伊勢屋事件
著:納言恭平
「七之助捕物帳」は、捕物帳の名手、納言恭平(なごん きょうへい)による傑作時代小説シリーズです。 江戸は花川戸の御用聞(ごようきき)・七之助が、子分の音吉と共に、江戸八百八町で巻き起こる難事件に挑みます。
鮮やかな推理と、江戸の町に生きる人々の人情が織りなす物語は、今なお多くの読者を魅了し続けています。 このページでは、シリーズの一編「伊勢屋事件」をお届けします。
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「なにい、狸に化かされたって? よしやがれ! 今時、そんな、べらぼうな話があってたまるかってんだ」
山の宿の髪結床、床甚の店におみこしを据えて、町内の若い衆を相手にヘボ将棋を指していた音吉が、いきなり、口中を泡にしながらどなった。
「へっへっ……。さては親分、今度の一番も扱われてるらしいね。将棋に負けた飛ばっちりを、こちとらにまでひっかけられちゃ、割に合わねえや」
客の月代に剃刀を当てていた床甚が、振返って笑った。成る程、裸になった王の頭に、成歩が一つ垂らされている。
「なにを言やがる。将棋はこれからだい。……お手は?」
「金二枚の桂香。まだ、なんか手がありますかい?」
「金二枚の桂香、か、銀の合車じゃ、間に合わねえかな」
「手駒が大分残りやすぜ」
「金二枚に桂香、か。桂と打って、王の頭に金か。ううむ、こりゃあいけねえ。今夜はヘボの強い晩らしい」
音吉は、脂だらけにして握りしめていた持駒を、ばらりと盤の上にあけて、
「時に親方。狸に化かされたってえ頓馬野郎は、どこのどいつなんですかい?」
「あれだ、親分も勝手過ぎら。たった今、人の話にけちをつけておきながら……。へっへっへっ……」
「なあにね。手が空いたから、耳塞ぎに、ちょっと聞いてやろう、てえのよ」
「あれだからね。……でも、あっしも又聞きなんだから、嘘かまことか知りやせんぜ。ほんとの話なら、凄いね。化かされ方が、念が入り過ぎてやしてね」
狸に化かされたというのは、神田永富町に住んでいる、兼吉という若い大工。
兼吉は、去年の暮れに、柳島の妙見様の近くの、お囲い者の住んでいる寮に仕事に行っている間に、その寮の女中と懇になった。女中はお糸といって今年十八、下ぶくれの顔の可愛いい娘だ。
寮の仕事がすんでからも、二人は人目を忍んで逢引をつづけた。とは言っても、乗物の不自由なこの時代では、神田と柳島と言えば相当に遠方だから、月に一度も機会があればいい方だった。
その晩も、兼吉は、一ヶ月ぶりに柳島の寮に忍んで行って、いつものように、裏木戸に廻って合図の口笛を吹いた。しかし、女中部屋の灯は消えたまま、そこの窓からはなんの合図も戻って来ない。
女主人の居間の方には灯がともっていて、客でも来ているらしい気配である。お糸は酒の酌でもさせられているのかも知れない。
兼吉は、塀際にしゃがんで、女中室に灯のつくのを辛抱強く待った。半刻、一刻、一刻半も待った。足がしびれて、根になってしまいそうだ。
兼吉は、短気を起して、裏木戸を乗り越えた。すると、その時、女主人の居間の方角に当って、一声鋭く、女の悲鳴が聞えた。兼吉は植込の間を走って、八ツ手の葉の茂みの中に身を隠した。障子が開いているので、室内の様子が手に取るように眺められる。
女と男が争っているのだ。女は男のために背後から抱きすくめられ、真白な両腕を藻掻いている。争いながら二人の体がぐるっと四分一廻転して、女の声を上げられない理由がわかった。赤いしごきが、女のくびに巻きついているのだ。男女の顔も判別がついた。寮の女主人と、彼女の旦那であった。
間もなく、藻掻いていた女の腕から力が抜けて、だらりと垂れ下った。男は、急にかかって来た女の重みによろめいたが、そのまま、長まった女の体を畳の上に横たえた。
男は、唖然として、女の死体に目を落している。やがて、がくぜんとわれに返ったようであった。慌てて縁側に出ると、庭の遠近に落ちつきを失った眼を配っていたが、すぐ又、室の中に駆け込んで、ぴったりと障子をたてきった。女を抱えて押入にでも運ぶらしい影が、障子に映って、動いた。
行燈の灯が消えた。
後には、深沈とした闇と寂寞が、いつまでも、いつまでも続く。……気がつくと、いつか、兼吉は、灯のある町家の方角に向って、息をはずませながら走っていた。
兼吉は、この夜の出来事を、自分の胸一つに秘めて、誰にも話さなかった。
事件の掛かり合いになることを非常に恐れたのである。
しかし、お糸のことを考えると、じっとしては居られない。あの晩お糸は無事だったろうか。無事だったとすれば、その後はどうしているであろう。
兼吉は、たまらなくなって、それから四日目の晩に、柳島の寮に出掛けて行った。台所の窓には、灯がさしていた。兼吉は、裏木戸に忍び寄って合図の口笛を吹いた。しかし、返事がない。ことことと、なにか立働いているらしい気配なのだ。兼吉は、小首をひねりながら、二度三度、同じ口笛を繰り返した。それでも、依然として梨の飛礫だ。
気がつくと、今夜も、女主人の居間から、庭先に灯が流れている。兼吉は、好奇心に駆られて、そっと木戸を押して見た。木戸には栓がさしてなかった。兼吉は、植込の間を跫音を盗んで、八ッ手の茂みの中に隠れた。
あっ、と驚いたのである。それもそのはず、そこには、四日前の晩殺された筈の女主人が、卓袱台に片肱突いて、独りで盃を舐めているのだ。
「息を吹き返したのかい?」
床甚の話が一段落ついたところで、髪を結わせている客が言った。
「ところが、兼吉は、どうしてもそうとは思われない、と、言ってるんだそうです」
「狸に化かされたんだと思ってるんだな」
と、音吉。
「だから、あっしもそう言ってるんで。狸の奴、念入りに化かしやがったもんだとね」
「ハッハッハッ……。近頃みてえに人間が利口になっちゃ、狸の方でもせいぜい勉強しなくちゃ追っつくめえからな」
と、音吉は笑って、
「親方。その、兼吉とかいう若い大工の住居は、どことか言ったな」
「神田の永富町だってんですがね。……やっ、こりゃいけねえ。親分、御用の筋と睨んだね。これだから、親分衆の前で、うっかりしたことは饒舌られねえんだ」
「うむ。そりゃあ、面白そうだな」
足も空に飛んで帰った音吉の話を聞くと、七之助の眼は、生々とかがやき出した。
職業柄、支度に時間はかからない。二人は、宙を飛ぶように、神田永富町に駈けつけた。町内の自身番で訊くと、兼吉の長屋はすぐに分った。兼吉は、夜遊びから戻ったばかりのところで、人の善さそうな老母に茶を淹れさせてのんでいた。
懐中から、十手の端を覗かせると、兼吉は、一ぺんに恐れ入って、柳島の寮で目撃した事件の顛末を繰返した。それは、音吉が床甚の親方から聞いた話とそっくりそのままだった。
七之助の補足的な詮議によって、関係者たちの身許も知れた。寮の女主人は、お松といって、前身は深川の羽織芸者。旦那は日本橋田所町の紙問屋伊勢屋吉兵衛。女中のお糸の宿は深川蛤町の魚屋平太郎の娘。
兼吉が、お松殺しの現場を目撃したのは、五月五日の晩で、二度目に寮の庭に忍び込んだのは、それから四日目の九日の晩。今日は十二日だから、それから三日しか経っていないわけだ。
「お糸はそれからこっちどうしてるんだ? お前あってるんだろう?」
七之助の話は続いて——。
「へえ。あれから、ゆ、昨夜になって、はじめて逢いました」
これからなにを訊かれるのかと、兼吉は不安な眼つきをした。
「どこで逢ったんだ?」
「お糸の身上に、なにかかわったことが起きているような気がしてなりませんので、昨夜、蛤町のお糸の宿に行って見たのです。お糸は暇を出されたんだと言って、宿に帰っていました」
「そりゃあ、いつのことだ?」
「それが可怪しいんです。お糸は、お母(ふくろ)が急病だという報知(しらせ)があったので、五日の午下りに、一晩泊りのひまを貰って宿下りをしたんだそうです。ところが、翌る朝、柳島の奉公先から使いの者が来て、都合によって暇をやるからもう帰って来るには及ばない、と、お糸の身の廻りの物を一纏めに風呂敷包にして返して行ったんだそうです。お糸は、どうも様子が可怪しいから、あっしのところまで相談に来ようと思っても、お母の病気で手が離せなかったんだと言ってました」
「ふむ、そうか」と、言って、七之助は腕を組んだ。
翌る朝。
七之助が、支度を済して出掛けようとしているところへ、誰か表に訪ずれる人の声がした。音吉が出て行って見ると、そこには三十前後の実直そうな男が立っていた。
「お早うございます」
男は音吉の顔を見ると、愛想笑いをしながらペことお辞儀をした。
「七之助親分のお宅はこちらさまでございましょうか?」
「あ、そうだよ。何か用かい?」
「へえ。親分さんがおいででしたら、お目に掛ってお願い申上げたいことがございますので」
「ちぇ。なんの用事か知らねえが、悪いところへきやがったな。親分は、急ぎの御用で、おいらと一緒にお出掛けなさるところなんだ。大した事でなかったら、出直しなすったら、どうだい?」
「そうですか。それでも一寸……」
「わからねぇ人だね。お前さん、どこの誰なんだい?」
「へえ。申遅れました。あっしは、日本橋田所町紙問屋伊勢屋の番頭で勝蔵と申します」
「えっ! なんだって? 田所町の紙問屋伊勢屋の頭だって?」
「へえ」
「そんならそうと、早くそう言やいいじゃねえか。上んねえ。さつ、上んねえ」
掌を返したように打って変って、音吉は、勝蔵を座敷に通した。
「あっしに頼みというなあ、なんですかい?」
七之助は、煙管の雁首で煙草盆を引き寄せながら、そう訊ねた。
「へえ。じつあ探し物なんで」
「てえと?」
「十日ばかり前から主人の行先が知れないんです。随分手分けをして探したんですが、皆目消息が知れませんので、親族会議の結果、この頃評判の親分にお願いして、極内密にお探しして頂いたらということになりやしたんで、一つ、お骨折願えませんでしょうか」
「その時のお出掛先は?」
「さあ、それが分りませんので」
「白っぱくれちゃいけねえ」
七之助は、声を荒らげて、煙管を煙草盆の縁に叩きつけた。
「親族会議の代理に選ばれる程のお前さんが、主人が外でなにをしているかくらい、知らない筈はあるめえ」
「い、いいえ、なにも存じません。時々こっそりお出掛けなさいますし。主婦(かみさん)というのが、家付の娘で、こういっちゃなんですが、我が儘一杯な方ですから、どこかに息抜の場所でも持っていなさるのかも知れねえと、薄々察してはいたのですが、じっさい、はっきりしたことはなにも存じません。いつだって、旦那は、誰にも行先を仰言いません」
「そうか。おれにはどうも腑に落ちねえが、お前さんがそう言うならそういうことにしておこう」
七之助は不機嫌に、むっつりと黙り込んで、相手の腹の底まで見透すように、じっと、その眼の中を覗き込んだ。
その夜も四ツ(十時)に近く——。
五月雨のそぼ降る柳島のお松の寮の庭の内を、怪しの人影が二つ、はなればなれに匍いずり廻っている。
「ぶるるるる。どうも、いい心持じゃねえな。……親分!」
音吉の声だ。闇を透かして呼びかけたが、あたりを憚る低声では、相手の耳に届く筈がない。
「いやんなっちゃうな。こう、背筋がぞくぞくして来やがった。……あっ!」
思わず叫びかけた口を、危く自分の掌で塞いだ、泥んこの掌で塞いだのだが、そんなことには気がつかない。すぐ間近のところでがさっという物音を聞いて、頭の毛が逆立ったのである。
「音吉か?」
しかし、それは七之助の声であった。
「なあんだ、親分ですかい。あんまり驚かさないでおくんなさいよ。あっしゃ、お蔭で三年がとこ寿命が縮まりやしたよ」
「そりゃ、気の毒したな。しかし、もう俺のそばにくっついていてもいいよ」
「あったんですかい?」
「うむ、あった。俺の推察通りだ」
と——その時。
門の外側に、ぼおっと提灯の灯が見えた。
「おや?」
「隠れろ!」
七之助は、音吉の肩をつかんで、すぐ傍の、今を盛りと咲き匂っている大きな躑躅の株の蔭に忍んだ。
門の傍の潜戸が外から開いて、一人の男の頭が、提灯と一緒にぬっと覗くと、
「あっ!」
危く叫びかけた自分の口を、音吉は又しても、どろんこの手で塞いだ。——それは今朝花川戸の家を訪れた、伊勢屋の番頭勝蔵の顔であった。
その後に続いて、一見、大店の主人と踏めるおっとりした中年の男が、潜戸をくぐった。ひどく憔悴していて、足許もよろめいている。勝蔵は、その男をたすけながら、玄関に向って歩いて行った。
二人の後姿が玄関に消えると、七之助と音吉も、躑躅の大株の蔭から這い出して、今度は縁の下から、寮の床下に這い込んで行った。
その翌朝——。
伊勢屋の番頭勝蔵が又、花川戸の家を訪ねて来た。
「番頭さん。なにか、手懸かりでもありやしたんですかい?」
七之助は先手を打って白っぱくれた。
「へえ。お蔭さまで、主人が、昨夜遅く、ひょっこり帰って参りやしたものですから。大へんにお騒がせして済みませんでした。これは、ほんの御礼のしるしまでに、お収めなすって下さいまし」
菓子折に添えて、水引のかかった紙包を差し出した。
「そりゃいけねぇよ、番頭さん。菓子折の方は貰っておくが、こっちは持ち返って下せえ。なんしろ、まだ、なんのお力添えもしちゃあないんだからな」
手強くはねつけられて、勝蔵は、持って来た紙包を、仕方なくふところに捻じ込んで、間が悪そうに帰って行った。
皐月さみだれ、蓬に菖蒲
わたしゃお前に幟竿
いい喉をころばしながら、七之助は、今日も朝から愛用の三味線を抱いている。
「ちえ、嫌んなっちゃうな」
朝飯の後片付をすませて、台所から出て来た音吉は、七之助の背後に立って、聞えよがしの溜息を吐いて見せた。
「なにが嫌になっちゃったんだ?」
七之助は、背中で言った。
「あれだ。いってえ、親分は、一件の詮議は、どうなさるつもりなんですかい? 昨日から、家ん中に引込んで、三味線の抱きづめじゃあござんせんか」
一昨日まで、あんなに忙しそうに駆けずりまわっていた七之助が、昨日からは、人がかわったような暢気な顔をして、三味線ばかり抱いている。音吉は、気が揉めてならないのだ。
「なんだ、そんなことか。そんなことなら安心しねえ。俺あ、なにも、一件の詮議を打ち切ったわけじゃねえ」
「だって……」
「昨日から、お客さんの御入来を待ち受けてるんだ」
「そのお客さんてえなあ……」
と、言いかけた時、
「御免なせえまし、御免なせえまし」
表の方にあたって、ひどく元気のない男の声——
「そら、おいでなすった」
「へえ、え。なある程ねえ」
音吉は、ぽかんとした表情をしながら、取次に立って行ったが、すぐに、泡を喰って飛び戻ると、
「親分! 参りやした、参りやした。伊勢屋の旦ツクが、参りやしたぜ」
「そうか。じゃ、すぐにこっちへ——」
伊勢屋吉兵衛は、憔悴した顔に、落ちつきのない眼を光らせながら座敷に入って来た。
「親分さんで。わたしが、田所町の伊勢屋吉兵衛です」
「よく存じています。じつは、お前さんのお出でを、今日か明日かと、首を長くしてお待ち申してやしたんで」
吉兵衛は、窪んだ限をまるくして、狐につままれたような表情をした。
「だって、お前さんという人は、あんな大それた秘密を、いつまでも隠しておけるような人柄じゃねぇもの」
「では、では、親分さんは、わたしの秘密についちゃ、なにもかも見透しなんで?」
「知っていやすとも、世間の眼を悔ますこたあ出来るか知れねえが、あっしの眼は節穴じゃねえ。お前さんが、現在、柳島の寮に囲っていなさるお松という女は、ありゃあお松でもなんでもねえ。ほんもののお松は、庭の片隅の、木犀の木の下に眠ってまさ」
吉兵衛は、深々と項垂れたまま、痩せた肩で苦しげに喘いだ。紙のように蒼褪めた額には、ねっとりと脂汗が滲み出ている。
「聞きやしょう、なんで、お松を手に掛けなすった?」
「へえ、申上げます、申上げます。そこまで、親分さんに知られてるんでしたら、いっそ、あっしも、楽に申上げられるような気がしますから——」
やっと、心の動揺がしずまったらしく、吉兵衛は、静かに額の脂汗を拭いた。
——吉兵衛は、家庭に面白くないことがあって、時々、息抜きに店をあけているうちに、深川の、松吉という羽織芸者に馴染んだので、柳島に頃合の寮を求めて住わせることにした。
それについては、番頭の勝蔵がなにかと取りしきってくれた。勝蔵は、子飼いから叩き上げた伊勢屋の白鼠で、眼はしが利いて如才がないので、吉兵衛の気に入りだった。時々は、息抜きの腰巾着にも連れて行っていたのである。
ところが、自分の手活の花にして見ると、お松という女は、とても金のかかる女であることが分った。なんだかだと口実を設けては、吉兵衛を絞った。贅沢の入費ばかりとは思えない。絞り上げた金の半分以上は、こっそり臍繰っているとしか思えない節々があるのを、吉兵衛は知った。
月々の、少なからぬ金の才覚もだが、それよりも、お松の強慾さに、吉兵衛は嫌気がさして来た。
その気持は一日毎に強くなって行って、吉兵衛は、とうとう、別れ話を持ち出した。すると、お松は、顔色を変えて開き直った。暇を出すなら、手切金を五千両耳を揃えて出せ、五千両が鐚一文欠けても承知しないという。五千両といえば大金である。いくら大店の主人でも、そんな大金の才覚が、そう容易すくつくものではない。
無理難題を吹っかけているんだ。と、思うと、吉兵衛は思わずかっとなった。二言三言、激しい罵りの言葉を浴せ合っているうちに、男女はどちらかともなく立上っていた。
……はっと我に返ると、お松は、吉兵衛の足元に長くなって横っていて、その首には女の赤い扱帯が巻きついている。
吉兵衛は途方に暮れた。途方に暮れた頭に浮んだ考えは、勝蔵を呼び出して相談して見ようということだった。
「それで、勝蔵が、お松の身代りをすすめたという寸法でげすな」
と、七之助が言った。
「そうなんです。それより他に工面があるまいというんです。わたしは、どうにも気が進まなかったんですが、今更、勝蔵の意見に反対するわけにも行きません」
「勝蔵は、わたしを寮に残して、一人でどこかへ出て行ったのですが、夜になって帰って来ると、わたしを連れ出して、行先を告げずに、辻駕籠に乗せました」
音吉が汲んで出した番茶にのどを潤おして、吉兵衛は話を続けた。
かなりの道程(みちのり)を辻駕籠に揺られた挙句、連れ込まれたのは、とある植木屋の離屋であった。そこに、一人の女が待っていた。
お竹という名前のその女は、勝蔵の言葉通り、面ざしから体つき、年恰好から声までも、お松に生き写しであった。これならば、女中のお糸さえ暇を出してしまえば、成程世間の眼が眩ませるに違いない。勝蔵はしきりに恩着せがましい口をきいた。しかし、吉兵衛にして見れば、この身代りの女がどこからどこまでお松に瓜二つであることが、かえって気味悪かった。恐ろしかった。とても、お松の亡霊のようなこの女と、一晩だって一緒には暮せない気がした。
「勝蔵、俺は嫌だよ。他になにか工面を考えてくれ」
吉兵衛は哀願するように言った。
勝蔵は、険しい眼つきをして吉兵衛の顔を睨みつけた。
「あっしゃどうだっていいんですぜ。この女の身代りがおいやなら、あっしには、もう、旦那をお救いする手段はございません。勝手になすって下さいっ!」
「おお、勝手にするとも」
吉兵衛はよろよろと立上った。どうにでもなりやがれ——そう言った、自棄っぱちな気持だった。
「待って下さい。勝手にすると仰言って、どうなさろうというおつもりなんです?」
「潔くお上の裁きを受けようというんだ」
「いけません!」
噛みつくような、恐ろしい顔をして、勝蔵は、吉兵衛の胸を突き戻した。
吉兵衛は、勝蔵のために、手足を縛り上げられ、猿ぐつわを噛まされて、押入の中に押し転がされた。
勝蔵は、一日おきくらいに植半の離屋にやって来て、おどしたりすかしたりして、お松の身代りを迫った。勝蔵が来ない時には、半助という植木屋の主人が離屋に坐り込んでいた。彼も時々、吉兵衛に女の身代りをすすめた。しかし、吉兵衛ももう意地になってしまっているので、どうしても、素直な返事をする気にはなれなかった。
すると、九日目の夜のことだった。
突然、押入の唐紙が開いたと思うと、そこには、勝蔵と植半とが、顔を並べていた。
「今日は、旦那からぎりぎりの返事をお聞きしたいんです」
勝蔵が言った。
「というのは、とうとう、親族中が騒ぎ出して、旦那の探索が御用聞の手に移ったんです。もう、うかうかしているわけには行きまん。身代りの女を承知して下さるか、それでなきゃ……」
それでなければ、人知れず吉兵衛を片づけるより他はないという。
吉兵衛は急に命が惜しくなった。お竹は、お松に瓜二つと言っても、その性質までが似通っているかどうかは分らない。お松みたいに強慾な女でさえなかったら、時が経つうちには我慢が出来るようになるかも知れない。どうにも我慢がならないにしても、その時はその時で又、なにか新しい工風が湧かないものでもあるまい。
吉兵衛は、自分にそう言い聞かせて、とうとう、お松の身代りを承諾した。
五月雨のそぼ降る暗い晩であった。勝蔵は、吉兵衛を辻駕籠に乗せて、柳島の寮に送り込んだ。柳島の寮では、お竹がいつからかお松になり済まして、我物顔に家の中を自由にしていた。
「それからこっち、わたしは、何喰わぬ顔をしながら、世間の眼を瞞着(まんちゃく)していました。しかし、わたしはとうとう、秘密の重荷に堪えられなくなってしまいました」
「お前さんの探索方を頼まれた関係もあり、それであっしのところに飛び込んでお出でなすったというわけですね」
「へえ。まあ、さようで」
「それから、お前さんの話の中にはなかったようだが、お前さんは、お松とお竹が双生児だってことは御存じでしょうね」
「えっ! や、やっぱり、そうだったんですか? わたしも、なんだかおかしいとは思っていたんで
すが……」
「ハハハハ……。そりゃあ、迂闊すぎやすぜ。だから、勝蔵なんて悪党が、お前さんの弱身に付け込むんですよ。それじゃ、お前さん、勝蔵がお松のヒモになっていて、後で糸を手繰っていたことも、知んなさらねえんでしょうね?」
「えっ、あの勝蔵が?」
「そうですとも。だから勝蔵は、お竹をお前さんに押しつけようとしたんです。お竹の情夫の植半と共謀になって、今度はお竹に悪智恵を授けて、お前さんから絞らせる算段だったんです、お松を殺されても、済んだことは仕方がないので顔色にも出さず、他の手段を工夫するなんて、勝蔵という野郎は、底の知れない悪党ですぜ」
「へえ」
と、それでも、疑わしそうに、吉兵衛は小首を傾げた。
「今、その証拠を見せて上げよう。勝蔵を引きずって来て、お前さんの前で泥を吐かせて御覧に入れやしょう。一寸ここで、待っていておくんなせえ」
低声で言うと、呆気に取られている吉兵衛を尻目に、七之助はこっそり座敷を出て行った。と玄関の格子戸の開く音と同時に、バタバタと露地を逃げ出す、あわただしい人の跫音。
なにか罵り騒く声が表の通りで起った。それも一瞬にして止んだと思うと、やがて、七之助が、勝蔵の両腕をねじ上げながら、庭先に姿を現わした。
「この野郎、先刻から露地の中に忍んでいたんです。お前さんのようすが気にかかって、そっと後をつけて来やがったんですよ」
七之助は、座敷の吉兵衛に向って微笑んだ。
吉兵衛と勝蔵の身柄を、町内の自身番にあずけてから、七之助と音吉は、自慢の健脚に物を言わせて、染井に急いだ。
植半の家は、染井稲荷の近くなのだ。家の前が広い植木溜になっているので、門口を入ると、すぐに植木溜の中に身を隠すことが出来た。母屋と離れて小ぢんまりした離屋が建っている。障子が閉っているので、なかの様子は分らないが、遠方からでも、どうやら人の気配が感ぜられる。
七之助と音吉は、植木溜の中から抜き足差し足、離屋の縁側に向ってにじり進んだ。近づくと、障子の内側からは、ボソボソと男女の話声が洩れている。先刻、自身番を出掛ける時、お竹は今日は雑司ヶ谷の鬼子母神に参詣している筈だと、吉兵衛は言った。その時、七之助はどこの鬼子母神だか分ったものかと、心の中でわらったのだが、どうやら、この疑いは適中したらしい。
音吉は、縁側に手をついて、手の指に唾をつけて障子に穴をあけた。障子の内側では、現ざとくもその悪戯に気がついたと見えて、
「誰だっ!」
男の声が怒鳴った。返事のかわりに、音吉は、銀磨きの十手の先をぐいとその穴に差し込んだ。
「わあっ!」
女の悲鳴だ。がらがらと皿小鉢の崩れる音がした。音吉は、縁側におどり上って障子を引き開けた。が、同時に、
「あっ……」
顔を両掌で押えて、縁側から転げ落ちたのである。
お竹が、卓袱台の上の小鉢をつかんで投げつけたのだ。今の今まで、昼酒に酔い痴れていたところだったらしい。杯盤狼藉の真只中に、お竹は、自分の裾を踏んづけてはよろけながら、尚も、手当り次第の皿小鉢を取っては、狂気のように投げている。
ぱっ、と障子の一枚が倒れた。隙を見て植半が飛び出したのだ。
「待てっ!」
眼にも止らぬ早業だった。七之助の右手に十手が閃めいて、植半の肩を背後からしたたかに打下ろしたのだ。
「あっ!」と、ひるむところを、襟髪をつかんで仰向け様に引き倒すと、もう、植半の体は七之助の膝の下に組み敷かれている。
「殺せ、殺せ!」その時女の叫び声だった。
振返ると、音吉も、いつの間にかお竹を縁側からひきずり下して、真白な腕を邪樫に捻じ上げている。
その音吉の、小鼻の上に、大きな瘤がふくれ上っているのだ。七之助は急に可笑しくなった。
「音! 又、お土産をもらったな。お前、御用の度毎に、一つずつお土産をもらうことになっているらしいぜ」
「瘤のことですかい? ちぇ、糞面白くもねえ」
音吉は頬を膨らませた。
離屋の軒先に覆いかぶさっている、葉陰の深い桐の梢から、紫色の花が、ボトボトと続けざまに落ちた。それは、音吉の乱れた髷にも、お竹の紅絹裏をこぼした袖にも、ひっかかった。
大工の兼吉は、柳島の寮で妾のお松が旦那の伊勢屋吉兵衛に殺されるのを目撃する。ところが数日後、死んだはずのお松が生きているのを見て「狸に化かされた」と大騒ぎ。この奇妙な噂を耳にした七之助と音吉は、事件の裏を探り始める。
同じ頃、伊勢屋の番頭・勝蔵が「主人の吉兵衛が失踪した」と七之助に捜索を依頼。しかし、七之助は寮の庭から本物のお松の死体を発見し、吉兵衛が殺人を犯したこと、そして今いるお松が偽者であることを見抜いていた。
やがて、罪の意識に耐えかねた吉兵衛本人が七之助のもとへ自首してくる。全ては番頭・勝蔵が仕組んだ狂言だった。勝蔵は、吉兵衛がお松を殺害したのを利用し、お松と瓜二つの双子の妹・お竹を身代わりに立て、吉兵衛を脅して店の実権を握ろうと画策していたのだ。
七之助は、吉兵衛の告白を聞きながら、その話を盗み聞きしていた勝蔵を捕縛。さらに共犯者である植木屋・植半とお竹のもとへ乗り込み、事件の全貌を暴いて一味を縄にかけるのだった。
本作の主人公。鋭い洞察力で「狸に化かされた」という噂の裏に隠された殺人事件を見抜く。
七之助の子分。床屋で聞いた噂話をきっかけに、事件に首を突っ込むことになる。
日本橋の紙問屋の主人。強欲な妾のお松をカッとなって殺害してしまう。気の弱い人物。
伊勢屋の番頭。事件の黒幕。主人の弱みにつけ込み、店を乗っ取ろうと企む狡猾な男。
双子の姉妹。姉のお松は吉兵衛に殺害される。妹のお竹は勝蔵の計画に加担し、姉の身代わりとなる。
若い大工。お松殺害の第一発見者だが、死んだはずの彼女を見て狸の仕業だと信じ込む。
A. 彼は、妾のお松が旦那の吉兵衛に殺される場面をはっきりと目撃しました。しかし、そのわずか四日後に、殺されたはずのお松と瓜二つの女性が同じ家で平然と暮らしているのを見てしまったためです。常識では考えられない出来事に、人間以外の力、つまり「狸の仕業」だと信じ込んでしまいました。
A. 主人である吉兵衛を完全に支配し、伊勢屋を乗っ取ることでした。彼は、吉兵衛がお松を殺したという弱みを握り、お松の双子の妹・お竹を身代わりとして送り込みました。そして「妾殺し」の罪を隠蔽してやるという名目で吉兵衛を監禁し、自分の言いなりになるよう仕向け、店の全権を掌握しようと企んだのです。
A. 七之助は最初から「狸の話」を信じず、人間による巧妙なトリックだと見抜いていました。失踪した吉兵衛の捜索依頼が来たことで、殺人事件と失踪事件が繋がっていると確信。寮の庭を調べ、埋められていた本物のお松の死体を発見したことが決定打となりました。その後、罪悪感に苛まれた吉兵衛本人が自首してきたことで、勝蔵の企みの全貌が明らかになりました。