獄門首異変
著:納言恭平
「七之助捕物帳」は、捕物帳の名手、納言恭平(なごん きょうへい)による傑作時代小説シリーズです。 江戸は花川戸の御用聞(ごようきき)・七之助が、子分の音吉と共に、江戸八百八町で巻き起こる難事件に挑みます。
鮮やかな推理と、江戸の町に生きる人々の人情が織りなす物語は、今なお多くの読者を魅了し続けています。 このページでは、シリーズの一編「獄門首異変」をお届けします。
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「朝のうちからこんなんじゃ、今日も暑くなるぞ」
やっと、夏草生い茂る荒地の角のところまで辿り着いた。小間物屋の彦八は、ほっと一息入れると、豆絞りの手拭を鷲づかみにして、額やくび筋の汗を、ごしごしとこすり取った。
そこらは、昼でも人通りの滅多にない、向島は寺島村もずっと辺鄙な方角で、ところどころの、田圃や荒地の中に、町家の妾宅や隠居所が、ポツリポツリと建っているばかり。そして、それらの寮にひっそりと住んでいる女たちが、彦八の大切なとくい先であった。今朝は、その一軒のとくい先に、註文の品物を届けに来たところなのだ。
その家は、今、彦八が一息入れた荒地の中程――生い茂る夏草の波に漂っているかのように見える一構が、そうなのである。――黒川小十郎という内証のゆたかそうな浪人者が、深川万年町の桂庵から雇い入れた、妾のお仙と二人きりで住っている。
「こんなところに引込んでいて、何が面白いんだろう」
まだ、顔を合せたことはないが、後姿だけは、ちらっと一度、見かけたことがある。いい体格だし、年輩だって三十をいくつも出ているようには見えなかった。――その時の、後姿の印象が頭に浮んで、ふとそう呟くと、
「そうだ。今朝の五ツ半(午前九時)までにはきっとお届けすると約束したのだから、お仙さんが首を長くしているに違いない」
註文の品物を待ちくたびれている、お仙の顔が眼先に散らついた。
胸のあたりまで、伸放題に伸びきっている夏草なので、門のところまで通じている小径は隠れて見えない。彦八は、片手でその邪魔になる夏草を掻き分けながら進んで行った。
ものの五六間も進んだ時だ。彦八は向うから歩いて来る、一人の若い女に気がついた。もちろん、お仙ではない。お仙などとは桁ちがいな、婀娜っぽい美人だ。 しかし、何か、一心に思い詰めているらしく、蒼ざめた顔に眼が血走っている。
「はてな?」
彦八は、女の様子に眼をつけながら、足をとめた。
「あ!」
女も、彦八に気がついたのだ。――眼と口が、一緒に叫んだ。
一瞬、どうしようと迷った様子であったが、すぐに決心がついたように、
「御免下さいませ」
「えっ!」
あわてて、彦八の傍を擦り抜けようとする。
が――この時、彦八の眼が女の胸に大切そうに抱き締めている、風呂敷包に向って光ったのである。――女の、彦八に行きあたっておどろいた様子といい、その風呂敷包といい……。
「お待ちなされ」
彦八は、女の袂を捕えた。
「えっ!」
女は、それを払ったのだ。
必死の力が感じられたのである。――いよいよ怪しいと睨んだので、自分の荷物をその場に放り出し、ばたばたと逃げ出す女の後に追いすがった。
夏草と着物の裾とに足を絡められて、体の自由が利かなかった。彦八の手は、すぐに、女の帯にかかって、ぐいと引戻したのである。
「ち、畜生っ!」
ぎりぎりと、歯ぎしりの音まで聞えて、振り向きざま、女の手が、彦八の顔を撲った。
「あっ!」
まともに、小鼻のあたりを叩かれて、くらくらと眼がくらんだが、彦八は盲滅法に武者振りついて、風呂敷包に手が掛った。
風呂敷包の奪い合いがはじまったのだ。汗みどろになって争ったが、ついに、男の力は、女の腕から、それを捥ぎ取ってしまった。なおも武者ぶりつこうとするのを、とんと突き放すと、夏草の茂みに仰向に倒れ込んで、媚めかしい裾を蹴出したが、また、すぐに起き上ると、
「ようく、お前の顔を覚えておくよ」
切長の眼にうらみをこめて、諦め悪そうに荒地の外に逃げ去って行く。
彦八は、呆気にとられながら、しばし、その後姿を見送っていたが、やがて、
「怪しい女だ。しかし、いい女だったな」
呟きながら、気がついて、そっと、風呂敷包の結び目を解いてみた。同時に、
「わあっ!」
と、叫びざま、へたへたと腰を抜かしてしまった。
風呂敷の中から、転がり出たのは、人間の生首だった。
彦八は、恐怖の眼を剥き出しながら、わなわなとおののいていたが、やがて、
「そうだ。こ、こりゃあ、いっときも早く、花川戸の親分にお知らせしなくっちゃ……」
「て、て、大変だ、大変だ!」
例によって、大袈裟な喚き声を立てながら飛び込んで来たのは、乾児の音吉。
「うるさい。ちっと静かにしねえか」
「こ、こ、これが、静かにできますかってんだ。生、生首でげすぜ、 生首でげすぜ」
成程、いつもの音吉とは多少様子がちがって、狂気染みた眼の色をしている。
「落ちつけ。 生首がどうしたってんだ?」
「小間物屋の彦八めが、生首をぶら下げてとび込んで来やがったんで」
「どこにいるんだ、小間物屋は?」
「玄関の隅にへたばっていやす」
「よし、今行く」
七之助が玄関に出て見ると、あんまり道を急いだせいであろう。成程、彦八は、玄関のたたきにへたばり込んで、両眼をつるし上げながら、
「水、水……コブ吉哥兄さん・・・・・・」
と情ない声を出していた。
小間物屋の彦八は、間もなく元気を回復した。花川戸の親分が乗り出したからには千人力だ、と思うものだから、彼は、すっかり気が大きくなって七之助の案内役に立った。
道々、彦八は、怪しい女の手から生首の風呂敷包みを奪いとった顛末を、自慢たらたらしゃべりつづけた。七之助は、相槌の方は音吉に任せて、ひとり黙々として足を運んだ。
やがて、現場に到着した三人。
あれからざっと一刻(二時間)くらいは経っていよう。もう、八ツ半(午前十一時)に近い時刻だったので、荒れ地の夏草はぐったりと萎え、息も止まりそうな草いきれだった。
「こ、こ、ここが、出会いの場所でさ」
夏草の小径を五六間入ったところ——成る程、烈しい争いの跡を物語るように、そこらの草が踏みしだかれている。
「ふうむ、ここか」
剃り立ての顎を撫でながら、七之助は、底光りのする眼を八方へ配ったが、なんと思ったのか、あっさりとその場所には諦めをつけたように、さっさと、黒川小十郎の門に向って、再び夏草を掻き分けはじめた。
そのまま、又、五六間進むと、
「おい、ここだ!」
七之助は、立止って、叫んだ。
「え、なんでげすかい?」
と、立止った七之助の腋の下から、前方をさしのぞいた音吉。忽ち、でんぐり返るような大声で、
「わあっ、ひ、人殺し……」
あたり一面に血しぶきを散らして、遊人風の、首のない屍体が、草の中に突っ俯している。
音吉と彦八が腰を抜かしている間に、七之助は、風呂敷の結目を解いて、その生首を、首のない胴にくっつけてみた。生首も、髷を遊人風に結って、一見、その屍体から斬り放されたものと知れた。
「見事に斬り放している。余っぽどの手利きらしい」
と呟いて、
「小間物屋――」
「へ、へい」
「お前、さっき、この家には浪人者が住んでいるとか言っていたな?」
「へへい。 黒川小十郎さまと仰言る、お武家さんでげして………」
「どんな素姓の浪人者か、聞いたことはないのかい?」
「一向に存じません。……この家は、幽霊屋敷なんぞという噂の立っていた家で、長らく空家になっていたのを、つい三月程前から、そのお武家さんが住みつかれたのでごぜえます。お妾のお仙さんも、桂庵の手から雇われて来た女で、矢張り、黒川さんの素姓についちゃ、なんにも知っちゃいないようです」
「そうか。……侍屋敷じゃ、いくら浪人者の住居でも、町の者が大きな面して踏み込むわけにも行くめえ。なんとか、主人に気づかれねえように、そのお仙という女だけ、こっそり呼び出してくる法はあるめえか」
「よろしゅうございます。あっしゃ、これから、注文の品物を、お仙さんに届けなくっちゃなりませんから、こっそり耳こすりをして、何とか連れ出して参りやしょう。……なに、ここの旦那さまは、いつも奥に引っ込んだきりで、殆んど人に姿を見せえねようなんですから、滅多に気付かれっこありゃしません」
彦八は、こう自信顔に言い残して、ざわざわと夏草を分けはじめた。
やがて、まだ素人気の失せない、二十一二の小柄の女を連れて戻って来た。
だいたいの話は、彦八の口から聞いて来たのであろう。お仙の顔は蒼ざめ、焦点を失った瞳が、おびえ切っている。
「お仙、この人間に見覚えがあるか?」
と、七之助が訊いた。
お仙は、彦八の肩の蔭から、そっとおびえた顔をのぞかせたが、
「あっ!」
と、いうと、がたがた歯の根を鳴らしながら、彦八の肩にかじりついた。
「知っているな。誰だ?」
「ゆ、昨夜、は、はじめて、旦那さまのところに、訪ねて来た人でございます」
「ほう、そうか。見覚えがあるんだな」
「取次に出ましたので、お客さんの風態も、その着物の柄もはっきりと覚えて居ります」
「この男は、黒川さんと、どんな関係の人間なんだ。どんな用事で訪ねて来たんだ。知っていたら話してくれ」
「分りません。 奥座敷で、半刻ばかり、何かぼそぼそと話し合っていなされた様子でしたが、やがて、お仙一寸出て来る、と言って、連れ立って、ちょっとお出掛けなされたのでございます」
「うむ、うむ……」
「いつもにないことですから、私は、不思議な気持がして、お二人さまを玄関口にお送り申上げました」
「いつもにないことというと、黒川さんは、滅多に外出をしたことがないというんだな」
「私が御奉公に参りましてから、後にも先にも、昨夜がはじめての外出でございました。そればかりではございません。旦那さまのところに、お客さまがお見えになるなんて、そんなことも、昨夜まで、ついぞなかったことでございます」
「そうか。で、黒川さんは、今朝、どうしている? なにか、いつもとかわった様子が、見えるだろう?」
すると、お仙のおびえた瞳が、一層大きく見開かれて、それきり、開いていた唇が田螺(たにし)のように固く閉されてしまった。
「どうしたんだ? 有体に申立てないと、お前の身のためにならねえぜ」
何か一役買いたくって、さっきからしびれを切していた音吉が、かたわらからそう口を尖らせて、銀磨きの十手を捻りまわして見せたので、
「も、申し上げます、申し上げます」
たわいなく泣声を出して、
「旦那さまは、それっきり、帰ってお見えにはならないのでございます」
「な、な、なんだって! 野郎、相手をバッサリとやって、ずらかりゃあがったな。……親分、こ、こりゃア、てっきり、後暗えものを、いっぺえ背負っている野郎でがすぜ」
事件の顛末を郡代屋敷に届けて、役人の検視を待ってから、七之助は、音吉を連れて、花川戸の家に帰って行った。
すると、留守の間に、八丁堀の与力成瀬陣左衛門の役宅から、迎えの使者が訪ねて来ていた。
成瀬陣左衛門は、七之助の先代又五郎を贔屓にしていた名与力。されば、昨今の七之助の活躍ぶりにも、わが事のように喜んで、なにかと激励を与えている人物なのだ。
「ほかならぬ、八丁堀の旦那のお召しとあって見れば、何か急用にちげえねえ。一ッ走り行って来るから、留守を頼むぜ」
七之助は、こう音吉に言いのこして、使いの者と一緒に八丁堀に急いだ。
「待ってたんだ。お前に一働きしてもらいたい事件が起ったんでな」
七之助を役宅の一間に通すと、陣左衛門は挨拶の言葉を受けるのももどかしそうに、すぐに用談に取掛った。
「実はのう。昨夜、まだ宵の口だというのに、鈴ヶ森の獄門台から、さらしたばかりの獄門首を奪い去った奴がある」
「えっ、昨夜……獄門首をですね?」
はてさて、生首に縁のある日だ。鈴ヶ森の獄門首と、向島の首切事件との間には、何かの繋がりがあるのではあるまいか。と、七之助の頭を、電光のように疑念が走ったのである。
「そうじゃ。 ……何者が、何のために奪い去ったか、調べてもらいたいのはそこのところなのじゃ。それについて、その罪人の素性を、一通り聞いてもらわなくっちゃならん。 ……もう四年前の話じゃが、松平讃岐守下屋敷の御金蔵を破って、千両箱を三つ盗み去った盗賊の一味がある」
「お前は、道楽三昧に憂身を窶していた時分のことだから、知らないかも知れないな。 その時、町方の者にもいいつけて、きびしい詮議の網を張ったのじゃが、ついに、怪盗の一味は一人も捕まらなかった」
ところが、つい三月程前のこと。
奉行所に、一通の耳よりな密告状が舞い込んで来た。 その時の御金蔵破りの怪盗の一味で、熊蜂の小兵衛という無頼漢が、芝神明境内の楊弓(ようきゅう)店、曙のお粂(くめ)の情人(いろ)になって潜伏しているという密告であった。
果して、それから二三日経って、小兵衛は、何も知らずに、曙に立巡って来たところを、網を張って待ちかまえていた、八丁堀同心柴田伊織の手で御用になった。
小兵衛の自白によって、松平讃岐守下屋敷の御金蔵破りは、閻魔の仁太郎、さざなみ三平、熊蜂の小兵衛という、一味三人の仕事と知れたのである。
千両箱を一個宛(ずつ)の分前にありついた三人の者は、
「これっきり、お互えに危ねえ稼業から足を洗おうじゃねえか。これを資本に正業について、白っぱくれて世間を渡ろうぜ」
と、申し合わせて袂を別った。
しかし、小兵衛の性格は、その神妙な生活に、長くは我慢ができなかった。何しろ、ふところには小判が唸っているのだ。一年も経つとそろそろ昔の地金を現わして、女には入れ揚げる。手なぐさみはやる。千両といえば大金だが、二年ばかりの間にきれいにすり減らして、又元の杢阿弥になってしまった。
ところが、運のいい奴にはかなわない。熊蜂はふとしたことから、閻魔の仁太郎が、内藤新宿の貸座敷、笠松楼の楼主に化けているのを探り出したのだ。
いい金蔓とばかりに、小兵衛は仁太郎をせびり出した。一々熊蜂の無心をきいていたのではきりがないのだが、さりとて、やけのやん八で尻でもまくられた日には身の破滅である。閻魔は心外ながらも、熊蜂の言いなり放題になっているより仕方がなかった。
「だが、あっしゃア、少々図に乗りすぎやした。その密告状てえなあ、てっきり、閻魔の所業ですぜ」
と、小兵衛は口惜しがった。
それっというので、柴田伊織は、腹心の手先を指揮して笠松楼を襲った。だが、大名屋敷の御金蔵を破った挙句、女郎屋の亭主に化けて世間の迂潤を笑っていようという程の男に、抜かりのあろう筈はなかった。奉行所に密告状の舞い込んだその日には、すでに笠松楼は他人の手に渡っていたのである。
「そのまま、ずるずるべったりに小兵衛にかかり合っていたのでは、結局、破滅の日が来ると考えたんだろう。そこで、早いとこ女郎屋を人手に譲って、姿を晦ます行きがけの駄賃に、小兵衛を獄門台に送って行ったという筋書なんだろう」
と、陣左衛門は話の区切りをつけると、ほっとしたように、その名も「与力」と呼ばれている、手裏剣の形をした煙管を取り上げて煙草を詰めた。
「成程、分りやした。それだけの手掛りがあれば、閻魔の詮議はなんとかなりやしょう。だが、もう一人のさざなみ三平の手掛りは、熊蜂の口からは、何にも引出せなかったでしょうか」
と、七之助。
「うむ。その方も、随分手をつくして責めて見たが、さざなみの消息については、ほんとに、何にも知らない様子だった」
「しかし、なあに、閻魔さえ御用にしてしまえば、さざなみの方だって、なんとか眼鼻がつきましょう」
「こう、みんな、何をぼやぼやしてやがるんでえ。女あ、生れてはじめて見るんじゃあるめえし、こんな場所で眼尻を下げていやがると、達者な哥兄さんの指先に、早えとこ鼻っ毛を抜かれるぜ。もっともそんな気の利いた財布なんか持っていそうな雁首は、一つもありゃしねえけれど」
芝神明境内、矢場の夏の宵は、ごった返す人の波だ。その、芋を洗うような混雑の真只中、あんまり張栄(はりばえ)のしない撫肩の肩肘を張って、無遠慮に人波を掻き分けながら、大声で哥兄風を吹かせているのは、今売出しの、花川戸の御用聞七之助の乾児で、巾着切上りの音吉。
つづく面々は、小間物屋の彦八を筆頭に、縁台将棋ではいつも音吉の油をしぼっている町内の若い者が二三人。
「ちぇ。人を見れば指先の達者な哥兄さんと思えか。誰も彼も、手前みてえな人間と思っていりゃあ、世話あねえや」
一人の若者がぼやいたので、
「こう、その一言、聞捨てにならねえぜ。昔はとにかく、今じゃあ、お上の御用の一つも勤めていようてえまっとうな人間さまでえ」
いきり立つ音吉を、彦八がなだめて、
「まあ、そう怒んなさんな。仲間喧嘩あ、いつでもできる。今夜あ、何より大切な役目を背負ってるんじゃござんせんか」
言われて音吉は、
「うん、そうか、そうか。こりゃあ、ちっとばかり、道草を食いすぎたかな」
あっさりと、いきり立っていた顔色を引っ込めて、きょろきょろとあたりに眼を配っていたが、
「なあんだ。ほら、あそこの店に『曙』てえ看板の文字が見えるじゃねえか。おう、いる、いる。滅法いい女が店番をしていやがら。あれかな、お粂ってえ女は」
「親分!」
と、彦八が、情ない低声を出して音吉の袖を引いた。
「なんでえ、小間物屋」
「あ、あ、あの女だ」
「えっ?」
「あれだ。生首の風呂敷包を抱いていた女は――」
「そ、そうか。じゃ、小間物屋、お前、どこか、そこらへんに隠れていなよ」
音吉は、町内の若者たちを引き連れて、曙の店の前を通りかかると、
「おう、みんな、滅法きれいな姐さんがいなさる一丁遊ばしてもらおうじゃねえか」
大声で呼ばりながら、どかどかと店先に立ち塞がった。やがて、ひとしきり遊び疲れた頃合を見計って、音吉が、
「こう、政、お前、向島のつづきを聞いたか」
「つづきって、あれから又、二度目に首を斬られた奴でもあるのかい?」
「べらぼう奴。あんなむごたらしい人殺しが、そう度々起ってたまるけぇ」
「あんなむごたらしい人殺しだなんて、見て来たようなことを言ってやがら」
「なに言ってやがんでえ。見なくったって、噂に聞いただけでも想像がつくじゃねえか」
「それあそうと、つづきってえなあ、一体、何が起ったんだい?」
「なあにね。首を斬られていた男てえなあ、お上御詮議中の大泥棒だったのよ」
「ほほう」
「そこで、あらためて獄門首。鈴ヶ森の獄門台に懸けられてるってえ話だね」
「お前、どこでその話を仕入れて来たんだ」
「どこだっていいじゃねえか。早耳平吉ってえ二つ名は伊達に持ってるんじゃねえや」
と、早耳平吉になりすました音吉が、思わせぶりに顎なぞを撫でまわすのを、ちらと横目使いにうかがったお粂が、何食わぬ顔をしながら、釵の足で鬢(びん)の根を掻くのだった。
が、すぐ、切長の妖艶な眼眸(まなざし)があらぬ方に走って、一瞬、不思議な微笑が、口許に浮んで、消えた。
その夜更。曙のお粂は、鈴ヶ森の獄門台の近くまで忍び寄ったところを、待伏せていた七之助の手に御用になった。
最寄の自身番まで引っ立てられて、腰巾着の音吉の顔をあかるい灯の下で見直すと、
「大方そんなことだと思った。哥兄さん、うまうま一杯引っかけましたね。曙のお粂姐さん、一世一代の失敗(しくじり)さ」
悪びれもせずに笑って見せる。
「小細工をして誘き寄せたりして済まなかったな」
と、七之助も、穏やかな笑顔を見せて、
「そこで、お前にひとつ聞きてえことがあるんだ。てえなあ、ほかでも無え。お前が、熊蜂の小兵衛の獄門首を、鈴ヶ森の獄門台からさらった気持あよく分る。大切な情人(おとこ)の獄門首を人目にさらしたあなかったろうからな。だが、分からねえなあ、さざなみ三平の首まで隠そうとしたお前の料簡はなんだ」
お粂は小鼻の辺に、小皺を寄せて笑った。
「なにを笑うんだ?」
「だって、今売出しとかなんとか騒がれている、花川戸の親分ともあろう人が、そんなすじ違いの見込をつけていなさるなんて、どう考えても可笑しいんですもの」
「ほう、見込みちがいだって? じゃあ、どうだってんだ?」
と、一膝乗り出す七之助。
「だから、あたしも可怪しいと思ってるんですけれど、向島の生首は、あれあ、たしかに小兵衛さんなんです」
「ふうむ。じゃあ、鈴ヶ森の獄門台から小兵衛の首をさらったのは、お前じゃあなかったのか?」
「ちがいます。あたしが出掛けて行った時には、一足先にお客さんが見えていたんです。ほんの一足違いでした。あたしは、そのお客さんが、小兵衛さんの首をさらって逃げるところを見掛けたんです」
「ふうむ」
「頬かむりをして居りますので、年恰好や風態は分りませんが、相手はとにかく男ですし、まともにぶつかっては勝目がありませんので、あたしゃそっとその後をつけたんです。品川の通へ出ると、その男は頬冠りを除って辻駕籠を呼び止めました」
「その時、お前は、その男の顔を見たんだろう?」
「ええ。かなり離れていましたから、顔かたちまではっきりとは分りませんが、遊人風のきりっとした男振りのようでした」
「うむ、それから」
「まかれてはたまりませんから、私もべつの辻駕籠を探して後をつけさせました。その男は、どこまでも駕籠をとばせます。とうとう大川橋の袂までとばして、やっとそこで駕籠をとめました。 それであたしも駕籠を下りて、又、その男の後を尾けますと、それからは、親分さんも御存じの、あの向島の荒地に生い茂っている、夏草を分けて消えてしまったのです。星空にすかして見ますと、その荒地の中程には一軒の家があります。男はてっきり、その家に入って行ったのに相違ございません。でも、あたしはどうしようかと迷いました。すぐ後を慕っても、起きていられたのでは何にもなりません。あたしは、もう少し時刻の経つのを待ってその家に忍び込もうと決心しました。それで藪蚊にさされながらそのあたりにしゃがんでいますと、凡そ半刻(一時間)ばかり経った頃でしょうか。又がさがさと夏草を分ける音が近づいて、一人の人間の姿が、 ぬっと荒地の外に出て来たのです。勿論、あたしは、すぐにその男の後をつけました。ところが、しばらくしてから、あたしは、その男が侍姿をしているのを、夜目にもはっきりと見定めたのです。どうやらさっきの男ではないようです。でも、その侍姿の男も、さっきの男と同じように、腋の下に風呂敷包らしいものを大切そうに抱えて居ります。 ままよ、この男の後をつけてやろう、あたしは、女だてらにふっとそんな物好きな気持を起したのです」
そこで、お粂がほっと一息入れたので、
「ふうむ。成程ね。男に生れさせて、御用聞にしてみたかった。きっと、うちの親分と人気を争っていたに違え無え」
と、音吉が半畳を入れた。
「で、今度はどこまで届けて行ったんだ?」
「とうとう、谷中の鰻縄手まで引っ張ってかれました。……とある小寺の裏手から生垣の破れをくぐって忍び込んで行ったのですが、それっきり、あたしは朝までそのあたりに隠れていましたけれど、侍姿の男の姿は二度と見掛けることが出来ませんでした」
「なんという寺か、寺の名前は見ておかなかったんだろうな」
「口惜しいから、表にまわって調べましたよ。松雲寺というんです」
「松雲寺。聞いたことのない寺だな。 コブ吉、お前、心当りがあるか?」
「あっしにも、心当りはありやせんね」
「そうでしょう。小さな荒寺なんですもの」
「で――それからお前、又ぞろ向島に引返したってわけか」
と、七之助が先を促した。
「だって、いくら眠くったって、疲れてたって、狐にでも化かされたみたいに、いいように引張りまわされた挙句、ぼんやり手ぶらで帰れもしないじゃありませんか」
と、お粂はきかぬ気の笑顔を見せて、
「まだ朝も早いし、今度は思い切って、家の様子だけでもうかがって見ようと思って、荒地の小径を、夏草を分けて進んで行きますと、びっくりさせるじゃありませんか。草の中に、あの首を斬り離された男がころがっていたんですもの。それで、一度はびっくりして逃尻をかかえましたが、恐いもの見たさのたとえに洩れず、あたしも、すぐ思いかえして、こわごわとそこに転っている首をのぞき込んだんです」
思いなしか、お粂の声がふるえを帯びて、
「そうしましたら、まあ、なんて不思議なこともあればあるものでしょう。それこそ、あたしが命懸で後を追っかけていた小兵衛さんの首じゃありませんか」
「ふうむ。そこで、その首を拾って逃げようとするところを、運悪く、小間物屋の彦八に見つけられたってわけなんだな」
「そうなんですよ。 あたし、口惜しくって、口惜しくって。今度見掛けたらそのままにはしておかないとあたしが言っていたと、あの野郎に伝えておくんなさい」
と、口惜し涙をハラハラとして、
「親分さん、あたしゃ、なんだか、いまだに悪い夢でも見つづけているような気持なんだけど、でもどうして、いつの間に、あの遊人の首が、小兵衛さんの首と入れかわったんでしょうね?」
しかし、七之助は、ううむ、と、唸って、深々腕をこまねいたいたばかりだった。
谷中鰻縄手の松雲寺は、お粂が言った通り、有るか無きのみすぼらしい小寺だった。
寺院は寺社奉行の支配下に属していて、町方の者が勝手に踏み込んで詮議をするわけには行かないので、七之助は、近所の家で松雲寺の内幕を探ってみた。
住職の真海は、まだ、三十そこそこの若い男で、腕白者の小坊主とたった二人きりのつつましい男世帯だった。
最近浪人者を匿まっているような様子がないかという問には小首をひねって知らないという者ばかり。だが、まだ若い身空だし、時々、こっそり寺を空けているらしいのは、どこかに気保養の家くらいは持っているのかも知れないと、笑う者もあった。
しかし、それだけの簡単な聞込でも、七之助は粗末には聞流さなかった。彼は、心に何か期するところあるもののように、内幕の内偵は、それだけでさっさと打切りにして、毎晩、音吉を連れて、松雲寺の裏手に張込みに行った。
そこらあたりには藪蚊が多かった。蚊を叩いてはいけないと、七之助にかたく禁じられているので、音吉は悲鳴をあげた。
「ほんとに、あの寺には、黒川小十郎が匿まわれているんでしょうか。お粂のあまが出鱈目を言ったんじゃねえんでしょうか」
松雲寺の張込だけは、打切にしてもらいたいような口ぶりなのだ。
「さあ、どうだかな。だが、俺あ行くぜ。お前、いやなら、行かなくってもいいや」
七之助にそう言われてみれば、じゃあ、あっしは御免蒙らして頂きやしょうと言うわけにも行かない。
蚊には苦手の性質(たち)と見えて、下手なかったい病みみたいにさし荒された顔や手足をボリボリ掻きながら、七之助の腰巾着を勤めつづけた五日目の晩だ。
いつもの通り、七之助と音吉が、藪蚊の餌食になりながら、松雲寺の裏手に潜んでいると、生垣の隙間をくぐって、外に出て来た頰冠りの男がある。
それっと、二人は後をつけた。
暗い裏路を遠まわりして通へ出た時には、男はすでに頬冠りを除っていたが、それは、きりっとした横顔の、遊人風のいい男だった。
それからざっと四半刻。男が姿を消したのは、池の端七軒町のとある路地奥。
その路地の外で、更に半刻ばかりの時を過してから、七之助と音吉は、足音を殺してその路地の中に忍んで行った。生花師匠の看板がかかっている。耳をすますと奥の室から、睦言めいた男女のささやきが聞えて来る。
二人は、無言のまま、黒格子の両側に別れて蹲んだ。
ずい分長い時間だった。やっと、男を送り出す女の声がして、足音が近づいて来たのである。顔を削ぎ落すように格子が開いて、
「じゃあ、お大事に」
「うむ」
「今度はいつ来てくれるの?」
「さあ」
「あんまり焦らさないでよ。 あたしゃ、お前が三日も顔を見せてくれないと、気が揉めて、気が揉めて……」
「てへ、程よいことを言ってやがら。……だが、今度あ、ほんとに、二三日うちには来れると思う」
「嘘を言ったらきかないよ」
「あい。嘘なんか言いませんて。じゃあ、あばよ」
敷居を跨いで、 がらがらっと格子戸を後手に締めた瞬間、
「こう、さざなみの哥兄!」
いきなり躍りかかった七之助が、ぐいと片手をねじ上げた。
だが、相手は、手古摺らせるかと思いのほか、
「あちちち。そんな無法な真似は止しておくんなさい。誰だか知らねえが、人違いじゃありやせんかい。あっしゃあ、さざなみなんて名前の人間は、聞いたことも無えんですぜ」
「じゃあ、松雲寺の住職真海和尚としといてもいいや」
「えっ!」
もうこれまでと思ったらしい。男は、捩じ上げられた腕を振切ろうと暴れ出したが、なんなく、そのまま、その場に捩じ伏せられてしまった。
「なんだ。脆いっちゃありゃしねえ。音吉、この野郎の鬘を搾り取って見な」
「えっ、か、鬘ですって?」
素頓狂な声を出したが、音吉はすぐにわれに返ったように、七之助の膝の下に身動きもならずへたばっている男の髷に手を掛けた。すぽっという音がして、力あまって、後によろめく音吉の眼に、その男の丸々とした坊主頭が映った。
「おどろき桃の木山椒の木とね。いってえ、親分、こりゃあ、どうしたってんですかい?」
茫然と、七之助の膝の下の坊主頭と、自分の手の中にある鬘とを見比べながら、音吉は唸った。
「矢張り、俺の見込が当ってたんだ。さざなみ三平松雲寺の住職に化け込んでいたんだ。向島の首斬り屍体の胴の方は、閻魔の仁太郎の黒川小十郎なんだ。 ……さざなみ、どうだ、そうに違いあるめえ」
「へぇい!」
音吉の間の抜けたような感嘆詞を受けて、
「親分、恐れ入りやした。もうこうなったら仕方がねえ。きれいに年貢を納めやしょう」
と、さざなみ三平が、膝の下から、諦めのいい言葉を掛けた。
細目に開けた格子の内側で、生花の師匠は腰を抜かしてふるえていた。
あの晩、三平は、黒川小十郎を屋敷の外に誘き出すと、油断を見すまして、手練の早業、小十郎の首をばっさりと斬り落したのだ。斬り落した首は、熊蜂の小兵衛の獄門首とすりかえ、自分の着物を小十郎の着物と脱ぎかえたのは、その人殺し小十郎のしわざと見せかけるためだった。
真海和尚の三平と黒川小十郎の仁太郎は、その前から消息を知り合って、互いに連絡を取っていた。三平は、小兵衛を獄門台に送ったのが仁太郎のしわざと知った時、その、仲間を売った仁太郎の性根を憎んだが、それよりも、この次には自分の番がまわって来るかも知れないことを恐れて先手を打ったのだ。
閻魔の仁太郎の首は、松雲寺の墓地に埋めてあった。
――これらは、これを最後と観念した、さざなみ三平の自白によって、解れて行った事柄だった。
向島の寂しい荒れ地で、小間物屋の彦八が生首の入った風呂敷包を持つ怪しい女・お粂に遭遇する。駆け付けた七之助と音吉が現場を調べると、そこには首のない死体が。死体の主は浪人・黒川小十郎の家に訪ねてきた遊人風の男で、当の小十郎は姿を消していた。
時を同じくして、七之助は与力・成瀬陣左衛門から、鈴ヶ森の獄門台に晒されていた盗賊・熊蜂の小兵衛の首が盗まれたという、もう一つの奇妙な事件の調査を依頼される。小兵衛はかつて大名屋敷を襲った三人組の盗賊の一人で、仲間であった閻魔の仁太郎とさざなみ三平の行方は知れなかった。
二つの首事件に関連を疑った七之助は、お粂を捕らえて事情を聞く。彼女は小兵衛の情婦で、彼の首を弔うために獄門台へ向かったが、一足先に何者かが首を持ち去るのを目撃。後を追うと、男は向島の小十郎の屋敷へ。さらにその後、別の侍姿の男が屋敷から首を持ち出し、谷中の松雲寺へと消えたという。
七之助はついに真相を突き止める。失踪した黒川小十郎こそが閻魔の仁太郎であり、松雲寺の住職・真海がさざなみ三平だったのだ。三平は、仲間を売った仁太郎に次は自分が売られると恐れ、先手を打って仁太郎を殺害。その首を、獄門台から盗んできた小兵衛の首とすり替え、仁太郎に罪を着せようと画策したのだった。七之助は三平を捕縛し、盗賊一味の共食いの果てに起きた複雑怪奇な事件を解決する。
本作の主人公。二つの首事件の関連を見抜き、盗賊一味の隠された正体を暴いていく。
七之助の子分。矢場でのおとり捜査など、体を張って親分を助ける。
芝神明の矢場の女。盗賊・熊蜂の小兵衛の情婦。彼の首を弔おうとして事件に巻き込まれる。
盗賊一味の一人。谷中の松雲寺の住職・真海和尚に化けて潜伏。仲間割れの末、仁太郎を殺害する。
盗賊一味の元締格。向島で浪人・黒川小十郎として暮らしていたが、三平に殺害される。
盗賊一味の一人。捕らえられて打ち首になり、獄門台に首を晒される。彼の首が事件の発端となる。
A. これは盗賊一味の仲間割れが原因です。まず、さざなみ三平が仲間の閻魔の仁太郎(黒川小十郎)を殺害しました。そして、その罪を隠すために、同じ夜に処刑されたもう一人の仲間・熊蜂の小兵衛の獄門首を盗み出し、仁太郎の首とすり替えて「小十郎が小兵衛を殺して逃げた」ように見せかけようとしたのです。
A. お粂は、処刑された盗賊・小兵衛の情婦でした。彼女は愛する小兵衛の首が晒しものにされるのを不憫に思い、誰にも知られずに供養しようと、獄門台から首を盗み出そうとしました。しかし、彼女が現場に着いた時には、既に三平が仁太郎の首とすり替えた後でした。彼女が持っていたのは、すり替えられた後の仁太郎の首だったのです。
A. 発端は、熊蜂の小兵衛が盗んだ金を使い果たし、閻魔の仁太郎を強請り始めたことでした。身の危険を感じた仁太郎は、密告によって小兵衛を奉行所に売り、処刑させました。そのことを知ったさざなみ三平は、次は自分が仁太郎に売られる番だと恐れ、先手を打って仁太郎を殺害した、という経緯です。