七之助捕物帳

さかさ天一坊

著:納言恭平

江戸の闇を切り裂く、名探偵の推理

「七之助捕物帳」は、捕物帳の名手、納言恭平(なごん きょうへい)による傑作時代小説シリーズです。 江戸は花川戸の御用聞(ごようきき)・七之助が、子分の音吉と共に、江戸八百八町で巻き起こる難事件に挑みます。

鮮やかな推理と、江戸の町に生きる人々の人情が織りなす物語は、今なお多くの読者を魅了し続けています。 このページでは、シリーズの一編「さかさ天一坊」をお届けします。

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さかさ天一坊

一、小名木川

 満月の小名木川べりを、威勢よくとばしていた辻駕籠の先棒の息がぴたと止って、
「おや?」
「どうしたんだ、相棒。困るじゃねえか、急に立止ったりしちゃ」
「すまねえ、すまねえ。だが、あれを見ねえ。身投げだぜ」
「あっ、そうだ」
「こうしちゃいられねぇ」
 どすんと駕籠尻を地べたに叩きつけて、
「旦那、ちょっくら御免なせえ」
 駕籠舁二人、もう、かかとを蹴って飛び出している。
「あいたたた」
 駕籠の客は思いきり、突き上げられた尻を撫でながら、駕籠の外におり立った。十五夜の月の光を、まともに受けたその顔は、意外や、花川戸の御用聞七之助。
「いいあんばいに間に合ったと見える」
 半町ばかり前方の川べりに、からまり合って動いている人影をすかし見ながら、七之助はほっとしたように呟いた。
 しかし、女の声が、なにかしきりに嘆いている。持てあましたような男の叱声も聞える。おきまり通り、見逃してくれ、死なせてくれと駄々をこねているのであろう。
「わけをきいて、事と次第によっちゃ、一肌脱がずばなるめえ」
 七之助は、裾を払って歩き出した。するとその時、駕籠舁の声が、
「旦那、お急ぎの途中を、御迷惑を掛けてすんませんが、この娘さんを、送り届けてめえりやすから、ちょっくら待ってておくんなさい」
「そうか。いいとも」
 七之助は、そう言うより他はなかった。
 今夜、七之助は、亀戸村の寮に老後を楽しんでいる、駿河屋の隠居から、月見の招待を受けていた。駿河屋は瀬戸物町の瀬戸物問屋で、先代の又五郎の時代からの出入先である。暮六ツまでには顔を見せるようにという案内であったが、のっぴきならぬ途中の用足しが意外に長びいて、一刻あまりも遅れてしまった。で、よんどころなく辻駕籠を拾ってとばせている矢先、又ぞろ、こんな面倒な事件にぶっつかってしまったのだ。
「どうせ遅れついでだ。仕方がねぇ」
 度胸を決めて呟いたが、その時、どう話がついたのか、おとなしく二人の駕籠舁に連れ去られて行く、まだ年若らしい女の姿を、月光の下に見ると、急に職業意識に動かされて、彼は、突きとばされたように足を早めていた。
 身投女の家は、そこから程近い広済寺(こうさいじ)の門前にあった。ひそかに後をつけた七之助が、物蔭に潜んで様子をうかがっているとも露知らぬ先棒の駕籠舁が、
「御免なせえ、御免なせえ」
 小ぢんまりした仕舞屋の格子戸を、ホトホトと叩いている。
「はい、誰方(どなた)?」
 と、女の声が聞える。
「娘さんを連れてめえりやした。無分別なことをしようとしていなさるところを、折よく通り合せたんです」
 なにかあわてた女の声が、家の中から聞えて、がらがらと格子が開いた。と、間一髪、駕籠舁は、身投娘の体を、突きとばすように格子の内に押し込んで、
「じゃ、たしかにお渡し申しやしたぜ」
 あわただしく呼び掛ける女の声には耳も籍さず、足早に背中を向けた。その時、逃場を失った七之助は、仕方なしに物蔭から顔を見せたが、
「あっ、旦那も来てなすったんですかい?」
 そう言った先棒の表情を、ただごとでないと、七之助は睨んだ。

二、大名の使者

「親分、へんちきりんな話を聞き込んで来やしたぜ」
 十五夜の晩から五日目の夕方のことだ。音吉が、呆れたような、頓狂面を、七之助の室(へや)に持って行った。
「へんちきりんな話って、なんだ?」
 庭先の、萩の茂みの中で虫が啼いている。その声に耳を傾けていた七之助が、振返って訊ね返した。
「それが親分、さかさ天一坊なんで」
「さかさ天一坊?」
「へえ。世間にゃ、こけな野郎がいやがるじゃござんせんか。お前さんは大名の落胤(らくいん)だなんてかつがれて、うっかり真に受けて、とんだ莫迦を見やがった野郎がいやがるんですから」
「なんだ、そんなことか。どうせ、脳味噌の足りねぇ野郎が、仲間の奴等にでもかつがれやがったんだろう。そんな悪戯なら、ありそうなことだ」
「ところが親分、脳味噌が足りねえどころか、その野郎てえなあ、金持の後家を欺したり、女師匠を食いものにしたりして、世の中を渡っていやがる、どうしてどうして、一筋縄ではいかねえ浪人者なんですぜ」
「ほ、ほう。てえと、そいつよりも一枚上手の役者にひっかかったってえわけか。面白そうだ。話して見ねえ」
「あっしも、詳しい経緯は知らねえけれど、なんでも、草履取まで連れた、立派な侍が訪ねて来て、今に、お屋敷から正式の迎えの使者を寄越すからなんて、慇懃に口上を述べて引上げて行ったんだそうですから、悪戯にしては、念が入りすぎてるじゃござんせんか」
「で、それっきり、お屋敷の方からはなんとも言って来ねえのか」
「へえ。梨のつぶてでさ。一月の余も、莫迦な顔をして待ち呆けを食わされた挙句、やっと気がついて調べて見ると、とんだ悪ふざけだってえことが分ったんでさ。でも、そんな貧乏人をかついで見たところで、一文の得にもならねえのに、なんでそんな念入りな芝居を打ちやがったか、てんでわけのわからねえ話じゃござんせんか」
「音吉」
「へえ」
「その浪人者の素姓は分っているか」
「住居と名前くれえなら、耳の穴に詰め込んでめえりやした」
「そうか。それだけ分ってりゃあ、結構だろう」
「深川森下町で、早川軍記といやあ、あの界隈の女っ子で、知らねえ者あねえってえ二枚目だそうで」
「よし。コブ吉哥兄さん、支度だ、支度だ!」
 何と思ったのか、七之助は、足元から鳥が飛立つように、はしゃぎ出した。

三、かつがれた浪人

 物の小半刻、町内の自身番や荒物屋の店先などで予備知識を身につけてから、目的の、早川軍記の長屋を叩いた。
「誰だ? 何の用だ?」
 姿は見せず、やけっぱちな、荒々しい声だけが、奥で怒鳴った。
「一寸、お開けなすって下せえ。途中で、立派なお侍さんから、言伝を頼まれて参りやした」
「なにい、立派な侍?」
 覿面であった。憤然とした声が響いて、すぐ、荒々しい足音が近づいて来て、がらがらっと、格子戸が恐しい音を立てた。
「言伝はなんだ?」
 いきり立った見幕だった。花車(きゃしゃ)な撫肩が、荒々しく息づいている。
「あなたが、早川さんですね」
「そうだ。早川軍記はおれだが」
「じつあ、あっしは町方の者で」
 七之助は、懐中に十手の柄を握り締めながら、きらり、上眼使いに相手の眼を押し返した。
「なにい、御用聞?そんな人間に用のある早川軍記ではない。帰れ帰れ」
 泡を食って、格子戸に手を掛けたが、その手を払って、七之助は敷居を跨いでしまった。
「乱、乱暴な。武、武士に向って、狼藉を働らくと赦さんぞ」
 口程にもなく、怯えた眼つきをして、軍記は、一足後退った。
「失礼の段は御免下せえ」
 七之助は、丁寧に小腰を屈めて、
「決して御迷惑はお掛けしませんから、例の悪戯の一件をくわしくお話し下せえまし」
「悪戯というと、おれが天一坊に成り損ねた一件か?」
「へえ」
「あれを嗅ぎつけたのか。困ったなあ」
「公の沙汰になったら、面倒な事件になりやすぜ。何しろ、相手は大名の名前をかたっているんですからな。そうなったら、あなたの身の上にだってどんな迷惑が掛るか知れやせんぜ」
「上れ!」
 襲いかかる恐怖の翳を振りはらうように、軍記は、上ずった声で叫んだ。
 やがて、通された室の、行燈を挟んで、二人は坐った。はじめて、つくづくと見る軍記の顔は、成程、役者のようにきれいだった。女のような色白な半顔に枕の痕が赤くついている。
 ささやかな長屋住居とはいえ、調度はよく整っている。朱塗の小机の上には、洒落た鏡匣(かがみばこ)が硯箱と並んでいる。壁にかかっている二挺の三味線は、七之助に苦笑を催させた。世間の噂通り、軟派の不良なのかも知れない。
「あっしゃ、あなたにお目にかかって、いよいよ不思議でならないんですがね。どうして、そんな、莫迦げた悪戯に、うかうかとお乗んなすったか」
 七之助は、用心深くそろそろと探りを入れはじめた。軍記の顔は、泣き笑いみたいに大きく歪んだが、
「それかと言って、伊達や酔興で、あんな大袈裟な悪戯をもくろむ奴があろうとは思えないじゃないか。久保寺鍋之助と名乗る侍は、物腰応対、そ、そりゃあ、立派な貫禄を身につけている侍だった。おれには、今だってあの男が、にせ侍だとは思えないくらいだ。その上乗物は立派だし、草履取は連れているし」
「その侍は、どういう口上を並べたんです?」
「俺のことを、信州飯田一万五千石、堀さまの落胤(おとしだね)だというんだ。おれの母親が、堀さまの奥勤めに上っていた頃、殿さまのお手がついて生れたのが俺だというんだ。おれの母親は、身重のまま、殿さまのお声がかりで家中の侍と結婚した。そうやって人知れず、自分の落胤を処分しようという殿さまの魂胆だった。そのうちにおれの養父(ちち)は、或事情から主家(しゅか)を浪人することになって、おれたち母子を連れて江戸に出て来た。ところが、主家では、どうしたわけか大切なお世嗣(よつぎ)が次々とお亡くなりなされた。殿さまはもう御老体だし、新しくお世嗣の生れる望みもない。そこで、おれの体が入用になったんだ。父子(おやこ)の血というものは争われません。お顔かたちはおろか、お声まで、殿さまに生き写しでございます。と、その時は、まことしやかに、涙まで流しながらそう言うんだ。そして、今度、正式の迎いを差上げるまでに、支度をして待っていてくれといって、大枚十五両の金子まで置いて行った」
「しかし、あなたは、御自分の素姓を御存じないんですか?」
 七之助は、一本、急所に打込んだ。軍記の顔にかすかに、狼狽の色が流れたが、しかし、すぐに度胸を決めたように、
「さればじゃ。おれの母親も、たしかに、若い頃、飯田侯の奥勤に上っていたことがある。父は、飯田侯の緑を喰んでいたが、或事情のために浪人をしたいきさつも、その侍の口上通りなんだ。悪い話ではないし、誰だって、本気にすると思うな、こんな場合」
「どっかでおしゃべりをしやしたね。おれはこう見えても大名の落胤だなんて」
「むむ、そ、そりゃあ言ったかも知れん。酒の上かなんかで」
「で、久保寺鍋之助という侍は、それっきり姿を見せないんですかい」
「そうだ。しかし、使奴(つかいやっこ)が二三度手紙を持って来た。もうすこし待て、もうすこし待てという口上なんだ。ところが、そのうちに、その使奴もばったり来なくなった。それでもまだ、担がれたと気がつかないんだ。どうしたんだろう、久保寺の屋敷だけでも聞いておくんだったと焦々しながら待ちこがれていると、或日、友達がやって来て、貴公は担がれたんだというんだ。あんまり話がうますぎると思ったので、ひそかに調べて見ると、飯田の殿さまには、後嗣がないどころか、有りあまっていて始末に困るくらいだというんだ」
「成程ね。で、あなたには、久保寺という侍が、あなたを担いだ理由が、いまだに解っていないんですかい」
「解らないな。これまでに、聞いたこともない侍なんだもの。担がれたとわかってから、随分駈けずりまわって見たけれども、どこの何者だか、杳として消息が知れない」
 と、軍記は溜息を洩らした。
「手懸りは、何もありやせんか」
「ない。しかし・・・・・・」
「え?」
「おれのところへ手紙を持って来た使奴だ。後で考えて見ると、久保寺鍋之助の共をして来た陸尺の中に、たしかにそいつがいたと思うんだ。眉の濃い、眼の大きな、きりっとしたいい男なんだ」
「眉の濃い、眼の大きな、きりっとしたいい男。……はてな?」
 と、七之助は小首を捻った。
 十五夜の晩、小名木川べりで身投女を助けた先棒の顔を、ふと思い出したのだ。
「何か?」
 軍記が、七之助の顔を覗き込んだ。
「いや、なに」
 と、言葉をにごして、
「音、今夜あ、お前の出る幕がなくって気の毒だったが、そろそろおいとまてえことにしようじゃねえか」
 七之助は、敷居際にしびれを切らしている音吉に、はじめて顔を向けた。

四、仕舞屋の女

 二十日の月はまだ上っていなかった。
 叢(くさむら)にしだく虫の声を分けながら、小名木川べりを引上げて行く、七之助と音吉。
「親分。野郎、案外もろく、音を上げやしたね」
「うむ。だが、野郎、白ばっくれていることもあるな、たしかに」
「そうでげしょうか」
「そうだと、おれは睨んでいる」
「じゃ、もっと締め上げて、洗いざらい吐かしてやった方がよかったんじゃ、ござんせんか」
「なに、あんまり締め上げたら、かえって元も子も無くしてしまうかも知れん。それよりも、いい加減のところで切上げて、しばらく、野郎の素振を見張っていようと思うんだ。手懸りといやあ、それっきりだからな。音。明日から、忙しくなるかも知れんぜ」
「しめ、しめ。そう来なくっちゃいけねえ」
 と、音吉は、素頓狂な声を上げた。

 翌日。二人は、森下町の、早川軍記の長屋の付近に、終日、根気よく張り込んでいた。すると、その日も暮れて早五ツ(午後八時)ともおぼしき頃、軍記は、宗十郎頭巾に面体を包んで、そっと、長屋の露地を立ち出でた。
 五間堀に突き当って、伊予橋を渡り、物淋しい屋敷町を、真直にどこまでも歩いて行く。菊川橋を渡ると、やがて、屋敷町が切れて、行手の田圃の中に御材木蔵の屋根が黒々と並んでいた。軍記は、その御材木蔵の裏手を右に折れた。
「おや?」
 暗がりの中に、急に瞳が輝いて、七之助は口の中でそう呟いたのである。すぐそこの、広済寺の門前に、十五夜の晩の、身投女の家があるのだ。果してそうであった。軍記は、ホトホトと、忍ぶように、その女の家の表格子を叩きはじめた。
 格子が開いて、女の白い顔がのぞいた。相手の顔を見定めると、女は又、あわてて格子を閉めかけたが、それより早く、軍記が片肩を格子の間に挟んでいた。
「まあ、ずうずうしい」
 諦めたような女の声が聞えて、仕方がないように、格子は、浪人者の撫肩の背後に閉った。
 足音を盗んで忍び寄ると、早くも、奥の方では、いさかいの声が起っている。言葉は勿論聞きとれないのだ。
 七之助は、音吉をそこに残して、木戸を乗り越えた。狭い庭があって、縁側の障子は、その庭に向って開け放たれている。その座敷のうちに、軍記は一人の女と向い合って、頭を頂垂(うなだ)れていた。女は五十年輩の利かぬ気の性質と見えて、何事か、はげしい権幕でまくし立てているのだ。
 見つかっては拙い。
 七之助は、犬のように地を這った。灯影を避けて、壁づたいに、縁側近くにじり寄って行く。やがて、女の言葉の意味が、はっきりと聞きとれるところまで辿りつくと、呼吸(いき)を殺しながら、その、場に蹲った。
「……そりゃ、娘の婿にと、一度は約束も致しました。しかし、その約束を破ったのはあなたではございませんか。それを、今更になって、もう一度よりを戻してくれなんて言われても、そんな勝手な相談に乗るわけには参りません」
 いきり立った女の声はつづいて、
「お半は、あなたの心がわりに逆上して、十五夜の晩に、小名木川に身を投げようとしたんですよ。丁度、親切な人が通り合せて下さったので、危く助けられて連れ戻されたんですけれど、それでなければ、今頃、どうなっていたか分りませんよ」
「すまない、おとくどの」
 と、男の哀れっぽい声が言った。
「何しろ、一万五千石という大名の餌がぶら下って来たものだから、おれにも一寸魔がさしたんだ。おれは後悔しているんだ。たかが田舎大名の株くらいに迷った自分を、情ねえと思ってるんだ。おとくどの。お半はおれの命なんだ。頼む。男一匹の命を助けると思って、今度のことは水に流してやってくれ」
「何をいうんです。お半はおれの命だなんて、きざな台詞を言ったって、もうその口にゃ欺されませんよ。今度のことがあってから、あたしは方々駆けずりまわって、あなたの素姓をはじめて知って怖気をふるってるんです。浪人はしているけれど、親ののこした小金があるから暮しには困らないなんて、まことしやかな嘘っ八を、女の浅はかさでほんにそうかと信じていたら、なんのこと、あっちこっちの男好きを漁りまわって、金を搾っていたんじゃありませんか」
「これこれ、おとくどの……」
「いいえ、言います。言うだけのことを言ってしまわなければ、この胸の疼(つか)えが下りません。いくら舌には税金がかからないと言っても、お半はおれの命だなんて、ちゃんちゃら可笑しいや。あなたが覘っているのは、あたしたち母娘が、虎の子のように大切にしている、なけなしのお鳥目じゃありませんか」
 その時、家の中のどこかで、わっという若い女の泣声が聞えた。

五、美男駕籠舁

 取りつく島もなく、女の家(うち)から追い出された早川軍記は、女みたいな撫肩を一人悄然と落しながら、トボトボと歩いて行く。月が東の空に上ろうとして、空も地も、仄明るかった。御材木蔵の裏手の三辻のところで、突然軍記は何か叫んだ。
「おや?」
 気がつくと、いつの間にどこから現われたのか、軍記が、一人の男を相手に格闘をはじめている。何か罵り合いながら、組んずほぐれつしているうちに片っ方が組み敷かれた。組み敷いた方の男は、相手の胸を膝で押えて、ポカポカと顔をなぐっている。
「止めろっ?」
 駆けつけながら、七之助はど鳴った。
「あっ!」
 組み敷いている男は、泡を食って、相手の胸の上から飛び離れようとしたが、組み敷かれている奴に、足を掬われて引っくり返った。
「逃げるな」
 すかさず飛びかかった七之助に、利腕を捩じ上げられて、その男はそのままそこにへたばってしまった。
「顔を見てやる。音、提灯をつけろ」
「へい」
 燧石の青い火花が散って、提灯に灯がはいった。
「あっ、お前たちは……」
 組み敷かれて擲られていたのが早川軍記だった。血だらけの顔の中から、彼は、提灯の光に浮び上った七之助と音吉の顔を発見したのだ。
「ハハハハ・・・・。やっと分りやしたね。誰でもねえ、あっしゃ、昨夜お目にかかった花川戸の御用聞でさ」
「ううむ」
 と、唸りかけたが、
「あっ!貴、貴さまは――」
 軍記は、飛び上るように、二度目の驚愕の叫びを上げたのだ。だがそれと同時に、
「おう!」
 七之助も唸っていた。眉の濃い、眼の大きな、きりっとしたいい男。十五夜の晩、身投女を助けた駕籠舁にちがいなかった。
「こいつだ、こいつだ。おれのところに二度も手紙を持って来た、侍の使奴はこの男だ!」
 早川軍記は、唾をとばして、わめきはじめた。

六、不思議な侍

 最寄の自身番に連れ込まれたが、いい男ぶりの駕籠舁が、
「親分、その野郎を追っ払っておくんなさい。あっしゃ、そいつのいやがるところでは、何を訊かれたって、金輪際口を開きゃしませんぜ」
 言い出したからには、梃でも動かない眼の色だった。
 七之助は、家に帰って傷の手当でもしたがよかろうと、早川軍記をていよく追い帰してから、
「いったい、なんだってあんな込み入った芝居を打ったんだ。あの一件の張本人はおめえなんだろう?」
「あっし見たいな駕籠舁風情には、あんな気の利いた智恵は浮びませんや」
「じゃ、久保寺鍋之助とかいうお侍がそうなんだな」
「なんだ。親分は、あのお侍の名前まで知っているんですかい?」
 と、駕籠舁はおどろいて、
「そうなんでさ。久保寺さんの智恵でさ。世間にゃ、物好きな人間もあったもんじゃござんせんか。見ず知らずの他人のために、十五両てえ大枚な身銭まで切って、あんな込み入った狂言をかいてくれる人があるんでげすからね」
「よく分らないな。見ず知らずの他人たあどういう意味だ?」
 駕籠舁は、説明の継穂でもさがすように、当惑した顔つきをして、押し黙ったが、やがて、口を開くと、
「親分! あっしゃ、もうこうなったからにゃ、何一つ隠し立てするつもりはねえ。何もかもざっくばらんに申上げて、お上のお審(さば)きを受けてえと思ってるんで」
 辰吉というのが、その駕籠舁の名前だった。
 もとからの駕籠舁ではない。四谷大木戸の近くで、小金を貯めているという評判の、書画屋の枠に生れたのだが、十七八から悪所通いの味をおぼえて、はたちの頃には、もう立派な道楽者になっていた。彼は店の品物を持ち出しては遊びの金を工面した。
 二十二の春に、前から関係のあった、年上の娘義太夫にそそのかされ、店の金を持出して大阪に駈落をした。持出した金がなくなると、女は、辰吉をすててほかの男に奔った。道楽以外になんの取柄もない辰吉は、路頭に迷った。彼は転落する石のように、急速度に、社会の下積へと落ちて行った。しかし、転落の底をついた時、彼はそこに、生活の途を拾った。持って生れた健康な骨組と、やくざな性格とは、駕籠舁商売には持って来いであった。
 そして、六年の歳月が流れ去った。
 彼は江戸の空が恋しくなった。両親の頭にはもうめっきりと霜がふえたであろう。妹のお半も十七になっている筈だ。とても家の敷居は跨がれないが、遠くからでも一目会いたい。彼は、矢も楯もたまらなくなって、江戸の土地に舞い戻った。
 しかし、もうその時、大木戸の店は人手に渡っていた。三年前に父親が死ぬと、母のおとくは店を人手に譲って、妹のお半を連れて深川猿江町の仕舞屋に引移っていた。
「それとなく様子を探って見ますと、ささやかな住居ながら、先ず、何不自由なく暮しているらしいんです。あっしゃほっと安心しやした。が、その安心も束の間のことでした。或日、妹のお半が、早川軍記という悪浪人の餌食になりかけているてえ噂を、あっしの相棒の熊てえ野郎が聞き込んで来やがったんです」
「十五夜の晩の、お前の相棒なんだな」
 と、七之助は念を押した。
「へえ、そうなんで。とても気の合う相棒なんで、江戸に舞い戻ってからこっち、ずっと引っつるんでるんでさ。で、熊にだけあっしの素姓を打明けときやしたのが役に立ったってわけなんです。……手を分けて様子を探って見ると、噂は矢張り嘘じゃござんせん。お半と浪人者とは、菊川町の清元の女師匠の家で知合になりやがったんで、今じゃもうお母(ふくろ)までも丸めこみにかかっていやがるんです。女てえもなあ、一度迷い込んだが最後、なまなかのことで眼の覚める代物じゃありません。今となっちゃ、男の素姓を発いて見せたところで、何の効目があるか覚束ねえとあっしゃ考えたんでさ。あっしゃ、途方に暮れやした。で、横網町の水月てえ小料理屋でいっぺえやりながらどうしたもんだろうって、熊の野郎に相談を持ち掛けて見たんでげす」
 辰吉は、湯呑の番茶に一口喉をうるおして、
「どうせ、あっし共の脳味噌でさ。熊にも差当っていい智恵は浮びやせん。するてえと、その時、隣の衝立の蔭で、一人で飲んでいたお侍が、さっきからあっしたちの話に耳を傾けていたと見えて、突然に、こうそちらの哥兄さん方、おれがいい智恵を借して上げようじゃねえか、なんて、侍らしくもねえ伝法な口調で呼びかけるじゃござんせんか。その早川軍記という浪人者なら、おれも以前に一度名前をきいたことがある。おれの知っている女で、そいつの口車に乗って身の皮までも剥がれた莫迦な奴がいる。なんでも、自分のことを、飯田の殿さまの落胤だなんて言いふらしていたそうだがそいつに違いねえ。そのお侍はこういうんです。それから、膳立が出来上ったら迎いの使を寄越すから、毎日、この時刻にここの店に来ているように言い残して、自分の名札をくれて出て行きやした。その名札には、久保寺鍋之助と書いてありやしたんで」

七、狂言の筋書

 あの得体の知れない侍に一杯かつがれたのかも知れないと思いながらも、辰と熊とは、毎晩水月に出かけて行って、同じ衝立の蔭に陣取っていた。
 だが、三日目の晩になると、中間ていの若い男が、鍋之助の手紙を持って来た。膳立ができたから、明朝六ツ半、二人共揃って、本法寺の門前まで出向いてくれと書いてある。
「欺されたってもともとだね。行って見ようじゃねえか」
 辰と熊とは腹を決めて、翌朝のその時刻に、本法寺の門前に出かけて行くと、昨夜の中間体の若い男が、二人を待っていた。それから、その男に連れて行かれたのは、本法寺の裏手の畑の中にある、大きな屋敷の門前であった。門の脇に、久保寺鍋之助という、真新しい標札が懸っている。
 門を入ると、すでに庭先に、立派な乗物が用意してあって、これも、三日前の晩とは見違えるばかりに立派な服装をした鍋之助が、
「やあ、来たか」
 晴々とした笑顔を見せながら、二人を待っていた。
「じゃ早速支度をさせい」
 鍋之助が、中間ていに顎をしゃくると、中間ていは、どこからか大風呂敷を持ち出して来た。その中には、屋敷勤の陸尺(ろくしゃく)の服装一式が詰っていて、辰と熊とは有無を言わさず、立ちどころに、陸尺に化けさせられた。
 それから間もなく、物々しく、その乗物をかつぎ込んだのは、深川森下町の、早川軍記の長屋の路地であった。
 その晩、鍋之助は、横網町の水月で祝杯を上げながら、辰と熊とに狂言の筋書を説明した。
「辰、もう安心するがいいぜ。お前の妹はこれで助かったのだ」
 きっぱりと、自信をこめてそう言い切ると、鍋之助は、小判を一枚ちりんと二人の前に放り出して、煙のようにどこかへ出て行ってしまった。狐にでも、たぶらかされているような気持の二人は、その翌朝、念のために本法寺の裏手に様子を見に出かけて行ったが、昨日掛っていた屋敷の門標はいつの間にかはぎ取られていた。
「お前が、三度ばかり、早川軍記のところへ届けたという手紙はどうしたんだ?」
 と、七之助が訊ねた。
「あれですかい? ありゃあ、例の中間ていの若い男が、水月に持って来たんです。でも三度きりでしたよ。それっきり、久保寺さんは勿論のこと、その中間ていの男にも、一ぺんも会わないんです」
「そうか、それで大体分った。お前も、口ぶりから推して、どうやら嘘は吐いちゃいないらしい。しかし、最後に一つ。さっき、おめえ、どうしてあんなところをうろついていたんだ?」
 すると、辰は、追いまくられたような狼狽の色を見せたが、
「そ、そりゃ、矢張り、お母やお半のことが気になりやしてねえ。と、こないだの晩は、丁度、親分を送りながら通り合したからよかったものの、うっかり、お母の眼でも離れようものなら、お半の奴、又、なにを仕出来すかわからないじゃござんせんか」
 七之助は、辰吉の両眼にきらりと光るものを見た。
「親分!」
「なんだ」
「あっしゃ、親分におねげえがあるんだ。てえなあ、ほかでもねえ。あっしゃ、お母や妹に、駕籠舁に落魄れているあっしのことを知らしたく無えんだ」
「うむ、そうか。心得ておこう」
 と、七之助は言った。
「ええい、ちきしょう。ここにも一人、親不孝者がいるんでえ。殺生だぜ、あんまり泣かさないでくんな」
 隅の方で、音吉が音高く洟水をかんで、てれかくしに、大口を開けて笑いとばした。

八、怪盗閑日

 この頃、江戸の街には、攘夷を看板に振りかざした、押借強盗の群がばっこしていた。中でも、新徴組くずれの暴れ者共によって組織されていた黒頭巾組は、まことに天馬空を行くが如く、通魔のように江戸市中を荒らしまわっていた。
 黒頭巾組を束ねていたのは、青木弥太郎という二百石取の御家人であったが、彼は、水戸天狗党の残党で、武田耕雲斎の一族武田伊織と自称していた。よほど盗賊の才能に長けていた男と見えて、新徴組くずれの無頼漢共を、手足のように駆使していながら、なかなか容易にはつかまらなかった。
 彼が悪運尽きて御用になったのは、慶応元年閏五月二十七日であった。彼は無類の強情ッ張りで、伝馬町はじまって以来と言われる牢問に掛けられても、最後まで知らぬ存ぜぬの一点張で押し通した。
 しかし、一味の黒頭巾共は、みな、ぺらぺらと犯行を自白した。その中には、へちまの長八という小泥棒上りの黒頭巾もいた。この男の自白によって、青木弥太郎が、飯田候の偽使に化けて女たらしの不良浪人をからかったこともあるという、余興的な挿話が暴露された。
 その時の草履取は、へちまの長八だったのだ。

「さかさ天一坊」あらすじ

十五夜の晩、七之助は小名木川で若い娘・お半の身投げ騒動に遭遇する。彼女を助けたのは威勢のいい駕籠舁きの二人組だった。数日後、子分の音吉が「さかさ天一坊」の噂を仕入れてくる。女を誑かして暮らす色男の浪人・早川軍記が、「自分は大名の落胤だ」という偽の話にまんまと騙され、世間の笑いものになったというのだ。

奇妙な悪戯に興味を持った七之助が軍記を訪ねると、彼は「久保寺鍋之助と名乗る侍に騙された」と語る。唯一の手がかりは、侍の使いに来たという「眉の濃い、眼の大きな、きりっとしたいい男」。その特徴は、お半を助けた駕籠舁きの辰吉と一致していた。

七之助は軍記を尾行し、彼がお半の家に押しかける現場を押さえる。軍記は大名落胤の話を信じ込み、婚約者だったお半を捨てていたのだ。その帰り道、軍記は辰吉に襲われる。七之助が割って入り辰吉を捕らえると、彼は全てを白状する。

辰吉は実はお半の兄であり、家を勘当された身だった。妹が悪浪人の軍記に騙されていると知り、相棒のと途方に暮れていたところ、謎の侍・久保寺鍋之助に助けられ、今回の狂言を打ったという。妹を救うための芝居だったのだ。後日、江戸を騒がす盗賊団「黒頭巾組」が一網打尽にされ、その首領が久保寺鍋之助の正体だったことが判明するのだった。

主な登場人物

花川戸の七之助(はなかわどのしちのすけ)

本作の主人公。身投げ騒動と「さかさ天一坊」の噂、二つの出来事を結びつけ、事件の真相に迫る。

音吉(おときち)

七之助の子分。「さかさ天一坊」という奇妙な噂を仕入れてくる。

早川軍記(はやかわ ぐんき)

女を騙して暮らす二枚目の浪人。「大名の落胤」という偽の話を信じ込み、婚約者を捨てるが、結局は笑いものにされる。

辰吉(たつきち)

駕籠舁きの男。実は身投げを図ったお半の兄。妹を悪浪人から守るため、謎の侍と協力して一芝居打つ。

お半(おはん)

早川軍記の婚約者だったが、彼に捨てられたことを悲観して身投げを図る。

久保寺鍋之助(くぼでら なべのすけ)

謎の侍。辰吉に協力し、軍記を騙すための大掛かりな芝居を打つ。その正体は意外な人物だった。

Q&Aコーナー

Q. 「さかさ天一坊」とはどういう意味ですか?

A. 「天一坊事件」は、江戸時代に実際にあった有名な詐欺事件で、天一坊という山伏が「自分は将軍の落胤だ」と偽って人々を騙した話です。この物語の浪人・早川軍記は、天一坊とは逆に、他人から「お前は大名の落胤だ」と騙されてしまいます。このことから、本家とは立場が「さかさま」であるという意味で「さかさ天一坊」と呼ばれています。

Q. 謎の侍・久保寺鍋之助は、なぜ見ず知らずの辰吉に協力したのですか?

A. 物語の最後で、彼の正体が盗賊団「黒頭巾組」の首領・青木弥太郎であることが明かされます。彼が辰吉に協力した明確な理由は語られませんが、おそらくは義侠心や、女を弄ぶ早川軍記のような男への反感、そして何より大掛かりな悪戯を楽しむ一種の「粋」から来た行動だったと推測されます。盗賊の首領が、その素性を隠して人助けをするという皮肉が描かれています。

Q. この事件の結末はどうなったのですか?

A. 駕籠舁きの辰吉がお半の兄であることが判明し、彼が妹を救うために起こした狂言だったことが明らかになります。七之助は辰吉の親孝行ならぬ「妹孝行」に免じて、彼が家族に会えるよう取り計らいます。一方、事件の黒幕であった久保寺鍋之助(青木弥太郎)は、後日、彼の率いる盗賊団が一網打尽にされたことで、その正体が発覚しました。