り合いながら騒いでいた」
「あれで、上州屋も持ち直しましたね」
 家主の藤兵衛が、かたわらから口を挿んだ。
「そうか。あれは上州屋の持小屋か」
「へえ。上州屋も、近頃は、何を持って来ても当らないものですから、すっかりくさり切っていたんですよ。でも、今度の黒ン坊で、何とか一息つけましょう」
 上州屋常七は、本所出村町に住んでいる、香具師(やし)の親方なのだ。
「でも、上州屋は、天竺渡りの黒ン坊なんかを、どうして手に入れたんだろうな」
「今も、その話をしてたんですよ。なんでも、長崎の和蘭船の船長から買い取って来たとかいうことですね」
「和蘭船の奴ら、人間まで捕まえて来て金にするのか」
「しかし、上州屋じゃ、絹物ずくめの夜具にくるまって、うまい物の食い放題で、まるで殿様みたいなもてなしだっていいますからね。見世物小屋の送り迎えは駕籠ですしね。……あ、もうそろそろ四ツですね。じゃ、おっつけ、黒ン坊の駕籠がここの前を通りますぜ」
「ほう、ここを通るのか」
 と、言った時、
「旦那。へんな女が、先刻から、ここの番屋をうかがってますぜ」
 手先の久次郎が、そっと、茂平次の耳にささやきに来た。

二、窓の顔

 女は三ツ目の橋の袂に立っていた。
 時々、躊躇がちに、自身番の入口をのぞき込んでは、不安な眼つきをあたりに配っている。
「なんだ、あの御新造はここに用事があるんだ。お前たちが人相の悪いがん首を並べているものだから、足を竦ましてるんだろう。久次郎、お前行って呼び込んで来い」
「へい」
 女は、久次郎に呼ばれて、恐る恐る番屋の土間に入って来たが、容易には口も利けないまでに、ひどく気持が顛倒しているらしい。まだやっと二十二か三か。渋皮の剥けたいい御新造ぶり。
「このあたりで見掛けねえ御新造だが、なにか御用ですかい?」
「は、はい。……あの、夫が、夫が…………」
「え? 御亭主がどうしたというんだ? 丁度、八丁堀の旦那もいらっしゃる。気持を落ちつけて、理由を言って見ねえ」
 女は、低く小腰を屈めてから、縋るような眼眸(まなざし)を茂平次に向けながら、
「私は、麹町の通りで小鳥屋を営んでいる、林屋の女房で、お静という女でございます」
 幾分気持も落ちついたと見えて、女は、割合にはっきりした口調で、話を始めた。
 ――今から丁度十五日程前に、夫の菊造は、鶉(うずら)の籠を下げて得意先に出掛けて行ったが、夕方になると、当人は帰って来ずに、飛脚屋に頼んで手紙を寄越した。それは、まことに退引ならぬ急用が出来て、これから直に上方に旅立つ。あまりの不意で驚くだろうが少しも心配することはない。三月ほどしたら帰って来てくわしい話をするから、それまでは自分を信じて安心して待っていてもらいたい、という意味の手紙だった。
 しかし、安心していろと言われても、お静はやはり不安だった。女房子の顔を一目見て行くひまもないとは、いったいどんな急用なのであろう。――お静は、考えあぐねて、夜もおちおち眠られなかった。
 すると、昨日のこと。お静は、柳島村に大へんに当事(あてごと)の上手な行者が住んでいるという噂を聞いたので、矢も楯もたまらず、今朝の夜明を待って家を出掛けた。
 その行者の家は、なんでも法恩寺の裏だと聞いて来たので、お静は、横川の土堤づたいに法恩寺橋まで行って、そこを渡りかけようとした時、
「わあっ!」
 というような、聞き覚えのある叫声を聞いたのである。はっと思って声のした方角に目をやると、横川を挟んだ二階家の窓に、菊造の顔があった。
「あっ、あなたッ!」
 お静はもどかしく叫んだが、川を間にしていては走り寄るわけにも行かない。
 その間に、その室にはもう一人べつな人間がいたらしく、うしろから襟髪でも取って引き戻されるように、菊造の顔は窓際から消えてしまって、ぴしっと激しい音を立てて障子が閉った。
 お静は、まるで転ぶように法恩寺橋を渡った。橋の袂から三軒目が、二階の窓に菊造の顔を見た家だ。何を考えるひまもなく、がらがらと格子戸を開けると、
「御免下さいまし」
 と、上ずった声で訪うた。
 玄関に姿を現わしたのは、五十年配の見知らない男だった。
「あの、私、小鳥屋の菊造の家内でございますが、菊造が参っては居りませんでしょうか?」
「小鳥屋の菊造? そんな人は知らないな。お前さん、家を間違えてるんでしょう」
「いいえ、たしかに、お宅の二階の窓に菊造の顔を見ました」
「アハハハハ・・・・・・。そんな莫迦なことがあるわけはない。お前さん、何か勘違いをしていなさる。昼間から、狐か川瀬にでも化かされなすったんだろう」
 男の応対には取りつく島がなかった。
「でも、私は、あそこの二階の窓で見た顔は、夫の菊造にちがいないと思うんです。どうしても、眼のあやまりとは信じられないのです。菊造は、私の姿を見つけて窓から助けを呼ぼうとしたのではございますまいか。私には、あの時の菊造の様子が、なんだかそんなように思えてならないのです。旦那さま! どうかお願い致します。あの家に菊造がいるかいないか。これから行って、調べてやっては頂けませんでしょうか」
 お静の言葉はいつしかなめらかになり、必死に取縋る眼の色だった。
「よし、行こう。ではすぐに案内をしてもらいたい」
 ぐずぐずしてはいられない事件かも知れない。茂平次は、きせるをぽんと筒に収めて、気早に腰を浮かしている。

三、二階の惨劇

 お静が、二階の窓に菊造の顔を見たという家は、意外にも、上州屋常七の住居で、そこの格子の前には一挺の駕籠が下りていた。
「おや。見世物小屋から黒ン坊の迎え駕籠が来ていますぜ」
 近づきながら、民吉は、茂平次にささやいた。格子が開いて、黒ン坊が出て来た。黒ン坊は、頭に鳥の羽を飾り、腰には美しい刺繍(ぬいとり)のある布を巻いていた。頭のてっぺんから足の爪先まで、鍋墨のように真黒で、それが、油でも塗ったようにてかてかと光っている。唇だけがいもりの腹のように真赤で、歯並は雪のように白く見えた。手には槍を持っているが、その手の指を繃帯でしばっている。
 黒ン坊は、奇妙な叫声を挙げて、茂平次の一行におどろきの眼をみはった。
 玄関に立って、切火を切りかけていた常七の女房は、その手を止めて、呆然と茂平次の一行を迎えた。
 常七は、そばから、女房に、眼付で切火の催促をしてから、如才なく手を揉んだ。
「これは、浜中の旦那、いらっしゃいまし。花町の家主さんも、定番さんも御一緒ですか。だが、そこの御新造さんの申立てを聞いてお見えになったんでございましょうね」
 こう先手を打ちながらも、一方では、抜からず知らせた眼顔に、黒ン坊を乗せた駕籠が、ぎっと上る。
「おう。その駕籠、やっちゃならねえ」
 茂平次があわてて叫んだので、手先の久次郎が、棒鼻をつかんで、ぐっと押し戻した。
「えっ! 浜中の旦那、そりゃ無理です。だって、見世物小屋では、もうすぐ木戸の開く時刻で、お客様方、小屋のまわりを取り巻いて騒いでるんですから」
 上州屋は、泣きべそを掻いた。
「多少の迷惑は仕方がない。一応、詮議が片づくまで、出してやるわけには行かない」
「じゃ、旦那は、やっぱり、その御新造の言分を、お信じなさるんですかい?」
「詮議をすまして見なければなんとも言えん。……じゃ、上州屋、一寸、二階を見せてもらうぜ。久次郎は、黒ン坊を連れて上って来てくれ」
 有無を言わさず、茂平次は、常七の案内で二階へ上って行った。二階は六畳と四畳半のつづきで、その窓は、横川に向って開いている。さっき、お静が菊造の顔を見たというのは、この窓に違いない。四畳半には、鍵の手に、もう一つの窓が開いていた。障子を引き開けると、そこは狭い空地で、丈(たけ)なす雑草が生い茂っている。そして、そこのすぐ窓の下には、石垣を築いた横川の入江が、一間ばかりも引き込んであった。
「おや?」
 と、茂平次が呟いて、窓敷居に触れかけた指を見直した。ぬるっとした赤黒いものがくっついている。血だ。よく見ると、敷居には点々として、血痕が付着している。
「あっ!」
 が、その時、お静の声が、叫んでいた。
「やっぱり、菊造はここにいたんです。これが何よりの証拠です」
 と、床の間にあった、漆塗の印籠をかざしているのだ。
「とんでもない言いがかりだ。そんな印籠なら、どこにでもざらにある代物。それを証拠だなんて言い立てられてたまるものか」
 むっとした声で、上州屋がやり返した。
 その様子にじっと眼を注ぎながら、
「上州屋」と、茂平次が呼んだ。
「へい」
「二階には、誰が住っているのだ?」
「へい。それはその、ここんところ、ずっと、黒さんに当てがってありますんで」
 茂平次は、つかつかと黒ン坊のそばに歩み寄って、つと、繃帯の指をつかんだ。黒ン坊は、何か奇声を発してその手を引込めようとした。
「これは、どうしたんだ?」
 黒ン坊は、ただ、おびえた眼つきで茂平次の顔を見まもるばかり。
「ハハハハ……。旦那、黒ン坊にゃ、日本人の言葉は分りませんや」
「ああ、そうか」
 茂平次は、照れて、黒ン坊の手を放したが、
「あすこの窓にも、血がこぼれている。甲一、平太郎、お前たちは、表から、窓の外にまわって見ろ」
 二人の手先は、大急ぎで梯子段を下りて行った。間もなく、二人が、下の入江の底から、唐金の布袋の置物をおもしに巻き込んだ、一組の衣類を引き上げると、
「ええ。たしかにこれは、菊造が家を出る時に着て行った着物に相違ございません」
 お静は、きっぱりと証言した。

四、七之助登場

「旦那! お呼びになったのは、例の黒ン坊の一件でしょうね?」
「お前、もう、知っているのか?」
「しょうばいですからね。旦那も、今度ばかりは、手古摺っていらっしゃるらしいですね。小鳥屋の死体は、まだ、見つからんのですか?」
「見つからん。それさえ上れば、この事件は片づいたようなものだが……。なにしろ、丁度、引潮時であったからな。小鳥屋の死体は、そのまま、沖へ流されてしまったものと見える」
 八丁堀の同心、浜中茂平次の役宅では、とつぜん、迎えの使者を受けて駆けつけた花川戸の御用聞七之助が、主人の茂平次と向い合って、こんな会話を交している。
 茂平次が、小鳥屋の事件にかかり合ってから、五日目の晩だ。五日間もねばった揚句、七之助に相談を持ちかけたところを見ると、いい加減、この事件の詮議には、手を焼いているのにちがいない。
「上州屋と黒ン坊は、共謀になってやったんでしょうか?」
「そうだとしか思えんな。しかし、黒ン坊は言葉が通じないし、上州屋は、二階でなにがあったか、一向に知らぬ存ぜぬの一点張なんだ。なんにしろ、上州屋や黒ン坊と、殺された小鳥屋との間に、どんな関係があるか――それの詮議に一向眼鼻がつかんのだから、なんとかして、上州屋の自白を取る以外に方法がないのだ」
「上州屋も黒ン坊も、吟味中伝馬町送りになっているんでしたね?」
「そうだ」
「じゃ、とにかく、あっしを二人に会わせておくんなさい。ひょっとしたら、なにか、手掛をつかむことが出来るかも知れませんから」
「承知いたした」
 七之助には一目置いているので、茂平次は、あっさりと承知した。
 翌朝早く――
 七之助は、茂平次に案内されて、伝馬町に出かけて行った。

 調所で待っていると、牢番が、上州屋と黒ン坊を、牢屋から引出して来た。
「旦那、ひどいじゃありませんか。何の罪もない者を、いつまで牢屋に繋いでおくつもりなんですかい?」
 上州屋は、早速、茂平次に食ってかかった。七之助は、黒ン坊の様子にじっと眼をつけていたが、やがて、上州屋の方に向き直って、
「訊ねるが、お前は、この黒ン坊を、どこから手に入れて来たんだ?」
「長崎で、和蘭船の船長から買い取ったんです。長崎にいる、あっしの、兄弟分の男に頼みやしてね」
 と、常七は、澱みなく答えた。
「ふうむ。すると、その和蘭船の船長はどこから連れて来たんだろう」
「さあ。そこまでは、あっしもくわしい事情は知りやせんがね。なんでも、船長の話では暴風雨(しけ)にあって溺れかけているのを、救い上げて連れて来たとかいうことですね」
「そうか、よく解った。では、もうひとつ訊きたい。というのは他でもない。長崎から江戸へは、どうやって連れて来たんだ」
「そ、それは、丁度うまく、大阪の廻船問屋の船便があったものですから」
「上州屋の兄弟分は長崎だし、廻船問屋は大阪だし、調べるとしたら大抵のことではありませんね、浜中の旦那」
 と、言って、七之助は笑った。
 常七と黒ン坊を牢屋に戻して、ぶらぶらと調所を出ると、
「あれでいいのかい? どうもお前は、大切なことはちっとも訊かなかったようだが」
「あれでいいんですよ。まあ、黙ってあっしに任せておくんなさい」
「そうか。じゃ、まあ、いいようにやってくれ」
 それきり、茂平次は口を噤んだ。
 通りへ出ると、辻駕籠を雇った。行先は、麹町の林屋だ。駕籠から下りる茂平次の姿を見ると、御新造のお静が、子供を抱きながら駆け出して来て、
「あら、旦那様、ようこそ。何か、夫の消息でも分りましたのでございましょうか?」
「いや、まだ埒が明かん。しかし、もう一息というところだ。今日は、この人が、わしにかわっていろいろ訊くことになっているから、知っていることは、なんでも正直に話してくれ」
「はい」
「お前、御亭主は生きていると思っているらしいな」
 と、七之助は言った。
「はい。私、なんだか、そんな気がしてなりませんもの」
「夫婦の情愛から言ったらな。さもあろうて」
 と、茂平次は顔を背けた。
「では、夫はやっぱり、殺されているのでございましょうか?」
「それはまだ何とも言えん。死体は見つからないし、上州屋は口を割らないし。……しかし、おれはそんなことより、お前が、御亭主と一緒になった時分のことを訊きたいのだ」
「あらア」
 と、お静は顔を赤らめた。
「ハハハハ。よっぽど好き合って一緒になった仲らしいな。……それから何年になる?」
「丁度四年になります」
「その頃、御亭主は何をしていたんだ?」
「ここの店をはじめたばかりでした。私の父は中国筋の浪人者で、その頃、私たちは、この奥の長屋に住んでいたのです。父は永の思いで、ほんとに困っていたのですが、夫が、いろいろ親切にしてくれましたものですから……」
 お静の顔には、又、紅がさした。
「ここで小鳥屋をはじめる前には、御亭主は何をしていたんだ?」
「さあ、それは……夫は、ついぞ昔話をしてくれたことはございませんし、又、私の方から訊いたこともございませんので・・・・・・」
 快心の微笑が、七之助の顔を静かに流れて、
「ずっと夫婦仲のよかったことは大抵察しがつくが、御亭主は、子煩悩でもあったろうね?」
「ええ、そりゃもう、大へんな、子煩悩で、私の眼からさえ、可笑しいくらいでした」
「いや、よく分りました」
 と、七之助は言った。――彼の顔は、いよいよ快心の微笑に輝いて見えた。

五、小鳥屋の秘密

 その夜の四ツ(十時)を過ぎてから、茂平次と七之助は、もう一度伝馬町へ出掛けて行った。
 昼間のうちに手をつけてあったので、調所に入って待っていると、やがて、牢番が、ひそかに、黒ン坊を牢屋から引き出して来た。
「おい、黒さん。もう化けの皮は剥がれているんだ。あっさりと正体を現わしたらどうだい?」
 七之助は、いきなりそう言った。しかし、黒ン坊は、眼をぱちくりやりながら、不安そうに七之助の顔を凝視めているばかり。
「往生際の悪い人だね。この箱の中には、塗料落しの蘭薬が入っているんだぜ。なんなら、その体の色を、綺麗に拭き取って進ぜようか」
 嘘かまことか、蘭法医の持ち歩く、薬箱めいたものを見せられて、
「あっ!」
 黒ン坊は、思わず、絶望の声を洩らした。すぐ、がっくりと畳に手を突いて、
「旦那、恐れ入りました」
「えっ、なあんだ! お前、それでは、黒ン坊の偽物か?」
 茂平次は、開いた口が塞がらなかった。
「旦那。この男が小鳥屋の菊造ですよ。……なあ、黒さん、そうだったな」
「へ、へい。とんだお騒がせを致しまして、まことに相済みません」
「とんでもない野郎だ。わしは二十何年もお上の御用をつとめているが、こんな妙な事件を手掛けたのは始めてだな」
 と、茂平次は呆れ返った。
「しかし、何だって、お前、こんな際どい芸当をやらかしたんだ? 察するところ、何か昔の弱味を種に、上州屋に脅かされたな」
「へえ。いえ、なに、おどかされたってわけでもありませんけれど、もう一度男にしてやってくれ、と泣きつかれて見れば、どうにもいやとは言えなかったんです」
「うむ。ざっくばらんな話を聞こうじゃねえか。事情によっては、随分頼りにもなるんだよ、浜中の旦那は」
「包み隠さず白状するんだぞ」
 七之助におだてられて、顎などを撫でながら、気をよくした茂平次の声だった。
「へい。では、一部始終を聞いて頂きます」
 と、黒ン坊は、観念の眼を閉じた。
 菊造の前身は役者だった。
 芝居のすじもいいし、殊に扮装のうまさには天才的なところがあって、役者仲間でも評判になっていたが、ふとしたことから師匠を失敗って、破門を申し渡された。
 落魄(うらぶれ)の生活を送っているうちに、彼は、或日、両国の人混でふと悪心を起して、他人の財布に手を掛けた。しかし、運悪く感づかれて、彼は、相手の男に、手首をぐっと掴まれてしまった。相手は、そのまま、じっと菊造の顔を凝視めていたが、
「お前、立花屋を破門された源二郎ではないか」
「ええっ!」
 無理に振り切って逃げようとする手首を、相手はいよいよ強く握り締めながら、
「おれは、なにも、お前をどうしようというんじゃねえ。お前、ずいぶん困っているらしいな。どうだ、いい金儲けの口があるんだが、片棒担がないか」
 源二郎は、その男のために、近くの小料理屋に連れ込まれた。――その男は、香具師の親方の上州屋常七だった。
 上州屋に持ちかけられた相談というのは、源二郎を三本足六本指の因果者に仕立てて一儲けしようではないかというのであった。いかになんでも、因果者の見世物にまではなりたくなかったが、相手の巾着に手を掛けている弱味はあるし、持出された小屋の収入の歩合はいいし、
「なあに、顔を扮装ってしまえば、親兄弟にだって見破られる心配はない」
 と、いう自信もあるので、源二郎も、ままよ、と、腹を決めて、首を縦に振った。
 源二郎の因果物は大当りだった。扮装った顔は水も滴る若衆振だし、三味線を弾けば、喉もいい。芸は達者。これで見物を堪能させない筈はなかった。
 両国の見世物小屋を振り出しに、東海道を上方へ上って、中国筋から九州までも打ってまわったが、どこでも小屋は破れるばかりの満員つづき。三年振に江戸へ帰って来た時には、源二郎のふところには大枚の小判が唸っていた。

六、歎きの黒ン坊

「親方。お約束ですから、あっしゃ、もうこれでこの職業から、足を洗わして頂きやすぜ」
 堅気の職につきたいという源二郎の希望を、上州屋も快く了解してくれた。
 源二郎は、名も菊造と改めて、麹町の表通りに林屋という小鳥屋を開店した。
 その頃、林屋の近所の裏町に、貧しい浪人者の父娘が住んでいた。娘のお静は、気立の優しい孝行者で、中風に罹って寝たっきりの、父親の面倒を見ながら、なりふりかまわず働いていた。菊造は、お静のその健気さに心を惹かれた。そのうちに、どちらからともなく、男女の魂は歩み寄って、間もなく、お静は、林屋の御新造に収まることになった。

 娘の身の収まりに安心して、浪人は安らかに息を引取った。夫婦の間には、お菊が生れた。そうして、林家一家の団欒は、いよいよまどらかであった。
 しかし、商売の方は、そんなに順調には行かなかった。女房のお静には、余計な心配を掛けたくないので、ひた隠しに隠してはいるが、店の会計は、可なり逼迫している。ことに、先月、店でも一番値の張っているひよどりに死なれてから、菊造は、その損失の埋合せに苦慮していた。
 すると、或る日、菊造は、向島の得意先に鶉の籠を届けに行ったかえりみちで、上州屋常七にばったりと出遇った。いい所であったというので、二人は最寄の小料理屋に上った。話のうちに、菊造は、商売の不振をかこった。すると、常七が、急に眼をかがやかして、膝を乗り出して来た。
「そういうことなら、どうだ。もう一度だけは、おれの片棒担がないか。なあに、永いこととは言わねえ。三月――きっちり三月と約束しよう。すれば、十両や十五両、必ず土産に持たして上げる。じつを言うと、おれもここんところ、見世物の材料がなくって、すっかり音を上げているところなんだ。一つだけいい思案を持っているが、こいつあ、お前にでも手伝ってもらわない限り、どうにもならねえんだ」
「いや、親方。折角ですが、それだけは勘弁しておくんなさい。あっしにも、今じゃ、可愛いい女房子があるんだ。あっしの素姓が知れでもした日には、女房や子供が可哀想ですからね」
「なあに、知れる気づかいがあるもんか。おれだって、お前だって、そんなへまな男じゃねえ筈だ。うんと言ってくんねえ。あの時、お前の急場を救ってやったのはおれじゃねえか。すれば、今、こうしてうらぶれているおれを、もう一度、男にしてくれてもいいだろう」
 上州屋の眼付には、もう、脅迫的な色さえにじんでいた。いやといえば、昔の素姓を世間にぶちまけもかねない顔色だった。そんなことにでもなったら、自分の身の破滅はとにかく、罪もない女房子にとんだ憂目を見せなければならない。
「じゃ、きっちり三月と約束して下さいますね」
 菊造は、夫婦親子の情故に、脆くも上州屋の前に兜を脱いだ。
 菊造は、天竺渡りの黒ン坊に化けて、両国の小屋に出ることになった。
 体中を黒く染める塗料は、長崎にいる上州屋の兄弟分が和蘭船から買い取ったものであった。何か、浸透力の強い油みたいなもので練ってあるので、それを塗ると、濡雑巾でこすったくらいではびくともしないのだ。
 それでも、用心に越したことはないので、菊造は、南本所出村町の上州屋の二階に寝泊りして、そこから、両国の小屋に通うことにした。見世物小屋では、槍を持って、出鱈目の歌を唄い、出鱈目の踊を踊った。
 あの朝。
 菊造は、顔だけ塗りかえるつもりで、特殊の蘭薬を布につけて顔の塗料を拭き取った。そして、何心なく、窓から首を出した時、彼は、法恩寺橋を渡りかけている女房のお静と、ばったり顔を見合せてしまったのである。
「こりゃあいけねえ、と、あっしは思いました。女房には上方に行って来るとだましてあるのですから、怪しんで様子を見に来るにちがいない。あっしは、大急ぎで、あっしの証拠になるような衣類を一まとめにして、床の間の布袋の置物をおもしにくるんで、窓から入江の中に投げ込みました。その時、あんまり遽てたので、窓敷居に出っぱっていた釘の頭に指を引っかけて、傷をしてしまいました。それから、大急ぎで、顔料を塗って、さあ来いとばかりに待ち構えていたのですが、どうやら、上州屋が、玄関先からお静を追い返してくれたらしいのです」
 菊造は、肩で大きく溜息を落して、
「でも、やれやれと思っているうちに、今度は旦那の御入来でしょう。もうお仕舞だと思いましたよ。殊に、床の間に、取捨てたつもりの印籠が残っているのを、お静に拾われた時にはぎょっとしました。ところが、女房の眼の前で化の皮を引んむかれると思ったのが、人殺しの下手人にされたのには驚きました。そんなことは、まるで想像もしてはいなかったんですからね」
「じゃ、早く打ち明ければよかったじゃないか。お前、危いところ獄門台に首が乗っかるところだったんだぜ」
 と、茂平次が言った。
「で、でも、旦那! この、惨めな素姓をあばかれて、女房子供に憂目を見せるくらいなら、いっそ、あっしは、そうなることを望んでいたんです」
 菊造の黒い頬を、一筋の涙が流れ落ちた。
「なに、そんなことなら、心配しなくってもいい。お上にもお慈悲はあるんだ。お前の素性をあばいて、女房子供に憂目を見せるような、そんな、むごい手当はなさりはすまい。黒ン坊のまま放免されたら、こっそり元の菊造にかえって、何喰わぬ顔して、家へ帰って行くんだな。女なんて甘いから、法恩寺橋の袂から見た、二階の顔は、きっと、狐か河獺の悪戯だったと、思い直すに違いないよ」
「有難うございます。有難うございます」
 と菊造は、黒い涙を滝のように流しながら、むせび泣いた。

「歎きの黒ン坊」あらすじ

両国の見世物小屋で大人気の「天竺渡りの黒ン坊」。その頃、小鳥屋の女房・お静が、上方へ旅立ったはずの夫・菊造を、黒ン坊の住まいである香具師・上州屋の家の二階で目撃したと訴え出る。同心の浜中茂平次が駆けつけると、二階の窓には血痕があり、川からは菊造の着衣が見つかる。茂平次は上州屋と黒ン坊を菊造殺しの容疑で捕らえるが、両名とも黙秘を続け、捜査は難航する。

事件に行き詰まった茂平次は、七之助に助けを求める。七之助は、菊造の妻お静から話を聞き、彼が子煩悩な優しい夫であったことを知る。そして、牢にいる黒ン坊と対面した七之助は、彼が天竺人ではなく、日本人であると見破る。

観念した黒ン坊は全てを白状する。彼の正体は、行方不明のはずの小鳥屋・菊造本人だった。元役者の菊造は、過去に上州屋に弱みを握られ、見世物に出ていた。堅気になった後も、店の経営難から再び上州屋に頼まれ、家族に嘘をついて黒ン坊に扮していたのだ。

妻のお静に顔を見られた菊造は、慌てて証拠となる着物を川に捨て、その際に指を怪我した。それが殺人事件の誤解を招いたのだった。家族に過去を知られるくらいならと死をも覚悟した菊造だったが、七之助の温情ある計らいにより、お咎めなしで家族の元へ帰ることができたのだった。

主な登場人物

花川戸の七之助(はなかわどのしちのすけ)

本作の主人公。行き詰まった殺人事件の謎を、鋭い観察眼と人情味あふれる推理で解き明かす。

小鳥屋の菊造(ことりやのきくぞう)

麹町で小鳥屋を営む実直な男。元は源二郎という役者で、家族のために過去を隠している。黒ン坊の正体。

お静(おしず)

菊造の貞淑な妻。行方不明になった夫を案じ、事件解決のきっかけを作る。

上州屋常七(じょうしゅうや つねしち)

見世物小屋を営む香具師の親方。菊造の弱みを握り、彼を黒ン坊に仕立てて一儲けを企む。

浜中茂平次(はまなか もへいじ)

八丁堀の廻り方同心。菊造殺害事件として捜査を進めるが、真相にたどり着けず七之助に助けを求める。

Q&Aコーナー

Q. なぜ菊造は、自分が生きていると名乗り出なかったのですか?

A. 彼は、自分が元役者で、過去に見世物に出ていたという素性を、愛する妻や子供に知られたくなかったからです。殺人犯の濡れ衣を着せられても、家族に惨めな過去を明かして悲しませるよりは、いっそ死罪になった方がましだと考えていました。彼の「歎き」は、家族を思うがゆえの苦悩だったのです。

Q. 七之助は、どのようにして黒ン坊の正体を見破ったのですか?

A. いくつかの状況証拠から推理を組み立てました。まず、上州屋が黒ン坊の来歴をすらすらと語りすぎたことに不自然さを感じました。次に、菊造の妻お静から、彼が非常に子煩悩であったことを聞き出し、そんな男が家族に黙って失踪したり、殺されたりするとは考えにくいと判断しました。最終的に、黒ン坊が偽物であると確信し、特殊な塗料を落とす薬(と見せかけたもの)で揺さぶりをかけ、自白を引き出しました。

Q. 結局、殺人事件は起きていなかったのですか?

A. はい、この物語では殺人事件は起きていません。窓の血痕は、菊造が妻の姿を見て慌てて着物を川に捨てる際、窓の釘で指を怪我した時のものでした。全ての状況が偶然重なり、あたかも殺人事件が起きたかのように見えてしまった、という顛末でした。