十手黒星
著:納言恭平
「七之助捕物帳」は、捕物帳の名手、納言恭平(なごん きょうへい)による傑作時代小説シリーズです。 江戸は花川戸の御用聞(ごようきき)・七之助が、子分の音吉と共に、江戸八百八町で巻き起こる難事件に挑みます。
鮮やかな推理と、江戸の町に生きる人々の人情が織りなす物語は、今なお多くの読者を魅了し続けています。 このページでは、シリーズの一編「十手黒星」をお届けします。
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「親分、ただ今——」
「おう、帰って来たか。御苦労、御苦労」
花川戸の御用聞七之助は、机に向って握っていた朱筆を静かにおいて振返った。
「おや、珍らしいじゃござんせんか」
乾兒の音吉、大袈裟な呆け面だ。
「なにが?」
「なにがって。親分、今頃あ、昼寝の真最中でなきゃあ、ボロ三味線が親分の膝に乗っかっている筈じゃなかったんですかい」
「なにを言やがる」
「あっしゃ、木菟の大将にそう言ってやったんですぜ。親分はどうした、って訊きやがるから、今時分昼寝の最中でさ、ってね」
「莫迦野郎。 それで、雉子町の親分はなんと言いなすった?」
「なんてって、その言草が癪じゃござんせんか。今度の相手は駆け出しの手に負えねえ。最初っから匙を投げて、昼寝でもしていた方が増だろう、なんて、ほざくんでさ。あっしゃ、口惜しくって、口惜しくって……………」
「ほう。それにしちゃあ、可笑しいじゃねえか」
「え?」
「おでこに瘤を打出さなかったのが可笑しいと言ってるんでえ」
「ちぇッ! しっぺ返しですかい」
「ハハハハ・・・・・。それはそうと、雉子町のほかにも誰か、親分衆の顔が見えていたかい?」
「見えていやしたとも。まるで、江戸中の岡っ引の見本市みてえでさ」
「ほほう。そんなに来ていたか。だが、そりゃア、そうかも知れねえな、こんところで猿小僧をふん捕まえたら、江戸第一の折紙をつけられるにきまっているからな」
猿小僧というのは、その頃、御府内を騒がしていた怪盗の名前だった。 そいつが昨夜、湯島天神下の金貸婆を縛り上げて、貯め込んでいた有金全部を盗み去ったのだ。こいつの手口はいつもきまっていて、現金以外のものに眼をかけない。いつの間にか、金を貯め込んでいる家を嗅ぎ出していて、覘いをつけるのである。覘いをつけたが最後、まるで、自分で匿している物でも持ち去るように、易々と仕事をやってのけるのだが、ただ一度、千駄ヶ谷の旗本屋敷で、失敗ったことがある。梁の上に忍んでいるところを発見けられて、侍たちに追いまくられたのであるが、その時、怪盗は、まるで猿のように、屋根を越え、樹木の梢を渡り、塀の峯を走り、忽ち、宵闇の中にその姿を消してしまった。——その時以来、この怪盗のことを、誰いうとなく、猿小僧と呼ぶようになったのである。
「親分、大丈夫ですかい?」
音吉が不安な眼つきをした。
「そりゃア、なんとも言えねえ。こういう捕物には、運が第一にものをいうんだから。だが、俺の遣口は、木菟の大将なんかとは、ちいっとばかり違っているつもりだ。ちょいとこれを見てくんねえ」
七之助は、机の上に拡げていた新版の御府内絵図を、音吉の前にすっと押しやった。見ると、図面の六箇所に、朱筆で丸の印がかき込んである。
「この赤丸ですかい?」
「一目でなんだかわかるだろう?」
「はあてね? ははあ、解りやした。こりゃア、猿小僧が仕事をやらかした場所のしるしじゃありやせんか。猿小僧を引寄せる咒(まじない)でもあるんですかい?」
「なにを言やがる。そんな都合のいい咒なんかあってたまるもんかい。いいか、こぶ吉。こう絵図面を拡げながら、野郎の仕事の順序を考えて見ねえ。 先ず皮切が、 市ヶ谷原町の旗本屋敷。 二番目が本所石原町の質屋。三番目が麹町四丁目の紙問屋。四番目芝白金の蓮台寺。五番目千駄ヶ谷の旗本屋敷で、これは猿小僧の初の黒星。 六番目が湯島天神下の金貸婆てえことになってるんだが、お前の頭にだって、こう考えてくりゃあ、なんかぴんと来ることがありそうなもんだ」
「なある……仕事の場所が、次々におっそろしく飛んでいやすね」
「えれえぞ。 それから?」
「野郎にねらわれた相手の身分職業が、いろいろだってえことじゃござんせんかい」
「うむ、それもある。だが、もう一つ、もっとそれより大切なことがあるんだ」
「はあてな?」
「仕事に大事を取っていることだよ。去年の師走を皮切りに、昨夜の金貸婆まで合計六ヶ所。一つやっつけたら、次の仕事までに、どれも一月ばかりの間をおいている。もっとも、それには、ほとぼりを待つ意味もあるんだろうが、その間に、次の仕事の支度を、みっちりやっているのに違えねえ。でなきゃあ、こっそり金を貯め込んでいる家の見当が、ああも図星を指すようにつくものじゃねえ」
「なある」
「だからよ。猿小僧をひっくくって手柄を樹てようと思うならば、先まわりして網を張らなきゃあいけねえ。雉子町の大将や、他の親分衆みてえに、野郎が仕事をすました後に出掛けて行って、足跡を嗅ぎまわって見たところでなんになるもんか」
「ふうむ。それで、昨夜の今日だてえのに、親分湯島天神下に足踏もなさらねえ理由が呑み込めやした。だが、先廻りして網を張るったって、野郎、このどこに現われるか、判らねえじゃござんせんか」
「そりゃあ判らねえ。だからよ、大体の見当だけつけて、気永に網を張るよりゃあ、仕方がねえやな」
「あっしみてえな、気の短え者にゃあ、苦手だな」
「なあに、大したことがあるもんか。 もう、そろそろ、ここいらへんにきまってらあな」
七之助は、朱筆を取上げて、御府内絵図の一箇所に、大きな赤丸をかいた。それは、京橋、日本橋の界隈であった。成程、そう言えば、この江戸の中心地には、まだ、猿小僧の悪の手が伸びていない。
「おや。又、先刻の按摩ですぜ」
物悲しげな笛の音を、空に向ってひびかせながら、表通りの店明の中をよぎって行く按摩の姿。——暗い横丁の塀の蔭から、いぶかしげにその姿に眼をやりながら、音吉は、そっと七之助の袖を引いた。
「当り前じゃあねえか。俺たちア、今夜、あの、按摩の野郎を見張ってるんだぜ」
「へえ、そうですかい。道理で、遠くなったり近くなったり、按摩の笛の音がしょっちゅう耳を離れなかった筈だ。 おんや、親分、あの野郎、へんでげすぜ」
「なんだ?」
「先刻見掛けた時あ、おっそろしくかんのいい按摩だと思いやしたが、あれ、いつの間に、あんなに、かんの悪い按摩になりゃあがったんでしょう」
「こぶ吉、でかした! そこんところへ気がつきゃあ、お前ももう、一廉の御用聞だぞ」
「ちぇっ。こぶ吉だけは止しておくんなさいよ、こぶ吉だけは」
と、音吉は頬をふくらましたが、
「だが、判らねえな。 一晩のうちにかんがよくなったり、悪くなったり…………」
「判らねえことがあるもんか。先刻野郎の姿を見かけたのは、横丁のくらいところだった。だから、かんがよかったんだが、表通りでは人目に立つから、大っぴらに眼を開いているわけにも行かねえ」
「じゃア、彼奴は偽按摩で・・・・・・」
「しっ!」
七之助は音吉の饒舌を制して、
「さぁ、気づかれないように、そっと尾行けて見ようぜ」
「合点でげす」
二人は、身を潜ませていた横丁の暗がりを出て、櫓下の物蔭を拾いながら、按摩の笛の音に引かれて行く。
按摩は、物騒な人間二人、自分の後を尾行けているとも知らぬげに大門通りを真直に流して行く。やがて、とある袋物屋の店口に女の声がして、按摩を呼び込んだ。
「野郎が出て来たら、俺は、野郎の後をつけているから、お前、あの按摩は、以前からこの界隈で見掛けるかどうか、早えとこ洗って見ねえ」
七之助は、音吉の耳にささやくと、すぐ近くにある天水桶の蔭に身を潜ませた。
待つこと小半刻。按摩の姿は再び大門通りに吐き出された。
「うまくやんなよ」
言い残して、七之助は、またもや、按摩の後を見え隠れに尾行けて行く。
「御免なせえ」
音吉は袋物屋の店口に立った。
「いらっしゃいまし」
番頭は揉手をしながら、音吉を迎えた。
「あっしゃ、お客さまじゃねえ。一寸、物をお訊きしてえんで」
「へえ」
「つかんことを訊くようだが、今、お宅で呼び込みなすった按摩は、ありゃあ、前からの御贔屓なんですかい?」
番頭は、音吉の身分を覚ったようだ。 急に顔色をかたくしながら、
「いいえ、この四五日前から見掛ける顔でございます」
「そうか、有難う」
音吉は番頭に口止を頼んで、すぐ、七之助の後を追った。へっつい河岸に突き当ると、人形町通りの方角から、按摩の笛の音は聞えて来た。
「よし、こっちか」
足を急がせて、人形町の通りに飛び出した時だ。そこの街角で、くだんの按摩と、ばったりと鉢合せをしてしまったのである。こんなところで、こんな方角から現われようとは思わなかった。あまりにも意外な出来事に、音吉は、不覚にも、
「あッ!」
と声に出してしまったのだ。
同時に、閉じられていた按摩の両眼がかっと見開かれていた。人並よりも大きな、よく光る眼だ。
「あッ!」
驚愕の叫びは、按摩の口からも洩れた。
近々と迫っている音吉の様子から、按摩は自分の身辺に容易ならぬ危機の迫っていることを、鋭敏に感得したらしい。くるっと踵を返したのだ。だが、それは、情勢の緊迫を覚った七之助が、きらっと十手を閃めかした間一髪だった。
「御用!」
すかさず、うしろから打込んだ音吉の十手だった。だが、それは、からっと、按摩の杖にはじき返されて、くるくると宙に舞い上った。
「しゃらくせえ。 手前たちの手に負う相手か」
落ちついた捨科白を吐き捨てて、按摩は、さっと通りを横切った。
「待てっ! 御用!」
逃さじと、追い縋る七之助。按摩の姿が、元大工町の角を曲ろうとした瞬間、七之助の手の裡から、するするっと伸び出た手練の捕縄!
「あッ!」
恐ろしい眼が向き直った。見よ、捕縄の一端は、按摩の杖持つ手頸に絡まっている。ぴいんと張切っている一本の綱の両端に、互いに相手の気息を数えながら睨み合っている二人の男。静かに、要心深く、七之助は、その綱を手繰りはじめた。
不意に、不敵な微笑が、按摩の顔を掠めたのだ。きっと、刃物の光りが流れたと思った。
「しまったっ!」
叫びが、七之助の口を衝いて、截られた綱の反動で、危く尻餅をつくところだった。だが、姿勢はすぐに立直った。地面に匍っている捕縄を手操りながら、元大工町の横丁に逃げ込んだ按摩の後から、必死の形相物凄い追跡なのだ。
ジャンジャンジャンジャン
どこかで、半鐘の音が、けたたましく鳴り始めた。
「火事だなっ!」
くらい横丁から横丁へ、必死の追跡を続けながらも、その、近火の合図を聞き洩らすわけにはゆかない。
走り乍ら眼を上げると、行手の空に真赤な火の粉がはじけている。
「こりゃあ、いけねえ」 七之助が、ふと、歎声を洩らした。
「火事でげすな」と、音吉。
「野郎、火事場の方角に逃げて行きやがる。火事場のごたごたの中で俺たちをまこうてえ魂胆に違え無え」
「なあるほど………… 火事場に逃げ込まれたら、それっきりでげすな」
火事場はもう間近かだ。物のはじける音、逃げ惑う人々の叫びや、泣声が聞えはじめた。
角を曲ると、ごうっ、という物凄い物音と、渦巻く紅蓮の炎が、近々と眼前に展開された。その炎の色を背景に、按摩の後姿が浮彫にされた。振返った顔が物凄く笑った。片手が坊主頭についと伸びるともう、ふさふさとした町人髷だった。
「アハハハハハ・・・・・・」
嘲弄的な高笑いだ。毟り取った坊主頭の鬘を、七之助に向って投げつけると、だっ、と後足で地を蹴って、見る見る火事場の雑沓のただ中に、姿を消してしまった。
「は、離して下さいまし。行かして下さいまし」
一人の若い女が、狂気のように髪を振乱し、男たちの腕の中で身を藻掻きながら、喉も破れよと喚き叫んでいる。
「無法を言っちゃいけねえ。態々死にに行くようなもんじゃねえか」
「でも、でも、娘が、お雪が、死、死んでしまいます。あれ、お、お雪いっ!」
「わあっ! ひ、ひでえ力だ」
大の男の二三人が、一間ばかりもずるずると引き摺られた。
「一体、どうしなすったんですかい?」
その時、弥次馬を押しわけて、女のそばに近づいて来た、目玉の大きな男がある。
「この女の娘さんが、あ、あの二階に、逃げ遅れてるんでさ。でも、こう火の手が廻っちゃ、手のつけようがねえ。このまま離してやったら、この女も一緒に焼け死んでしまうに違えねえからね」
「ど、どの二階だ?」
眼玉の大きな男が、言葉急しく訊ね返した時、
「お、お母ちゃーん!」
荒れ狂う炎の唸りのただ中から、一声鋭い少女の悲鳴が——。そうして、あっ、と声を呑んだ人々の眼に、今しも、なかば炎に包まれた一軒の商家の二階の窓に、赤い色彩が、ちらりと動いて、消えた。
「ああっ、お雪が、お雪が………」
女は、前よりも一層狂暴に、男たちの腕の中で狂いはじめた。
「よし、あっしに任しておくんなせえ」
眼玉の大きな男が叫んだ。
「あっ、あなたさまが——」
「なあに、わけはねえ。安心して、待っていておくんなせえよ」
男は、その特長のある大きな眼玉を八方に配って、足場を目測している様子であったが、すぐ、自信がついたように、
「よし」
と、呟くと、弥次馬の肩の間をするすると抜けて、姿を消した。
「野郎、あんな程のよいことを言って、逃げやがったんじゃねえか」
「引き受けようがあっさりし過ぎていたからな」
「ただのひやかしだとすりゃア、太え野郎じゃねえか」
だが、そんな、弥次馬たちの雑言は、
「おう、見ねえ、あれを——」
一人の男の、一際かん高い驚歎の叫び声によって打切られた。
まだ火の手の廻らない町並の屋根の上を、 炎の色で真紅に染まった一人の男が、火事場の中心を目がけて、猿よりも身軽く走って行く。家並が切れて、横丁の谷の上をひらりと飛び越える飛猿の早業には、弥次馬たちが、思わず一斉に歓声を送った。
「おお、ありゃあ、先刻の男だ」
「やっぱり、冷かしじゃなかったのか」
「頭を丸めて詫を言やがれ。 とんちき野郎奴!」
炎と煙のただ中を幾度か走り抜けた。そして、到頭、最後に、猿のような男は、目的の二階家の、屋根の一角に飛びついたのである。
「わあっ!」
歓呼の動揺めき——。同時に、二階の窓から、一団の黒煙が濛々と噴き出した。
男は、片手を挙げて、弥次馬に微笑を送った。次の瞬間、その男の姿は、二階の窓の黒煙の中へ飛び込んで行った。
男の姿は、すぐ又、窓から飛び出して来た。腋の下に、ボロにくるんだ物を抱えている。
それを追いかけるように、今は炎の舌さえ見せて、黒煙が窓も狭しと噴出した。
「間に合ってよかった。 はしご段の口から煙を噴き上げていたが、火はまだめぐっちゃいなかったんだ」
濡らして持って行ったボロも、もうからからにかわいている。それを剥ぎ取った幼女の体は、だらりと長まったままだ。
「お雪、お雪いっ!」
瞳に絶望の色を漲らせて、掻き抱こうとする女の手を軽く払って、
「待ちねえ。なあに、一寸気絶をしているだけなんだから」
眼玉の大きな男が、器用な手つきで活を入れると、お雪は、うーん、と一声唸って、やがて、二重瞼の可愛いい眼をばっちりと見開いた。
「そーら、生き返った」
子供にでも言い聞かせるような声だった。男の大きな眼玉に、無心な歓喜が張っている。
「おう、お雪っ!」
「お母ちゃん!」
どちらからともなく腕を求めて——子は砕けよと抱き締める母の胸に顔をこすりつけて、声も、涙も忘れてすすりなく母娘の姿。
が、やがて女は、急に気がついたように、
「あ、私としたことが、まだお礼も申上げませんで、有難うございます。有難うございます」
と、片手拝みに伏し拝むのだ。
「止しねえ。俺あ、お前に、礼を言われようと思ってしたことじゃねえ。……俺にも、達者に育っていたら、お雪ちゃんくらいの娘があるんだ。俺あ、三年前に、在所の近くの宿場女郎にとち狂った揚句、女房子供を捨てて草鞋を履いてしまったんだが、今頃どうしているか」後の半分は口の中だけで呟いて、「じゃ、あばよ。俺あ行くぜ」
「ま。お待ちなすっておくんなさいまし。 お名前を聞かしておくんなさいまし」
無限の感謝を瞳にこめて、女の片手が、眼玉男の着物の裾を必死と掴んでいる。
男の顔を、不意に、困惑の表情が掠めて過ぎた。
「止しねえ。名前を名乗ったところで仕方がありゃしねえ。さっ、放しねえ。放してくんねえ。俺あ、先を急いでるんだ」
「でも、それでは、私の気持が済みません。助けと思って、おところとお名前を聞かしてやって下さいまし」
「いけねえ。そこ放してくんな。放さなきゃあ、怒るぜ」
「でも……」
「お前、くどいぜ」
ほんとうに、怒った口調だ。
女が思わず手をはなすと、男の顔に、安堵の色が甦って、「大事にしねえ」
くるりと向き直ったが、同時に、
「あッ!」
喉の奥から絞り出された絶望の叫びだった。見る見る、顔面筋肉が異様にひきつり、大きな眼玉が、いよいよ大きく、眼窩の外にせり出して見える。
急に、ひきつった顔面筋肉が、神経を切られたように崩れた。笑ったのである。諦めのいい、不逞な笑い声を立てたのである。
「あっさり、年貢を収めやしょう」
男の眼の前に立塞がっているのは、子分の音吉を、腰巾着のように引き連れた七之助だった。
「見事な働らきでござんした」
七之助はそう言ったのだ。
「ふふふ。お前さん、見ていなすったのかい?」
「一部始終——」
「われながら、莫迦なことをしたものだ」
と、自嘲的な瞳で、あたりにひしめく弥次馬を見渡しながら、
「ここで捕まったが百年目でさ。どうとも勝手になすっておくんなさい」
「そりゃあ、なんのことですかい?」
だが、七之助は取り合わなかったのである。
「え?」
「あっしの探しているなあ、猿小僧という大泥棒でやしてね。按摩に化けて火事場の人混みに逃げ込んでいるのさ。 今夜アむざむざ取り逃したが、なあに、あっしの手で、一度はきっと捕まえて見せる」
「ふうむ。ここのところは見逃してくれるというんですね」
と、ささやくように、「お前さんの名前は?」
「花川戸の七之助というけちな御用聞でさ。じゃ、又、逢いやしょう」
と、言って、「こう、こぶ吉。行こうぜ」
「花川戸の七之助——記憶えておきやすぜ」
眼玉の大きな男は、弥次馬の間を、肩で押し分けながら立去って行く二人の後姿に向ってそう言うと、自分も、急に気がついたように別の方角に向って歩み去った。
お雪を救い出した二階家は、もう全く紅蓮の炎に包まれている。
淋しい、暗い河岸っぷちを、不機嫌に黙り込んだまま、あてどもなく歩いて行く七之助。 その腰のあたりに、犬っ子のように纏わりながら、音吉は、ちょこちょこと小走りのし続けだった。
やがて、橋。
七之助は、橋の中央まで渡りかかると、ふと立って、暗い水面に眼を落した。
「今夜あ、俺の敗だった」
誰にともなく呟いたのだ。音吉はそれを聞き咎めて、
「どうして、引っくくっておしまいなさらなかったんで」
「俺にゃあ、手が出せなかったんだ」
「あっしゃあ、御用聞に人情は禁物だと思いやすがね」
「大きに、そうかも知れねえ。だがなあ、こぶ吉。あの、猿みてえに身軽い働きっぷりを見りゃあ、どんな凡くらな御用聞だって、目を皿にして探しまわっている猿小僧と察しがつくんだぜ。そんな危険も打忘れて、人助けのために一心不乱になっている人間を、いくら相手がお尋ね者の猿小僧だ
とて、ちっと骨のある御用聞なら、手が出ねえのが当りめえだ」
「なある、ね」
「今夜あ、思わぬ黒星を稼いでしまった。だが、なあに、今度ということもあらあ。猿小僧は、必ず、七之助の手で御用にして見せる」
橋の下を、一艘の猪牙船が、櫓臍の音を軋ませながら潜って行った。
「こぶ吉!」
「とうとう、こぶ吉にしておしまいなすったね。なんですかい、親分!」
「俺あ、今夜という今夜、しみじみと感じたことがある」
「へえ?」
「人間、どんなに悪党面をぶら下げていても、しんからの悪人てもなあいねえんじゃねえかということだ」
「…………」
「そう思って、今夜の敗北を諦めることにした。おい、もう、火事も大分、下火になったようだ」
振返った火事場の空に、炎の色が萎えかけている。
江戸の町を騒がす神出鬼没の怪盗、通称「猿小僧」。他の御用聞たちが後手に回る中、七之助は過去の犯行現場を地図に落とし込み、次なる犯行場所を京橋・日本橋界隈と推理する。子分の音吉と共に張り込んでいると、案の定、偽の按摩に化けた不審な男が現れた。
七之助と音吉は男を追跡するが、男は猿小僧の名に恥じぬ驚異的な身のこなしで追っ手を翻弄。捕縄を切り、折悪しく発生した火事場の混乱に紛れて逃げ込んでしまう。万事休すかと思われたその時、火事場で奇妙な出来事が起こる。
炎上する家屋の二階に娘が取り残され、母親が狂乱する中、かの偽按摩が名乗りを上げる。彼は危険を顧みず、燃え盛る家屋に飛び込み、見事娘を救出するのだった。その英雄的な行動に、やじ馬からは歓声が上がる。
全てを見ていた七之助は、ついに男を追い詰める。男こそが猿小僧であった。しかし、命懸けで人助けをした直後の相手に、七之助はどうしても十手を差し向けることができない。「今夜は俺の負けだ」と、七之助は猿小僧を見逃す。それは、御用聞としての職務よりも、人の心にある善性を信じるという、七之助の人情の表れだった。
本作の主人公。冷静な分析で犯人の行動を予測するが、悪党の中にも善性を見出し、職務との間で葛藤する。
七之助の子分。親分の的確な推理に感心しながらも、その人情深さに呆れることもある。
江戸を騒がす怪盗。猿のような身軽さからその名がついた。正体は大きな目玉が特徴の男。盗人でありながら、火事場で命懸けの人助けをするという一面も持つ。
火事場の家に取り残された少女。猿小僧によって救出される。
A. 「黒星」は相撲で負けを意味する言葉です。この物語で七之助は、追い詰めた犯人・猿小僧をあえて捕らえませんでした。それは、猿小僧が命懸けで少女を救うという善行を目の当たりにし、御用聞としての「職務」よりも「人情」を優先したからです。犯人を捕らえるという役目を果たせなかったことを、自らの「負け(黒星)」と表現しているため、このタイトルがつけられています。
A. 他の御用聞のように闇雲に犯人の足跡を追うのではなく、江戸の地図にこれまでの犯行現場を印し、そのパターンを分析しました。猿小僧が江戸の中心部である京橋・日本橋界隈を避けていることに気づき、「そろそろこの中心地を狙うに違いない」と推理し、先回りして網を張ることに成功しました。
A. 以前、千駄ヶ谷の旗本屋敷に忍び込んだ際に発見され、侍たちに追われました。その際、まるで猿のように屋根から屋根へ飛び移り、木の梢を渡って逃げ去ったことから、その驚異的な身軽さをなぞらえて「猿小僧」と呼ばれるようになりました。