七之助捕物帳

春宵手毬唄

著:納言恭平

江戸の闇を切り裂く、名探偵の推理

「七之助捕物帳」は、捕物帳の名手、納言恭平(なごん きょうへい)による傑作時代小説シリーズです。 江戸は花川戸の御用聞(ごようきき)・七之助が、子分の音吉と共に、江戸八百八町で巻き起こる難事件に挑みます。

鮮やかな推理と、江戸の町に生きる人々の人情が織りなす物語は、今なお多くの読者を魅了し続けています。 このページでは、シリーズの一編「春宵手毬唄」をお届けします。

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春宵手毬唄

車婆

「あら。花川戸のお哥兄さん」
 浅草寺境内の銀杏の下だ。声を掛けた女は、この頃、下谷浅草界隈で悪名を売っている、渾名を車婆と呼ぶ、高利貸だった。青茶の布子に上田縞紺の帯、物々しく腰に差した真鍮の矢立。
 貸金の取立に出歩く時の、いつも通りの服装なのだが、ただちがっているのは、そのいやらしい顔に、無理に浮べているお世辞わらいだ。
「そうだよ。この広い江戸中でも一といって二と下らない、今売出しの御用聞、花川戸の七之助の一の乾児で、音吉というのはおれのことだよ」
 と、まくし立てて、
「で、なんの用だい?」
 と、取りつく島もない素振。
 しかし、それぐらいのことで辟易するような車婆ではない。
「まあ、そんな素気ない顔するもんじゃないよ。いくらあたしが憎まれ者だってさ、銭(おたから)の借貸もないお前さんをどうしようてえわけないからね。いひひひひ」
「ああ、ぞっとすらあ。いやな笑い声だなあ。おいら、忙しい体なんだ、行くぜ」
 音吉が相手になるまいとすると、
「なに、忙しいことがあるもんかい。ちゃんとお前さんの顔に書いてあるよ。どこかの水茶屋の茶汲女でもからかいに行くところだとね」
「ちぇ! 水茶屋の女を張りに行こうとどうしようと、おれの勝手じゃねえか」
「お哥兄さんえ」
「おいおい、袂なんかつかめえてどうする気だ。放してくんねえ」
「物は相談じゃないか。ねえ、お前さん、あたしゃ、お前さんに、ちっとばかり小使銭を稼がして上げようと思うんだけれど」
「ちぇ! 貸し倒れの取立でも頼もうてんだろう。ばかにすんねえ。御用聞の顔は、そんなところに使うんじゃねえや」
「どうもお哥兄さん、合点が早過ぎるね。貸し倒れだって? へっ、車婆の金貸しに、貸し倒れなんかあってたまるかい。そんなへまをやっちゃ、高利貸の神さまに申訳が立たないよ」
 こりゃ、どうして、役者が二枚も三枚も上だ、と思うと、音吉は、思いきりよく、観念の眼を閉じて、一応婆の話を聞いてみる気になった。
「兜を脱ぐよ、お前だけには。とにかく、じゃ、話だけでも聞いてやらぁ」
「そう。だからあたしゃ、花川戸のお哥兄さんは話せるっていうのさ。……そうそう、どうせ、お前さん、たつみ屋のお蓮さんの顔を眺めに行くとこだったんだろう。じゃ、あそこの奥でも、一寸かしてもらおうかね。なあに、ながいこと引止めはしないよ。あたしもまだ五六軒、日の高いうちにまわらなくちゃならない家が残っているんだからね。……よかったよ、丁度よかった。ここでお前さんに、ひょっこり行き合ったのは、こりゃきっと、日蓮さまのお引合せだよ」
 勝手なことをぺらぺらしゃべりまくりながら、車婆は先に立って歩き出した。

馬の閩蔵(びんぞう)

「そうさな。もう、かれこれ、半月にもなるだろうか」
 たつみ屋の、店としきられた奥の一室で、車婆音吉を相手に、ひそめた声で話の口を切った。
 ——春雨の、うそ寒く、しょぼしょぼと降っている宵の口だった。
 伜の軍次郎は、嫁のおすがと一緒に、品川の嫁の里に出掛けて行って留守であった。車婆は、ソロバンをはじいてこごえた指を、火鉢の灰の中から、炭火を掘り起してあぶっていた。その時、玄関で、格子の開く音がしたのである。
「お客さんかな」
 車婆は、誰か烏金(からすがね)でも借りに来たのであろうと、すぐに立って出て行って見ると、そこに立っているのは、一人の、遊人風の男だった。みなりも窶らしいし、月代も伸び、やつれた顔をしている。
「なんだ、お前さん。ばくちの元手でも借りに来たのかい。そりゃ、ちゃんとした抵当さえあれば貸さんこともないがね」
「へへへへ。冗談言いっこなしだよ、おかみさん。借金の抵当なんて気の利いた物を持っている人間かどうか、一目で見抜いているくせに」
 と男は笑ったが、急に又、ふっと真面目くさった顔にかえると、
「しかし、なあに、おかみさんさえ、相談に乗ってくれりゃあ、千両箱の二つや三つ、明日にでも、おれたちの懐にころがり込むんだ」
 と、途方もないことを言い出したのである。
「ははあ、キ印だな」
 と、車婆は思った。が、それだけに、あまり素気なく追い立てたら、どんな乱暴をしないとも限らない。で、車婆は、
「金儲けの話かい。確かな口なら、一口乗らないこともないがね」
「確かだとも、確かだとも。こんな確かな話って、ほかにあるもんじゃねえ。地の中に埋けてある千両箱を掘り出しさえすりゃいいんだもの」
「じゃ、お前さん、自分だけで掘り出せばいいじゃないか」
「ところが、そのつもりでおらあ、五年ぶりにかえって来たら、いつかその土地に、おかみさんの貸家が建っているじゃないか。いくらなんでも、無断で、よその家の床下を掘返すわけにはいかないからね」
「へえ、どこだろうね。あたしゃ、家作もあちこちに持っているからね」
「そら、千駄ヶ谷の、二本榎の近所ですよ。二本榎から、北の方へ三軒目の家なんですがね。近所の八百屋で聞いて、おかみさんの家作だということが分ったんですよ」
「ああ、あのへんなら、五六軒持っている。お前さんのいうのは、背負い呉服屋の、清助さんの家だね」
「そんなことも聞きました。縹緻よしの若い主婦さんがいますね」
「ハハハハ。お前さんも眼が早いね」と、車婆は笑って、「で、なにかいお前さん、あそこがまだ原っぱだった時分に、千両箱を埋けといたというのかい」
「ああ、そうだよ。千両箱を五つほどね」
 男の眼にきらっと光りものがした。形相がかわったのである。
「あっ!」
「なにを隠そう。今から五年前、蔵前の札差、大芝屋の金蔵を破った三人組の強盗の一人で、馬の閩蔵というのはおれのことだよ」
 と、口の中で叫ぶと、車婆は、へたへたとそこに腰を抜かしてしまった。
 大芝屋の金蔵破りは、一時は、江戸中のうわさになった大事件の一つだった。盗み去られた千両箱が五つ。賊は三人という推定だったが二人しか捕まらず、残る一人は、いまだに足どりが分らない。それと盗まれた千両箱の行方も分らない。
「どうぞ、命ばかりはお助け下さい。お金は、貸方にまわしてしまって、これだけで有金そっくりでごぜえます」
 帯の間から、巾着を引っ張り出して、ふるえる手でそれを差し出すと、
「止しやがれ。そんな眼くされ金が欲しくって、お前んところにやって来た閩蔵さまじゃねえや。おれもなあ、昔みてえに、荒っぽいこたあしたくねえ。危なげのねえように、千両箱を掘出してえのよ。お前がよ、呉服屋の清助とかをやんわりと立退かしてくれたら、千両箱は山分けだ」
 そんなこと、片棒かつぐのはいやだとでも言えば、どんな目に合わされるか知れたものではない。
 車婆は、うなずいて見せるよりほかはなかった。
 男は、ふところを探って、一枚の紙片を取り出した。
「これに、千両箱の場所の図面が書いてある。穴の深さは六尺だからな。かなり深いよ。掘出したら、半分だけは、おれのところへ持って来てくれ。おれの分前の運先は、その時、おれの方から知らせる」
「じゃ、あ、あたしが掘り出すのかえ?」
 車婆はしゃがれ声で訊いた。
「あたり前よ。おらあ、その間、誰にも分らねえところから、お前の様子を見張ってるんだ。若しも、お上に訴え出でもしようものなら、お前の家に火をかけて、一家鏖にしてやるからな」
 閩蔵は、そんな凄文句を捨科白にして、ぷいと、雨の闇の中に消えて行った。

百二十両

「それで、お前、呉服屋を追い出して、床下を掘ったのか?」
 と、音吉は言った。
「だって、お前さん、言うなりになっていなかったら、命が危いじゃないか。そんな悪党だもの、そいつのいうとおり、どこからあたしを見張っているか、わかりゃあしないじゃないか」
「でも、そんなこと、お上に知れたら同罪だぜ」
「えっ! そうでしょうか、お哥兄さん」
 車婆はさっと顔色をかえた。しまったと、音吉は思った。まだ、話の後が残っているらしいのに、ここで怖気つかせては、残の話が聞けなくなる。
「なあに、しかし、安心しねえ。おらあ、口が裂けても、おしゃべりしねえよ。お前、なんだろう。あれに小銭を稼がしてくれるってんだろう」
「だから、お哥兄さんは話せるというのさ」と、車婆は、ホッと胸を撫で下して、
「ところがね、その馬の閩蔵というのが、真赤な贋者だったんだよ」
「てえと、千両箱は出て来なかったのかね?」
「出て来るもんかね。あたしゃ、みすみす、百二十両という大金を、溝に捨てたよ」
「そりゃ又、どういうわけだい?」
「じつはね、こうなんですよ、お兄さん。その家作というのは、成程最初は人に貸すつもりで建てたんだけれど、雑作つきで、呉服屋の清助に売渡したんだよ。だからあたしゃ、買い戻しにかかったんだけれど、清助の奴、足元を見やがってね。呆れるじゃないか、八十両で売り渡したものを、さんざっぱら住み荒された挙句、大枚二百両もふんだくられたよ」
「なある程」
 音吉は、仔細らしく頤をつまんだ。どうやらそこらにこのお芝居の秘密の鍵がひそんでいると睨んだのだ。
「ねえ、お哥兄さん、くさいだろう。馬の閩蔵の者は呉服屋の手先にちがいなかろうじゃないか。口惜しいよ、あたしゃ。金も惜しいが、あんな若僧に、一ぱい喰わされたと思うとね」
「で、おれに、呉服屋清助の、ぺてんの尻尾を押えてくれというんだね」
「そうなんだよ。たしかな尻尾さえ押えてしまや、騙られた百二十両を吐き出させるのはわけはねえでしょう。そしたら、お前さんに、御苦労賃を十両上げよう」
「ちぇ。けちけちしなさんなよ。気前よく二十両出しなせえ」
「ハハハハ。お前さんも、なかなかしょうべえがうめえや。出すよ、出すよ、気前よくな」
 車婆は、音吉にからかわれているとも気がつかないで、機嫌がよかった。

新のれん

「まさかの時には相談役になるが、おれが手を助る程のことでもなかろう。お前、ひとりでやって見ろよ」
 七之助にそう言われて、
「ようし!」
 と、音吉は奮い立った。
 音吉は千駄ヶ谷に出かけて行って、二本榎の近くの八百屋で、清助の家をたずねた。
「ああ、呉服屋の清さんなら、二本榎から北の方三軒目の家がそうだったんだが、こないだ、大木戸の近くへ引越して店を持ちなすったよ。近所でも評判の正直者だったからね。小判の雨でも降って来たんだろう」
 と、八百屋は言った。
 問題の家は、一戸建だが、申訳ばかりに柴垣を結った、ちゃちな安普請だった。この安普請を八十両で売りつけるなんて、車婆の強慾張も徹底している。通りに向って玄関の格子戸に、貸家札が斜に張ってあった。
 四谷の通りへ出ると新しく開いた清助の店はすぐに分った。二間間口の小店の入口に、それでも、紺の香の新しい暖簾が、近江屋呉服店――と、白く染抜いてある。
 はじめから、身分を明して、清助に面会を求めると、店に坐っていた三十がらみの正直そうな男が、
「あっしが、主人の清助ですが」
 顔の筋肉を硬ばらせながら、いざり寄った。
「ああ、そうですかい。ちょっと内密に訊きてえことがあるんだけれど」
 音吉は、奥の一室に案内された。清助は、音吉の前に、きちんと膝を揃えて、不安そうに肩を落して坐った。
「二本榎の家を売って、この店をお出しなすったんですかい?」
「は、はい。それに、いくらかは、貯えもございましたんで」
「八十両で買ったものを、二百両で売ったんだそうだね」
「は、はい。ご、ごらんになるとわかりますが、あの家は、八十両でも高うござんす。浅草の方の、車婆という金貨をしているお婆さんから買ったんですが、買ってしまってから、一ぱい食わされたんだと気がつきましたんで。・・・・・・と、ところが、つい先月、どういうわけか、その、車婆さんが訪ねて来やして、売値で買い戻すから、売ってくれというじゃござんせんか。あの婆さんが、あんな家を、八十両で買い戻そうというんですから、こりゃ、なんか、こんたんがあるに違いねえ。と、あっしゃ、睨みましたよ。しかし、あっしにしてみれば、ここで小さな店を持つのに、二百両ばかりの金が欲しいには欲しいけれど、それ以上の慾はかきません。婆さんが、どんな金儲けの種にしようと、あっしの知ったこっちゃございません。だから、あっしゃ、二百両なら譲ってもよいが、それからは一文も負からぬと、大きく吹っかけてやったんですよ」
「そうだってな。車姿は、お前さんに、百二十両がとこ、うまうま騙り取られたと、口惜しがっていたぞ」
「えっ、だって——」
「近江屋!」
 音吉が、一声、はったりを利かした。
「へ、へい!」
「お前、誰か人を使って、あの家の床下に泥棒の隠した千両箱が埋けてあると、車婆をぺてんに乗せたろう」
「ええっ! と、とんでもございません。あ、あっしゃ、なんにも、知らねえ、なんにも存じやせんぜ」
 白ばっくれていとしたら、芝居があんまりうますぎる――と、音吉は、探るように、清助の顔を凝視ながら思った。
「お前、ここの店を持つまでは、ずっと背負い呉服屋をしていたそうだが――」
 音吉は、とつぜん、詮議の方角を百八十度転回させた。むきになって同じところばかりつっついているのは、あまり利口な方法ではないのだ。
「へえ。もう、かれこれ、三年ばかりにもなりましょうか」
「それまでは?」
「四谷塩町の木更津屋、と申し上げたら、御存じでしょうか」
「ああ、相場に手を出して、身代限りをした呉服問屋だろう。お前、あそこに奉公していたのか」
「へい。女房をもらって、一軒持って通いになったと思ったら、あれなんでしょう。仕方がないから、すこしばかりの呉服物を背負って、歩くことにしたんですよ。はじめのうちは辛うござんしたよ。店にばかり坐りつけていたんですからね」
「一日も早く、小さな店でも持ちたいと思ったわけだな」
「へえ。そりゃ、もう——」
 と、言いかけて、急に気がついたように、警戒的な眼つきになって、あわてて口を噤んでしまった清助だった。
 このまま詮議をつづけてみても、なんの得るところもありそうには思えない。正面から立向ったのは失敗だったのかも知れない。
「今日のことは、誰にも内密にしといて貰いてえんだ」
 そう念を押して立上った。
 暖簾を割って通りへ出ると、丁度そこへ、二十四五の、よい縹緻の御新造が、六つばかりの女の子の手を引いて帰って来た。女の子は、暖簾から顔を出した音吉の顔を見てにっこりと笑った。鈴のように張ったつぶらな瞳だ。そして、豊かな頬のあたりにひとつ、墨で描いたような黒子があった。音吉は、その、つぶら瞳の笑顔に引き入れられるように、笑いかえして、思わずその手で、女の子の頭を撫деた。
「いらっしゃいまし」
 普通の客と思ったのであろう。縹緻よしの御新造は、愛想のいい挨拶に小腰を屈めて、音声と入れかわりに暖簾のなかに消えて行った。

手毬唄

「分かりやせんね、親分。その呉服屋の清助てえなあ、いかにも正直そうな男でげしてね。車婆に一杯喰わせるなんて面じゃありませんや。でも、もし、白ばっくれていやがるんだったら、こりゃもう、大した役者だ。とても、あっしなんぞの手に負える奴じゃありやせんね」
 そう言って、呉服屋詮議の報告に区切をつけると、音吉は、自分で番茶を注いで一口飲み、桜餅をつまんで頬張った。——せまい庭先で桃の花の匂っているハッ下り。
「ふうむ、そうか」
 七之助も腕を拱いた。合せた瞼がピクピクと動く。やがて、パッとその瞼が開くと、静かな口調で、
「張込だな、お前の得意の。辛抱強くねばったら、なにかひっかかるかも知れん。引っかからないかも知れん」
「なあんだ、頼りねえ話だな」
 と、音吉は言ったが、心は早くも勇み立っているのだ。
 寒くもなし、暑くもなし、張込にはおあつらえ向の春の夜がつづく。毎日、音吉は浮浪人のかっこうに変装して、近江屋の界隈を、それとなく見張っていた。夜になると、菰をかぶって、天水桶のかげなぞにつくばっている。
 四日目の宵の口のことだ。
 近江屋の店のあたりを、さっきから、何遍も行ったり来たりしている、一人の遊人風の男の挙動を、
「こいつ、うさん臭い男だな」
 と、音吉は薦の中から睨んだ
 そう思うと、昨日、一昨日も、町のどこかで、この男の姿を見掛けたような気がする。それに、車婆をぺてんにかけた、馬の閩蔵と名乗る男は、かなりのみすぼらしい、遊人風の男というではないか。
「よし。こいつあ逃がされんぞ」
 音吉は、菰のはしから、亀の子のようにくびを出して、怪しい男の一挙一動を見張っているのだ。
  おんしろ白々
  白木屋の
  お駒さん
  才三さん
 とつぜん、少女の手毬唄が、近江屋の店の中から聞えて来た。
 それが聞えたのであろうか。遊人風は、背中を見せて行き過ぎかけていた体を、くるっと引返して、近江屋の暖簾の外に佇ずんだ。店の看板の掛行燈の灯が、まともに男の顔にあたって、
「おやア!」
 音吉は、顔でおどろいた。
  おんしろ白々
  白木屋の
 女の子の手毬唄が、又聞えはじめると、男の頬に微笑が浮んで、立てた聞耳をてのひらでかこった。

鮫ヶ橋

 尾けられているとは気がつかないでいるらしい。時には、何事か考え込むように肩を落したり、又、時には、陽気そうに鼻唄をうたったり――そして、最後に、遊人風の男が辿りついたのは、四谷鮫ヶ橋の貧民窟であった。
 町角に、さけさかな一ぜんめし――と書いた、すすけた軒行燈がともってる。遊人風は、あぶなっかしい溝板を踏んで、そこの暖簾をくぐった。
「いらっしゃいまし。おや、親分、まだこちらにいらったんですかい?」
 あいそよく迎えた亭主らしい男の声は、どうやら、この男とは、馴染の間柄らしい。
「ハハハハ。又一日のばした。しかし、明日の朝は、どうでも、草鞋をはかにゃならねえ」
 遊人風の言葉の中には、なにやら自嘲のひびきがこもっているのだ。
「誰しも、生れた土地てもなあなつかしいもんでげすよ。でも、用事がすんじまったら、一日も早く、帰っておやりになった方がええ。待っている人がいらっしゃるんでしょうからね、あちらに」
「そんな気の利いた者が待っていりゃあ、ぐずぐずなんかしてるかってんだ」
 店の片側には、細長く畳が敷かれて、衝立で切られたしきりの中に、小さな茶袱台が据えてあった。
 音吉は、遊人風の腰掛に一番近いしきりの中に、素早く収まった。二品三品、さかなを並べて、銚子を傾けながら、きっかけを待っていると、店の亭主が、話を切上げて燗場に引っ込んで行った。
「親分、上方にお発ちなんですかい?」
 その機をすかさず、音吉は話しかけた。
「ああ」と、あたりを見まわして、音吉の笑顔に気がつくと「大阪だ」
「へえ、大阪――。行って見たいね、あっしも一遍。親分さん、もう長いことあちらにいらっしゃるんですかい?」
「五年ばかりだ」
「でも、江戸っ子だね」
「分るか?」
「分りやすとも。あっしだって、江戸の水で産湯を使ってこの方、六郷の渡を渡ったことがねえんだからね」
「それがいい。江戸っ子は、江戸の土地で朽ちるもんだ。他国はいけねえ」
「親分!」
「なんだ?」
「あっしゃ、こんな、きたねえなりをしているが、飲料ぐれえ持ってるんだ。明日あ、旅に立つてえお前さんに、一杯差上げてえ。あっさりと、あっしの志を受けてくんなさらんか」
「ま、御親切はかたじけないが、おいら、振舞酒はきれえなんだ」
「お見外れ申しやした」と、音吉はていねいに詫びてから、「でも、あっしゃ、親分と一ぺえくみかわしてえんだ。じゃあ、半分持てえことにして、一緒になっちゃくんなさらんか」「うむ、そんならよかろう。おれも、今度江戸をはなれたら、二度とこの土地に、けえって来れるかどうか分らねえ体なんだ。見ず知らずのお前さんと、一ぺえ酌みかわすのも、いい思出の種かも知れねえ」
 しんみりとした口調でそう言いながら、男は、音吉が陣取っているせまいしきりの中に割り込んで行った。
 埒もない雑談がはずんで、空の銚子が六七本並んだ頃には、もう、遊人風の顔の皮膚はべろんとたるんで呂律も多少乱れていた。胸にこんたんを抱いている音吉は、すすめ上手な酌の仕方で、こうなる時を待っていたのだ。
「親分、今度、江戸は長逗留でござんしたかい?」と、音吉は話の継穂をそこに引戻した。
「あ、なあに、ほんの形ばかり」
 警戒的な表情がちらっと男の顔を掠めたが、すぐ、押流すようにそう言った。
「なんか、尋ねものでも――」
「な、なあに」と、ぎくりとしたように、はげしく打消して、「ほんの下らねえ野暮用なんだ」
「当てて見やしょうか?」
「なにを?」
「下谷浅草界隈で有名な、車婆という金貸婆を、馬の閩蔵というのはおれのことだと凄味を利かせて、ぺてんに掛けた男の人相が、お前さんにそっくりなんだ」
「う、うむ、さては、お前は――」
「そうよ、御用聞よ。今頃やっと気がついたのか。悪党にしちゃあ、血のめぐりが悪いじゃねえか」
「う、うむ」
 酔いつぶされていると気がついて、もう逃げられないと観念したのか、男は、茶袱台に片肱ついて、ぐったりと俯向き込んだ。

血の黒子

「そうだとも。おらあ、けちな悪党にちげえねえ。だが、親分。おらあ、今度のことだけはな、ちっとも、悪いことをしたような気がしねえのだ」
 だが、音吉は、その言葉を、聞いたか聞かないか、
「近江屋の娘はお前さんに生き写しだね。女の子は男親に似るというが、ありゃ、お前さんの娘じゃないのか」
 不意打を食ったように、男はぎょっとして顔を上げた。酔った瞳に不安の色が漲り、無意識に盃にのばしかけた指先がぶるぶるとふるえるのだ。
「知りやせんね、近江屋だなんて」と、辛うじて、必死の弁解だった。
「駄目、駄目。おらあ、もう、なにもかも知ってるんだから。先刻もお前、あの女の子の手毬唄に聞き惚れていたじゃねえか」
「えっ!」
「血は争えんもんだね。ここんところの黒子までそっくりだ」
 音吉が、自分の笑靨のあたりを押えて見せると、魔術にかかったように、男の指も頬に動いた。そこの、不精髭の中に、墨で描いたような黒子が一つ、くっついているのだ。
「どうだ、あっさりと兜を脱いじゃ」
「お、恐れ入りやした」
 男は、額に滲み出た汗の粒を、肱でこすった。
「子の煩悩にひかされて、思い切り悪く、ぐずぐずしていたのがいけなかったんだ」と男は呟いて、
「そこまで詮議の手がまわっていちゃ、もう仕方がございません。なにもかも、思い切りよく、ざっくばらんに打ち明けやしょう。なにを隠しやしょう。近江屋の娘は、お秋といって血を分けたあっしの娘でさ。近江屋とあっしは、深川入片町の同じ長屋で、兄弟のようにして育った友達なんです。同じ長屋に住んでいた浪人者に、お霜という娘がございやして、これがなかなか気立もやさしく、いい縹緻だったんです。よくあることでさあね。同じ長屋うちのことではあるし、近江屋もあっしも、同時に、お霜を、憎からず思いはじめたんでさ」
「ははあん」聞く方がてれるというように、音吉は、あるかなしの鼻をしごいて合の手を挟んだ。
「後から考えると、お霜の気持は、あっしよりも近江屋にあったようです。でも、清助は、四谷塩町の木更津屋に奉公に上って、たまの宿下りにしか、長屋にかえって来ないもんですから、運はあっしにあったわけでさあね。しかし、あっしゃ、その前から身持が収まらなくなっていたんです。お秋という子が、お霜の腹に宿って、あっしたちは一緒になったんでげすが、あっしゃ、決して、いい亭主でも、いい父親でも、ありやせんでした。とどのつまり、ほかにも女をこしらえて、女房子を捨てて、上方へ突走っちまったんでげす」
 自分の言葉に苦しくなったように、男は銚子を引寄せて、やけに二三杯ひっかけると、
「今頃になって、あっしゃあ、昔の罪に責められて、女房子供のようすを知りたさに、のめのめと江戸へ戻ってめえりやした。いやいや、それよりもあっしゃあ、今頃になって、女房子供の情にひかされはじめたのかも知れません。その証拠には、あっしは、近江屋が、浪人者の父親にも死に別れて路頭に迷っていたお霜母娘を引取って、睦まじく暮している家庭を見るにつけ、安心と一緒に、なんだか世の中が滅入るように味気なくなっちまったんです」
「お前、近江屋に会ったのか?」
「と、とんでもねえ。今頃になってなんでそんなことができやしょう。わざわざ夫婦の者に、気まずい思いをさせるぐらいのものじゃござんせんか。お秋だって、近江屋のことを、ほんとの親と信じてなついているらしいんですからね。あっしゃ、もう、お霜母娘が、幸福に暮しているのを見届けたんですもの。なんでこれ以上のことを望んでよいものですか」
「じゃ、車婆に一杯食わせた一条は、近江屋夫婦が知ったことじゃないんだね」
「そうでげすとも。あっしゃ、二本榎のあの家で、近江屋夫婦が、ここで纏った金が二百両もありゃあ、ちょいとした店が持てるんだが――と、愚痴まじりにめおと語をしているのを、窓の外から耳にしたんです。……あっしの芝居は実を結びやした。どうかと思った近江屋が、車婆の足元につけ込んで、あのボロ家を、二百両で売ったと知った時にゃ、思わず躍り上ってしまいやしたよ」
 しかし、男の得意顔は、そこで再び、がたん、と不安に陥ち込んで、
「ねえ、親分。あっしゃ、どうなってもかまわねえが、なんにも知らねえ近江屋まで、あっしと同じ科人にされるんでしょうか」
「ハハハハ。心配するなってことよ。お前が、ずらかろうとどうしようと、おらあ、知らねえ。車婆にしたところで、泥棒の分前にありつこうてんで、失った金なんだ。そんな弱味があっちゃ、下手な騒ぎ立てもできなかろうじゃねえか」
「これだ、親分。有難え。有難え」その男は手首をふるわせながら、音吉の顔を拝んだ。

花びらの朝

「ハハハハ。迷宮入りか。はじめての手柄を、迷宮入りじゃ気の毒だったな」
「なあに、あっしゃ、あっしのうでを、親分にさえ認めて貰やあ、満足でげすよ」
「そう思って諦めてくれるか。お世辞じゃあねえ。お前もそろそろ一人前だ。だがなあ、音の字、車婆の方を放っといてよいのか」
「それ、それ。あんな婆だ。放っておいたら、二百両の惜しさから、木兎の身内の者でも抱き込まねえとも限りやせんね。よろしゅうがす。一っ走り、脅し上げておきやしょう。泥棒の片棒かつぎかけたんだから、お上に知れたら梟首だとかなんとかね」
 今日も風のない花見日和だ。
 盛りを過ぎた桃の花びらが、箒の跡のあざやかな庭の土に、時々思い出したように、ホロホロとこぼれている。
 それを瞳に楽しみながら、仲睦まじい親分乾児が、声を合せて愉快な笑声を立てた。
——台所では、嫁のお雪が、お茶の支度に忙しい朝のひととき——。

「春宵手毬唄」あらすじ

強欲な高利貸しの老婆、通称「車婆」が、子分の音吉に奇妙な相談を持ちかける。かつて江戸を騒がせた盗賊「馬の閩蔵」を名乗る男に脅され、千両箱が埋まっているという家を二百両で買い戻させられたが、それは真っ赤な嘘だったというのだ。車婆は、自分を騙した呉服屋の清助から金を取り返してほしいと音吉に依頼する。

七之助から手柄を立てる好機と励まされた音吉は、単独で捜査を開始。清助の店を張り込んでいると、一人の怪しい遊人風の男が現れる。男は、店の中から聞こえる娘・お秋の手毬唄に、じっと耳を澄ましていた。

音吉が男を問い詰めると、彼は全てを白状する。男こそが、お秋の実の父親だったのだ。かつて妻子を捨てて上方へ行ったが、江戸に戻り、妻子が親友の清助に引き取られ幸せに暮らしていることを知る。清助夫婦が店の資金繰りに苦労しているのを知った彼は、罪滅ぼしの気持ちから、かつての盗賊仲間「馬の閩蔵」の名を騙って一芝居打ち、高利貸しの車婆から金を騙し取って清助に渡るように仕向けたのだった。

事情を知った音吉は、男の親心に感じ入り、彼を見逃す。七之助もその判断を認め、音吉の成長を喜ぶのだった。

主な登場人物

花川戸の七之助(はなかわどのしちのすけ)

本作の主人公。子分の音吉に事件の解決を任せ、その成長を温かく見守る。

音吉(おときち)

七之助の子分。本作では主役級の活躍を見せ、一人で事件の真相にたどり着く。

車婆(くるまばば)

下谷浅草界隈で悪名高い高利貸しの老婆。強欲が仇となり、一杯食わされることになる。

お秋の父

かつて妻子を捨てた遊人風の男。娘の幸せを願い、罪滅ぼしのために一世一代の芝居を打つ。

清助(せいすけ)

呉服屋「近江屋」の主人。正直者で、友人から託された妻子を献身的に支える。

お秋(おあき)

清助の店で暮らす少女。清助を実の父と信じて疑わない。彼女が歌う手毬唄が、事件の鍵となる。

Q&Aコーナー

Q. なぜ音吉は、遊人風の男がお秋の父親だと気づいたのですか?

A. 二つの点から気づきました。一つは、男がお秋の歌う手毬唄に聞き入っていたこと。もう一つの決定的な証拠は、男の頬にある黒子がお秋の黒子とそっくり同じ場所にあったことです。「血は争えない」と、音吉は二人が親子であると確信しました。

Q. 結局、大泥棒「馬の閩蔵」は本物だったのですか?

A. いいえ、偽物です。お秋の父親が、高利貸しの車婆を騙すために、かつて江戸を騒がせた大泥棒の名前を騙っただけでした。彼は、車婆の家作に千両箱が埋まっているという嘘の話で彼女の欲を煽り、まんまと大金を騙し取ることに成功しました。

Q. この事件で、音吉はどのような成長を見せましたか?

A. これまでの音吉は、七之助の指示に従って動くことがほとんどでした。しかしこの事件では、七之助から「ひとりでやってみろ」と背中を押され、初めて自らの判断で捜査を進め、見事に真相を突き止めます。さらに、法で裁くことだけが正義ではないと判断し、罪を犯した男の親心に免じて彼を見逃すという、人情味あふれる裁きを見せました。親分である七之助も認める、一人前の御用聞へと成長した姿が描かれています。